syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

加須の町と鯉のぼり

2012-01-30 | 気まま旅
「諏訪神社」国道125号線沿い、会の川の南側に位置、自然堤防上に鎮座、鳥居をくぐり石段を登った正面が社務所、
その右に富士浅間大神が祀られている。
社務所の左の小高い所に、諏訪神社の拝殿がある。
拝殿の右側に、11基の石祠が並んでいる。左から5番目に「熊野宮」の石祠。
他の石祠からは、八幡宮、神明社、疱瘡社、天満宮、九頭龍大権現の文字が読み取れる。

明治期に、村内の各地の社が、諏訪神社に合祀されたものと思われる。市は、県の北東部に位置する人口約6万8000人の市。

こいのぼりの生産数が日本一、加須うどんの街としても知られている。武州囃子の流れを汲む「武州加須囃子」がある。
難読地名の一つで「カス」または「カズ」と読み間違えられる事がある。国道沿いには、名物「手打ちうどん」店が目に付く。

    

「総願寺」不動岡にある真言宗、山号王寿山、関東三代不動尊、円珍作本尊不動王像は、1039年利根川大洪水で武州の吉見から
流れ着いたと云われている。

総願寺(不動ヶ岡不動尊)本堂


1616年高野山総願上人がこの地を訪ね、寺を建立し明王像を安置したのが始まり、本堂は、入母屋造り、節分会は、長さ3m
重さ25kgの燃える松明をもった、赤鬼と剣を持ち振り上げた青鬼と黒鬼が舞う迫力ある行事がある。
   
不動明王像、倶利迦羅不動剣が不動堂に安置。1739年の作。

「関東三大不動」とは、征夷大将軍が支配していた歴史の有る関八州における高幡山金剛寺、成田山新勝寺、玉山總願寺の3つの不動明王を
本尊とする寺院の総称。

山門
    

「黒門」行田 忍城の総ヒノキ一枚板の城門を移築された。

「芭蕉の句碑」1843年、松尾芭蕉の150回忌に建てられた句碑。 総願寺の本堂の北側の林の中に位置する、名句「曙ゆくや廿七夜も三日の月」が刻まれている。

境内                   芭蕉の碑               忍城の黒門
    

「鯉のぼりの町」明治から際物屋と呼ばれた提灯、傘の職人が副業で始めたことに端を発し、大正の関東大震災後手書きの鯉のぼりが全国に知られていった。
現在は、一店のみ、毎年ゴールデンウイーク平和祭「ジャンボ鯉のぼり」が利根川広場で泳ぐ

十字路の中央二丁目交差点の一角に、「伝承 問屋場と高札場」と書かれた記念碑が建てられていた。
側面の説明書きによると、問屋場(江戸時代に、商品の積み替えや荷物の集配を行う機能を備えた場所)がこの付近にあり、通達や禁制を掲げた高札場が
あったと伝えられる場所である所。通称で「大辻」とも呼称されてきたというこの交差点が、加須の町の伝統的な中心であった。
付近には、山車と蘭陵王面を保存した蔵もあり、1862年に江戸日本橋田所町・油町・新大坂町の三町合同で制作したものが、明治期に至り電信電話線に
より町内を引き回せなくなってしまい持て余していたものを、1883年に加須町の清水善兵衛が金500円で買い求めたもの、山車の輸送にも水運が活躍し、
江戸川から関宿(千葉県野田市関宿)を経由し、大越河岸(現在の加須市大越)から馬車で運ぶという大掛かりなものであった。

本町交差点から北へ、大越まで伸びる道は、「大越新道」と呼ばれ、街道とその脇往還、水運の拠点たる河岸の中心に位置した加須の町は、
ローカルな物流の拠点として発展し、今日の都市基盤の基礎を築いた。
中央二丁目から駅前通りまでの区間の本町通りは、「ぎんざ通り」として道路が拡幅され、広い歩道も確保、現代的な町並みに整えられた。

次回は羽生へ。

加須の町

2012-01-29 | 気まま旅
手打ちうどんの、東武「加須駅」を下車、駅前にお馴染みの「鯉幟」が大空に泳いでいた。
県北東部利根川の旧川道「会ノ川」南岸に発達した宿場町。加増とも書かれている。中山道と日光街道を結ぶ脇往還、木綿平織の産地として発展した。
全国的に知られているのが、鯉幟、剣道具、柔道着、手打ちうどん、県下最大の米作地帯で鯉、金魚の養殖も盛ん。
江戸期利根川を利用した水運の町、縄文時代の遺跡が多数出土している。

駅前から住宅街に入った。

    

「千方神社」は、加須駅の北東約300mに鎮座。 御祭神:興玉命、神日本磐余彦命、藤原千方、 境内社八幡神社、稲荷神社、浅間神社。
由緒書に依ると、創建時期は不明、旧加須村の鎮守。「千方」という社名は、あの百足退治や平将門討伐で知られる、佐野唐沢山城主・鎮守府将軍・
「藤原秀郷」の六男「藤原千方」と言われている。
この藤原千方も父秀郷同様、鎮守府将軍の地位に付き、この地方で徳政を行った功績により鎮守千方大神として祀られた。
千方神社はこの社と加須市土手と羽生市堤の三社のみ。

藤原秀郷・平将門を討った武将、武蔵の国守。琵琶湖の龍神に頼まれ大ムカデを退治し、お礼に無限の米俵など宝物を貰う「俵藤太」と呼ばれたという伝説がある。

千方神社                                      本殿
    

「光明寺」は、入江主計によって開基。入江主計は、讃岐国多田郡広田(現在の香川県仲多度郡)の城主で入江兵庫守の次男。
阿弥陀如来木像1体を拝受される。

寺の本尊である阿弥陀如来立像は、像高78.7センチメートルで、衣文は金箔に截金の総模様となっている。脇侍は像高50cmで勢至菩薩像と観音菩薩像であり、
本尊と同一の作者によるもの。室町期の作と考えられるが、文政年間に一部補修されている。

                
                    常真は、光明寺開基の 法師。
    

  

「会ノ川親水公園」は、市内の会の川橋梁「上之橋」より「金兵衛橋」までの区間において、会の川の河川上に設けられた公園。
会の川の本流はこの区間においては公園下の暗渠内を流下する。
「金衛兵橋」付近では毎年「灯ろう流し」が催され、公園内には鯉のぼりを形どった噴水が所在し、また小川が流れており、噴水の池などにコイが飼われている。

「会の川」は、延長約18Km。中川水系の普通河川。 羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で 
流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と 大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。

会の川親水公園                                会の川
    

「龍蔵寺」は、1355年 教蔵上人により創建 利根川に棲み、周辺住民を悩ませた白竜を教蔵上人が退治した際、その頭があったところに銀杏を
植えたことがその始まりとされる。
文化財 木造阿弥陀如来立像、当寺の本尊、像高100cmの寄木造り、像内胸部の墨書には1293年の銘と、性信上人の門弟が勧進し、武州慈恩寺(岩槻市)
の仏師の作であることが記されている。
像の制作年代は寺の開山よりも古い。昭和12年に国の重要美術品に認定され、1964年には埼玉県指定文化財(有形文化財・彫刻)となっている。
本堂は、桁行5間、梁間5間、入母屋造瓦葺である。1835年から9年間の歳月をかけて完成した。加須市内で最大規模の木造建築である。 
大銀杏は、樹齢約670年。幹回り4.3m、高さ約20mの雌木。イチョウは加須市の木となっている。加須市指定文化財(天然記念物)

龍蔵寺
    

浄土宗の寺院で、山号を古仏眼山といい、本尊は阿弥陀如来。室町時代の文和4年に教蔵上人により開山。
江戸時代には徳川幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられていた。境内の大銀杏は樹齢670年とされ、加須市の木のモデルに、歴史と由緒ある寺。

  
本尊は、県指定有形文化財。ゆっくり参拝できた。

  

次回は加須不動尊へ。


行田  古代蓮の里から

2012-01-27 | 気まま旅
「花蓮・古代蓮の里公園」には、地上50mから眺められる大パノラマがある。

  

行田蓮は、市の“天然記念物”に指定されている。原始的な形態を持つ1400年~3000年前の蓮であると言われている。

古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見された。
地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいこと。


古代蓮の里では、行田蓮を含む42種類の花蓮。花の開花時期は種類によって異なるが、古代蓮である行田蓮は6月中旬から8月中旬に咲く。

 公園内            小林亜星作詞作曲の「蓮の故郷」の碑
  

「成就院」・真言宗智山派寺院の成就院は、五智山といい院は、天正年間に宥阿闍梨が創建したと伝えられ、1729年芳宥和尚の代に、
三重塔を建立、忍城主阿部豊後守忠秋公の帰依仏といわれる葉衣観音が安置されている。
埼玉県には三重塔が三基しかなく、県指定文化財となっている。行田救済菩薩十五霊場13番

  

県内では珍しい三重塔             本堂            
  

「長久寺」は、山号 応珠山、 真言宗智山派、本尊 大日如来、
寺の詳細な創建時期については不明であるが、武蔵国忍城主成田顕泰の開基、通伝の開山により創建され、以後成田氏の祈願寺となった。
1592年 忍城主となった松平忠吉の帰依を受け、1600年 忠吉が尾張国清洲城へ移ると、当時の住職重敒を清洲に迎えて同名の寺院を建立している。
その後この寺は、江戸時代に入り徳川家康から寺領を与えられ、新義真言宗の学問所が設置された。 文化財 行田市指定天然記念物「公孫樹」

    

「真観寺」真言宗智山派寺院の寺は、慈雲山福聚院。寺は、瀧憲鏡阿闍梨、1242年が開山と創建、1604年には寺領10石の朱印状を拝領している。
観音堂の手前には仁王門、裏手には小見真観寺古墳がある。 


  

小見真観寺古墳は七世紀前半に築造されたと考えられる前方後円墳で、明治13年の発掘調査では数多くの副葬品が出土した。
また真観寺は、忍領三十三所初番札所となっている。


  

墓地の奥が「真観寺古墳」。
  

「虚空蔵菩薩」は、梵名をア-カ-シャ・ガルバと言い、虚空と同じように、無限の智慧や広大無限の福徳を生み出す菩薩様という意味。
菩薩は、寅年と丑年の守り本尊として特に大事にされ、虚空蔵菩薩は十三佛信仰の第13番目(三十三回忌)の守り本尊様でもあろ。

  


「武蔵水路」は、利根川の水を荒川に導くための導水路。行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。
全長14.5kmで全体が開水路である。都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。1967年、武蔵水路の工事が完成した。

  

羽生駅のすぐ北に古江宮田神社がある。神社は、毘沙門山古墳と呼ばれる前方後円墳の上に建てられていてそのすぐ下の境内には毘沙門堂もある。
古墳を上がろうとしたところに高さ259cm、幅185cmの巨大な板碑があり、高さはこれを上回るものがあるが幅は真に広い。
緑泥片岩、将軍塚古墳の玄室への通路の天井も緑泥片岩だったことを考えると古墳の石材を流用したと思われる。1256年の作。

羽生 毘沙門堂
  

  

次回は加須へ。

行田市 忍城と古墳

2012-01-25 | 気まま旅
「伊奈利神社」(奴稲荷 熊谷弥三左衛門稲荷)、熊谷市仲町、村社、御祭神 倉稲魂命、合殿 徳川家康創建1205年・鎌倉。

日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷次郎直実は、戦場で数々の危難に遭っても、必ず 熊谷弥三左衛門という武士によって助けられ、勝利を得た。
三左衛門に素性を尋ねたところ「吾は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがために熊谷弥三左衛門と現じける」と言い忽然と姿を消した。
直実は、帰陣の後、熊谷寺境内に祠を設け稲荷大神を祀り、居城の鎮守としたとある。

  


熊谷佐谷田真言宗智山派「永福寺」。ブロック塀から藤が出たり入ったりして見事な枝っぷり、今年も沢山花を咲かせるでしょう

  

豊臣方石田三成大軍勢でも落とせなかった城「忍城」水攻めにもたえた浮城としても知られる。
忍城は後北条氏の時代から最重要拠点のひとつとして見なされていた

忍城                 天守閣                  堀
    

本丸跡にある城址、1491年下総守成田親泰が築城。荒川と利根川の間低地帯の沼沢を自然の要害として、土塁と堀で区切られた大小20余りの曲輪があった。
上杉謙信、石田三成の水攻めにも落ちない難攻不落の城と云われたが、1590年の小田原城落城に先立ち開城、徳川氏歴代の親藩、
譜代の大名が配置され、
10万石の居城となった。最近になり、本丸三層櫓が復元、博物館、二の丸、堀に市役所、外堀沼地に水上公園として残った。

城門                  鐘楼                   土塁
    

徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れ、しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠(松平深溝氏)が1万石で入る。
家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。

吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。
1600年の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張尾張藩52万石に加増移封された。
その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた

忍城の全景模型                         武士の衣裳で説明する 地元のボランティア 
  


「諏訪神社」は、成田氏が忍城を築いたさいに勧請したとされている。境内社として残る多度神社・一目連神社は、元来は忍城内に祀られていた。
武蔵国郡村誌の埼玉郡成田町によれば、これらは1826年に忍城主 松平氏(伊勢桑名から移る)が旧領である伊勢国多度山から勧請したもの。

忍城の前にある諏訪神社
    


「天祥寺」は、臨済宗妙心寺派寺院、海東山天祥寺という。奥平松平下総守家の藩祖松平忠明が(天祥院殿)が開基となり、寛永年間大和郡山に創建された。
奥平松平家は、9代目忠堯の代に、1823年に桑名藩より忍藩へ移封、当寺も当地へ移転。京都花園にある妙心寺塔頭天祥院は当寺の末寺。

古墳群の中にある天祥寺                   松平忠明の墓
  

東日本最大「埼玉古墳群」県名発祥地、1978年稲荷山古墳から115文字の鉄剣が出土、5~8世紀築造で武蔵国造家笠原直使主一族の墳墓と考えられている。
1938年丸墓山、稲荷山、二子山、愛宕山、瓦塚、鉄砲山、奥の山、中の山、将軍山、の9古墳国の史跡。前方後古墳が8基、丸墓山古墳1基円墳
地元では、世界遺産登録と頑張っていた。

    

古墳群周辺は、さきたま公園として整備されている。「史跡博物館」には、埴輪作りなどで子供達にも人気。
行田名物「足袋」木綿産地で中山道の宿場町と云えば足袋、日本一の生産。

古墳群が連なっている すごい規模
  

次回は羽生方面へ。 






熊谷 武蔵別府城から

2012-01-23 | 気まま旅
荒川の扇状地東端、氾濫原「曲谷」かまがやが転じて熊谷と云う説がある。江戸時代は中山道の宿場町、1773年頃の3年間県庁所在地、
第二次世界大戦で、軍用地帯の為、大空襲を受け、私の疎開先秩父影森から真っ赤な夜空が見えた。今でも跡地に、鉄、銅、セメント工場が多い。
熊谷と云うと、1184年一ノ谷で勇名を馳せた「熊谷直実」ゆかりの地で駅ロータリーに銅像が立っている。

「熊谷直実」 1141-1208 源氏方坂東武者、平山季重との先陣争いし、平敦盛を討ったと「平家物語」にある。
頼朝に御家人は同格と云って矢の的立役を断わり、頼朝の不興をかい所領の一部を削られている。法然の門に入り「蓮生」と名乗り出家している。

駅前にある 熊谷直実像
  

「武蔵別府城」は、東別府家の館として、東西南北ともに約100余m四方で、周囲には巾約2~3mの横濠(現在は西、北、東側に残っている)を廻らし、
内側に高さ約2mの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形を見る事が出来る。 
太郎能幸に初まった東別府家は、それから11代目の尾張守長清まで続いた。

武蔵別府城 別府神社
  

土塁 
    


 
   

    


「福聚山・香林禅寺」は、東別府館の近くであり、禅宗寺でもあるので、何らかの関係があるものと推測される。
門構えその他から由緒あるものと思うが、調査できなかった。
  



「熊谷禅林・報恩寺」は、曹洞宗寺院の報恩寺、大慈山。「熊谷直実」の子「直家」が、父の没後菩提の為に浄土宗寺院として創建。
江戸時代に入り、報恩寺と改号、萬室察和尚1717年が曹洞宗へ改宗し中興開山したと伝えられている。熊谷直実の娘千代鶴姫玉鶴姫の開基・守佛とされている。
  


報恩寺隣に「袖引神社」は、袖引稲荷を寺の伽藍神としている。このお稲荷さまへの信仰は、日本古来の神道の信仰にインドの古い神さまで後に
お釈迦さまの守り神となり「托枳尼天」の話が結びついて平安時代から盛んになったもの。
稲荷は、鎌倉時代の初め、開基玉津留姫が近くの内池町の菩薩院という寺院にあったお稲荷さまが荒れ果てていたので移された。
  


「高城神社」鎮座地は荒川の蛇行によって形成された地域、古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定され、
創立年代は詳かでない。
1590年に豊臣秀吉の小田原攻めが行なはれたが、その折、忍城など北武藏の城も攻略され、高城神社もそのとき兵焚にかかり荒廃した。
境内から霊泉が湧き万病に効能があると信仰され、数万人が参拝する神社となった。
  

豊臣軍勢の石田三成、浅野長政の兵士等が忍城(現行田市)攻略するに当り、この神社も災を被り焼失した。1580年のこと。
現社殿は1671年 忍城の閤老阿部備後守忠秋公が式内社であることを認め、伊藤伊織、野沢忠兵衛を奉行とし、甲良豊前を棟梁として造営された社である。
「むすび」の神として信仰、「産」から安産の神、「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰を集めている。
境内には6百年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。
宝物として天国剣刃、鎧、蹴まり一式、オランダ鏡、神道流古文等々がある。境内には摂社、末社9社があり、天神社の特殊信仰をもつ社がある。

      

次回は、忍城、行田市方面に。