syuの日記・気まま旅

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尾道の古寺めぐり

2014-05-31 | 気まま旅

大田荘の倉敷地「尾道」は、現在の港町尾道の起源「大田荘」の倉敷地にある。
大田荘とは現在の世羅郡の大半を占めた広大な荘園で、その年貢の積出港として指定されたのが「尾道村」。

荘園として開発申請を政府に申請した平重衡は、「平清盛」の五男で源平合戦の最中「南都の焼き討ち」を行ったことで知られ、東大寺の大仏さんの首を最初に落としたと云う人物。
荘園領主はその領有を確実にするため中央の権力者を「本家」として名目的な領主としたが、平重衡が大田荘の本家と仰いだのは「後白河法皇」。
しかし、大田荘の運命は平家の滅亡と共に一転した。
源平合戦後、法皇は大田荘を源平合戦の戦死者を弔うための財源として、紀州の高野山に寄付した。
高野山領大田荘が成立する。

高野山と尾道がここでつながる。鎌倉時代、大田荘には「600町」の田圃があったとされ、、高野山にとっては正にドル箱的な荘園であったと云う。
その年貢は1800石に及び、尾道はその積み出し地として発展していったのである。
大田荘の最盛時には、甲山から尾道を結ぶ街道は人や馬で溢れ、秋には年貢を運ぶ船で港はごった返した。
鎌倉時代後期の文書によると、当時の尾道には千軒の家が甍を連ね、立ち並ぶ蔵には財宝が満ちていたと伝わる。(田口義之・備後の歴史と人物より)

鎌倉から南北朝時代を経て室町時代になると、尾道は港町として更に活気を呈するようになり、その原動力となったのは、それまでの荘園年貢の輸送に加えて、備後国守護を務めた山名氏による勘合貿易で、尾道は中国・明や朝鮮との貿易の拠点として多くの特産品が積み出され、大陸へと運ばれた。

「持光寺」は、鳥羽法皇の命により、御子・近衛天皇のご息災を祈願して作られた国宝・絹本著色 普賢延命像「延命像・仁平3年供養」
1153年、が伝わって、一度拝むと寿命が延びるといわれている。
    

           寺の宗派は、浄土宗 ・創建 834年・本尊 五劫思惟阿弥陀如来。

慈覚大師により天台宗の寺として草創され、1832年、浄土弘伝の沙門善空頓了上人により浄土宗の寺に中興改宗され、
以来京都東山・禅林寺(永観堂)の末寺。
1702年、直空諦岩上人により、大仏師・法橋安清の作、1m5cmの座像・「五劫思惟阿弥陀如来」をご本尊。



「宝幢院・光明寺」は、山号ー清浄山・宗派ー浄土宗西山禅林寺派・本尊ー阿弥陀如来・創建年ー伝 834年 - 847年・開基ー伝・円仁。

「第12代横綱陣幕久五郎」の看板、本名ー石倉 槇太郎・ 建碑狂・負けず屋・鬼神 ・1829年ー1903年(満74歳没)・出身ー出雲国意宇郡、(松江)
身長、174cm・体重、138kg・所属部屋ー滝登部屋→朝日山部屋(大坂)・→北陣部屋(大阪)→秀ノ山部屋(江戸)
得意技ー寄り。成績ー幕内戦歴 87勝5敗17分3預65休・優勝ー優勝相当成績5回 。

    

文化財ー木造千手観音立像(国の重要文化財)、 絹本着色法然上人像、絹本淡彩楊柳観音像、絹本着色地蔵菩薩十王像、金銅阿弥陀如来及び両脇侍立像、金銅蓮花輪宝文置説相箱(県重要文化財)。

    

「吉備津彦神社」岡山県の末社と思われる。一の宮として親しまれている。
祭神ー吉備津彦命。由緒ー南北朝後の至徳年中、栗原八幡宮祠官 平田小太郎が宝土寺住職と共に祭事を奉仕した事に始まるとされている。

「宝土寺」境内にある。
    

「宝土寺」は、浄土宗の寺、本堂前には、開山上人融海の墓と伝わる古い五輪塔がある。
       江戸時代に御所崎の沖に突出していた「浮御堂」の最後の住職・義順の墓。
寺の窯「無尽窯」で知られ、「手しごと市」は、春・秋の桜と紅葉の季節、境内にて4日間に渡り開催される「手づくり品の市場」。
                             
   

                                本堂


「天寧寺」は、曹洞宗の寺、市街地中央部東土堂町、山号ー海雲山。
開山は普明国師と言われている。1367年に「足利義詮」が建立した国重文の塔婆(海雲塔)がある。
本堂左手の羅漢堂には五百羅漢の群像がズラリと並んでいる。五百羅漢堂は座禅堂にもなっていて、無料で体験することができると云う。

「ボタン」や「しだれ桜」のお寺として有名で、春になると多くの花見客でにぎわう。

    

天寧寺の三重塔は有名で、もともとは、五重塔。
江戸時代に傷みの激しい四・五層を撤去し三重塔に改築された。天寧寺三重塔(重要文化財、室町時代 嘉慶二年 1388年、本瓦葺、高さ25m)
天寧寺は、足利尊氏の遺志によりその子「義詮」が建立。普明禅師を開山とした曹洞宗の大寺院であった。

                            平山郁夫画伯の世界
    

足利義詮 1330-67 室町幕府2代将軍、尊氏の嫡男 新田義貞と共に鎌倉幕府倒す。朝廷は、無位無官の新田氏を知らずに大将の義詮を。実際は
          新田氏の活躍大。義詮は、政務を息子義満に譲っている。

鉄を受けると元気になる(蘇鉄)茎にクギを打ち込まれているのであろう。       本堂
  

「艮神社」
尾道旧市内で最古ー806年創建。
祭神ー天照大神、須佐之男命、伊邪那岐命、吉備津彦命を祀っている。境内に生えている楠は樹齢900年と言われ、幹の周囲は約7m。(天然記念物指定)

この境内では、映画「時をかける少女」や「ふたり」のロケが行われたのをはじめ、最近ではアニメ「かみちゅ!」の舞台としても登場している。

    

参道右側は千光寺ロープウエイ山麓駅で、ロープウエイは、この神社の真上を通っており、境内入口には頭上を覆うようにロープウエイの保護網が掛けられていた。
ご神木の大楠を初めとする楠の巨木群が境内一杯に枝を張り出している。

    

境内社に、稲荷社、塞神社、恵美須神社・猿田彦神社・豊玉彦神社、代々七福稲荷神社、金山彦神社等11社。
806年の創建、古社で、次回の「千光寺」と創建年代である。古くは多氣遠宮・建遠神社と称し、素戔男命を祀る神社でしたが、
吉備津彦命が、976年に合祀され、鎌倉時代の初め・1200年頃、幣多賀宮との二社合祭とる。
現社名に変更されたのは、明治の社格で、村社に列している。

    

「妙宣寺」は、日蓮宗の寺。1354年、大覚大僧正妙寛の開基と言われている。

本堂の裏手には熱心な日蓮宗徒でもあった加藤清正公を祀る「清正堂」があり、春と秋には「尾道門前市」の会場となる。
手作りにこだわったお店で境内がにぎわう。
境内で、11月上旬〜3月下旬「冬桜」を楽しむこともできる。

    

「慈観寺」は、時宗の寺。1362年、慈観上人の開基と言われている。
4月末頃、庭には一面に牡丹が咲き“ぼたん寺”として親しまれている。

    

時宗のまち「尾道」は、市には時宗の寺院が六ヶ寺ある。全国的に見て、一つの町に、時宗寺院が集まっているのは珍しい。
尾道が商業都市として様々に人とモノが流通していた名残であると同時に時宗寺院には当時の「浜旦那(漁師をまとめたり、魚介類などを卸す商人)」の隆盛を垣間見る事の出来るものが多い。
漁師や浜旦那は時に危険なものとなる海を相手にするだけに神仏に海上安全を願った。

  

尾道市の観光案内図によると、古寺は、千光寺を含めて26寺が存在すると云う。次回は、千光寺公園になるが、その隣の西園寺山に、三重塔
持善寺・金剛院・大山寺・常称寺・西念寺の先に西郷寺・山脇神社・林芙美子の尾道東高校・浄土寺・海龍寺・向島に架かる「新尾道大橋」
瀬戸内しまなみ海道へ続く。

    

次回は、千光寺・公園へ。(ロープウェイ休業中で徒歩30分の登山)

海の見える尾道と文学の道

2014-05-29 | 気まま旅

「尾道市」は、瀬戸内の商港、広島県南東部、尾道水道に臨む市。
山地が海に迫り、市街地は海岸沿いに東西に延びている。裾をはう道と云う意味で「山の尾の道」とよんだからと云う。
1168年備後国太田荘の船津倉屋敷が置かれ、瀬戸内の物産集散地としての地位を確立している。
その為、高野山の支配下に入り浄土寺が建立されている。
室町時代二は、道明貿易船が、江戸時代は西廻航路の寄港地として栄えたが、今は、大型船が増え地方港となった。

1999年に尾道駅前再開発が行われ、古い町並みの広がる景観から近代的な商業施設やホールが建てられた。
山陽本線・駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなったようだ。
駅前から望む対岸では日立造船向島西工場跡のクレーンのライトアップが行われ、2004年(平成16年)度のグッドデザイン賞を受賞。
ライトアップは、工場跡の再利用に伴い2006年をもって終了し、2007年より場所を西方の向島ドックのクレーンに、観光シーズンや週末を中心に
行われていると云う。(新幹線「新尾道」は、栗原川を渡り、約1km離れている。)



「尾道本通り商店街」 JR尾道駅近くの、美津子像前から東に1.6km続く商店街。
6つの商店街が 並び、約400店舗がある。「イベントの館」や「郷土資料館ふらっと」「絵のまち館」などの 施設もある。

「二階井戸」江戸時代の終わり頃、尾道は 山の中腹まで発展しましたが、坂のある尾道では水の確保がとても重要。階段の踊り場 のような 。
    

坂道と寺と文学の町「尾道」戦災から免れ、古い街並み、尾道水道に面し丘陵の細い山道を登って行きます。

尾道水路ー海岸通りー国道2号線―山陽本線ー尾道文学路―千光寺山へ。
    

「海 が見える 海が見えた 五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。」は放浪記の一節、
放浪記は、海の尾道時代のことがかかれ、 千光寺山より尾道水道の眺めは、町と海が共存して美しい。
ここは,芙美子の町でもある。放浪記は、芙美子の飛躍の作品で、その芙美子は、、門司で生まれ、門司は、大陸に向けての出発地、活気にあふれ、一攫千金をねらう多くの人がやってきた。その中で、親の商売のこともあり、関門地域にて転々とする。
その後、尾道に移転、そこでは一転、勉学に取り組む機会を得て、人生を大きく変える。
林芙美子は、尾道で13歳(第二尾道尋常小学校/現土堂小学校)から19歳(尾道高等女学校/現尾道東高校)まで住んでいる。
東京新宿落合に自宅があるが、ここ尾道の商店街駅寄り、小さな家が。

前に紹介した東京新宿の自宅は、林芙美子記念館となっており、閑静な住宅街にある。若い時の苦労が偲ばれた。
芙美子は、東京上京後、渋谷、世田谷、新宿と移り住み新宿区中井に新居で、執筆活動・欧州に行って一時住むなどして、執筆の肥やしにしたと云う。
その後、戦時中に信州上林温泉に疎開し、群馬の沼田に行っている。また、新潟の直江津港(現上越市)にも、、、、。

本町通り商店街に記念館・地元高等女学校卒業の「林芙美子」1903-1951
     

芙美子は、鹿児島時代はほんのわずかであり、大正5年に尾道にたどりつくまで、不明な点は多いが。
第二尾道尋常小学校五年に編入する事になる年齢からすると、二年遅れの事になると云う。
そこで早大卒の小林正雄の存在が(担任)芙美子に大きく作用し、彼が芙美子の文学的才能を誰よりも早く認め、今井先生の彼の強いすすめにより、
尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学することになる。
これは当時、彼女の生活レベル(階層)としては、ほとんど異例のことであったと思われる。

林芙美子の尾道時代の家跡
    

「林 芙美子」  1903-51  貧困の中から詩情を育てた作家 山口県生まれ
幼い頃から各地を放浪し、働きながら「尾道高等女学校」を卒業している。1922年東京に上京し、様々な職業を転々とし、逆境と貧困のなかで
童話・詩を書いている。
1926年画家修業中の手塚氏と知り合い結婚している。「清貧の書」がある。
「牡蠣」「泣き虫小僧」「晩菊」「浮雲」などがある。出世作「放浪記」は、長谷川時雨主宰の「女人芸術」から連載され1935年、30万部の
ベストセラーに、1949年三部まで刊行された。戦中は従軍作家で活躍、後続々出るが過労で倒れ、朝日新聞連載「めし」が絶筆となる。

国道2号線商店街入り口の芙美子像
  

「尾道の文学作品」
放浪記(林芙美子)・暗夜行路(志賀直哉)・悪名(今東光)・内海の輪(松本清張)
尾道渡船場かいわい・尾道物語・十八歳の旅日記、(森岡久元)など。

「光明寺境内下」には地面を這うように枝を伸ばした「蟠龍の松」市の天然記念物に指定。


「映画作品」「東京物語」(1953年、小津安二郎監督)・「悲しみは女だけに」(1958年、新藤兼人監督)・「裸の島」(1960年、新藤兼人監督)
「悪名」シリーズ(1961年 - 1969年・1974年・2001年、田中徳三、森一生、安田公義、マキノ雅弘、増村保造、和泉聖治監督)
「憎いあンちくしょう」(1962年、蔵原惟繕監督)・「故郷」(1972年、山田洋次監督)・「男たちの大和」(2005年、佐藤純彌監督)
(戦艦大和ロケセット・向島)など。(水尾町通りを海岸に向かうと、尾道映画資料館・歴史博物館に)

志賀直哉旧居へ。


「徳富蘆花」小説家で、蘇峰の弟、「不如帰」。「頼山陽」 1800年前後 「酒は灘の芳醇・魚は琵琶湖の、、、、口にせず」祇園で放蕩。
「正岡子規」俳人・歌人漱石の親友。金田一京助・山口誓子などが訪れている。

直哉旧宅付近
    

「志賀直哉」が尾道に移り住んだのは1912年、
「白樺」のありかたへの居心地の悪さや父との不和から東京を離れ、友人がほめていたという場所の「尾道」に住んだ。

住まいは「暗夜行路」そのままに「三軒の小さな棟割長屋の一番奥」で部屋は六畳と三畳に台所のつつましいものであったと云う。
直哉は暖をとるために「ガスストーブ」をガス会社から借りており、ガスの使用料は尾道中で2番目であったというエピソードも残る。
やがて父との和解をみると、尾道での直哉は人々とのふれあいをとおして次第に心をなごませていったと云う。
旧居からは、近代文学史上、白眉の文章とされる「景色はいい処だった」にはじまる風景そのままに、尾道水道の向こうに「造船所」「山の中腹の石切り場」跡をながめることができる。

山の中腹に建ち尾道水道が一望できる。
   

「志賀直哉」 1883-1971  宮城県名家に生まれ、学習院で学び東大中退している。

奈良で詳しく紹介。「小説の神様」と云われ、1949年文化勲章受章している。1921年「暗夜行路」自伝的長編刊行。
直哉氏の住んだ所で知っているだけで、宮城県・尾道・松江・鎌倉・東京・千葉・京都・奈良。

6畳と3畳に台所の小さな棟割長屋・ガス使用量は尾道で2番目と云うエピソードが残っている
  

「中村 憲吉旧居」1889年ー1934年、 歌人。実家は酒造業

広島県三次市生まれ。三次中学、七高、東京帝国大学法科大学経済科卒。大阪毎日新聞の経済部記者を経て、伊藤左千夫に師事。
1909年「アララギ」に参加、斎藤茂吉や古泉千樫らと交流を持つ。
1913年島木赤彦との合著歌集「馬鈴薯の花」刊行と「中村憲吉全集」がある。

山中善一氏の別荘で、千光寺公園下、この地で帰らぬ人に。

    

尾道出身の文学者
行友李風 1877-1959 新国劇座付き作家「月形半平太」「国定忠治」1925「修羅八荒」を、大衆作家。
高垣   1898-1931 「竜神丸」(少年倶楽部に連載)「快傑黒頭巾」「豹の目」少年小説・「燃える地球」SF小説。
横山美智子1895-1986 「嵐の小夜曲」「紅薔薇白薔薇」少女小説・朝日新聞懸賞小説「緑の地平線」入選。

尾道の細い道路には、茶店や小物屋が
    

山下陸奥 1890-1967 歌人。         麻生路郎 1888-1965 1924年(川柳雑誌)創刊、川柳六大家の一人と云う、等。

「向島」 面積は22.22km²の島。全域が2005年に尾道市になっている。
明治~昭和時代に掛けて、塩田水田開発による干拓埋立てにより徐々に今の形が形成されてきたと云う。
明治初期までは向島町と向東町の町境に当たる島の中央部、兼吉~江奥~干汐ですら満潮時には船で往来出来たという。現在でも、このエリアに限らず、満潮時には入り川の奥深くまで潮が上ってくるのが確認できる。島の北側は住宅が多く、尾道水道の対岸の尾道市街へ通勤・通学する人のため渡船が頻繁に運航されている。

「瀬戸内しまなみ海道」尾道大橋・向島・因島大橋・因島・生田橋・瀬戸田・多々羅大橋(四国愛媛県)・大三島~至今治へ。


次回は、古寺を尋ねる。

福山・日光寺と芦田川

2014-05-27 | 気まま旅

「日本のポンペイ」と呼ばれる、芦田川下流の中州は、草戸千軒町遺跡で知られている所。
昭和初期に発見され、昭和36年本格的に発掘しだした。「平安時代末期の建物・井戸・溝に続き、室町時代の遺跡が広範囲に出土した。
これは、芦田川1673年の大洪水で完全に埋没したため。

下流域の 福山平野(福山市中心部)古代は、海中あるいは遠浅の浅瀬で、以降の開発により平野となった区域である。
御幸町大字中津原で高屋川が合流、福山市中心街西側を南南西から南南東へ緩やかにカーブを描きながら、福山市神島町付近で瀬戸川が合流し、
以降南南東方向へと進み、芦田川河口堰を経て、河口となり、備後灘へと流れこむ。
また、気候区分は、瀬戸内海式気候に属し、梅雨と台風以外の降雨および降雪が少ない。
流域都市の年間降水量は全国平均の2/3程度であると云う。

「草戸稲荷神社」は、明王院と隣接している草戸の鎮守
祭神は保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神であり、境内には二十社近い稲荷神社と八幡神社が末社として祀っている。
この神社は福山市ではもっとも初詣の参拝客が多く、広島県内でも広島護国神社についで2番目に多く毎年概ね40万人以上が訪れると云う。

                      朱色の太鼓橋


平安時代の807年に、明王院を開基したとされる空海上人が同寺の鎮守として祀ったのが最初とされる。
当初は社殿が芦田川の中州に鎮座していたが、たびたび洪水により流失していた。
1633年に初代備後福山藩主の水野勝成が現在地に再建。

境内                    神水舎              入口
    

本殿部分は片持ち梁に、本殿空中に浮かぶ神社といった感じであった。
本殿の構造材は、RCだが、屋根は檜皮葺きで伝統的な形式にのっとっている。

神木             石鳥居と朱鳥居                    拝殿
    

境内には二十社 近い稲荷神社と八幡神社が末社として祀っている。本殿からの芦田川・福山駅方面と眺望は素晴らしい。

  拝殿                草戸山                    末社八幡神社
    

「真言宗見沖山大聖院日光寺」
仁和三年(887年)建立。
金銅製土砂容器は昭和49年、福山市重要文化財に指定された。
長和•草戸新四国八十八ヶ所の1番(現在不明)•2番•88番が祀られていると云う。

日光寺                   石段と門楼               鐘楼
    

境内は、薬医門、鐘堂、本堂、庫裏が。
                          本堂


江戸時代からの福山の水道は、(旧水道の面影が残る蓮池,護国神社横,妙政寺前などに)
福山の水道の始まりは,遠く昔の今からおよそ390年前の江戸時代の初め、1619年、備後の国の領主となった戦国の武将 水野勝成がこの地域を
福山と名づけ,福山城や城下町を建設したときに,町に飲料水を送るために芦田川から蓮池まで水を引き,そこから木の管や土の管などでそれぞれの家にくばる水源整備の事業を行ったのが始まり。
その長さはおよそ14kmにもおよび,日本の水道の中でも,一般の飲用を主とする水道としては神田上水,近江八幡水道,赤穂水道,中津水道に次ぐ全国で5番目という歴史を持っている。
「旧水道」は,終戦当時まで一部市民の間で使用されている。現在でも蓮池や幹線水路,取水口などに昔の姿をしのばせるものが一部残されているが

草戸街道に、閉鎖したポンプ場。
閉場で無人
    

「芦田川」は、
広島県東部を流れる芦田川水系の本流で、一級河川。
備後地方を代表する河川で、流路延長86km、流域面積860㎢。1967年(昭和42年)に一級河川に指定されちぇいる。

2012年現在、中国地方一級河川13水系の内「水質ワースト1位」。
1972年度から38年間にわたり更新し続けてきたが、2011年度のみ前年に同値だった「吉井川」がさらに悪化したため、ワーストを脱出する。
ただ翌2012年では吉井川が水質改善したことにより再びワーストとなった。

芦田川に架かる河口大橋
    

次回は、尾道方面へ。

福山・明王院 草戸街道

2014-05-25 | 気まま旅
「坂本龍馬」の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅
1867(慶応3)年、坂本龍馬が率いる海援隊が乗った「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」とが瀬戸内海六島沖で衝突し、「いろは丸」は大破、
鞆港へ曳航される途中宇治島沖で沈没。
その「いろは丸事件」の際、坂本龍馬と海援隊士が宿泊したのが龍馬の隠れ部屋(桝屋清右衛門宅)。
桝屋清右衛門は事件の際に海援隊を支援し、宿舎として提供した。
龍馬は、階段のない2階の隠し部屋に寝泊まりしたと伝えられており、暗殺の危機もかえりみず談判にのぞんだ。市鞆町にある。

駅南口前の「人情酒場」で、昼食ランチ、鶏のから揚げセット¥500でライスお替り自由。これは安い。
    

昼食も済ませ、商店街をぶらり。駅前の通りを南に歩くと、大きな鳥居、地元を鎮座する神社だから立派な神社と期待。
宮通りの入り口だ。大鳥居の先に、小さな広場、そこに、小さな鳥居と祠がある。
これが「福山神社」。

祭神は、大物主神・大黒さん、事代主神・エビスさん、宇賀御魂神・お稲荷さん、須佐之男命・祇園さんの四神と欲張っている。
江戸時代から近くの入江沿いに別々に鎮座していた、金毘羅社、恵美須社、稲荷社、祇園社を昭和33年に当地に合祀。
平成5年、都市再開発事業により現在の社殿造営。
福が山とある、福の山神社とも言われ親しまれている。
自分の年と名前を告げ、腹の底から 「ありがとうございます」を三回言うのが福山神社のお参りの仕方と云う。(参拝)。

商店街宮通り大鳥居、                      公園を兼ねた福山神社
    

「草戸街道」
舟底板壁は、舟の材料には脂の多い松が用いられ、廃舟になると舟板を家の羽目に張る家が多かった。

「四つ堂」、 備後福山藩には他藩にはない過ぎたるものがあると云う。地域の絆が強い 四つ堂がある、水野勝成の発案で造られたと伝わる。
一里塚にも税金の免除があったように四つ堂に税金がかからず、 南北に走る細い道 元の芦田川の堤防が、家は、石垣を数段築き 
土塀で屋敷を囲って水の侵入防いだと。

            芦田川に沿った旧草戸道の昔ながらの町並みが
    

石仏が、道を通る人たちの安全を守るために、300m間隔で設置されていたと伝えられていたと云う。

                            地蔵堂と石仏


「四ツ堂と観音」四ツ堂の舟形地蔵さん、観音さんは、歴史あり、1829年から祀られている。

「法音寺」の 地蔵さんに、文政七 申秋 (1824年)   尾道石工 丈助 作と刻まれている。
境内には石碑に年号刻まれ、文久二 壬戌歳 四月・・・1862年「壬戌(みずのえいぬ)」。

「真言宗東照山西方院法音寺」
開基は定かでないが、「広島県史」水野記に「古来寺領三拾貫毛利家没収之」とあり、戦国時代以前に開基されていたと思われる。
寺名や御本尊も現在と異なっていたと云う。

法音寺山門                鐘楼                    本堂
    

「明王院」
芦田川西岸、真言宗大覚寺派・山号ー中道山。本尊重要文化財十一面観音立像(最澄作)・807年空海の開基と伝えられている。
1655年福山藩主「水野勝貞」が、明王院と改称している。

石造物群が、日蓮宗石碑、井戸傍の石碑。
    

国宝の本堂は、鎌倉時代末期「和唐折衷様式」・国宝五重塔は、1348年で全国5番目に古い。

中國観音第8番札所。
        山陽花の寺二十四か寺は、17番 円通寺 18番が、「明王院」、19番、西國寺に。
    

市指定重要文化財
木造南無仏太子像・木造大日如来坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像・木造五大虚空蔵菩薩懸仏・・木造阿弥陀如来立像・木造不動明王立像
木造不動明王立像・木造制多迦・矜羯羅童子立像・墓石群・明王院鐘楼・七重石層塔・草戸愛宕神社本殿・石層塔残欠他多数ある。

本尊十一面観音像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の草創もその頃にさかのぼるものと推定される。中世には門前に草戸千軒町(川底に埋もれた中世遺跡として著名)が栄えた。江戸時代には福山藩主となった水野家・阿部家の庇護の下で繁栄した。

     長い石段と山門                            歴史を感じる境内
    

明王院本堂鎌倉時代1321年に建立された仏堂。
和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。
内部の外陣に見られる輪垂木を用いたアーチ型の天井は、近世の黄檗宗寺院の建築にしばしば見られるものだが、中世には珍しい。

                          本堂


明王院五重塔南北朝時代の1348年に建立された純和様の五重塔。
初層内部の四天柱(仏塔の初層内部に立つ4本の柱をさす)、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれている。
相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている。

五重塔              鐘楼                     本堂                           
    

草戸山城本丸跡・中世にこのあたりに勢力を持っていた、渡辺氏の山城。


           石仏                       福山七福神
  

次回は、続きで草戸稲荷神社へ。

備後領主「水野氏」の福山城

2014-05-24 | 気まま旅

「広島県・福山市」福山駅下車
県南東部、県下二番目の都市、福山城(定興寺別称、蝙蝠山)の「蝙」が訛って「こうやま」「ふくやま」のどの説がある。
芦田川河口に開け、「水野勝成・福山藩10万石」の城下町で、ワタ造り「木綿織物・塩・イグサ畳表。鍛冶細工」などが盛んであった。
現在は、瀬戸内工業地帯で埋め立てられ拠点都市の公害問題が。琴・下駄でも知られている。

JR福山駅は、新幹線は「のぞみ」や「さくら」が停車するほか、陸路では駅南北口より長距離高速バスが多数設定されており、広島県東部と岡山県井笠地方を抱合する広域都市圏のターミナル駅である。
また、西瀬戸自動車道を経由し、芸予諸島の島々や愛媛県松山市、今治市行きの高速バスも発着しているため、本州から四国への乗換え駅としての機能も併せ持つ、都市型駅である。

                   新幹線の窓から見える福山城と緑の杜


田中翁の快心作の「五浦釣人」像が「福山駅南口バスタミナール広場」

平櫛田中氏 1872-1979  「福山市名誉市民」  1944年東京芸術大教授・1954年文化功労章・1962年文化勲章。

東京から五浦に住を構えた「岡倉天心先生」の師に対する報恩の気持ちが込められた「五浦釣人像」。

                 南口タミナールに「岡倉天心像」
    

駅北口広場駐車場に、福山城の「物見櫓」石垣跡の一部。

                  福山城北口駅前商店街を東に1.5kmほど歩くと
    

「福山城」
福山駅前、常興寺山の丘陵を利用した山城。1622年、備後領主「水野勝成」が築城した。
京都伏見城の遺構が多数移築している。水野氏ー松平氏ー阿部氏の居城、昭和20年の戦災で天守閣焼失している。
66年市制50年記念で復原され、博物館が出来ている。
伏見城遺構ー伏見櫓・筋鉄御門など。
                       水野勝成が備後領主に
    

「水野 勝成」は、1564-1651 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。
高天神城の戦い・ 天正壬午の乱・ 小牧・長久手の戦い・ 九州転戦・ 関ヶ原の戦い・ 三河刈谷藩主・ 大坂の陣・ 大和郡山藩主・ 初代福山藩主。

                        水野家・菩提寺に参拝
    

水野氏時代
福山藩は幕府が毛利氏などの中国筋の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として水野勝成に備後地方を与えたことに端を発する藩で、明治維新まで歴代有力な譜代大名が配された。

関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国は安芸国と共に福島正則によって領有(49万8千石)されていた。しかし、正則は有名な広島城無断修築の咎で1619年に改易となり、領地は分割され、安芸及び備後北部・西部は浅野長晟(42万石)に与えられ、備後南部には徳川家康の従兄弟で大坂の陣では後藤基次を破るなど卓越した戦歴を持つ水野勝成が、大和国郡山藩(6万石)から4万石の加増を受けて10万石で入封することになった。

    

領地構成は備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。
現在の行政区分では福山市全域と尾道市の東部、府中市全域、三次市や庄原市の南部、笠岡市や井原市の西部、神石高原町の大半である。

勝成は入封と同時に福山城と城下町の建設に着手し、福山城は4年近い歳月を費やし1622年に完成した。また、勝成は新田開発や灌漑事業、産業育成を行うなど領内の経営に努め藩政の基礎を築いた。
1626年には勝成の従四位下昇進により福山藩領は相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)に飛び地1000石の加増を受け計10万1000石となった。

    

1638年の島原の乱において、勝成及び子の勝俊、孫の勝貞率いる福山藩兵約6000人は、幕府上使を除き九州の大名以外で唯一幕府軍に参戦した。
1639年に勝成は隠居したが、その後も隠居料(2万石)のほとんどを新田開発や用水路の整備に費やしたという。

1651年の勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続くが勝成の政策は基本的に踏襲され福山藩は着々と発展を遂げていき、藩成立当初に農民全体の7割以上であった小作民もほぼ0となった(この間に石高は約3万石増加した)。

    

1697年、勝種の急死により生後間もなくで跡を継いだ5代・勝岑が1698年、に僅か2歳で死去し水野家は改易となった。
これに対し一部の藩士や領民は水野家の存続を求めて福山城に籠城する動きを見せるが、家臣の説得により間もなく静まったという。
水野氏は名門の故で勝成の孫・水野勝長が能登国西谷藩1万石に取り立てられ家名は存続している。

天領時代、水野家の断絶により福山藩領は一時天領となり幕府から代官三人が派遣された。
代官所は城下東端の三吉町に置かれ(三吉陣屋)、福山城の城番は讃岐国丸亀藩の藩主京極高或(縫殿)が務めた。
同時に幕府は厚木村を除く領内全地域の検地(元禄検地)を命じ岡山藩から検地団約2400人が送り込まれ、水野時代の増産や検地の厳格化、尺度の変更による面積の水増しなどより福山藩の石高は約15万石と査定されたと云う。
この検地以前の石高は約13万2800石だったので実質的には平均で約10%の増税に。

                福井駅北口を出ると「福井城」堀と石垣と大噴水が


1710年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。
その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがその殆どが江戸住まいで福山に帰城することも希であったと云う。
阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、1730年には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、1750年には、二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されている。

    

築城時、1622年は、野上村常興寺山に福山城に「水野勝成入城」本丸2,624坪  二之丸8,809坪  三之丸31,931坪  小丸山7,180坪
           内堀3,259坪  外堀20,163坪  沼(小丸山裏)3,500坪の城と云う。

    

赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶 長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後。

    

元禄13年・1700年 松平忠雅が入封する。1710年 阿部正邦が入封する。1730年 本丸御殿の奥居間が撤去される。1750年 二の丸城米蔵の大半が撤去。

    

慶応元年・1865年 櫛形櫓、槍櫓、鉄砲櫓が焼失する。1868年 福山城開城。1871年 廃藩置県。明治6年・1873年 福山城廃城、施設の売却が始まる。

    

明治8年・1875年 本丸が「福山公園」となる。東側に階段が敷設される。1884年 福山公園が広島県に移管される。1888年月見櫓跡に「葦陽館」建設。

  

昔、桜開花時期に、車中から福山駅の、ソメイヨシノ、サトザクラ、ヤマザクラなど、約500本のサクラと名城福山城を思い出している。

    

早朝の為、博物館など開いていませんでした。
「博物館」天守閣内部・歴代藩主遺品資料と考古、歴史資料などを収蔵展示している。

           5・10月の福井城公園風物詩は、77万本のバラと10月の菊花展
    

次回は、市内の芦田川方面に。