1853年アメリカ大統領国書を持ち日本の開国を求め神奈川浦賀に四隻を率いて「ぺりー」が来航、翌安政元年、1854年神奈川条約締結している。
安政3年に、「ハリス」が、総領事として来日し下田柿崎の「玉泉寺」を館とした。「ハリス」 1804-78 条約を締結した初代アメリカ公使
ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し
共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。
日本人を見る目は、「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。
世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と
それぞれ日記に称賛気味に書いている。
しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。
下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると
精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。
日本においては、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、上海などで売却して利鞘を稼ぎ、慈善事業に充てたとある。
下田城山公園にある碑
日米修好通商条約は1858年 幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。
幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。
黒船来航時の下田港図 大砲
アメリカ1829年製「30ポンド・カロネード」大砲、これが下田の街に向いていたのだろう。
大浦山「長楽寺」真言宗の寺、1854年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われた、歴史の寺。
お吉観音を祀る宝物館や悲恋のおすみ弁天があり、伊豆の七福神めぐりの寺でもある。
ロシア使節「エフイミー・プチャーチン」北方ロシアから来た海軍提督1803-83長崎に来航、開国を要求、安政元年ここ下田で「日露和親条約」を締結した。
交渉にあたった川路は、粘り強いプチャーチンを「この川路の十倍、いや、百倍の苦労をして真の豪傑」とたたえている。ロシアの文部大臣まで出世。
長楽寺鐘楼 本殿
日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず
、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった
ロシアの条約も、千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)。ロシア領事を日本に駐在させる、裁判権は双務に規定する。
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の1858年に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
山門
「長楽寺」
創建は1635年、今村伝四郎正長(第2代下田奉行)。第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀邦として創建。
初代奉行父彦兵衛重長の後を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、
下田の町を津浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
墓は、下田市指定史跡。
嘉永七年、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。寺など、上陸したペリー一行の応接所となる。
日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約がこの寺において調印された。寺は、米人休息所となった。
寺の背後の「海触洞窟」から人骨・玉類 金銅製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。
洞穴 寺の出口に 獅子神社
次回は柿崎玉泉寺へ。
安政3年に、「ハリス」が、総領事として来日し下田柿崎の「玉泉寺」を館とした。「ハリス」 1804-78 条約を締結した初代アメリカ公使
ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し
共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。
日本人を見る目は、「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。
世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と
それぞれ日記に称賛気味に書いている。
しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。
下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると
精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。
日本においては、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、上海などで売却して利鞘を稼ぎ、慈善事業に充てたとある。
下田城山公園にある碑
日米修好通商条約は1858年 幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。
幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。
黒船来航時の下田港図 大砲
アメリカ1829年製「30ポンド・カロネード」大砲、これが下田の街に向いていたのだろう。
大浦山「長楽寺」真言宗の寺、1854年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われた、歴史の寺。
お吉観音を祀る宝物館や悲恋のおすみ弁天があり、伊豆の七福神めぐりの寺でもある。
ロシア使節「エフイミー・プチャーチン」北方ロシアから来た海軍提督1803-83長崎に来航、開国を要求、安政元年ここ下田で「日露和親条約」を締結した。
交渉にあたった川路は、粘り強いプチャーチンを「この川路の十倍、いや、百倍の苦労をして真の豪傑」とたたえている。ロシアの文部大臣まで出世。
長楽寺鐘楼 本殿
日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず
、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった
ロシアの条約も、千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)。ロシア領事を日本に駐在させる、裁判権は双務に規定する。
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の1858年に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
山門
「長楽寺」
創建は1635年、今村伝四郎正長(第2代下田奉行)。第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀邦として創建。
初代奉行父彦兵衛重長の後を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、
下田の町を津浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
墓は、下田市指定史跡。
嘉永七年、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。寺など、上陸したペリー一行の応接所となる。
日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約がこの寺において調印された。寺は、米人休息所となった。
寺の背後の「海触洞窟」から人骨・玉類 金銅製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。
洞穴 寺の出口に 獅子神社
次回は柿崎玉泉寺へ。