syuの日記・気まま旅

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アメリカ・ロシア通商条約

2012-02-29 | 気まま旅
1853年アメリカ大統領国書を持ち日本の開国を求め神奈川浦賀に四隻を率いて「ぺりー」が来航、翌安政元年、1854年神奈川条約締結している。
安政3年に、「ハリス」が、総領事として来日し下田柿崎の「玉泉寺」を館とした。「ハリス」 1804-78 条約を締結した初代アメリカ公使

ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し
共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。

日本人を見る目は、「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。
世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と
それぞれ日記に称賛気味に書いている。
しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。
下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると
精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。
日本においては、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、上海などで売却して利鞘を稼ぎ、慈善事業に充てたとある。


                下田城山公園にある碑
     

日米修好通商条約は1858年 幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。
幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。

黒船来航時の下田港図                   大砲
     

アメリカ1829年製「30ポンド・カロネード」大砲、これが下田の街に向いていたのだろう。

大浦山「長楽寺」真言宗の寺、1854年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われた、歴史の寺。
お吉観音を祀る宝物館や悲恋のおすみ弁天があり、伊豆の七福神めぐりの寺でもある。

ロシア使節「エフイミー・プチャーチン」北方ロシアから来た海軍提督1803-83長崎に来航、開国を要求、安政元年ここ下田で「日露和親条約」を締結した。
交渉にあたった川路は、粘り強いプチャーチンを「この川路の十倍、いや、百倍の苦労をして真の豪傑」とたたえている。ロシアの文部大臣まで出世。

                 長楽寺鐘楼                  本殿
    

日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず
、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった

ロシアの条約も、千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)。ロシア領事を日本に駐在させる、裁判権は双務に規定する。
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の1858年に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。

                        山門
    

「長楽寺」
創建は1635年、今村伝四郎正長(第2代下田奉行)。第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀邦として創建。
初代奉行父彦兵衛重長の後を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、
下田の町を津浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
墓は、下田市指定史跡。
嘉永七年、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。寺など、上陸したペリー一行の応接所となる。
日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約がこの寺において調印された。寺は、米人休息所となった。

寺の背後の「海触洞窟」から人骨・玉類 金銅製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。

洞穴                     寺の出口に 獅子神社                         
    

次回は柿崎玉泉寺へ。  

密航を企てた吉田松陰

2012-02-27 | 気まま旅
「吉田松陰」松下村塾を主宰した憂国の志士。1830-59年 長州藩士、思想家・教育者、萩松下村出身。
会津、山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ、若年で長州藩校で兵学を講じた。

安政元年、アメリカ密航失敗し投獄(小伝馬町)され、実家で謹慎中に「松下村塾」を開き後進の指導、多くの志士を育てた。
門人高杉晋作が、男子たるもの何処で死ぬべきかと尋ねると、松陰、死んで不朽の見込みがあるならばいつでも死んでよい、
しかし、生きて大業をなす見込みがあればいつまでも生きるべし。無駄死にするなと答えている。大老井伊直弼により「安政の大獄」で刑死した。

  

1854年、明治維新の14年前。3月27日、伊豆半島南部の下田で、ペリー艦隊の書記官が人影もまばらな郊外の散歩を楽しんでいるところに、
立派な身なりをした二人の武士が近寄ってきた。吉田松陰と金子重輔である。松陰たちは書記官に手紙をわたした。
手紙はただちに艦隊にもちこまれ、通訳官によって英訳された。内容は艦隊が出航するときは乗船させて欲しい、そして世界中をみたいというものだった。

日本人の海外渡航は禁止されており、違反が知られたら首をはねられ、アメリカにも迷惑をかけると承知している。
でも我々の誠意を疑わず拒絶しないで欲しいとも書かれていた。

                            吉田松陰と金子重輔  
  

「金子 重之輔」1831年 -1855年は幕末の長州藩士。名は貞吉。商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。
幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び1853年、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。
熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。1854年松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。
鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。
その後、幕吏によって萩へ送還され1855年、士分以下の者が入る岩倉獄で病没した。

柿崎・弁天島にある弁天社。松陰と金子重輔はこの祠に身を隠して密航を試みた。

弁天島は西側が埋め立てられ下田弁天島公園として整備されているが、幕末の頃は鷺島神社と龍神宮の二つの祠があるだけの小さな岩島。
松陰達が身を隠した鷺島神社のお堂には「ささげ弁天」と書かれた神棚があり、この島を弁天島と呼ぶ理由はここにあるという。

                        浸食された岸壁と洞窟
    

「まだが浜海遊公園」は、国道135号線沿い。園内には、芝生広場や海岸遊歩道、開国の町のシンボルとして錨のモニュメントなどがる。
24時間無料開放の足湯や、休憩所もある。 少し高めの温度に潮風が大変気持ちよく素晴らしい景色とともに「下田温泉」を存分に味わえる。
磯場は潮の干潮で3つの潮溜まりが出現し、岩場に生息する魚介類と触れ合うことができる。また、砂場には、粒径5mmの大粒砂利を使用。
この大粒砂利は強風による飛散、波による流出防止に効果があり、濡れた足にも付きにくくなっている。

  

  

村山邸 吉田松陰萬寄所(静岡県史跡)
1854年、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した、吉田松陰、金子重輔は役人の目を逃れるため、それぞれ偽名で岡村屋に宿泊し、
米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
当時皮膚病をか患っていた松陰は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向かい側にある共同湯で夜を明かそうとしていた。
そこで偶然この家の主、村山行馬郎医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。
松陰等は3月27日深夜、柿崎の弁天島付近から小船を出し米艦に漕ぎつけて便乗を懇請したが断られた。
企ての発覚を覚悟した松陰はいさぎよく自首し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。
この村山邸は、松陰の居間として使われた2階の天井の低い部屋や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松陰が使ったと伝えられる
机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松陰隠れ家の面影を残している。

松陰像                                     村山家 松陰が利用した共同風呂
    
                                村山家 隠れ家
  

「松下村塾生」は約50名ほどいた。著名な門下生には、尊王攘夷、倒幕の全国志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、
この人々の死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」
「松下村塾の双璧」と呼ばれた。
また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」といわれた。
これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖らが、明治政府の最高指導者を担った。

                        村山家室内 
  

松陰たちが手渡した「日本国江戸府書生・瓜中萬二(松陰 の偽名)、市木公太(同行した金子重輔の偽名)、呈書 貴大臣各将官執事」
との書き出しから始まり、「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」
などと訴えている意の手紙が米国で発見されている)。

松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される。

野山獄に投獄された松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始める。これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、
松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。また、後に松下村塾の助教授となる富永有隣とも野山獄で出会った。吉田松陰の教えの原点は、
牢獄の中にあったと言えるかもしれない。

  

蓮台寺温泉は行基による開湯伝説がある。 蓮台寺は現在存在していない。
行基 668-749 百済系の僧、朝廷に招かれ諸国を周り道路を開いたり、大仏建立を助けた。

密航しようと静岡・下田に来た際、吉田松陰と金子重輔が宿泊した宿・岡村屋、皮膚病を患っていた松陰はこの宿の主人に近くの蓮台寺温泉を紹介された。

土間
  

松陰と重輔は下田の牢獄に入れられた。数日後、艦隊の士官たちが二人の前に姿をみせた。散歩の途中らしい。士官のひとりが近寄ると、
松陰は板切れに文章を書きはじめた。
英雄が目的をうしなえば悪漢、盗賊の行為とみられる。我らは衆人の前で捕らえられ、村の長老たちからひどい処遇を受けている。
しかし、やましいところはないのだから、いまや英雄であるか否かを試すべきときである。
狭苦しい檻に押しこめられ、食事、休息、座臥、睡眠がどんなに困難だろうと、悪漢のように脱走などしない。われらは泣きわめかず、ただ沈黙を守る。
大略はこのような文章で、松陰の口先だけでない冷静さは、士官を感嘆させ、古代ローマの政治家カトーをもしのぐと目を見張らせた。

  

「向陽院」伊豆急、蓮台寺駅近い、三壺山 向陽院に参拝。

可愛い山門が建つ 本堂までの参道は草花の手入れ行き届木、 堂を造り金比羅宮と天満宮が草花の間に祀られる。
本堂近くには地蔵堂が建ち赤い前掛けで親しみ在る顔で立つ、里山の小さな寺。

    

次回はアメリカ領事館へ。


須崎の御影石

2012-02-25 | 気まま旅
「須崎」伊豆半島南端、下田港を包むように約3km南方に突出する半島。柿崎や外浦の砂浜のほかは、高さやく60mの海成段丘で
海食崖や岩磯性の海岸が周囲に発達する。
東方の爪木崎は灯台、冬季のスイセン、夏季のハマユウ、波食をうけた玄武岩の液状溶岩で知られている。
南端の須崎は、伊豆の民宿発祥の地で、テングサ採取から民宿村に変貌した。須崎の海岸には千畳敷、恵比寿島など観光地でもある。

石を引くための穴がある御影石 
  

御影石の説明がされていた。
土佐藩は、良質の石が取れる稲取に多くの人を派遣していた。山の石丁場で切り出された石は、稲取港へと運ばれ、そこから船に積まれて
江戸城へ向かっていた。この史実を今に伝えるのが 「御石曳まつり」。15トンある巨大な石を200人がかりで曳くと云う。

「佐土原藩 薩摩十六烈士の墓」
明暦大火後の江戸城復興と寺社建築を好んだ将軍綱吉に、江戸城西本丸の普請用として献上する高級建材栂を積載して、
遠州灘で難風にあい、船が沈没しかかったので、積荷の建材を海に捨てさせ、危うく沈没をまぬがれて下田港に漂着した。
不可抗力の事情とはいえ、大切な御用材を失わせた責任をとり、封建時代の思想では大切な藩主の御用材を投げ捨てた罪科はまぬがれぬとして、
16人が切腹し、市内「大安寺」に葬られた。船に残っていた建材は大安寺に寄進され,現在の本堂の柱となっている。

「爪木崎」半島の南東岬端で海岸は、海食崖。爪木島、田浦島など岩磯を持っている、俵磯海岸は、海食天然記念物。
近くには1971年から須崎御用邸が置かれ、皇族が静養に利用され、野水仙群落地、灯台で知られている。

須崎恵比寿島からの海
  

「須崎恵比寿島」
須崎半島の西側に位置する、恵比寿島。島と陸は橋で渡ることができ島の入り口には小さなお店があり、ちょっとした食べ物やトイレ、自販機がある。
全体的に足場が低く、磯の雰囲気の町。島の中には遊歩道があり、一周出来るが、今は私一人でトンビと目が合う。
釣り場となるポイントは、何処でもいいらしい。すべて低く満潮時やウネリがキツい時は波を被るという。場所によっては完全に水没する場所もある。
釣り好きには、位置的にも半島の先にあるため、潮通しがよく、メジナ・イシダイ・イサキ・アオリイカ・ヒラスズキなど釣れる魚種は豊富。

恵比寿島の灯台と弁天様
    

「柿崎町」
柿崎で知られているのが、弁天島。下田港奥、関東地震で起した跡がある。
吉田松陰が密航を企てた際、隠れと云う史跡でも知られている「柿崎弁財天社」がある。初代アメリカ領事館「玉泉寺」も近い。

「柿崎三島神社」鳥居をくぐり参道を進むと、境内左手に柿崎公民館、正面に社殿。拝殿の後方に本殿覆屋があり、覆屋の中に流造の本殿と、
一回り小さい境内社がある。境内左手に厄神社が、その後方の崖が、ちょっと味のある岩。岩の麓に小さな赤い小祠があるが、稲荷社が、
創祀年代や由緒は不明。吉田松陰の像があり気になった。

柿崎三島神社 鳥居                本殿
  

境内に 吉田松陰の石像
    

「下田まとが浜海遊公園」と「観光遊覧船」
港が一望できる憩いの公園、まどが浜海遊公園。国道135号線沿い、園内には芝生広場や海岸遊歩道、開国の町のシンボルとして
錨のモニュメントがある。無料開放の足湯や、休憩所もある。伊豆急下田駅より徒歩約15分と近い。

「遊覧船」幕末開港歴史の街・下田港を遊覧船「黒船」に乗って一周するコース。海岸沿いの街並・寝姿山・ペリー艦隊投錨の地など、運賃 大人千円。

  

下田湾、弁天島クルーズ乗り場、開国下田道の駅、まちが浜海遊公園、海の朝市、山の朝市などで賑わっている。

  

次回は吉田松陰。  

不幸だった唐人お吉

2012-02-23 | 気まま旅

「唐人お吉」アメリカ総領事ハリスの看護師。1841-91 芸者、伊豆下田の舟大工の娘、7歳で琴三味線を習い14歳で芸者となる。
ハリスの看護師となるがすぐ暇を出されるが、外国人の事実上の妾で不遇な後半生を送った。
給金は、一カ月十両、支度金二十五両が幕府から下されていたが、実際はお吉がハリスの元に通ったのは、わずか三夜に過ぎなかったという。
だが地元では、異人との交わった女と云う事でお吉を「唐人お吉」と呼んでさげすんだ。
後年お吉はアルコール中毒を病み、下田川に身を投げて51才の生涯を閉じた。

中世の船
  

「ハリス」条約を締結した初代アメリカ行使。1804-78.外交官タウンゼント・ハリス、ニューヨーク州生まれ、商人から外交官に、
安政3年駐日領事として来日、下田玉泉寺に入る、翌年江戸に上り日米修好通商条約を調印に成功している。
ハリスは、日本人の混浴風景を見て「一つの風呂に男女老若とも同じ風呂に入り全裸になって体を洗うのに理解できず、判断に苦しむ」と語っている。
                              お吉実像 -お吉19歳 安政6年撮影-
                               撮影者:水野半兵衛氏
ぺりー艦隊上陸の碑                      出品者:水野重四郎氏
                

米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは1856年のことである。
もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする
女性の派遣を要請した。
当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。
困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時16歳、
評判の美人斎藤きち(お吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。
身を投げうってくれ」と、対価を条件にとした。
下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといって
お吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰ったお吉だったが、そのうちに諦めて
奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年のことである。

幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めるが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、
自らの命を絶ってしまう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく
墓石も寄進され現在に至っている。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているよう。

お吉の安直楼
  

「玉泉寺」は、ハリスが初の領事館を開いたお寺。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれる。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの
記念館があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されている。境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓がある。

  

「ハリスの小径」は、玉泉寺から約400m離れた海岸あたりで散策にふけった小径が、今では”ハリスの小径”として整備され、この小径は、
県道とは離れている海岸道で静か、下田港の豪華なヨット群を見渡す景色が続く。また、途中山側には、洞窟もあり楽しい。

ハリスの小径 
    

「お吉ヶ渕」の このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933)の篤志によって昭和8年8月に建立されたもの。
博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人で、昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を
懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったという。
地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてあり、今では摩滅して定かではない。
博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月カナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じた。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」この歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれる。

      

「新渡戸稲造」国際連盟事務局次長、教育者、農業者、思想家。盛岡生まれ、日本を世界に広め、「武士道」を英文で紹介
東京女子大学初代学長。

  

唐人お吉記念館「宝福寺」八幡山。 まことの愛をうばわれ、唐人とののしられ、いばらの道を歩んだ、お吉の一生、

お吉供養祭・ 毎年3月27日、お吉が淵にて開催している。入館料 300円

  

「新田御陣屋敷跡」幕府直轄地の伊豆下田は、三島代官所(後に韮山代官所)の支配下であった。1691年、三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて、
地方事務を扱った後、陣屋詰の韮山代官手代は常勤となり、代々片岡氏が世襲した。この片岡氏の陣屋を新田御陣屋と呼び、地方事務所の始めとなった。

メインストリートのマイマイ通りに出て南へ向かうと、道の反対側に下田御陣屋跡碑と並んで春水の松がある。
ここは明治29年に医業を営む傍ら、小説「唐人お吉」書きお吉を世に紹介した村松春水の屋敷跡で、この松はそのときの庭木である。
マイマイとは、カタツムリからきた名で、ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したと考えられている。道の向かいに、豆州41番の霊跡の海善寺がある。

    

次回は須崎漁港へ。

なまこ壁の街並み

2012-02-21 | 気まま旅

「伊豆下田」東海道三島から大仁、湯ヶ島、天城峠を抜け伊豆半島の突端が下田。
アメリカ初代駐日領事「ハリス」、下田奉行、幕臣、吉田松陰、川端康成「伊豆の踊子」なども、現国道414号「天城峠」を使って
下田の町に入ったのだろう。

江戸時代から奉行所がおかれ、伊豆石の積出港として重要な要地であった。今は、伊豆急開通で観光地として人気がある。気候も温暖で、柑橘、
花の栽培が盛ん、近海での魚獲も多い。
幕末、維新の史跡が多く残され、温泉の町で、付近には、爪木崎、柿崎弁天などの景勝地である。


「なまこ壁」の街並み、静岡県松崎町、岡山県倉敷市(倉敷美観地区)、広島県東広島市(酒蔵通り)山口県萩市(菊屋横丁)、福岡県うきは市
(吉井町「蔵しっく通り」)が知られている。

壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。
その目地がナマコに似ていることから呼ばれた、防火、防水などの目的を持つ。

    

「壁構造」は、屋外と屋内を区切る外壁と、屋内の部屋を区切る間仕切り壁があり、空間を区切るものだが、構造物(屋根・小屋組)の荷重を支える
重要な用途もあり日本建築の場合、古くは茅やススキなどの草壁であったものと思われ、次第に土壁や板壁が取り入れられていく。

                             お吉の料亭 安直楼 
  

ペリーロードの街並み
  

竹で骨組を作って、その上から土を何層にも重ね、平瓦を張り、水の侵入を防ぐため、しっくいを盛り上げたなまこ壁。

  

日本建築の結晶とも言える「なまこ壁」も研究され、従来工法の中で瓦と漆喰の接着力の強さを強硬なものにして、日本古来の在来工法を生かし、
「技、意匠、美」を現代に残すべく、施工容易な工法を使った開発もされている。

なまこ壁のスナック            下田開国博物館
    

                            
  

次回は唐人お吉の足跡。