箱根峠の山道が、東西交通の主要となってくるのは鎌倉時代以降。
律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。
富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の為に通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれたと云う。
その後、足柄峠のルートも再開した為、二つの街道が並存している。
「箱根の坂」
室町から戦国への時代の移り変わりを、北条早雲の人生を中心に描いた 司馬遼太郎の「箱根の坂」の舞台。
箱根八里記念碑には、「幾億の跫音が坂に 積もり 吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」と彫られている。
司馬遼太郎記念碑
「乙女峠」から見る富士山
箱根の仙石原に「とめ」という名前の若い女性が住んでいた。
おとめさんと呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなり、この「おとめさん」の逸話から「乙女峠」と呼ぶようになったという伝承が残る。
また、江戸時代になると仙石原には関所が設けられ、通行の際はここでしばしば足止めされた。このことから「御留峠」(おとめとうげ)と呼ばれるようになり、これが「乙女峠」へと変化していったとも云う。
「箱根温泉郷」は、江戸時代の末期に、安藤広重の描いた「箱根七湯図会」がある。箱根には、七つの温泉場が開けていたようだ。
昭和には、十七湯、現在は、二十湯ともいう、箱根の温泉場も増えてきた。
「桃源台」は、小田急箱根ホールディングス傘下交通機関の結節点(ロープウェイ・船・路線バス)である。
港及びバスターミナルと一体的な施設となっている。
湖尻港まで徒歩10分で結んでいる。付近は、集落標識に従うと「湖尻」の集落外になると云う。
桃源台タミナール
芦ノ湖
「箱根」は、神奈川県南西、箱根火山と湯河原火山一帯を云い、
神山(1438m)・駒ヶ岳(1350m)など西麓を指して言うようになる。
ハコは、中国で神仙・ネは、山嶺を意味していると云う。源頼朝が鎌倉の幕府を開いて以来、東西交通の要衝なり、江戸時代は、関東の
西の玄関東口として足柄峠や芦ノ湖畔に関所が設けられた。
相模湾に迫るやく1000mの急崖が交通の生涯であった。その為、小田原宿~箱根宿~三島宿を「箱根八里」と呼んだ。
また、温泉が豊富で我が国代表の湯治客と保養地で賑わった。
「箱根神社」
孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、757年、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。
駒ヶ岳山頂には箱根元宮が1964年に堤康次郎の寄進によって再建され、奥宮として登拝者を集めている。
「吾妻鏡」には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建したと云う。
昭和3年に国幣小社箱根神社に昇格。
一の鳥居 神社入口 林の参道
「文化財」は、 紙本著色箱根権現縁起絵巻、 木造神像2躯(男神坐像、女神坐像)、 木造万巻上人坐像、 赤木柄短刀、 鉄湯釜 2口 1268年銘、1283年銘。
謡曲「曽我物」の舞台となった箱根神社境内には曽我兄弟を祀った「曽我神社」がある。
1193年、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父河津祐通(祐泰)の仇として工藤祐経を討ち果たした。
「曽我物」では、五郎時致は、箱根権現(箱根神社)の稚児の頃、父の仇工藤祐経と会うが、討ち果たすことが出来ず、祐経の人形を作って調伏したと描かれている。また、兄祐成は、弟時致の元服を箱根権現の別当行実に願い出たと描かれている。
曽我神社前の兄弟杉 曽我兄弟が仇討ちを決行したのは、源頼朝が富士裾野で行った巻狩りのとき、兄祐成は仁田忠常に討たれ討死し、弟時致は御所五郎丸に捕らえられ、後に処刑されたと伝えられている。
階段の途中にある曽我神社、参拝
箱根神社は、九頭龍神社 ( 九頭竜伝承の九頭龍を祀る。)、 伊豆山神社の 源頼朝二社詣(伊豆山神社・箱根神社)、 三島大社 源頼朝三社詣(伊豆山神社・箱根神社・三島大社)、
本殿
「矢立てスギ」は、有名。樹高35m、幹周6m、樹齢1200年以上、 坂上田村麻呂、源頼義が表矢を献納したと伝えられている。
杉の古木が多い箱根神社の中でも、ひときわ目立つ巨木。(県名木100選)
芦ノ湖から神木が。
古神木
約40万年前に第一期火山活動が始まり、やく2700mに達する成層火山となった。噴火を重ね東西やく8km・南北約12kmのカルデラが
形成され、それを取り巻くのが、外輪山・明星が岳(924)・明神が岳(1169)・乙女峠・長尾峠・大観山(1011)の尾根を形成している。
1680年箱根旧街道、箱根道が石畳で開通している。元箱根~湯本茶屋、畑宿付近、一部現存している。
東海道小田原から箱根宿、三嶋宿(箱根八里)険阻な山道であり、交通のみで無く軍事上の要衝として東西を分けていた。
遊覧船 旧箱根道
「県立恩賜箱根公園」は、県立の都市公園(風致公園)。(国の登録記念物)で、ここはかつての函根離宮跡。
1946年に一般開放され、芦ノ湖に突き出た塔ヶ島と呼ばれる半島にあり、離宮を模した展望台からは箱根外輪山や富士山が一望できる。
園内の散策路では、5月にはツツジ、夏から秋にかけてはヤマユリを楽しむことができる。周辺には箱根関所跡や旧東海道杉並木などの観光名所がある。
沿革 1884年に、 宮内庁が塔ヶ島地区の土地を買収、函根離宮の造営開始、 1923年・1930年に、 関東大震災・北伊豆地震により函根離宮倒壊
1946年、 函根離宮跡地が神奈川県に下賜され、同年5月5日に一般開放される。
1979年 - かながわの景勝50選に選定、 2006年、 日本の歴史公園100選(第一次)に選定され、2013年「恩賜箱根公園」として国の登録 記念物に登録された。
主な施設は、湖畔展望館、 中央広場、 弁天の鼻展望台、 塔の鼻広場、 白鳥の池広場、 芦川橋(かながわの橋100選に選定)など。
「箱根八里」曲 滝廉太郎
箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
一夫関に当るや万夫も開くなし、、、。
箱根八里の歌碑
「箱根関」芦ノ湖畔の旧東海道に設置された関所跡は、鎌倉時代にもあったが、1619年徳川幕府により、屏風山と湖の間306間
(556m)柵を設け小田原藩が管理して通行人を取り調べていた。
周囲の山は、要害山として立ち入るキンシであった。
鎌倉時代は、関銭徴収の目的であったと云う。江戸幕府は、特に「鉄砲と出入の女性」を厳しく取り締まった。
箱根関番人
1686年の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。
後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。
侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
芦ノ湖から見た富士山(写真から) 公園から関の道 入口
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。
建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。
関所の中
関所跡は、芦ノ湖畔北西約2km今でも交通の要所、国道1号線を中心にスカイライン、新道、十国峠道路などで峠越えの面影はない。
高さは、849m。
関所を出ると旧道が並行してある
「箱根関所」
1619年、幕府は、全国53か所余りに設けている。その中で中山道木曽福島・碓氷・新居(静岡)そしてここ神奈川県に箱根が重要な関所と考えられていたと云う。特に、鉄砲検査が主であったが、箱根は、「出女」に厳しい関所と云われた。
律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。
富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の為に通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれたと云う。
その後、足柄峠のルートも再開した為、二つの街道が並存している。
「箱根の坂」
室町から戦国への時代の移り変わりを、北条早雲の人生を中心に描いた 司馬遼太郎の「箱根の坂」の舞台。
箱根八里記念碑には、「幾億の跫音が坂に 積もり 吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」と彫られている。
司馬遼太郎記念碑
「乙女峠」から見る富士山
箱根の仙石原に「とめ」という名前の若い女性が住んでいた。
おとめさんと呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなり、この「おとめさん」の逸話から「乙女峠」と呼ぶようになったという伝承が残る。
また、江戸時代になると仙石原には関所が設けられ、通行の際はここでしばしば足止めされた。このことから「御留峠」(おとめとうげ)と呼ばれるようになり、これが「乙女峠」へと変化していったとも云う。
「箱根温泉郷」は、江戸時代の末期に、安藤広重の描いた「箱根七湯図会」がある。箱根には、七つの温泉場が開けていたようだ。
昭和には、十七湯、現在は、二十湯ともいう、箱根の温泉場も増えてきた。
「桃源台」は、小田急箱根ホールディングス傘下交通機関の結節点(ロープウェイ・船・路線バス)である。
港及びバスターミナルと一体的な施設となっている。
湖尻港まで徒歩10分で結んでいる。付近は、集落標識に従うと「湖尻」の集落外になると云う。
桃源台タミナール
芦ノ湖
「箱根」は、神奈川県南西、箱根火山と湯河原火山一帯を云い、
神山(1438m)・駒ヶ岳(1350m)など西麓を指して言うようになる。
ハコは、中国で神仙・ネは、山嶺を意味していると云う。源頼朝が鎌倉の幕府を開いて以来、東西交通の要衝なり、江戸時代は、関東の
西の玄関東口として足柄峠や芦ノ湖畔に関所が設けられた。
相模湾に迫るやく1000mの急崖が交通の生涯であった。その為、小田原宿~箱根宿~三島宿を「箱根八里」と呼んだ。
また、温泉が豊富で我が国代表の湯治客と保養地で賑わった。
「箱根神社」
孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、757年、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。
駒ヶ岳山頂には箱根元宮が1964年に堤康次郎の寄進によって再建され、奥宮として登拝者を集めている。
「吾妻鏡」には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建したと云う。
昭和3年に国幣小社箱根神社に昇格。
一の鳥居 神社入口 林の参道
「文化財」は、 紙本著色箱根権現縁起絵巻、 木造神像2躯(男神坐像、女神坐像)、 木造万巻上人坐像、 赤木柄短刀、 鉄湯釜 2口 1268年銘、1283年銘。
謡曲「曽我物」の舞台となった箱根神社境内には曽我兄弟を祀った「曽我神社」がある。
1193年、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父河津祐通(祐泰)の仇として工藤祐経を討ち果たした。
「曽我物」では、五郎時致は、箱根権現(箱根神社)の稚児の頃、父の仇工藤祐経と会うが、討ち果たすことが出来ず、祐経の人形を作って調伏したと描かれている。また、兄祐成は、弟時致の元服を箱根権現の別当行実に願い出たと描かれている。
曽我神社前の兄弟杉 曽我兄弟が仇討ちを決行したのは、源頼朝が富士裾野で行った巻狩りのとき、兄祐成は仁田忠常に討たれ討死し、弟時致は御所五郎丸に捕らえられ、後に処刑されたと伝えられている。
階段の途中にある曽我神社、参拝
箱根神社は、九頭龍神社 ( 九頭竜伝承の九頭龍を祀る。)、 伊豆山神社の 源頼朝二社詣(伊豆山神社・箱根神社)、 三島大社 源頼朝三社詣(伊豆山神社・箱根神社・三島大社)、
本殿
「矢立てスギ」は、有名。樹高35m、幹周6m、樹齢1200年以上、 坂上田村麻呂、源頼義が表矢を献納したと伝えられている。
杉の古木が多い箱根神社の中でも、ひときわ目立つ巨木。(県名木100選)
芦ノ湖から神木が。
古神木
約40万年前に第一期火山活動が始まり、やく2700mに達する成層火山となった。噴火を重ね東西やく8km・南北約12kmのカルデラが
形成され、それを取り巻くのが、外輪山・明星が岳(924)・明神が岳(1169)・乙女峠・長尾峠・大観山(1011)の尾根を形成している。
1680年箱根旧街道、箱根道が石畳で開通している。元箱根~湯本茶屋、畑宿付近、一部現存している。
東海道小田原から箱根宿、三嶋宿(箱根八里)険阻な山道であり、交通のみで無く軍事上の要衝として東西を分けていた。
遊覧船 旧箱根道
「県立恩賜箱根公園」は、県立の都市公園(風致公園)。(国の登録記念物)で、ここはかつての函根離宮跡。
1946年に一般開放され、芦ノ湖に突き出た塔ヶ島と呼ばれる半島にあり、離宮を模した展望台からは箱根外輪山や富士山が一望できる。
園内の散策路では、5月にはツツジ、夏から秋にかけてはヤマユリを楽しむことができる。周辺には箱根関所跡や旧東海道杉並木などの観光名所がある。
沿革 1884年に、 宮内庁が塔ヶ島地区の土地を買収、函根離宮の造営開始、 1923年・1930年に、 関東大震災・北伊豆地震により函根離宮倒壊
1946年、 函根離宮跡地が神奈川県に下賜され、同年5月5日に一般開放される。
1979年 - かながわの景勝50選に選定、 2006年、 日本の歴史公園100選(第一次)に選定され、2013年「恩賜箱根公園」として国の登録 記念物に登録された。
主な施設は、湖畔展望館、 中央広場、 弁天の鼻展望台、 塔の鼻広場、 白鳥の池広場、 芦川橋(かながわの橋100選に選定)など。
「箱根八里」曲 滝廉太郎
箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
一夫関に当るや万夫も開くなし、、、。
箱根八里の歌碑
「箱根関」芦ノ湖畔の旧東海道に設置された関所跡は、鎌倉時代にもあったが、1619年徳川幕府により、屏風山と湖の間306間
(556m)柵を設け小田原藩が管理して通行人を取り調べていた。
周囲の山は、要害山として立ち入るキンシであった。
鎌倉時代は、関銭徴収の目的であったと云う。江戸幕府は、特に「鉄砲と出入の女性」を厳しく取り締まった。
箱根関番人
1686年の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。
後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。
侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
芦ノ湖から見た富士山(写真から) 公園から関の道 入口
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。
建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。
関所の中
関所跡は、芦ノ湖畔北西約2km今でも交通の要所、国道1号線を中心にスカイライン、新道、十国峠道路などで峠越えの面影はない。
高さは、849m。
関所を出ると旧道が並行してある
「箱根関所」
1619年、幕府は、全国53か所余りに設けている。その中で中山道木曽福島・碓氷・新居(静岡)そしてここ神奈川県に箱根が重要な関所と考えられていたと云う。特に、鉄砲検査が主であったが、箱根は、「出女」に厳しい関所と云われた。