syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

箱根八里は海賊遊覧船で

2018-09-29 | 気まま旅
箱根峠の山道が、東西交通の主要となってくるのは鎌倉時代以降。
律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。
富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の為に通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれたと云う。
その後、足柄峠のルートも再開した為、二つの街道が並存している。

「箱根の坂」
室町から戦国への時代の移り変わりを、北条早雲の人生を中心に描いた 司馬遼太郎の「箱根の坂」の舞台。
箱根八里記念碑には、「幾億の跫音が坂に 積もり 吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」と彫られている。

司馬遼太郎記念碑


「乙女峠」から見る富士山
箱根の仙石原に「とめ」という名前の若い女性が住んでいた。
おとめさんと呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなり、この「おとめさん」の逸話から「乙女峠」と呼ぶようになったという伝承が残る。
また、江戸時代になると仙石原には関所が設けられ、通行の際はここでしばしば足止めされた。このことから「御留峠」(おとめとうげ)と呼ばれるようになり、これが「乙女峠」へと変化していったとも云う。

「箱根温泉郷」は、江戸時代の末期に、安藤広重の描いた「箱根七湯図会」がある。箱根には、七つの温泉場が開けていたようだ。
昭和には、十七湯、現在は、二十湯ともいう、箱根の温泉場も増えてきた。



「桃源台」は、小田急箱根ホールディングス傘下交通機関の結節点(ロープウェイ・船・路線バス)である。
港及びバスターミナルと一体的な施設となっている。
湖尻港まで徒歩10分で結んでいる。付近は、集落標識に従うと「湖尻」の集落外になると云う。

桃源台タミナール


芦ノ湖


















「箱根」は、神奈川県南西、箱根火山と湯河原火山一帯を云い、
神山(1438m)・駒ヶ岳(1350m)など西麓を指して言うようになる。
ハコは、中国で神仙・ネは、山嶺を意味していると云う。源頼朝が鎌倉の幕府を開いて以来、東西交通の要衝なり、江戸時代は、関東の
西の玄関東口として足柄峠や芦ノ湖畔に関所が設けられた。
相模湾に迫るやく1000mの急崖が交通の生涯であった。その為、小田原宿~箱根宿~三島宿を「箱根八里」と呼んだ。
また、温泉が豊富で我が国代表の湯治客と保養地で賑わった。

「箱根神社」
孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、757年、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。
駒ヶ岳山頂には箱根元宮が1964年に堤康次郎の寄進によって再建され、奥宮として登拝者を集めている。

「吾妻鏡」には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建したと云う。
昭和3年に国幣小社箱根神社に昇格。

一の鳥居                神社入口              林の参道
  

「文化財」は、 紙本著色箱根権現縁起絵巻、 木造神像2躯(男神坐像、女神坐像)、 木造万巻上人坐像、 赤木柄短刀、 鉄湯釜 2口 1268年銘、1283年銘。
 
謡曲「曽我物」の舞台となった箱根神社境内には曽我兄弟を祀った「曽我神社」がある。
1193年、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父河津祐通(祐泰)の仇として工藤祐経を討ち果たした。
「曽我物」では、五郎時致は、箱根権現(箱根神社)の稚児の頃、父の仇工藤祐経と会うが、討ち果たすことが出来ず、祐経の人形を作って調伏したと描かれている。また、兄祐成は、弟時致の元服を箱根権現の別当行実に願い出たと描かれている。

曽我神社前の兄弟杉  曽我兄弟が仇討ちを決行したのは、源頼朝が富士裾野で行った巻狩りのとき、兄祐成は仁田忠常に討たれ討死し、弟時致は御所五郎丸に捕らえられ、後に処刑されたと伝えられている。

階段の途中にある曽我神社、参拝
 

箱根神社は、九頭龍神社 ( 九頭竜伝承の九頭龍を祀る。)、 伊豆山神社の 源頼朝二社詣(伊豆山神社・箱根神社)、 三島大社 源頼朝三社詣(伊豆山神社・箱根神社・三島大社)、
                         本殿


「矢立てスギ」は、有名。樹高35m、幹周6m、樹齢1200年以上、 坂上田村麻呂、源頼義が表矢を献納したと伝えられている。
杉の古木が多い箱根神社の中でも、ひときわ目立つ巨木。(県名木100選)

芦ノ湖から神木が。
                         古神木


約40万年前に第一期火山活動が始まり、やく2700mに達する成層火山となった。噴火を重ね東西やく8km・南北約12kmのカルデラが
形成され、それを取り巻くのが、外輪山・明星が岳(924)・明神が岳(1169)・乙女峠・長尾峠・大観山(1011)の尾根を形成している。

1680年箱根旧街道、箱根道が石畳で開通している。元箱根~湯本茶屋、畑宿付近、一部現存している。
東海道小田原から箱根宿、三嶋宿(箱根八里)険阻な山道であり、交通のみで無く軍事上の要衝として東西を分けていた。

遊覧船                    旧箱根道
  

「県立恩賜箱根公園」は、県立の都市公園(風致公園)。(国の登録記念物)で、ここはかつての函根離宮跡。
1946年に一般開放され、芦ノ湖に突き出た塔ヶ島と呼ばれる半島にあり、離宮を模した展望台からは箱根外輪山や富士山が一望できる。
園内の散策路では、5月にはツツジ、夏から秋にかけてはヤマユリを楽しむことができる。周辺には箱根関所跡や旧東海道杉並木などの観光名所がある。

沿革 1884年に、 宮内庁が塔ヶ島地区の土地を買収、函根離宮の造営開始、 1923年・1930年に、 関東大震災・北伊豆地震により函根離宮倒壊
   1946年、 函根離宮跡地が神奈川県に下賜され、同年5月5日に一般開放される。
   1979年 - かながわの景勝50選に選定、 2006年、 日本の歴史公園100選(第一次)に選定され、2013年「恩賜箱根公園」として国の登録   記念物に登録された。

  

主な施設は、湖畔展望館、 中央広場、 弁天の鼻展望台、 塔の鼻広場、 白鳥の池広場、 芦川橋(かながわの橋100選に選定)など。
                       


「箱根八里」曲 滝廉太郎
              箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
                     万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う
                            雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
                                  昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
                                         一夫関に当るや万夫も開くなし、、、。
                        箱根八里の歌碑


「箱根関」芦ノ湖畔の旧東海道に設置された関所跡は、鎌倉時代にもあったが、1619年徳川幕府により、屏風山と湖の間306間
(556m)柵を設け小田原藩が管理して通行人を取り調べていた。
周囲の山は、要害山として立ち入るキンシであった。
鎌倉時代は、関銭徴収の目的であったと云う。江戸幕府は、特に「鉄砲と出入の女性」を厳しく取り締まった。

                          箱根関番人


1686年の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。
後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。
侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。

芦ノ湖から見た富士山(写真から) 公園から関の道           入口
 

箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。
建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。

                    関所の中
 

関所跡は、芦ノ湖畔北西約2km今でも交通の要所、国道1号線を中心にスカイライン、新道、十国峠道路などで峠越えの面影はない。
高さは、849m。
            関所を出ると旧道が並行してある


「箱根関所」
1619年、幕府は、全国53か所余りに設けている。その中で中山道木曽福島・碓氷・新居(静岡)そしてここ神奈川県に箱根が重要な関所と考えられていたと云う。特に、鉄砲検査が主であったが、箱根は、「出女」に厳しい関所と云われた。

日本一の大空中吊り橋 中山峠 三島から箱根へ

2018-09-27 | 気まま旅
                   JR東海道本線「三島駅」マップ

                        南口駅前


           三島神社近くの「お菓子の田子の月」健康茶と大福が




            三島駅北口の三島風穴 富士山から30km以上ある。




           三島駅から「元箱根」行きバス 大吊橋下車


           我が国最長の吊橋空中散歩 全長400m 天候雨












    ロングジップスライド(ロープで滑走)・セグウエイ(乗り物)などがある。


「三島西坂」


「錦田一里塚」
1604年(慶長9年)、日本橋から28里地点に築いた一里塚。静岡県田方郡錦田村(現在の三島市)に所在

一里塚は、日本橋を基点として4㎞ごとに築かれ、旅人の道程の目印としたもので、塚の上にはエノキが植えられた。
錦田一里塚は街道の両側に一対で現存する。

三島宿場手前の「錦田一里塚」


箱根山中腹の「山中城」は、戦国時代の城趾。
史跡1934年指定され、面積約11万8000m2、小田原の出城「北条氏康」の築城。

「北条氏康」 1515-1571 小田原 北条氏三代目。氏綱の長男、扇谷上杉氏・山内上杉氏を武蔵国河越にて破る。古河公方を傀儡とし、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争と同盟を繰り返し領国を拡大させ、税制改革・検地を推進した。
北条綱成(豪将・重臣で氏康の女婿)が、河越城で、扇谷・山内上杉・古河公方大連合軍8万兵に囲まれ、氏家は、援軍途中で退去している。
相手が気を緩めるのを待っていたと云う、夜襲で大連合軍を潰走させている。世にいう日本三大夜戦の一つ。遺言では、武田氏と同盟せよと。

箱根の山は天下の剣 旧東海道


1589年豊臣秀吉軍来攻に供え拡張されたが、1590年小田原攻めで落城した。
豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。
1590年、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。

戦死した兵達を弔うために「宗閑寺」が建立、山中城主であった松田・間宮、豊臣軍の将と、豊臣軍一柳直末らの墓が並んでいる。
    

天下の険として有名な箱根・標高約600mの傾斜地に築城され、もとは甲斐国(山梨県)の武田氏との国境での攻防を考えて築城されたと云われている。
また防御面だけにあらず、北条氏が駿河(静岡県)・甲斐(山梨)方面へ侵攻する際にも重要な意味を持つ拠点は、間違いない。

土塁・堀・井戸などが当時を忍ばせている
    

他の城とは明らかに違って特徴的な部分は、幹線道路(東海道・現国道1号線)を取り込む形で縄張りをとっている点で、今現在も国道が通っていることからお分かりの通り、この幹線道路を通過する=山中城を突破しなければいけない仕組みになっている所。

    

秀吉軍の関東侵攻も時間の問題となりつつある1587年に、豊臣軍が小田原征伐へとやってくる直前にかけて大改修が行われた。

が、山中城の改修工事も完全に終わりきっていない、天正18年に豊臣軍と北条との合戦が、山中城ではじまる。

    

関東に一大帝国を築こうとする北条軍、その中で山中城に篭る兵は僅か4・5千程という。一方の豊臣軍は、羽柴秀次を総大将に、徳川家康等の生え抜き武将が陸路・海路を抑えつつ、計7万と云う。

古木が多い。
    

天正18年3月払暁から猛攻撃が開始、多勢に無勢、山中城はあっという間に各郭が攻め落とされ、山中城城主であった松田康長を初め、間宮康俊らが壮絶な戦死を遂げ、僅か半日程で陥落。
しかし大部隊で攻め寄せた秀吉軍も力攻めを強行したが為に、奮戦する山中城兵士に苦戦、大きな損害を出して山中合戦は終了する。

矢立の杉・樹齢600年のカシの木
    

史跡がほぼ完全に発掘・整備・復元され、北条流築城技術を隅々まで見せてくれている。三ノ丸跡には戦死した兵達を弔うために宗閑寺が建立され、山中城主であった松田・間宮、豊臣軍の将と、豊臣軍一柳直末らの墓が並んでいる。

岱崎出丸と畝堀(復元)                             障子堀が、
    

石畳の道以降は、山中城址公園駐車場前の蕎麦屋。その少し先にある茶屋竹屋(現在では鰻屋さん)その先の接待茶屋は、閉店。
現在では店の跡も無い。

富士山の湧水の柿田川公園 頼朝以来の三嶋大社 

2018-09-24 | 気まま旅
県東部、駿東郡清水町に入る。西に沼津・東が三島で、街中央に富士山の大小10ヶ所に自爆湧水の柿田川がある。町名も湧水に由来する。
戦国時代は泉頭・徳倉の2城が置かれ、北条と武田の激戦地になっている。
三島市の発展で清水町もその延長部分となっている。
今は、工場が多く、沼津の卸商団地、徳倉団地とベッドタウン化している。 

「白隠の遺墨」が、白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、分かりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(数か月前渋谷文化村で白隠の水墨画の展示を掲載した。沼津-吉原の中間原町を予定しています)

    

金龍山「玉井禅寺」禅画、東海道田子の浦「白隠禅師」の関係寺という。

達磨の禅画は、世界に知られている。


昭和50年代まで荒廃に任せるままであったがという。昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。 元亀2年(1571年)創建という古寺。

宝池寺一里塚


「市内の一里塚」

宝池寺一里塚は、向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれ、江戸日本橋から29番目に当たり、昭和60年復原。
宝池寺側には立場があり人夫が駕籠など留めて休息できる場であったと伝えられている。

玉井寺一里塚は、1604年、江戸幕府が交通政策上の重要施策として、四キロメートル(一里)毎に道路の両側へ、高さ1メートル、9メートル平方の塚を築き、上に榎(えのき)を植えさせた当時の里程標の一つ。
一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。
こちらは原形を改修してあるという。

    

「柿田川公園」は、昭和61年、「自然の保護・保全」と「コミュニティー広場の確保」を目的に町民の憩いの場として柿田川の上流部に開園
園内の第1・第2展望台からは、年中変わることなく水が湧き出る「わき間」を見ることができ、湧水広場では実際に水に足を入れて湧き水の冷たさを体験できるので、子供・家族連れが多い。
国指定天然記念物の柿田川を眺めながら散策できる遊歩道が整備されている。

富士山の湧水が滾々と


東洋一の大湧水群が湧き出る様子が見られる、-柿田川湧水群-。富士山の雪解け水が、長い年月を経て、ここ柿田川に涌き出ます。



柿田川の日100万トンの水量すべてが湧水、公園内は、貴重な動植物の生息地として知られ、約35万人の飲料水として利用されている。
ミネラルウォーターが水道から出てくる、日本有数のすばらしい地下水。

公園内の「貴船神社」
  

柿田川は、延長ー1.2 km短く、合流先は、狩野川へ。県駿東郡清水町を流れる狩野川水系の一級河川。約1.2kmは、日本で最も短い一級河川である。
かつては泉川、周辺地域は、泉郷と呼ばれていた。大量の湧水を水源とする日本でも稀有な川である。
本河川は、長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられている。
1985年(昭和60年)柿田川湧水群として名水百選に選定された。
さらに国の天然記念物にも「地質鉱物」の枠で指定、これは民間の企画であるが、日本の秘境100選にも選定。

雑木林には、いろいろな昆虫              夏になると涌出水が増すと聞く
    

「駿河志科」(1861)によると、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから「カキダ」といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記している。

    

「水生生物」は、安定した水温と水量が保たれているため生物にもその影響が現れている。
沈水植物には珍しい種類があり、春秋に水中や水面に淡黄色の梅花に似たミシマバイカモのほか、多年草のセキショウモ、フサモ、ヤナギモ等である。魚類は流域によって種類が変わり、清流ではウキゴリ、カジカ、アユ、アマゴ、濁りの在る所ではウグイ、ヘラブナ、アブラハヤ等が生息。
川底にはヌマエビ、スジエビ、テナガエビ、モズクガニ等の甲殻類が生息している(清水町調べ、1981)。



公園は、国道1号線沿いにある。一歩中に入ると、公園としても、芝生が広がる広場、園内に引かれた水遊び用の水路、2つの大きな湧水群と、きれいな水と空気の中をあるく遊歩道が続く。 遊歩道を歩きながら、小規模の湧水が、



「柿田川」は、清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。
流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。
清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っている。当河川特有の水中植物としてミシマバイカモが自生している。
豊富な湧水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状態になった。
1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動が始まり、工場の移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が残されたという。

柿田川


柿田川脇に、1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経 二百萬遍供養塔」がある。
左右三基の石碑を合わせて「柿田川三石碑」と呼んでいると云う。
架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、地震、水害などで犠牲者が出たのであろう、その供養塔であろう。

柿田橋から
    

キリン協和・東レ・東芝・森永・横浜ゴム等の企業の三島工場がある。
県東部に位置する三島市は、伊豆半島の基部にあたる。三島大社市内中央に、箱根連山の西側斜面で、西部は愛鷹山の東部斜面で、東に境川、西に黄瀬川が流れている。
古代から伊豆国府が置かれ、行政の中心地であった。

鎌倉時代以降三嶋大社の門前町としてのイメージが強い、江戸に入り下田街道の分岐点として東海道の宿場として栄えた。
箱根越え、伊豆の天領を支配する「三島代官所」が置かれていた。
明治に入り一時衰退しているが、丹那トンネル開通で活況を取り戻した。富士山の伏流水の湧水地が特に多い。「三嶋は水の都」と云われ
富士箱根国立公園の玄関口になる。

法華宗本門流「光長寺」・創建は1276年(建治2年)、日蓮を開山、日春と日法の2名を「同時二祖」としている。鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに法華宗本門流の四大本山の一である。住所沼津。

光長寺・日蓮宗                       山門に大楠木が


「宝物」は、日法作の御影、宗祖日蓮大聖人曼荼羅 5幅・全て山中喜八の『御本尊集目録』に収録されている。 中でも弘安元年11月の28紙継ぎの曼荼羅は、現存する宗祖筆の曼荼羅の中で最大。(2349×1249mm)
日法聖人作宗祖御影、日法聖人彫刻の御影。 「日蓮大聖人御尊像、 彫刻の名手として名高い日法聖人の謹刻。御開眼の後、少しお気に召さぬところがあり鑿を当てたところ清血が流れたと云う、一たび御開眼の後はただの木像ではない、「生きておられる」と驚き疎漏を悔いられ、これを伝え「血流れの祖師」と云うとある。
                       立派な楼門


七百余年の昔、御弟子の訓育に努めておられた宗祖は、かって道中の草庵を結ばれ、熱心な信者もいる岡宮の地に再度の弘教を志され、御弟子日法聖人にこれを託されました。
師の命を承けて法華経を説く日法聖人の法門を弔問した当地の古刹の僧空存は、自らの誤りを悟り日法聖人に帰信し、聖人の御手引きで宗祖の御弟子に加えられ、名を日春と賜りました。
日春日法両聖人は力を合せ里人を教化し、1276年 光長寺を開創、宗祖の命に応えた。

室町時代には学頭日朝聖人が出られ、京都本能寺の日隆聖人と呼応して宗祖の正義を宣揚され、現在の法華宗の礎を築かれ、その後
今川氏徳川氏等も寺領を安堵、教勢は年を逐って充実伸張したと云う。
宗祖直受の法燈連綿七百年、末寺約百を擁し、老杉古松鬱蒼と茂る二万余坪の境内は聖地の趣き深く、全国法華宗徒渇仰の霊場となった。

額に山号「徳長山」の文字        仁王像が             参道


辻之坊山門は、沼津城中庭の門を移築したものと伝えられている。

日朝聖人ご旧跡、日蓮宗総本山身延山久遠寺第11法王で、行学院と号する(1422~1500)、今日の身延山発展の基を造った敏腕家。
優れた学僧でもあって、晩年には、著作活動に全精力を傾注し、一時眼病を患って筆を置くこともあったが、信仰の力で、やがて視力を回復したと云う。「にっちょうさま」と呼ばれて、民衆に崇められ、眼病平癒の神様とうたわれる。

                           本堂


文化財は、重要文化財 宝物集ー巻第一、1287年日春の書写。宮内庁書陵部本と並ぶ「宝物集」の最古写本、登録有形文化財 光長寺御宝蔵
1926年起工した、宝物収納法要堂は、県指定文化財 法門聴聞集等がある。

                           講堂

桜の名所として有名で、春になると多くの人々が訪れる。 
現住は、78世石田日信貫首。関連、 鷲山寺、 本能寺、 本興寺、 門池。光長寺と市仏教会、 南之坊、 西之坊、 東之坊、 辻之坊がある。

                        坊、末寺


「三嶋大社」三島駅南約1Km大宮町に鎮座する。
                        三嶋大社


伊豆国一宮。三島明神とも称した。祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に見られている。

                         本殿


源頼朝以来、幕府や武家に信仰されて保護を受けている。
銅像の神主は、矢田部家が世襲・社家の河合家は、三島暦(地方暦)を発行した。

神木


江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。

天然記念物金木犀                  舞殿              境内


境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?



1月7日「お田打神事」は、鎌倉時代から伝わるー田遊びーで知られている。



「沼津アルプス」とは、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線を地元の愛好会が整備し、名づけたもの。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要という。
高齢者の人気登山、 沼津アルプスは、なんといっても、眺望が素晴らしく、山稜線まで登ると眼下に駿河湾を見下ろし、北には富士山がそびえる。まさに大パノラマ。春は桜、秋は紅葉も楽しめる。

「狩野川」は、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。狩野川のような太平洋側の大河川で北流するものは本川だけである。
これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動によって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる。
一級水系の大河川にしては河口付近でもそれほど川幅が広くならない。これは大支流である黄瀬川が造りだした三島扇状地(黄瀬川扇状地とも)があるためであると云う。また、水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である。

沼津に


「沼津・霊山寺」は、曹洞宗永平寺派の寺。
昔は真言宗の寺院であったが、1748年の火災に遭って寺記をことごとく焼失、創建の年代などは不詳である。
伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものといわれている。
1557年に宗祖の道元禅師より12世の法孫である機外永宜和尚が、伊豆国北条村の真珠院の住職であった時、当寺に招かれて中興開山となったと云う。このために真珠院を本寺とし、曹洞宗に改宗。
塔頭として、光明院・西光院があったが、後者は廃寺となり、前者は平成13年大岡三明寺に移転している。

霊山寺            鐘楼                    本堂


五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて塔、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。
藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明したと云う。本県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは珍しい。県指定有形文化財に指定。
墓地には、内膳堀を造った植田内膳の墓がある。

お地蔵さん


伊豆長岡 韮山の反射炉、日本で初めてパンを作ったなど江川氏の偉業

2018-09-20 | 気まま旅
「浜城」

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年頃、北条水軍の基地として改修したとされる。
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
そして、1590年、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。
築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。



北条早雲は、伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。
道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。
話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。

1512年、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始。
敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。
しかし道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死に。
道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲、、、、。

「駿河湾海戦」武田水軍・北条水軍幾多の海戦。
今川氏が衰退した1560年以降、駿河への侵攻を始めた武田信玄は、駿東をめぐって小田原北条氏と激しく争いました。
駿東は武田氏の手に落ちますが、北条氏も戸倉城(清水町)を前線基地とし、武田方と対峙します。
海のない甲斐の武田氏は駿河を手に入れるために、旧今川水軍から引き継いだ伊丹氏・岡部氏をはじめ、伊勢からは向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れて水軍を組織しました。
1580年には、北条氏と武田氏両水軍による「駿河湾海戦」が起こりす。
静岡県内の武田水軍の城として江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)が知られている。

    

一方北条水軍は、伊勢新九盛時(北条早雲)が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見=くもみ)、松下氏(三津=みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。それに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍や、船大将として熊野から招かれた梶原景宗らを併せて北条水軍が組織されていきました。
駿河湾において武田氏とは何度となく海戦を交えましたが、1582年武田氏滅亡後は豊臣勢の脅威にさらされていきます。
そして1590年、長宗我部元親・九鬼嘉隆・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団がついに下田を取り囲みます。
水軍に力を注いでいた小田原北条氏ですが、この強大な豊臣軍勢にはとても太刀打ちできません。
駿河湾から伊豆へと、豊臣勢は陸と海から北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ小田原へと迫ったのでした。

                     湾内
  

1590年、豊臣勢との決戦態勢のためか、後北条水軍は小田原に集結、水軍が撤収した長浜城には土豪「大川兵庫」が立て籠もったという。
豊臣水軍が迫ると、「大川兵庫」らは抗する術もなく一戦も交えず敗走したと伝えられている。
その後、大川氏は網元として内浦の漁業を支配し、江戸期には韮山代官の小代官をつとめて幕末に至ったという。

無縁墓地                      海岸線から見た城山                     航空写真
    

「光明寺」長浜城の近くの寺、鎌倉の「光明寺」の末寺と思われる。
鎌倉光明寺は、創建年不明、15世紀頃、鎌倉三十三観音18番、 鎌倉二十四地蔵22番、 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉2番。
浄土宗大本山 光明寺、山号を天照山、本尊は阿弥陀如来。
北条経時、開山とある。13世紀〜14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人-1509年によって復興

城山階段                                               光明寺
    

古い供養塔・地蔵・石仏。

        本堂                                お地蔵さん
  

伊豆長岡にある江川邸は代官の屋敷をそのままの形で今に伝え、国から重要文化財に指定されている。建物でとくに目をひくのは、力学的に組まれた屋根裏の構造。
その他日蓮上人の火伏の札が屋根裏のいただきに納められていたり、立木をそのまま利用した生柱などがある。

江川太郎左衛門(坦庵)は、洋学にくわしく、海防の必要性を早くから叫び、沿岸測量、品川台場構築、砲術指南、大砲鋳造、種痘、パン製造など文武両道にたけた人。

  

広い門前


土間とかまど                     木製の扇風機            米などを量るじょうご
    

江川太郎左衛門は、反射炉ばかりでなく、数々の偉業を成し遂げていた。これは、日本で初めてパンを作った彼をたたえた記念碑である。
ユ-モラスな形の碑で、とてもおもしろい。
ほかにも、教育熱心の彼の私塾は後の韮山高校になり、また、種痘にも熱心に取り組んで、住民を天然痘の流行から救ったとのこと。

庭の蔵                              パンの記念碑
  

近くに本立寺                    江川太郎左衛門の像
  

1857年(安政4)、韮山代官だった江川太郎左衛門英龍の進言で建設された鉄製大砲を鋳造するための炉。
1853年(嘉永6)のペリー来航、欧米各国のアジア進出に対抗するため、軍備の近代化を目的として建設された。ほぼ完全な形で残り、管理されているのは全国でもここだけ。

4基の反射炉の外側は伊豆石、煙突部分は3段構造で125段のレンガが積まれ、煙突を含め高さは約16m。内側は耐火レンガのアーチ積み。
天井に熱を反射させて一つに集中し、金属を溶かす構造。ここで鋳造された大砲は品川台場に配備された。

反射炉のそばにはレストラン
   

反射炉

土肥金山から土肥温泉 修善寺物語

2018-09-18 | 気まま旅
静岡県田方郡土肥町・伊豆半島西海岸、駿河湾の臨む、中世期以来の地名、説はいろいろある。
1577年、採掘、1606年、「大久保長安」が幕府の金山奉行に任命。「土肥千軒」と云われたのがこの頃、金産出量が増えていく。
が、1965年閉山した。1680年頃坑道から「温泉」が湧きだした。それを鉱湯と云われた。土肥温泉である。土肥海岸・温泉・金山跡などで
全国に知られた観光地になった。-坑道湧出し平均95℃・硫酸塩泉ー沼津港から船をおススメ。

土肥金山の坑口・土肥金山・土肥鉱山」は、伊豆市の指定史跡。1972年からテーマパークとして一般に公開。
金山は明治から昭和にかけては、佐渡金山に次ぐ日本第2位の産出量があった。1965年に鉱量枯渇のため閉山。
土肥マリン観光株式会社が、観光坑道、鉱夫らの人形で再現、砂金採りの体験も。
金山資料館「黄金館」には、土肥金山に関する資料や鉱石などが展示され、ギネスにも認定された250kgの世界一の巨大金塊などもある。

  第一期黄金時代を明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った。


金山は、1577年発見。幕府直轄の金鉱として採掘した金銀は慶長小判の地金に使われ、1596ー1615年には、繁栄を極め、幕府公許の妓楼が連なり、
土肥港は金塊を運ぶ葵定紋の千石船で賑わったという。
昭和40年廃坑、一部坑道を整備して当時の採掘の様子を見せる観光施設に。

          砂金採りのできる「砂金館」(有料)
  

「丸山城址」
形式ー 山城・丸山スポーツ公園(船溜り)の北半島状に突き出た山に出城と、西から東へ掛けての山に本城がある。
年代ー 戦国時代
城主ー 富永氏 「遺構 郭・土塁・堀切・石積など。
      


明応年間以前より土肥周辺に勢力を持っていた高谷城主、「富永政直」の支城。
1493年、、北条早雲が伊豆へ侵攻を始めると早雲の家来となり領地を安泰される。
その後、富永直勝ー政家と続き、1587年頃の豊臣氏による小田原征伐の動きに対し、「土肥の水軍基地」を守る為に
高谷城と共に改修されたと思われるが、丸山城はその半ばで放棄されたと云う。

  

遺構は、国道脇から出城側へ道を下ると幅10m程の堀切が、出城の山頂部には東西30m、南北50mの平場が見られ、東北側には兵糧貯蔵庫だったと思われる5m四方程の土塁で囲われた郭が残っていると云う。
海に面した北側には六、七段の腰郭が付属など、
出城は、「小田原の役」以前には本城として機能していたが改修により出城として位置付けられた。
物見曲輪が畑となり残っていた。
堀切地形の畑が見られ、郭が案内板に表記されているが畑に、遺構は見られない。

                     丸山スポーツ公園


          土塁と、虎口、兵糧庫の虎口には石積が藪に覆われている。
  

                  国道から見た出城
  

「日蓮宗・妙蔵寺」ー伊豆市八木沢。

境内に七福神が安置・本堂右側の石段の上に「平和の鐘と世界の平和の塔」、塔の石段下、「原爆の少女の像2体を建立」。
広島にて原爆で被爆して白血病になり、12才で死去した故・佐々木禎子さんをモデルにしたブロンズ像。
長崎で被爆した15才で死去した故・林嘉代子さんをモデルにしたブロンズ像が。



  伽藍山(876m)-太平洋展望台・西伊豆ラインの登山道入り口辺りで周りは田圃
    

「日蓮宗・栄源寺」
三十三観音。たくさんの観音像が祀られている。
観音様の御名を唱え、心に念じお参りすれば難病が快癒するのは勿論、交通難など諸難から免れ、、、。

山門は、伊豆市の文化財に指定。観音堂・三十三観音・七観音・非母観音・水子観音・大観音。
  

1471年、池上8世大運阿闍梨日調により改宗された西伊豆で最初の日蓮宗の寺。
  

                    栄源寺ー山門


「伊豆半島」
三島ー沼津ー伊豆長岡ー戸田ー土肥ー賀茂ー西伊豆ー松崎ー南伊豆 駿河湾で、ー下田ー河津ー熱川ー伊東ー熱海ー湯河原に、相模湾で、
中央に韮崎ー大仁ー修善寺ー天城ー河津 狩野川が、

680年では、駿河国に田方、賀茂2郡を割いて1国、律令制では、田方・賀茂・那賀の3郡で国府を三島市鷹部屋、後に長谷に移ったとある。
古来罪人配流の地、源頼朝・日蓮が流された平安時代、駿河守「藤原維景」は、「狩野氏」名乗って、子孫は、伊東・宇佐美・河津氏として栄えて行く。
「伊豆介」として赴任した「平 時方」は、北条・韮山の土着、その子孫が「北条時政」らで「蛭ヶ小島」に流罪の「源頼朝」を擁して鎌倉幕府
の樹立に貢献した。時政の娘が「政子」頼朝亡き後「尼将軍」と称されている。
室町時代に「足利政知」は、田方郡堀越・韮崎町に居を構え、関東支配をめぐって下総の「古河公方」と対立した。
足利政知没後「伊勢新九郎・北条早雲」は、堀越公方を攻め、「韮山」を拠点に伊豆を支配していく。
北条早雲は、小田原に進出して戦国大名「北条氏」の礎を築いた。
近世に入り、伊豆は天領・幕府領となり、三島代官ー韮山代官「江川氏」が支配した。
1792年、ロシア遣日使節「ラクスマン」が根室来航し海防問題が持ち上がり、伊豆は、江戸防備の重要地となり、老中「松平定信」は、「下田」を
開港場となった。韮山に「反射路」が築かれた。
戸田に「洋式帆船」が建造・1868年の明治元年韮山県が置かれ、1876年静岡県に合併、、、。

「狩野城跡」
平安末期の1100年頃、「狩野氏」によって築かれた城の跡。
標高190mの城域には,鎌倉時代に発達した二重堀を備え,本郭・西郭・南郭・中郭・東郭・出丸に区分、中世山城の遺構が,重要な史跡
    

「狩野氏」
平安時代後期の11世紀半ばから室町時代後期の15世紀まで約400年にわたり、狩野地区の領主。
北条早雲が伊豆に攻め込んだときには敵対、後に狩野城を開城して降伏、小田原に移って後北条氏の家臣団の中枢で活躍した。
狩野城は、狩野川と柿木川合流点の南側の丘陵地に、急峻な斜面に囲まれ、深い空堀が各郭を区切るように設け、二重堀。
残っている地名から、戦のない平常時には城内でなく、西側の平坦地に住んでいたものと推測される。
近くには、「法泉寺」の、しだれ桜は天然記念物で、3月下旬には桜まつりも開催、花見客が訪れる。

    

祖・狩野維景が駿河守を退任し,初め,市内日向に館を構えたが,その子「狩野維職」が伊豆押領史を務め、軍事上の必要もあり要害の地を選んで
この地に移ったと云う。
最初の城主は二代維職が三代維次。維景から五代の孫茂光は,その子親光と共に源頼朝に従い,1180年、石橋山の合戦に敗北自刀したが,
子孫は鎌倉,室町両幕府に伊豆を代表する武将として仕えた。
1493年、からの「北条早雲・伊豆侵攻の折,城主狩野道一は足利方に付き戦い,敗れて開城したと云う。
その後一族は小田原に移り,後北条氏の重臣として重職を歴任している。
 
室町時代中頃から絵師として栄えた。狩野派の初代狩野正信は,維景から十六代の孫。
  

「狩野派」は、 親・兄弟などの血族関係を中心とした画家の集団で,江戸時代末期までの およそ400年もの長期間 日本の画壇に君臨し、特異な画家の系列である。
室町幕府の御用絵師となった「狩野正信」を祖として,元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出している。
この狩野家が 狩野城と どのような関係があったかについては,必ずしも明確な説明はない。

  

「一級河川 狩野川」 延長ー46km。
川流域は、火山地帯であり、箱根山・愛鷹山・富士山・天城山・達磨山などの第四紀火山や、新第三紀に形成された火山性地層からなる静浦山地などに囲まれ、流域の多くが脆弱な火山岩及び火山噴出物で地質が構成、大雨などで崩壊しやすいことも洪水の要因であると云う。
名称の由来は、日本書紀によるもので、「応神天皇」5年の274年、「伊豆の国」で船を造り、その名を「枯野」と称したとある。
それが軽野からカヌに変わったという説。伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く関わっていた神社である「軽野神社」が残る。

「宝蔵院」
延暦19年の800年、「弘法大師空海」が開いたのが始まりと伝えられている。
境内にある「いの字石」は空海が宝蔵院の山門前で発見され、法力によって「い」の字を刻んだと伝わるもので古くから無病息災に御利益があると信じられている。
後、1598年、佛山長壽禅師が改めて開山、永平寺(福井県永平寺町)の末寺となっている。
現在の山門は、1659年、に再建、単層切妻、銅板葺(元茅葺)、間口3m、奥行3.1m、彫刻は2代目甚五郎が彫ったものと伝えられ、
(伊豆市指定文化財に指定) 

    
弘法大師の創建と伝わる寺で、その後曹洞宗に改宗。本堂左手に弘法大師の命石といわれる霊石 ”いの字石" が残っている。

1659年、再建の山門に、「狩野元信」の下絵で左甚五郎作と伝えられる竹に虎の彫刻がみられると云う、
甚五郎作の篇額で表が船原山、裏が牡丹も残されている。

                        宝蔵院
    

「土肥温泉・日蓮宗 清雲寺」
小田原北条氏時代の土肥城主富永山城守の菩提寺。
天保三年建立の現今本堂に日蓮聖人一代記を掲額、畳一帖大の杉板(90枚)に岩絵具・貝粉などで描かれている貴重な文化財。日蓮聖人の生涯を描いた板絵額があるお寺として知られている。この90枚の絵を描いたのは浮世絵師の「歌川国秀」氏で、歌川氏が51歳の時に完成させた絵だと云われ、
明治23年、日蓮宗門篤志家の賛助により奉納された。
板絵は90枚にも及び、板の上に和紙を盛り上げて立体感を出すなどの手法を凝らし、肉筆彩色画で、大型の額の中でも傑出した作品と云う。
建物は、大工の神様として語りつがれる「酒井多次郎 藤原政房」。

(一運斉国秀画伯 作品 明治二十三年掲額)
現在では、その板絵が観光の名所、壮大な寺院内には、位牌堂(富永山城守御位牌・檀家各位の御位牌をお守りし山城守の開運を授かり無病息災を祈る)・七面堂(七十七段の石段を上りつめたところに御堂があり七面天女・鬼子母神女性の守護神・大蓮院(三十番神)

                 日蓮宗ー清雲寺
    

「日蓮聖人一代記 90枚を掲額 浮世絵師 歌川国秀 作」ー市有形文化財ー(本堂内)

日蓮大聖人の一生を知ることができる。


「七面大明神」
七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。
七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったと云う。
山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺「敬慎院」に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。
伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、1297年、九月十九日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。
その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があったと云う。

                          七面大明神
  

県南東部・伊豆半島北・狩野川中流・田方郡修善寺町、空海が806-810年に発見したと伝わる「修善寺温泉」の町。
南北朝期に「足利基氏」に執事職解任された「畠山国清」が立てこもった「修善寺城(小立野)」があった。
1596年頃から「大久保長安」開墾のー瓜生野金山は30年掘削されている。一時衰退した「修善寺紙・立野半紙」室町時代に復活している。

「独鈷の湯」狩野川にある露天風呂。
虎渓橋の河原にある。-病気の父を助けようと若者が、持っていた独鈷(鉄銅の仏具の棒)掘り当てた温泉ー弘法大師(空海)にまつわる伝説
空海は、他にも湧水(温泉)で村を救亥救済したとある。-弘法清水・弘法水・弘法井戸・杖立て井戸・お大師水・弘法願水等ー

                狩野川支流桂川の河原にある「独鈷の湯」


温泉街ー風の径ー
竹林の小径から、桂川を望む。ギャラリー等が、小径を抜けると、その先に「赤蛙公園」、遊歩道があり、先に、「源範頼の墓」へと続いている。
径の途中には、配湯所と呼ばれる「貯湯槽」(過去温泉の需要が高まるにつれて、温泉管理が無秩序であった為に源泉の主要含有量が低下したことも)
その後、2つの配湯所を作り、第1配湯所で必要量の温泉を集め、第2配湯所が、

                      竹林の径
   

「修善寺」
山号ー肖盧山、創建は、空海の弟子「杲隣」、真言宗であったが、北条早雲再建し曹洞宗になる。

鎌倉時代、宋の蘭渓道などが修法している
    

1194年源頼朝に幽閉された弟「源 範頼」は、梶原景時に襲われ自刃し、鎌倉2代将軍「頼家」が幽閉・殺害、、、修善寺物語(岡本綺堂)
我が国最古の金銅独鈷・木造大日如来坐像・木造釈迦如来坐像ー重文が安置されている。
    

源頼家 1182-1204 頼朝の長男、 鎌倉2代将軍 北条氏を討とうとしたが破れ、修善寺へ幽閉、三代将軍に実朝となる。若くして破滅した将軍

「指月殿」
伊豆最古の木造建築と言われる指月殿、
北条政子が2代将軍の菩提所として建立した。
指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉。
鎌倉から送られてきた5~6千巻にも及ぶ宋版大蔵経を収める経堂で、大部分の経本は散失してしまい、わずかに「放光般若波羅密経・巻第二十三」だけが残り、巻末には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」という政子の墨書がある。
現在は修善寺の宝物館に保存。
本尊である釈迦如来坐像(県指定文化財)は、蓮の花を持った禅宗式という珍しい形をしており、杉を中心にした寄木造りで高さ203cmもあり、
この種の像としては伊豆最大のもの。
阿吽二体の仁王像は、本尊よりさらに古く藤原時代の作と言われ、修善寺の全盛時には寺門の入口を守っていたとされている。
本尊ともども大変貴重な三体は、昭和57年(1983年)に2年の歳月を掛けて修復。

源頼家の墓と 主君の暗殺の敵討ちを13 士が計画したが、事前にそのことが北条方に漏れ、撃取られた家臣の13士の墓。
    

「源範頼」 兄頼朝に謀反を疑われ不運の武将。
範頼公の墓、源範頼は、源頼朝の異母弟、母は遠江国池田宿の遊女だったといわれている。
1159年の「平治の乱」後、藤原範季に養育されたことから、その一字をとり「範頼」と名乗り、「源平合戦(治承・寿永の乱)」で
源義経とともに頼朝の代官として活躍し、1193年、、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」をきっかけに
失脚してしまう。
「吾妻鏡」、「曽我兄弟の仇討ち」は5月28日に発生。頼朝は無事だったが、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わる。
心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と言ったのだという。しかし、この言動が頼朝から謀叛の疑いをかけられ、8月2日、
範頼は疑いを晴らすため、頼朝に起請文を提出するが、起請文の署名に「源範頼」と記してしまう。
この事に頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」といって激怒し、8月10日には、範頼の家人当麻太郎という者が
頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝室の床下忍び込むという事件が発生した。
ますます立場の悪くなった範頼は、8月17日、伊豆修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時に攻められ自刃したと伝えられている。

                       源 範頼公の墓
    

達磨山東斜面を流下する狩野川・桂川沿いに形成された温泉街で、歴史は古く弘法大師と文学とのゆかりも深い。
我々の新婚旅行は、交通公社の「寿コースの2泊3日、熱海・伊豆一周」で、最後が、修善寺温泉で解散、その当時の賑わいは無い。
岡本綺堂ー修善寺物語ーの舞台でもある。夏目漱石のー修善寺日記の碑もある。



「伊豆国遠流の国」 1160年。
源頼朝が流されたという伊豆国の蛭ヶ小島は、水田の中にあった高地で、蛭が多かったことから付いた名といわれている。
頼朝はここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごしている。


修善寺物語

どうしても満足ゆく面ができない。しかしそれは、彼の技が優れているがため。モデルの死まで予見してしまった名人の物語。

面作り師・夜叉王は、伊豆の修禅寺に押し込められた将軍「源頼家」から顔を写した面を依頼されたが、満足のゆく面ができない。
しかしそれは彼の腕が拙いからではなく、頼家が持つ暗い運命のためであった。
夜叉王の娘・桂も出世を望んで、その運命に巻き込まれてゆく。

1204年秋ー
伊豆の国修善寺村、桂川のほとりに住む面作り師夜叉王の家。
美しく勝ち気な姉娘の桂と、その妹の楓が名産品の紙を砧でたたいて柔らかくしている。桂は面を作る職人の仕事など卑しいもので、「この家で一生を終わりたくない」と言い、仕事に誇りを持っている楓の夫・春彦と言い争う。
父の面作り師・夜叉王が出てきて諍いを止め、春彦に、桂は亡き母に似て気位が高く公家のような気質なのだと言い聞かせる。

頼家の怒りー修禅寺に蟄居させられている鎌倉幕府の二代将軍源頼家が、お忍びで夜叉王を訪ねてくる。
自分の顔を写した面を作ってほしいと頼んだのに、半年以上たってもできないので、気の短い頼家は自ら催促に来たのだ。
「面のできない理由を言え」とせまられた
夜叉王は、「自分の中に力がみなぎって流れるように打つのでなければ面は打てない、いつできるか約束はできない」と答える。
怒った頼家は夜叉王を斬ろうとする。
驚いた桂と楓が父の打った試作の面を差し出すと、その素晴らしいできばえに頼家は満足し、桂のことも気に入って、奉公させることにする。
高貴な人に仕える希望がかなった桂はすすんで供をする。
頼家たちが去ったあと、失敗作を渡してしまったことに耐えられない夜叉王は、今まで作った面をすべて砕こうとする。
だが「一生に一度名作ができれば名人、これからいよいよ立派なものを作ればよい」と泣きながらさとす楓の言葉に黙りこむ。・・・・。

北条の使いとして金窪兵衛行親が現れる。
行親は頼家が桂に「若狭」の名を与えたと聞き、鎌倉に相談もせず勝手な行いだと非難する。
取り合わずに去って行く頼家と桂。
しかし行親のほんとうの目的は、北条方の命令で頼家を暗殺することだった。
たまたま行親の計画を聞いてしまった春彦は、行親たちが去ったのち、あとから来た頼家の家来、下田五郎景安に伝える。
下田五郎は襲ってくる行親の手勢を斬り捨て、夜討ちの企みを修禅寺に伝えるよう、春彦に頼む。

面の真実は、
修禅寺を夜討ちする音が夜叉王の家まで聞こえてくる。
春彦が走って戻り、修禅寺に近づくこともできなかったと報告する。
そこへ桂が先ほどの面をつけ、頼家の身代わりをつとめて重傷を負って戻ってくる。
取りすがって「死ぬな」と泣く楓に、桂は「半時でも将軍に召し出され、名を頂いて満足だ」と告げる。
逃げてきた修禅寺の僧が、頼家が討たれて死んだと告げる。
自分が何度頼家の顔を写そうとしても生きなかったのは、技術が足りなかったからではなく、夜討ちで死ぬ頼家の運命が自然と面の上に現れたからだと覚った夜叉王は、
自分の技に心から満足する。そして死に行く娘・桂の顔をのちの手本にするため、紙に描き写すのだった。

「歌舞伎から」