「相模国・藤沢」-日本橋から48.9km・藤沢宿本陣1、脇本陣1、旅籠屋大10、中15、小20
藤沢は、「遊行寺」の門前町として、歌川広重53次の藤沢は「清浄光寺の遠景が。
鎌倉時代「一遍上人が開いた宗派 時宗ー踊念仏で全国を遊行した遊行寺がある。
時宗の総本山で正しくは、藤沢山無量清浄光寺と云う。大銀杏、怨親平等の碑でも知られ,侠客国定忠治の子分板割浅太郎がこの寺で出家を墓もある」
又、足利義嗣や上杉禅秀らが幕府に叛き鎌倉を襲った、それに対し「足利持氏」が立ち上がった「上杉禅秀の乱」が。
結果は、禅秀らが敗死し、将軍義持は弟義嗣を殺している。遊行寺15代尊恵上人は、敵味方なく傷病兵を収容治療し手厚く弔った。「怨親平等」の碑が。
藤沢は、県南東に位置し、淵の沢の地名が転訛したと云う説が有力。東鎌倉・西茅ヶ崎・南相模湾・北相模台地で南北に広がっている。
東海道と三浦半島の交差点になる。江戸時代から宿場町と市場町として栄えた。
「藤沢」の地名は全国に23あると云う。藤・栃・楠・桑・萩・桜・・の植物の名が多いようだ。
昭和28年の昭和3年、小田急線江の島線開通で、南部の片瀬・鵠沼・江の島が急速に発展した。
片瀬・江の島・鵠沼は海浜、海水浴場・東洋のマイアミと云われる。
「小栗判官と照手姫伝説」
応永の昔(1394~1411)、常陸の国、小栗の城主であった小栗満重は、謀反の恐れありという讒言により、鎌倉公方の足利持氏に攻められ敗れた。小栗は十人の家来と共に商人の姿に身を変えて三河国の一族を頼って逃げる途中、藤沢俣野の横山大膳の館に宿をとった。横山は実は強盗で館には多くの女がおり、その中に照手姫という絶世の遊女がいた。小栗はこの照手姫と懇ろになったため、横山は恨み、必ず人を喰うという鬼鹿毛(おにかげ)という暴れ馬に乗せて殺そうとしたが、小栗は上手く乗りこなし失敗した。そこで毒を入れた酒を飲ませて殺そうとした。照手姫はこの計画を小栗に告げたが、再三勧められ密謀に引っかかって落命、横山は小栗の財宝を奪い、その死体を上野原に捨てた。
ある夜、遊行14代上人の大空上人に、閻魔大王から小栗を助けよという夢のお告げがあった。上野原に行ってみると、土の中から餓鬼の姿となった小栗が這い出して来た。上人は土車(イザリ車、差別語かもしれないが代替語?)に小栗を乗せ、熊野の湯の峰温泉へ湯治に送る。
一方、照手姫は小栗が毒殺されるのを見て逃げ出したが、追っ手に捕まり、武蔵金沢の侍従川に棄てられる。六浦の漁師に助けられたが、嫉妬深い漁師の妻に松葉でいぶされ、挙句の果てに人買いに売られ美濃国、青墓の宿場で働く。照手姫は小栗とも知らずに小栗の車を引いた。
その後、元気になった小栗は横山を処刑し、照手姫を妻に迎えた。小栗は報恩のために遊行寺に閻魔堂を建てた。小栗の死後、照手姫は剃髪して長生尼と名乗り小栗と毒殺された家臣の菩提を弔った。
遊行寺の中にある長生院縁起と伝えられる。
江ノ島電鉄の藤沢駅(JRとビルで連結)
二階の遊歩道で
「江ノ島電鉄」
明治33年、創立。明治35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間で開業・43年、藤沢~小町(後に鎌倉と改称)間で全線開業した。
平成22年、全線開通100周年を。
鎌倉駅 ー 和田塚駅ー由比ヶ浜駅ー長谷駅ー極楽寺駅ー稲村ヶ崎駅 ー七里ヶ浜駅ー鎌倉高校前駅ー腰越駅ー江ノ島駅ー湘南海岸公園駅ー藤沢駅
腰越~稲村ケ崎は七里浜を
「江ノ電・江の島駅」ー藤沢市東南部の相模湾沿岸、
江の島への入口に所在、片瀬地区の一部である。
東から西へ順に一丁目、境川を挟んで二丁目、三丁目が置かれる。北で片瀬、東で鎌倉市腰越、南で江の島、北西で鵠沼海岸・鵠沼松が岡と隣接する。
江の島駅
駅前商店街
江の島大橋へ
駅前広場にセーターを着た雀達(売店の叔母さんが編んだセーター)
江の島遊覧船 片道¥400
岩屋
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