syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

金沢城と前田利家

2012-08-31 | 気まま旅
金沢駅前に出た。1898年に北陸本線が金沢まで開通し鉄道網が整備されていった。1919年に金沢ー尾張ー神胡桃の市内電車が開通、その後も小立野―寺町と広げている。
昭和2年、彦三町の大火後都市化の整備が本格化されたが、市街地の坂と橋と金沢七曲と狭く思うように進まなかったようである。
車時代に入り、交通渋滞と昭和38年の「三八豪雪」を経験し、1970年金沢港を開港、海と駅を結び、流通加工拠点の問屋センター、中央卸など設置、
1980年北陸自動車道、名神に繋がり、1992年北陸新幹線工事着工された。

近代的なガラス張の北陸中央駅 金沢


「金沢城跡」は駅から約2km、小立野台地に聳える平山城。1580年一向一揆を攻撃した「佐久間盛政」が尾山御坊跡に築城、1583年利家が金沢に入城後、
高山右近に命じて本格的城郭を建設した。
290年前田氏の居城である。面積27.7ha, 現存石川門、長屋、石垣、堀で、明治以降兵舎として使われ、金沢大学のキャンパスがあった。堀を隔てて兼六園が広がっている。

1546年、空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。
1580年、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用い、1583年賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた「前田利家」が、
入城し、尾山城と改称。
1587年、バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行い、金沢城に改称されたといわれている。
1592年、利家の子、前田利長が再び改造を行い、1602年、天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造している。この頃から金沢城という名称が定着。


歴史を感じる落ち着いたお城の周り
    

平山城で、櫓を多用した構造。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。
本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。
あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。

そのうちのひとつが、「妙立寺」(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀、白鳥堀が存在。
現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。
このうち、いもり堀は復元作業が行われ、2010年に再び水が張られた。


金沢城大手堀  黒門口(裏手になる)
  

天正8年(1580年)、柴田勝家が「金沢御堂」を攻略し、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手。賤ヶ岳の合戦後、前田利家が金沢城主となり、
3代藩主利常による1631年の大火後の造営で現在の城の縄張りがほぼ定まり、約300年間にわたって百万石余を領した前田家歴代の居城とした。

城の見取り図        所々に石垣が            広々とした城公園内           
    

「前田利家」は、父利昌の四男として尾張荒子城に生まれる。1558年 利家は22歳で10才年上の「まつ(芳春院)」を妻にする。
1561年 織田信長は 朝倉孝景(一乗谷城)・浅井長政(小谷城)連合軍と戦い勝利する。信長の命により家督を継ぐ、利家は、凡庸な兄「利久」を超、
仲間は利久をけなし、利家を褒めた。利家は・・・何ぞ其阿順(媚びること)を喜ばんや、と怒ったという。
加賀半国、越中国三郡を加増され、秀吉に臣従し五大老の一人、秀頼の後見役であった。

城の全景                   見晴らし台              大手堀からの城入り口            
    

「存如」は、1396年 本願寺6代巧如の長男として生まれ、1415年 蓮如が生まれる。妾腹だったため6年後母子は本願寺を出る。
その時の形見として渡されたのが”鹿子の御影”(蓮如の幼像)。1436年 巧如に本願寺留守職譲状を与えられる。
1439年 巧如没、本願寺7代法主に。1449年 蓮如と共に北陸に下り教化を行う。1451年 越前国丹生郡に石田山西光寺を建立。
1457年 越前教化の途中没。蓮如が8代法主になる。

「存如廟」
本願寺7代の存如は越前教化の途中西光寺にて死去した。そのため西光寺の近くに廟所が建てられた。しかし江戸時代に金沢城で存如の遺骨と思われるものが
見つかった。そのため本願寺ではこの西光寺廟所と金沢との両方を廟所としている。

お城の近くにある
    

「真宗大谷派」は、 宗旨は親鸞聖人を宗祖とする「浄土真宗」真宗ともいう。真宗大谷派は浄土真宗の教えを奉じている。
本山は「真宗本廟」(京都市)親鸞聖人の廟所、お墓が寺院化した。「東本願寺」「お東さん」と呼ばれている。 本尊は阿弥陀如来。
大谷派は、北陸や東海(静岡を除く)に多い。

宿坊                                  境内                  本殿
    

「尾崎神社」は、金沢城丸の内に、1643年四代藩主前田光高が、徳川家康、前田利常、天照大神を祀る社殿である。権現堂、とも東照宮とも呼ばれた。
1874年 尾崎神社となる。重要文化財に、本殿、厨子、中門、透塀、棟札がある。例祭は6月。

金沢城丸の内鎮座           楼門
    

「尾山神社」は、尾山町に鎮座、旧別格官弊社。

                        拝殿  


祭神は、藩主前田利家・利長・利常。
1873年、卯辰八幡宮(藩の祈祷所)を金谷御殿跡に移動し、尾山神社を創建した。神門は和洋折衷の三層楼門ステンドガラスがはめられている。
東大の役割も兼ねてたと云う。池泉回遊式庭園は、名勝。

金沢市内繁華街片町近く          和洋折衷の神社
    

東門は、桃山風の二の丸唐門を移築されている。重要文化財に蒔絵朱鞘大小刀二口は前田利家遺愛の品。

「母衣」
武士の組織化が進んだ戦国時代、赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を
行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われ、矢を防ぐともいう。

織田信長が馬廻から選抜して使番として用いた黒母衣衆・赤母衣衆や、豊臣秀吉の黄母衣衆などが有名、江戸時代の諸藩の中にも、藤堂家、仙台伊達家など
母衣衆を置く藩があった。信長の母衣衆は地位としては赤母衣衆と黒母衣衆に格差はないものの、「利家記」には戸田勝成が前田利家に「赤母衣は少下、
おぼへもうすきやうに申候」と語っており、メンバー的にも黒母衣衆がやや年上であったと考えられる。

                母衣姿の武将像


神門をくぐると、正面に社殿があり、後方に流造りの本殿。本殿の右手には、摂社・金谷神社。境内の右手には池があり、回遊式庭園になっている。
池の前には、利家公の像と、正室お松の方を刻んだ石碑があった。

神水                 境内                   拝殿
    


、戦国武将・前田利家の正室、「芳春院」
芳春院は、1547年 -1617年 名はまつ。篠原一計の子。母が利家の母の姉である為、利家とは従兄妹関係にあたる。
女性でありながら学問や武芸に通じた女性であった。


整備された日本庭園境内                      力石
    


芳春院の菩提寺は大徳寺。前田利家の妻として、武将時代からの夫を支え、夫亡き後は、みずから人質となる苦労を担いながら、加賀百万石を確立・存続させた。

前田家の兜           利家の妻お松の碑             古木の境内
    

次回は、兼六園など。

羽昨市妙成寺から森山古戦場

2012-08-29 | 気まま旅

輪島―金沢の中間、「羽昨市」へ。市の「羽咋」の地名の由来は、垂仁天皇の皇子磐衝別命がこの辺の領民を苦しめていた怪鳥を退治し、
このとき皇子の連れてきた3匹の犬が怪鳥の羽を食い破ったという伝説がもととなっているとされる。山の「妙成寺」を参拝した。

寺伝、1294年、「日像」は、師命により京都に妙法を布教するため佐渡から七尾へ渡る船中、石動山天平寺の座首満蔵法印「乗微」と法輪を交わし、
満蔵法師は法華経に感銘を受け、石動山に日像を招き、全山の衆徒の前で法華の教えを説いた。
ところが、衆徒は日像の説法に罵言を吐き、暴徒化し二人を襲った。二人は急いで下山し、命からがら滝谷へと逃げ延びた。
日像は鎌倉より携えていた槐の杖を地面に挿し、「この杖より根が生ずるなら、汝この地に法華経の寺を建立すべし」と満蔵法印に言い残して京都に向かった。
まもなく杖より根が生え始めたので、満蔵法印は日乗と名を改め、叔父の滝谷領主柴原法光の助力を得、開山を日像、自らを第二祖として
「妙成寺」を建立した。

1582年、能登国の太守となった前田利家から寺領の寄進を受け、1603年、利家の側室寿福院(三代藩主前田利常の母)の帰依を受け、その菩提寺になるなど
加賀藩前田家から厚い庇護を受け、隆盛を極めた。その後、七堂伽藍が完成し、1631年には、加賀藩3カ国の日蓮宗の総録所(触頭)となった。

山号金栄山  前田家御用大工 坂上親子三代の寺  妙成寺 (重要文化財)
    


重要文化財(建造物)
本堂は、1614年建立。入母屋造、杮葺。棟梁は前田家御用大工「坂上又三郎」。 五重塔 1618年建立、方三間、栩(とち)葺。
祖師堂 1624年建立、安土桃山時代頃の建築と思われる。 経堂 1670年建立。 書院 1659年建立。 鐘楼 1625年建立と伝える、入母屋造。
三光堂 1623年建立と伝える。方五間、単層入母屋造、杮葺。 三十番神堂  1614年建立。三間社流造、杮葺。
二王門 1625年建立。三間一戸楼門、二階建入母屋造、棧瓦葺。
庫裡  1593建立と伝える。桁行九間、梁間五間、一重正面切妻造、杮葺(棧瓦葺だったものを復元)。妙成寺最古の建造物。


浄行堂                   鐘楼               五重塔   
    

重要文化財〈美術工芸品) 山水蒔絵机。 山水蒔絵料紙箱。拝観料¥500、

書院・客殿・祖師堂                             本殿
  


能登国の領主となった前田利家から庇護され、1582年には寺領13俵を寄進、その後も加賀藩3代藩主前田利常が86石、4代光高が34石と加増したことで
寺領121石となり大名に準じる格式を得て寺運が隆盛した。
特に3代藩主利常は生母である寿福院が日蓮宗の宗徒だったこともあり、1618年に五重塔と番神堂を建立し、寿福院が死去するとその菩提寺として定め三光堂、
祖師堂、二王門、鐘楼などが造営された。その後も前田家から庇護され、1631年には加賀藩3カ国(越中・能登・加賀)の日蓮宗の総録所(触頭)となり
境内には七堂伽藍が建ち並ぶ大寺に。

三光堂                                                  彫刻と五重塔
    

「加賀騒動」とは、茶坊主大槻伝蔵は、藩の財政改革のため、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などに尽力した重臣。
確かにこれにより、加賀藩の財政は完全とまではいかないがある程度は持ち直した。しかし、この功績によって伝蔵はいよいよ吉徳の寵愛を受けるようになり、
ほぼ毎年にわたって吉徳から加増を受けるようになる。しかしそれも1745年、吉徳が病死するまでであった。
伝蔵はいわゆる成り上がり者であったため、藩内の保守派や門閥層が伝蔵の出世に嫉妬。さらには厳しい倹約令によってそれまであった既得権を奪われるなど、
保守派にとってはマイナス面が多かったことから、伝蔵は彼らに憎まれていた。

そして1746年、保守派の讒訴によって越中国の五箇山に配流となる。
ところが1748年、突如としてある風聞が加賀藩に流れ出す。吉徳には愛妾・真如院との間に前田利和という息子がいたが、真如院が伝蔵と不義密通して
産んだ子で、実は吉徳の子ではない。そして、伝蔵と真如院が利和を密かに藩主に擁立しようとしている、というものである。
このため、伝蔵は自殺して果て、真如院らも厳しい処罰を受けることとなったのである。この一連の騒動は加賀騒動と呼ばれ、1754年まで続く。

前田家と大槻家のゆかりの墓
    

「国弊大社気多神社」は、社伝、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。
崇神天皇のときに社殿が造営され、奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、「万葉集」に越中国司として赴任した大伴家持が
参詣したときの歌が載っている。「延喜式神名帳」では名神大社に列し、能登国一宮とされ、畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

能登国一宮 気多神社鳥居        境内         神水
    

祭神は、一柱の 大己貴命。

楼門                                    拝殿
    


重要文化財(国指定) 神門、 近世初頭(社伝によれば1584年の建立。切妻造、四脚門。檜皮葺き(以下の社殿もすべて檜皮葺きである)。
拝殿、1653年・1654年、大工・山上善右衛門の作とされる。入母屋造妻入。神門と同時に指定。
本殿、1787年の建立で、三間社(桁行3間、梁行4間)で、類例の少ない両流造である。
摂社白山神社本殿、1787年の建立。三間社で、通常の流造である。
摂社若宮神社本殿、1569年の建立で事代主命が祀られる。一間社流造り。

天然記念物(国指定) 「入らずの森」としての神域で、立ち入りが禁止され奥宮が安置されている。3ヘクタールの広さ中にたぶの木
はじめ、ツバキ、シイ、クスノキ、カラタチなどの常緑広葉樹が密生し、樹齢百年をこえる木が林立している。

末社の「菅原神社」道真公をお祀りしている、

    

「正覚院」は、高野山真言宗、山号 亀鶴蓬菜山、大日如来。寺の創建年代については不詳。気多大社の神宮寺の坊のひとつとして泰澄か開いたと伝えられる。
元は天台宗系の寺院であったが、中世以降真言宗系の寺院となった。
重要文化財は、 木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代後期。像高101cm。もと気多神宮寺講堂の本尊。膝前で定印を結ぶ、阿弥陀像である。
県指定有形文化財は、 絹本著色十二天図、 絹本著色真言八祖像、羽咋市指定有形文化財 銅板打出日輪懸仏等がある。

気多神社の神宮寺 正覚院                            本殿
  


「森山城と古戦場跡」
羽咋郡宝達志水町竹生野の国道を挟んでいる。城主は、土肥親真は上杉謙信に協力、謙信没後は織田信長の家臣となる。
1583年に親真が戦死すると、前田利家の重臣・「奥村永福」が入った。1584年、越中の佐々成政は利家の領地・能登と加賀を分断しようと末森城を攻撃。
落城寸前まで追い詰められるが、利家の援軍により窮地を脱する。その後、一国一城令で廃城となった。現在は県指定文化財。

小山の中央に国道が
    


「奥村 永福」1541年 -1624年は、戦国時代の武将、前田氏の家臣。助十郎、助右衛門、別名は家福と云った。
尾張国に生まれ、奥村氏は代々前田氏に仕えた家系で、永福は前田利家の父利春や、兄の利久にも仕えている。
前田家が1569年織田信長の命により、利家が前田家を継ぐことになった際に荒子城代を務めていた永福は、利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗した。
改めて利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人する。
1573年に織田家が越前侵攻を開始すると帰参する。柴田勝家の与力である利家の家臣として、朝倉氏攻めなど各地で活躍した。
後に加賀国に利家が入った際には、要衝末森城を与えられる。

主君利家が羽柴秀吉に属した1584年に越中国の佐々成政に1万5千の兵で末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、
成政軍を撃退した(末森城の戦い)。
籠城戦の時、永福の妻である安の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。

国道に歩道橋が                   金沢の玄関口
    

次回は金沢へ、

高円寺 東京阿波踊り

2012-08-27 | syu散歩
8/25.26日 17時から20時まで。例年通り高円寺阿波踊りが開催されました。

駅前中央通り演舞場

昭和32年 (1957年) に始まった東京高円寺阿波おどりは今年で56回目。高円寺の街に賑わいを求めて、一つの商店街で始まったこの行事は、
隣接する商店街から周辺町会・自治会にも拡大し、高円寺の街に育まれながら現在では1万人が踊り、100万人の歓声が響く東京の夏を代表する
風物詩といわれるまでに成長して来た。

昨年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は、北関東から東北地方の太平洋岸を中心に甚大な被害をもたらしました。
1年を経た今もなお原発事故や瓦礫の処理など復興の前に立ちはだかる問題が山積し高円寺の街も活況を取り戻せないでいます。

まだまだ残暑厳しい日が続く今日、みな汗まみれとなって踊っています。外国の方たちも浴衣を着て踊っています。



JR高円寺駅から地下鉄東京メトロ新高円寺駅(青梅街道)約1kmが演舞場となっています。


高円寺阿波踊りの蓮協会は1981年17連でしたが、現在は29連と賑やかになりました。
    



                   可愛い子供達の踊り
    

各連の活躍が目立ちます  ひょっとこ連のベテラン踊り手
    

能登半島 外浦/輪島

2012-08-27 | 気まま旅
北陸の旅に戻ります。

七尾の内浦から外浦輪島市に入る、能登半島北岸奥能登の拠点として栄え、輪島塗で全国的に知られている。
市名は、古代の大陸人が「倭島」と呼称していた。古墳時代から奈良時代のかけて文化が伝わり「平 時忠」の能登配流によって畿内文化が、源氏の家人
「長谷川信連」により関東文化が入っていた。中世に入り大屋荘の地で、大屋湊(輪島港)が中心地。現在は、国際観光都市として伸びている。

輪島塗伝統的工芸品の職人業は、日本一の座を譲らない、もう一つ「市」の歴史は古い奈良時代までさかのぼる、4・9の市日には出店数と人出
も多い。
今日は残念ながら休日で一店も出ていなかった。朝市観光施設「海の駅」六銘館で駐車。

輪島の市内           観光案内所とショッピングセンター
    


輪島は、漁業も盛ん、暖流と寒流が交わる沖合の天然礁の好漁場により1年を通じ豊富な魚介類の水揚げに恵まれ、輪島港の水揚げ高は県内一となっている。
輪島港は冬場にはズワイガニの水揚げ量も県内一であり、さらにこのズワイガニの水揚げ量は日本海側の港の中でも有数のものとなっていて冬期の貴重な
観光資源ともなっており、このために遠く関東、関西からも観光客が訪れている。輪島の海女は、日本海のアワビやサザエ、海藻などを伝統的な素潜りの
形態でとる漁で、漁獲も多い。

市内の「馬場崎通り」                                商店が点在している
    


平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠は、平安時代後期の1127年に平時信の子として
京都に生まれ、姉の時子は、平清盛の妻。妹の滋子は後白河天皇の后となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生む。
時忠は、平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから、平家一族の纏め役として実質上の頭領、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れ海の藻屑と消え去った際、
時忠は生きて捕らえられ、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また娘(蕨姫)を義経に献じて身の安全を図り、それで、助命されることになる。

平時忠が流罪になったのは、1185年で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地、時忠は、小舟に乗って、須々(珠洲)の浦の船着き場、その約40日後に
頼朝は、義経追討の院宣を得るのであり、大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっている、
時忠のあとを継いだ時忠の子、時国は平家の子孫ということもあり、牛尾という山の中にしばらく身を潜めていたが、頼朝は義経追捕に躍起で時忠の子孫に
感心がないようであった。時国は、館を構えたといわれ。町野川下流地域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって土豪となり、近隣の村々を統治したとある。

馬場崎通り突き当りが             朝市通りになる、残念ながら本日定休日
    

中世の輪島周辺は、「大屋荘」と呼ばれ、現在の輪島市の河原田川流域から穴水町、能登町の一部を含む広大な荘園であった。
鎌倉時代は、鳳至郡の東保(南志見村を含む)、西保と鹿島郡の穴水保から構成されていたが、のちには「大屋庄十箇村」と言われ、三井保、穴水村、山田村、
光浦、深見浦、鳳至院、西保、東保、南志見村などが含められていた。当時の地名が、およそ800年後の現代にまで受け継がれていることがわかる。

「重蔵神社」は、祭神、天之冬衣命 大國主命、配祀、天忍穗耳命 天津日子根命 天之菩卑能命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理姫命 市杵嶋姫命 田寸津姫命 
表筒男命 中筒男命 底筒男命 建御名方神 豊受大神 事代主命 大山咋神を祀る。能登半島の輪島市内と輪島港の近く、河井町に鎮座している。
輪島市の中心を流れる川の河口部から東になる、249号線に面して境内は南向き。鳥居をくぐると、駐車場になっており、石橋の奥が境内。大きくはないが歴史を感じる。


朝市通りにある輪島の鎮守、重蔵神社         朝の参拝を
    


「要石」のある神社として有名で,社号「重蔵」は、本来は、「へくら」と読むという説があり、輪島の沖に浮かぶ、舳倉島の神を祀ったということらしい。
創祀年代は不詳だが、古社には間違いない。
756年、泰澄により寺院が建立され、以後、神仏習合の社として、十蔵権現あるいは重蔵宮と称され、七堂伽藍の立ち並ぶ、壮大な境内であったという。

神社の裏手は輪島の外浦海岸              荒磯自然遊歩道
  

「曹洞宗大本山・総持寺祖院」は、約700年前栄山禅師が開創、後醍醐天皇の勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場と定めている。全国末寺1600余りに至っている。
明治31年災禍により、七堂伽藍が全焼している。これを機に布教伝導の中心を神奈川鶴見に移している。
境内は、山内約2万坪に焼失を免れた電燈院、慈雲閣、経堂と七堂も建立された。

総持寺祖院総門          拝観受付(有料)
    

「山門」境内中央誇る、総欅造りたかさ17.4m・間口20m・奥行14.4mで、楼上に観音、五百羅漢の古仏を祀っている。畳一枚ほどの「諸嶽山」の扁額は、
「前田利為」公の筆によるもの。


「経堂」は、加賀六代藩主「前田吉徳」公より寄贈された建物。1743年、県重要文化財。文化財は、狩野派初期の「四季花鳥」などある。

経堂                                山門
  

「法堂」正面に開祖栄山禅師、道元禅師を祀っている。栄山禅師の一代記を山形県の名工が親子二代で彫刻している。

「伝燈院」は、貴重な建物、1693年に復元された建築物。

「仏殿」1912年再建、間口20m・奥行16mで正面にご本尊、達磨大師など、工事中であった。加賀の画家岸駒作、花鳥の額。

「香積台」正面に、韋駄天尊安置・僧堂などがある。

仏殿から法堂へ           渡り廊下で
    

「古和秀水」は、總持寺祖院の門前町を流れる鬼屋川の5km上流の深い森林に包まれた丘陵の中に日量約90tリットルの湧水が湧いている。
これは、開祖瑩山紹瑾が竜神の神託により霊水が出ることを教えられたとの伝説が伝わっている。
この由来により、寺及び住民では、この水を仏前の献茶・献湯の聖水として尊び使用されている。
子供には清水大人には酒になったため瑩山が「コワシュウド」と命名したとの伝説がある。

見事な彫刻                   仏様と位牌
  

しゃもじ、己が身は、水をも火をもいといなくすくい上げぐるぞ御佛の慈悲、すりこぎ、己が身を、すり減らしてぞ人の為世の為つくす御佛の慈悲と書かれ、
そこに大きな実物のしゃもじとすりこぎあった。禅宗の厳しさの中の美しさ、境内をめぐって山水古木の樹影の情趣に浸れた。


境内の中央に小川が       法堂の改築工事中                             不動明王像
    

「松尾神社と松尾寺」は、能登の志賀町にある木造の松尾神社本殿は国指定文化財に指定されている。茅葺の拝殿は石川県の重要文化財建造物に指定。
松尾神社は室町時代末期に建立。松尾神社に隣接して松尾寺は、高野山真言宗のお寺で北陸不動36礼所の3番目のお寺。

松尾神社鳥居                       松尾寺
    


神社の創建は、834年に山城国にある松尾大社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。古くから3村(町居村、草木村、日下田村)の惣社として
信仰されてきた。
本殿は室町時代後期の1559年頃に建立されたと推定される建物で、一間社流造、板葺、1704年に改修工事が行われているものの細部の組物や彫刻などが
建立当時の姿を留め、能登地方に残る数少ない中世神社本殿建築の遺構として国指定重要文化財に指定。

 茅葺屋根の拝殿
   

「松尾寺」は、神社の別当寺,石川県指定文化財の銅造懸仏などがある。創建年代は、834年と云われている古寺。

歴史を感じる寺           境内
    

七尾市から輪島市、能登半島の中央志賀町まで来た。この町、かっては繊維工業で栄え、今は、電気機械製造が盛んな地域。北陸電力の志賀原子力発電所がある。


かほく市から金沢へ
  

次回は、如成寺、気多大社方面に向かう。  

富士吉田 白糸の滝 

2012-08-24 | 富士山麓日記
白糸の滝は私の知っている限り、富士山の周囲だけでも3か所。
ここは都留から富士山に向かって139号線を三つ峠付近を右折して坂を登った辺り。
以前からこの道を通る都度行ってみようと思っていた。案内板が判りやすく丁寧に作られている。

滝に近づくとよく整備された細い道の両側に、白や青のあじさいが咲き乱れている。
 

判りやすい案内板


長い長い細い滝、水は少ないが糸のように流れる、高さ150m 巾8m。滝の先はウオーキングコースにもなっている。