syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

古河総合公園 古河の旅ー6

2016-07-31 | 気まま旅

「鎌倉公方」
1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立「観応の擾乱」、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代し、関東管領を補佐役として関東十か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになる。
将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まったと云う。
1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方「足利氏満」が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領(上杉憲春)が諫死したことで断念。
1399年の「応永の乱」に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方「足利満兼」が連合を組み、一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫。
「永享の乱」の際には関東管領(上杉憲実)とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。
1447年に持氏の子ー成氏ーが幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。
後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。
この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けている。古河公方の末裔は江戸時代にも喜連川藩として存続した。

足利義詮ー1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)~1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)
初代ー足利基氏ー1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)~1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)
二代ー足利氏満ー1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)~1398年(応永5年)
三代ー足利満兼ー1398年(応永5年)~1409年(応永16年)
四代ー足利持氏ー1409年(応永16年)~1439年(永享11年) 永享の乱で自刃。これによって鎌倉公方は一時断絶する
五代ー足利成氏ー1449年(宝徳元年)~1455年(康正元年) 1455年下総国古河に移り、古河公方となる
(足利政知ー事実上、鎌倉公方として在職できず、1457年、鎌倉公方として幕府より派遣されるも鎌倉に入れず。伊豆国堀越に留まった・堀越公方)
(足利成氏ー1483年~ 1483年、幕府との和睦(都鄙合体)により、政治的に鎌倉公方として復権するが、鎌倉には戻らなかった)

「古河公方」
成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件であった。旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。
一方、関東における戦国時代は、史料が豊富で研究が先行している後北条氏の発展過程を軸として解説されることが多く、後北条氏以前の実態には関心が比較的低かった。しかし、近年の研究により、関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点とする、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになっている。
後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。

古河盆踊り唄ー歌詞
ハァー古河の名所は御雀様よ 拝むその手でアレサヨー盆踊り
ハァー日光街道の松の葉乱れ 枯れて落ちてもアレサヨー二人連れ
ハァー幸手栗橋古河うる身なら 心関宿アレサヨー結城島
    

中央通りも、江戸時代の「古河宿の商家」・明治時代の煉瓦建物など修復されーギャラリーやホールに生まれ変わって観光スポットに。
古河城出城跡の「歴史博物館」・「鷹見泉石屋敷跡」・「文学館ー大正時代の香りが」・「街角美術館ー煉瓦造りの外観建物」・「三和資料館」
「奥原晴湖画室の繍水草堂」・「名木や神社仏閣」・「篆刻美術館ー篆刻家・故生井子華の作品など」が

                  街角美術館付近の路地
    

「永井路子」1925年(大正14年、東京本郷弥生町生まれ)~
直木賞作家の永井路子さんの旧宅を修復し一般公開。

    江戸末期に建てられたもので、約93m2の二階建土蔵造り(作品展示)
    

「妙光寺」 ー日蓮宗・山号ー法興山
旧本山は、大本山法華寺、小西法緑・創建1288年・日胤   馬頭観世音塔(市指定有形民俗文化財)

           葛飾北斎晩年の「七面大明神応現図」がある。
    

「宗願寺」-浄土真宗本願寺派 山号ー足立山・院号ー野田院
創建ー1217年 創建ー西念    明治44年「田中正造」請願所執筆のため宿泊している。
文化財ー木造親鸞上人像(45歳時)作風は室町時代初期ー像高48CM

             霊心僧都の作「阿弥陀如来立像」像高-66CM
    

歴代古河城の祈願所「明観山観音院ー長谷寺」-三長谷(奈良・鎌倉)
長谷観音ー山号明観山ー真言宗豊山派ー葛飾坂東観音霊場の番外札所。
古河公方の「足利成氏」が、古河城の鬼門除けとして、鎌倉長谷寺ー十一面観世音菩薩立像(206.34CM)を勧請し、堂舎を建立したのが起源という。

                本尊ー十一面観音菩薩立像安置
    

                       堂舎


「正定寺」-大手町ー山号・証誠山ー創建 1633年・開山玄哲・開基「土井利勝」
江戸時代初期、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた古河城主「土井利勝」の開いた寺。-土井家歴代の墓所ー
4代将軍家綱の母「お楽の方」供養塔・松尾芭蕉など歴史的文化財に富んでいる。

旧土井家江戸屋敷表門の黒門(市指定)と古河城観音寺曲輪の堀を挟んだ北側に隣接・追手門に近い武家地にある。
「玄哲」は、江戸芝増上寺13世廓山上人の弟子で、土井利勝の招きで下大野町の正定寺の両寺に。

境内面積3700m2で、11代土井利位が再興。
    江戸屋敷の赤門・鐘楼堂・弁天堂・・など江戸土井邸から移築されたという。
    

「浄善寺」ー真宗大谷派ー本尊 阿弥陀如来立像。
本堂左手前大銀杏がある。
                   日光街道沿いに
   

「了正寺」-浄土宗・創建1175年。
                総本山は、知恩院ー本尊 阿弥陀如来
  

「福法寺」ー浄土真宗ー
旧古河城乾門・二の丸御殿入口・左右に曲線をもつ「唐破風造り」

              親鸞上人の弟子正順坊が開基という。
                    
「三峯神社ー羽黒神社境内末社」ー旧日光街道ー
神社は、創立年代不詳。
社記に、1601年、羽黒神社長谷蔵前依り此の地に移轉と共に移遷す。
往昔は、神社の坤の方(南西)に藁葺宮とし奉齋し在るも明暦参年 1657年、に瓦葺宮と改築し1915年、銅葺宮石礎と改め雨覆を築きたり。
社には明暦参年臺原講を創立し秩父三峯に登山し地方講社最初の講とし厥の名高し依って官幣大社月山神社主典東條實氏并講元たる関口榮次郎氏の盡力により大正13年、茨城縣知事次田大三郎殿の縣指令第貮四八六號三峯神社を境内末社に昇格の件許可す。
是れ氏子の繁榮と本講・旺盛は實に神威徳大なる加護なりとす。また、大正13年9月、日本殿銅葺宮石礎雨覆建物木造鳥居は
茨城縣指令建第壹○五号號にて財産登録認可濟なり。
昭和8年、石華表は茨城縣指令建第四五号號にて財産登録認可濟なり。旹于石華表獻納記念・爲め氏名を碑陰に列記すと云爾
昭和8年、「羽黒神社々掌東條實撰文併書」とある。
                                                                                          鳥居と社殿             


「茨城県江戸幕藩石数」
常陸水戸徳川 35万石・土浦土屋氏 9万5千石・笠間牧野氏 8万石・「古河土井氏 7万石」・府中松平氏(石岡)2万石
下館石川氏 2万石・下総結城水野氏 1万8千石・谷田部細川氏 1万6千石・宍戸松平氏(友部)1万石・下妻井上氏 1万石
牛久山口氏 1万石・麻生新庄氏 1万石=12藩 

中世期ー下河辺氏が支配し古河公方足利成氏から5代足利義氏に  近世期ー徳川家康・利根川水運、日光街道、奥州街道ー古河宿場北関東要衝に
外様の谷田部・麻生を除くと、どこも幕府に蜜着する親藩、家門譜代である。
筑波山麓や鹿島など天領・旗本領が多いところである。

「古河総合公園・古河公方公園」-25haの広大自然公園ー
四季折々に美しい花々が咲き誇り、特に、春には、約1500本の桃の花が満開になるという。
古河総合公園は、日本初となる「ユネスコメリナ・メルクーリ国際賞を受賞した。
江戸初期、古河藩主「土井利勝」が、江戸で家臣の子供達に桃の種を白い集めさせて、古河に送って、領民に育てさせのが始まり。
桃の木は、燃料の薪としても役立ったという。-江戸時代を偲ばせる桃林の復活が。

            1975年大賀蓮移植ー千葉市より寄贈                                      


奈良時代の万葉集では、「阿久良我の許我の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに」(巻十四)古河付近に船渡しが。
平安時代「こが」の地名は、文献でも見られ、「吾妻鏡」に源頼朝に叛いた常陸の「志田義広」の軍勢を「下河辺」氏が討ち止めている。
鎌倉時代、御家人「下河辺・行平ー藤原秀郷の子孫」が古河に初めての「城」を築く。
南北朝に入ると「古河」という文字で表記れている。

                      巨木が多い


昭和26年ー大賀一郎博士が、「古代蓮」の実を発掘し発芽させたもので、周辺の土質などから約2千年前のものと推定されていると云う。
「おおがはす」は、博士の名にちなんだという。花見頃ー6月末~7月。

                   25haの公園内


「富士見塚」を中心に御所沼・花菖蒲・大賀蓮・矢口、源平、菊桃減郷・茶畑家・萩が植栽されている。


「古河公方足利成氏」の鴻ノ巣御所、1590年、秀吉小田原北条氏を降し関東を制した時に、5代足利義氏の娘「うじひめ」が古河城を出てこの館へ
「徳源院跡」-うじひめの院号(徳源院)・臨済宗鎌倉円覚寺の末寺。義氏・氏女・義親の墓が。
「旧中山家住宅」-坂東市の中山氏より寄贈佐多建築物・1674年頃と推定される。

「旧飛田家住宅」-農家の最も古い建築物・1800年頃
                    茨城県指定文化財


          歴史と伝統が息づく「古河」貴重な史跡が保存されている。


          御所沼に囲まれた公方様の森と館跡・旧家が並ぶ。


古河市は、利根川・渡良瀬川・東武日光線・JR東北本線と「谷中湖・渡良瀬遊水池(谷中村廃村)」・日光街道・国道354号線が。

                       御所沼


市祭りー3月の桃祭りから、8月の三尺玉花火・盆踊り・夢行灯・10月の関東ど真ん中祭り・12月の提竿灯竿もみが。
キノコ栽培・観察会・野草園作り・米造り・・自然と文化の再生をー頑張って下さい。


次回は、小山市方面へ。

幻の古河城 古河の旅ー5

2016-07-30 | 気まま旅

茨城県は日本列島のやや中央部、関東地方の北東部の県。
常陸国ー下総国北西・東は太平洋鹿島灘・北は福島・西は栃木ー常陸台地・南は利根川、千葉県・南瀬に埼玉県に接する。
南が低く・北は高く地形で利根川・鬼怒川・小貝川などで沖積低地の霞ケ浦・北浦など沿岸低地の水郷。
「古河市」は、県最西端の埼玉・栃木に接する。

「幻の古河城」
およそ百年前、関東平野幾千万の生活を守る為に着工した渡良瀬川改修工事。
その着工時と竣工時の実測平面図が十数点現存、その中には掘削寸前の古河城や関東大震災で倒壊するレンガ場西窯の姿が。
前回の「永井寺ー(永井氏の菩提寺)」は、渡良瀬川に沿っている。

城郭構造ー平城(平山城)・天守ー御三階櫓(独立式層塔型3層4階 1633年築 非現存)・築城主ー下河辺行平・築城年ー平安時代末(1180年頃)
主な改修者は小笠原秀政、松平康長、土井利勝、主な城主ー足利成氏(古河公方)、土井利勝 ・廃城年ー明治6年。遺構ー一部堀、土塁
(指定文化財・乾門(市指定・建造物)

平安時代末の「源 頼朝」に従った武将「下河辺行平」が古河の立崎(竜崎)に城館を築いた。
正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃、立崎は、「渡良瀬川」とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地。
行平を荘司とする下河辺庄は、茨城県古河市、千葉県野田市、埼玉県幸手市・吉川市・三郷市など、渡良瀬川とその下流の「太日川(今の江戸川)」
に沿って広がっており、河川交通により結ばれていたと云う。
この頃、「以仁王」の挙兵にて敗死した「源 頼政」の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる。
近世古河城では頼政曲輪の「頼政神社」になると云う。行平以後、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に移る。

    

古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つ。
1558年 - 1570年には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援する関白「近衛前久」が滞在した。
その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた。
1567年、から1573-1592年、にかけては、佐竹氏や結城氏らに対抗するため、北条氏照のもとで城の整備・拡充が進められ、1590年、の小田原合戦では、後北条氏の持城として栗橋城・関宿城がみえるが、古河城はみえないことから、最後の古河公方・足利義氏が死去したのちの氏姫期にも、完全には支城化されず、古河足利氏の本拠として別扱いされていたことが分かると云う。(史料にみられるようになる。以前は「古河御陣」が多く用いられている。)
    日本橋ー千住ー草加ー粕壁ー栗橋ー「古河ー小山ー」-宇都宮ー日光(終点)ー奥州街道へ
    

江戸時代は、「日光社参将軍宿城」に。
城主は幕府の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などが。

「土井利勝」 1573-1644 徳川家康の御落胤ー古河藩主・水野信元(家康の伯父)を父とし、土井利昌の養子。
秀忠(6歳年下)の側近「古河16万石」-大老任命、後、家光になり実権は側近達に移る。

「土井利位」 1789-1848 幕閣の重鎮で大老利勝から11代目の古河藩主ー大塩平八郎の乱鎮圧し、水野忠邦と共に「天保の改革」推進
政策の違いで水野忠邦を失脚させ老中首座へ。

「鷹見泉石」ー蘭学者ーから、土井利位は、雪結晶の研究を行い、「雪華図説」-これは、世界的水準の研究と評価されている。
利位は、病気後幕閣から退き、科学の研究に没頭する。



「古河城」の大部分は、渡良瀬川の改修工事によって水没。古河城出城に当たる、「諏訪廓跡」に建てられたのが「古河歴史博物館」。
博物館には、古河藩家老鷹見家の資料を中心に、古河公方の興亡から、近代古河の発展の歴史等が展示されている。

    

「古河市名木古木」
ー楓・100年・樹高19m・幹回り2.10m   谷具香取神社の榎ー幹回り5m
小蓋宮の大欅ー幹回り9m          雀神社の欅幹回り8.8m      東光寺の椎の幹回り6m
雷電神社の椎樹高15.7m・幹回り3.45m・樹齢190年と欅樹高20m・幹回り4.3m・樹齢180年等がある。

          「浄善寺」-銀杏・樹齢330年・樹高22m・幹回り3.60m


江戸時代初期、土井利勝は、江戸家臣の子供達に「桃の種」を拾い集めさせ、古河に送って領民に育てさせたとある。
古河領地には、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれたと云う。
次回の古河公園開園を記念し、桃の木が植えられたという。

(花桃ー矢口・源平・菊桃・寿星桃の4種)

       日光街道沿道の杉並木は、松平正綱が20年間植樹を続けたという。
    

「鷹見泉石」記念館
古河藩藩士の武家屋敷で、泉石晩年住んだ住居跡

                 古河城の余材で建てられたと伝わる。
    

古河コミニティセンターと文学館               出城跡
    

           古河七福神ー福禄寿
    

次回もー古河市(古河公方公園)

岩舟山ー古河の旅 4

2016-07-28 | 気まま旅

足尾山地最南端、日本三大霊山「岩舟山」-標高172.7m-
東北・太平洋沖大地震によって西側140mが崩れた。
江戸時代から始まった「中腹採石・採堀」され、城・神社仏閣の建築で、荒々しく削り取られ、岩肌が露出している。
採石された石は、渡良瀬川を利用して関東各地へ運ばれた。
岩舟人車鉄道が早くから活動し、JR両毛線・私鉄東武鉄道が利用されている。戦後も、ピーク時毎日ダンプ2~300台が出入りしたと云う。
近くに「岩舟石資料館」がある。
                    JR岩舟駅


「岩舟町」-栃木県下都賀郡ー県南部でかって「東山道」が通り、万葉集等の読まれた三毳山東麓付近に「三鴨駅」があったとされる。
岩舟の石は、土止め石垣用として採石が行われたと云う。現在は休止。

                   駅前の案内板             


             霊魂安らかな山と人々の祈りを集めた霊山


「岩舟山・高勝寺」ー天台宗の末寺ー

岩船山は、山全体が一艘の船の形をしており、子供の霊を供養する場所でもあると云う。
一説に、「位牌」が訛って、「岩船」となったとも言われている。
本尊は、子育・子授地蔵としても有名であり、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれている。
享保年間に諸堂の大改修が行われ、1751年、に三重の塔が建立された。
その頃、岩船節といわれる念仏が、関東一円に流行したといわれ、
昭和16~7年頃まであった。
踊り念仏は、その名残といわれている。ー案内看板より。

               宝亀2年770年頃ー弘誓坊明願が開山
    
                       三重の塔


               恐山・大山・岩舟山ー日本三大地蔵
    

                 本尊ー生身地蔵尊(岩舟地蔵尊御和讃)
  

「日本三霊山」
霊山の三大として富士山・白山・立山を束ねた名数で、略して三霊山とも呼ばれ、これとは別に日本三大霊山という名数も存在し、
富士山・白山に加えて立山と御嶽山(長野県の御嶽山)のいずれかを挙げて三大としている。
ここ、栃木県の岩船山を日本三大霊山の1つに入れることもあると云う。
さらにはまた別に、日本三大霊山は、恐山・比叡山・高野山の3霊山を束ねた名数とする例も見られる。
(恐山・白山・立山を束ねた日本三大霊場および、恐山・川原毛地獄・立山を束ねた「日本三大霊地」とは別ものである)。



慈覚大師が修業した「大慈寺」

場所-岩舟町小野寺
737年の天平9年、行基菩薩によって建てられた古刹。
817年の弘仁8年、「最澄」により宝塔(全国6か所に建てたうちの一基)が建てられた。
平安時代随一の学僧といわれる慈覚大師円仁が、9歳から6年間ここで修行。 寺には、指定文化財の相輸とう(そうりんとう)や華鬘(けまん)等
多くの文化財が保存。



岩舟下野は、カタクリの花で知られる、万葉集で詠まれた「三毳山」。
我が国最も古い歌集、奈良時代の終わり頃出来たと考えられている「万葉集」
全部20巻・4540首(大伴家持・万葉集編者~785年・政争の中和歌に潤いを求めた)
下野三毳山2首
下野の三毳山の小楢のすまぐはし児ろは誰が筍たがけ持たむー誰と結婚するのかな。

下野の安蘇の河原は石踏まず空ゆと來ぬよ汝しなつが心の告れー石を踏まずに空を飛んで来ました、貴方の心を云って下さい。
岩船山と両毛線を挟んで向かい側,佐野町と岩船町の境の山が三毳山、安蘇の河原は、旧田沼町・佐野の秋山川であろうと云う。九州防備にあたった
「防人」の歌に下野国出身の防人歌が
旅行に行くと知らずて母父に言申さずて今ぞくやしけー二度と会えない旅に行くと知らず両親に別れの言葉も云えなかったのが悔しい。

                 私鉄東武日光線「静和」駅ー無人
    

私鉄東武線は、平成になって、杉戸ー新鹿沼間開業し、平成15年営団地下鉄「半蔵門線で栗橋から中央林間・19年日比谷線中目黒も直通
都心ー埼玉ー栃木を結ぶ通勤路線と日光・鬼怒川・会津方面の観光路線が結ばれた。
「日光線」は、伊勢崎線内ー東武動物公園(昔の杉戸)-南栗橋ー栃木ー新栃木ー下今市ー東武日光。

                   渡良瀬川


栃木県下都賀郡藤岡町の町名は、渡良瀬川の川辺を意味する「縁丘」が転訛したと云われている。
中世に「冨士氏」から改姓した「藤岡氏」が集落を形成しととある。
近世になり大部分が「古河藩」領で、渡良瀬川の河港・市場町として発展を続けた。

現在は、埼玉・栃木・茨城県が、川を境に別れ、渡良瀬川は、茨城県古河市で「利根川」と合流する。

渡良瀬川
北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川である。流路延長107.6kmは利根川の支流中で、鬼怒川、小貝川に次いで第3位の長さを誇り、流域面積2,621km2は利根川の支流中では最大。


埼玉県加須市大利根町・栃木県下都賀郡藤岡・茨城県古河市(利根川は千葉県銚子市へ)
    

「永井寺」-曹洞宗・龍渓山ー院号大雄院
1626年古河城主「永井直勝」が開基(子永井尚政が父追善供養で建立ー永井家菩提寺
この寺の立地は、古河城観音寺曲輪の堀を挟んだ北側に隣接し、「追手門」に近く、武家地。

「古河城」本丸など中心地は、現、渡良瀬川内になっていたと思われる。

                    本尊ー釈迦如来
    

「文化財」-初代永井直勝の墳墓・宝篋印塔、第二代尚政と第三代尚征、弟の尚庸の供養塔、 林羅山撰文の直勝顕彰碑
小山霞外の墓ー江戸町(中央町)の小山家屋敷にあったが、昭和24年に改葬された。
子の梧岡、孫の遜堂の墓もある。(市指定文化財)ー霞外は幕末に活躍した著名な書家であり、自在な唐様の書風を確立。門人は古河・江戸にて数千人に及んだという。市指定文化財(有形民俗)となっている日光街道道標は霞外の揮毫による。
小高益卿の墓ー土井利厚の時代に、古河藩の藩校である盈科堂で教授を務めた。
絹本着色永井直勝肖像画ー晩年の衣冠束帯姿が描かれている。小牧・長久手の戦いの戦傷により左人差し指を失った姿で、一幅 縦137cm、横82cm。
後陽成天皇口宣案ー1595年、永井直勝が豊臣秀吉の推薦で官位を授けられた時、従五位下と右近大夫おのおのについて、1通ずつ残されている。
永井尚政永井寺定書ー1652年、山城(京都)淀城主となっていた前古河城主・永井尚政が定めた永井寺の規則。
幕府や古河城主の法度に背かないこと、牢人には宿を貸さないことが定められている。
本多忠良寄進状ー1732年、古河城主の本多忠良が実母の墓所を設ける際に、畑5反・白銀25枚を寄進したときのもの。
伊藤・平井寄進状ー1759年、古河城主本多氏の石見国転封の際に、家臣2名が祖母と親の菩提を弔うように畑を永仙院に寄進したときのもの。
永仙院が廃寺になった際に引き継いだと考えられる。
遠藤与五衛門寄進状ー1759年、古河城主本多氏の石見国転封の際に、家臣であった遠藤与五衛門が祖父と父の永代供養料として、畑を永仙院に寄進したときのもので、永仙院が廃寺になった際に引き継いだと考えられる。(以上全て市指定文化財)
文机ー 古河城御三階櫓が取り壊されたとき、その扉を再利用してつくられたと伝わる文机が残されている。

                       本殿


次回は、古河市内へ。

栗田美術館とフラワーパークー古河の旅 3

2016-07-26 | 気まま旅

「藤原宗円」 1086-1159  (宇都宮氏をなのる初代当主)
藤原兼家の次男、兼家は、平安中期「一条天皇」の摂政となり力を持っていた。宗円は、藤原道兼の孫。
「前九年の役」の戦功によりー下野守となる。
栃木県は、縄文早期ー宇都宮市の「大谷寺洞穴遺跡」・石器時代の「葛生町、山菅洞穴」など、遺跡の多い県。
飛鳥時代の那須官衙跡・689年下毛野国成立・741年国分寺・国分尼寺建立・930年「倭名抄」に下野国9郡名記載されている。・940年「藤原秀郷」が
平将門を討っている、、、、1598年「蒲生秀行」会津より宇都宮18万石転封。

JR両毛線「富田」駅を下車
両毛線は、1884年の明治17年高崎ー前橋間開業・1888年小山ー足利間開業・1890年には、前橋ー上野(高崎線)が開通・1968年小山ー前橋間の両毛線
全通で100周年記念行事が行われ、2004年115周年が。

高崎線・新前橋ー前橋ー前橋大島ー駒形ー伊勢崎ー国定ー岩宿ー桐生ー小俣(栃木)-山前ー「足利ー富田ー佐野」ー岩船(次回)-大平下
    栃木ー思川ー小山・東北本線・水戸線。

          JR両毛線「富田」駅下車


「酒の話」
清酒は、2千年前縄文晩期水稲の栽培とともに、我が国独自に発達し、生活の中にとけこんみ育くまれてきた長い歴史を有する日本民族の酒。
昔から、神社・朝廷で造られ、一般庶民はなかなか飲めなかった。
「延喜式」は、(平安初期の朝廷での行事慣例の規程集)ー白貴、黒貴の酒造り方等酒造りが細かく出ていると云う。
奈良町以降寺や民間の専業者により「酒造り」が始まったと云う。江戸時代に入り、寒造り製法が一番すぐれているとして一般に定着します。これは、
秋の実った新米を使って、有害な細菌の少ない好適条件がそろっているからです。
現在は、大手酒造会社は、冷房施設のお蔭で「四季醸造」一年中造りが出来ます。-おいしい酒造りは、温度管理と言えますー

    

立派な2本の煙突が「中村酒造店」家屋は、昔ながらの造り酒屋ですが、酒類販売店の要です。
栃木県蔵元は、10年前まで42家76種銘柄の県でしたが、現在30数家に減少、頑張れ栃木。

            昔ながらの(足利市駒場町)「中村酒造店」
  

「渡良瀬サマーフエスタ」-8月上旬の恒例花火大会があるー

「東陽院」-曹洞宗・禅雲山ー
1597年、足利尊氏より11代後の分家「西原大勘五郎義照公」が、徳川家康公より駒場・多田木の両村を拝領している。
義照は、両親菩提のためにー結城、「長徳院6世・佛照是道大和尚」を拝請して創建された寺。

             「武田勝頼」の娘の墓があると聞く
    

「黒松」昭和57年、市指定天然記念物。

         JR両毛線開通で境内地二分していると云う


「栗田美術館」-世界最大級の陶磁器美術館ー

創設者、「栗田英男」 1912-1996
政治家(元衆議議員)・実業家・肥料商、東京毎夕新聞社主、鉱山経営・美術評論家
中央区日本橋浜町の自宅を改装し1973年「栗田コレクション」公開



伊万里・鍋島の収集に情熱を注いだ。
田中角栄を呼び捨てに出来る数少ない人物と云う。著書ー知らねばならい経済学・・。

1975年地元富田に3万坪の敷地を美術館として開放し、1万点以上あると云う。(無料)
  

四季折々の花が咲き乱れるー花の楽園ー
               「あしかがフラワーパーク」入園料¥1100.


春のバラ5~6月・秋のバラ10~11月「まつり」-400品種2500株が
    

大藤・八重黒龍・大長藤・藤の道・藤ドーム・むらさき藤棚、、。4~5月中旬
  

       藤ーうす紅藤・むらさき、白、きばな・・藤の競演
    

                      大藤棚ー幻想的な夜の藤棚(ライトアップ)


             白藤のトンネルと八重黒龍と大藤棚と「モネの池」
    

レインボーガーデン・ブルーホワイトガーデン・水辺の花・パーブルガーデン園内は、花・花・花
    

住所ー足利市迫間町・電)0284(91)4939 ー入園者は、花と従業員の顔と行動を見ていますー
                     甘い香りの園内


日本初の女性樹木医「塚本こなみ」さん(65歳)静岡県出身
あしかがフラワーパークが経営危機に瀕した際に理事長に就任し。
いまでは年間100万人の集客を誇る人気スポットに再生させた立役者。
塚本さんは、園づくりの真髄をこう語る。
経営に収益分岐点や損益分岐点があるように、私たちの心の中にも、この程度では感動しないという境がある。
きれいと体が震えて涙が出るほど美しくしないと、感動分岐点を超えることはできない。

次回、栃木県下都賀郡・岩舟山へ。

足利市ー古河の旅 2

2016-07-24 | 気まま旅
「金山城」
太田市のシンボル金山。赤松に覆われている秀麗な山。
戦国時代に城が築かれ,金山山頂中心の18.3ha北城、八王子山の砦と大手の士と屋敷など含め全部でー97.8ha。
平成14年国の史跡に指定される。
戦乱の世が反映された実践的な城で、土塁や堀切、石垣や石敷きなどが多用されているのが特徴。
「桜の井戸」
斜面に「桜の井戸」があり、戦国期から、いままでも水をたたえている。

                 戦国時代を見てきた桜の根


                  金山城の全体模型
  

天正12年の1584年、「小田原北条氏」に金山城主「由良国繁」と、その弟で館林城主「長尾顕長」が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されたが、
二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡し、由良氏は桐生城に退いた。
金山城には北条氏の家臣が配置され、1590年、「豊臣秀吉」の小田原攻略に伴い、金山城は廃城となった。

金山山頂中心に97.8haの広さ           城を囲む山塁 実践的砦
  

金山城の中にある「新田神社」は、1875年本丸跡に建てられた神社ー新田義貞公を祀っている。近くに樹齢800年の大欅がある。

月の池跡                       当時が偲ばれる石垣
  


山頂では、貴重な池                    山頂にある 新田神社
  

金山からは、上毛三山、秩父連峰、日光連山などが一望         幾多の戦いに耐えた山城
  

「群馬県太田市から栃木県足利」

足利学校は、以前数回取り上げている。
室町幕府を開いた足利氏の鑁阿寺・足利学校跡は、JR両毛線・足利駅に近い。
足利市は、渡良瀬川の清流や緑なす山並みが、東の小京都と呼ばれ、文化遺産も数多く残されている。
室町時代の始まり(1336~1573年)、室町時代は、現在の栃木県足利市出身の足利尊氏が、指導的立場にあった「後醍醐天皇」を奈良・吉野山中に追放したことに始まる。
これは、後醍醐天皇が確立した建武の新政が朝廷・公家中心であり源平以降築き上げてきた武士の主張に対して冷遇されたために憤慨したのが理由とされる。
追放した後醍醐天皇とは別に京都に同じ天皇家でも系統違いの光明天皇(北朝)を立て、将軍宣下をいただき後に幕府を開いたことから始まる。
「室町」時代の呼び名は、三代将軍「足利義満」が、京都の室町に御所(花の御所)を開いたことによる。

                      足利尊氏立像
    

足利学校は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府。
下野国足利庄五箇郷村(現栃木県足利市)にあったが、明治初期にはほとんど建物があるだけになっており、明治5年の1872年、に廃校になった。
1990年に方丈や庭園が復元され、公開。
今日では足利市の生涯学習・市教育委員会によって管理。

    
 
近代足利の発展に寄与した松村家。
江戸・明治・大正・昭和期の松村家に伝わる調度品や生活用品などが見学できる。
足利出身の横田千之助司法大臣を初めとする政治家・文化人・学者などの資料を紹介している。入館料¥300

足利市の街並み                           松村記念館
  

「鑁阿寺」
正しくは、「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」で、源姓足利氏の居館でもあった。
1196年ー「足利義兼」が開基。
大御堂、一切経堂、鐘楼、多宝塔、本尊大日如来など国の重要文化財がおおい。また市民から「大日様」として親しまれている。
足利一族の発祥の地で、鎌倉時代の武家屋敷としての面影を強く留めている。

              防御のために作られた水堀や土塁が残っている。
        


室町幕府初代将軍、「足利尊氏・高氏」 1305-58 執権北条氏専制強い、源氏再興を考える。
後醍醐天皇に鞍替え倒幕に旗揚げし、六波羅探題を攻め滅ぼす。
鎌倉に進撃した「新田義貞」軍に4歳の嫡男を参加させている。
入京したが北畠軍に敗れ九州へ逃げた。
態勢を立て直し、東上、入京上皇の弟「光明天皇」を即位させ「建武式目」を発し幕府を開く。
尊氏は、争乱の中、病死している。天皇の名「尊治」の尊を賜り「尊氏」と改名。

鑁阿寺山門                       本堂
  

足利義詮 1330-67二代将軍。尊氏の嫡男、幼時から尊氏と参戦していた将軍、足利直義、直冬と共に新田義貞軍と鎌倉幕府を攻めている。
 
  

足利市は、県南西部に位置し、足尾山地南端の渡良瀬川北岸に町が広がっている。
古代から交通の要地で、東山道の宿駅であった。
また「足利銘仙」でも知られている。足利織物の歴史は古く、奈良時代と云われている。
本格的に発展したのは、江戸に入ってからで隣接する桐生と競合したが独自に生産に取り組み、輸出向けに絹織物を出し注目され増産していった。
大正に入り西宮町に県の工業試験場が出来ている。ここから「足利銘仙」を登場させた。

室町幕府将軍 16代15人。(義植が再任)

臨済宗妙心寺派「善徳寺」
足利氏8代目の直系で、室町幕府初代将軍の足利尊氏を開祖、一門の仏満禅師を開山として1368年に創建された名刹。
2002年から03年にかけて、本堂の解体修理が著名な宮大工小川三夫氏によって行われ、同時にご本尊の薬師如来像と、脇侍の日光・月光菩薩像の修理が行われ、善徳寺に隣接する史跡・足利学校本堂修理後に新しく作られた山門解体修理され、善徳寺本堂須弥檀の配置工事と修理も行われた。

                         善徳寺 本殿
  

              「樹覚寺」                       
                           本殿
  


              「法楽寺」

        足利氏三代目、義氏が,1249年に創建。墓所があり、15代目、義政の建立
  


主な足利氏

足利義満 1358-1408 日本国王と称した三代将軍。義詮の長男、南北朝合一し明との貿易、禅宗寺院の統制、文化指導。金閣寺を建てた。

足利義教 1394-1441 独裁的六代将軍。義満の子、嘉吉の乱 自分も殺されると赤松満祐に殺される。

足利義正 1436-90  東山文化を興す八代将軍 応仁の乱が起きる。宗教芸術に没頭、銀閣寺など次々と建てる。

足利義尚 1465-89  義政と日野富子の子九代将軍 跡継ぎ争いと、富子の干渉うるさく学問に。

足利義晴 1511-50  十二代将軍 一向一揆と法華一揆で京を明渡し近江へ。

幕府の終期に尽いては、1573年に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を
織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した。この間の約240年余りを室町時代と呼ぶ。尚、明徳の和約(1392年、北朝と
南朝の統一)迄を南北朝時代、明応の政変(1493年)までであろう。


正義山 法楽寺  1249年(建長元年)に、足利義氏によって建立。

両崖山を主峯として南端の機神山まで・・・北から南に連なる。高さ100メートル前後の山丘の一つ、鏡山の山ふところに
いだかれた山麓にあり、寺の山門は東面している。
即ち、西が高く、東が低くなる山麓の斜面に墓地が作られている。一段下がった境内の南部に鐘楼、東端に山門が建ち、
山門から石階を下りて直線状に参道がつづき、寺の入口の北隅に石標が建っている。

1860年(万延元年)に境内木小屋からの火災により、大門をのこし本堂、庫裡、土蔵までを消失。
1868年(明治元年)に再建 (住僧天忠和尚)、現在の本堂は1983年(昭和58年)に建立 (圓證洋雄和尚

                   京都銀閣寺を模した堂
  

足利義氏
鎌倉時代前期 生誕 1189年・死没 1255年。武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。

義氏は樺崎寺(かばさきでら)を創建した足利義兼の三男で、鑁阿寺(ばんなじ)の一山十二坊(鑁阿寺とその周囲の十二院からなる寺院経営の体制)を整備した人物。

                     足利義氏の墓




足利市の利性院では、閻魔大王の朱塗りの座像(約2m)が有名で、お堂の前に立つと、自動的に「えんまさま」の姿が照らし出される仕組み。
閻魔さまは地蔵菩薩の化身で農閑期にあたるやぶいり(1月・8月の16日)には閻魔様も休みをとり、地獄の門が開くと考えられている。
「閻魔大王祭」には、甘酒・湯茶の接待もある。

足利駅近くにある「利性院閻魔大魔王」
  

次回は、あしかがフラワーパイク・栗田美術館へ。