syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

東郷平八郎と伊東-福禄寿・林泉寺

2015-01-31 | 気まま旅
「伊東温泉・七福神巡り」御利益宜しくお願いします。

中世鎌倉時代以降、水墨画の発達に伴って、禅画の画題で親しまれる布袋和尚(契此)や福禄寿・寿老人も福の神に加えられ、室町中期には、
恵比寿と大黒が一対の神として併せ祀られ、福の神の中心となり、次第に、幾つかの福の神が合祀されるようになる。
禅宗の僧侶が中国の「竹林の七賢」に倣い、半分冗談で作ったのが七福神と言われる。

別の説では、同じく室町時代に「仁王般若経」や「薬師経」にある「七難即滅、七福即生」という言葉に基づき、考え出されたという説もある。
どちらにしても、中世室町後期までに福なる神々が組み合わされてできたのが、「七福神」。
七福神は、瑞祥の象徴とみなされ、広く絵画や彫刻の題材に採られるようになった。なお、七福神の中に、布袋・福禄寿・寿老人という日本ではほとんど七福神意外になじみのない道教系の神々が含まれるのは「中国の知識に偏った禅僧が考えたから」という裏事情によるとの説がある。
となると禅僧の遊びで考えだされ、「七難即滅、七福即生」という言葉との融合で、確立された信仰というところが、本当のところ。

大室山


「福禄寿」。
道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、
封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。
宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。
福禄人とも言われる。

福禄寿を祀る山号ー水東山・林泉寺を参拝する。



「東郷平八郎」 1847-1934 ロシアバルチック艦隊を全滅させたー海軍元帥。
薩摩藩出身、戊辰戦争で、軍艦春日に乗り海戦に参加している。1871年イギリス留学し帰国後海軍中尉任官、日露戦争では連合艦隊司令長官
世界最強のバルチック艦隊を対馬沖で、T 字先鋒で殲滅させ、一躍世界にその名が知られた。
晩年は、ここ伊東で過ごしている。



「三笠・戦艦」
大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。
奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島、初瀬、朝日。1904年からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。
現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。



日露戦争の日本海海戦当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎元帥が晩年を過ごした夫人療養の別荘が、
伊東市渚・松川河口近くの「東郷小路」と呼ばれる露地の中ほどに当時のままの姿で保存され、記念館になっていると云う。


「林泉寺」は、曹洞宗、水東山と号し本尊ー釈迦如来

                    1545年僧「覚隣」改宗・開山


本堂に向かって左に薬師如来像・月光菩薩像を祀る。


           33体観世音・薬師如来は文化年間作で一刀彫と云う(県指定文化財)
    

境内の「藤」は、県指定文化財の樹齢200年余の大木2株ある、つるが境内いっぱいに広げて、5月上旬花で見ごろになると云う。

  

                 いろいろな表情の顔をした石仏
  

次回は、毘沙門天の仏現寺へ。

東京の雪も初めて積りました

2015-01-31 | 諸々日記
東京の雪も初めて積りました。朝からだったので道路は問題なく走っています。電車は大分遅れたりしているようです。
サンデー毎日の我々は会社に行かなければと云う事が無いので気楽です。若い方たちご苦労様です。


キンカンの実が黄色く映えてています。




3mも積もった雪に暮らしている北陸の方々、苦労が想像できます。春が待ち遠しいですね。
         


伊東 三浦按針の船-惠比須神・新井神社

2015-01-29 | 気まま旅

「黒船来航」
1853年に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。
当初、久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。
アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。



産業革命によってアメリカ国内の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。
この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、捕鯨を盛んに行なっていた。
捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行ってたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。
アメリカ海軍の任務の一つとして漂流民の保護があり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を保護するために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利と見ていた。

アメリカの開国要求を受け入れた。
ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村に上陸し日本側から歓待を受け、その後交渉が開始され全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。
その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、嘉永7年5月に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。その後、アメリカ国内は、南北戦争に入る。



「アダムス・三浦按針」 1564-1620 我が国最初に訪れたイギリス人航海士・水先案内人
イギリス、ケント州出身・日本名「三浦按針」-リーフで号で豊後国漂流した。家康に謁見して「250石」を貰い家臣と成る。
江戸は日本橋近くを与えられ、日本女性と結婚、一男一女をもうけた。
知識の広さで家康から厚遇され、伊豆国伊東で、西洋風の船を造り信任を得ている。
外交上の意見を開陳・幾何学・数理学等も講じている。貿易活動も行い、横須賀にアダムスと妻の「按針塚」がある。


「惠比須神」は、日本の神。
七福神の一柱、狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。
神格化された漁業の神としてのクジラのこと。
古くは勇魚ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。
寄り神信仰や漂着神ともいう。



「新井神社」は、伊東港、魚市場を見下ろし、遠く相模湾を望む高台にある神社。祭神は、蛭子神、諏訪神、八幡神の合祀です。


里人の伝承によると、昔新井の東の浜に流れ着いた蛭子さまを、西の浜の漁師が拾い祠を建てお祭りしたところ、その年は豊漁・豊作になったという
故事にならい始まったとされている。

新井神社には、産土祭の神興が別に1基あり、毎年7月15日に「お天王さん」の祭も行われると云う。が、最近は神輿の担ぎ手が減少との事。
明治30年蛭子神社・村内諏訪神社・八幡神社を合祀


            祭典は隔年正月七日俗に伊東の“裸まつり”として、神輿の海上渡御がある。
    
                 大祭・神輿の海上渡御は、平成5年に県無形民俗文化財に指定。


裸の若衆により勇壮に催される。
下帯一本の若衆にかつがれた大神輿が真冬の海に繰り出し、海上安全・大漁・満作・招福を祈願する。
里人の伝承によると、昔新井の東の浜に流れ着いた蛭子さまを、西の浜の漁師が拾い祠を建てお祭りしたところ、その年は豊漁・豊作になったという故事にならい始まったとされています。

新井神社には産土祭の神興が別に1基あり、毎年7月15日に「お天王さん」の祭も行われるそうです

  

次回は、奥野ダムに近い福禄寿ー林泉寺へ。

伊東と頼朝-寿老神・最誓寺

2015-01-27 | 気まま旅

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍、源義朝の嫡男・母は、名古屋熱田大宮藤原季範の娘
父義朝は平清盛に敗れ殺され、頼朝は伊豆に流された。20年の流人生活。治承4年「以仁王」の令旨をうけ、平家打倒の挙兵が、真鶴・石橋山で敗れ
房総へ逃れている。頼朝は、平清盛の異母弟「平家盛」と生き写しで清盛の継母「池禅尼」が清盛に命乞いし助かる。

「伊東氏と頼朝」
「曽我物語」によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と通じ、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。
千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、
娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎[1]に嫁がせた。
さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。
その後の八重姫については、入水自殺したとも、北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、様々に伝えられる。



八重姫と千鶴御前に関する記述は虚構の多い「曽我物語・や軍記物語の源平闘諍録」。
頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ないが、ただし、鎌倉幕府編纂書である「吾妻鏡」の 1180年、条と1182年条に、
1175年、頼朝29歳、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたこと、
挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に因縁があったことは認められている。
伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院がある。伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の「音無神社」
八重姫が千鶴丸を祀ったとされる、ここ「最誓寺」等が。




寿老人は,道教の神仙(神)、中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身とされる。七福神の一柱。
真言(サンスクリット)は、「オン バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)。

酒を好み頭の長い長寿の神とされ、日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入ると云う。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従え、手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。




「最誓寺」山号ー宝珠山・現在曹洞宗・元伊東家の菩提寺
創建は鎌倉時代初期、江間小四郎北条泰時の室である八重姫の発願により開かれたのが始まりと云う。
八重姫は平家の重臣伊東祐親の3女にあたる人物で、源頼朝が当地に配流になっていた際、恋仲となり一子千鶴丸をもうけましたが、その話を聞いた祐親は逆鱗し千鶴丸を松川に沈め平家に忠誠を誓う。

八重姫は北条義時に嫁ぎ千鶴丸の菩提を弔う為、御堂を建立し西成寺と名付け、1596年、には宗銀が曹洞宗に改宗し寺号を最誓寺に改めた。
境内にある伊東家の墓は元々東光寺に建立されていたが、伊東家の衰えと共に寺運も衰退し江戸時代末期には廃寺。
再興され、一族の宝篋印塔や五輪塔などが最誓寺に移された。


    

「北条泰時」 1183-1242 武家法を制定、三代執権(義時の長男)「御成敗式目」制定。「道理」の泰時と云われている。   
           
                          歌ー事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらん 春もしられず




1959年に再建された本堂(入母屋、桟瓦葺、桁行6間、正面1間唐破風向拝付)には本尊である阿弥陀如来像の他、
八重姫が奉納した千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。伊東氏の墓は伊東の歴史を語る貴重なもの。昭和34年、市指定史跡に、
境内にある大ソテツ(推定樹齢600年)も、市指定天然記念物指定。




「ソテツ」(蘇鉄)
学名:Cycas revoluta)は、裸子植物ソテツ科の常緑低木。ソテツ類の中で日本に自生がある唯一の種。
日本の九州南部および南西諸島に分布する。主として海岸近くの岩場に生育する。カナリーヤシ(フェニックス)やワシントンヤシ
(ワシントニアパーム)などと共に、九州・沖縄地方の南国ムードを強調する為の演出として映像素材に用いられることが多いと云う。
名前は、枯れかかったときに鉄クギを打ち込むとよみがえるというのに由来すると考え, 鉄を受けると元気になる(蘇鉄)という伝承があり、茎にクギを打ち込まれていることがよくある。

                     お釈迦様が蓮の一葉に、
    

           往昔、八重姫奉納したと云う地蔵菩薩と本尊阿弥陀如来が寺宝として祀られている
  


「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都の伊勢氏が有力で、名(長氏・新九郎)
駿河国の今川氏から「興国寺城」を貰い、伊豆国に乱入する。「堀越公方」の子「茶々丸」を殺して一国を平定する。
後、大森氏の小田原城を奪う、三浦氏・新井氏を滅ぼし相模国の併合と領地拡大。
大森藤頼を、早雲は「鹿狩りの為、勢子を入れたいと云い変装し夜襲し、一気に攻め奪ってしまう」
農民への租税は「四公六民」は知られている。88才の長生。

樹齢600年以上の「ソテツ」

伊東の輝く朝日-朝光寺

2015-01-25 | 気まま旅

「日蓮」 1222-82 日蓮宗の開祖
日蓮宗の「祖師日蓮の三大法難」の一つ「伊豆法難」の舞台が現在の伊東市。
立正安国論をあらわし、幕府政策を批判し、激しい布教活動で他宗を批判した日蓮が、念仏宗派など他宗の人々や、北条氏の怒りにふれて伊東への流罪を宣告されたのが、1261年のこと。

日蓮は、千葉県安房の生まれ、故郷の「清澄寺」で出家。浄土教を批判し、鎌倉へ出る。そこで「立正安国論」を書く。
このままでは内乱と侵略が起こると云い、「北条時頼」に提出したが無視され、ここ伊東に流された。
許されると、主張を強めたため他宗から憎まれ、新潟・佐渡島へ又、流される。三度警告したが聞かれず、山梨・甲斐国身延へ赴いた。その年の秋
蒙古が来襲した。武蔵国池上(大田区)で没した。
江の島の「竜の口」した所で役人が切ろうと、雷鳴とどろき稲妻が走り、役人の刀が折られ命が助かったと云う。「日像」がその後京都で努力し建武
元年「日蓮宗・妙願寺」が勅願寺と認められた。



「北条時頼」 1227-63 独裁的執権
鎌倉幕府5代執権、前将軍「九条頼経」と側近らが、執権職剥奪の陰謀を知り、一派を処刑している。
時頼は、母「松下禅尼」の教育で倹約者と下級家人を重んじ善政をした人物、客に酒の肴に、味噌を振舞ったと「徒然草」の残っている。



「日蓮宗」の寺。
妙正結社(市八幡野)・朝善寺(市宇佐美)・行蓮寺(市宇佐美)・慈眼寺(市湯川)・佛光寺(市和田)・妙隆寺(市和田)・佛現寺 (市物見が丘)
法船寺(市芝町)・大行寺(市芝町)・妙法寺(市芝町)・廣宣寺(市芝町)・蓮正寺 (市芝町)・蓮慶寺(市川奈)

伊東七福神・大黒天神ー朝光寺・山号海上山(伊東市岡区)を参拝。

文化財として保存される価値のある四万垂木と樹齢200年と言われるつつじの古木


城ケ崎海岸・日蓮上人名刹巡り
仏現寺ー蓮着寺ー海岸ー蓮慶寺ーお岩屋ー4時間コースがある。

1261年、幕府によって伊豆に流された日蓮上人は、川奈の漁師・船守弥三郎によってこの岩屋にかくまわれたと伝わっている。
日蓮は岩屋で約30日間を過ごし、その後伊東へ移ったという。

住職朝光律師が感化され日蓮宗に改宗


「大黒天神・朝光寺ー山号海上山」 日蓮宗
鎌倉末期は、真言宗・松原寺山に創建、宗祖伊豆ご法難、大黒天尊像の朝光律師に与えられ、律師は改宗したと伝わる。1548年妙光院日形が、ここの地に
大黒天を還座動請して、朝光律師の「旧徳讃之国土安穏道場」創立、のち中興23世日義と先住日応によって寺門を一新したと云う。
当時、帝釈天・鬼子母神・七面大明神が祀られていたとも云う。

大黒天は17cmの 素朴な木彫りの像(普段は扉閉められている)


伊豆急行線を境に山よりの七福神は、弁天財の松月院とここ、大黒天神の朝光寺と福禄寿の林泉寺の三寺で、他は海岸寄りに集中している。

    

寺の創建は鎌倉時代末期に開かれたのが始まりと伝えられている。
日蓮宗の開祖日蓮が伊豆伊東へ法難の際、当時の住職「朝光律師」が感化され日蓮宗に改宗している。
伊東七福神の一つ大黒天尊像(像高17cm)は日蓮が与えたものと伝えられる。
寺宝として日蓮上人の十界大曼陀羅を、大黒天が子授け・子育ての守護神であることから合わせて鬼子母神、帝釈天、七面大明神が祀られている。

  

七面大明神が祀られており,七面堂(旧本堂)の垂木が、大変珍しい四方垂木といわれるもので、文化財としても保存されるべき価値のある建物と云う

  

山門を入った右側には樹齢200年といわれるつつじの古木がありますが、花の時期には無数の花が咲き乱れると云う。
    

水難・火難・盗難など災害が除かれ生命財産が守られると云う「伊東温泉・七福神巡り」、風光明媚と文学散歩と泉都と自然で心身ともに健全に。
大黒天神は、大古久とも書く、摩訶(大)迦羅(黒)とも云う。一切衆生に福徳・五穀豊饒・開運徳幸を祈願して。

次回は、寿老神の最誓寺へ。