syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

江戸時代の名残 谷中syu散歩

2012-09-29 | syu散歩


彼岸の墓参りをかねて、久し振りに都内JR日暮里駅下車、西郷隆盛像の上野山、寛永寺の鶯谷、谷中の日暮里とウオーキング。
下町は歩くところ多く、今日はここまでだが、道灌山の西日暮里、飛鳥山の王子と赤羽に続いて行く。

私は、日暮里駅から、下町の荒川一帯の景色を見るのが好きである。坂の下には、作家芥川氏がよく通った羽二重団子と反対に御殿坂の佃煮屋がある。
左の脇に入ると谷中墓地となる。江戸時代は日暮の里で干歩の田圃を見下せりと云われ、高村光太郎は千歩の田圃の面影があったと書いている。
戦後、橋から筑波山が近くに見えたという。佃煮屋の裏に富士見町と云う町名が今でも残っている。

谷中に初音町がある、昔「夜店通り」と云われ、藍染川が不忍池に流れ、蛍がいたとか、春には鶯が鳴くので、「初音」と名が付き、鶯谷駅も同じで、
「関東の鶯は訛りがあっていけない、京都の鶯を取り寄せたりした」と記録が有る。
 


「駅前御殿坂」は、寛永寺輪王寺宮の隠居所が坂の先にあったために御殿坂と呼ばれるようになったと伝わる。
1829年の「御府内備考」に「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とある坂であるが、ただ、根津ではなく根岸だろうと言われる。
 


「谷中名水」・バケツリレー井戸由来碑。
日暮里駅近くにある。昔から深い繋がりによって危機を乗り越えてきた井戸の碑である。1945年東京大空襲で谷中住民隣組188余名がバケツリレーで
猛火からすっくたと云う井戸らしい。




「幸田露伴」第一回文化勲章受賞作家 1867-1947 生まれは、江戸下谷、「風流仏」で文壇に、「五重塔」谷中墓地の五重塔で今は無い。
男性的理想主義とロマンチシズムの特異な作家であった。作家幸田文は娘。

この住まいから五重塔は2~3分にあった。


幸田露伴屋敷跡、今は碑と樹木のみ。


「谷中」は、江戸文化の色濃く残る街、1624~43年に上野寛永寺の子院がここに建立されたのが谷中寺町の始まりで,現在では70数件にも及ぶ寺院が存在、
その後江戸府内再開発によって神田辺りの寺院が谷中に移転し,寺の門前に町屋が形成され,参詣客などによって行楽地となった。
1868年の幕末戦争の時には多くの寺院が焼失され、その後再建、関東大震災でも戦災でも被災が少ない。
今でも、昔ながらの佇まいが残っている、ガイドブックを片手に街をぶらぶらと散策する人が多い。

谷中霊園は、1872年に、旧天王寺境内の一部を官地として、それに天王寺墓地,徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地が始まりである。
東京都の公共墓地として発足し、東京の三大霊園のひとつに数えられている.広さは10万m2,墓地使用者は6000余りあるという。
徳川慶喜は、この墓地で眠っている。


    


「大名時計博物館」は、谷中の中央住宅街にある。江戸時代に大名お抱えの御時計師達が、長い年月をかけて手造りで製作した時計。
製作技術、機構、材質などの優れた「大名時計」は美術工芸品で世界に類のない日本独特の時計。
時刻はヨーロッパで使用された、24時間の定時法の時刻と異なり、大名時計は不定時法を用いた時計で、夜明けから日暮れまでの昼を六等分、
日暮れから夜明けまでの夜を六等分した時刻で表示され、夜明けと日暮れは季節によって時間が変わるため、昼と夜の長さが変わり、
一時(いっとき)の長さが変わる時刻となっている。これらの江戸時代の大名時計を展示した、専門の博物館。庭園も素晴らしい。

  

創立110年伝統校「谷中小学校」は、明治35 谷中真島町・旧高浜小学校で開校。38. 高等科併設。40. 尋常科が6年制、高等科を廃止
大正12. 9. 1 関東大震災 被害僅小 避難者900名収容。一時上野公園仮校舎に収容。11. 新校舎落成 工費 252,056円 。
昭和16 校名を東京市谷中国民学校と改称。18. 校名を東京都谷中国民学校と改称。19. 3学年以上を戦時集団疎開、男子は福島県河沼郡柳津、女子は同県北会津郡東山
20. 3. 4 校舎被爆、講堂、木造校舎焼失。 20.12.20 疎開終了。現在110年の歴史ある伝統校

  

「いせ辰(江戸民芸小物)」は、谷中三崎坂沿いにある江戸小物屋。所狭しと千代紙の絵柄を元にした小物などが並べられている。
団子坂からすぐのところで解り良い。今日も外人さんの客が、和紙に英語で書かれた千代紙に関する薀蓄を織り込んでくれる。風呂敷もある。楽しいお店であった。

「大福帳」は、1864年創業の江戸千代紙の老舗。三崎坂の途中にある。千代紙で作られた羽子板のような看板と、大福帳を形取った看板があった。
浮世絵の手法を用いた多色刷りまであり、江戸時代と同手法の美しい多色木版刷りまである。歌舞伎や歌留多、玩具等を描いたもの等で多種見る事が出来る。


  

地下鉄「千駄木」を出ると「団子坂」、昔、この道を、「藍染川」の名残りでへびのようにクネクネしたまちで、明治末まで、この川でアサリ・シジミが
採れ小魚が釣れたという。
ヘビ道の交差点、その先を右に曲がると指人形が見られる「笑吉」この指人形 面白いらしい。本日休業。

    

露木光明氏の「指人形 笑吉」は、露木さんの手に掛かれば無限に増え続け、目標は五百体(五百羅漢)とか。
人形の購入希望者が増え、評判も上がり、日々てんてこ舞いの状態らしい。

 

身延山 久遠寺

2012-09-27 | 気まま旅
身延山地は、県南西部、富士川河谷西側山地、身延山高さ1153m、富士川、静岡糸魚川、春木川との間で、石英閃緑岩で富士川川の斜面は、地滑りが多い。
身延山を日蓮宗総本山「久遠寺」が占め、寺城も身延山と呼んでいる。本堂裏から奥の院までロープウエイが通じ観光化している。

                      工事中の山門                   門前町
    

鎌倉時代、蓑を着た農夫の形に似ている所から「蓑夫山」と云われ、日蓮入山して「身を延ぶる山」と改名されたという。
町は山林原野で83%を山に占められている。茶栽培、人工造林などが盛ん、シイタケ生産、ゆばが知られている。

立派な楼門                                            参道
    

「久遠寺」は、1274年日蓮が、やまの西谷に草庵が起源で、1281年身延山久遠寺と命名された。
本尊は、大曼荼羅、1882年江戸池上で没し、遺言で墓を身延山西谷草庵北に置くように云い残している。今でも多数の僧坊が建てられている。
1712年時数133に達したという。

久遠寺参拝、287段の石段を登ると左手に五重塔、正面に大本堂で、日蓮宗の聖地である。
総門、三門、本堂、祖師堂、奥の院と続く、広い境内には、樹齢400年の枝垂れ桜が迎えてくれた。

                      287の急な階段
    

佐渡島流罪を許さ蛇日蓮が、「波木井実長公」の招きで身延山に入山し、庵室をかまえた事が起こりとされている。
以来9年に渡り、法華経の読誦と門弟達の指導に努めた日蓮は、1281年身延山に本格的工事をし本堂を建設している。
療養の為、武蔵の国池上で没した。


  

日蓮 1222-82  戦闘的な日蓮宗の開祖、千葉県、安房の生まれ、安房の清澄寺にて出家、浄土教を批判した。
鎌倉で「立正安国論」を書き上げる。北条時頼に提出したが無視され、伊豆へ流された。他宗の僧から憎まれ、佐渡ヶ島へ流された。身延山で蒙古来襲している。
鎌倉竜の口で打ち首時、雷鳴と稲妻が走り命が助かっている。

本堂
  

本堂裏手に身延山山頂を目指すロープウエイで約7分に奥の院「恩親閣」があり、ここからの展望は南アルプス、富士山を望む事が出来る。

                              富士山の見えるロープウエイ
  


日蓮は身延山に草庵をかまえ、法華経読誦の日々を送る、その草庵をとりかこむ山々のうち西方にひときわ高く屏風のようにそびえたっていたのが七面山で、
山頂に近い平坦地に身延山久遠寺に属する敬慎院があり、登詣する人々で賑わい、この敬慎院には、身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられている。
霊山の大自然は、登詣者の苦行にこたえるかのように、眼前に一大パノラマを展開し、七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行くもので苦行を伴い、
その道程が修行の道と云われている。

    

    

「清水市興津町」
風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関と息津駅が置かれた。
この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。
江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、
避寒地として全国的にも知られていた。

東海道本線「興津駅」。清見寺では境内の一部が鉄道敷地として召し上げられ、それによって風致が損なわれた事に対する補償金が支払われたが、
寺の住職はそれを献納したといわれ、その名残で、東京側から見ると興津駅を過ぎた先で、清見寺の総門と本堂の間を東海道本線が横切っているのを見る事ができる。

興津駅                        興津宿
  

鎌倉時代 興津氏が宿の長者として一帯を支配し、南北朝時代から戦国時代まで 1345年-国ごとに安国寺利生塔が建てられ、駿河国の寺は承元寺に定め、
塔は清見寺に建てている。
江戸時代 1601年-宿駅伝馬制度により興津宿駅が制定され、1663年-府中に駿府代官所が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。
承元寺は清見寺領、1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所の支配となる。現在は、海岸線、国道一号線、東海道線と狭い街になっている。

清見寺境内の中を東海道線が走っている
    

次回は、興津宿から清水方面へ。

舟運で栄えた富士川街道

2012-09-26 | 気まま旅
「富士川」は、山梨県北西部を流れる 釜無川を上流とし、県北東部を流れる 笛吹川が甲州盆地で合流され南流して静岡県駿河湾に注ぐ一級河川で
日本三急流の一つ、長さ128km。

「富士川大橋」は、南巨摩郡増穂町と西八代郡市川大門町を結ぶことを目的として、1998年(平成10年)に開通した。
釜無川と笛吹川との合流点よりすぐ南に位置していることから、橋長が606mと富士川に架かる道路橋としては富士川河口付近にある国道1号新富士川橋(1,553m)と
東名高速道路富士川橋(780m)に次いで3番目に長い。

一級河川の富士川に


江戸時代の始めには、いくつもの支流をつくりながら、富士市田子の浦の方向へ曲がり、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していた。
江戸時代、1674年に古郡重高・重政・重年の父子三代が50年以上の月日を費やし、富士川の流れそのものを直線となる現在の場所に変えた。
水田を富士川の洪水被害から守るため、洪水が多発していた場所に遊水地としての機能も持つ全長2.7kmに及ぶ大規模な堤防「雁堤」を完成させ、
「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。

富士川が記録に登場するのは古く、奈良時代に編まれた万葉集、富士山を称えた長歌「高橋虫麻呂の作」に富士川の名がみえる。
長歌には、「富士川と人の渡るも その山(富士山)の水のたぎちぞ」という一節がある。

1959年、台風7号で旧南部町全域堤防決壊22ヶ所、耕地流失冠水50町歩、橋梁流失12ヶ所、道路決壊97ヶ所、山地崩壊58ヶ所、罹災世帯480戸、軽傷16名、
台風は富士川を北上。明治40年以来の大水害で、死者行方不明者80名。
    

「法喜山上沢寺」は、日蓮大聖人が小室からの帰途、法論に負けた善智法印は毒まんじゅうを持ってこの地に日蓮聖人を訪ね、通りかかった白犬が毒まんじゅうを
喰べて死んでしまったことで、善智法印は心から悔悟して弟子となってしまいました。
日蓮大聖人は御自分の犠牲となった白犬をあわれみ、手厚くこれを埋葬し、お持ちになった銀杏の木の杖を立てて供養なさいました。
この銀杏の木はその後、芽が出て生長しましたが、杖がさかさまであったことから、この銀杏の枝は下向きになって聳え立っており、世にさかさま銀杏と
いわれるようになりました。
学術的にはこのさかさま銀杏は本国寺の銀杏と同じで、お葉つき銀杏として、植物学上貴重なものであります。

                   楼門               葉つき銀杏
    

史蹟名勝天然記念物の銀杏の杖は、七百余年の歳月と共にいよいよ茂り栄え、この霊木は枝がみな下に向って垂れさがっている所から古来
さかさいちょう、と一般に呼ばれ、葉は消毒の秘妙符として、尊とばれ、毒消いちょうとも称されている。
お葉つき銀杏の実が、すべて犬の牙の形をしている点でも有名。


本堂                         楼鐘堂                    梅の古木
    


「長栄山本国寺」は、上沢寺と同じ日蓮宗。
開山は最蓮房日浄で、敷地は下山氏あるいは穴山氏の居館跡と伝えられている。境内の「オハツキイチョウ」には日蓮聖人植樹の伝説があり、国指定天然記念物になっている。
県指定文化財の磐、町指定文化財の木鼻獅子などを保有しています。穴山氏館跡は、本国寺及びその周辺が館跡といわれている。
下山は戦国時代には穴山氏の河内領支配の中心地。「下山城址」の碑がある。
本国寺と穴山氏との関係は深く境内にある。


                          山門            楼門    
    

 
銀杏が鈴なり                     本堂                     古木
    

「法城山 長泉寺」は、曹洞宗 龍雲寺末。大永2年3月創立の古寺、開基は済庵首座、開山は澆屋順壑大和尚(龍雲寺3世)である。
本尊は火防将軍地蔵菩薩、甲斐守穴山武将の守護神として愛宕堂に祀られている。古くから河内領の鎮防火災の祈願所として煙火を上げ、旧7月23日に愛宕祭を行ない、
450年の伝統を持ち今は8月16日に行なわれているという。

                                                   弘法大師像
    


「国道52号線」、静岡県静岡市清水区の興津交差点から始まり、山梨県甲府市甲府警察署前交差点までの 100.1 km。
この辺りは、南アルプス、十谷温泉に近く赤石山脈の山と富士川で緑が気持ち良い。


「一宮賀茂神社」鎮座 身延町下山菖蒲沢 小さい神社。御祭神 天津日高彦穂瓊々杵尊。天平勝宝年間・七百五十年代の古い神社。現宮司の始祖「稲葉左近」が
土地の人とはかり創立したと伝えられている。
武田氏並びに穴山氏の尊崇極めて篤く河内領一七社の社頭として一ノ宮と尊称され、往昔葵祭には領内の神主ことごとく神事に奉仕したと伝えられている。
武田氏より三貫五百文地を、徳川氏におよんで同領の朱印地を代々受けている。
穴山氏より勝千代祈祷料として岩間の地に一九八アール寄進されていたが古文書だけ現存し場所は不明。

                     鳥居              拝殿   
    

歴史と落ち着いた境内でした。小高い神社を背に鳥居の向かいの山々の景色は素晴らしい。

          拝殿内                      高台の神社前から
   

次回は、身延山久遠寺へ。

身延町 下部温泉 山 山 

2012-09-23 | 気まま旅
旧上九一色村永泰寺から長い精進湖トンネルを抜け精進湖、本栖湖を経て下部へ。静かな精進湖。


富士川に沿って清水方面に旅に出る。
国道139号線を静岡県に向かい、南下し、精進湖、本栖湖、富士山を左に見て初秋の樹海を抜け、標高1500mの本栖湖(本栖湖城跡、北条氏忠が守将の御坂城・
戦国遺文にあり)の信号を右折、300号線に入り、左に本栖湖を見ながら下部方面と向かう。

薄曇りの富士山


本栖湖は、下部町上九一色、富士山北西麓の湖で、864年富士山大噴火で青木が原溶岩流分断で生じた。精進湖、西湖と同じ湖面標高の導水トンネルで
結ばれている湖、その後富士川の支流に放水されている。(発電に利用されている)

朝霧の本栖湖
  

「塩部」の地名が「下部」になった。下部には中世武田氏の親族の穴山氏が金山・銅山開発で、3000軒以上の大集落があったという。
                      山梨のいろは坂という山道
                              北川村永寿庵に上人作の仏像があると云う
    

「下部道の駅」山梨県の本栖湖と身延山を結ぶ国道300号線沿いにある。立ち寄り休憩する。
道の駅では、地元でとれる無添加の梅干や味噌、お茶、ヤマメの甘露煮などを販売。山里ならではのお土産や、地元産そばが味わうことができる。  

ホタルの里身延町の一色地区や湯町ホタル公園の情景をドームに再現され、ホタルについていろいろ知ることができる。
雨天でも利用可能な屋根つきバーベキュー場や広い広場などもある。

上九一色村は、中世から木工品の製作地で「工一色、郷内9村」で「上九一色」となり、甲州と駿河を結ぶ物流輸送路(中道往還)となる。
北川の永寿庵に「木喰上人」の仏像がある。上人はこの地で生まれている。

  

国道300号線を「本栖みち」と云い、天子山脈・南アルプスの山岳道である。
  



富士川水系「栃代川」は、上流部にやまめの里がある また福士川にはキャンプ場が多く、ファミリーオートキャンプ場は温泉民宿もあり、
大柳川の十谷温泉は、人気が高い温泉地。この辺りまで「サツキマス」が遡上するという。

    



身延町は、山梨県の南西部に位置する南巨摩郡の町で、 日蓮聖人で有名 な身延山の門前町である。日蓮の久遠寺までは、2kmほど離れている。

身延町 山村
  


「有明寺」は、身延町、山号大杉山、日蓮宗の寺院。歴史は古く、1467年 大石寺第9世法主日有上人により建立。
1680年、第17世法主日精上人により日有御影を造立し、1740年 第30世法主日忠上人により板本尊を造立。1960年 第66世法主日達上人により再興された。

    

「JR身延線」は、駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。
全線にわたり富士川の左岸を通り、本流を渡ることはない。
北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多く、また中京地方以西と山梨県を
行き来するには最も利用しやすい鉄道ルート、静岡駅で東海道新幹線と接続する特急「ふじかわ」が運転され長距離輸送も担う。
路線距離は、88.4km有る。

    

下部温泉駅は、常葉川と下部川に挟まれた平地に位置し、下部駅といったが、下部の集落は当駅の東の下部川沿いに、細長く開け、下部温泉がある温泉の町。
中心部は駅から下部川をさかのぼること1kmほどのところで離れている。駅前は、温泉宿などが立ち並び湯町という温泉街を形成している。
駅付近を走る道路としては常葉川と身延線に並行して走る国道300号、当駅付近から下部川ぞいに湯町をへて湯之奥集落に至る県道湯之奥上之平線がある。
湯之奥は当駅から東へおよそ4kmほどのところにあり、江戸初期の民家で国の重要文化財に指定されている門西家と採掘の行われていた富里鉱山跡などがある。

  

江戸初期の民家で国の重要文化財に指定されている門西家住宅、かつて採掘の行われていた富里鉱山跡などがある。
今日は、ここから富士川へ向かう。

  


上九一色村「永泰禅寺」から

2012-09-21 | 気まま旅
ようやく秋の気配となった上九一色村からスタートして、富士川に沿って旅をしようと計画。
上九一色村はかつてある宗教団体の根拠地として一躍有名になった所。どこがそうなのかは今は判らない。八千代郡上九一色村と云っても広い
県南部、御坂山地西端部の村で、9村・木工一色・耕地7%で、本栖湖、精進湖、青木ヶ原、等の甲州ー駿州を結ぶ中道往還で通じている。
 
今日の富士山


「永泰禅寺」は古関地区(旧上九一色久村)にあり、山梨県の文化財に指定された京都清涼寺釈迦像に分類される「木造釈迦如来立像」が安置されている。
永泰禅寺の境内と参道の桜は趣があり、目前を流れる芦川と合わせ、鄙びた良さを感じさせてくれます。


桜の古木 門前にある


鐘楼 小高い山々を背景に。


鄙びた本堂


芦川に桜並木 紅葉が始まる


禅寺の前には田んぼ 稲が黄色に色つき乾してある稲穂


近くの農協ふれあい広場で野菜などが売られている 珍しい農産物を朝早くから買いに来る人が絶えない。
  

桜の頃の永泰禅寺前の桜並木、その頃にはまた行ってみようと楽しみです。