syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

信玄の菩提寺 恵林寺・山本勘助の不動尊

2019-07-29 | 季節だより
馬は、遠隔地の交易を促進し、軍事的な遠征を可能にし、古代オリエント世界においては幾多の帝国を産む要因。紀元前4000年頃から人間は家畜としている。東アジアにおいては中国で殷朝後期に馬が伝来し、朝鮮半島においても衛氏朝鮮の時代に馬が飼育され、日本列島には、古墳時代の4世紀から5世紀にかけて馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層に受け入れられたと考えられているが、山梨県(甲斐国)では4世紀後半代の馬歯が出土しており、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている。

「甲斐の黒駒」-記紀に見える黒駒伝承ー
甲斐黒駒に関する伝承は、「日本書紀」雄略記に記され、「書記」雄略天皇13年の479年、「9月条の歌物語」によれば、
雄略は不実を働いた木工・韋那部真根を処刑しようとするが思い直し、韋那部を赦免する際に刑場に駿馬を使わした。
このときの駿馬が「甲斐の黒駒」であるという云う。
雄略朝には、同様の逸話が数多く存在し、「書記」においても「雄略12年10月壬午条」に、「黒駒伝承と類似した話があることが指摘されており、
必ずしも雄略朝にあたる5世紀後半期の史実を反映しているとは考えられていないが、書記編纂時の歴史的事実が反映されている可能性が考えられている。
高橋富雄は、書記編纂時に甲斐国産の馬が都で早馬として使われていた可能性を指摘し、平川南は東山道と東海道の交差する古代甲斐国に早馬が配されていたと指摘している。
「続日本紀」731年、-甲斐国司・田辺史広足が朝廷に神馬を献上した瑞祥を伝えている。
このため田辺史は恩賞を受け甲斐では庸・調が免除され、全国的な大赦が行われたという。
田辺史氏は馬飼技術をもった渡来系氏族であると考えられており、天平勝宝2年の750年、御牧が設置される上毛野君に任じられている。
「書記」に拠れば天武天皇元年の672年、には、上方で大友皇子に対して大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵した壬申の乱が発生する。
壬申の乱においては大海人皇子方の軍平として姓名不詳の「甲斐の勇者」の活躍が記されている。
「甲斐の勇者」は甲斐国の郡司階級の地方豪族の一族であるとも考えられているが、壬申の乱では騎馬で大友皇子方の武将・廬井鯨を射ったという。
この逸話から、古代の甲斐は馬産地であるだけでなく、馬を扱う騎馬兵も擁していたと考えられ、「武田軍の騎馬隊」と続いている。



「武田信虎」ー武田信玄の父ー
戦国時代ー1494・1498ー1574。改名ー信直 → 信虎・墓所ー大泉寺 。甲斐守護ー武田氏。父母 武田信縄、母、岩下氏、妻 正室・大井の方
子ー竹松、晴信(信玄)、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎、定恵院

「武田信玄」 1521-73 信虎の長男 甲斐国大名、父を追放し家督に、今川氏・北条三国同盟、上杉謙信と数度対決し、その後大軍を率いて上洛
陣中で病死した。

武田信玄の言葉「甲陽軍艦」

甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子につつが あらざるや
あらざるや
          祖霊まします この山河
          敵にふませて なるものか
          人は石垣 人は城
          情けは味方 仇は敵  仇は敵
                   疾如風ー徐如林ー 侵掠如火ー 不動如山
                                     つつじケ崎の 月さやか
                                     うたげを尽くせ 明日よりは
                                     おのおの京を めざしつつ
                                      雲と興(おこ)れや 武田武士  武田武士
          信玄は、甲斐国に一つも城を築かなかった。


城を築けば、兵は弱体化する。領土の拡張に専念、領土の土木に力を入れた。
信玄は,周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的におこなった武将の一人。
代表的な治水事業に、甲府盆地を流れる「釜無川」と「御勅使川」の合流部の改修工事があげられる。
この工事は、一般に信玄堤と呼ばれ、「自然の力を利用して川をおさめよう」とする考えのもと、堤防、分水、霞堤、遊水機能などをもつ総合的な治水技術が用いられた。
堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫をおこなったとも言われている。
信玄堤以外にも、「笛吹川」の万力林の整備など他にも治水事業を残している。



「恵林寺」-塩沢駅北西に約3km・武田信玄の菩提寺-

臨済宗妙心寺派の寺。山号ー乾徳山。
夢窓国師 開山(1330年)
織田勢の焼き討ちの時「快川国師の偈」ー安禅必ずしも山水を須いず 心頭を減却すれば火も自ら涼し・は有名

                 四脚門ー重要文化財
    

鎌倉時代の1330年、甲斐国の守護職であった「二階堂貞藤(道蘊)」が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。
二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は、甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。
応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
1541年、武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興し、1564年、武田氏により寺領が寄進され、1564年、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。
1576年、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
                
    

「寺の門前市」
寺周辺は秩父往還・金山道が交差する交通・流通の要衝地で、金峰山へ向かう参詣客も多く、このため古くから市場が存在。
1563年、「恵林寺領御検地日記・恵林寺領米穀并諸納物日記」によれば、恵林寺の寺領には「三日市場」「九日市場」のふたつの市場が存在しており、定期市として開かれていたとある。
三日市場は、恵林寺が所在する塩山小屋敷南に塩山三日市場の町名として残されている。
「九日市場」については寺領内のいずれかに存在していたと見られているが、地名・伝承いずれも見られず正確な所在地は不明。
双方とも戦国時代に門前市として、恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から室町時代初期には成立していたと考えられ、「三日市場」に関しては
明応8年(1499年)時の存在が確認されると云う。

  

「伽藍と庭園」
明治38年、の出火で焼失した後、再建。本堂・庫裡、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
本堂・明王殿・庫裡・開山堂・柳沢廟・佛舎利宝塔(三重塔)・重要文化財(国指定)

石庭恵林寺四脚門・太刀 銘来国長・短刀 銘備州長船倫光 応安二年と県指定有形文化財等多数。

    

「二十四将」
一般的には次の武将をさす。五十音順、生没年・出自・死因
秋山信友(秋山虎繁) 1527年-1575年 秋山氏 刑死(岩村城の戦い)・穴山信君 1541年-1582年 穴山氏 戦死(本能寺の変)
甘利虎泰 1498年?-1548年 甘利氏 戦死(上田原の戦い)・板垣信方 1489年?-1548年 板垣氏 戦死(上田原の戦い)
一条信龍 1539年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・小畠虎盛(小幡虎盛) 1491年-1561年 甲州小幡氏 病死
小幡昌盛 1534年-1582年 甲州小幡氏 病死・飯富虎昌 1504年?-1565年 飯富氏 自害(義信事件)
小山田信茂 1539年-1582年 小山田氏 刑死(甲州征伐)・高坂昌信(春日虎綱) 1527年-1578年 百姓・春日氏 病死
三枝守友(三枝昌貞) 1537年-1575年 木原領主 戦死(長篠の戦い)・真田幸隆(真田幸綱) 1513年-1574年 真田氏 病死
真田信綱 1537年-1575年 真田氏 戦死(長篠の戦い)・武田信繁 1525年-1561年 武田氏 戦死(川中島の戦い)
武田信廉 1532年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・多田満頼 生年不詳-1563年 多田氏 病死・
土屋昌次(昌続) 1544年-1575年 金丸氏 戦死(長篠の戦い)・内藤昌豊 1522年-1575年 工藤氏 戦死(長篠の戦い)
馬場信春 1515年-1575年 教来石郷領主 戦死(長篠の戦い)・原虎胤 1497年-1564年 原氏 (千葉氏族) 病死
原昌胤 1531年-1575年 原氏 (土岐氏族) 戦死(長篠の戦い)・山県昌景 1529年-1575年 飯富氏 戦死(長篠の戦い)
山本勘助(菅助) 1493年?-1561年 未詳 戦死(川中島の戦い)・横田高松 1487年?-1550年 未詳 戦死(砥石崩れ)
(小山田信茂の代わりに、武田勝頼が入っているものもある)

                    山本勘助 1493?-1561


「山本勘助」 ~1561 軍師・家臣 名 晴行、甲陽軍艦には、天才的軍師。
川中島の戦いで、勘助は「啄木鳥戦法」進言ー啄木鳥は木をつついて虫を驚かし穴から出てくるところを補食するとよい。
一軍を迂回、敵陣の背後を突く・本隊は、敵が撤退しと時撃退する戦法・上杉謙信は事前に読んでいたと云う。謙信が、武田本陣が突撃したのは有名
勘助は、責任を取って敵陣に突っ込み討死しと云う。



「山本勘助不動尊」
山本勘助不動尊のお堂は三日市場と小屋敷の人たち20数戸の家が4戸1組の輪番制で守り、祭りの当番を行っていると云う。
堂内には総高40cmの勘助を模した不動明王像と矜羯羅・勢多迦の2童子が安置されている。
明治23年、お堂を再建したときに恵林寺の円応老師揮筆による「勘助不動尊再建有志名簿」には、1573~1592年、勘助を慕う信心深い仏師が像を刻んで安置したと伝え、毎年1月28日と7月28日の2回の祭典を行ってきたが、今は1月のみ行われている。
盛時には幟を立て縁日も出て近郷近在からも多くの人がお参りをした。祭りには「山本不動尊」とある御札と、勘助不動尊のお姿を版木で刷った2枚の御札が配られる。

川中島の合戦で用いたと伝える「法螺貝」が伝わり、以前は、この法螺貝の音を合図に祭りは行われていたと云う。
  

「大井俣窪八幡神社」ー山梨市北にある神社である。通称窪八幡神社ー
窪地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社とも、別当寺に普賢寺。
由緒に拠れば清和天皇の勅願により、貞観元年の859年、宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりといわれ、当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立。
後に現在地に遷座した。
一帯は、中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、現在の本殿は、1410年、甲斐守護「武田信満」が再建した。
1516年、駿河国今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担し甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建されたものが多いと云う。
窪八幡神社本殿は、1519年、甲斐守護武田信虎により造営された。
1522年に、造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られると云う。



「武田 信満」  ?-1417、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。
第12代当主・武田信春の嫡男。息子に14代当主武田信重・武田信長(上総武田氏祖)、武田信景、今井信経。官位は安芸守。通称は武田二郎。
1413年、父の死により家督を継いで当主。
室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、1416年に鎌倉で鎌倉公方と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から
禅秀による反乱が起こったとき(上杉禅秀の乱)、氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。
しかし翌年、将軍・足利義持の命を受けた上杉房方や今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、
氏憲は自害して乱は鎮圧された。
信満は本国に敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、山梨・都留郡木賊山(山梨県甲州市)で自害する。
又、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。墓所は甲州市の棲雲寺。
信満期の発給文書は皆無であるが、わずかに1400年、に「窪八幡神社(山梨市)」を再建したことや、1412年、に「大八幡山宮天神宮(北杜市)」
に鰐口を寄進した記録が残る。

主祭神ー誉田別尊・足仲彦尊・息長足姫尊、県社。創建ー貞観元年の859年。例祭ー10月15日。

    

「重要文化財」-(国指定)拝殿・鳥居・摂社若宮八幡神社本殿・若宮八幡神社拝殿 ・武内大神本殿・高良神社本殿・末社比三神本殿
神門、 石橋1基・神社正面の小川に架橋された石橋で、1535年、高遠石工による造立の銘を持つ。花崗岩製で反勾欄付。
戦国期の高遠石工の作例であるとする銘に関しては、江戸時代の元禄期以降に高遠石工により修復されたとする説もあるが、神門と同時期に造立されたと考えられている。
県指定文化財、鐘楼・如法経塔 ・紙本墨画淡彩窪八幡神社境内古絵図 等多数。

    

西の武田八幡、東の窪八幡
創建は平安時代にさかのぼる。八幡社は、源氏の守護神、・甲斐源氏武田氏の崇敬を受けた神社。
武田信満建立と伝わる本殿は武田信虎により改修。拝殿は信濃の村上義清を駆逐した信玄によって造営され、日本最古の木製の鳥居などが。

    

石和温泉 日本三大急流の一つ笛吹川の 信玄堤

2019-07-26 | 季節だより












「笛吹川」-日本三大急流の富士川水系の一級河川。深沢七郎は、この川を題材に小説「笛吹川」を。

水系ー一級水系 富士川 ・延長ー46.5 km・水源の標高ー2,592 m・流域面積ー1,040 km²・水源ー甲武信ヶ岳・国師ヶ岳など 。
「信玄堤」
国中地方では平野部である甲府盆地を有し、盆地底部は笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、
安定した定住は困難であった。
信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立する。
平安時代の927年、に成立した「延喜式」では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国(三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している。水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した「甲陽軍鑑」ではかつて甲府盆地が湖であったとする甲斐国湖水伝承を記し、釜無川は支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府に居館を移し武田城下町の整備を行う。
1542年、に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。
川除工事の開始時期は不明であるが、「明治以前日本土木史」では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされている。
川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間であることから、着工時期をそこまでに遡るとする説もあると云う。
笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整。
最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつで、地形が急峻なため、梅雨、台風の季節に洪水が起こりやすくなっている。
中でも明治40年、からの大雨で発生した水害は、
笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化。
それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる今の「平等川」を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかったと云う。



「展望の差出磯大嶽山神社」

祭神ー大山祇神 大雷神 高?神 金比羅神
古来の人々は、山や川や岩など、自然のものを信仰の対象にしている。
「差出の磯」は、山に囲まれた盆地の中で、 海辺の磯に見えたことから信仰され、平安時代の古今和歌集を始め、 松尾芭蕉・与謝野晶子など四十首余りの歌に詠まれ、県では富士山に次ぐ和歌の多い聖地。
海神様の金毘羅神を祀っている。明治19年に大山祇神・大雷神・高
春まつりには一万人以上の人々が訪れ、 山梨市最大のお祭りがある。
       平安時代の古今和歌集
        「しほの山差出の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」と歌われ、
内陸部でありながら海辺の磯の様に見えたことから古来より聖地として信仰されてきた。
松尾芭蕉や与謝野晶子などを始め40首以上の和歌がが詠まれている。
室町時代の文安5年には甲府盆地で大規模な干ばつが起きた時に、この地で雨乞いの神事をしたところ車軸の如く雨が降り喜んだ人々が塔を寄進した。
表参道の笛吹川沿いの道は旧青梅街道・秩父往還道が交差し賑わっており山梨の主要街道であった。

          県峡東地域最大のお祭りとして知られている「春まつり」
  

「石和・白鬚神社」-猿田彦命 ・猿田彦大神、総本社 琵琶湖畔鳥居 近江の厳島 分社ー

国史に「比良神」と見える神名を指すとされ、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。
人格神が猿田彦命とされた由来は、(不詳)
猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起「三尾神社本土記」にも見えることから、両社の密接な関係が指摘されるている。
比良山は、社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが創建であるという(一説に再建)。
また、674年、には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
「比良神」から、元々の祭祀は、「比良山」に対するものであったとする説。
白鬚信仰の多く分布する 武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという。

(山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っているー琵琶湖)

                神殿前には、立派な狛犬が
    

            「医王山・正林寺  浄土宗本願寺派」
    

「七日子神社・日下部の里」
赤ちゃんが生まれて7日目に当たる日 お七夜が行われる。
多くの場合、この日に内祝いを兼ねて赤ちゃんの名前を披露する命名式を行うと云う。この時に振る舞われる粥を「七彦粥」と今でも言う。
神社の由緒書きに依れば「第二十九代欽明天皇(540)の御代、皇后堅塩媛命が御懐妊の御時に天皇は勅命を以て甲斐国に七日子の神
「祭神 木花開耶姫命 大山祇命 彦火火出見尊」を祀られ御神田による貢米を宮中に召された。
皇后御出産に当たり貢米を御粥に炊いて差し上げるといと安らかに皇女を御出産せられた、これは七日子の米粥の御徳と思し召され、御名を豊御食炊く屋媛尊と崇め奉った、この御方が後の方三十三代推古天皇である。
この時摂政の聖徳太子は、神慮を仰ぎ泰幤を厚くされた、以来七日子の米粥の神事は宮中の産養の吉例として行われたことが平安期の長秋記・玉海等に記録されている。
神殿の床下には巨大な磐座(いわくら)があり、その周辺は御砂が敷き詰められている。神社の周辺一帯は石器時代の住居跡が密集し縄文時代より奈良朝に至る文化遺物の伴出により、山梨県の七日子遺跡として史跡指定されている。」と云う。(磐座の確認が出来ないのでいったいどんな物か不明)

    

「県社ー菅田天神社」-祭神 五男三女神・菅原道真ー
山梨県甲州市塩山上於曽にある神社。県中東部、甲府盆地の北東縁に位置している。
塩山は恵林寺や向嶽寺などの古刹が集中し、武田氏の保護を受けた寺社も多い地域。

    

「甲斐国社記寺記」
承和9年の842年、甲斐国司の「藤原伊太勢雄」が勅命により少目飯高浜成に命じて創建。
1004年には、相神に菅原道真を祭っており、これが「菅田天」の由来となっている。
古くから甲斐源氏の鎮守と位置づけられ、特に甲斐武田氏の篤い保護を受け、神主は府中八幡宮への参勤を免除された。
甲府の鬼門にあたることから、武田信光のころ御旗(雲峰寺所蔵)とともに武田氏の家宝として相伝されていた楯無が安置。
鎧は於曽氏が管理し、甲斐国志によれば、1561年、武田信豊から、1564年には板垣信安からそれぞれ社領寄進を受けている。
「国志」によれば、武田氏滅亡に際しては楯無鎧が塩山向嶽寺の杉下に埋められ、後に徳川家康により再び当社に安置されたとする伝承を持つが、
鎧の詳細調査では埋められた形跡は確認されていないと云う。
1583年、徳川氏から社領安堵を受けて、1603年、禁制を下されている(社記による)。
慶長7年と正徳3年には社殿造営が行われ、宝物殿には「楯無」と比定される小桜韋威鎧(国宝)を所蔵。(これは現代に至るまで秘蔵であった)
江戸時代には幕命で甲州の古記録調査を行っていた青木昆陽が見聞し、「甲陽軍鑑」の流行もあり多くの参拝者が往来した。
昭和40年、の火災で社殿を焼失するが、昭和44年(1969年)に復興した。

   「小桜韋威鎧 兜・大袖付」始祖新羅三郎義光以来、甲斐武田家代々の重宝。
    

次回は、都留市・大月市へ。

甲斐善光寺 東日本最大の木造建築

2019-07-23 | 季節だより

「甲府五山」
長禅寺ー信玄の帰依僧「峡秀和尚」臨済宗妙心寺派の寺・信玄の母「大井夫人」の菩提寺。甲府市愛宕(夫人像、重文)
東光寺ー密教寺院から臨済宗・大覚禅師の築いた庭園・薬師堂は室町中期の唐様建築物(重文)。甲府市東光町
能成寺ー1345年頃武田信守が開基、臨済宗の寺・八代町から府中に、石碑宿竜池で知られている。芭蕉句「名月や池を巡りて夜もすがら」、東光町
円光院ー躑躅ヶ崎の麓、信玄夫人三条氏の菩提寺、その法号をとっている。信玄寄進状(重文)。岩窪町。
法泉寺ー武田氏中興の祖「武田信武」が開山・勝頼の菩提寺・「首級牛蒡」の話はこの寺。甲府市和田町・武田信武と勝頼の墓。
    甲斐武田 10代当主 武田信武により 創建 武田家中興の祖 信武の開いた 寺を守る為 武田信玄が 修理し 寺領を寄進 信玄が定めた 甲府五山の 一つとなる 信玄死後も 勝頼により 保護されるも 勝頼が 天目山で自刃し 武田家は 滅亡 武田家に代わり 甲斐を支配した 徳川家康が 勝頼の菩提を 弔うように と命じ 勝頼の菩提寺 としての地位を 保障され 現在に至る。
鐘楼門は、江戸初期に 建てられた。
「首級牛蒡」 武田勝頼 首塚 天目山で自刃した 勝頼の首級は 織田信長の命により 京 六条河原 に晒された。
それを知った 法泉寺の 快岳和尚は、 妙心寺の和尚の 力を借り 首級をもらい受け 妙心寺で葬儀を 行った。
勝頼の首級は 甲斐に葬るべし と考えた 快岳和尚は、密かに首級を 甲斐に持ち帰る しかし 法泉寺は 織田軍の陣所と なっており やむを得ず 山中に逃れる ・・・・。





「甲斐善光寺」 甲府駅ー石和駅の間にある。JR身延線善光寺駅下車約徒歩10分。

甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山。
正式名称は定額山浄智院善光寺・
長野県にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれ、甲州善光寺・甲府善光寺とも呼ばれている。



永禄元年の1558年、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建。開山は、信濃善光寺大本願三十七世の「鏡空」

「高白斎記」に拠れば、戦国時代の1523年、1527年、甲斐守護・武田信虎が信濃善光寺に参詣している。
信虎は当時、敵対する甲斐の有力国衆や他国勢力と抗争を繰り広げており、信濃善光寺への参詣は信虎が国内を留守にできるほど甲斐の統一的状況が生まれていたとも評価。
信虎個人の宗教的動機のほか、1524年、上野国の関東管領・上杉憲房と相模国・北条氏綱の抗争に介入して関東へ出兵しており、大永7年6月には信濃佐久郡の伴野貞慶を援助するために国外へ出兵していることから、政治的動機も指摘されると云おう。
天文10年の1541年、信虎嫡男の晴信(信玄)が信虎を追放し、家督を相続する。
晴信は天文年間から信濃侵攻を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する越後の長尾景虎(宗心、上杉謙信)と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において五次に渡る川中島の戦いを繰り広げ、1555年、の第二次合戦では戦火が信濃善光寺に及んだ。
善光寺別当の初代・栗田永寿は天文12年の1553年、武田氏の北信濃侵攻では長尾景虎に属していたが、「勝山記」によれば永寿は武田氏の支援を受け、旭山城(長野市)に籠城して長尾方と戦っており、これ以前から武田氏と接触があったと考えられていると云う。
天文24年、村上義清・高梨政頼が長尾景虎を頼り越後へ亡命すると、信濃へ出兵していた景虎は同日に善光寺へ陣を張った。これに対し武田晴信は旭山城に籠城する栗原氏に兵三千・弓八百張・鉄砲三百挺を支援したとある。
記によれば、同年改元後の弘治元年閏10月15日には駿河国・今川義元の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し、上杉方の城は破却され武田・上杉双方は撤退し第三次川中島の戦いは終結した。



信玄は、信州善行寺が戦いで戦火にあうのを心配し、本尊阿弥陀如来他寺宝を移したと云う。



1754年に全部焼失し、現在の本堂は30数年を費やして、1796年再建された。



重文ー楼門・本堂(入母屋造り)-東日本最大木造建築物ー・木造阿弥陀三尊像。



















武田神社 信虎・信玄・勝頼三代にわたる館跡「躑躅ヶ崎の館」

2019-07-20 | 季節だより

「武田信玄の治水工事」は、痩せた甲斐の国に豊かな水が。
竜王信玄堤、信玄堤・竜王堤が。釜無川の堤防は知られている。
甲斐国は、内陸部の山間地域、国中地方では平野部である甲府盆地を有する。
盆地底部は笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、安定した定住は困難であったと云う。
信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立。平安時代の延長5年の927年、延喜式では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国(三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している。
水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した「甲陽軍鑑」ではかつて甲府盆地が湖であったとする甲斐国湖水伝承を記している。
釜無川は、支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
「竜王信玄堤の築造と武田氏が」甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府(甲府市)に居館を移し武田城下町の整備を行う。
天文11年の1542年、信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。
川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとある。
一方で、川除場で行われる夏御幸の開始時期が、1555年 - 1558年、であることから、弘治年間までには着工されていたとする説。
国志に、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川と釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられたという。
信玄堤に関する最古の文書は、1560年、武田信玄印判状(『保坂家文書』)とされる。
同文書では「竜王の川除」に居住した際に家ごとの棟別役が免除されることを記しており、「竜王の川除」は信玄堤・竜王河原宿を指しており、同文書が発給された永禄の3年以前には堤防の築造が行われていた。
同文書には宛名がなく、武田氏は広く竜王河原宿への移住を呼びかけていたと見られている。

                         甲府駅前 武田信虎像


「積翆寺」行基開祖の古刹寺・境内の巨石から湧水が(石水寺とも云う) 武田信玄は、この地で誕生し裏手に信虎築城の「要害城跡」が。

甲府市上積翠町は、甲府盆地北縁のほぼ中央、甲府市街地北部に隣接する武田神社の北北東方向に位置し、積翠寺は要害山の南西麓の標高約530m
に立地する。
開祖は、「行基」とされ、「甲斐国志」に拠れば古くは石水寺と呼ばれたという。南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたという。
「高白斎記」に拠れば、戦国時代には要害山に武田信虎が甲府市武田の躑躅ヶ崎館の詰城として要害山城が築城された。
信虎嫡男の晴信(信玄)は永正18年の1521年、に要害山城において誕生したとされ、境内には産湯を汲んだとされる井戸である産湯天神が残されていると云う。
戦国期には、武田氏が主催する和歌や連歌会が行われ、積翠寺のほか甲府では一蓮寺や尊躰寺、東光寺などの寺院で開催されている。
1542年、駒井高白斎が当座を務めた歌会が行われ、冷泉為和を招いた和漢聯句が行われている。為和集
寺宝として天文15年、後奈良天皇勅使として下向した三条西実澄・四辻季遠を招いて行われた句会の記録である「武田晴信和漢聯句帳」や、江戸時代に後陽成天皇皇子の八宮良純法親王が愛用したと伝わる硯箱・煙草盆が伝来している。
近世の慶長8年・1603年、に徳川四奉行から積翠寺村内に寺領を安堵されているが、判物は火災で失われたという。

          登りの山道長く「寺と要害城跡」は、残念ながらあきらめました。


「一級河川相川」
1925年, 大正14年8月18日,
台風大雨, 台風 総降水量 甲府 234.3mm甲府市・西山梨郡(甲府市)の被害大。
とりわけ帯那山から上積翠寺に集中した雨は、帯那川・相川・高倉川・藤川などの中小河川を氾濫させ甲府市に大被害を。



「武田神社・躑躅ヶ崎館跡」 甲斐の名将「武田信玄」を祀る。1519年武田信玄の父「信虎」が造った神社。

      信虎・信玄・勝頼三代にわたる館跡で「躑躅ヶ崎の館」と呼ばれている。国史跡


                    神社は、大正8年創建






























次回は、甲斐善光寺へ

甲府 人は城、人は石垣・・・駅前信玄像と甲府城

2019-07-15 | 季節だより

山梨県・日本中部南東の県。縄文大泉天神遺跡、弥生時代の韮崎宮の前遺跡、古墳時代の甲府加牟那塚古墳、672年の弘文の「壬申の乱」甲斐人騎馬兵の活躍と甲斐黒駒神馬献上、甲斐国国分寺建立、864年に富士山大爆発が・・・。
県は、甲府盆地を中心と富士川流域を国中地方と呼んだ。
大菩薩峠・笹子峠・御坂山地の東部を(桂川・相模川上流)郡内地方と呼んだ。郡内は、大月・都留地域に小山田氏で、国中の武田氏臣従しながらも
領地を守った。
国中は、南アルプスの山々に囲まれ、郡内と地形も気候も自然条件は異なり、交流にも不便、そのため習慣・風俗・伝統など違いが多い。
国中は、富士川水運・駿州街道(国道52号線)で静岡県・長野県と交流・郡内は関東地方が進んだ。
甲斐の武田氏は、暴れ川の富士川上流の釜無川や、笛吹川の治水に成功させ、流域の水田開発に大きく貢献したと云われ、武田氏から徳川氏とうけつがれ、金の採掘やいろいろな産業を生んでいる。「金・紙など」

「甲府市」 県中央部・市名は、武田信玄の父「武田信虎」が、石和から市内府中市に居館を移し、甲斐の国の府とした。
市は、南笛吹川から北金峰山まで、東西6km・南北32kmを占めている。



甲斐の国は、古代国府(現東八代郡御坂町国衙)武田氏躑躅ヶ崎に館を構え「甲府」と呼んだことに発する。
静岡の駿府・山口の防府のような意味はない。その後「武田勝頼」が、韮崎に新甲府の「新府城」を築き、武田氏滅亡後「舞鶴城・公園」が築城され
武田氏の旧域地は、古府中・上府中と呼ばれている。



「韮崎市」 県北西・峡北地方の中心都市。甲府盆地の西部。
北東に、茅ヶ岳南西麓・南西部は、南アルプスで、地名は、八が岳裾野丘陵「七里が岩」の台地が「ニラ」の葉のように突き出ている・また「ニラ」が群生する突端の意と云われる。地理的には、甲州街道、佐久往還と駿信往還の分岐点・釜無川と塩川の合流点で「韮崎宿」を起源。
信州諏訪藩の年貢米・塩・海産物の中継地として発展した。
江戸初期は、富士川水運も開かれ、1905年の中央本線開通で活気を失ったが、大正8年バス運行で峡北地方の中心にもだった。
今では、先端技術産業の工場が進出・観光でも南アルプス・奥秩父山地・八ヶ岳の基地に。



「暴れ川・御勅使川」
県西端の山間部である南巨摩郡早川町と南アルプス市の境にある巨摩山地のドノコヤ峠(標高1,518m)東麓に発し、北流して山間部ではV字谷を形成南流してきた金山沢川を合わせて東流し、山間部を過ぎて盆地西部に南北10km、東西7.5kmの広大な扇状地(御勅使川扇状地)を形成。
左岸の韮崎市と右岸の南アルプス市の境界を流れ、支流の割羽沢川を合わせ、双田橋付近で盆地北西部から流れる富士川(釜無川)へ合流する。
流路の歴史と変遷は、流路を変化させ、最も北に位置する現在の本流路のほか北から前御勅使川、御勅使川南流路、下今井流路、十日市場流路の5本の旧河道痕跡が発見されている。
古代から流域に水害を及ぼす洪水を起しており、増水時には釜無川を押流して水害は盆地一帯にまで及んだ。
考古遺跡は右岸の微高地上にわずかに大塚遺跡、立石下遺跡、石橋北屋敷遺跡などわずかに古墳時代から古代の集落遺跡が点在する程度であり、氾濫原である流域への定住は遅れていたと考えられていたが、近年は、中部横断自動車道建設に際して百々遺跡などの遺跡群が発見され、遺跡の埋没原因となった流路変遷に関する研究が行われている。
下今井流路は縄文時代晩期から弥生時代前期の最も古いもので、弥生後期から古墳時代後期の十日市場流路、奈良・平安時代の南流路が続く。
15世紀から16世紀初頭には閃光洪水により南流路を埋没させる大氾濫が発生しており、中世には前流路と新流路(現流路)のふたつが本流となる。
この大氾濫で付近一帯に堆積し、砂礫層は近世以降に「原七郷」と呼ばれる干魃地帯となった原因であると考えられている。



「武田信虎」 1494-1574 甲斐国戦国大名、武田信縄の子 甲斐国を統一
居館は府中に移し家臣を集住、娘を今川義元に嫁がせ同盟。嫡男「信玄」に追放される。謀反で今川氏追放・晩年は、武田勝頼の庇護を受け「高遠」で余生を送っている。
                        武田信虎像


「武田信玄」 1521-73 甲斐の英雄・無敵の名将 信虎の長男。
三国同盟「今川氏・豊穣氏」、越後「上杉謙信」川中島で数度対決、大きく領土拡張する。上洛陣中病死・「甲斐軍艦」残す。

           人は城、人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり 信玄像


「甲府城・別名舞鶴城」
甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化している。
羽柴秀勝は、天正18年、甲斐を拝領するが、翌天正19年、美濃へ転封されているため在国期間が短く、秀勝時代の甲府城築城に関する史料は天正18年羽柴秀勝黒印状写のみ。
秀勝の次に甲斐を拝領した加藤光泰時代には天正19年、加藤光泰黒印状や年未詳正月14日付加藤光泰書状などの史料が見られ、杣工に動員をかけ甲府城築城を行っており、城内の殿舎の建設も開始されている。
光泰時代に甲府城の築城は本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪など中心部分が竣工されていたと考えられ、次代の浅野長政・幸長時代にも築城は継続されているが、このころには秀吉の朝鮮出兵が行われ、甲府城の築城は困難にさしかかっており、甲斐では農民の逃散も発生している。
光泰・浅野氏時代には一条小山の一蓮寺をはじめ、寺社の移転も行われている。
江戸時代には甲府藩が設置される。1704年、甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった
柳沢吉保は、甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられる。
翌年4月には駿河国の知行地が替えられ甲斐国国中三郡を支配した。
吉保は大老格の立場であったため甲斐を訪れることはなかったが、家老の薮田重守に対して甲府城と城下町の整備のほか、甲斐国内の検地や用水路の整備、甲州金の一種である新甲金の鋳造などを指示している。
甲府城の整備では新たに花畑曲輪を設置し、楽屋曲輪や屋形曲輪には御殿を建設した。
柳沢氏時代の甲府城下の繁栄を「兜嵓雑記」に、「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」と記している。



1603年、徳川義直(家康の九男)が城主、1607年 義直が清洲へ転封。城番制に、1616年、徳川忠長(秀忠の二男、駿府城主)の支城。
1632年、忠長死去。1661年、徳川綱重(家光の三男)が城主、1678年、徳川綱豊(綱重嫡男)が城主、1704年、 綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名・1705年、柳沢吉保が城主、1724年、柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封、甲斐一国が幕府領に、甲府勤番の設置。
1727年、甲府城大火。1734年、城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される甲府城御金蔵事件が発生・犯人は不明で、当日に博打をしていた甲府勤番士の怠慢が指摘され17名が処罰される。
1742年、高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、事件は解決、事件は人々の間で関心を呼び、作者成立年代は不明で出版もなされていないが、フィクションを交えた勧善懲悪の物語として構成された実録小説・甲金録となった。1866年、勤番制を廃止し、城代を設置。1868年、明治維新。板垣退助らが無血入城。1873年の明治6年、 廃城となる。



                             甲府城公園






















「武田勝頼」 1546-82 信玄の4男 母諏訪頼重の娘・信長の大軍に攻め込まれ天目山で自害した。
織田・徳川鉄砲隊に大敗。

「武田信繁」 1525-61 信玄に愛された侍大将 信玄忠節を説いた百カ条「信繁家訓」を残している。

                           信玄画


「浅野長政」 1547-1611 五奉行筆頭・安井重継の子・信長の家臣長勝の養子、秀吉正室ねねの妹を娶る。
若狭ー甲斐国ー朝鮮出兵軍艦を務める。
秀吉が自ら朝鮮渡海すると云いだし・長政は、「最近の殿下の振る舞いは全くおかしい、まるで古狐が化けているようだ・・」と放言、秀吉は激高し、長政は、なおも諫言を続け国内の荒廃を説いたと云う。秀吉は、長政の言を入れて出陣を中止。
家康と長政の囲碁は知られている。長政死後、家康は生涯囲碁を絶ったと云う。甲斐国22万5千石領有

「柳沢吉保」 1658-1714 犬公方に仕えた御用人 徳川綱吉館林藩主時から小姓 甲府15万石城主ー老中まで累進した。
駒込六義園で隠居生活。
                         柳沢吉保


                    中央本線の貨物車


「太宰治」 1909-48 無頼派作家、青森県津軽の大地主家庭に育つ。
弘前から東大フランス文学ー思い出・晩年・富嶽百景・お伽草紙・斜陽・人間失格・グッドバイなど。39歳で入水自殺。

太宰と妻・美知子は昭和14年,甲府に移り住み新婚時代を過ごした。
8か月という短い期間、昭和20年の甲府空襲で新居は焼けている。
「村岡花子」翻訳家
村岡とモンゴメリとの出会いは、日本を去る宣教師のミス・ショーに手渡された「赤毛のアン」の原書、1908年の冬版であった。。
この出会いは1939年のことで、村岡は灯火管制のもと翻訳を続けて終戦の頃に訳し終え、1952年に三笠書房から出版された
「赤毛のアン」は、読者にも広く受け入れられた。
村岡はその後、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、モンゴメリの作品翻訳を次々と手がけ、村岡の最後の翻訳作品となった「エミリーの求めるもの」は、彼女の没後、1969年に出版されている。

                       90年前の甲府の街で


「甲府五山」
信玄公は、広く仏教を信仰し、寺院、僧侶を崇敬保護。中でも禅法を尊び、禅済宗に深く帰依し、その教えを政治、軍政に大きく反映させている。
鎌倉五山にならい、府中五山を定めています。
長禅寺・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺の五寺。