県道52号(石岡城里線)沿道に「石岡の一里塚」はある。
江戸日本橋から23里目(約90km)にあたるこの一里塚は、かつての水戸街道が県道と化しているにも関わらず、両塚が良好な状態で現存しており、近年まで東塚には樹齢400年という初代の榎が生き残っていたが、残念ながら2002年の台風によって倒木してしまい、現在は一里塚付近に育っていた苗木が2代目の榎として移植されているという。
茨城県内の水戸街道は一里塚の残存率が高いが、中でも石岡の一里塚は、良い状態で残っている。
一里塚とは江戸幕府成立後に築造された江戸日本橋を起点にする主要街道の里程標であり、1里(約4km)毎の街道両脇に目印として設置された土盛りのことである。一里塚の崩壊を防ぐ目的で塚上には主に榎や松が植えられている。
土浦・中貴・稲吉ー府中ー竹原・片倉・日光街道 筑波山を見ながら
石岡府中一里塚は、江戸から16番目、水戸まで21番ある。
水戸街道ー江戸街道
江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸
昔は江戸方面へ行くときは「江戸街道」水戸方面へ行くときは「水戸街道」と呼ばれていた。
宮城県岩沼市まで続く陸前浜街道の一部である。
府中の一里塚
昔懐かし、国分寺の五重塔と霊峰筑波山(JR常磐線の陸橋)の石絵。
一里塚て手前に「是よりきびさけいなり道」の碑。調べてみると「木比堤神社」があった道と云う。
「常陸府中藩陣屋(石岡陣屋)跡」の碑、 陣屋跡は、石岡市民会館、 石岡小学校になっている。移設されて、陣屋門が残っている。
府中藩松平氏の城下町・水戸街道の宿場
「石岡・常陸平氏略系図、桓武天皇ー国香、良望ー貞盛と繁盛ー維幹ー為幹ー繁幹ー致幹ー直幹・・・・・。」
大掾氏とは、桓武天皇の血続・宗家。平安から安土・桃山の700年間、常陸国府の石岡を支配したのか「大掾氏」
祖は、平国香(天慶の乱、で甥の平将門に討たれる)の子「貞盛」が「藤原秀郷」と将門を討ち取る。その甥「維幹(養子になる)」が
「常陸・大掾に任命され代々続いていく。大掾氏が家名となる。
本拠地は現在のつくば市水守に置く、その後、多気(北条)に移し「多気大掾氏」と呼ばれる。
「府中城」は、今から1300年以上前に常陸国衙があり、常陸の中心となった土地で、939年に起こった平将門の乱によりそのほとんどが焼失していたため、建設された当時はどのようになっていたかはほとんど記録に残っていないという。
現在の石岡小学校の入口に残る土塁跡が府中城の規模を偲ぶ唯一のものといってよいが、周りを巡ってみるとあちこちに面影らしきものを発見することができる。
1590年にまだ若き(18歳)の当主大掾清幹が佐竹氏に攻められ炎上する城を後にしながら宮部側に城から下りながら「嗚呼残念」と嘆いた。
清幹は、自刃してはて、敵方となった園部方から嫁いだ奥方は恨まれつつ堀に身を投げて自害したとの話も伝わっている。
その後、現在の石岡は佐竹氏-徳川松平家と統治が続いていく。
石岡の地には、大掾氏の影響が今でも残っている。
陣屋門(保存状態が良い)小学校の校庭に
「大掾職」を欲しがったのが「八田氏・後の小田氏、土浦城に入る」であったが失格し、一族の水戸城の「馬場資幹」が継いでいる。
馬場資幹大掾氏から、南北朝の混乱期の時代、佐竹氏・小田氏との争いの中、1326-1392年大掾氏は、足利氏と蜜になる。
大掾14代高幹、16代満幹と足利将軍の一字を受けている。
1590年豊臣秀吉から朱印状を受けた佐竹氏に滅ぼさる。24代大掾清幹は18歳で自刃士と云う。
「常陸国総社宮」は、祭神6柱。 伊弉諾尊、 大国主尊、 素戔嗚尊、 瓊々杵尊、 大宮比売尊、 布留大神。
社伝によれば、奈良時代の天平年間 729 - 749年の創建。ただし、総社の制度が確立したのが平安時代末期で、疑問を呈している。
当初名は、「国府の宮」であったが、901 - 923年に天神地祇の6柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、「総社」(古代の読みは「そうじゃ)に名を改めたている。
また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、938 - 947年に大掾氏(平詮国)が常陸府中に築城した際に鎮守のために
現社地に遷したという。
国府宮・総社宮とも、ここに名門大掾資幹居城の石岡城(府中城)が
「国府」は、「和名抄」によれば、茨城郡で、現在の石岡市、発掘調査が行われている。
その設置時期は、「日本書紀」で、大化2年(646年)以後であるという。
府中城跡(現在の石岡小学校敷地)を、「国衙跡」とみて発掘が行われ、国分寺系の古瓦や建物遺構を検出しているが、国府機構の一部との確証は得られていない。
また、石岡市内における国府域なのかも分かっていない。
鎌倉期の古文書に「古国府」という文言が出ているところから「現国府」があったのだろうと考えられるが、確かではないらしい。
今でも樹木・堀・土塁などが
馬場資幹は、頼朝の鶴岡八幡参詣では、先陣の随兵を務めている(吾妻鏡)
石岡小学校の入口に残る土塁跡が府中城の規模を偲ぶ唯一のもの、周りを巡ってみるとあちこちに面影らしきものを発見することができる。
1590年にまだ若き(18歳)の当主大掾清幹が佐竹氏に攻められ炎上する城を後にしながら宮部側に城から下りながら「嗚呼残念」と嘆いたその想いがした、清幹は、自刃してはて、敵方となった園部方から嫁いだ奥方は恨まれつつ堀に身を投げて自害したとの話もある。
その後、現在の石岡は佐竹氏-徳川松平家と統治が続いていくが今でも石岡の地は、大掾氏の影響が残っている。
1590年佐竹軍に攻められ滅亡する
1440年には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、
短歌を詠んでいる。 「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」
道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納める金の梨地の筥(はこ)を作り、その蓋に由緒を書いて
1668年に神社へ奉納。
石岡囃子がここで
「常陸國總社宮大祭」は、石岡市で毎年9月の敬老の日を含む土・日・月に開催される祭事。
川越氷川祭・佐原の大祭とともに関東三大祭りの一つ。別名を「石岡のおまつり」という。
8世紀頃に武家階級の武運長久、五穀豊穣を祈願し、それが庶民に広まったと言われている。 現在では祭りの3日間に約40万人の観光客が訪れ、山車14台、獅子32台が町中を練り歩き無病息災・交通安全等を願う祭り。
この土塁は、府中城の面影をかろうじて残す、貴重なものです。
「鈴ノ宮稲荷神社」は、創建不詳だが、常陸国府の時代に官人の交通の為駅舎や駅鈴が置かれた。この神社のどこかに駅舎があった地と云われている。当時、駅制では、官人は往来する時は駅使が鈴を鳴らして通行していた。
この時の駅鈴を神社に奉納し、「鈴の宮」の名が付いたのであろう。
鈴ノ宮稲荷神社
「照光寺・府中藩主松平家墓所」は、初代水戸藩主徳川頼房の五男、頼隆が祖。
頼は、2万石、陸奥国18か村・常陸国19か村で御連枝、水戸徳川家分家4藩「高松・守山・宍戸・府中」の一つとなる。
上屋敷小石川で10代頼策の時、明治に。
照光寺
「徳川御三家」
尾張徳川家、尾張藩、62万石、名古屋城。紀州徳川家、紀州藩、56万石、和歌山城。水戸徳川家、水戸藩、35万石、水戸城。
市内の中央にあるが緑多く文化財指定、浄土宗・山号雷電山「照光寺」
「高照山養願院 東耀寺」は、 宗派天台宗 照光寺と隣接している。
照光寺と同じ若松町にあり、山門を通ると天台宗別格本山と記された石柱と閻魔堂がある。
721年 法相宗の寺院として創建され、その後真言宗となり 1640年天台宗となった寺。
天台宗別格本山に昇格した。
東耀寺
「浄瑠璃山 龍光院」は、宗派天台宗 、 常陸国府(現在の石岡小学校)の西に建立。
創建は不詳ですが、939年、平将門が常陸国府を攻めた時に焼失しましたが、将門鎮圧の最大の功労者である平貞盛が再建されたといわれ、
平貞盛は父高望王の子国香が将門に殺されたことで京から常陸国に戻り940年に、下野国(栃木県)の豪族藤原秀郷を味方につけ 将門を滅ぼし、平家黄金期へつながる伊勢平氏の祖、「平維衡」の父。
龍光院
「宮部不動院」は、市若宮にある。寺号 「明王山 虚空蔵寺不動院、真言宗. 不動院は1573-1592年の戦火を受けて古記録を焼失している。
開基などは不明である。
宮部地区は旧府中城の麓。戦国時代1590年に府中城が佐竹氏に攻められその時戦火を受け、そのほとんどが消失した。
佐竹軍は府中城を攻撃、これに対して「大掾清幹」は抵抗したが力尽き自刃した。
馬場資幹以来、府中に君臨した大掾氏が滅亡した。
宮部の残念坂には城を落ちのびた清幹がこの坂まで来てうしろを振り返り、燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承があり「残念坂」の名が残っている所。
不動院
次回は、土浦城(亀城)へ。