syuの日記・気まま旅

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つくば牡丹園と若栗城

2013-06-30 | 気まま旅

JR常磐線牛久駅下車、つくば市若栗の「つくば牡丹園」へ向かう。牛久は、茨城県南部、牛久沼の東に接している。
牛久の名は、泥深く牛をも飲み込む「牛食沼」から「牛久沼」となったと聞く、江戸時代は、城中が牛久藩「山口氏」1万石の城下町で、
水戸街道の宿駅として発展、我が国葡萄醸造の発祥地でもある。
牛久駅からつくばエクスプレス「みどりの駅」行で20分に牡丹園はある。

牛久と筑波の中間に「つくば牡丹園」が
    


円内は、すり鉢状の池の眺望が美しい、敷地には550種のp牡丹を始め200種の芍薬を植栽されている。
ツツジ、サツキ、アジサイ、シャガなどが組みあわせられ四季の庭として楽しめる。
牡丹は、遣唐使により中国から渡来され、江戸に入り鑑賞用として広まっている。鉢植えでも楽しめ、身近な花になっている。

野菜、果実農園と牡丹の葉で作ったお茶も飲める(有料)

人間の顔ぐらいある大きな牡丹の花
  

立てばシャクヤク座ればボタン…。という文句がある。日本でも昔から美しい花の代表の一つ、中国でもボタンは「百花の王」と呼ばれている日本には平安時代に伝えられたといわれている栽培の歴史の古い落葉性の花木です。
草丈は大きくてもせいぜい2mほどで、花は大きく、重たそうにたくさんの花ビラをつける。
花色は白、赤、紫色、黄色などなかなか豊富。品種として正式に名前の付いているものも星の数ほどあるという。

平日で、園内は2~3組でのんびり鑑賞できた。

花職人の園長は、オリジナル堆肥を開発し販売していた。花の病気を治すカギは土、堆肥をいろいろブレンドして、花・野菜に良い堆肥が出来たという。(4kg、525円)

入園料は、800円

濃い緑の園内に牡丹畑が
    

武将の「栗林義長」は、女化原の狐の子孫、と云われた、栗林下総守義長。
歴史上の実在の人物で、室町時代末(戦国時代)、つくば市南部・伊奈町・牛久市を本拠に活躍していたとされる。
伝説によると、栗林下総守義長は戦国時代の岡見氏の重臣で、「関東の孔明」といわれた知略家で知られている。
栗林義長の詳細は不明ですが、「女化原の狐の子孫」であるという「伝承」が残されている。

城跡の小高い裾野を牡丹園に
    

「若栗城 つくば市若栗」城は、旧茎崎町の北西端辺り、興南橋を渡ってすぐ右手に見える、比高10mほどの台地の先端部にあった。
「つくば牡丹園」の北側の台地。
この台地は南西に向かって突き出した舌状のもので、先端部がかなり細くなっており、稲荷社が残っている。

連郭式に3郭が並び、1郭と2郭との間には、幅10mほどの広い堀がある。この堀の北西側に、櫓台のような独立した高まりがある。
この堀は深さ2mほどで、幅のある割にはさして深くない。埋められたのだろう。
2郭は、広大な3郭と続いている。
3郭と、台地基部との間には食い違いの土塁が残っており、ここが虎口であったと思われるのだが、空堀などは残っていない。
土塁だけではいかにも守りが貧弱である。
ここも埋められてしまったのだろうか。この部分も含めて、全体に大分改変されている気がする。
郭内は山林化しており、耕地整理が行われたという感じでもない。なぜ、遺構がこのようになってしまっているのか、謎という。

若栗城は「東国闘戦見聞私記」等でおなじみの「栗林義長」の居城といわれている。
[岡見系図」に「栗林吉(ママ)長は若栗城を居城とした」といったことが載っている。栗林義長の城としては、全体に小ぶりで守りも貧弱な気がする。栗林義長の城であるなら、小さすぎる。

城跡は、雑木林に、
    


城は、平将門の叔父良正の居城があったところで、水守の営所と呼ばれていた。
その後城の動向がどうであったか明らかではないが、現在残る土塁や堀の遺構から考えると、少なくとも室町時代くらいまでは用いられていたのではないかと推測。
比高20mほどの台地が城址で、周囲の田は堀の跡で、主郭部分の北側と南側に大きな土塁、古墳を利用したような土塁である。
特に北側の桜塚と呼ばれる土塁は物見台のような形態となっている。
手入れされず、周囲はすっかり雑草に覆われているが、現在、牡丹園で、美しい花の庭になっている。

濠跡を池にしたのか?
    


これで、水戸街道は終わります。

土浦城 (亀城)

2013-06-28 | 気まま旅
「土浦」と云えば、1936年阿見町の、飛行予科練習生の「霞ヶ浦海軍航空隊」が置かれた所で、軍都、予科練の町である。

                若鷲の歌「予科練の歌」  昭和18年 (少国民の憧れであった)
           1、若い血潮ちしおの 予科練よかれんの 七つボタンは 桜に錨いかり
             今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦かすみがうらにゃ でかい希望きぼうの 雲が湧わく

           2、燃もえる元気げんきな 予科練よかれんの 腕うではくろがね 心は火玉ひだま
             さっと巣立すだてば 荒海越あらうみこえて 行くぞ敵陣てきじん なぐり込み

          
茨城県中心、近代的土浦駅前


1590年、土浦は、菅谷氏の支配を離れ、結城に本拠をもつ結城秀康の所領となり、土浦城には代官が置かれた。
秀康が1601年に越前転封後、領主は松平信一・西尾忠永・朽木植綱と代ったが、1669年、「土屋数直」が土浦城主となった。
その後一時大河内松平氏の支配があったが、それ以外は明治維新まで約200年間土屋氏の支配が続く。

城下の整備が本格的に開始されたのは松平氏の時からで、水戸街道を城下に取り込みその沿道に田宿町・中城町・本町・中町・田町・横町などを造成し、櫻川に銭亀橋、堀川に簀子橋旧櫻川に櫻川橋の3橋が架橋され、武家屋敷として勝軍木郭・西郭が造られた。
1716~36年、の土浦城郭図によると、城下の武家屋敷と町家とは水堀によって明確に区画されている。
土浦は、水戸街道・霞ヶ浦・桜川などを通じて商業が盛んで、1836年の町奉行より伺有之承届に「中城町分駒市 三月十一日より十五日迄」「東崎町分大市 十月廿一より廿五日迄」とあるように、駒市・大市が開かれていた。

県南部、霞ケ浦土浦入りに面する市


「琴平神社」は、江戸時代神社境内に「沼尻墨僊」1775~1858年、開いた寺子屋があった。
墨僊は号で、名を一貞、常治と称し、土浦藩士の太田留蔵・広瀬克斎に師事し、沼尻修平に筆法を学んだ。
多芸多才で天文学・地理学に業績をあげ、物理学・土木技術に通じ、漢詩・書道・絵画にもすぐれていたという。

1803年、寺子屋ははじめ「時習斎」と称したが、のちに「天章堂」と名を改め、 墨僊は温厚・誠実な人柄で、指定を懇切丁寧に教えた。
そのため遠近から墨僊を慕って入門するものが多く、県南地方最大の寺子屋となった。
墨僊の没後、寺子屋は子の墨潭、のち中條氏と改姓、1871年まで続いた。

戦国時代から城下町と水運、水戸街道宿場町
    

市名は、桜川の三角州が土で出来た浦であるからと云う。北部に工業団地、南部に住宅地、県南の中心都市である。
レンコン生産は、全国一を占め、霞ケ浦のワカサギ加工佃煮も知られている。
現在、筑波研究学園都市の玄関口として発展を続けている。

レンコン生産全国一、ワカサギの佃煮で知られている
    

「土浦城・亀城公園」

平安時代、938~47年に「平将門」が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かではない。室町時代から安土桃山時代に入り、文献上
確かなのは室町時代、1429~1441年に常陸守護、「八田知家」の後裔、豪族の小田氏に属する「若泉三郎」が築いたのが初め。
1516年に小田氏の部将「菅谷勝貞」が「若泉五郎右衛門」を滅ぼし、その家臣 「菅谷某または信太範貞」が城に入った。
後、菅谷氏が(勝貞、政貞、範政)の三代にわたって土浦城を守った。
戦国時代に佐竹氏は、常陸に勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた「小田守治」が入城。

戦国時代が終わると、土浦は、「結城秀康」のものになり、小田氏はその家臣になった。
代わって「多賀谷村広」が城代を務める。
1601年に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の「松平信一」が土浦城に入った。
信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。
(1986年の発掘調査、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明)

1429年小田氏家臣「若泉三郎」が築城


「小田守治」は、1557-1610、戦国時代の武将。常陸小田氏の一族。小田氏治の嫡男。通称・彦太郎。長男ではないが、兄友治が庶子の為に、守治が家督を継いだ。
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領を没収された。その後、妹が結城秀康の側室になっていた縁からこれに仕えた。
関ヶ原の戦いの後、秀康が越前への転封となると、これに従ったという。

小田氏治(常陸の不死鳥)、小田氏15代最後の当主で宇都宮氏の一門、30年常陸の防衛に努め、最期は、越前浅羽で69歳没
扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方・連合軍(8万)と埼玉河越城の北条綱成軍、小田原北条氏康軍が夜襲攻撃(日本三大夜襲)で
北条の勝利し関東を決定的とした。小田氏は、上杉・足利軍と共に敗れている。


土浦駅北約1Km、中央にある城跡
  

昔は、五重の濠、土浦城は水城
    

江戸時代になると、1617年に「松平信吉」が上野国の高崎に転じ、土浦には「西尾忠永」が入った。
忠永の子忠照は、1620年から7年かけて西櫓と東櫓を作らせ、1622年には本丸の正門を櫓門に改めた。
これにより本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになった。
1649年に「西尾忠照」は、駿河国の田中に移った。かわって「朽木稙綱」が城主となり、1656年に櫓門を現在ある形の太鼓櫓門に改築。
658年に、英庫と焔硝倉を建造した。

1669年に「土屋数直」が入った。
土屋氏は元来武田氏の家臣で、武田氏の滅亡後家康に仕え、数直の代に大名になった。
松平信興の時代と以後江戸時代を通じて土浦城の主は「土屋氏」であった。
1682年から1687年の5年間、松平信興が城主で、信興は、兵庫口と不破口を作り、門を建てた。
また、本丸の霞門を改築し、翌年にかけて水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口としたと云う。

霞ケ浦に近く水には恵まれていたのであろう
    


小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れてここ土浦城に 入った。
手這坂の戦いで真壁 軍に大敗して勢力を失う。1570年頃。1590年の豊臣秀吉による小田原城の後北条氏征伐の際に土浦城は菅谷範 政が拠っていたが徳川家康の家臣本多忠勝に接収され、家康の次男で秀吉に養われた 結城秀康の領地となる。

    

廃藩置県の1873年、太政官符令第84号で土浦城は廃止。
本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われ、本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊され、二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
1884年(明治17年)に火災で本丸御殿が失われ、このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去。
1899年(明治32年)に本丸と二の丸南側が亀城公園となる。

櫓門と堀 城門を瓦葺き母屋造平層に
    

平地にあるので、土浦の街を天守閣から一望は出来ない
    

土浦・つくばの銘酒(平成5~6年時)土浦、細野文(水郷娘)。つくば、安井酒造(住の江、剣正宗)。稲葉一衛(男女川、神仙)
浦里酒造(福笑)。





次回は、つくば牡丹園へ。

石岡一里塚 府中城

2013-06-26 | 気まま旅

県道52号(石岡城里線)沿道に「石岡の一里塚」はある。
江戸日本橋から23里目(約90km)にあたるこの一里塚は、かつての水戸街道が県道と化しているにも関わらず、両塚が良好な状態で現存しており、近年まで東塚には樹齢400年という初代の榎が生き残っていたが、残念ながら2002年の台風によって倒木してしまい、現在は一里塚付近に育っていた苗木が2代目の榎として移植されているという。
茨城県内の水戸街道は一里塚の残存率が高いが、中でも石岡の一里塚は、良い状態で残っている。

一里塚とは江戸幕府成立後に築造された江戸日本橋を起点にする主要街道の里程標であり、1里(約4km)毎の街道両脇に目印として設置された土盛りのことである。一里塚の崩壊を防ぐ目的で塚上には主に榎や松が植えられている。

土浦・中貴・稲吉ー府中ー竹原・片倉・日光街道  筑波山を見ながら  


石岡府中一里塚は、江戸から16番目、水戸まで21番ある。

水戸街道ー江戸街道
江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸

昔は江戸方面へ行くときは「江戸街道」水戸方面へ行くときは「水戸街道」と呼ばれていた。
宮城県岩沼市まで続く陸前浜街道の一部である。

府中の一里塚
    

昔懐かし、国分寺の五重塔と霊峰筑波山(JR常磐線の陸橋)の石絵。

一里塚て手前に「是よりきびさけいなり道」の碑。調べてみると「木比堤神社」があった道と云う。

「常陸府中藩陣屋(石岡陣屋)跡」の碑、 陣屋跡は、石岡市民会館、 石岡小学校になっている。移設されて、陣屋門が残っている。

府中藩松平氏の城下町・水戸街道の宿場
    

「石岡・常陸平氏略系図、桓武天皇ー国香、良望ー貞盛と繁盛ー維幹ー為幹ー繁幹ー致幹ー直幹・・・・・。」

大掾氏とは、桓武天皇の血続・宗家。平安から安土・桃山の700年間、常陸国府の石岡を支配したのか「大掾氏」
祖は、平国香(天慶の乱、で甥の平将門に討たれる)の子「貞盛」が「藤原秀郷」と将門を討ち取る。その甥「維幹(養子になる)」が
「常陸・大掾に任命され代々続いていく。大掾氏が家名となる。
本拠地は現在のつくば市水守に置く、その後、多気(北条)に移し「多気大掾氏」と呼ばれる。

「府中城」は、今から1300年以上前に常陸国衙があり、常陸の中心となった土地で、939年に起こった平将門の乱によりそのほとんどが焼失していたため、建設された当時はどのようになっていたかはほとんど記録に残っていないという。
現在の石岡小学校の入口に残る土塁跡が府中城の規模を偲ぶ唯一のものといってよいが、周りを巡ってみるとあちこちに面影らしきものを発見することができる。
1590年にまだ若き(18歳)の当主大掾清幹が佐竹氏に攻められ炎上する城を後にしながら宮部側に城から下りながら「嗚呼残念」と嘆いた。
清幹は、自刃してはて、敵方となった園部方から嫁いだ奥方は恨まれつつ堀に身を投げて自害したとの話も伝わっている。
その後、現在の石岡は佐竹氏-徳川松平家と統治が続いていく。
石岡の地には、大掾氏の影響が今でも残っている。

陣屋門(保存状態が良い)小学校の校庭に
    

「大掾職」を欲しがったのが「八田氏・後の小田氏、土浦城に入る」であったが失格し、一族の水戸城の「馬場資幹」が継いでいる。
馬場資幹大掾氏から、南北朝の混乱期の時代、佐竹氏・小田氏との争いの中、1326-1392年大掾氏は、足利氏と蜜になる。
大掾14代高幹、16代満幹と足利将軍の一字を受けている。
1590年豊臣秀吉から朱印状を受けた佐竹氏に滅ぼさる。24代大掾清幹は18歳で自刃士と云う。

「常陸国総社宮」は、祭神6柱。 伊弉諾尊、 大国主尊、 素戔嗚尊、 瓊々杵尊、 大宮比売尊、 布留大神。

社伝によれば、奈良時代の天平年間 729 - 749年の創建。ただし、総社の制度が確立したのが平安時代末期で、疑問を呈している。

当初名は、「国府の宮」であったが、901 - 923年に天神地祇の6柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、「総社」(古代の読みは「そうじゃ)に名を改めたている。
また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、938 - 947年に大掾氏(平詮国)が常陸府中に築城した際に鎮守のために
現社地に遷したという。

国府宮・総社宮とも、ここに名門大掾資幹居城の石岡城(府中城)が
    

「国府」は、「和名抄」によれば、茨城郡で、現在の石岡市、発掘調査が行われている。
その設置時期は、「日本書紀」で、大化2年(646年)以後であるという。
府中城跡(現在の石岡小学校敷地)を、「国衙跡」とみて発掘が行われ、国分寺系の古瓦や建物遺構を検出しているが、国府機構の一部との確証は得られていない。
また、石岡市内における国府域なのかも分かっていない。
鎌倉期の古文書に「古国府」という文言が出ているところから「現国府」があったのだろうと考えられるが、確かではないらしい。

 今でも樹木・堀・土塁などが
    
 
馬場資幹は、頼朝の鶴岡八幡参詣では、先陣の随兵を務めている(吾妻鏡)
  

石岡小学校の入口に残る土塁跡が府中城の規模を偲ぶ唯一のもの、周りを巡ってみるとあちこちに面影らしきものを発見することができる。
1590年にまだ若き(18歳)の当主大掾清幹が佐竹氏に攻められ炎上する城を後にしながら宮部側に城から下りながら「嗚呼残念」と嘆いたその想いがした、清幹は、自刃してはて、敵方となった園部方から嫁いだ奥方は恨まれつつ堀に身を投げて自害したとの話もある。
その後、現在の石岡は佐竹氏-徳川松平家と統治が続いていくが今でも石岡の地は、大掾氏の影響が残っている。

1590年佐竹軍に攻められ滅亡する
    

1440年には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、
短歌を詠んでいる。    「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」

道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納める金の梨地の筥(はこ)を作り、その蓋に由緒を書いて
1668年に神社へ奉納。

石岡囃子がここで 
  


「常陸國總社宮大祭」は、石岡市で毎年9月の敬老の日を含む土・日・月に開催される祭事。
川越氷川祭・佐原の大祭とともに関東三大祭りの一つ。別名を「石岡のおまつり」という。
8世紀頃に武家階級の武運長久、五穀豊穣を祈願し、それが庶民に広まったと言われている。 現在では祭りの3日間に約40万人の観光客が訪れ、山車14台、獅子32台が町中を練り歩き無病息災・交通安全等を願う祭り。


この土塁は、府中城の面影をかろうじて残す、貴重なものです。
    

「鈴ノ宮稲荷神社」は、創建不詳だが、常陸国府の時代に官人の交通の為駅舎や駅鈴が置かれた。この神社のどこかに駅舎があった地と云われている。当時、駅制では、官人は往来する時は駅使が鈴を鳴らして通行していた。
この時の駅鈴を神社に奉納し、「鈴の宮」の名が付いたのであろう。

鈴ノ宮稲荷神社
    
 
「照光寺・府中藩主松平家墓所」は、初代水戸藩主徳川頼房の五男、頼隆が祖。
頼は、2万石、陸奥国18か村・常陸国19か村で御連枝、水戸徳川家分家4藩「高松・守山・宍戸・府中」の一つとなる。
上屋敷小石川で10代頼策の時、明治に。

照光寺
    

「徳川御三家」

尾張徳川家、尾張藩、62万石、名古屋城。紀州徳川家、紀州藩、56万石、和歌山城。水戸徳川家、水戸藩、35万石、水戸城。

市内の中央にあるが緑多く文化財指定、浄土宗・山号雷電山「照光寺」
    

「高照山養願院 東耀寺」は、 宗派天台宗 照光寺と隣接している。

照光寺と同じ若松町にあり、山門を通ると天台宗別格本山と記された石柱と閻魔堂がある。
721年 法相宗の寺院として創建され、その後真言宗となり 1640年天台宗となった寺。
天台宗別格本山に昇格した。

東耀寺
  

「浄瑠璃山 龍光院」は、宗派天台宗 、 常陸国府(現在の石岡小学校)の西に建立。

創建は不詳ですが、939年、平将門が常陸国府を攻めた時に焼失しましたが、将門鎮圧の最大の功労者である平貞盛が再建されたといわれ、
平貞盛は父高望王の子国香が将門に殺されたことで京から常陸国に戻り940年に、下野国(栃木県)の豪族藤原秀郷を味方につけ 将門を滅ぼし、平家黄金期へつながる伊勢平氏の祖、「平維衡」の父。

龍光院
    

「宮部不動院」は、市若宮にある。寺号 「明王山 虚空蔵寺不動院、真言宗. 不動院は1573-1592年の戦火を受けて古記録を焼失している。
開基などは不明である。

宮部地区は旧府中城の麓。戦国時代1590年に府中城が佐竹氏に攻められその時戦火を受け、そのほとんどが消失した。
佐竹軍は府中城を攻撃、これに対して「大掾清幹」は抵抗したが力尽き自刃した。
馬場資幹以来、府中に君臨した大掾氏が滅亡した。

宮部の残念坂には城を落ちのびた清幹がこの坂まで来てうしろを振り返り、燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承があり「残念坂」の名が残っている所。

不動院
    

次回は、土浦城(亀城)へ。

茨城県石岡市古墳、国分寺

2013-06-24 | 気まま旅
今回は中世の歴史に興味あり、4回にわたり常磐線石岡駅から土浦、牛久と回ってきました。

「茨城県石岡市」は、県中央部、筑波連峰の東方、霞ケ浦の北西端になる。
石岡の名は、鎌倉期の大掾資幹居城の石岡城(府中城)にちなんでいる。大化改新により、「常陸国府」が置かれ「府中」と呼ばれている。
中世は、大掾氏の支配下にあり、「国衙」を置き、「六斉市」が開かれた。

「常陸国分寺」を訪ねた。

駅構内には、古墳時代から国府宮の絵が迎えてくれた
  

常磐自動車道路建設に伴う発掘調査で発見された遺跡、「鹿の子遺跡」から発掘された建物は、住居ブロッ、工房ブロック(鉄品や銅製品を造った作業場)官衙ブロック(役所的な機能を持ったところ)の三つのブロックに分かれており、この遺跡は、鉄製品を中心に製造していた特殊な構造を備えた建物跡が発見され、常陸国の官営工房跡と考えられる。

昭和 44 年まで石岡小学校の校門に、( 現在は,学校敷地内に移転)箱式石棺が、発掘調査により、一辺 130cmの方形の古墳が発見、約 1300 年前のものと推定されており、蓋石. 5枚、側石8枚、妻石2枚で作られている。


石岡は、貴重な原始・古代の遺跡や古墳や貝塚が出土
    


石岡陣屋門石岡市民俗資料館、 常陸国の国府跡と見られている現在の石岡小学校の 敷地内に、石岡陣屋門がある。
1828年に府中松平藩の陣屋正門として建て られた重厚な門で、形式は高麗門。
隣接の石岡市民俗資料館は、主に奈良、平安時代 の石岡の遺跡、遺物を展示。

小学校に隣接して、常陸国総社宮が、 大国主命など の神話は、ここから。

水戸を中心に常陸国一大豪族の基盤を作る「大掾家」将門の侵攻からまもる
  


「風間阿弥陀」は、高さ約130cm、五輪塔が壊れたような形。小栗城(旧協和町)の守り本尊として祀られていたという。
1423年小栗城落城の折、小栗十勇家臣の風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(旧千代田町下志筑)、幼い四代目三郎正三と共にこの阿弥陀を残してきた。
それが風間家で代々守り続けている阿弥陀であるという。
「風間家古文書」によると、本尊は地下に埋没し、地上に粘土で固めた像を作製したと言い伝えられている。

柔らかいまるで幼子のような感のする阿弥陀さま、

万葉歌碑に、「庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな」あり。

歴史ある石塔が
    

「常陸国分尼寺跡」国指定特別史跡)地、石岡市若松、

国分寺・国分尼寺は、741年 「聖武天皇」の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院。

国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町によってまかなわれたという。
一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多い。
常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。
昭和44年から4次にわたる発掘調査により、各建造物基壇の規模や南大門跡、北方建物跡、西及び北を限る溝跡などが明らかにされている。
発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが多い。
また、土器の中では、「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。
国分尼寺のあった場所は昔尼寺ヶ原と呼ばれており、後に市街地に移った清涼寺もあった。


「常陸国分寺跡」特史指定は、石岡駅北西約1km、国分寺境内にある寺跡、

尼寺は、国分寺北西約500mに 
    

全国に国分寺跡はかなり現存していますが、このように国分尼寺跡がそのままのこされているところは非常に少なく、
備中(岡山県総社市)とここ常陸(石岡市)だけである。
特に常陸は唯一国分寺跡と共に国の特別史跡に指定され、現在は訪れる人もほとんどなく桜の古木が2本の寂しい。

小学校の裏手に礎石が
  

 
府中城の大掾氏が佐竹義宣により滅亡に追い込まれた 1590年、この国分尼寺も兵火で七堂伽藍焼失。 国分尼寺では、火の回りがあまりにも早く、全部の物品を持ち出すことができず、大切な仏像、金と銀で作られた調度品や装飾品などを炎の中から運びだし、略奪から逃れるため、全てごき洗いの池に投げ込まれたと伝えられている。
しかし、兵火の中で尼僧や寺院の関係者は全員死亡し、ごき洗いの池も焼け落ちた瓦や木材で埋まってしまいました。そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられている。

江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。
仏罰を恐れた人々はそれ以来誰も掘ろうとはしなかったといわれている。
 
「朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体」 尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌。

貴重な焼き物など出土している
    

国分尼寺は光明皇后の強い願いで建立され、「法華滅罪之寺」という。
総国分寺が東大寺であるのに対し、総国分尼寺は法華寺である。

近くに舟塚山古墳・原始・古代遺跡や貝塚が
    

聖武天皇は、五穀豊穣・国土安穏を願い、68の国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、疫病も流行しており、仏の力を借りることで国を安定させようと考えた。

石岡市にある「常陸国分寺」は、発掘調査を行った結果、中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門から金堂にかけて回廊が巡ることが分かり、境内内には塔跡のものと思われる礎石(心礎)が出土。
塔の正確な位置はまだ判明していませんが、伽藍の東側に「ガラミドウ」という地名があり、関係が注目されている。

741年、聖武天皇の勅願により創建。伽藍、中門跡残る、金堂 講堂 南西回廊などの礎石
    

国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺、が建てられた。

関東の国分寺は、甲斐国分寺(山梨県笛吹市一宮町国分)、相模国分寺(神奈川県海老名市国分)、武蔵国分寺(東京都国分寺市西元町)
安房国分寺(千葉県館山市国分)、上総国分寺(千葉県市原市惣社)、下総国分寺(千葉県市川市国分)で、その近く尼寺がある。

弘法大師堂                     瓦屋根が
    

石岡市の寺院は、「浄瑠璃山東方院 国分寺」、 宗派真言宗智山派
国分寺は、五穀豊穣・国土安穏を願い、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、ここ常陸国分寺の建立は、752年で百済王敬福が常陸守に任ぜられたとある。
寺域は東西約270m南北約240mの大変大きな規模で、金堂、講堂、中門、回廊、仁王門や七重の塔などの礎石が昭和52年、56年の発掘調査で明らかになっている。
平安中期の平将門の乱(939年)など度々の焼失、再建を繰り返し、 現在の本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したもの。

入口の中門跡から右側の参道を通ると薬師堂が建立されており、左側の参道を行くと 旧千住院山門があり、さらにその奥に国分寺本堂が建立されている。
境内には杉などのほか桜の木が多い。
薬師堂の右手に都々逸坊扇歌堂が建てられています。 扇歌は、1804年 久慈郡佐竹村磯部(常陸太田市)に生まれ 江戸へ出て音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りし、寄せの上座に上がり、評判も高く、さらに京、大坂方面を巡業し都々逸を広めた。
高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となり、 姉の嫁ぎ先である府中(石岡)に身を寄せていたという。
上は金、下は杭なし吾妻橋 (江戸追放のきっかけとなった川柳)


七重塔の心礎が
    

桓武天皇 737-806 50代 44歳で即位 平安京を造営、律令制を再編強化。遷都は、奈良平城京から京都40kmの長岡亰(784-794)川の
水運などで現京都平安亰に移っている。

平将門 940年 武将桓武平氏の一人、東国司追放し、新皇と称した。平貞盛・藤原秀郷に討たれる。

田岡の大祭の山車・石岡囃子・幌獅子は有名である
    

都々一坊扇歌は、1804年に、常陸太田市に生まれ、江戸で都々逸節を 広めた。
しかし、「上は金、下に杭なし吾妻橋」という歌が幕府の怒りを買い、江戸 払いになり、姉の嫁ぎ先である府中、石岡市で生涯を終えました。 扇歌堂は国分寺 境内中央にある。

一坊扇歌像
    

石岡の銘酒(平成5~6年時)
石岡酒造(白鹿・筑波など)。白菊酒造(白菊)。藤田聡(富士泉、室町美人、吟声正宗)

本堂                          扇歌の墓
    

次回は、石岡城(府中城)を。       


千貫神輿 鳥越夜祭り

2013-06-22 | 気まま旅

大江戸祭りは、今からおよそ286年前の 1719年 徳川幕府八代将軍吉宗の時代、時の町奉行 大岡越前守忠相の唱導で「いろは四十八組」の町火消が江戸に誕生し、さらに翌年、 本所・深川に南・北・中の十六組が生まれた。
江戸町火消は十組の大組に組織され、その中の「一番組」 「五番組」「六番組」が現在の「第三区」のルーツである。
明治初年に「第三大区」となった時、一番組から六番組(元や・万 ・ま・く・ゐ・お組)までで組織されていた。
七番組(元の組)は明治20年の名簿に記載されているので、その前に加入した。そして戦後、 昭和30年以前に八番組から十番組(元こ・ふ・け組)までが 加わった。しかしながら、新たに加わった渋谷区内の十番組は昭和50年代に、続いて九番組・八番組が平成に入ってから欠番になり現在に至っている。 

須賀神社内の牛頭天王は、疫病を治す諸神を統率する神なので、疫病がはやる六月ごろに祭礼を行うのが慣わしになっていた。
祭礼は「天王祭り」と言われ、
麹町の「山王祭り」は、神田の「神田祭り」浅草の「三社祭り」、深川の「八幡祭り」と共に江戸の「五大祭り」として有名であった。
そしてく組は今も活動を続け、四谷の祭りを盛り上げてくれている。

今日は、神輿の大きさ大江戸一番、1月のどんどん焼で知られた「鳥越神社」夜祭に来た。

昔は、鳥越山であったが家康の令で崩された  寺領は、広大であったと云う      蔵前通りに面している         
    

「蔵前」、幕府は隅田川を埋め立てて幕府の米蔵を作った所「米蔵の前」と云う意味である。全国の大量の年貢米が貯蔵され、旗本や御家人
に給付米として支給されていた。
戦後は、国技館が建てられ、昭和60年両国に移転している。

都立蔵前工業高等学校(蔵高)は、台東区蔵前一丁目になる       拝殿前は列に
    

鳥越神社の祭神は、日本武尊と天児屋根命に、東照権現(家康)また、八幡太郎義家が深く信仰したと伝わる神社である。

前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉ったと伝わる。

江戸時代までは約2万坪の広大な敷地だったが、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられてしまったと云う、神社が土地を失ったのは、
江戸城築城と隅田川や当時鳥越のすぐ近くにあった姫が池の埋め立てのためにたくさんの土が必要になり、鳥越の丘を崩して使用した。
その後、江戸城の城下町を形成するのと、旗本や大名屋敷の御用地とするために 幾度となく幕府に土地を没収された。
それまで、鳥越の山にあった鳥越大明神と熱田神社と第六天神の鳥越三所明神のうち、 熱田神社が今戸に、第六天神が蔵前にそれぞれ移動させられた。
鳥越大明神だけがその地に残されて、今の鳥越神社になった。 第六天神は今の第六天榊神社である。第六天榊神社の紋も鳥越神社と同じ七曜紋である。

下町の商店街、最近店が増えだしたという          狭い路地に屋台が
    

鳥越町は、台東区の南部で、蔵前通りの北部で現在東京の地場産業地域の一角をなし、洋傘などの小規模工場や卸問屋が集中している。

鳥越出身に、
渡辺 篤 1898 - 1977年がいる。大正・昭和期の俳優は、西鳥越町の金物商の息子として生れ、幼少時に父が急死し、母と群馬県邑楽郡館林町)に移り、小学校を卒業後、浅草に丁稚奉公に出た後、館林で小さな店を開くが倒産。
1919年、上京し、浅草の役者専門の化粧品屋に勤め、役者志望が強かったので、「東花枝一座」の俳優募集に応募して入団する。
石井漠、高田稔の下へと移るが、オペラ俳優としては芽が出ず、1921年、創立したばかりの「牧野教育映画製作所」に入社、牧野省三脚本、沼田紅緑監督の「兄弟仲は」に江川宇礼雄と主演し、映画デビューするが、役らしい役はつかなかった。

徐々に喜劇を中心に主役も張るようになり、「ダン籠の鳥」などの斎藤寅次郎監督の「ナンセンス喜劇」に次々と主演し、喜劇俳優としての地位を確立する。1931年には、五所平之助監督の日本初の本格トーキー映画、「マダムと女房」に田中絹代と主演した。

古川緑波と行動を共にし、「緑波一座」の舞台や主演映画に出演。一座のナンバー2として、活躍する。戦後はフリーになり、喜劇や時代劇に多く出演したが、中でも黒澤明監督に重用され、「素晴らしき日曜日」から「どですかでん」まで重要な役どころで出演した。
特に「どん底」での演技は評価が高い、

町工場の住宅街を                    「勢内連」町会の山車と神輿が
    


「鳥越おかず横丁」という小さな商店街がある。
浅草橋駅と御徒町駅のほぼ中間あたりに位置する商店街で、神社の近くにある商店街。
もともと、町工場や個人商店などが多いエリアであり、忙しく働く近隣住民のお腹を満たすため、総菜や日用品を扱う商店が軒を連ねていた。

ただ、ここ数年の後継者不足、経営者らの高齢化に伴い、同エリアの商店の多くが閉店しているが、昔ながらの魅力と味を伝える店が今もなお残っており、懐かしい商店街、最近は、新しい店が少しずつ増えてきているという。

昔懐かしい、お面、焼きそば、金魚すくい、綿あめ、、、の屋台が所狭しと掛け声を
    


鳥越神社大祭は、東京一の大神輿(千貫神輿)が見られ、6月の夜空の下、午後9時宮人で盛り上がりも東京一となる。

六ヶ町連合渡御と数も多い。 鳥越まつり 千貫本社神輿の渡御 ・宮元宮入・ 千貫本社神輿が神社へ・ 女性転倒とトラブル

5:21 宮出し 千貫本社神輿 発輿式 ・9:29 千貫本社神輿の渡御。

ねじり鉢巻きに「嶋」の半纏、せやーせやーと町内を           女性も男性に混じって元気に
    

御本社宮神輿は、台輪幅4尺3寸の元祖千貫神輿で有名。
狭い下町の町内を渡御するので、大きな胴体に比べ太く短い担ぎ棒のために担ぎ手一人の負担も大きくより重く感じるので、昭和の初めよりその重さから都内で最も重い神輿と言われていた。
毎年氏子により担がれ、氏子町内を渡御される神輿としては都内でも最大級で重い神輿である。
本社神輿は例年、日曜の朝6時50分(発輿式は6時半から)より宮出しされ午後9時に宮入となり神社に戻る。
本社神輿の列の先頭には、猿田彦(天狗)や、手古舞連、子供たちの持つ五色の旗が歩き神輿を先導し、夜8時過ぎの宮入道中では神輿の周りに提灯を付け、高張り提灯に囲まれ宮入りする。
その荘厳かつ幻想的な姿により、夜祭りとしても有名で、暗闇の中を提灯の灯りがユラユラと揺れる事から、お化け神輿の別名もある。
平成9年(1997年)9月14日に、東京湾横断道路アクアラインの開通を記念し、「関東三大宮神輿」として浅草・鳥越神社の本社神輿、深川・富岡八幡宮の二之宮神輿、木更津・八剱八幡神社の宮神輿の連合渡御が行われ、木更津の地で合同奉舁が行われた。

宮元大神輿が休息          宮元は、鳥居の近く      千貫神輿は重そうである
    


千貫神輿は、祭礼などで使用される神輿のうち特に 大きいものを「千貫」という。
重さの単位であり現在では約3.75tに相当し、千貫 で約3750kgとなるが、例えて大きく重いという意味もある。

鳥越千貫神輿は、東京一と云う。


明かりが灯る夜祭千貫神輿神輿          神社近くで気合が
    

担がれた神輿の屋根の鳳凰が安定し、左右のバランスの良が要求される。即ち力が均衡しているかである。
戦前生まれの子供神輿は、砂詰神輿で重く、身長、力がアンバランスだと怪我人が出た。担ぎ方も両肩を使っていた。


動員のお巡りさんが「危険です歩道に」見物者には耳に入らないようだ
  


午後9時過ぎに、熱気のなか、閉鎖された、蔵前通り鳥居神社前で降ろされ、担ぎ手と観衆で三々手拍子が繰り返された。

見物内で罵声が、警護の警察官約50人と警護車からスピーカーで注意を、担ぎ手と見物人とトラブルが

千貫神輿が左右に         女性の悲鳴が           日常車の多い蔵前通り
    

車の多い蔵前通りの車道は、完全進入停止になり、提灯と住宅の明りと人人の波でごった返していた。


先頭誘導者の合図で神社鳥居前で降ろされる           午後9時過ぎ
    

帰宅は11時過ぎ、浅草・鳥越は、これで終わります。