syuの日記・気まま旅

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安土城天主  信長  

2014-09-03 | 気まま旅

滋賀県蒲生郡、県中央部、琵琶湖の南岸。先史時代からの文化財多い。観音寺山・安土山と続き、湖南平野に、気候面でも南北の境界線と云われている。
「安土」と云えば、「戦国時代の天下統一の拠点で、安土城と織田信長」。
従来は米作農業地帯。養蚕・漁業も盛ん。

天下統一拠点居城・近世城郭の先駆けたなった。広大差が実感できる「我が国百名城の代表・特別史跡 安土城」
    

安土山(標高192m)と観音寺山(433m)
観音寺城は、「佐々木六角氏の居城」で、険しい山はまさに自然の要害でもあり、山頂の本丸を包みこむように山の斜面いっぱいに造られた曲輪群の、その優美な姿は山城の完成されたものといわれている。
また山麓には城主が日常住む屋形と城下町が整い、城は戦のときにだけつかわれたとも云う。
安土城跡の安土山。安土城は、1568年、観音寺城廃城後の1576年に築城開始している。

丹羽長秀を総普請奉行に据え199mの安土山に築城させた平山城、ここは、北陸・東海・京の要所であった。
  

「佐々木六角」
近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。
鎌倉時代、佐々木氏は「承久の乱」で一族の多くが宮方に属した前歴もあって、鎌倉幕府から特に警戒。
佐々木信綱の死後、所領の多くは3男の泰綱が受け継ぐはずであったが、廃嫡された長男の重綱の訴えを幕府が容れたため、領土は兄弟で四分され、重綱と次男の高信、末子の氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となった。
泰綱の子孫である六角氏が佐々木氏の嫡流であることは変わりはなかったが、その勢力は大きく減退することになる。
鎌倉幕府の滅亡時は、六角時信は六波羅探題に最後まで味方したが敗れている。

信長の思想を表現した天主・館の八角形の空間・天界をイメージした黄金の間は、約30坪が最上部に。
    

「信長の館・安土城天守」(安土城郭資料館から)
1579年、織田信長の命によって建築した安土城は、我が国で最初に天守閣を添えた城であった、木造高層建築で46mの壮大で絢爛豪華なもの、
1582年「本能寺の変」後、半月足らず、築城3年で焼失され、長年、構造・外観など解明されずであった。
「幻の名城・安土城」と呼ばれてきた。
近年になり、加賀藩大工に伝わる「天守(主)指図」が発見され、内藤昌氏など史料と照合や遺跡発掘り、実測調査の結果、解明された。

我が国初の天守閣と世界で初めての木造高層建築であった。僅か3年で「本能寺の変」後、焼失。残念でならない


天守は、天界をイメージした5階黄金の間で、仏教の世界観による理想郷を象徴され、宇宙空間を表す八角形、約30坪の空間。
金粉の壁に釈迦説法図のカラカミ襖絵に囲まれた「総朱漆塗りの床」2畳の畳が置かれている。

当事は、琵琶湖の内湖に囲まれ、南方のみが開けた地形であったと云う。焼失の原因は、織田信雄が誤って焼き払ったと云う説。
    

「スペインセルビリア万国博覧会」日本館に展示された。信長の館に、当時の瓦など再現した「庇屋根」と天人の飛ぶ様を描いた天井「天人影向図」
「金粉の鯱」「金碧障壁画」も再現し展示されている。
信長館入場料¥500・城郭資料館¥200.

本丸御殿は、信長公記・天皇を招きいれる「御幸の間」があったと云う。京都御所清涼殿と酷似した構造になっていたとも云う。
  

信長の父・「織田信秀」 1511-52 尾張国守護代清洲織田氏の三奉行の一人。西三河に侵出して、今川氏と小豆坂で抗争を繰り返している。
斉藤道三と同盟を結び、中央集権に接近し4000貫献金している。
那古野城主「今川氏豊」とは、蓮歌の友達で付け句を贈り合っていたと云う。氏豊は、信秀専用屋敷まで建てたと云う。信秀は、密かに武器を搬入し、
城を攻めて乗っ取ったと云う、信秀死後、後継者争いでこじれている。

東京大・芸大等が、少ない資料で内部の障壁画を共に原寸大にて忠実に復元させている。1992年スペイン万博で日本館メイン展示されている。
    

「織田信長」1534-82 天下布武目前で倒れた。桶狭間で「今川義元」を討つ。足利義昭を奉じて室町幕府再興。
延暦寺焼き討ち・浅井、朝倉氏を滅ぼす・石山本願寺と抗争し・毛利氏・武田氏・上杉氏を圧迫し・天下統一を目前にしていた。
傍若無人の奇行は、いろいろあるが、桶狭間の戦いは、大軍の今川軍をわずか2千兵で打ち取っている。
長篠の戦いでも、足軽鉄砲隊を主力とした新戦術で、馬軍団・強い武田勝頼軍に大勝する。
謀反・本能寺の変の明智軍にも、「是非に及ばず」と叫び、弓・槍で戦い、最後は、寺に火を放った後切腹したと云う。

金箔の壁・釈迦説法図・襖絵・総朱漆塗り・畳・瓦、、当時の信長が「狩野永徳」を中心に書かせた「金碧障壁画」なども再現している。
  

重臣「丹羽長秀」総譜請奉行が、199mの安土山に築城させた平山城である。
当事は、琵琶湖の内湖に囲まれ、南方のみが開くけた地形であったと云う。完成から3年目、中国毛利氏出陣途中の「明智光秀」が謀反、本能寺で
自刃(49歳)その混乱時、天守焼失され落城している。
織田信雄が焼き払ったと云う説、明智が敗走して放火した説等様々である。

石段の行幸門から大手道に最初に伝羽柴秀吉邸跡と櫓門跡が左手に・右手に伝前田利家邸跡が、その上に伝徳川家康邸跡と続く
  

「伝 羽柴秀吉邸跡」
安土城の大手道を登り始める脇に「羽柴秀吉邸跡」と呼ばれる 巨大な屋敷の遺構がある。
しかし、この屋敷が本当に羽柴秀吉のものだったのか どうかは確実にはわかってい無いと云う。面積1500坪。

七曲り坂に伝武井夕庵邸跡・伝織田信忠」邸跡・徳富厳峰作安土城跡詩碑・黒金門になる。
    

「伝 前田家邸」
羽柴家の向かい側に「前田家邸跡」が、?
前田利家がこの場所に巨大な屋敷を築けるほどの地位に?。
利家の後の出世は疑う余地は全くありませんが、この時点で秀吉と双璧を成したかはわかりません。

織田信忠1557-82・岐阜城主、信長の嫡男、勇猛な武将、武田征伐の先鋒大将を任されてい。明智謀反で、京都妙覚寺で自害
    

「伝 徳川家康邸跡」
前田利家邸跡北側上方に位置する曲輪、現在見寺の 仮本堂が建っていて立ち入り禁止の場所が「伝 徳川家康邸跡」とされている。
これも、徳川家康邸跡に?。

織田信雄1558-1630・伊勢国司北畠氏の養子・勝手に伊賀国を攻め信長から折檻状を突き付けられた。安土城を焼いた・家康のスパイ説も。
    

「伝 武井夕庵邸跡」の碑が
信長公記によると武井夕庵は、天正6年元旦の安土城での茶会において、織田信忠に次ぐ席次であったと伝わっている。
信長からの信頼は厚かったとみられ、1579年、安土城が築城された際に夕庵の邸宅は、森成利、津田信澄、織田信忠に次ぐ場所に建てられていた。
これは、理解する。

織田信孝1558-83・三男、岐阜城入り秀吉敵対敗れ自害、柴田勝家と組んで挙兵「恨みをみよや羽柴筑前、、腹を切って臓物を投げつけたとある」
    

本丸、二の丸に続く通路, 二の丸跡にある信長公本廟. 信長公本廟 (天正11年)、羽柴 秀吉が安土城二の丸に 太刀、烏帽子、直垂など信長の遺品を埋葬し、 本廟としたとい われる。
本丸跡の石垣, 安土城天主跡 現在は背丈ほどの高さの石垣に囲まれている。

森蘭丸1565-82・金山城主・信長の小姓、本能寺で討死、明智を成敗を進めていたと云う。
    

「仏足石」
城跡、伝本丸に通じる伝二の丸手前の石段下に置かれている仏足石は、資料で、安土城築城時に石垣の石として運びこまれたものが何らかの要因でこの場所に置かれたものとされている。城の天主の完成する天正7年以前の制作ということになと、わが国で二番目に古い仏足石であるといえる。
仏足石は、瀬川 欣一の「近江の石の仏たち」によると、江戸期につくられたものと断定されている。
城跡の仏足石には刻銘がなく一般的な史料を基にした判断、城築城時に石垣用の石として運びこまれた可能性は完全に否定できないと云う。

宣教師ルイスフロイスは、ヨーロッパにもあると思えない壮大な天主・高さ33m木造高層建築は我が国初であった。
    

「安土城」ほど戦国の世に光彩を放った城はない。全山総石垣、壮麗を極める天主、そして近年の調査でその姿を現した一直線に伸びる大手道、
そのどれもが当時にあっては常識を覆した城郭の出現であった。
1576年 正月、織田信長は丹羽長秀を総普請奉行に命じてこの安土山に築城を開始し、(普請とは土木工事のこと)。

縄張計画に従って本丸部分から始められ、石垣工事に入ったというから信長の気合の入れようがうかがえる。
現在では大手道の発掘によって天皇行幸計画が裏付けられ、それが通説となっている。
戦を前提とした城にはありえない直線の幅広の大手道は天皇を迎えるためのものであり、本丸における礎石配置が御所清涼殿と同様であることから
天皇の御座所がここに設けられたと言われる。

天主の穴蔵地下部分の上、五層七階(地上6階・地下1階)背丈の高さの石垣東西南北それぞれ28mの台地に。
  

「天主跡」
東西・南北それぞれ28mの台地。
礎石が1.2mおきに整然と並ぶ、この部分はs、天主の穴蔵(地下の部分)にあった、その上に大きな天守が聳えていたと云う。
5層7階の天守でイエズス会の宣教師「ルイス・フロイン」によれば、ヨーロツパにもあるとは思えないほどの壮大さであったと云う。高さ33m。
内部は、信長公の御用絵師「狩野永徳」の障壁画や装飾を配している。

「天守跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟」
羽柴秀吉は、城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟とした。


「イエズス会宣教師ルイス・フロイス」 (1532-97年)、
ポルトガル人、16歳でイエズス会に入り、インドでゴアの聖パウロ学院に学び、フランシスコ・ザビエルから日本事情を聞き、日本伝道への志を抱き、
1562年にパーデレとして日本に赴任して来た人物。
北九州で布教後、64年に京都に上り、京畿で働き、69年に織田信長に拝謁して厚遇を受け、1578年からは豊後の大友義鎮のもとで4年間を過ごし、
81年には巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長と会見した際の通詞を務めた。
86年には大坂城で豊臣秀吉の歓待を受けましたが、87年の「伴天連追放令」後は加津佐・長崎などに在住し、1596年には長崎で「26聖人殉教」を目撃し、その年65歳で歿した。

天主跡の伝二の丸跡に信長公の本廟がある。秀吉は、太刀・鳥帽子など遺品を埋葬した。
    

「織田信忠」 1557-82 岐阜城主信長の嫡男、武田勝頼を自害させた。明智謀反時、京都妙覚寺で二条御所に籠るが自害している。

信長公、本能寺自刃49歳  本丸跡の礎石上の柱痕で、建物が高床式・周囲の伝三の丸跡や天主取り付け台は渡り廊下で繋がっていたと云う
    

「見寺」安土山(城と隣接)南西丘陵部、臨済宗妙心寺派。山号 遠景山、
戦国時代、安土城築城時、信長が建立した寺で、仏殿・書院・楼門等は「長寿寺」から移建、信長没後、諸将の帰依厚く、代々織田家ゆかりの者が
住持を務めていると云う。
江戸末期に焼失され、現代三重塔・楼門のみ残る。

      「見寺」安土山(城と隣接)南西丘陵部、臨済宗妙心寺派。山号 遠景山
    

信長は、近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立。江戸時代の寺領は227石5斗余り、檀家は持たなかったと云う。
18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物のあったと云う。
1854年 本堂など主要な建物のほとんどを焼失。
その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。明治維新後、寺領の喪失などにより、衰退していった。
1695年、織田家の宇陀松山藩から丹波柏原藩への転封に伴い、柏原藩主織田信休は大和国松山城下の徳源寺にあった同家の歴代当主織田信雄・高長・長頼・信武の墓を安土城長谷川秀一邸跡に移す。現在も伝長谷川邸跡に四基の五輪石塔がある。

三重塔は三間三重屋根本瓦葺き室町時代の建築
  

二王門ー楼門ー1571年、甲賀武士山中俊好建立とある。金剛力士像・門(重文)
    

「石部神社」 近江国 蒲生郡鎮座
祭神 少彦名神 天照大神 高皇産靈神 大己貴神 櫛日方命 。景行天皇・鎭座。天正4年織田信長公安土築城で造営で鎮座地移動?。
本殿ー拝殿・社務所。

                      石部神社 近江国 蒲生郡鎮座
    

「文芸の里・考古博物館」
スペイン・セビリア万博の日本館メイン展示物として復元された安土城天主を展示している信長の館やパイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである文芸セミナリヨ、総合体育館としてまた多目的ホールとしてスポーツや文化交流にと幅広く活用できるあづちマリエート、四季折々の味を生かした文芸の郷レストランなど、歴史と文化に出会える場所,「文芸の里」園内に

「旧柳原学校校舎」が、
明治9年に高島郡新儀村(現高島市)に建てられた初等科小学校の校舎。県に現存する学校建築では最も古い。
建物は3階建てで1階は教室、2階は区事務所、3階は鼓楼になっている。近江風土記の丘に移築され、「信長の館」と「滋賀県立安土城考古博物館」の間にある。

    文芸の里・考古博物館・文芸セミナリヨ・マリエート・旧柳原学校校舎・信長の館・レストラン等と近くに瓢箪山古墳が。
  
城郭資料館は、安土駅前

次回は、近江八幡方面へ。

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