syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

蔵前から上野御徒町

2013-07-30 | 気まま旅

墨田区から台東区蔵前に区の南東に位置する。都営地下鉄浅草線も乗り入れている。
1620年江戸幕府が米蔵を置いた。付近を御蔵前とよんでいた、周辺のは、札差業社が集まり、江戸の金融の中心地で繫栄していた。
現在は、浅草橋と共に玩具、文具の卸問屋がいを形成している。
1954年蔵前橋国技館が両国に移転した。
東京工業大学(旧蔵前高等工業)の発祥地でもある。
(先月「鳥越千貫神輿夜祭り」を掲載している)

「蔵前」駅へ


「鳥越神社」は、鳥越山にあり、神社が土地を失ったのは、江戸城築城と隅田川や当時鳥越のすぐ近くにあった「姫が池」の埋め立てのためにたくさんの土が必要になり、鳥越の丘を崩して使用した。
その後も、江戸城の城下町を形成するのと、旗本や大名屋敷の御用地とするために 幾度となく幕府に土地を没収されたもの。

白雉2年 651年、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。
例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇り、 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、6月上旬に開催される。

前回紹介した夜祭りの鳥越神社           拝殿                   夜祭の写真から
    

「浄土宗寺院 西福寺」は、東光山松平良雲院と号し、京都知恩院末。
江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めている。(浄土宗江戸四ヶ寺触頭)

勝川春章の墓(都指定文化財)、育英小学校発祥の地(台東区旧跡)

西福寺               育英小学校             浮世絵勝川の墓
    


「西福寺の塔頭 法林寺」は、法林院 境内192坪余。開基諦蓮社深誉縁残真誠、本尊無量寿仏、立像2尺5寸、慈覚作。
文化財は、高嵩谷の墓 「高嵩谷は、1730年江戸に生まれ、江戸中期の画家。
名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称し、画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。
英一蝶は、市井の風俗を軽妙に描写し、英派という一派を開いた元禄期を代表する画家の一人である。
嵩谷は、一蝶風の風俗画を得意としたが、のちには、武者絵に新境地を開拓。

法林寺                        画家高嵩谷の墓
    

「蔵前神社」は、元禄6年 1693年 徳川将軍家の祈願所として崇敬を受けた神社。
徳川綱吉が山城国男山の石清水八幡宮を勧請したことをもって創祀としている。今の社号標や玉垣は大日本相撲協会から、江戸時代以来の相撲との関わりを記念するものと云う。

蔵前神社                                          拝殿
    

1923年の関東大震災、後の1945年の東京大空襲で残念ながら社殿を焼失している。
1947年(昭和22年)、隣接している稲荷神社と相殿の北野神社を合祀し、1951年に蔵前神社となったという。

境内                    古典落語「元犬」ゆかりの神社
    

蔵前駅の次が「新御徒町駅」次が「上野御徒町駅」と続いていく。

御徒町は、台東区の南西部、上野駅の南。江戸時代に将軍の行列の警護にあたった「御徒士衆」の組屋敷があった地域。
御徒町~上野間に「アメ横」庶民マーケットとして今でも人気がある。

「新御徒町」駅              昔の武家屋敷の御徒町                   商店街入り口
    

「佐竹商店街」は、台東4丁目春日通りから南の台東3丁目清洲橋通りに至る全長330mの全蓋式アーケードの商店街。
佐竹の歴史は、明治の初年に秋田藩の屋敷跡に見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が並び、盛り場としてにぎわい、下町情緒豊かな商店街として発展を続けている。現在も、色々なイベントを行っていると云う。

シャターの降りてる店も              人混みの商店街が今は、
    

「秋田城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷」には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがあり、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあった。
そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったという。
しかし1682年の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失。
1683年には現在の台東区の地に移転した。

移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたという
幕末期の1855年には、日知館居住する人員130人以上に及んだと記録されている。

南には「おかず横丁」の商店街もある。

商店街を見つめてきた鎮守様                    人も疎ら
    

「上野御徒町」下車。

東京北の玄関口「上野」区西部、忍ケ岡とよばれていた。藤堂高虎の屋敷があり、三重県伊賀上野にちなんだという。寛永寺の門前町で
江戸の盛り場として栄えた。この、寛永寺は彰義隊の本拠地になり、多くの堂字が焼失、新政府は市制定の5公園(浅草・飛鳥山・芝
深川・上野)に指定した。
第二次大戦直後、闇市で賑わい発展し「アメ横」など発展した。

東京北の玄関口「うえの」地下道


「徳大寺」は、創建年代等については不詳であるが、江戸時代前期の1653年に示寂した日遣によって開山されたと伝えられる。
京都本法寺の日達が下総国中山(現在の千葉県市川市)の法華経寺へ赴く際に感得した聖徳太子作と伝えられる「摩利支天像」が
1708年 寺に安置され、その後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。

アメ横中央通りにある「徳大寺」           終戦の上野を見ている寺
    

徳大寺に奉置される「摩利支天像」の姿は、左手をかかげ、右手に剣を持ち、走るイノシシの上に立つものである。
元来、厄を除き運を開く勝利の守護神であり、武士や芸道者に多く信仰を集めた。
その由来から武人の誉れ高い神を祀る寺として、戦前においての徳大寺は、半ば神社並みの寺風を擁していた。
この摩利支天像は関東大震災や東京大空襲などの災厄でも焼失を免れており、現在でも厄を祓う守護神として幅広く信仰されている。

浮浪児が寄り添って            本堂                   弘法大師像
    

現在のアメ横は、食品、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中、特に年末には正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返し、年末が近づくと多くの店が正月用の食品を取り扱うようになる。
洋品店なども店を閉めて間貸し、通りは大きく様変わりする。

魚介類などの生鮮食品を中心に扱う店舗が集まっている場としては他に築地市場があるが、築地市場そのものは東京都管轄の公営であること、築地市場は業者向けの卸売の量販を主体とし、価格設定も基本的に値引き交渉をしないことを前提としているが、アメ横は、一般消費者向けの小売、店員との交渉次第で安く買えるなど人気がある。

現在の「アメ横」
    

「上野駅」は、東北・山形・秋田・上越・長野新幹線、宇都宮線・高崎線 、京浜東北線、山手線、常磐線、
東京地下鉄 銀座線、 日比谷線と大江戸線「上野御徒町駅」また、私鉄京成電鉄終点上野駅にも行ける。

台東区から文京区へ


次回は、「本郷三丁目」駅方面へ。

両国と私の終戦記念日

2013-07-28 | 気まま旅

また今年も、2013年8月15日 私の誕生日と終戦記念日が来る。毎年、北東の両国・吾妻橋方面に向かい黙祷を欠かさない。
今年から、保険証も後期高齢者医療保険者証になる。

大江戸線も「両国駅」、江戸時代の1659年、橋が架橋され、当初幕府によって大橋と名づけられたが、両国橋と通称された。
両国橋東岸の地域、現在の両国は神田、日本橋方面と直接結ばれ、以後江戸が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなった。
現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域になる。

1701年9月21日、江戸幕府は吉良義央に、呉服橋から両国3丁目 (当時の本所) の松平信望の上げ屋敷へ屋敷替の命を受け、
元禄赤穂事件の吉良邸討ち入りが勃発した。

江東区から墨田区へ(墨田区は両国駅のみ)


横網町公園と都慰霊堂は、元陸軍被服廠があった場所。
被服廠は大正8年に赤羽に移転し、公園予定地として更地になり、被服廠跡と呼ばれた。
1923年、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。(推定)

震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための「慰霊堂」を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。
1930年に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付され、身元不明の遺骨が納骨され、1931年には震災復興記念館が建てられた。

その後、第二次世界大戦における。1944年~1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える
死亡がでた。

1948年の大震災より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した「1951年に「東京都慰霊堂」と改称」。

(本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている)

又8月15日、終戦記念日と私の誕生日が
  

「東京大空襲」、ミーティングハウス2号作戦と呼ばれた3月10日の大空襲は、高度1600–2200m 程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲 だった。絨毯爆撃で、10万人、目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、大量の焼夷弾を散在させ、絨毯火災爆撃であった。

東京は、1944年(昭和19年)以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は、大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い「1945年3月10日」の空襲を指すことが多い。
全て、民間人の大きな被害を与えた。3月10日の大空爆は、焼失家屋約27万戸焦土化した。

両国公園から東京スカイツリー       平和の鐘       東京大空襲の焼け爛れた下町の絵
    

防空壕から、子供心に、日の丸の日本機の現れるのを期待し1~2回見たが、B29の下を低空飛行で、何もできなく、がっかりさせられた記憶がある。米軍のB29は、超低空から絨毯爆撃を。

関東大震災孤児の像


「横綱公園・都慰霊堂」は、関東大震災の発生した9月1日と東京大空襲の3月10日に法要が営まれている。
都復興記念館の建物は、設立当時。内部は第二次世界大戦に関する資料展示、屋外には、関東大震災で被災した物を展示している。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑は、2001年に完成した。
震災遭難児童弔魂群像は、関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔うために作られた像で1944年に完成したが、戦争により撤収され、現在のは1961年に作製されたもの。 日本庭園 面積は、19,579.53m²。

熱で溶けた鉄類 人間は呼吸が出来なくなる                飴の様に(公園片隅に)
  

公園内の、復興記念館・慰霊堂・鐘・平和記念碑と慰霊堂の裏の三重塔の納骨堂に回り、合掌している。

資料館                            慰霊堂(合掌)
  

終戦から68年、年々遠ざかり忘れられていく東京大空襲、私には、昨日の様に忘れることは出来ない。

大量の焼夷弾で大火災に


米軍の焼夷弾の開発は、皮肉にもドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾だったと云う。
深川、本所の下町の人々は、火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した。
しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化したと云う。

街は火の海、水を求め隅田川へ 


焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多い。
川に逃げ込んだものの、今度は低い水温のために凍死者の人々も多くでた。
翌朝の隅田川・荒川放水路等は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

アメリカ軍は江戸時代の度重なる大火や関東大震災における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていたと云う。
選定や攻撃目標の決定に反映、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致しいた。

川は、火のトンネルに


次回は、蔵前方面。

清澄白河~森下駅

2013-07-27 | 気まま旅

「清澄白河」駅は、隣接する街「清澄」と「白河」の町名を合わせたものだ。
江戸時代、由緒ある寺町。水と緑に恵まれ、何と言っても、森に囲まれた「清澄庭園」は、名園として知られている。
隅田川からの水路とともに発展を遂げてきた。
江戸時代には運河が整備され、江戸の物流の拠点でもあった。現在も運河や運河跡を整備した公園や道路などが見かけられ、その面影を感じることができる。

「富岡八幡宮」の祭礼は「江戸三大祭」の一つ。中でも3年に一度の大祭は深川が最も盛りあがる時で、真夏に神輿と担ぎ手を水で冷やしながら進むため、「水かけ祭り」とも呼ばれている。

清澄・白河町に清澄橋通りが横切る


「富岡八幡宮例大祭」は、江戸三大祭りの一つと云われ、富岡八幡宮の例大祭本祭り(3年に一度)最大 の山場
「神輿連合渡御」では、 54基の神輿が隅田川両岸の 江東、中央両区の氏子町内約8kmを練り歩く。

「清澄庭園」は、元禄期の豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主「久世氏の下屋敷」となり、
庭園が築かれたと推定され、1878年、荒廃していた邸地を「三菱財閥創業者の岩崎弥太郎」が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。
1880年に竣工し、深川親睦園と命名。
三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。(入園有料)

碁盤の目の様に堀が
    

深川・平野一丁目に 「滝沢馬琴誕生の地」の碑がある。滝沢馬琴は、長編・「里見八犬伝」を書いた。

1814年に刊行が開始され、28年をかけて1842 年に完結、全98巻、106冊の大作である。
7歳で発句を詠んだらしい。また9歳で父が亡くなり、10歳で家督を継ぎ、17歳の時に句号、馬琴と言ったと云う。
30歳のころより馬琴の本格的な創作活動が始まり、読本「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。

この辺を「深川」と云う
    

日蓮宗 山号妙運山「円院」は、 江戸出開帳で知られる深川浄心寺の塔頭。1668年の開山。
古くから伝えられる“歯神さま”は、かつて歯ブラシを持ってお参りにくる子供達が多かったと云う。
相撲界の高砂一門の祖、初代高砂浦五郎が眠られている。

円院                               清澄庭園
    

「深川江戸資料館」は、江戸時代の深川の街並みを展示。1986年(昭和61年)に開館している。所在地は、江東区白河一丁目。

江東区立の江戸時代に関する資料等を収集、保存と、 江戸時代(天保年間頃)の深川佐賀町の街並みを再現し展示、
劇場、ホールも備えた文化施設。

資料館前                            館内に
    

江東区森下町と云えば、現在、住宅地、商業地となったが、以前、地域にはかつてドヤ街が存在し、日雇い労働者が多く暮らし、森下三丁目にある木場公共職業安定所深川労働出張所では、現在も労務者の手配を行っている。
深川労働出張所の周囲にはビジネスホテル街があるが、これはかつての簡易宿泊所が姿を変えたもの。
地名の由来は、江戸初期に深い森があったためという。

浜町から新大橋を渡ると「森下」・菊川・住吉へ


「深川神明宮」1596~1614年に摂津国(大阪府)の「深川八郎右衛門」ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名づけられたとある、深川村発祥の地。
八郎右衛門は持地内の小祀に神明を勧請したと伝えられ、これが「深川神明宮」。
現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめた。
深川七福神のひとつ(寿老人)として地域に鎮座、

深川神明宮で参拝           お祭りは富岡八幡宮と同時
    

「由来記碑」には、(平成9年)
今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲で住ム人モ無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉齋シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神明宮ノ初メデアル ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク地名モ無キ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ此ノ地ナノデアル
爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ、氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和43年(1968)ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル、、、、、。

手水舎                  拝殿          深川七福神寿老神
    

日本画家「伊藤深水」は、1898年東京深川に生まれる。 1907年 小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。 1908年 職工となり東京印刷の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。 1911年 鏑木清方へ入門。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する、14歳。 1912年‐第12回巽画会展に「のどか」が初入選。 1913年 巽画会1等褒状。 1914年 再興第1回院展に「桟敷の女」が入選、東京印刷を退社する。 1927年 大井町に深水画塾設立。 1935年 料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうける。 1943年 召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。
1945年 長野県小諸市に疎開。 1948年 「鏡」で第4回日本芸術院賞受賞。 1949年 鎌倉に転居。
1958年 日本芸術院会員に推挙。 1972年 癌により没 享年74。

日本画家伊藤深水


次回は、墨田区両国へ。

門前仲町駅 富岡八幡宮

2013-07-25 | 気まま旅
大江戸線に戻りました。

「門前仲町」は、江東区の西部、首都高速9号線、江戸の名残をとどめており、「門仲」で通る町、1653年永代寺門前町屋を開き、
永代寺門前中町と称したなが町名の起源。永代通りに地下鉄東西線、清澄通りに大江戸線が交差、門仲は、8月の富岡八幡の千貫神輿・
10月の深川力持・大横川ほとりの黒船橋公園のきばの角乗りが有名。

大江戸線は、隅田川に沿って江東区・墨田区・台東区へと


「深川公園」は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つ。 富岡八幡宮の境内で遊行の地として昔から大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかり、西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘があり、1879年には梅、桜を植え花園として整備し江戸の人気スポット。
1907年に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、1909年に深川図書館が建てられましたが、1923年の関東大震災で焼失。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場に。

下の漆喰画は、1815年 伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし1889年深川で没した「漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作されたという。

今は、ホームレスの公園に。


「成田山 東京別院 深川不動堂」は、江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は、深川不動尊、深川不動堂。
江戸時代、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。
元禄16年 1703年、1回目の成田不動の「出開帳」秘仏特別公開。が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。
これが深川不動堂の始まり、江戸における成田不動の出開帳は、1856年まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となったという。

永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。
しかし不動尊信仰は止むことがなく、1878年に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められ、境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められた。
1881年に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失、本尊は焼失を免れた。
永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年に再興され、名跡を継いだ。

地元では、「不動さん」で親しまれている
    

現在は丈八の「おねがい不動尊」が安置、 旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王真言)を散りばめてある建物は、開創310年を期に平成23年に完成。
本尊不動明王像及び脇侍の二童子像、四大明王像を遷座し、護摩供養は新本堂で行われている。
不動明王二童子像・四大明王像(五大明王から不動尊を除く)は、区指定文化財。
内仏殿、開創300年を期に、2000年に完成、澤田政廣作の不動明王立像などの仏像、四国八十八箇所の巡拝所、大日如来を安置する宝蔵大日堂天井画は、中島千波の作。 深川開運出世稲荷、成田山出世稲荷を勧請したもの。(深川龍神)

人情深川ご利益通り、門前の参道は通称“人情深川ご利益通り”といい、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わう。

朝からお線香が、ご利益通りのお店のシャターの音、通勤者も参拝して。
  

関東36不動20番、お札と大草履が本堂両脇に
    

「富岡八幡宮」は、1624年、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の
富岡八幡宮の八幡宮明細帳(1893年)では、江戸時代初期に行なわれた深川 (江東区)の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ
富岡八幡宮を分霊したとの記録が残る。
創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があったと云う。
八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、広く美麗な庭園は人気の名所であったという。
長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立していると云う。

門前町として形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても発展、重要視されきた。

3か月に一回は、お詣りする「富岡八幡宮」
    

歌川広重は、「深川八幡山開き」、春に半月の間「山開き」として庭園を一般公開したという。
現在の数矢小学校西門へ至る路地の右手にあたりに、「御富士山」として戦後も存在していたと云う。

伊能忠敬(日本地図)は、ここからスタート、     拝殿、          夏の祭り
  

「臨済宗妙心寺派、長光山 陽岳寺」は、紀州の水軍たちの歴史上の足跡、その足跡は、日本の大阪から中部・関東・東北の海の歴史といる
東北までもは、遣欧使節の船を造り水夫たちを乗船させたりしたからでもある、 三浦岬の見桃寺・横須賀の貞昌寺等がある。

「法乗寺」は、清澄通り沿いに、江戸庶民から親しまれたという「深川ゑんま堂 法乗院」がある。
法乗院は、寛永6年創建だという長谷寺系列の真言宗寺院。

陽岳寺            法乗院                 閻魔堂
  

「心行寺」は、深川七福神福禄寿。
福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されている。
福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であり、 一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056~)に実在した道士であると言われています。
福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神。また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神ともいわれている。

心行寺                         門前に心の花壇が
    

「絹本着色毘沙門天像の増林寺」深川2 は、、岩座上の邪鬼を踏んで立つ、軸装に仕立てられた毘沙門天の画像の有る寺。
(本紙の寸法、縦93.0cm、横36.2cm)。
毘沙門天は、四天王の多聞天と同体、また十二天の一尊として祀られ、北方の守護神、あるいは福徳神として古くから信仰されている、
本像は、円光背を背にして、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、袖や天衣を翻した動きのある姿に描かれており、特に頭上の摩尼宝珠や右手の宝棒は、毘沙門天像としては珍しい作例といえます。
この画像、南北朝時代(14世紀)に描かれた優れた仏画である、江東区では、やはり南北朝時代の作と考えられる永代寺の絹本着色地蔵菩薩半跏像(区指定有形文化財)とともに最も古い画像と云う。
画像が1865年に表装し直され、河内国百済山長栄寺(大阪府東大阪市高井田元町)で開眼供養されたことが知られている。

増林寺             毘沙門天画像の有る寺
    

「芭蕉・採茶庵跡」は、芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病疫するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、ここより全国の旅に出た。

芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失。大正6年 津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次朗氏等、地元の人々の尽力によりここにここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常磐一丁目を旧跡に。
昭和20年 戦災のため荒廃し、地元の芭蕉遺跡保存会が昭和30年復旧させた。(芭蕉遺跡保存会)

松尾芭蕉も           ここから船で北千住宿へ (奥の細道)
    


次回は、森下方面へ。

舎人線 終点 見沼代親水公園

2013-07-23 | 気まま旅

足立区は、北は埼玉県に接している荒川・綾瀬川・中川の沖積地で、区名は、「続日本記」に武蔵国足立郡、阿太地の記録がある。
こだいの遺跡も、数か所残っている。三代将軍家光は、奥州(日光)街道の宿場に定めている。
荒川・隅田川の千住大橋の架橋は、1594年江戸で最も早い橋。

「都立舎人公園」前下車。階段を下ると、尾久橋通り(放射11号線)で道路中央に柱の数々。そこをライナーが。

この公園、とにかく広い公園で約51haある。まだ空き地が多く、拡張工事中。
    

テニスコートは14面、陸上競技場や、野球場などスポーツ施設も充実。
池では、スイレン、キショウブなど、水生植物も豊富で、釣りをしている人を多数みかけた。
水辺の鳥も多く、ハシブトカラスが多いのが気になった。

バーベキュー広場もあった。家族連れで楽しめそう。          ライナーを潜ると足立流通・卸売センター朝市の看板が
  

公園一画は緑で溢れている。隣は、           埼玉県川口
   

終点「見沼代親水公園」

住所は、足立入谷・舎人・古千谷


舎人町「見沼代親水公園」は、足立区の最北部、隣は、埼玉県草加市と川口市に接している。
2008年に舎人ライナーが開通し、日暮里から約20分で終点の見沼代親水公園駅まで行くことができるようになった。
ライナーが開通する前は、バスが住民にとって欠かせない足となって、他の鉄道で割と近い駅では、竹ノ塚駅からバスで約20分、
赤羽駅や川口駅バスの舎人団地行きで約25~40分。
日暮里駅からもバスの見沼代親水公園駅行きは、約40~60分かけて尾久橋通りを南北に走っていたが、都の孤島であった。

静かな町
  

「舎人氷川神社」は、本殿は総欅造り、柾目の素材を使用し、屋根は唐破風の流し造り。
一面に施された精巧な彫刻(昇龍・降龍・唐獅子・牡丹・八岐大蛇退治・天の岩戸開き・天孫降臨等)は、区内屈指の神社建築(足立区登録文化財)で、舎人町・入谷村 遊馬村(草加市)の3町村の鎮守。
1200年に、武蔵野一宮である大宮氷川神社を勧請したという古社でもある。

「舎人氷川神社古墳」は、白幡塚古墳(入谷氷川神社)舎人氷川神社社殿の土台となっている円墳と思われる塚で、D群に属します。
境内及び周辺は弥生末~古墳時代にかけての集落跡である舎人遺跡に含まれ、方形周溝墓を始め多くの遺構、遺物が検出されている。

確かに神社はやや高目の土台の上に乗っており、方形に加工はされているものの、古墳を土台に流用している神社仏閣には良くあるスタイルをしていると云う。
土台の頂部がややドーム状になっており、低墳丘の円墳を流用したとしたらこういう感じにはなるという。
現時点ではこれが古墳を流用したものなのか、社殿築造時に新たに土盛りされたものなのか不明です。
区北部の大きな氷川神社は全て古墳の上に建っているという事になると云う。

珍しい樹木「たぶの木」が境内に                        鯰がいそうな小川が
    

「舎人緑道・見沼代親水公園」は、

竹ノ塚駅(東武伊勢崎線)→保木間親水水路→見沼代親水公園→毛長緑道→神領堀 親水緑道→舎人緑道→江北北部緑道→西新井薬師→西新井駅(東部伊勢崎線)(約13.5キロ)を言う。

終点見沼代の「舎人氷川神社」             歴史を感じる          見沼代親水公園は長い遊歩道
    

見沼代用水を公園化したもので、約2キロに及ぶ。
木陰も大分あり、何よりも幅も広い用水が、何とも涼やかである。水も思った以上に澄み、太陽の日に輝いた。時々鯉の産卵か飛び跳ねていた。朝で、人影も少なく、静かな親水公園である。

水量が減り、水の量が少ない。

                   公園は、鳥たちの楽園に
    

この親水公園は、かつて農業中心だった足立区の大動脈,見沼代用水路を子供たちが遊べる公園としてよみがえらせたもの。
全長1700m。4つの水遊びゾーンで構成されており,植物や昆虫の観察ができる「水生植物ゾーン」・滝あり渓流あり,野鳥さえずる
「こもれびゾーン」・子供達の遊びや区民の集いの場となっている。
「せせらぎゾーン」・下流部のゆったりした流れを見せる「まどろみゾーン」からなっていると。

                  見る所は「親水公園」他は無い
    

「毛長川」は、埼玉県川口市東部に源を発し、市内を南へ、草加市と足立区の境を東へ流れ、足立区花畑地区で綾瀬川に合流する。
一級河川の上流端は川口市安行、が、見沼代親水公園に沿って流れている。

毛長川に架かる            「ふれあい橋」           川沿いに境川部屋が
    

「境川部屋」(出羽海一門に属する相撲部屋)は、

1992年に現役を引退して以降、出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた12代中立(元小結・両国)が、
1998年に2人の内弟子と同郷の先輩である大鳴戸親方(元幕内・吉の谷)を連れて、出羽海部屋から分家独立して中立部屋を創設した。
12代中立の師匠である12代境川(元横綱・佐田の山)が定年を迎える直前の2003年に、12代中立と12代境川が互いの名跡を交換する形で12代中立は13代境川を襲名し、同時に部屋の名称を中立部屋から境川部屋へと変更。
学生相撲出身者を積極的に迎え入れており、2002年3月場所に新十両へ昇進した岩木山を最初として、これまでに8人の関取を輩出している。
豪栄道や妙義龍などといった気鋭が登場して活躍している。この部屋が川沿いに。

境川氏墓が、                 尾久橋通り方面に              並木道
    

これで、舎人ライナーの散歩は終わり,都営地下鉄大江戸線「門前仲町」に戻ります。