syuの日記・気まま旅

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伏見の日本酒

2013-05-30 | 気まま旅
京都の旅は、終了しましたが、京都と云えば「伏見の酒」。
 
日本酒と云えば、灘、伏見が代表的であり、伏見には、松尾大社がある。
「松尾大社」は、西亰区嵐山宮町、(阪急嵐山線松尾駅)で、祭神は、大山くいの神と中津島姫命で701年に秦忌寸都理の創建という。
王城鎮護の神として朝廷の協力もあり多くの荘園が寄進され勢力をふるった。
氏子域は、京都の3割強と云う。中世から造酒の神として信仰を集め、社殿背後の霊泉「亀の井の水」は、酒が腐らず、旨い酒が出来ると云う
今でも、全国の醸造メーカーからの松尾大社の参拝が絶えない。

日本酒の歴史は、ハッキリしていないが、古代時代「口噛み酒」の資料が残っている。
周の成王の時代(紀元前1000年頃)に日本列島内の何処かの国に何らかの酒類が存在した可能性を示唆している。 3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条の記述にも酒に関する記述が見られる。
同書は倭人のことを「人性嗜酒」と評し、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。
この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。
ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女の仕事であったことをうかがわせる一つの根拠となっている。

神社には、蔵元からの奉納献上樽酒がある、これは、神様に奉げる最も清らかな水を「玄酒」と言いい、時代が下るに連れて、酒も奉げるようになったとある。



京都府蔵元では、黄桜酒造、キンシ正宗、月桂冠、世界鷹酒造、宝酒造、福光屋等蔵元77家・銘柄162種(平成4~5年頃)

伏見の酒は、江戸時代に入ってからと淀川水運の要地としてますます発展し、それと同時に造り酒屋も増加していった。
明暦3年 1657年には伏見の酒造家は83軒を数え、製造 石数は1万5610石にも達し、この頃は、池田、伊丹の酒の全盛期でもあり、
1624年に始まったとされる灘の酒造りは誕生したばかり、
江戸時代中期以降、京の町の酒は、伊丹領主だった有力公家・近衛家が同家が庇護する伊丹の酒で独占されて、伏見酒の京の市中への進出が禁じられて しまうこともあったと云う。

関西で醸造され、江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」といい、伏見の酒は、地の利の悪さが災いし、江戸への出荷もままならなかったところへ、江戸積廻船を利用した灘酒の急激な台頭を許してしまう。
そして、1833年には伏見の酒屋は27軒(7197石)にまで激減、明治元年の「鳥羽伏見の戦い」が起こり、町の大半が焼失し、酒造もほとんど被災するという、最も大きな打撃を受けた。
この時には、伏見の酒の生産量 は、1800石にまで減少する。

明治時代に入り、、明治10年の「西南の役」以後、 社会も経済も安定しはじめ、明治22年、東海道線が開通 し、それまで2~3週間もかかった東京への酒の搬送もたった1日で可能になった事が、京都・伏見の酒が息を吹き返すきっかけとなる。
もともと、酒自体が優秀であったため、東京への販路が拡大すると、以降、奇跡的な復興を遂げている。


三十三間堂蓮華王院

2013-05-28 | 気まま旅


「三十三間堂」は、天台宗の寺。正式名は蓮華王院、本堂内の柱間が三十三ある所から「三十三間堂」と呼ばれる。
本尊 千手観音坐像、1164年 後白河上皇の命により平清盛が建立。

「湛慶」の作品は、木造千手観音坐像 ・三十三間堂本尊、国宝・ 木造毘沙門天及び両脇侍立像 - 雪蹊寺(高知県高知市) 3躯 彩色玉眼、
1225年頃、重要文化財 。 木造善妙神立像・白光神立像 高山寺 2躯 彩色玉眼、重要文化財、 銘記はないが湛慶の作と推定、
高山寺諸像も同様に湛慶作だとされる。
狛犬 - 高山寺(京都市) 3対 木造彩色、1225年、重要文化財。 神鹿 - 高山寺(京都市) 1対 1225年、重要文化財。
仔犬 - 高山寺 1躯 木造彩色玉眼、1225年、重要文化財 鹿と仔犬の彫像は、写実的な表現で、あらゆる動物に仏性を見出したという。


天台宗蓮華王院・三十三間堂(秀吉南大門再建寄贈・太閤塀)
   

「後白河天皇」 1127-92 公家政権を守った王朝最後の天皇、77代天皇 鳥羽天皇の第四皇子。
        平清盛の甥を高倉天皇即位させている。源頼朝は、法皇を「日本一の大天狗」を評している。

「平清盛」   1118-81 平家の棟梁 福原へ遷都したが、源氏の挙兵で京都に戻る。頼朝の首を供えよと遺言したが4年後滅亡する。

1249年焼失。1266年再建、1586年に豊臣秀吉の方広寺に編入、秀吉没後妙法院に属し現在に。

本堂内の柱間が33ある。


秀吉は、南大門を再建し、築地塀(太閤塀)を寄進している。

風神像


本堂は、院政期文化の貴重な遺構で、堂内に1001体の千手観音立像などを安置している。

本尊千手観音坐像(1001体の千手観音像安置)


国宝ー本堂・千手観音坐像(湛慶作)、二十八部衆立像・風神雷神像。重文ー千手観音立像1001体・南大門・塀など。

雷神像


境内で弓道競射の「引初め通し矢」が、
  

後白河院と秀吉の面影がそこそこに残る鴨東は、かつての政治・文化の中心地であった。京都駅に近い。

1164年後白河上皇の命で平清盛が建立
    

「京都国立博物館、展示館」は、宮内省内匠寮技師「片山東熊氏設計」の本館、と建設中の平常展示館がある。
所蔵品には国宝27件、重要文化財181件(2006年3月現在)が含まれ、建物自体も、本館、表門(正門)、同札売場及び袖塀が1969年、
「旧帝国京都博物館」として国の重要文化財に指定されている。
技術資料参考館(旧恩賜京都博物館陳列品収納用倉庫)が2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録されている。
1965年に竣工し翌年開館した京都大学名誉教授「森田慶一氏設計」の新館があったが、展示館は解体され、平常展示機能を持つ
百年記念館が建設中。同じ谷口吉生設計の南門ミュージアムショップは2009年に先行オープンしている。

モダンな博物館


これで京都の旅は終了しますが、次回、最後に伏見の清酒について触れておきます。

世界遺産・清水寺

2013-05-26 | 気まま旅

「坂上田村麻呂」 758-811 奥州平定させた征夷大将軍、蝦夷平定戦に武功を挙げた。清水寺創建。
身の丈約1.75m、胸の厚み一尺二寸、顎鬚、目は鷹の目、怒った目は猛獣も伏し、にっこり笑うと赤ん坊もなついた。死体は、山城栗栖に葬られ鎧・剣・鋒など共に平城京の東を向いて立った姿で埋められたという。東北地方には田村麻呂が創建した神社、寺が多い。

「延鎮」は、生年、 生没年不詳。平安前期の法相宗の僧で京都清水寺の開祖。
一説に、821年没。報恩の高弟で師の没後,子島寺を継いだ。778年京都の乙輪(音羽)山に移り,798年坂上田村麻呂がその地に開いた清水寺の開祖となった。
延鎮は学僧タイプの僧ではなく,修験者的要素の強い報恩の弟子であり,清水寺開基に当たって真言を呪し観音を念じている姿からして,修験・雑密の徒としての優婆塞的(在家のままの)修行者であったとされる。

清水寺は、北法相宗総本山、山号 音羽山。本尊 十一面千手観音、西国33所霊場第16番札所。

798年坂上田村麻呂と延鎮創建。

西国33所霊場16番札                                   仁王門室町時代           
    

清水寺は、鎮護国家の道場となって以降に栄えたという。奈良の「興福寺」に属し、興福寺勢力の京都の拠点となったが、対立する
比叡山の勢力に何度も焼かれている。

「奈良 興福寺」は、藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年 669年 山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺が当寺の起源であるという。
「壬申の乱」のあった、天武天皇元年 672年、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺と称した。
710年の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は「厩坂寺」を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。

鐘楼は安土桃山時代他は江戸初期                     境内で案内の紙芝居が
    

本堂は、徳川家光が再興したものである。
寄棟造、総檜皮葺、全面崖にせり出し縦横に組まれた長材に支えられ舞台造である
「清水の舞台」として全国的に知られている。


仁王門、馬駐は、室町時代。鐘楼は、安土桃山時代の貴重な遺構である。他は江戸時代の初期のものが多い。
名水の「音羽ノ滝」は、水垢離する参拝者が多い。

鐘楼              三重塔                        6つの塔頭がある
    

本坊の成就院、慈心院、泰産寺、宝性院、延命院、真福寺来迎院の六つの塔頭がある。

名勝ー相阿弥作の成就院庭園(池泉鑑賞式)桜、紅葉の名所。
国宝ー本堂、重文ー仁王門、鐘楼、西門、三重塔、阿弥陀堂、田村堂、朝倉堂など多数。

本尊十一面千手観音       崖にせり出す舞台造り      参拝者(本堂1633年徳川家光再建)
    

清水寺の参詣道は、二年坂や産寧坂(三年坂)、五条坂とか茶わん坂などである。
清水寺は音羽山の中腹にあるから坂道にならざるを得ないが、左右清水焼の店を中心に飽のこない坂道である。
参拝を終えて清水坂を下る。明治3年創業の老舗店が並んでいた。
清水坂も食い物の土産物屋さんが呼び込みをしている。昔では考えられない。

鎮護道場で栄えた            名水音羽の滝        舞台から見た清水坂  
    

 
清水の舞台を下から見ると(桜・紅葉の名所)                        清水坂にはお土産、飲食店が
    

次回は、三十三間堂へ。

妙法院~智積院

2013-05-25 | 気まま旅


「妙法院」は、東山区にある天台宗の寺院、山号を南叡山。
本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、「妙法院」は、青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに
天台三門跡と並び称されてきた名門寺院。
後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。
近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。

七条界隈33間堂・豊国神社・智積院・養源院などの秀吉ゆかりの地  天台宗三門派の一つ
    

「昌雲」は、後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。
「妙法院」の門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲となっている。
続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。
18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す、である。

大玄関                            唐門(重文)
    

「最澄」767-822 天台宗開祖 近江国 、国分寺、東大寺、比叡山に登る。山林修業、入唐している。帰国後天台宗開く
鑑真の天台の典籍を熟読し方向を決めている。空海から灌頂を受けてた。最初の大師号「伝導大師」諡号を受けた。

天明の大火(1788年)御所も炎上し光格天皇皇后がここに避難
  

庫裡は、高さと梁の太さ、豪華さである。
豊臣秀吉が行った大仏殿の千僧供養ゆかりの建物。1595年頃に建てられたとされ、国宝に指定されている。
大書院は、東福門院(後水尾天皇の中宮)の御殿を移築したもので江戸初期の建物で四室からなり、それぞれの部屋の襖絵が見所である。
大書院南側は伏見城内苑を模写し、規模を小さくして造られてという池泉回遊式の庭園となっている。
平安時代初期に造られた秘仏、不動明王像 重文を安置する内仏殿、龍華蔵と称している宝物庫で、中に秀吉に宛てられた羊皮紙に書かれた
ポルトガル国インド福王信書(国宝)など、豊臣家ゆかりの絵画・工芸品が展示されていている。
六室からなる宸殿で、現在の建物は明治31年に再建、中央に阿弥陀如来像が安置、
宸殿の南側、樹木の中に本堂の普賢堂があり、本尊秘仏、普賢菩薩騎象像(重文)が安置。

後水尾天皇の中宮に一部が移築している  
    

妙法院は、平安時代末期の1160年、後白河天皇が造営した法住寺殿の鎮守社として比叡山東麓の坂本(大津市)に祀られている日吉社を勧請し、「新日吉神社」として(今熊野瓦坂に)祀った折、護持僧・昌雲に命じて比叡山の妙法院を移して別当とせられたのが始まりとされている。1869年に新日吉神社は神仏分離で妙法院の所属を解かれて、現在は新日吉神宮と称し、妙法院の東100mほどの所にある。

比叡山東麓の坂本に祀られていた神社
    

新日吉神社の祭神は、 主祭神 大山咋命、 大己貴命、 玉依比売命、 大山咋命荒魂、 田心比売命、 菊理比売命、 玉依比売命荒魂
             後白河天皇。

相殿  素盞嗚尊、 大年神。

「智積院」は、東山区にある真言宗智山派総本山の寺院。山号を五百佛山、寺号を根来寺 ねごろじという。
本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。
智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。

真言宗智山派総本山  寺号根来寺       総門は、東福門院から           根来山の学問所
    

智積院の歴史は、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた「祥雲寺」という2つの寺が関係しているという。もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。
大伝法院は真言宗の僧覚鑁が 1130年、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から「覚鑁」は、高野山を去り、1140年、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。
智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であったという。

               千利休の好みと云うバチ型刈り込み庭園
    

国宝ー 大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作、 紙本金地著色松に草花図 6面、 紙本金地著色桜楓図 11面
   紙本金地著色松に梅図 4面、 紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 4面、 違棚貼付、袋棚小襖等 26面
   紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一隻 屏風仕立て、大書院障壁画と一連のもの。 金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。

本殿・明王殿に本尊不動明王           千葉県成田山新勝寺・神奈川県川崎大師平間寺・八王子高尾山薬王院がある。
  

重文ー絹本著色童子経曼荼羅図、 絹本著色孔雀明王像、 絹本著色阿弥陀浄土図、 絹本墨画滝図、 紙本金地著色松に梅図 二曲屏風一隻
   増壱阿含経 巻第廿九

名勝ー 智積院庭園、 山は「廬山」を、池は「長江」をモデルにしているという。

紀州大伝法院秀吉の子鶴松の為に建てた祥雲寺に関係するという。
  


次回は、世界遺産清水寺へ。












大谷本廟と渉成園

2013-05-23 | 気まま旅

「親鸞」 1173ー1262  浄土真宗の開祖 9歳で慈円について出家、20年間比叡山修業後「法然」の門に、弾圧で法然土佐へ流され、
親鸞は越後へ流され、布教し関東、赦免で帰京、寺で無く道場で「教行信証・歎異抄」がある。遺骨は、本願寺に。

東山区五条大橋は、下京区と東山区の境の鴨川に架かり五条通(国道1号)を結ぶ。
平安京の五条大橋は2筋上流の松原通にあたり、本来の五条橋は、今の松原橋の位置。伝説の牛若丸と弁慶の出会いはこの旧橋ということになる。豊臣秀吉が1589年現在の五条通に架け替えさせたとぴう。

その東に「大谷本廟」親鸞の廟所である。浄土真宗西本願寺派の祖廟であり、西大谷と呼ばれている。

円通橋、眼鏡橋とも云う            大谷本廟          親鸞聖人像
    

親鸞の墓は、大谷「知恩院付近」にあったと云われ、1172年近くの吉水に改葬され、廟所(草堂)を建立、
1603年知恩院拡張の際、ここ現在地に移転している。

知恩院から移された                 門                   廟所
    

1867年焼失され、明治に入り再建された。、親鸞聖人のご遺徳を慕い、年間15,000件もの納骨が行われるという。
全国の門信徒の方のご遺骨が納められるとともに、宗祖親鸞聖人の墓所を今に受け継ぐ本願寺発祥の基として多くのお参りがあるという。

大門                               祖廟と本廟を繋ぐ渡り廊下
    

「教妙」 1602年東本願寺12代、徳川家康公から寺地を寄進されている。
「宣妙」 13代宣妙上人は、家光公から東本願寺の東側の土地を寄進され、これが「渋成園」。

名勝ー「渉成園」は、

宣妙上人は、1653年退隠し、ここに園を、中国の詩人陶淵明の、帰去来辞ー節の、「園、日に渋つて以って趣を成す」から「渋成園」と名付けた。
徳川家康が天下を掌握し、豊臣家の保護を受けた西本願寺・聖地の豊国社・方広寺大仏を結ぶラインを断ち切る意味で東本願寺を建立させたという。
1884年移籍された「大玄関」は、明治天皇が京都残られ、渉成園で休息された際、東本願寺の境内に残る御殿、大宮御所がら移築された。

園入り口                                    大玄関
    

園内には、年輪を重ねた大木、「印月池」「池泉回遊式庭園」が、園の中心(1700坪)になっている。
「漱枕居」は、1865年再建、水上に乗る出すように建てられている。

園内                 茶室                      印月池
    

「ろうふう亭」は、殿舎の南端の大広間、園池の雄大な風景が満喫。
「縮遠亭」は、1884年再建、北大島に建てられた茶室。

ろうふう亭                                               縮遠亭
    

「臨池亭」「滴翆軒」「代笠席」「園林堂」「偶仙楼」「蘆庵」「侵雪橋、木造の反橋」「回悼廊、大島と結んでいる」など。

園内                       茶室から見る池                 古木
    

「高石垣」、「灯籠」、「注水口、以前は高瀬川の水が引かれていた」、井戸、「塩釜・源融ゆかりの塔は、「源氏物語の主人公の一人
の供養塔と云われている。新説では無関係」など。花も四季で楽しめると云う。

ニコライ二世、ヘレンケラー、幕末は徳川幕府、14代将軍家茂、15代慶喜、関係者や御所、茶人、詩人と著名人が訪れていろ。

渡り廊下                                  太鼓橋
  

次回は、妙法院・智積院へ。