syuの日記・気まま旅

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新潟 湯沢から浦佐 田中角栄

2014-11-30 | 気まま旅

中部地方・北東部の県「新潟」-日本列島の中央部、南北に長く、東の県境「三国山脈」「越後山脈」で東北・関東と区切られる。
県内の人の生活は古く、1万年前以前で、その支流「五十嵐川段丘」に見るこたが出来ると云う。
津南の「神山遺跡」は旧石器時代・上川村の小瀬ヶ沢洞窟・室谷洞窟など、河岸段丘や丘陵端な縄文早期の遺跡が見つかっている。
史跡の長者ヶ原遺跡に、ひすいの生産・馬高三十稲場遺跡に独特の「火焔土器生産等、規模の大きい社会形成の跡もある。
新潟県と云えば、我が国代表的穀倉地帯。米生産量は、全国8.4%を占め第一位、作付面積77%・野菜10%。
地形は、「韓国・北朝鮮・中国・ロシア、ナホトカ・ウラジオストク・ハバロススク・サハリン、、」を向いており、日本海の中央を占めている。
港の多い県である割に、沿岸沖合漁業が主で、漁獲量は少ない、今後の課題であろうが、内水面漁業は、三面川・阿賀野川のサケ・小千谷の錦鯉が有名

県中央の長岡市(藩・河井継之助、山本五十六など)の手前、JR「浦佐駅」を下車し湯沢方面に戻る。(長岡方面は数回取り上げている。)

                   上越新幹線・上越線「越後湯沢駅」
    

724年、佐渡島を還流の地に定め、743年に越後国に併合。1207年「親鸞」が越後に流され、1221年順徳上皇佐渡島に、1271年日蓮も佐渡島、1298年
京極為兼佐渡へ、1334年日野資朝・世阿弥、、と流された。1600年佐渡相川金山開発され奉行が置かれる。
1689年松尾芭蕉出雲崎・1800年頃に良寛・1835年鈴木牧之が「北越雪譜」・1893年信越本線高崎―直江津間全通している。
我が国、原油生産量は、全消費量の1%内外で、その90%近くを新潟県で生産し、天然ガス生産全国の65%を占めている。

                上越線特急と奥に直江津方面行き


越後国は、阿賀野川以北の「沼垂・岩船」の2郡で頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡。712年出羽国が分割、「延喜式」によると三島郡・刈羽、近世計7郡
国府所在地は不明だが、鎌倉時代源頼朝になって知行国として存在している。
南北朝・室町に入ると、足利尊氏の従兄弟「上杉憲顕~定実」9代200年間時代に成る。守護職・上杉氏と職務を継いだ長尾氏が実権を持っていく。
戦国時代、長尾景虎(上杉謙信)が勇名を。
近世になると、外様の諸藩領「長岡・椎谷・高田・糸魚川・新発田・村上・村松・与板・黒川・三日市・三根山」の11藩があった。

                   越後湯沢駅ホーム内女性の温泉浴像が


「越後三山」
六日町盆地東方「駒ヶ岳・2003m、中ノ岳・2085m、八海山・1778m」の総称で、古くは、魚沼三山。
越後三山只見国定公園を構成。

「越国」
越前・越中・越後に分離、阿賀野川以北を越後国・平野を越後平野(全国第二の広さで、新潟平野・蒲原平野とも云う)暴れ川の信濃川・阿賀野川の二大河川とその支流によって形成、が、河川改修事業により水害の心配がなくなり、用排水事業で、低湿地により美田となった。

                          駅構内


「田中角栄」 1918-93 ロッキード事件有罪判決・新潟県浦佐、出身の政治家。
1947年・28歳で県三区、衆議院議員初当選、越山会の後援会組織に支えられ、総選挙連続16回当選している。
1972年、佐藤内閣の後を受けて、54歳で総理大臣になり、日・中国交正常化を実現した。
「日本列島改造論構想」を揚げ、地価高騰など狂乱物価を招き、金脈問題追及され1974年内閣総辞職においこまれた。
1976年、首相時代のロッキード社から5億円を受け取ったとして東京地検に逮捕。
1983年、追徴金5億円の実刑判決を受けた。派閥田中派は、拡大。

                   JR浦佐駅前「田中角栄」像


新潟県大和町「浦佐」元南魚沼郡浦佐村、三國街道の宿場駅で、魚野川の「河港」もあったと云う。国道17号線と浦佐スキー場で知られている。
浦佐の地は、縄文・弥生・古墳時代の遺跡がある。荘園時代は、「藪神の荘」古くから人が住んでいたと云う。

浦佐毘沙門堂を参拝.裏手に「白山神社」
御祭神ー白山比大神・大山咋大神(新潟県は、白山神社が多い)
浦佐白山神社の由来は、昔浦佐は上浦佐と下浦佐にわかれ、上浦佐には山王様といって、山王大権現を祀る坂本神社があり浦佐字上島に鎮座し、
延喜式神明帳に記載された式内神であったと言われ、下浦佐には白山比大神を祀る白山社が浦佐字田平に鎮座。
その後、上下両浦佐の合併により、両神社も一緒になって1760年普光寺境内に社殿を建立したと云う。
一説には、上浦佐の坂本神社が洪水で流され、字田平の出雲様のところに漂着、これを機に坂本神社と白山社を合併したとも言い伝えられている。
昭和6年、浦佐・毘沙門堂が焼失し、平坦地が生じたのを機に社殿を現在地に曳行移転。昭和29年、増築とある。

鳥居の少し手前に常夜燈は、多聞天とあり、毘沙門堂の常夜燈と思われる。

             境内には彫刻家の「北川岸次」彫像が(浦佐出身)
    
                     白山神社拝殿


「浦佐・西山33番観音めぐり」
西(高)山は、魚沼川左岸の丘陵地、浦佐の町の背後の山。
山頂には、晋光寺の境内にある白山神社の奥の院の石碑が置かれいると云う。

「浦佐城」は浦沢城とも呼ばれ、1421年に「大関氏」によって築城された山城がある。
三国街道と魚野川舟運を監視する重要な拠点であったと云う。
戦国時代には上杉氏の出城としての役割を担って、謙信亡き後の「御館の乱」の際には、景虎援護のために攻め入った北条軍を撃退していると云う。

33観音は半日コース
浦佐・ 薬師橋・ 四番観音手前の沢別れ・ 高山入口(第十六番観音)・ 高山入口(第十六番観音)・ 薬師橋・ 浦佐城址登山口・ 登山口の往路。



                  1~3番観音の石柱が、ここから山道へ


「浦佐城址」
三国街道や魚野川の舟運を監視する重要な拠点の城であったと云う。
浦佐・毘沙門堂、標高295mの山城、
県下最大級の空堀があると云う。1578年の「御館の乱」では、浦佐城将「清水藤左衛門」が景勝軍に属し、「北条軍」の侵略を食い止めた功績を
景勝は大いに讃えたとある。
                  高山登山道入口(毘沙門堂裏手)


「浦佐・毘沙門堂ー裸押し合い大祭」
年一回正月三日に毘沙門堂の唐戸を開き、ご本尊の暖簾をあげご開帳。
毘沙門天を信仰する人々が各地から集まり、我先に参拝しようともみ合い、押し合う。その暑さと年頭にその年の除災招福を願う心から水行して参前。
これらのことが混じりあって次第に裸になる者が多くなりついには全員裸でご本尊様に額つくようになり、
現在は三月三日に日を改め行なわれ、祭典の準備・警護・進行を「浦佐多聞青年団」が取り仕切る。
満30歳までの若者は当日までの数週間、四足二足を食さず毎日水行をし、身も心も清め指揮に当たると云う。

                     浦佐毘沙門堂正面
    

スキー道場、すなわち浦佐。
「上手くなりたかったら、浦佐へ行こう」といわれ、講習には定評があった。
その浦佐スキー場は、営業をやめ、ひとつの時代が終わったと云う。
2011年、新聞報道によれば
「浦佐スキー場、来季の営業休止。南魚沼市浦佐の浦佐スキー場が来季の営業を休止するとあった。
原因は、利用客が減少、また、地元の住民らが出資し合い1958年にオープン。60年にスキー学校を開校し、優れた指導者による普及活動や技術指導に定評があった」。
土砂崩れ等、スキーセンターが崩壊、その影響もあるのだろう。半世紀以上におよぶ歴史にピリオドが打たれたと云う。
        


「吉祥山-普光寺」
真言宗豊山派の寺院。通称、「浦佐毘沙門堂」と呼ばれる。
毘沙門堂の創建は、807年に坂上田村麻呂が開基したと伝えられ、3月3日に行われる「裸押合大祭裸祭り」が有名で、日本三大奇祭の1つ。
そのとき使う巨大なローソクが回廊や毘沙門堂高覧に並べられている。
山門は日光東照宮の陽明門を模した欅造り、天井に2つの龍図がある双龍図板絵、谷文晁が描いたもの。
山門には大きな草鞋が懸かり、中の金剛力像。山門をくぐり回廊を進むと、その奥に不動明王が祀られ、不動明王下の洗盤池(うがい鉢)。
八海山の大岩をくり抜いて作られたと云う。
祭りに参加する男たちがこの中に入って水垢離をすると云う。

          千手院           神橋             神木(200年以上のしだれ桜)
    

山門前には狛犬が、宝蔵前にも古い狛犬が立っていた。
寺に狛犬があるのは珍しい。白山神社が鎮座していた。
神仏分離で裏手に移され、狛犬はそのままになったと云う。
土蔵造りの多門天宝蔵はおよそ400年前に建立、1932年に毘沙門堂が焼け残った。

             越後浦佐千手院、本堂・ 越後浦佐毘沙門堂( 普光寺)
    

「坂上田村麻呂」 758-811 奥州を平定した将軍征夷大将軍、父、苅田麻呂も朝廷の武官、京都清水寺創建。蝦夷に農耕や養蚕を進めた。
兵部卿・大納言・正三位に上った。身の丈一尺二寸で目は鷹の瞳、笑えば赤ん坊もなついたと云う。東北には、田村麻呂創建の寺・神社が多い。

        普光寺は、大悲山千手院という真言宗 豊山派のお寺・奈良の長谷寺が総本山。


「毘沙門天」
中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになり、毘沙門という表記は、
ヴァイシュラヴァナを中国で音写したもの。
「よく聞く所の者」という意味にも解釈し、「多聞天」とも訳されている。
帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲を守護するとされた。
夜叉や羅刹といった鬼神を配下とし、密教においては十二天の一尊で北方を守護(中国)。

我が国では、毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころがかつての方相氏から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、このことは市場で祀られたことと関係がある。こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。

                      右手に「仁王門」


                      仁王門と彫刻


長寿欅                       仁王門天井「龍」
    

「文化財」は、魚沼市指定文化財 山門 - 1820年起工、総ケヤキ造りで、日光東照宮・陽明門を模したという。
釘は1本も使われていない。天井には、谷文晁作の双龍図が描かれている。また、2階部分には極彩色の天女の舞う姿が23枚描かれている。

国の選択無形民俗文化財 「裸押合い祭り」
毎年3月3日に行われる。日本三大奇祭の1つ。不動明王像の前のうがい鉢で水行をして身を清めてから、毘沙門天を参拝すべく「サンヨ、サンヨ」の掛け声とともに毘沙門堂内で押し合う。江戸時代の北越雪譜にもその詳細が記載されていると云う。

  回廊                             聖徳太子堂
    
                            毘沙門堂


寺は、もとは毘沙門天を祀るお堂の別当寺として建てられ,、毘沙門堂は、807年に坂上田村麻呂の開基により創建で、戦国時代には、上杉謙信や上杉景勝が訪れ、彼らの文書が残されていると云う。
江戸時代には、この地の領主の帰依を得て寺領を与えられ、江戸幕府からは朱印状を与えられている。
江戸時代には古義真言宗(醍醐派)に属していたが、明治に入り新義真言宗(豊山派)に転じている。

        普光寺境内・別行殿・庚申塚石碑、、、。                           鐘楼
    

「祭り」
不動の滝の氷を割って、水垢離をとり、近郷から裸にふんどしだけをつけた草鞋ばきの男や、浴衣に細帯を締めた女達が続々毘沙門天に。
堂の内外にぎっしり詰めた裸の群れに、大きな者では60キログラムを超える寄進の「大蝋燭」が、数十本柱にくくりつけられ、蝋を降らせる。
「さんよ、さいよう」「ようさい、こうさい」と掛け声を応答しながら激しく押し合い、これを一躍一押と呼ぶ、開帳の仏前には棚が組まれて、押されてその前に近づくと、梁の上に居る若者が引き上げて像を拝ませる。

                           浦佐の若者達


夜十時、七躍七押目に、数人の手車に乗った年男が、大蝋燭の炎で、群衆をかき分けながら堂に入り、真言蜜法の呪文を唱えて、豊凶を占う簓を揩う。
音頭取りが音頭を取り、それに合わせて、足拍子、お神酒、盃、弓張、金小判、鏡餅、御灰像が撒かれ、群衆が奪い合、、、。 

                     不動の滝で


南魚沼では、一番歴史と伝統のあるお祭り。

              不動明王像の前のうがい鉢で水行をして身を清めて、
      

次回は、六日町方面。

下町散歩・谷中~根岸

2014-11-29 | syu散歩

今日は、JR日暮里駅から谷中を抜けて旧上根岸JR鶯谷駅と散歩した。

「長屋文化」
江戸時代から、中層以上の商家などは表通りに独立した店を構え、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいであったと云う。
大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。
特に江戸時代、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材に、密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた場合もみられる。
江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度。
路地に共同トイレがあり、風呂は無い。「火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止」
入浴は、地域の銭湯。
水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口であったと云う。
水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が、そこから生まれた。
江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のこと、住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたり場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然」などという台詞が、ここでも聞かれる。
狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋が発達したと云う。

その名残が、JR日暮里駅門前町谷中周辺で感じられる。

                 谷中銀座通りに向かって左折


「朝倉 文夫」 1883ー 1964年 明治から昭和の彫刻家(彫塑家)。号は紅塐と称し、「東洋のロダン」 とも称された。
2013年 - 日本近代彫塑界の最高峰であり、文化勲章受章者。
明治40年-現東京藝術大学を卒業した朝倉文夫が、台東区谷中の地に居を構え、今でもアトリエのみ現存、昭和3年ー 現在の「朝倉彫塑館」の建物の建築を開始し、7年の歳月をかけたと云う。
昭和10年ー住居兼アトリエ、あわせて朝倉彫塑塾の教場としても利用、昭和42年 朝倉文夫死去後、3年を経て「朝倉彫塑館」として一般公開している。
平成13年ー朝倉彫塑館の建物4棟が国の登録有形文化財に。 

              朝倉彫塑館(本日休館)
    

現代,長屋は、1970年代後半から地価が高騰する1980年代後半まで、鉄筋コンクリート造の「タウンハウス」として数多く建設されてきた。

法規上では、長屋建は一般に「2つ以上の住宅を1棟に建て連ねたもので、各住宅が壁を共通にし、それぞれ別々に外部への出入口を有しているものとして、建築確認、完了検査を受けて適合性が認められると云う。
防災の観点から、独自の建築安全条例が定められ、長屋の各戸の主要な出入口は、道路又は道路に通ずる幅員二メートル以上の敷地内の通路に面して設けなければならない等もあるようだ。

近年はこうした安全規制に沿いながら、都市防災面から特に危険度の高い木造密集地域については、小さな単位から耐火造の長屋等に協調建替えに取り組む動きがみられているとも云う。
戦前の長屋の見直しも行われており、コンバージョン等により有効利用されるケースも、、、。

                     谷中の路地裏


谷中は、台東区の北西端・JR日暮里駅南西部。上野公園から続く台地上と本郷台地との間の谷間を含むので谷中と云った。太田道灌も狩りに出掛けた。
明暦の大火(1657)で、神田・日本橋から寺院が転入し、寺町が形成された。
1874年、天王寺境内が墓地とされ、これが「谷中墓地・谷中霊園」最後のエンペラー「徳川慶喜」も谷中で眠っている。
桜並木も坂道も一部街並みも江戸・明治の風情を残し観光スッポトになっている。

                   そば店とお寺と住宅
    

神戸の北野通りの「洋館長屋」を思い出した。
1908年、旧居留地に外国人向けアパートとして建設。
後年北野町の現在地に移築され、通りに面して左右対称の2棟が中央で連結し、連結部の階段の左右に入口が設けられ、その洋館として一風変わった外観が日本の長屋のようである。
神戸では、「洋館長屋」と呼ばれるようになったと云う。

谷中のヒマラヤ杉,三浦坂近く。高さ約15m、 みかどパン店の敷地内に、戦前、現店主の祖父が鉢植えから育て始めたと云う。


1590年江戸城に入城した徳川家康時代、上野は、ほとんど湿地帯で沼沢があり、葦茅が繁っていたと云う。不忍池は現在の二倍ほどの広さがあった。 1624年「天海僧正」によって、「寛永寺」が創建されると、寛永寺の門前町として大いに栄え、水茶屋等が軒を並べていたと云う。 特に、桜の時期は、花見客で大賑わいを呈した。 落語の「鈴本演芸場」の寄席は古い歴史がある。

                  谷中墓地を抜けてJR陸橋へ、


「桜木町」
下谷桜木町と呼ばれていた。上野台部分の町は上野花園町から独立したエリア、多数の寺院と共に、江戸時代の町割り、道割りの上に明治から昭和にかけての建物が混在し、歴史的重層性のある景観を作りだしている。
地名の通り桜も多く、同町や上野公園の桜は、樹齢を重ねたものが多く一本一本が独特の形をしており、綺麗な桜並木を今でも見ることができる。
町内にある寛永寺は、3代将軍徳川家光の治世に建てられた。
寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院。
寛永寺は、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟がある。大慈院は、徳川慶喜が謹慎していた場所である。
言問通り沿い、かつては鶯谷駅との乗り換えが便利な京成の「寛永寺坂駅」があった。川端康成も居をかまえていたと云う。

                 かわり続ける日暮里・根岸の町


谷中墓地からJR線陸橋を渡ると、京成電鉄が上野山のトンネルを抜けて高架線のカーブのガード下に出る。この辺りが旧上根岸で、台東区・荒川区の
境で、区の北部・鶯谷駅の北東に位置する。
江戸中期から、文人墨客が、田園の野趣と音無川の清流に恵まれた地であり「隠棲」の場としていた。
特に音無川には、鶯が多く名所の一つで知られ、「初音の里」と云われている。
鳴き合わせの梅屋敷が幕末まで残っていたと云う。明治に入り、俳人・歌人の「正岡子規」等文人画家が居を構えている。
第二次世界大戦で焼失し面影は、無くなってしまった。
豆腐料理の「笹の雪」は残っていた。
                    正面が日暮里駅


台東区旧上根岸
「中村不折」 1866-1943 明治・大正・昭和期に活躍した 洋画家・書家
夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵画家。

書道博物館、
洋画家であり書家でもあった中村不折の住居に、昭和11年に開館された。面影は洋館風の玄関が残っている。
博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品などの重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されている。

向かい側が、「正岡子規庵」
    

上の句・季語に、「根岸の里のわび住まい」と続ければ、そのまま風流な俳句になってしまうという話。
根岸界隈のうち、旧下谷区中根岸町・金杉町(現下谷)あたりは戦災にも焼け残り、旧日光街道、通称・都電通り沿いには、
古い商家や長屋が数多く残っていた地域。

「正岡子規」1867-1903 夏目漱石の親友、俳句の革新に努めた。

根岸の子規庵
「鳴いて血を吐く ホトトギス」といわれ、ホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血を吐いているように見え、 正岡子規、22歳で結核になり喀血したとき、ペンネームを子規にしたと云う。
子規とは、「ほととぎす」、野球が好きで、「打者」「走者」「直球」などは子規の翻訳語。
子規は1897年俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、写生俳句を首唱、 門下には、 高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、 長塚節等が。
漱石とは学生時代から交友、子規の出身地・松山市は俳句の盛んな所で知られている。

                「卯の花の 散るまで 鳴くか 子規(ホトトギス)」
    

次回は、新潟県南魚沼・浦佐へ。

鹿 島 神 宮

2014-11-26 | 気まま旅
「御船祭」
常陸国風土記ー「毎年7月に舟を造りて津宮に奉納する」
外海の太平洋(鹿島灘)内海の北浦と古代東国文化の要衝であった。「御船祭」は、鹿島に鎮座し関東開拓鎮撫にあたる「鹿島の大神」を奉ずる人々
に伝えられた「祭」は、1700年前の応神天皇の御代より伝わる「神宮最大の祭典」と云う。
12年に一度の式年大祭が、今年平成26年9月2日・十二支の午年一巡に斎行された。
天下泰平・願成就・魔陣退散・邪気・不景気を祓う一陽来復の願いが込められた祭りと云う。

「鹿島立ち」陸上大行列(約2000人の供奉者が大船津・北浦水上一之鳥居・桟橋神輿と共に「御座船」へ(見どころ)

  

竜頭で飾られた「御座船」は、80余と云う。その御座船は千葉県香取市潮来の加藤洲まで、船団御渡は、2時間と云う。
「香取神社」で御迎祭があり、又船団は、一路帰途へ、翌日「行宮祭」斎行・本宮に「還行祭」が行われ大祭は終わりを告げろと云う

鹿島の山車ー仲町「天照大神」・大町「塚原ト伝」・新町「聖徳太子」・桜町「ホ花咲耶姫」・角町「武蓺槌大神」
1857年曳き回す山車の歴史を持っている。鳴物は、江戸中期以降「成田詣・東国三社詣」の往来の人々の中で伝えられてきたと云う。

  

「降魔山・護国院・経音寺」
古くより武神、東国一帯の信仰をあつめる「鹿島神宮」の大町通りから住宅の街並みを進むと、
「北関東三十六不動尊霊場第二十九番札所」-降魔山護国院経音寺。

鹿島神宮入口から歩いてわずか五分の所に位置する名刹、山門より玉砂利を敷き詰めた境内を見渡すと、正面に華麗な威容を見せる本堂、
左手に小作りながら穏やかな美しさに満ちた大師堂が佇む。
本堂には、通称厄除不動尊をはじめとする五大明王が安置。
五大明王とは不動明王のほか、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大尊。

元明天皇の和銅二年 709年、開基と云う。千三百有余年もの寺歴で、鹿島神宮境内にあったと云う。
    

足利尊氏の信仰を受けて国家安全の護摩祈祷を修し、護摩堂と呼ばれる.
1677年、現在地。この地方は大師信仰の盛んな所で、毎年4月1日から15日まで大師尊巡錫が行われているが、これは実に江戸時代から続けられている。
北関東三十六不動尊霊場はすべて東密と呼ばれる真言宗か台密と呼ばれる天台宗のお寺と云う。密教では大日如来を教主、大日如来は、お不動さんに悪を滅ぼす様命を下された仏様である。

    

「鹿嶋神社」常陸国一宮 旧官幣大社 
祭神は、天照大神の命を受けた「経津主大神」。
大和朝廷の兵站基地であったことから武神として崇敬され、奈良時代には、九州防備に赴く東国の防人たちが、武運長久を祈願して出立したと云う。
鹿島立ちはここら生まれた。

    

「祭頭祭」は、3月9日として伝わり、812年住吉大社・香取神宮と共に、20年に一度の式年造替の制度が定められたと云う。
皇室や藤原氏・源頼朝等の武家崇敬を受けている。



重文ー本殿・石の間・幣殿・拝殿・奥の院本殿・楼門
国宝ー直刀(頼朝が寄進)   重文ー梅竹蒔絵鞍など。



楼門ー1634年、徳川頼房公奉納、我が国三大楼門の一つ、檜と朱色の門・扁額は、東郷平八郎元帥直筆と云う。

鹿島と鹿
神宮の鹿は神の使いとされ、神鹿と呼ばれている。奈良公園の鹿は、鹿島の発。サッカーの「鹿島アントラーズのアントラーズ」は、鹿の角
勝利の神と云う。

    

「要石」
地震除けなら要石と云い、地震を起こす大鯰の頭を押さえていると古くから言い伝えられる。
光圀公も鹿島を訪れ7日7晩部下に掘らせたが一向に底が見えずと記録にある。

社殿・1619年秀忠公奉納 重文    巨木の神木の根回り12mで樹齢1200年と推定
    

本殿ー鹿園ー奥宮ー要石ー御手洗をつなぐ参道は、老樹古木の緑が続く。

    

奥の宮は、1605年、徳川家康公が「関ヶ原」の戦勝で、鹿島神宮の本殿として奉納死と云う。二代将軍秀忠公は、社殿奉納の際、奥の宮は現在地に移動

  

奥宮からさらに細い道をたどって要石に、境内に参詣客は少なめ、
拝殿先の奥参道ではまったく人影を見なかった。
薄暗い樹林の道では、砂利の足音が、

要石に参拝。石の鳥居、石の柵の中の砂からそれらしきものが頭を少し出している。
            
 芭蕉句碑           「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」 詠まれた句ではない.
  

             芭蕉句碑           「此松の実生せし代や神の秋」
    

            一茶句碑           「大なゑにびくともせぬや松の花」


「御手洗池」
滾々と湧き出す清水、清らかな水の御手洗池。
鹿島七不思議として、大人も子供も池に入っても水面が胸の高さを超えないと云われている。
昔は、ここが神宮の玄関で、神聖な場所と云う。



古代の霞ヶ浦は広大な内湾をなし、北は北浦、南は印旛沼、西は手賀沼からさらに今の利根川・鬼怒川流域に広がっていた。
東の入口に「鹿島神宮」。

            浪高き鹿島が崎にたどり来て、東の果てを今日見つるかな    夫木抄

 枕詞に「あられ降り鹿島」ともいひ、鹿島の神(武甕槌たけみかづち命)は、天孫降臨に先立って高天原より天降って来た武神とされる。

            み空より跡垂れ初めしあとの宮、その代も知らず神さびにけり  夫木抄

            めぐり逢ふ初め終りの行方かな、鹿島の宮に、かよふ心は    慈円

    

これで成田ー鹿島の旅は終わります。

鹿島城跡から

2014-11-24 | 気まま旅

佐原ー香取ー「成田線」は、利根川に沿って銚子方面に、「鹿島線」は、利根川を渡り、霞ケ浦常陸利根川を渡り潮来ー「北浦」を渡りー
サッカ―で知られたカシマスタジアムのある終点「鹿島神宮駅」に到着し、可愛い二両編成の水戸行き・鹿島臨海鉄道が停車していた。

「北浦」茨城県鹿島郡と行方郡に挟まれた南北25kmの細長い湖。
縄文海進最盛期「6000年前」に台地を「巴川」の谷に侵入した入江が堰止湖となったもの。「流海」の霞ケ浦の北部にあたる。霞ケ浦を西浦とも云う。
近世には、江戸への水上輸送路として、鉾田・江川・津賀等の河岸がさかえた。
帆引き漁でも知られた鯉・鮒・ワカサギなどの漁獲が盛ん。
                          北浦


最近の北浦は、漂砂にふさがれ「鹿島臨海工業地帯」の工業用水・都市用水の水源となっているが、排水の流入も進み、汚染対策に追われていると云う。
南部は、水郷筑波国定公園に含まれる。
面積ー35.2km2・周囲68km・深さ7m。
                          北浦(電車の窓から)


「鹿嶋市」は、県南東部、鹿島台地の最南端、市名は、常陸国一宮「鹿島神宮」から、東が鹿島灘に面する砂丘・西は、「北浦」に面した湖岸低地
三方が水域に囲まれている。気候は温暖で、「鹿島神宮」で商業が栄えた。
新全国総合開発の波に乗り、砂丘Y字掘り込み「人口港湾」の整備・鉄銅工業コンビナートの鉄の町と転身した。
1990年鹿島アントラーズ・サッカーチームが誕生している。3年後にスタジアム完成。
天然記念物・ハマナス自生地。
                          鹿島神宮駅前


鉄道は、鹿島臨海鉄道。


道路は、東関東自動車道「潮来IC」・国道51・124等


「塚原ト伝」 1489-1571  新当流開祖・将軍に剣術を伝授した達人。
鹿嶋神宮の祝部ト部「覚賢」の子で、塚原城主「塚原安幹」に養子。名を「高幹」と云い、実父・養父から兵法を学び「一つの太刀」秘技獲得し一流を開く。将軍義輝や多くの戦国武将に刀術を伝授している。

「足利義輝」  1536 ~ 1565、 室町幕府の第13代将軍、上泉 信綱・塚原卜伝から剣を学んだ剣豪将軍として知られる。
天下五剣をはじめとする、 名高い業物を宝具として複数所有した刀剣蒐集家であったと云う。
 
                  19回の真剣勝負で負け知らず。
    

ト伝が船に乗り乗客の中に兵法を自慢する男がいた。
ト伝は、「戦いは勝つのではなく、負けないように頭を使い工夫するごとが極意である、、、、」するとその男怒りだし「勝負しろ」と騒ぎ出した。
ト伝「乗客に迷惑だから、あの離れ小島で戦おう」男は承諾、
舟が小島に着くとその男飛び降りた。
ト伝は、船頭から棹を借りると、船を出してしまった。小島の残された男、怒鳴ったが後の祭りであった。
現代にも通じる話。

                         里山にト伝の墓
    

「鹿島城跡・公園」
鹿島氏は常陸大掾氏の一族である吉田成幹が平安時代末頃に鹿島の地方を与えられて鹿島氏を名乗ったのが起こりと言われている。
城は、「源頼朝」に仕え、鹿島宮総追捕使に任じられた成幹の三男である政幹が築いたと言われている。
この後、1524年に島崎氏の後押しで老臣たちが城主義幹を追い出し、府中城主「大掾高幹」の弟「通幹」を城主に据えている。
最後は戦国時代末期の 1591年に「佐竹義宣」により他の鹿行郡の城主とともに常陸太田に呼び出されて謀殺、城も佐竹軍に攻められ落城した。

           別名ー吉岡城・城主ー鹿島政幹・幹重・義幹  中世の連郭平山城
    

鹿島神宮駅の500m程南東側に見える小高い丘に「鹿島城の跡」。
現在は城址公園。本丸は丘陵地が北に向かって張り出している所を堀で区切り郭としている。
二の丸は住宅地、城の遺構らしいものは無い。

鹿島神宮の表参道である大町通りは、往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。
天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城。
佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書より)。
徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興している。
現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わる。
国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造っている。
県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって不要として埋められたと云う。
                     堀・土塁は、わずかに。
  

堀を渡って本丸の中に入ってすぐの所から駐車場・公園となっている。
公園としての整備が進んでいるため、城跡の遺構は少ない。

本丸と二の丸の間の空掘跡、腰郭跡、土塁の一部などが少々残っている。
    

「鹿島氏」は、鎮守府将軍平貞盛の甥維幹を祖とする常陸大掾七党の一流で、大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が常陸国鹿島郡鹿島郷に土着して、鹿島の地頭となったことに始まる。
成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住み、のちに鹿島神宮の西方にある宮中の吉岡に城を築き、以後、戦国時代末期まで鹿島氏は吉岡城主として続いた。常陸大掾一族は平氏だが、清和源氏との関係が深く「前九年・後三年の役」には大掾致幹が、源頼義・源義家に属して出陣している。


鹿島城は本丸跡の鹿島城山公園に若干の遺構を残すのみである。大部分の遺構は様々な事象や理由によって破壊されてしまったと云う。
    

「宮中野古墳群」
夫婦塚古墳は、全長108mの前方後円墳。県内では5番目の大きさと云う。6世紀の前半と推定。宮中野古墳群の一つ。
鹿島開発で古墳の数が分ったと云い、100基以上と言われ、小さい物も合わせると200基とも云う。今はその数も宅地化で数が減って100基以下
これだけの古墳が集まる場所は県内でも最大級で、古代から鹿島地方では多くの人が住んでいた事が分かる。
夫婦塚古墳の内部は何も入って無いので発掘調査は行われて無いと云う。(市指定史跡)

須賀町T字路に鎮座の村社か郷社                     その近くに「宮中野古墳群」の小山がある
    

1865年、明治維新も目前、北陸の港町敦賀で,水戸藩(茨城県)からやってきた武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。
「天狗党」とよばれた彼らは,なぜ敦賀に来たのか。そして,なぜ処刑されなければならなかったのか。
幕末最大の悲劇である。

「天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名。
尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。
実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地。水戸藩の尊王攘夷思想は,2代藩主徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編さんを通じて,
次第に形成されていった。それが全国に影響をあたえるようになるのは,強硬な攘夷論者であった。
9代藩主斉昭の時代である。
1829年に藩主となった斉昭は,学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し,質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とし、積極的な藩政の改革を行う。
やがて,ペリーの来航で対外危機が高まると,斉昭は幕府の政治にも関わるようになり,斉昭とその側近の東湖は,全国の尊王攘夷派のシンボル的存在。

暴走する水戸藩は、結局幕府は開国を実施、斉昭は、大老井伊直弼と対立し,「安政の大獄」で処罰を受けた。
これ以降,藩内では,「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と,「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。
この一方で,尊王攘夷派の浪士たちによる過激な事件がくり返されるようになった。
3つの事件は,いずれも水戸浪士が中心になって引き起こした事件である。

                天狗党の墓地は、一番奥の雑木林に


1860年、桜田門外の変(大老井伊直弼を襲撃・井伊は死亡。1861年、第1次東禅寺事件・イギリス公使館を襲撃した事件。館員が負傷。
1862年、坂下門外の変は、老中安藤信正を襲撃、安藤は負傷。

全国各地で尊王攘夷運動が活発になる中,藤田小四郎(東湖の子)を中心とする水戸藩の尊王攘夷派の急進グループが,ついに行動を、1864年,攘夷の実行を幕府に迫るとして,筑波山で兵を挙げたのである。
この挙兵に際し,藤田は,長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)から軍資金の提供を受けていたと云う。
彼ら天狗党には,水戸藩士ばかりでなく,尊王攘夷運動に共感を覚える農民や他藩の武士なども加わって,たちまち数百人の勢力。
天狗党は,幕府の追討軍や諸生党の軍と筑波山や水戸の周辺でしばしば戦うが,次第に追いつめられ、水戸藩領北部の大子に逃れたと云う。

                      天狗党の無縁墓地
    

鹿島市内には、七つの井戸が。その一つ。七つ石・七つ踊りも。                      根本寺参道
    

「根本寺」
聖徳太子の開基と伝えられる寺。
仏頂和尚を禅の師と仰ぐ俳聖・松尾芭蕉も 1687年に鹿嶋へ月見に訪れていると云う。
その様子は「鹿島紀行」に記され、境内に句碑が建てられている。
                  
                    ”月はやし梢は雨を持ちながら”

「仏頂禅師」は、1642年、常陸国に生まれ、8歳で冷山和尚の根本寺に入り禅門の道を歩みはじめ、1655年14歳の春に、諸国の名僧との出合いを求めて旅に出、1674年33歳の時に冷山和尚から根本寺を受け継ぎ、二十一世住職に就任している。
芭蕉が、江戸市中から深川の草庵に移ったのが 1680年の冬で、このころ仏頂禅師は、鹿島神社との係争で江戸に出て臨川庵に仮住まい。
芭蕉は深川に住んで間もないころに禅師と運命的な出会いをし、川向うの臨川庵に参禅する日々を送ったと云う。

    

「天狗党」斉昭の懐刀、藤田東湖の息子「藤田小四郎」は、父の薫陶を受け(学者・文人・政治家・武士)江戸・京都で尊攘運動で、桂小五郎らと東西
呼応して事を起こそうと図り、しかしうまくいかず、筑波山で挙兵ー24歳で斬首。
「武田耕雲斎」天狗等の乱の理論的・実践的支柱ー斬首63才(武田信玄家臣家系)
「水戸市・回天神社の鰊蔵」福井・敦賀で捕われた天狗党のひとびとは、16棟の「鰊蔵」に押しこめられ過酷な扱いを受け、鰊のにおいが充満していたと云う所から「鰊蔵」と云う。その一棟が水戸の回天神社にある。
現在敦賀と水戸市は姉妹都市に。

次回は、鹿島神宮御参り。

秋の実り 山荘の冬支度

2014-11-23 | 富士山麓日記
11月も半ばを過ぎると富士山麓は紅葉も終わり気温も下がるので冬支度をしなければなりません。
今日の富士山、河口湖インターから良く晴れた日、空に浮かんでいるようです。

一合目から




昨年の大雪で樹木は折れて、せっかく伸びた樹木も真ん中から裂けてしまったりで、小さくなってしまいました。
少しでも助けられるかやってみました。


今年はもう来ないので水抜きをして冬支度です。来年3月までお別れです。




そして渋柿を段ボールいっぱい購入、東京に帰って1日皮むき、旨く出来るかしら?
焼酎で霧吹き、カビを防ぎます。


沢庵を漬けるので干し大根も買ってきました。


漬物に入れると甘みが出て美味しいのです。柿の皮を干しておきます。