syuの日記・気まま旅

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笹川  総武本線の旅9

2016-04-30 | 気まま旅
バタヤン・田端義夫の「大利根月夜」作詞ー藤田まさと

あれをご覧と指差すかたに 利根の流れを 流れ月 昔笑うて 眺めた月も 今日は今日は 涙の顔で見る

・・・・・男 平手と もてはやされて 今じゃ今じゃ 浮世の三度笠

もとをただせば 侍育ち 腕には自慢の 千葉仕込み 何が不足で大利根暮らし くにじゃくにじゃ 妹が待つものを。

千葉県香取郡東庄町・県の北東端で利根川沿いの低地と下総台地東部からなる町。
鎌倉時代にこの地を支配していた千葉一族・東氏の荘園の名に由来すると云う。笹川町・神代・橘・東城が合併して「東庄町」。
歴史は古く、古代には群役場が置かれ、中世に、東氏領、江戸時代は、旗本領となった。
中心地区が笹川で、かって利根川水運の河港として栄えた。
最近では、利根川対岸鹿島臨海工業地帯の造成で、住宅・工業団地が立地に。又、笹川シジミは全国的に知られている。

          「天保水滸伝」の舞台と笹川繁蔵を訪ねる


利根川下流域の緑豊な田園台地・町の木「オオムラサキ」と町の鳥「コジュウリン」(頭部黒、羽茶と白、雀より小さい、ホウジロの仲間)それと、国道356号線の通称「イチゴ街道」1月~5月イチゴ園がオープンする。
東庄ふれあい朝市は、地域の人達で賑わう、毎週日曜日に農産物・水産物・名産等が販売している。(午前9時までと云う)

相撲祭りー7月の最終土曜日に諏訪神社境内で開催される。子供から大人まで取り組みが繰り広げられる。
8月・大相撲の出羽海部屋の夏合宿が諏訪神社で。

 利根川で取れた天然ウナギ              「笹川相撲祭り・天保水滸伝にも登場」
    

「諏訪神社」
807年、「坂上田村麻呂」が勧請したと伝承。
境内に立派な土俵が築かれ江戸時代から続く奉納相撲が夏行われる。

     農民救済の為笹川繁蔵が国定忠治らを招待し、奉納相撲を開いた。
  

「鹿之渡」とは、鹿島神宮の神鹿が、香取神宮との往来の際に、笹川を通過したか?
源頼朝が鹿島神宮に自ら参拝したときには、此地の「東氏の館」に宿泊したといわれている。
現在でも、鹿島神宮から南下して、直線距離で一番近い利根川の渡河点は東氏の居城とされた森山・須賀山城跡にあたる。
古くは、高望王の子で千葉氏の祖平良文がここに拠点の一つを置いていたとされ、「千葉常胤」も、下総国府台、佐倉、千葉などと並んで、拠点の一つにしていたらしい。
千葉常胤は、六男の胤頼にここを与え、その後もここは千葉氏の求心力のある土地であり続けたと云う。
笹川村の鎮守である、笹川諏訪神社の宮司家は香取大宮司家と親戚、同神社に隣接する延命寺は鹿島神宮寺の末寺であり、この土地が古くから鹿島・香取両神宮と縁が深かったことが伺える。
室町期におきた隣郡の鹿島氏の内紛では、当主の鹿島義幹が一時、東氏を頼って逃げてきている。
千葉氏との関わりで、須賀山城跡の側にある「東福寺」は、実質的な最後の千葉宗家当主であった、「千葉邦胤」が灌頂会を行った寺で知られる。

                笹川・源頼朝奉納神楽、境内「神楽殿」で。
    

繁蔵の建てた相撲の神様「野見宿補命」の碑がある。

                  諏訪神社拝殿


          天保水滸伝遺品館(笹川繁蔵愛用のキセルなど展示されている


「笹川繁蔵ー天保水滸伝」
下総国海上郡(現・千葉県香取郡東庄町)に住まい、大親分として侠名をうたわれ、子分には、浪人の平手造酒や、力士の勢力富五郎等がいる。
文化7年の1810年、下総国須賀山村大木戸(現・千葉県香取郡東庄町)で、醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男として生まれる。
漢学と剣術を学び、田舎相撲に夢中になる少年時代を送った。
相撲に夢中になるあまり江戸へ出て、千賀ノ浦部屋に入門し岩瀬川を名乗るが1年あまりで廃業。
この頃から博打を打つようになり侠客の道に入り、千賀ノ浦部屋の同門で郷里の近い勢力富五郎と共に笹川に帰郷すると一家をおこした。
天保13年の1842年、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、農民救済のために地元の商人宿・十一屋で花会(親分衆のみを客とした賭場)を開く。
繁蔵は、関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、十一屋の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと講談・天保水滸伝では伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前であり、国定忠治も手配書が出て逃亡中であったため、真偽は不明と云う。
同じ頃、銚子の陣屋から十手を預かる「飯岡の大親分・飯岡助五郎」と勢力を争う。
初め良好だった両者の関係は、笹川一家の勢力が拡大して飯岡一家の縄張と隣接するようになると、どちらにもついていない中間地帯の賭場の寺銭を巡って緊迫し、遂には双方の親分自身が命を狙い狙われるまでになる。
天保15年の1844年8月、御用召捕りと称して利根川の水路と陸路の二方面から笹川に侵入してきた飯岡一家と戦い、須賀山明神の境内で飯岡側を一時は敗走させた(大利根河原の決闘)。
紛争後、繁蔵は、やむなく故郷を立ち去り、伊勢路を目指した。
弘化4年の1847年、笹川に舞い戻り、飯岡を討とうとするものの、頼りとする富五郎、その他の子分の騙しにあう。
これに憤激し、笹川繁蔵は、独力で飯岡を討とうとするも、飯岡はこれを知って笹川の名主・平左衛門と手を結んだ。
その後、笹川繁蔵は、飯岡に謀られ、笹川の「ビヤク橋」で虚無僧に変装した助五郎の子分3名の闇討ちにあって暗殺された。

                    笹川の町中に
  

天保15年・1844年、大利根川河原の決闘ー飯岡助五郎が笹川への切り込み事件、大小県下が繰り返されていうる。

用心棒剣客平手造酒が命を落としている        大利根河原の決闘を描いた芳虎画1864年
    

時代の背景ー全国的に続く飢饉で幕府も対策に失敗続き、幕府は、10万人余りを動員し、「鹿狩り」を行うことを決める。
そこに、笹川一家があるのは困ると、一網打尽にすべきと、諏訪神社関東取締出役と100人余りの手勢を引き連れ集結したのが1849年。

    

最後は、勢力富五郎・子分栄助は、金毘羅山で自刃。
              地元の農民や村々を守った侠客として残った。
    

この水郷のほとりに 任侠の華と散った 人々の名は 哀しくも美しく 今もなを訪れる者の 心に甦る 思怨を 大利根の流れに沈めて
                                          三波春夫記念祭に寄せた詩。
「船頭小唄」
俺は河原の 枯れすすき 同じお前も枯れすすき・・・・・大利根の郷愁が。

                利根の川風 袂にいれて 月に掉さすー高瀬舟
  

「水滸伝」と云えば、中国の5代史の一つ「中国水滸伝」、「天保水滸伝」は、日本版と云うが、日本版でいえば、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」。
馬琴は、中国文献・書物等を原書で読むほどの知識人であったと云う。

                      サイコロと合羽
  

   「十一夜」は、笹川の花会が催したと伝わる繁蔵の定宿と云う。(現在は、民家)


手配人相書・繁蔵と冨五郎                繁蔵生家(笹川大木戸、現存しない)
    

「国定忠治」1810-50 赤城山に籠った凶状持ち、上野国国定村冨農の子、19歳で博徒・25歳で人を殺し・大前田英五郎の弟分後、数百人の子分を従え、10数年間赤城山に籠ったと云う。

天保13年の1842年、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、農民救済のために地元の商人宿・十一屋で花会(親分衆のみを客とした賭場)を開く。
繁蔵は、関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、「十一屋」の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと講談「天保水滸伝」では伝えているが、    当時、次郎長はまだ売り出し前・国定忠治も手配書が出て逃亡中・真偽は不明と云う。
  

「延命寺」
笹川繁蔵・平手造酒・勢力富五郎の笹川一家三人衆の墓がある。
愛人豊子が建てた石碑は、サイコロをかたどった勝負石。

         真言宗智山派で、江戸時代鹿島神宮寺の末寺ー笹川一家の供養塔が
    

千潟8万石の大水田地帯や九十九里海岸を望むことができる。
                数千羽の鴨等の水鳥や白鳥が飛来する。
    

利根川と隣接する笹川地区の黒部川ー蒸気船の乗着場の面影が残る。

    フナ・ハゼ等の釣り宿もあり、舟釣りで多数の釣り人で賑わう。


「笹川繁蔵最期の地」
1847年、笹川に戻った繁蔵は、ある夜、愛人の豊子宅へむかう途中、「ビヤク橋」で、飯岡一家の闇討ちに遭い殺害された。

  利根川ー黒部川ー桁沼川に架かる「ビクヤ橋」、飯岡方の三浦屋孫次郎か三人に暗殺された。
    

笹川駅から見た「須賀山・須賀山城跡」-森山城の外郭部の併存城ー
築城ー東六郎胤頼 形ー丘城、 創築ー1185年頃  森山城の東側台地(本郭が東庄町・小見川町の境)
東氏の祖は、千潟町の桜井城で、1185年、東六郎胤頼が築城。~1556年、東常網時・千葉介昌胤から城明け渡し令が、これを拒否し籠城したが。
1568年、森山城大造成が行われ、東常網の次男胤冨時、森山城に入城している。須賀山城は、森山城の外郭部として併存。
須賀山城の北入口の上り口に大手門があったと云う。天神が祀られていた付近に土塁があるが防御性は、低い。
「天之宮神社」は、平将門建立と云う。
          東六郎胤頼は、東姓から「飯田」姓と名乗っている。


2014年11月20日掲載しました「香取神社」
                 香取の森約3700坪と広い(県指定天然記念物)
    

経津主大神 1柱。「 別名を伊波比主神・斎主神、斎之大人」

「祭神について」
香取神宮の主祭神は、経津主として知られ、その出自について、「日本書紀」(720年)では、一書として、伊弉諾尊が軻遇突智を斬った際、
剣から滴る血が固まってできた岩群が経津主の祖。
別の一書として、軻遇突智の血が岩群を染め磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神がフツヌシを生んだとしている。
その後「日本書紀」本文は、、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、
大国主命と国譲りの交渉を行なったとある。(なお、「古事記」ではフツヌシは登場しない)

             水戸光圀公手植えの「黄門桜」・石灯篭が参道両側に 
    

フツヌシと香取の関係については、「日本書紀」では一書として、
「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」との関係が記されている。
その後、「古語拾遺」807年で、「経津主神云々、今下総国香取神是也」、「延喜式」927年 所収の春日祭の祝詞で、
「香取坐伊波比主命」と記されていると云う。
                        境内中央に池


フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされ、名称の「フツ」についても、記紀に見える
「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれる。
軍神の認識を表すものとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(「梁塵秘抄」)という歌が知られる。
「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは「航行を掌る神」として祀られたという見方もある。
そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主・斎主)という異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、香取神宮の創祀も含めて諸説が多い。

                          旧拝殿
    

鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。
その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海」という内海が広がっており、両宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座。
この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として
東北沿岸部の各地で祀られたと云う。

           狛犬            本殿前楼門                 手水舎
    

創建ー社伝は、初代神武天皇18年の創建と伝える。
黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記」(8世紀初頭成立)「香取神子之社」として分祠の記載が見え、
それ以前の鎮座は確実とされる。また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。

          重要文化財 楼門は、1634年水戸初代藩主徳川頼房公が奉納している


奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬され、768年には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現 春日大社)が創建。鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請されている。
その後も藤原氏との関係は深く、777年 藤原良継の病の際には「氏神」として正四位上の神階に叙されていると云う。

平安時代以降の神階としては、836年に正二位、839年に従一位への昇叙の記事があり、882年には正一位勲一等。

                    地元酒蔵の献上樽酒


927年成立の「延喜式」神名帳には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列しており、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。
同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮と当宮の三社のみ。下総国では一宮に位置づけられ、下総国内からも崇敬された。

                                    古瀬戸黄 狛犬
    

中世、武家の世となってからも武神として神威は維持されており、源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰。
千葉氏を始めとする武家による神領侵犯も度々行われていた。
常陸・下総両国の海夫(漁業従事者)・関を支配し、香取海を掌握して多くの収入を得ていたと云う。

「千葉常胤」1118-1201 鎌倉幕府筆頭御家人・平家追討の戦功で下総守護、源頼朝房総へ逃れると、鎌倉に拠点を進めた。
奥州征伐で東海道大将軍として出陣している。
                    社殿・本殿


千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下、1591年に1,000石が朱印地として与えられた。
その後開かれた江戸幕府からも崇敬を受け、1607年に大造営、1700年に再度造営が行われている。

        樹齢1000年の巨杉・御神木勝運の神に祈願して
    

現在の本殿・楼門・旧拝殿(現・祈祷殿)は、この元禄期の造営によるものである。
明治4年、近代社格制度において官幣大社に列し、昭和17年 勅祭社に定められ、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

                        御神井道が山道へ
    

国宝-海獣葡萄鏡 1面(工芸品) 。中国・唐時代の作。鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕に表された狻猊を指す。狻猊は中国の伝説上の生物。
正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。

重要文化財(国指定)ー本殿・楼門(計2棟)(建造物)古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品) 阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。
阿形像の高さは17.6cm、吽形像。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている。

双竜鏡 1面(工芸品)1149年の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。
鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる。

香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書) 大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。
平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる。等がある。

                     芋のソフトクリーム・草団子を
    

次回は、佐原方面へ。

富士桜も散り始め ミツバツツジが満開です。

2016-04-28 | 富士山麓日記
富士桜高原 4/23富士桜はすでに散り始めました。満開の時はもっともっと美しく咲いています。
ここは河口湖から1000m上った富士山1合目富士桜高原、スバル高原。富士スバルライン料金所近くです。

富士桜はほんとに可愛い小さな花びらです。





葉桜となった富士桜です。



富士山と桜。







今はミツバツツジが満開です。



銚子大橋 総武本線の旅8

2016-04-26 | 気まま旅
北半球地衡流・温かな軽い海水と・冷たく重い海水ブツカル銚子。
「黒潮」が、流れ続けるエネルギーがどこから生まれるのか、力学的な説明がなされている。
偏西風と貿易風と地球の自転からエクマン輸送が生じ、北太平洋の中央に向けて海水が吹き寄せられるためにこの海域の水位が高くなる。
偏西風と貿易風が年間を通して定常的に吹くために、高水位状態は維持し続けられ、これによって大気における高気圧と同様に北半球ではこの高い水位の周辺に時計回りの海水の流れが生まれる。
これが、亜熱帯循環であり、黒潮は北太平洋の中緯度海域を時計回りに流れている亜熱帯循環の一部。
「黒潮」が、三宅島の北を流れる場合 ・黒潮が三宅島と八丈島との間を流れる場合・黒潮が八丈島の南を流れる場合 ・黒潮の位置三宅島・八丈島 ・海面差が約1m・黒潮が特に強い流れであることも力学的な説明がなされると云う。
コリオリ係数は赤道ではゼロ、両極で最大となる。コリオリの力が高緯度海域で強く西向き成分が増える風として働くと、結果として海水を南向きに運ぶ力になる。この現象は「スペルドラップ輸送」と呼ばれ、北太平洋全体に効果が及ぼされるはずの「スペルドラップ輸送」による南向きの流れも、日本に近い海域では効果があまり発揮されずに、他の広い北太平洋海域の南向き海流の流れの全てを100km程の幅の北向きの海流でおぎなっている。
このため、日本とは反対側の南向きのカリフォルニア海流では数十cm/秒の流れも、黒潮では早い所で2m/秒の流れとなると云う。

「古帳庵」の句石碑」-江戸時代の商人と古紙回収業の俳人ー天保10年に鈴木金兵衛58歳時、田中玄藩方に一泊している時に詠んだ句。

               「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」


「円福寺」別称ー飯沼観音ー
          真言宗智山派東円寺 山号ー飯沼山ー「円福寺」
    

銚子の町は、醤油と漁業と飯沼観音の門前町。

開基、伝空海    本尊十一面観世音菩薩ー本堂に安置されている。


               坂東三十三観音巡礼27番札
    

                   朱色の仁王門
    

                   境内と五重塔
    

寺領は広大、観音堂(本堂)周辺から南に約200mと云う。

           文化財ーによう(仏具の一種)・釈迦涅槃図・鐘楼等。
  

                   観音堂・本堂


「郷社・銚子神社」-円福寺・飯沼観音に隣接ー祭神ーくらおかみのかみ・級津彦神・級津姫神(創建不許)
    

市無形文化財指定「銚子はね太鼓」
大漁を願う漁民の皆さんが生んだ「はね太鼓」は、江戸時代から伝わる珍しい祭り太鼓である。
勇ましさと迫力と海の男の力と技で「飛び踊る」
太鼓を2人の打ち手が担ぎ上げ、首と腹で支え打って跳ね、跳ねては回り太鼓もろとも宙に舞う荒々しい太鼓踊りと云う。

  神社境内                             はね太鼓の碑
      

「銚子大橋」ー一級河川、利根川の河口にー千葉県銚子と茨城県神栖市を結ぶ、国道124号線の陸橋。

        長さー1209m・巾ー11m(2車線と歩道) 形式斜張橋と箱桁橋
    

茨城県側は,経済的にも文化的にも銚子市に依存し,架橋は町民の念願であったと云う。
それまでは、町営渡船と昭和27年に就航した自動車渡船があったが,昭和30年代に利用客が増していた。
架橋に向けて昭和32年に道路公団による調査が行われ,35年着工,37年、念願の開通に。
料金所は、波崎側に設置され,自動車120円・軽自動車20円・自転車10円・徒歩5円であったと云う。
交通量の増大により昭和49年、無料化、当時は、国内最大級を誇った銚子大橋だが,車の大型化や塩害の影響による老朽化により,現在架け替えが行われ、2代目は平成17年、着工され,21年、橋梁中央部が開通し,老朽著しい旧橋中央部を迂回させている。

             平成25年3月に架け替えが全て完了した。


・・・昔、大新河岸に、母子河童が住んでいて、利根川の水運の繁盛と船や河岸で働くい人達の水難から守ってくれたと伝わり平成9年、母子河童像が建立されたと云う。
「その民話」
雨降りの晩など、中央通りを「ピタ・ピタ・ピタ」誰かが歩くような音が聞こえると「大新河童が見回っている、ありがたや」と河岸の人達は噂をすると云う。

    

銚子港
イワシ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位・サバ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位・サメ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国3位
アジ類 - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位・サンマ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位・メヌケ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国5位
マグロ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国6位

まき網漁業・敷網漁業(サンマ)・はえなわ専用線。
新生駅から漁港内に引き込まれた専用線は、銚子漁港で水揚げされた魚介類を東京都民に提供するために、戦時中に建設されたものであった。
魚介類を貨車に積載し、両国駅まで貨物列車で輸送し、また戦後、関東地方一円の旧日本軍の兵器・弾薬の処理のために銚子沖が処分場に指定され、線路を使って銚子漁港へ運びこんで、漁船による投棄作業が。
後に専用線は、全てトラック輸送への転換が進み廃止となった。

    

「東濱口家と(ヒゲタ醤油)・濱口吉兵衛」1868ー1940紀州広村(和歌山県有田郡広川町)に生まれる。
8代目濱口吉右衛門(熊岳)の第四子で名は茂之助・東京帝国大学卒業。
兄の9代目濱口吉右衛門が、政界・経済界で活躍して多忙だった為、しばらくの間、兄を助けて家業に携わった。
1892年の明治25年、濱口儀兵衛(梧洞)と一緒に海外視察をしたが、その際に儀兵衛から醤油醸造について様々なことの教えを受けることが出来たと云う。明治34、武総銀行を設立して取締役となり、翌年から3年間は第一生命保険相互会社の監査役も務めた。
明治37、兄の濱口吉右衛門家から分家し、初代濱口吉兵衛を名乗り、明治39、田中玄蕃の出蔵が売りに出た時、儀兵衛の勧めで買い取ったと云う。
この時、儀兵衛が以前に廃業した醸造元から譲り受けていた“ジガミサ”という商標を譲渡され、明治40、豊国銀行設立に参加して監査役になる他、東京護謨工業や第一相互貯蓄銀行の監査役などを歴任した。
大正2年、銚子遊覧鉄道株式会社(銚子電気鉄道の前身)及び、銚子ガス株式会社の社長に就任。
大正3年、家業を、田中玄蕃や深井吉兵衛とともに銚子醤油合資会社(ヒゲタ醤油の前身)として発展させた。
4年後に株式会社化した時に初代社長となった。
大正9年、衆議院議員(二期8年)となった後は、銚子港の修築を関係各方面に訴え続け、国庫補助による県営工事が実現したと云う。

     氷川稲荷大明神                  境内に濱口吉兵衛像が
    

                    「銚子大漁節」
一つとせ 一番ずつに積み立てて ハア コリャ コリャ 川口押し込む大矢声 浜大漁ダネ ハア コリャ コリャ
二つとせ ふたばの沖から外川まで ハア コリャ コリャ 続いて寄せ來る 大鰯 浜大漁ダネ ハア コリャ コリャ
三つとせ みな一同にまねを上げ ハア コリャ コリャ 通わせ船の賑やかさ 浜大漁ネ ハア コリャ コリャ



2014年11月26日掲載しました、銚子大橋の向かい茨城県「鹿嶋神社」を再度掲載
「鹿嶋神社」常陸国一宮 旧官幣大社 
祭神は、天照大神の命を受けた「経津主大神」。
大和朝廷の兵站基地であったことから武神として崇敬され、奈良時代には、九州防備に赴く東国の防人たちが、武運長久を祈願して出立したと云う。
鹿島立ちはここら生まれた。

    

「祭頭祭」は、3月9日として伝わり、812年住吉大社・香取神宮と共に、20年に一度の式年造替の制度が定められたと云う。
皇室や藤原氏・源頼朝等の武家崇敬を受けている。



重文ー本殿・石の間・幣殿・拝殿・奥の院本殿・楼門国宝ー直刀(頼朝が寄進)重文ー梅竹蒔絵鞍など。



楼門ー1634年、徳川頼房公奉納、我が国三大楼門の一つ、檜と朱色の門・扁額は、東郷平八郎元帥直筆と云う。

鹿島と鹿
神宮の鹿は神の使いとされ、神鹿と呼ばれている。奈良公園の鹿は、鹿島の発。サッカーの「鹿島アントラーズのアントラーズ」は、鹿の角
勝利の神と云う。

    

「要石」
地震除けなら要石と云い、地震を起こす大鯰の頭を押さえていると古くから言い伝えられる。
光圀公も鹿島を訪れ7日7晩部下に掘らせたが一向に底が見えずと記録にある。

社殿・1619年秀忠公奉納 重文    巨木の神木の根回り12mで樹齢1200年と推定
    

本殿ー鹿園ー奥宮ー要石ー御手洗をつなぐ参道は、老樹古木の緑が続く。

    

奥の宮は、1605年、徳川家康公が「関ヶ原」の戦勝で、鹿島神宮の本殿として奉納死と云う。二代将軍秀忠公は、社殿奉納の際、奥の宮は現在地に移動

  

奥宮からさらに細い道をたどって要石に、境内に参詣客は少なめ、拝殿先の奥参道ではまったく人影を見なかった。
薄暗い樹林の道では、砂利の足音が、要石に参拝。石の鳥居、石の柵の中の砂からそれらしきものが頭を少し出している。
            
 芭蕉句碑           「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」 詠まれた句ではない.
  

             芭蕉句碑           「此松の実生せし代や神の秋」
    

            一茶句碑           「大なゑにびくともせぬや松の花」


「御手洗池」
滾々と湧き出す清水、清らかな水の御手洗池。
鹿島七不思議として、大人も子供も池に入っても水面が胸の高さを超えないと云われている。
昔は、ここが神宮の玄関で、神聖な場所と云う。



古代の霞ヶ浦は広大な内湾をなし、北は北浦、南は印旛沼、西は手賀沼からさらに今の利根川・鬼怒川流域に広がっていた。
東の入口に「鹿島神宮」。

            浪高き鹿島が崎にたどり来て、東の果てを今日見つるかな    夫木抄

 枕詞に「あられ降り鹿島」ともいひ、鹿島の神(武甕槌たけみかづち命)は、天孫降臨に先立って高天原より天降って来た武神とされる。

            み空より跡垂れ初めしあとの宮、その代も知らず神さびにけり  夫木抄

            めぐり逢ふ初め終りの行方かな、鹿島の宮に、かよふ心は    慈円

    

次回は、総武本線・成田方面の「笹川」駅へ。

銚子・万願寺 総武本線の旅7

2016-04-24 | 気まま旅

「醤油」も、清酒造りの工程と似て、仕込みの職人技が要求される。
原料・素材の選択に間違いは許されない、小麦を300度の高温で煎り、大豆も160度の釜で短時間で蒸し上げ、小麦・大豆を1対1の割合で混ぜ合せ「麹料」を作る。それに「種麹」を加え、製麹室で45時間ほど寝かすー酵素にー。
寝かせた「麹」に塩水を加え、発酵熟成を半年間かけー酵素のうま味の蛋白質分解させる。澱粉から出来た糖を微生物が発酵させ香りと酸味になる。
もろみを布袋殻搾りだす、この作業で4日間以上(粕は燃料・動物飼料)搾りだされた「生醤油」は、検査され「色・香・異物等」-瓶詰めされー市場に出される。
  吉方関東最東端の「満願寺」-初日の出は、一番早いー

                   徳道上人創建              


弘法大師・815年ー42歳ー大厄の歳に自身の厄除と、多くの人々の厄難を除くために四国八十八ヵ所(大厄の42歳+33歳+13歳=88)を開創されここに、四国八十八ヵ所の写し本尊とお砂を奉安師、厄除巡礼が出来き、特に大厄の人の参拝者が多いと云う。

        板東27番飯沼観音「円福寺」の奥の院になる。
    

仁王門ー六角塔ーさざえ堂ー四国百観音霊場巡拝満願成就石碑ー三層塔ー本堂(4mの観音像)・釈迦三尊像・虚空菩薩、安置されている。

鐘楼                       五百羅漢堂               献上樽酒 
    

金色の塔(さざえ堂)          本堂裏には開山多宝塔が          本堂内仏様
    

                    地球の丸さを実感


「高浜虚子」 1874-1959 俳人・小説家、愛媛県、正岡子規と文通した縁で、「放子」の号。
昭和俳壇の基礎を、「ホトトギス」-小説「風流せんぽう」「俳諧師」など。文化勲章受賞

           犬吠の 今宵のおぼろ 待つとせんー句碑
    

海岸段丘中生層白亜系の砂岩層、断崖に囲まれている。
荒波が岩を砕ける様子を身近に見られるー途中の歩道には胎内くぐりの海食洞もある。

       黒潮に洗われる海の難所と船乗り泣かせの犬吠崎
    

餌となる魚が豊富で、温暖な海域で、多くのイルカやクジラが出産・育児のために集まる銚子の海、銚子の海は、年間を通して、「カマイルカ・ハンドウイルカ・スジイルカ・スナメリ・ハナゴンドウ・マッコウクジラ・ミンククジラ・・」約20種が躍動感溢れる自然の姿を観察できると云う。

        犬吠崎マリンパークで世界の魚とバンドイルカショーが
    

1874年、イギリス人ブラントン氏設計の灯台ー犬吠崎灯台ー航海上の重要地点・中波無線局・レーダー測位局配置

            我が国24番目に点灯した西洋型第1等灯台


                     灯台案内板


           灯台周遊歩道から見た君ヶ浜海岸


高さ31.57m・99階段
眺望雄大ー世界歴史的灯台・100選に


君ヶ浜白浜海岸線が海岸に「涙痕の碑」-大正6年、早稲田の学生で青年詩人であった三富・今井氏がこの海岸で溺れなてしまった。
二人の親が碑を建てたと云う。
                    役目を終えた電燈
    

                 灯台入口にホワイト郵便ポスト
    

次回も銚子市内を。

銚子 総武本線の旅6

2016-04-23 | 気まま旅

千葉県「旭市」ー九十九里平野北端の市、旭将軍「木曽義仲」の子孫が江戸時代この地を領有したことから「旭」将軍の旭市に。
木曽義仲19代子孫「木曽義昌」の菩提寺「東漸寺」が海岸寄りにある。
施設園芸・農業・商業が盛んな地方都市で、古くから、「椿海」と呼ばれた湾入である。
1670年、幕府は、千拓に援助を、干潟8万石の水田開発がされてきた。近世は、十日市場として発達し、現在、農村地域を背後に商業機能が強い。
米・芋・麦・野菜施設園芸へと変わってきている。
人気が海水浴場・海浜植物園・温泉も湧く、鎌数伊勢大神宮(祭神天照大神)の神楽は県無形民俗文化財に、又、落花生栽培も盛ん。

「八日市場」九十九里平野北部で、8の日に木綿の市が立ったことに由来すると云う。中世の匝瑳氏が支配、近世は幕府直轄領・旗本領に。
旭・八日市場と千潟8万石の一角で穀倉地。大利根用水が1951年完成し安定した水田農業と養豚が盛ん。
徳川幕府の庇護を受けた日蓮宗学問所、飯高寺がある。

「銚子」県北東端・利根川河口(利根川の河口が酒器の銚子に似ている所から付けられた)と黒潮の流れと醤油醸造の町に入る。

    

「総武本線」は,「佐倉駅」を出ると、終点の「銚子駅」まで単線となる。
「佐倉駅」を出ると複線の成田線と2kmほど並行。
国道51号と交差後に成田線は北側に離れていき、総武本線は、南東の雑木林の中を進む。単線区間最初の駅が「南酒々井駅」同駅を出ると三たび東関東自動車道をくぐり、平野部にある「榎戸駅・八街駅」へ。
山武市に、「日向駅」を過ぎ、東金線が分岐する「成東駅」に至る。
「成東駅」からは国道126号と並行し、南東の太平洋に面した九十九里浜から5kmほど離れた平野部を進んで銚子を目指す。

「成東駅」を出て東金線が南方向へ分かれていくと、左にカーブして北東方向へ。沿線は田園地帯が続き、「旭駅」手前では線路の方向が東向きに変わる。
「旭駅」を出ると国道126号が南側へ分かれ、「銚子駅」の手前にある「松岸駅」までは丘陵地帯の合間をカーブしながら進む。
この区間の「飯岡駅 - 倉橋駅」間にはトンネルが1か所存在。
「松岸駅」で成田線と合流すると国道356号と利根川に沿い、市街地に入ると総武本線の終点 -「銚子駅」に至る。

     銚子駅の構内で、「ありがとうの銚子電鉄線」が接続している。


銚子の主産業は、昔から醤油醸造と漁業。これは、紀州・関西との関わりで始まっている。
黒潮沿いに海路を往来した人々によって、この産業が定着した、銚子半島の南東端の外川浦は、石畳の坂道を挟んで家が密集し、漁業の町。
1658年、房総半島沿いに漁業をして銚子までたどり着いたー紀州の漁師「崎山次郎右衛門」により開かれたと云う。

                 駅構内にも漁業大漁旗が
    

醤油2代工場ーヤマサ・ヒゲターが「銚子駅」を挟んでいる。
ヒゲタは、「田中玄蕃」が、1616年に兵庫県西宮の酒造家に教えられ「溜醤油」を造ったのが始まりと云う。

           気候風土醤油造りに最適で400年以上の歴史


ヤマサは、紀州広村の「浜口家」によって創業され、いずれも、1700年前後に、江戸を指向してん「本格醸造」に乗り出した。
醤油の原料は、大豆と小麦粉で関東平野で収穫し、「塩」は、千葉県市川の行徳などを使用した。
運搬は、船と水路を利用した。
醤油の生産量は、1)千葉県野田市の醤油、2)千葉県銚子・・・生産量年約全国120万kI・内銚子は、約22万kI。

           ヤマサ工場見学がー銚子駅から徒歩で7~8分


「威徳寺」-真言宗のお寺。
寺伝ー創立は嵯峨天皇弘仁元年の810年、 弘法大師東国遊化の砌り、下総国銚子港荒野袋町(現 銚子市双葉町) に草庵を結び本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻せられ安置。

ー 清和七年(864年) 益信大徳、京より当寺へ来たりて、堂宇を増築、不動明王の尊像を安置する。 天歴元年(947年) 空也上人当寺の草庵に来り一宇を造し、彌陀の尊像を安置 念仏三昧を修し諸人教化し給う。
これ空也坊の始にして後に荒野坊と称したと伝えられる。
往古には当寺は地化寺と称され、境内には明暦年間(1650年頃) に再建された本堂をはじめ、 薬師堂、観音堂、閻魔堂、二重塔、鐘楼が立ち並び、 圓妙院、不動院、千手院、龍性院、自性院、普門院、地福院の七坊の塔頭を有し 白幡神社の別当職を兼ねる一大巨刹として栄えるが、明治維新の廃仏毀釈により一時衰微する―とある。

  明治の1889年、火災に、1911年、大本山 高尾山薬王院の援助、檀信徒の努力により現在地に移転再建。
    

「妙福寺」-真言宗から1312年、日蓮宗・山号ー海上山。

               本尊ー妙見菩薩を祀り「妙見宮」が。旧本山法華経寺

                   藤の花でも知られている。
    

「浄國寺」(無衰院)
三祖良忠上人開山。
寺所蔵「海上郡浄国寺事実」によると、時が移り変り、当山の開基事実を訪ねても定かでないと史料のなさをなげいており、中興助上人は、この地が良忠上人ゆかりの地であるとしてここに庵を結んだとある。
その後、寛文元年の1661年、に顕譽智典上人が庵室をたずね、現在の地に一寺を建立することを願い、深川ー 霊巌寺の末寺となったとある。
山号・一立山・無衰院・浄国寺と号し、浄国寺々宝「称讃寺規式条々」には、この寺号に関して、1810年以前は東照山称讃寺と号したが、寺が衰廃してしまい、現在の辺田村に再建したが、寺号 が徳川家に対して申し訳ないので、熊野権現の夢告に従って今の寺号にしたとある。
現在の概観は、その後、延宝から正徳年間までにできあがった。
浄土宗全書所収「深川霊巌寺志」に「開山記主禅師東関開創四八宇の随一と云々」とあり、現在、県下浄土宗寺院筆頭の別格寺院である。

望西台と呼ぶ庵があって、明和年間から文化・文政年間にかけて、渡辺華山・小林一茶を始め、数多くの文人墨客がここを訪れ、多くの作品を残している(墨画帳に現存)。

  一立山 浄国寺 無衰院ー開山、然阿良忠上人・開創ー1255年(建長7年)
    

酒仏ー酒に関する祈願・願掛けをする。徳利や膳の形のお墓を云う。

鐘楼                本殿        酒仏の鈴木玄庵の墓(医師)
    

「小林一茶」1763-1827 俳人・俳諧師、農民の子苦労を重ね「我と来て 遊べや 親のない雀」51歳で故郷で安住、死の前年、大火で家を失い土蔵の中で死の床に。

「松尾芭蕉」1644-94 俳人ー奥の細道の旅にでた。最後の句 ー旅に病で 夢は枯野を かけ廻るー大阪で客死。

    句碑ー枯れ枝に カラスのとまりけり 秋の暮ー芭蕉
  

               銚子電鉄のレトロ列車にのって
    

大正12年の歴史ある銚子電鉄は、ここJR銚子駅からありがとう外川駅までで6.4km・約20分で結んでいるローカル線。
車両がツートンカラーのレトロ色で、約40kmが最高速度銚子以内を長崎鼻灯台の外川へ。
運賃も、一日乗車券・往復・片道(350)
                    犬吠崎温泉駅へ
    

犬吠崎温泉駅は、東端に位置し、三方海に囲まれ景勝地。

             ぬれ煎餅のイシガミ犬吠店
    

次回も、銚子電鉄で。