「富士吉田市」富士北麓に広がる富士山と古代の吉田郷。1951年明見、下・上吉田の三町が合併して山梨市2番目、甲府市に次いで人口も多い
中世から、富士山参詣の宿場として栄えてきた。
富士山北麓の中心地で江戸時代からの伝統産業「郡内織」の産地である。現在、富士裾野には、自衛隊演習場がある。
天然記念物に「吉田胎内樹型」「溶岩洞穴・雁ノ穴」など、上吉田に「北口本宮富士浅間神社」と登山道がある。
「明見湖」の地名は、「明見湖(蓮池)を浅海と称していたのが 訛ってアスミになった」と、角川地名大辞典には「阿曾谷と称し その湖を阿曾海(アソミ)といったことによる」 と書いている、1600年前後の検地帖には 阿須見村とある。
また 一説には 長野県の安曇野や滋賀県の安曇川と同じように 海人の安曇族とのかかわりからとされ 海から離れている地域であるが 大明見の小室浅間神社には 安曇族の祖神の綿津見命と生い立ちが共通する住吉(航海の神)の祖神の筒之男命が祀れれている。
湖は、北 東 南の三方を山麓に囲まれ その尾根の合間に棚田がある。 湧き水が豊かな地で(明見湖の水源も湧き水である。
大沢川 小佐野川 古屋川 長泥川といった小河川が流れており これらの河川は 桂川に流れ込み 桂川は、相模川になり 相模湾へ流れ込むから 明見地域は水路で海とつながっている。
富士吉田登山道
昭和のはじめごろまで 相模川の河口の平塚市から 海で獲れた魚を天秤棒で担いで 明見から30キロほど離れている猿橋というところまで売りに来ていた(「相模湾の魚と漁労」1981平塚市博物館) というから その昔 明見地域が水路で海とつながっていたと考えても不自然ではない。
明見地域は 豊かな湧き水 棚田 水路など地理的には 弥生時代のはじめに 安曇族が水田稲作適地として耕作民の入植を斡旋したとした条件を備えている。
また 山梨県東部(郡内地域)は 1000年前から織物が織られているが 実は さらに昔の2,200年前に徐福が養蚕 機織の技術を阿祖谷(現在大明見)の里人に教えたのが 山梨織物の起源だという言い伝えがある。
その徐福の祠が蓮池の近くにあるという。
なぜ、お釈迦様の台座は、蓮の花か、泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、 蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。 大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要。 蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこない。
蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、そして、その花の中に実があるのが 「悟り」。つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ、ということをお釈迦さまは教えたかったのであろう。
この村の東にあたる山の中に、年を経た神通自在の荒神様が住んで居られるので・毎年夏の七夕の日に、供物捧げる事となっています。酒一樽・餅4斗、海の魚と川の魚、新しい野菜と新しい果物、若い生娘を一人添えて、献上することに定められている。これを怠ると大変なことになる。山鳴り震動して風を起こし雨を降らし、大嵐となって田畑を荒らし、人畜に損害をあたえるなど、思いがけない異変が続発する。これが恐ろしいので、毎年この行事を続けているのだが、御供物はなんとでも調達できるが、捧げられた若い娘は返して下さらないから、年頃の娘達は毎年心配して、お召し預かった娘は村のために、この様な悲しい別れをするのだという----。
若い武士はこの話を聞くと、目を輝かして、
「わしがこの娘を送ってあげよう。そして相手を見届けて参ろう」と云った。・・・武士と娘を小舟へ引きあげて.岸辺へつれてきた。
岸に引き上げて見ると、若い武士は手傷は無く、元気そのものであったが、娘は哀れ、若者や村人は必死に介抱したが、娘は二度と目を開くことは無かった。娘の父親は死骸に取り縋って悲しんだ。
「この湖水の真ん中は底が深く、周囲は水は浅く泥が深い。昔からこの海へ入った者は、一人も助かった者は居ない。娘はもともと村のために捧げた命だから、死んでも本望でござりましょう。それにしてもお武家さまはよくまあご無事でこられましたな~」・・・・。
村人は「今まで気がつかなかった。村のために犠牲になった娘たちのために、蓮を植えて霊を慰めよう。」と総出で植えつけた。
やがて時が過ぎ、蓮の花は湖水の水面を覆い尽くすようになった。その花の美しさは、多くの娘たちの笑顔のようで咲き誇っていた。
こうした童謡・民話・伝説・昔話には地域の隠された地域の人々の想いが託されている。
明見村東方の山麓の集落、向原からこの山に登っていくと、細かい水晶が露出している洞窟がある。水晶は、あまりにも細かく、何の役にも立たず、村人は重要視していないが、水晶のある付近には必ず「金鉱」があるという人もいる。
この「東の山」というのは、富士北麓、登山家が登る御正体山の中腹、入山右側の深林地帯である。
若き武士が明見湖畔を訪れた建久二年は、曽我兄弟の討ち入りの二年前の話であるという。
「田原の滝」は、源を富士五湖の一つである山中湖に発し、山梨県の富士東部地域を流れて神奈川県に入り、相模湾に注ぐ幹川流路延長109km、流、域面積1,680km2の一級河川であり、山梨県内では桂川と呼ばれている。桂川は、都留市においては深い渓谷を刻んでおり、田原の滝や蒼竜峡などの景勝地をつくり出している。
1682年の江戸の大火を逃れた芭蕉は、弟子の高山傳右衛門を頼って都留に滞在したとされる。
句は、田原の滝の氷柱も消え、富士の雪解けで水が増した春の桂川の情景を、清流に躍る魚とともに喜ぶ心情を詠んだ。
桂川は富士山から流れた溶岩が長年にわたり浸食されて生まれた「柱状節理」と呼ばれる柱状の岩が並ぶ独特の景観が特徴。
1950年代にコンクリートの砂防えん堤が設置され、趣のある渓流景観が失われたが、近年、景観に配慮した修景工事が行われ、美しい渓流美が復活した。
江戸時代は、二段滝。下段は20mあったという、この幅で、20mの落差は、さぞ豪快だったであろう。
しかし、富士山溶岩で出来ていたため、経年劣化で崩落し、一段滝になり、追い打ちを掛けるように、昭和33年に砂防工事をしてしまったために、自然の姿を失ってしまったという。
「都留市」は、戦国期、都留郡を領した小山田氏が市域を本拠としている。
小山田氏は国中地方における守護武田氏と国人領主の抗争に介入して武田氏と争い、信虎期に武田氏と和睦して武田家臣団に加り、晴信(信玄)期に活躍し勝頼期には武田氏滅亡に際して討伐される。小山田氏ははじめ桂川支流大幡川左岸にあたる中津森館を本拠としていたが、武田氏の甲府城下町造成と平行して現在の都留市中心市街にあたる谷村(やむら)の地へ居館の移転を行い、谷村館(正確な所在地は不明)を中心に城下町整備した。
谷村は、後の甲州街道から分岐し吉田へ至る富士道が通り、中世には市も成立した要地で、近世に甲斐国を領した徳川氏や豊臣系大名時代にも政治的拠点として活用された地域。
「芭蕉の(わび)は、ここ、都留で開眼する。
江戸を離れた松尾芭蕉は、谷村(都留市)でしばらくの間過ごしました。 江戸に比べ冬の厳しい郡内(谷村藩)の自然と霊峰富士を間近に見る感動が、不惑の年を越えたばかりの芭蕉に大きな心境の変化を与えたという。
この谷村逗留が契機となり、その後「笈の小文」「奥の細道」の旅を経て、「風雅の誠」を俳諧の根本とする「蕉風俳句」が完成。
東漸寺にて、 「松風の 落ち葉か水の 音涼し」(1684年)
夜の静寂を刻んで、かすかに音がするのは、風に散る松の落葉であろうか。ふと気付くと屋敷のそばを流れる水音の涼しげに響いてくる。
「人は寝て 心ぞ夜を 秋の昏」(1683年)
人はみな静寂たる晩秋の夜を夢中の人となるが、わたしの心は秋の淋しさがしみじみと感じられる。
円通院にて、揮亳:嵐雪四世二代六花庵建立者と推察される
「旅人と 我が名よばれん はつ時雨」(1687年)
これから旅に出ると人から、私は「旅の人」と呼ばれる身の上になる。おりから初しぐれの降る季節で、その初しぐれに濡れながら旅をし、人々から旅人と呼ばれるのは自分の気持ちに相応しく、本懐のことだ。
富士 「山賤の おとがい閉ずる むぐらかな」(1685年)
あたり一面に雑草の葎がはびこっている甲斐山中で、下あご(おとがい)を閉じて無愛想な樵に逢ったさまを読んだ句。
楽山公園に、 「馬ぼくぼく 吾を絵に見る 夏野かな」(1683年)
広い夏野を、自分を乗せた馬がぼくぼくと歩き続けている。暑い夏の旅だが、夏野を馬で行く旅人とは、畫題にでもなりそうなことだ。
田原佐伯橋にて、 「勢いあり 氷り消えては 瀧津魚」(1683年)
この句について「甲斐郡内谷村に白滝という滝あり。また田原の滝とも云うよし、此滝にての句なるよしと伝う。」と底本にある。
田原の滝の氷柱も消え、富士の雪解けで増水した桂川の清流に躍る魚とともに春を喜ぶ心情を詠んだ句。
「田原の滝句碑」
宝鏡寺参道にて、宝鏡寺句碑、建立時期ー1816年
「目にかかる 時やことさら 五月富士」(1694年)
句集には「五月三十日富士先ず目にかかる」と前書きがある。五月晴れの旅の中で目にした富士の姿の素晴らしさを詠んだ。
城南公園に、 「行く駒の 麦に慰む やどりかな」(1685年)
旅行く駒が、今日はこの宿のもてなしに穂麦をご馳走になり、うまそうに食べている。自分もこの宿のもてなしに心足りていることだ。
谷村の堰