syuの日記・気まま旅

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八王子千人町

2015-05-31 | 気まま旅
「千人町の歴史」
文禄2年の1593年、武蔵国多摩郡八王子横山に「千人同心の拝領屋敷」が設けられ、頭及び組頭の約100人が移住してきたことに始まる。
千人同心は500人であったため「五百人町」と呼ばれていたが、「千人町」と呼ばれるようになったのは、1600年の慶長5年に、1,000人に増強されて
素の以降であろう。
町名は、千人同心の屋敷があったことに由来し、「千人町」現在まで続いている。

1593年(文禄2年) - 武蔵国多摩郡八王子横山(現・八王子市千人町及び追分町)の拝領屋敷に千人同心の小人頭500名のうち頭及び組頭が移住する。
 1600年(慶長5年) - 千人同心が1,000名に増員される。
 1889年(明治22年)4月1日 - 町制施行に伴い八王子町発足、千人町はこの一部となる。
 1917年(大正6年)9月1日 - 市制施行に伴い八王子市発足」。



お正月に全国各地で、それぞれの地域に祀られている七福神をめぐりの御朱印を集め、七福神めぐり。
ここの七福神は、「八王子の七福神めぐり」-八王子の『八』と末広がりの『八』にちなんで、
八か所の寺院をめぐります。
八王子八福神めぐりは、JR八王子駅とJR西八王子駅の周辺で、半日もあれば。



「甲州街道イチョウ並木」
昭和2年の1927年、大正天皇の多摩御陵完成に伴い、昭和4年・1929年に道路改修された際に、宮内庁によって植えられ、当時は、2mほどだった苗が、今では15メートル以上に達しているものもあります。
昭和39年の1964年、に甲州街道が、東京オリンピックの自転車競技のロードレースコースとされたのを機に市の天然記念物に指定。
その後、市政60周年を記念して昭和51年に「市の木」に制定。千人町の中央図書館前歩道橋より高尾方面、約4kmの並木道。



日蓮宗・興栄山ー善龍寺 (増田蔵六の墓がある)

「増田蔵六」は、幕末の八王子千人同心の中で恐るべき武術の達人がいた。
天然理心流二代目、近藤三助の門弟の中で最高の遣い手と言われた「増田蔵六師範」である。
実際同流は二代目が早世された為に各系に分かれたが理心流の殆ど全ての実技、剣、棍、柔の三術を皆伝されたのは実質上増田師範のみであると云う。
八王子にて多くの門人を養成し、また他系の師範までに流儀の秘伝を教授した大武芸者である。
大刀の下緒が飾り結びをしない古式の作法で、作法として正式なもので、当時の下緒捌きを探る意味合いからも興味深い、(肖像画が残っている)
増田師範の略伝を記載した資料も、増同家に残っていると云う。

天然理心流のどの系統も元祖について「飯篠長威斎十九代」也と云う伝承を遺しているのであるが、実際の人脈伝承を遺しているのは実質上増田家のみ
で、流儀の全ての文化を保存した同流傳脈の正に大動脈であると云え、天然理心流の指南において必須条件とされた「指南免許」であるが、実際
文献を遺している家は、少ない。
増田家には、流儀の秘書が残って、型解説の様々な口傳書、右傳書・独特のもの、同流の秘法と云える「眞位」「行位」「中位」「草位」などの口傳書となっている。学術的にも貴重とされている。

「善龍寺」には木刀・小太刀、、。増田蔵六の墓と碑がある。


「千人同心・組頭、小頭、、」
徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足。
当初は代官頭大久保長安が統括し、幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。
同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)
すなわち、千人同心は、
甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。
甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。
甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事に、
江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。
江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。
千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。
この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。



天正18年、八王子城落城後ー元八王子に小人頭と小人(同心)250名を落城後の警備に当たらせ、その後北条の浪人を加え500人に膨らみ、
「大久保長安」が代官に
元八王子からこの千人町に移転し同心も1000人になり江戸の西の警護に当たるようになり、その範囲は、三鷹市、川崎市登戸、相模原市、津久井郡
飯能市とかなり広域に、関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣と武士集団として出兵しましたが、泰平の世になりその公務は日光火の番といって
東照宮の警備を行い、50人が半年交代で216年間に1030回に、その後千人同心は北海道の開拓を行ったり、幕末には横浜を警護したりと活躍し、
最後は徳川とともに駿府に移住してゆきましたが、後に暇を乞い故郷の村々に帰り農業に従事していったと伝えられている。



「石坂弥次右衛門」
慶応4年の1868年3月、急死した定番の代番として日光勤番に赴きます。
直後の4月、板垣退助率いる新政府軍が日光へと押し寄せて来ます。
この際、弥次右衛門は大鳥圭介らに諮って無血開城を決断、現在に威容を誇る日光東照宮は辛うじて戦火を免れるに至りました。
しかし、帰郷した弥次右衛門を待っていたのは、戦わずして降伏したことへの非難でした。
結局彼は、その責を負う形で切腹して60歳の生涯を閉じています。
(この時の介錯人はなんと、79歳になる彼の父親でした)

         興岳寺に、二宮心斎氏の碑と石坂弥次右衛門の墓 


「道標」は、文化8年の1811年ー江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てた「高尾山道標」または「追分道標」。
新宿、八王子、 高尾山麓小名路の三箇所に碑があると云う。

「大久保石見守長安」  武田の重臣後家康の家臣
甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。
家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は、大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。
名字を賜り、姓を大久保に改めた。
天正10年、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。しかし当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた。
そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて甲斐国の内政再建を命じた。但し、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。
1590年の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。
この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。
これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任され、
1591年には、家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。
但し、実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。
長安は八王子宿・に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。(石見土手)
長安は、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした
「八王子五百人同心」が誕生。
1599年には、同心を倍に増やすことを家康から許され、「八王子千人同心」となった。

                  長安屋敷跡は、産千代稲荷神社に


                神社境内に、陣屋の井戸が残っていた。


「信松院」曹洞宗・山号ー金龍山。
開基は信松尼(武田信玄の四女・松姫)。開山は卜山舜越。八王子七福神の一つで、「布袋」像を祀る。


1590年の天正18年、に信松尼(松姫)が心源院より八王子御所水(現・八王子市台町)の草庵に移転したのが創建。
松姫は、1567年の永禄10年、7歳のとき,織田信長嫡男の信忠11歳と婚約したが,
1573年の元亀3年、両家は交戦状態(三方ヶ原の戦い)となり、婚約も破棄された。
信玄の没後、
1582年の天正10年に織田勢による甲州征伐が開始されると、松姫は逃避行の末、武州多摩郡恩方にたどり着く。
武田家は、天目山の戦いで滅亡し、その後、本能寺の変で信忠が亡くなるという悲報が続き、松姫は心源院に移り出家。



文化財ー軍船ひな形・寄進目録 - 木造、東京都指定文化財。松姫坐像 - 木造、八王子市指定文化財。信松尼墓 - 八王子市指定史跡

1945年の昭和20年、八王子空襲では、焼失は逃れたものの、松姫が植えたとされている松が枯れたと云う。


次回は、八王子・絹の道へ。

八王子 片倉城址

2015-05-28 | 気まま旅

「武蔵七党」
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られているが、
鎌倉時代末期に成立した「吾妻鏡」には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。

横山党ー武蔵国多摩郡横山庄(八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。
武蔵七党系図筆頭である。(一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。

猪俣党ー武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)。猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など。
保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。

野与党ー武蔵国南埼玉郡・北埼玉郡、現在の加須市付近の野与庄を中心に勢力のあった武士団で、足立郡、比企郡などに同族がいた。
先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。

村山党ー武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族である。
村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。武蔵平一揆により衰退する。

児玉党ー武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父、大里、入間郡および上野国南部あたりに勢力があった一族。
元々の氏(本姓)は有道氏。児玉氏、庄氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏などなど。武蔵七党中、最大勢力の集団を形成し、その本拠地は現在の本庄市である。

西党ー多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。
「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。
一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。

丹党ー秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏など。
入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っていると云う。(七党・文献によって構成が変わっている)

           扇谷上杉氏家臣「長井時広」築城と云う


「和田合戦」
鎌倉時代初期の建暦3年の1213年に鎌倉幕府内で起こった有力御家人「和田義盛」の反乱である。
鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は「二代執権北条義時」に度重なる挑発を受けて、姻戚関係にあった「横山党」や同族の
三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。
だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。
合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなる。



「長井時広」は、鎌倉時代初期家系、朝臣・武将・御家人、幕府初代別当「大江広元」の次男、兄は「大江親広」(承久の乱で失脚)し、時広は、
大江氏の惣領に、幕府中枢で活躍する。

生誕、不詳~1241 ・改名しているー大江祝弘→長井時広 ・官位ー蔵人、左衛門尉、従五位上、幕府ー鎌倉幕府評定衆・主君ー順徳天皇→源実朝→
藤原頼経 ・氏族ー大江姓長井氏(横山党)・父ー大江広元ー兄弟ー大江親広、長井時広、毛利季光、那波宗元、海東忠成、尊俊、藤原仲教室、高階惟長室、飛鳥井雅経室、中原師業室、藤原公国室、藤原実国室 、

妻ー北条時房女・子ー泰秀、泰重、泰元、泰茂、泰経 。

     山形県出羽国置賜ー長井荘所領で地名の「長井氏」を称している


1219年、源実朝が右大臣に任官され、鶴岡八幡宮へ拝賀した際随行。(このとき右衛門大夫)。
ここで実朝は公暁に暗殺され、兄大江親広とともに出家する。
1221年、「承久の乱」で、兄・大江親広が後鳥羽上皇方に加わって失脚したため、大江氏の惣領として認められる。
1232年に、故大江広元の収集した記録文書等を北条泰時から賜る。後に備後国守護職となる。
1238年に所領であった米沢の地に「米沢城」を築いたとも言われる。
1241年、に亡くなりー嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、次男長井泰重が備後守護を継承した。堂森善光寺に、有形文化財の伝長井時広夫妻坐像が。



「片倉城」
空堀・城郭構造 平山城・天守構造は、なし・築城主ー長井時広であろうと云う。築城年ー室町時代 ・城主ー長井氏 ・廃城年ー不明
遺構は、空堀、土塁(現在公園)指定文化財は、なし。



「三増峠古戦」1569年10月。場所は、神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺 。結果は、武田軍の勝利

指導者・指揮官ー武田信玄・ 北条氏照、北条氏邦 。戦力ー武田軍ー20,000   北条軍ー 6,000〜20,000(諸説あり)
損害ー武田軍 1,000余(北条五代記)= 北条軍  2,000余(諏訪家文書、武田信玄書状)3,269(甲陽軍鑑)

       北条氏照・氏邦は、三増峠の戦いでは、「片倉城」から出陣している
    

北条軍は、
甲州街道守備軍の北条氏照(八王子城主)、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠に着陣し、
甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。
さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であったが。

         後北条氏は、八王子城の「砦」として使用していたようである。


片倉城址公園内にある「住吉神社」-1372年、城の鎮守の神を祀って建てられたと云う。

園内には、蓮池・彫刻広場と森林多く落ち着いた公園。太平洋戦争中は、高射砲が置かれたと云う。



「湯殿川」下流
延長ー8.9km一級河川(多摩川)
多摩丘陵の起点である小峰(追分)に源を発するとされているが大学設置による開発によって川の一部が埋められており
大学敷地内の調整池が源流、神奈川県相模原市緑区城山付近が源流ともいわれている。
現在は、改修工事によりゆるやかな川筋となっている。
館町で殿入川、寺田町で寺田川、片倉町で兵衛川に。

          支流「湯殿川」と兵衛川の間の城跡
    

次回は、八王子市千人町へ。

八王子 平山城

2015-05-27 | 気まま旅

京王線「平山城公園」駅下車、都南西部・多摩川の沖積低地と日野台地と多摩川丘陵で、もと、神奈川県南多摩郡日野宿村で、奈良時代に「烽火台」
の有った飛日野・武蔵七党の一つ「日奉氏・日野宮権現」から「日野市」の市名が。
近くは、「高幡不動尊ー真言宗の寺」「百花園ー文人が愛した名勝」「自然を生かしたー多摩動物公園」が知られている。

駅前駐車場に「平山武者所季重」の居館」の碑が建っていた。


平安時代・鎌倉時代の武士と「西党ー武蔵国の人物」
平安時代、武蔵国は、駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。
保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍。
各党は、婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。

平山城址は、館跡の丘陵一帯で現在は、住宅と東京薬科大学と城跡公園、武蔵野森林地帯。


鎌倉時代、武蔵武士は、御家人として鎌倉幕府を支えた。
武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だったと云う。
「吾妻鏡」に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。
「六条八幡宮造営注文」でも、469人中84人と圧倒的に多く、日本全国に拡大移住していった。
承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。

広い公園内は、迷路のように遊歩道、桜道・六国の道・クヌギの道などと広場。中央広場に小さく「季重神社」が。
  

「平山季重」平安時代末期 - 鎌倉時代初期 ・1140?ー1212年? ー別名・平山武者所 ー建暦2年・1212年に病没とされるが詳細は不明。
官位ー右衛門尉。氏族ー日奉氏・父母 平山直季・子 友、重村、季武 ・武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。
多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。

    

武蔵国平山(平山城址公園駅付近)で生まれ、1156年、の「保元の乱」で源義朝に従い、1159年、「平治の乱」では義朝の長男源義平に従い、
待賢門での戦闘で「平重盛」の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。
義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごし、治承4年の1180年、に伊豆国に流罪となっていた義朝の遺児源頼朝が挙兵すると
それに従い、その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。
特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げたと云う。

            平山城址公園から見た駅前住宅街


1184年、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。
宇治川の戦いで根井行親、楯親忠を撃破して京都へ、同年の一ノ谷の戦いでは源義経に従って、奇襲部隊に参加。
同僚の熊谷直実とともに「一ノ谷の平家軍」に突入して、勝利のきっかけを作った。
翌元暦2年の1185年、の「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」でも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦ったとある。
戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが無断での任官であったため、これが源頼朝の怒りを買った。
「吾妻鏡」に他の無断任官者と共に「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている。
この頃に、筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。

鎌倉幕府の元老として取り立てられた。建久3年の1192年、の源実朝誕生の際、鳴弦の大役を務めている。


平山氏は,日奉宗頼を始祖とする武蔵国西党の一族であり、宗頼は京都から武蔵府中に国司として赴任。
任期終了後も帰国せず土着した。平安時代中期の平将門の乱が起こった頃に武士団としての活動が始まったと云う.
    

南北朝時代以降、武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。
「太平記」では、平一揆や白旗一揆が知られ、その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。
国人達は、武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

「西党」-多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。
「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。
一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。

    

「季重神社」
昔は日奉明神社と呼ばれ、今でも日奉神社とも言う。
平山季重が祀られているという説のほかに、平山季重が先祖の日奉家の霊を祀ったという説が残る。

鎌倉幕府成立後、大悲願寺や小宮神社(現あきる野市)、 宝蔵寺(現檜原村)を創建。源義経に非常に近い人物だが、平山氏の存続に成功している。
子孫は執権北条氏の粛清をくぐり抜け、戦国時代に後北条氏に従っている。
1590年の小田原征伐で、平山氏重は檜原城に籠城するも落城、平山氏一族は滅亡し、残った一族も没落する。
しかし現在でも平山氏の子孫を称する人々が多摩地区に多く暮らしていると云う。

2006年夏には日野市において「平山季重フェスタ」が開催された。翌2007年からは開催時期を4月上旬に「平山季重まつり」.
    

次回は八王子片倉城址

八王子城址

2015-05-24 | 気まま旅

「高尾山」-明治の森・国定公園指定
八王子市南西部、関東山地東端に位置、中生代の堆積岩で山頂に「薬王院」・山岳信仰の山で、温暖体・冷温帯で、常緑広葉樹林と落葉広葉樹林がある。
東海自然歩道の起点ー小仏峠・陣馬山と相模湖など観光地。

JR高尾・私鉄京王線の「高尾駅」改札口に「大きな天狗のお面」


「八王子城主北条氏照」-1540-1590 妻は、大石定久の娘、武田勝頼と槍であわせている(滝山城三の丸)

1574年、には関宿城の簗田氏を攻略し、古河公方足利義氏の後見を務め、利根川水域を支配した。
1575年頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている。
1576年から「陸奥守」を称するようになる。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる。1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
1582年6月、の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐や信濃に侵攻した(天正壬午の乱)。
1590年、、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51。

辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」

没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造。(元八王子町3丁目に)八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている

1546年北条氏照が大石定久氏の養子に


北条三代氏康の子ー氏政(四代目)・八王子城主氏照・鉢形城主氏邦・韮崎城主氏規・上杉謙信養子に景虎、、、、、。

「鉢形城主北条氏邦」は、
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張し、居城の「鉢形城」に籠もって抗戦する。
しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
慶長2年の1597年、加賀金沢にて57歳で病没したいる。
金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせたと云う。
妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年、に病死したとも、自害したとも言われる。

1569年氏康、上杉謙信と和議ー氏照。大石から北条姓に復す


3代目北条氏康の長男が、4代目氏政、小田原城主
下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。豊臣秀吉の上洛要請答えず征伐された。
父氏康は、氏政を「汁加減も判らぬ様では、北条家も終わりだ」山積の麦を見て「すぐ、麦飯を作れ、、」家臣から「ムギは、こき・こなし・ほし・
つきて飯にするもの、すぐには食べられない、、、」世間知らずを笑われている。氏政の首は、京一条戻橋にさらされたと云う。

1574年氏政(兄)・氏照が「関宿城(掲載していなす)」攻略
    

北条氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。

1576年北条氏照「陸奥守」を名乗る。
    

滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は、時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向しているとも云う。

1582年氏照甲斐に出兵ー北条軍と徳川軍甲斐で対陣「若神子の戦い」
    

「八王子城合戦」
小田原征伐の一環として1590年の天正18年、7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は、
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかったと云う。

諸説では、1582年頃八王子城築城?
  

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。
その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

小田原城・韮山城の普請-1585年
    

発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土。
礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま、庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のもの。
虎口・石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されていると云う。
御主殿入口の冠木門は、当時の門をイメージし復元。
曳橋は、古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋で、現在の橋は、当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられたもので、実際の構造は、敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと云う。
橋台の西側の石垣は、林道整備のため削られ移築。

1587年豊臣秀吉の侵攻に備える
    

「御主殿の滝」

落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。
戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま・赤飯」を炊いて供養をする風習が現在でも続いていると云う。
赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁、現在は林道整備により半分以上が削られている。

1590年小田原開城・八王子城落城。
    

5男氏規(韮崎城主)は、徳川家康の竹馬の友・秀吉は、兄の氏政・氏照の介錯を氏規に命じている。

    

「朝遊山ー宗関寺」 曹洞宗の寺。

本尊 釋迦如来、 梵鐘(市指定有形文化財)、延喜年間開創
天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。
北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺に。現在地に明治25五年に移築している。

寺より西500m先に北條氏照墓地
    
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 。御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。これが起因して先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(即ち赤飯)を炊いて供養をする風習が現在でも続いている[1]。尚、赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして

次回は平山城へ。

八王子 滝山城址

2015-05-23 | 気まま旅
 
「甲州裏街道・滝山街道」
国道411号。八王子市からーあきる野ー青梅ー西多摩ー奥多摩ー山梨県北都留ー甲州ー終点甲府、全長118.7KM、山梨県甲府市に至る一般国道である。
八王子 - 甲府間を通る国道20号(甲州街道)に対し、途中の青梅市から、甲州裏街道と呼ばれる。

    

都南西多摩地区の中心、市名は、城山に牛頭天王の8人の王子を祀った「八王子権現・八王子城・守護神」に由来する。(次回は、八王子城址へ)
多摩川の支流「浅川」に沿う八王子盆地の段丘上、その北、加住丘陵・南は多摩丘陵・南西部が高尾山・その北に景信山・陣馬山などで自然公園に。

「大石 定重」1467ー1527
戦国時代の武将。大石氏は武蔵国の国衆で、山内上杉氏の有力宿老。
定重は、遠江守家の五代目、父は大石憲儀。母は矢野範泰の娘で、定重は庶子。
伯父に四代目の源左衛門尉、子に六代目の道俊(顕重か)・遠江守・信濃守がいる。高月城ー滝山城城主となる。
武蔵国守護代。

    

室町時代初期、
「大石為重」は、初代関東管領の上杉憲顕に仕え、男子がなく、1334年に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる「大石信重」(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。
大石信重は、1351年、挙兵した南朝方の「新田義宗」との笛吹峠の合戦で先陣を勤め、戦功として、1356年、武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。
また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城。
応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めている。
1458年、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から「滝川城・本拠地」を移したと云う。

15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集「梅花無尽蔵」巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。
1521年、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転したとある。

    

1546年,関東に進出した後北条氏の「北条氏康」が河越夜戦で大勝。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。
主家上杉氏の没落により、大石定久は、北条氏康の三男・氏照を娘・「比佐」の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居。
領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏は、ほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったという。
小田原征伐により後北条氏が没落すると・
大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えている。



城郭構造は、連郭式山城 (天守構造なし)

  

築城主ー大石定重(築城年、大永元年・1521年)・主な改修者ー北条氏照 。廃城・永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃

遺構は、土塁、堀、井戸。

  

1569年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、
これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。

「なお、近年、1561年、春に上杉謙信が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、
同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないとした説もある。
小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた「発給文書」が
出された1567年9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする説もある。」

    

現在、都立滝山公園。
滝川城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったとある。

    

現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている。

  

「北条氏康」 1515-1571 北条家を発展に導いた名将・小田原北条三代目・氏綱の長男
扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越で破り、古河公方を傀儡年、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領土拡大。
税制改革・検地を推進していく、「河越城では、上杉・古河連合軍8万に囲まれ、8千を率いて援軍の向かうが、その都度退却している。
日本三大夜戦「河越の奇襲夜戦」で、北条氏関東支配を決定的にした。
遺言に、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べ、、、遺言している。

    

多摩川を見下ろす加住丘陵上、戦国時代の山城の遺構がよく残されている。

  

城跡一帯は、「滝山都立自然公園」桜の名所・面積約81万m2ある。

「引き橋」
中の丸の木橋が、深い堀の上に架かっているこの橋は、本丸と中の丸を結ぶ引き橋であるが、当時はもう少し下に架けられて、全長も短かく、
引き橋は、曳橋とも書き、戦の時には橋を曳けるようにしている。

    

本丸・中の丸・二の丸・空堀などから、上杉謙信・武田信玄猛攻を受け、特に信玄・勝頼父子の1569年10月の戦いは、熾烈を極めたと云う。

  

後の北条氏照時代に、攻撃に備えるため、南西約9kmに、次回掲載する「八王子城」を築城移転している。

「金比羅社再建之碑」
由来は、1781年〜、に滝村が造営したと武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は麓の滝村に年貢の免税地として受け継がれており、水田の米、豊富な薪炭、川魚を産物として豊かな村は栄え、多摩川の漁場で捕れた鮎は将軍へ献上されていました。農閑期には多摩川と秋川が合流する地の利を生かし、江戸の繁栄に伴う需要増から森林材の中継地として材木筏を組み、物資を乗せて多摩川を下り、江戸への輸送を村ぐるみの生業としていました。
村人たちは水運の安全と事業の繁栄を願って、多摩川を一望できるこの場所に海運(開運)の神様として名高い金比羅様を祀った。

    

天主閣・高い石垣も無い、典型的な中世城郭の縄張りの「滝山城」

  

木立の深い城址でした。城下には、横山・八日市・八幡の三宿が城下町をかたちづくっている。この辺りを「元八王子」と呼ばれている。

「中の丸の説明板」
八王子市の城館跡の地図が、
滝山城趾、高月城趾、戸吹城趾(根小屋城趾)、浄福寺城趾、小田野城趾、伝由井氏館、八王子城趾、廿里(とどり)砦、出羽山、初沢城趾(椚田城趾)、片倉城趾、平山城趾、伝由木氏館、伝大石信濃守屋敷。14箇所。
八王子地域は、城の街であった。

  

次回は、ここから約9km離れて築城された「八王子城址」へ。