「千人町の歴史」
文禄2年の1593年、武蔵国多摩郡八王子横山に「千人同心の拝領屋敷」が設けられ、頭及び組頭の約100人が移住してきたことに始まる。
千人同心は500人であったため「五百人町」と呼ばれていたが、「千人町」と呼ばれるようになったのは、1600年の慶長5年に、1,000人に増強されて
素の以降であろう。
町名は、千人同心の屋敷があったことに由来し、「千人町」現在まで続いている。
1593年(文禄2年) - 武蔵国多摩郡八王子横山(現・八王子市千人町及び追分町)の拝領屋敷に千人同心の小人頭500名のうち頭及び組頭が移住する。
1600年(慶長5年) - 千人同心が1,000名に増員される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町制施行に伴い八王子町発足、千人町はこの一部となる。
1917年(大正6年)9月1日 - 市制施行に伴い八王子市発足」。
お正月に全国各地で、それぞれの地域に祀られている七福神をめぐりの御朱印を集め、七福神めぐり。
ここの七福神は、「八王子の七福神めぐり」-八王子の『八』と末広がりの『八』にちなんで、
八か所の寺院をめぐります。
八王子八福神めぐりは、JR八王子駅とJR西八王子駅の周辺で、半日もあれば。
「甲州街道イチョウ並木」
昭和2年の1927年、大正天皇の多摩御陵完成に伴い、昭和4年・1929年に道路改修された際に、宮内庁によって植えられ、当時は、2mほどだった苗が、今では15メートル以上に達しているものもあります。
昭和39年の1964年、に甲州街道が、東京オリンピックの自転車競技のロードレースコースとされたのを機に市の天然記念物に指定。
その後、市政60周年を記念して昭和51年に「市の木」に制定。千人町の中央図書館前歩道橋より高尾方面、約4kmの並木道。
日蓮宗・興栄山ー善龍寺 (増田蔵六の墓がある)
「増田蔵六」は、幕末の八王子千人同心の中で恐るべき武術の達人がいた。
天然理心流二代目、近藤三助の門弟の中で最高の遣い手と言われた「増田蔵六師範」である。
実際同流は二代目が早世された為に各系に分かれたが理心流の殆ど全ての実技、剣、棍、柔の三術を皆伝されたのは実質上増田師範のみであると云う。
八王子にて多くの門人を養成し、また他系の師範までに流儀の秘伝を教授した大武芸者である。
大刀の下緒が飾り結びをしない古式の作法で、作法として正式なもので、当時の下緒捌きを探る意味合いからも興味深い、(肖像画が残っている)
増田師範の略伝を記載した資料も、増同家に残っていると云う。
天然理心流のどの系統も元祖について「飯篠長威斎十九代」也と云う伝承を遺しているのであるが、実際の人脈伝承を遺しているのは実質上増田家のみ
で、流儀の全ての文化を保存した同流傳脈の正に大動脈であると云え、天然理心流の指南において必須条件とされた「指南免許」であるが、実際
文献を遺している家は、少ない。
増田家には、流儀の秘書が残って、型解説の様々な口傳書、右傳書・独特のもの、同流の秘法と云える「眞位」「行位」「中位」「草位」などの口傳書となっている。学術的にも貴重とされている。
「善龍寺」には木刀・小太刀、、。増田蔵六の墓と碑がある。
「千人同心・組頭、小頭、、」
徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足。
当初は代官頭大久保長安が統括し、幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。
同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)
すなわち、千人同心は、
甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。
甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。
甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事に、
江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。
江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。
千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。
この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。
天正18年、八王子城落城後ー元八王子に小人頭と小人(同心)250名を落城後の警備に当たらせ、その後北条の浪人を加え500人に膨らみ、
「大久保長安」が代官に
元八王子からこの千人町に移転し同心も1000人になり江戸の西の警護に当たるようになり、その範囲は、三鷹市、川崎市登戸、相模原市、津久井郡
飯能市とかなり広域に、関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣と武士集団として出兵しましたが、泰平の世になりその公務は日光火の番といって
東照宮の警備を行い、50人が半年交代で216年間に1030回に、その後千人同心は北海道の開拓を行ったり、幕末には横浜を警護したりと活躍し、
最後は徳川とともに駿府に移住してゆきましたが、後に暇を乞い故郷の村々に帰り農業に従事していったと伝えられている。
「石坂弥次右衛門」
慶応4年の1868年3月、急死した定番の代番として日光勤番に赴きます。
直後の4月、板垣退助率いる新政府軍が日光へと押し寄せて来ます。
この際、弥次右衛門は大鳥圭介らに諮って無血開城を決断、現在に威容を誇る日光東照宮は辛うじて戦火を免れるに至りました。
しかし、帰郷した弥次右衛門を待っていたのは、戦わずして降伏したことへの非難でした。
結局彼は、その責を負う形で切腹して60歳の生涯を閉じています。
(この時の介錯人はなんと、79歳になる彼の父親でした)
興岳寺に、二宮心斎氏の碑と石坂弥次右衛門の墓
「道標」は、文化8年の1811年ー江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てた「高尾山道標」または「追分道標」。
新宿、八王子、 高尾山麓小名路の三箇所に碑があると云う。
「大久保石見守長安」 武田の重臣後家康の家臣
甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。
家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は、大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。
名字を賜り、姓を大久保に改めた。
天正10年、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。しかし当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた。
そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて甲斐国の内政再建を命じた。但し、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。
1590年の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。
この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。
これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任され、
1591年には、家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。
但し、実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。
長安は八王子宿・に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。(石見土手)
長安は、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした
「八王子五百人同心」が誕生。
1599年には、同心を倍に増やすことを家康から許され、「八王子千人同心」となった。
長安屋敷跡は、産千代稲荷神社に
神社境内に、陣屋の井戸が残っていた。
「信松院」曹洞宗・山号ー金龍山。
開基は信松尼(武田信玄の四女・松姫)。開山は卜山舜越。八王子七福神の一つで、「布袋」像を祀る。
1590年の天正18年、に信松尼(松姫)が心源院より八王子御所水(現・八王子市台町)の草庵に移転したのが創建。
松姫は、1567年の永禄10年、7歳のとき,織田信長嫡男の信忠11歳と婚約したが,
1573年の元亀3年、両家は交戦状態(三方ヶ原の戦い)となり、婚約も破棄された。
信玄の没後、
1582年の天正10年に織田勢による甲州征伐が開始されると、松姫は逃避行の末、武州多摩郡恩方にたどり着く。
武田家は、天目山の戦いで滅亡し、その後、本能寺の変で信忠が亡くなるという悲報が続き、松姫は心源院に移り出家。
文化財ー軍船ひな形・寄進目録 - 木造、東京都指定文化財。松姫坐像 - 木造、八王子市指定文化財。信松尼墓 - 八王子市指定史跡
1945年の昭和20年、八王子空襲では、焼失は逃れたものの、松姫が植えたとされている松が枯れたと云う。
次回は、八王子・絹の道へ。
文禄2年の1593年、武蔵国多摩郡八王子横山に「千人同心の拝領屋敷」が設けられ、頭及び組頭の約100人が移住してきたことに始まる。
千人同心は500人であったため「五百人町」と呼ばれていたが、「千人町」と呼ばれるようになったのは、1600年の慶長5年に、1,000人に増強されて
素の以降であろう。
町名は、千人同心の屋敷があったことに由来し、「千人町」現在まで続いている。
1593年(文禄2年) - 武蔵国多摩郡八王子横山(現・八王子市千人町及び追分町)の拝領屋敷に千人同心の小人頭500名のうち頭及び組頭が移住する。
1600年(慶長5年) - 千人同心が1,000名に増員される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町制施行に伴い八王子町発足、千人町はこの一部となる。
1917年(大正6年)9月1日 - 市制施行に伴い八王子市発足」。
お正月に全国各地で、それぞれの地域に祀られている七福神をめぐりの御朱印を集め、七福神めぐり。
ここの七福神は、「八王子の七福神めぐり」-八王子の『八』と末広がりの『八』にちなんで、
八か所の寺院をめぐります。
八王子八福神めぐりは、JR八王子駅とJR西八王子駅の周辺で、半日もあれば。
「甲州街道イチョウ並木」
昭和2年の1927年、大正天皇の多摩御陵完成に伴い、昭和4年・1929年に道路改修された際に、宮内庁によって植えられ、当時は、2mほどだった苗が、今では15メートル以上に達しているものもあります。
昭和39年の1964年、に甲州街道が、東京オリンピックの自転車競技のロードレースコースとされたのを機に市の天然記念物に指定。
その後、市政60周年を記念して昭和51年に「市の木」に制定。千人町の中央図書館前歩道橋より高尾方面、約4kmの並木道。
日蓮宗・興栄山ー善龍寺 (増田蔵六の墓がある)
「増田蔵六」は、幕末の八王子千人同心の中で恐るべき武術の達人がいた。
天然理心流二代目、近藤三助の門弟の中で最高の遣い手と言われた「増田蔵六師範」である。
実際同流は二代目が早世された為に各系に分かれたが理心流の殆ど全ての実技、剣、棍、柔の三術を皆伝されたのは実質上増田師範のみであると云う。
八王子にて多くの門人を養成し、また他系の師範までに流儀の秘伝を教授した大武芸者である。
大刀の下緒が飾り結びをしない古式の作法で、作法として正式なもので、当時の下緒捌きを探る意味合いからも興味深い、(肖像画が残っている)
増田師範の略伝を記載した資料も、増同家に残っていると云う。
天然理心流のどの系統も元祖について「飯篠長威斎十九代」也と云う伝承を遺しているのであるが、実際の人脈伝承を遺しているのは実質上増田家のみ
で、流儀の全ての文化を保存した同流傳脈の正に大動脈であると云え、天然理心流の指南において必須条件とされた「指南免許」であるが、実際
文献を遺している家は、少ない。
増田家には、流儀の秘書が残って、型解説の様々な口傳書、右傳書・独特のもの、同流の秘法と云える「眞位」「行位」「中位」「草位」などの口傳書となっている。学術的にも貴重とされている。
「善龍寺」には木刀・小太刀、、。増田蔵六の墓と碑がある。
「千人同心・組頭、小頭、、」
徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足。
当初は代官頭大久保長安が統括し、幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。
同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)
すなわち、千人同心は、
甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。
甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。
甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事に、
江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。
江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。
千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。
この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。
天正18年、八王子城落城後ー元八王子に小人頭と小人(同心)250名を落城後の警備に当たらせ、その後北条の浪人を加え500人に膨らみ、
「大久保長安」が代官に
元八王子からこの千人町に移転し同心も1000人になり江戸の西の警護に当たるようになり、その範囲は、三鷹市、川崎市登戸、相模原市、津久井郡
飯能市とかなり広域に、関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣と武士集団として出兵しましたが、泰平の世になりその公務は日光火の番といって
東照宮の警備を行い、50人が半年交代で216年間に1030回に、その後千人同心は北海道の開拓を行ったり、幕末には横浜を警護したりと活躍し、
最後は徳川とともに駿府に移住してゆきましたが、後に暇を乞い故郷の村々に帰り農業に従事していったと伝えられている。
「石坂弥次右衛門」
慶応4年の1868年3月、急死した定番の代番として日光勤番に赴きます。
直後の4月、板垣退助率いる新政府軍が日光へと押し寄せて来ます。
この際、弥次右衛門は大鳥圭介らに諮って無血開城を決断、現在に威容を誇る日光東照宮は辛うじて戦火を免れるに至りました。
しかし、帰郷した弥次右衛門を待っていたのは、戦わずして降伏したことへの非難でした。
結局彼は、その責を負う形で切腹して60歳の生涯を閉じています。
(この時の介錯人はなんと、79歳になる彼の父親でした)
興岳寺に、二宮心斎氏の碑と石坂弥次右衛門の墓
「道標」は、文化8年の1811年ー江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てた「高尾山道標」または「追分道標」。
新宿、八王子、 高尾山麓小名路の三箇所に碑があると云う。
「大久保石見守長安」 武田の重臣後家康の家臣
甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。
家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は、大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。
名字を賜り、姓を大久保に改めた。
天正10年、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。しかし当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた。
そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて甲斐国の内政再建を命じた。但し、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。
1590年の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。
この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。
これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任され、
1591年には、家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。
但し、実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。
長安は八王子宿・に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。(石見土手)
長安は、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした
「八王子五百人同心」が誕生。
1599年には、同心を倍に増やすことを家康から許され、「八王子千人同心」となった。
長安屋敷跡は、産千代稲荷神社に
神社境内に、陣屋の井戸が残っていた。
「信松院」曹洞宗・山号ー金龍山。
開基は信松尼(武田信玄の四女・松姫)。開山は卜山舜越。八王子七福神の一つで、「布袋」像を祀る。
1590年の天正18年、に信松尼(松姫)が心源院より八王子御所水(現・八王子市台町)の草庵に移転したのが創建。
松姫は、1567年の永禄10年、7歳のとき,織田信長嫡男の信忠11歳と婚約したが,
1573年の元亀3年、両家は交戦状態(三方ヶ原の戦い)となり、婚約も破棄された。
信玄の没後、
1582年の天正10年に織田勢による甲州征伐が開始されると、松姫は逃避行の末、武州多摩郡恩方にたどり着く。
武田家は、天目山の戦いで滅亡し、その後、本能寺の変で信忠が亡くなるという悲報が続き、松姫は心源院に移り出家。
文化財ー軍船ひな形・寄進目録 - 木造、東京都指定文化財。松姫坐像 - 木造、八王子市指定文化財。信松尼墓 - 八王子市指定史跡
1945年の昭和20年、八王子空襲では、焼失は逃れたものの、松姫が植えたとされている松が枯れたと云う。
次回は、八王子・絹の道へ。