syuの日記・気まま旅

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「わび・さび」の銀閣寺

2013-04-21 | 気まま旅
「哲学の道」は、京都市左京区にある小道。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸に植えられた桜はみごと、
「哲学者・西田幾多郎」がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。
「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされており、1972年に正式な名称となった。
日本の道100選にも選ばれている散歩道。
道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。
「関雪桜」は、哲学の道の桜は近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻よねが、1922年に京都市に苗木を寄贈したのに始まる。
寄贈の経緯は画家として大成した関雪が、京都に対する報恩を考えた際によね夫人が桜を植えてはどうかと発案をした事によるという。
代替わりをした今でも桜並木の名称として「関雪桜」と呼ばれている。

思索の道に入る


東山のふもと、ここは、左京区、疏水べりの 小道。約1.5k。
日本の道百選にも選ばれ、哲学、思索に ふけり、ぶらりと散歩。春は両岸の関雪桜で花のトンネルになるという。

京都大学の東今出川通りの世界遺産「銀閣寺」前で下車し、哲学の道に入るとすぐ 東山慈照寺(銀閣寺)に。

白川水道、銀閣寺前・南田町、法然院町、上宮ノ前町、宮ノ前町、若王子神社と続く「哲学の道」
    

世界文化遺産東山慈照寺「銀閣寺」

総門、中門、庫裡、書院、茶室、本堂、お堂、宝処関、銀閣、向月台、洗月泉、井戸、見晴らし台、月松山があり、その奥が五大送り火大文字
になる。

足利義政 1436-90 東山文化を興した将軍
    

寺は、臨済宗相国寺派に属す禅寺、建立1482年の室町時代、八代将軍足利義政公による。

義政公は、祖父にあたる三代将軍義満公の北山金閣(鹿苑寺)にならい、山荘東山殿を造営した。東山文化の発祥地で、今でも、銀閣寺には、
禅宗文化の結合を見るこたが出来る。

分裂抗争で「応仁の乱」が
  

足利義政公は、その生涯を東山殿造営に託し、自然と調和させ、四季折々を取り入れて自然空間を生かし、感性すぐれた人物であったであろう。深い精神文化とマッチした調和は、他に無いのでは。

本堂(方丈)前には砂を波形に盛り上げた銀沙灘と円錐型の向月台があります。向月台の上に座って東山に昇る月を眺めたと言われている。
現在のような形になったのは江戸後期になってから。

落書きに「幕府の政治は、三魔の思うまま」
    

観音殿とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが東求堂。東求堂は本来持仏堂、即ち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。
浄土信仰の象徴として 東求堂を建て、禅宗様式の庭園を周囲にめぐらしたところに、義政公の精神世界を垣間見ることができる。
東求堂 は現存する最古の典型的な書院造りのたてもの。 内部には義政公と阿弥陀如来の木造が安置されているという。

三魔とは、権政を振った「義政愛妾お今・近臣有馬持家・母日野重子」。
    

錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされ、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。
東方山麓の枯山水庭園は1931年に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。


    

銀閣寺垣 、慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣と呼ばれている。

国宝、 慈照寺銀閣、 慈照寺東求堂、重要文化財  絹本著色春屋妙葩像。 慈照寺・銀閣寺の庭園

義政は、東山に山荘を、銀閣はその一つと云う
    


「浄土院」は、この地には、もと、浄土寺と呼ばれた天台宗の寺院があり、1482年、 東山殿(銀閣寺)造営に際し、相国寺(上京区)の西に移され、その跡地 に残された草堂を泰誉浄久が浄土宗の寺として復興したという、

自然と調和させた銀閣は、現在、同じに造ることは出来ないだろう、わびとさびが判らないから
    

次回哲学の道を続けます。







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