syuの日記・気まま旅

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広い池が中心の清澄庭園 syu散歩

2017-05-01 | syu散歩

「清澄公園・清澄庭園」
   区立図書館(旧東京市立図書館ー明治42年)昭和25年江東区に移管している(所蔵数約20万冊以上と云う)。


「紀伊国屋文左衛門」 役人と癒着した政商・豪商 1669-1734 紀伊の生まれ。
暴風雨をついて江戸に紀州産のミカンを売りまくっり巨利を得たと伝わる。勘定奉行ー荻原重秀・御用人柳沢吉保に取り入り、幕府御用達の木材商
として、度重なる江戸の大火に乗じ巨万の財を成している。
文左衛門千両で吉原借り切っている・節分に豆の代わりに金を見いている・諸般の役人に対し接待しいろいろ演出し江戸中「紀文」の名が・
絵師・戯作者のパトロンに・・・。が40歳で材木商廃業し、晩年は財産を使い果たしている。
富岡八幡宮へ大神輿を寄贈している。

「岩崎弥太郎」三菱財閥創設者 1834-85 実業家。
土佐の生まれ、開国論者「吉田東洋」を知り、「後藤象二郎」交わって、長崎土佐商会に勤め、廃藩置県時、土佐藩大坂表の全財産を継承して
「九十九商会」を興した。後解散し、三菱商会設立、海運業ー政府から汽船を無償の払い下げ、助成金を受け、アメリカパシフィック・メイル
帝国郵便蒸気船会社の競争に勝って大きく発展した。後為替業・海上保険業共同運輸・・「日本郵船」を成立させた。

                      東側に庭園・西側に公園


                清澄公園ー櫓の時計塔・噴水・水なし石畳川等。


                フジタ棚や樹木など多く、街中の静かな公園


元禄期の豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定。
1878年の明治11年、荒廃していた邸地を
三菱財閥創業者「岩崎弥太郎」が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手し、明治13年、に竣工、「深川親睦園」
と命名。
三菱社長の座を継いだ「岩崎弥之助」は、庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年、に回遊式築山林泉庭園としての完成、
明治22年、庭園の西側に「ジョサイア・コンドル設計」による洋館が建てられた。
1923年の大正12年、関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失。
大正13年、三菱3代目社長の「岩崎久弥」は、東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は、大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、昭和7年、-清澄庭園として開園ー
昭和52年、開放公園(清澄公園)として開園。

関東大震災ー火災の被害が大、4千本の広葉樹、針葉樹に囲まれていたこともあって、図らずも近隣住民の避難場所となり2万人の人命が救われたと云う
(北から2kmあった本所区(現墨田区)の陸軍被服廠跡(現横網町公園)では、避難した4万人のうち3万8千人が火災旋風に襲われ落命)

                      「清澄庭園」入園料 ¥150                     


中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置、「磯渡り」などがある。
園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。池には人に慣れた多数のカメがおり、餌をやることができる。
大正記念館は、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿。戦災で失われ、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建された。集会施設として利用可能。
涼亭は、明治42年、建てられた数寄屋造りの建物。(保岡勝也の設計)都選定歴史的建造物に選定。

           「深川親睦園」西洋館(ジョサイア コンドル設計)


                     和風建築


                  池を中心にされた庭園


                    庭園                       


                   庭園内図


「村田春海」 1746-1811 国文学者・歌人
江戸の干鰯問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周の養子となった。
のち本家の干鰯問屋を相続したが、その生活は豪奢なもので十八大通の一人にも挙げられたと云う。
その結果、家産を傾け隠居後は風雅をともにし、漢籍を「服部白賁」に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに
江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。
春海は、特に仮名遣いに造詣が深く、「新撰字鏡」を発見・紹介している。
また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。
門下に清水浜臣・小山田与清などがいる。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価。
著書ー歌文集「琴後集」、漢詩集「錦織詩草」などがある。

          村田家の菩提寺は、清澄庭園前の日蓮宗「本誓寺」


                   仙台堀川の早咲き桜


「心行寺」 山号 双修山・深川七福神「福禄寿」

                   浄土宗の心行寺


1616年 日本橋八丁堀寺町に創建 開基は、岩田城主「吉川監物」(墓がある)、1633年日本橋から深川に移転している。

                   心行寺本殿


              心行寺ー 五十石塔・川口直供養塔など点在


「法乗院・閻魔堂」
髪結新三の狂言舞台となった所で、江戸時代より有名である。

        閻魔様は、初代、大正時代の震災で燃失している。現在は二代目


寺は、真言宗豊山派・山号 賢台山・ 開山 1629年 覚誉僧正。
歌舞伎の音曲尺八・琴古流宗家「豊田鳳憬」の墓がある。

                     御府内八十八ヶ所霊場の74番札


「陽岳寺」
1637年創建・開山 文宝祖郁禅師・開基 向井忠勝 1582-1641 60歳で没した。(陽岳寺が菩提寺)
向井忠勝は1597年、将軍秀忠に仕え、大阪冬・夏の戦いで、水軍を率い、摂津尼崎出陣している。1625年父の跡を継ぎ向井家は、代々「船手頭」の
職を世襲したとある。
                         長光山 陽岳寺


「和倉橋跡」ー所在地区深川2丁目、(首都高ガード下)この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といったと云う。
明治2年、からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。昭和4年の1929年、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4mル、幅11mの鉄橋・昭和50年、油堀川が埋められたので和倉橋はとりはずされた。

                         和倉橋跡


                         橋の柱跡

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