syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

7kmコース杉並区 syu散歩

2015-04-28 | syu散歩

本日は、syu散歩の約7kmのコースをご案内する。
普段は、4km程度で家から東(Aコース、阿佐ヶ谷方面)・南2コース(B・Cコース善福寺川緑地公園ー大宮神社)・西(Dの西荻コース)。
7kmコースは、Eコースで月2~3回歩いている。
家を出るのが、早い昼食の午前10時で、10時半には、スタートする。

方向は、Dコースで西に向かい宮前・体育館ー公園ー春日神社のバス通りを

五日市街道ー井の頭通りー宮前一丁目ー久我山小学校
    

京王井の頭線富士見が丘駅前から踏切を渡り神田川「月見橋」を
    

この辺は、高井戸の浴風園老人施設がある。住宅街を抜けると中央高速高井戸ICガード下に出る。
    

高井戸杉並区から世田谷区の南烏山の「京王帝都、芦花公園駅」
    

「世田谷文学館」
文学館は、都世田谷区南烏山にある博物館、
1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館。運営は、公益財団法人せたがや文化財団。
東京都道311号環状八号線と蘆花恒春園の近くに位置し、隣には、ウテナ創設者「久保政吉」の旧邸宅がある。

    

「世田谷・粕谷」
江戸時代には天領となり、ちゃんとした村が形成されたのは1648年頃と推測、天領のため開墾が積極的に進むことなく、明治。
明治40年には文筆家の徳冨蘆花が青山から引っ越し、
当時の様子を「みみずのたはこと」に書いていますが、人家はまばらで、四方が寂しく、色々な物音が響くと表現しています。
大正九年の国勢調査でも33世帯、235人となっているので納得です。この「みみずのたはこと」は大正時代の粕谷の貴重な記録となっている。
蘆花が暮らした家は蘆花の死後に遺族が都に寄付し、現在の「蘆花恒春園」として公開されている。

    

「粕谷・八幡神社」
蘆花恒春園の隣地に鎮座する旧粕谷村の鎮守。 地名から、粕谷八幡神社とも呼ばれる。

祭神ー誉田別命(応神天皇)・創建は不明。鎌倉時代、当地は粕谷氏の所領であったことから、粕谷氏が勧請したとする説
2,000m2を超える敷地、本殿は1959年(昭和34年)に放火により焼失、再建。
境内社に御所神社がある。祭神は、厳島姫命、宇迦御魂命、日本武命、淤母陀琉命、疽神。
「別れの杉」-徳富蘆花が客人をこの杉の下で見送ったとされ、名づけられた杉。太平洋戦争後に枯れ、二代目が植えられている。
祭は10月11日。

    

「徳冨健次郎(蘆花)」1868ー1927 トルストイに傾倒した自然派作家・蘇峰の弟・熊本生まれ、同志社入学、89年兄の民友社に入る。
「国民の友・不如帰」連載し小説家に、1903年黒潮社設立「黒潮」刊行、兄と訣別、エルサレム聖地巡礼の旅に、後トルストイを訪問
帰国後世田谷粕谷二居を移す。15年ぶりに兄蘇峰と和解し、世を去っている。

    

「蘆花恒春園」
明治・大正期の文豪、徳冨蘆花(健次郎)と愛子夫人が、後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした公園。
「徳冨蘆花旧宅」として、昭和61年3月東京都の史跡に指定。
蘆花が愛した武蔵野の面影をしのばせる竹林や邸地とともに寄贈された身辺具、作品などの遺品を収めるために昭和34年に建設した蘆花記念館
夫妻の墓なども園内に点在する。

    

「トルストイ」の「われら何をなすべきや」に感動し、トルストイ人道主義に共鳴し、訪問を決意したと云う。
トルストイは、「トクトミ、君は、農業で生活することは出来ないかね」と云われ、蘆花は、自然の中で農業生活を決心している。
当時は、府下北多摩郡千歳村粕谷と云う農村地であった。
蘆花は、ここの地を永住の地とした。
自らを美的百姓と称し「晴耕雨読」の生活を送りーみみずのたはこと・黒い眼と茶色の眼・新春・冨士、、。作品を書いている。

    

昭和11年の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈され、市では昭和13年、夫人の意向に沿って、武 蔵野の風景を保存し、公園として公開を開始しました。これらの建物は老朽化により昭和58年~60年度にかけて改修を行い、「徳冨蘆花旧宅」として、昭和 61年3月10日東京都の史跡に指定されました。 【見どころ】 蘆花が晴耕雨読の田園生活を送った恒春園区域内では執筆活動等往時の生活の様子を伺い知ることができます。 花の丘区域では公園友の会、地域の小学生達と協働して育てあげた季節の花が咲き揃います。(蘆花が好んで育てた花々も園内に彩りを添えます)

     

源頼朝・石橋山(早川)で敗戦・千葉県へ

2015-04-25 | 気まま旅

箱根湯本から石垣山越え、ここは、県南西部小田原の南で相模湾に注ぐ早川の北で臨海部に広がる「小田原市早川・足柄下郡早川村」
かっての「早川庄」の前身・早川牧の中心地である。小田原魚市場が近い。
「早川」は、箱根湯本で紹介しているが、芦ノ湖が源、外輪山を横切って深く鋭い「千尋の谷」を刻み、流れが早いので、早川。
江戸時代から小田原城下町用水に使われていた。川の長さは20.7km。

「海蔵寺」
1441年、創建で、寺内には、「一夜城・堀秀正」の供養塔がある。
秀政は、織田信長・豊臣秀吉に重用され、小田原合戦にも参戦したがこの地で病死している。

                   曹洞宗小田原三寺の一寺で古寺
    

「道祖神」
路傍の神。
集落の境や村の中心、 村内と村 外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の 「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄など地域と旅人に、、、。

海蔵寺入口近くに                JR東海道本線からも見える魚藍大観音
    

小田原漁港は、アジ・イワシなど水揚げ、イベントで即売も、8月「小田原港まつり」はここで。

「東善寺」本尊ー薬師如来
海上安全・大漁満足・魚介類、、報恩感謝など祈願所
                         魚藍大観音像の高さ約11m
    

「早川観音・真言宗真福寺」
半損は、12世紀頃の作と云われー聖観世音菩薩立像。

創建は万寿元年の1024年と伝わる古刹。かつては早川山如意輪寺・大王山宗臨寺と称した。


2ヶ所に目石があると云う。 楼門       境内には、桜の他にタブノキとイトヒバという巨木が.
    

早川観音に向かう途中の参道脇から崖に。
目石へ続く階段の入口、そこには、「箱根山崎の戦い」で剣豪「伊庭八郎」の左手を斬った小田原藩士で鏡信一刀流の使い手であった
「高橋藤太郎」の墓所があると云うが山道で遠慮した。



「石橋山」ーJR早川駅海の向かって右の山。
源頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、「以仁王」の令旨を御旗に高く掲げさせた。
谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。
この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。



「大庭 景親」生誕不詳ー1180。
平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景政の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。
平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年の1180年、に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破。
安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。
頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。
大庭城は、大庭景親の居城・本格的な築城は、扇谷上杉家の定正に仕えた太田道灌が行ったとされている。その後、北条早雲によって攻略され小田原北条氏の支配下に置かれた。小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると廃城。現在は、大庭城址公園として整備されている。
大庭御厨・鎌倉権五郎景政が開発し、伊勢神宮に寄進した荘園。この辺りから茅ヶ崎へ至る平地は、当時の一等地であったと云う。
古くより大きな集落があったものと考えられている

「伊東祐親」生誕不詳ー1182。
治承4年の1180年、頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。



「源頼朝と伊東祐親」
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年の1159年、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
伊東祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図ったが。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家していると云う。

石橋山の戦いは、平家軍3000騎・源氏300騎(北条宗時・佐奈田義忠など討死している)


「源頼朝股肱の臣 土肥実平」
10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となり、富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられ、土肥氏と西国との関わりはここに始まる。平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を。

「小早川家の祖」
湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残され、土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いている。
遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏とし、土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となる。
土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600年の「関が原合戦」後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられ、しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶する。

「安達盛長」1135-1200 13人合議制の一人、三浦義明の弟、平塚・伊勢原、千葉常胤(下総介)を味方に付けた。


「真鶴・荒井城址公園」
源頼朝の挙兵以来活躍した「土肥実平」の祖父を「荒井刑部・実継」とする説がある。「城願寺縁起」。
荒井氏はこの付近に関係があったと思われ、城地の西の山裾にある福浦は、江戸初期まで「荒井村」と称していた。
頼朝らが「箱根権現」からこの真鶴・岩海岸で漁舟で千葉・房総へ向かっている。

1186年、当時の推定年齢、源頼朝(39)、土肥実平(61)、土肥遠平(36)、 土屋宗遠(58)、岡崎義実(74)、足立盛長(51)、新開忠氏(57)、(田代信綱(41)。
    

次回は、syu散歩。

歴史が動く・秀吉の一夜城

2015-04-24 | 気まま旅

箱根登山鉄道は、箱根湯本駅ー入生田ーかぜまつりー板橋ー小田原駅

入生田駅下車、長興山に向かうと駅から約8分で「紹太寺」(稲葉一族・春日局の墓)その奥に鉄牛和尚の寿塔と長興山のしだれ桜。(数回掲載済み)

「稲葉正成」-義父とともに豊臣秀吉に仕えたが、やがて、 秀吉の命を受けて小早川氏に入った秀秋の家臣(家老・5万石)となる。
四国・小笠原征伐で活躍し、朝鮮出兵(慶長の役)では秀秋に従軍した。1600年の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、
小早川秀秋を東軍に寝返らせることに成功する。
林政秀の次男。母は安藤氏。 正室は美濃の稲葉重通の娘であり、婿となり姓を林から稲葉と改め,稲葉正次など2子をもうけたあと重通の娘に先立たれ、
継室として稲葉重通の養女である福(春日局、斎藤利三の娘)を迎えると、 稲葉正勝(次男)、稲葉正定(三男)、稲葉正利(五男)をもうける。

しかし、継室の福が1604年、 家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母として志願し、 京都所司代板倉勝重によって採用されると、妻である福と離縁した。その後は継々室として山内康豊の娘を妻に迎え、間に稲葉正吉(十男)をもうける。 他に養子として稲葉政貞がある。

「春日局」1549-1643 明智光秀重臣「斉藤利三」の娘、辛い生活後、「稲葉正成」に嫁して四男をも受け離婚。三代将軍徳川家光乳母。信任を集めて
大奥の実力者に、実子「稲葉正勝」養子「堀田正俊」は、春日局のコネで老中まで出世している。

小田原箱根道路を渡り、地球博物館・早川(太閤橋)・石垣山(261.1m)の山越えをする。(石垣山を越えるとJR東海道本線早川駅)
  

「早川石丁場群」
発掘調査が行われ、一夜城・江戸城築城の、切り出した石を運んだ道や石丁場で多数の石が発見され、当時の作業工程が判ると云う。
石垣山の名は、小田原北条氏を包囲するための本営として広大な石垣積みの城が築かれたことによる。
豊臣秀吉の策略により、一夜で築城したようにみせかけ途ことから「太閤の一夜城ともよばれている。
昭和62年「歴史公園」として整備され、公園内では往時の石垣が見られる。(国指定史跡)

「笠懸山」
1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれる。

                    面積ー面積7500m2.
    

豊臣秀吉軍が天正18年の1590年、「小田原征伐」。

小田原城の西3kmにある「笠懸山」の山頂に構築した石垣山一夜城は、小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、
北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来)
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城、約3~4万人を動員し、80日で構築されたと云う。
豊臣秀吉は、この城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えている。天守があったかは不明であるが、天守台跡は残っている。
関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて残っている。1959年に国の史跡に指定、
現在は石垣山一夜城歴史公園として整備。
                          城郭構造ー悌郭式山城
    

石垣の野面積みは、加工されていない石を用いたもので、築城に際しては、近江の石工集団「穴太衆」が呼ばれたと。

                         遺構-石垣、曲輪、堀切、井戸


二の丸北東の谷地の周囲に石垣を積み上げて造られ、底には井戸が掘られている。この井戸は淀殿が化粧に使ったということから「淀殿化粧井戸」、
井戸曲輪がさざえのような石垣であることから「さざえの井戸」と呼ばれている。
井戸曲輪の石垣は関東大震災にも耐え、石垣山城の中でも当時の面影を残している。

1923年(大正12年)関東大震災で大部分の石垣が崩壊。
  

長期戦に備えた城構えで、小田原攻めの本営としてだけではなく、秀吉の威信を示すものだった.
    

  滞在100日の間、淀殿や千利休が呼ばれ茶会が催され、天皇の勅使を迎えたり、能役者や猿楽師も呼ばれたという。
    

小田原落城後、秀吉は家康の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げ、後北条氏の旧領、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部・常陸の一部の関八州へ移封した。
  

「豊臣秀吉」 1537-98 尾張国中村・木下藤吉郎、織田信長に従い近江国長浜を領す。明智光秀・柴田勝家を滅ぼし、徳川家康と戦い講和
島津氏を下し、小田原北条氏を滅ばし「天下統一」関白・豊臣姓を与えられた。
築城の材木を筏に組み川を下る・家康に妹、74才の実母を人質に送る・降伏した者は許している・晩年「秀頼」が生まれると後継者関白秀次を殺し
・五大老に「秀頼」を最後までお願いしている。最下層から天下人に。

「淀殿」近江小谷城主「浅井長政」の娘、幼名茶々、母信長の妹、お市の方。秀吉の側室、淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。ここ小田原に
諸大名の妻たちも呼んで、自ら「淀殿」呼び寄せている。大阪城落城と共に生涯を終えている。

「天利休」織田信長の茶頭の一人、朝廷から「利休」の名を授かる。小田原合戦に同行している。陣中で茶会をも催した。

            動員兵力北条氏政・氏直軍54000・秀吉軍21万~22万の大軍
    

「羽柴(豊臣)秀次」近江八幡43万石城主、小田原合戦では、先鋒として、山中城を攻め落とし、韮山城・小田原城包囲に加わる。後秀吉の養子に
なり関白に就任

「徳川家康」織田信長と同盟し、東海中部一帯勢力拡大、娘「督姫」北条氏直に嫁いでおり、氏直にも秀吉に従う事を進めている。小田原攻めが決まると
大軍を率い先鋒として出陣、酒匂川に陣をしいた。

「宇喜多秀家」岡山城主、秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし、両家と姻戚関係に50万石を治めた。北条氏房に酒と肴を贈っている。
氏房も伊豆の酒を返礼したとも。

相模湾水軍毛利・九鬼・長宗等と石垣山海から木村・長谷川・堀・池田・細川・宇喜多・羽柴・黒田・蒲生、、、。全戦後に豊臣秀吉
    

「伊達正宗」米沢城主伊達輝宗の子、小田原合戦に、則、参戦せず、遅れを責められ領地一部没収されている。家康に近ずき伊達62万石を
仙台城を築いている。

「堀秀政」信長の伊賀攻めで近江長浜城主となっている。秀吉紀州攻めで活躍で、越前・加賀18万石を、「北庄城」に入る。石垣山の前衛に陣。

山王川には、海側から羽柴秀長・榊原・大久保・奥平・酒井・織田信雄、、。その後に徳川家康が
    

次回は、早川へ。

箱根湯本と北条家の早雲寺

2015-04-21 | 気まま旅

小田原・箱根・伊豆方面は、数回掲載。(真鶴に出掛けることが多い)



県南西・箱根山を中心とする観光の町で、東西交通の難所、古代は「碓氷道」・中世は「湯坂道」・江戸に入り、小田原ー湯本ー須雲川に沿って
二子山(1065m)-南麓ー芦ノ湖ー箱根峠ー三島、(箱根八里)箱根宿・関所が開設した。
土産品の「挽き物細工・箱根細工」今に受け継がれている。
明治に入り湯本の塔の沢中心に開発され、1919年の大正8年登山鉄道(強羅)、昭和2に年小田急が開通(小田原)「箱根湯本・温泉観光地」として発展している。昭和20年以降は、小田急が湯本に乗り入れ、ロープウエイ・道路整備され町民の7割が観光・サービス業に従事していると云う。

                     箱根登山鉄道


「箱根湯本駅」下車。国道1号線歩道橋から。
箱根七湯の一つ。標高100メートル。古くから栄えた湯本温泉。

                     箱根湯本駅
    

「七湯」
・箱根湯本温泉
・塔之沢温泉ー箱根湯本温泉の奥にある温泉、 伊藤博文や天璋院ゆかりの温泉。
・宮ノ下温泉ー数々の著名人が宿泊した富士屋ホテルがあることで有名。
・堂ヶ島温泉ー早川渓谷へと下った谷底にある、夢窓疎石が開いたとされる温泉。現在ある2軒の宿が。
・底倉温泉ー宮ノ下温泉に近い。豊臣秀吉が掘らせたと言われる太閤石風呂がある。・木賀温泉ー箱根七湯の中で二番目に長い歴史を持つ。
・開湯ー平安時代末期~鎌倉時代初期。治承・寿永の乱の折、源頼朝が家人、木賀善治吉成が合戦の折負傷し、箱根の山中に分け入ると、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたという。その後その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後その地の地頭 の任に就いた吉成により地名が木賀とされ、木賀温泉となる。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後、白狐稲荷として奉られる。
戦国時代には宮城野湯の名前で史料に登場し当時この辺りを支配していた小田原北条氏の直轄する温泉場でもあった事が明らかになっている。
後、江戸時代には温泉奉行が置かれ、徳川家への献上湯となる。子宝の湯として広く知られるようになる。
・芦之湯温泉ー、国道1号最高所付近にあり、箱根七湯の中では最も標高が高い。

七湯以外では、湯の花温泉など更に高所にある温泉もある。開湯は鎌倉時代で、硫黄系の濁り湯としては珍しい泉質と云う。

          国道一号線                    早川
    
                      観光マップ立て看板


「箱根町立郷土資料館」-開館時間 午前9時から入館は午後4時まで、休館日は、 毎月最終月曜日(7・8月は無休)、入館料¥200。
箱根温泉が「七湯」であった江戸時代から、現在の「十七湯」となるまでの歴史と、湯治場から物見遊山と歴史。
からくり細工で遊ぶコーナーや、江戸時代の旅人がはいた“わらじ”のミニチュアが作れる体験コーナーがありと云う。

 崇元寺の正廟等建築物は先の大戦ですべて焼失、アーチ型石門 のみ戦後修復された。
    

「白山神社」
白山比大神・菊理媛命・ 伊奘諾命・ 伊奘冉命。
738年、白山の開祖泰澄の弟子「浄定」が白山比神社・の祭神を勧請し、十一面観音を刻んで修法を行うと、温泉が湧き出し、
その湯が当時蔓延していた疱瘡を治したという伝承が残された神社。
江戸時代までは白山権現と呼ばれ、温泉の守護神として崇められ、「新編相模国風土記稿」には
「白山社箱根湯本村及箱根茶屋村の鎮守なり。例祭は一月十九日、村持」とある。1848~1854年に、小田原北条氏の菩提所「早雲寺」の境内から現在地に移されたという。 
                         境内の狛犬は大正年間,珍しく耳がたっている。
    

伏見稲荷大社から勧請した稲荷社や水神社があり、手水舎には「白山水」と呼ばれる御神水が湧き出ている。

                       境内奥に大石がある
    

「早雲寺」山号ー金湯山、臨済宗大徳寺派
1521年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子「北条氏綱」が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建。
天正18年の1590年、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われたと云う。
北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の1627年、僧・菊径宗存により再建。
1648年、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。

                    庭園は、早雲の三男・「北条幻庵」作と云う。
    

「北条氏の歴史」
1519年の永正16年ー伊勢早雲、韮山城で没する。1521年、「伊勢氏綱」、伊勢早雲の遺言により早雲寺を創建。
1523年、氏綱、伊勢から北条に改姓する。
1538年の天文7年、北条氏綱・北条氏康、第一次国府台合戦で足利義明・里見義堯に勝利。1541年、北条氏綱、没する。北条氏康、3代当主。
1546年、氏康、河越夜戦で足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定に勝利。
1560年の永禄3年、氏康、家督を北条氏政に譲る。氏政、4代当主。1561年、北条氏政、上杉謙信の小田原攻めを退ける。
1564年、氏政、第二次国府台の戦いで里見義弘に勝利。
1569年、氏政、武田信玄の小田原攻めを退ける。 氏照・氏邦、退却する武田軍と三増峠で戦うが破れる。
1571年の元亀2年、北条氏康、没する。
1580年、氏政、家督を氏直に譲る。氏直、5代当主となる。

1590年の天正18年ー豊臣秀吉の小田原攻めにより、山中城(静岡県三島市)落城、鉢形城(埼玉県寄居町)開城、八王子城(東京都八王子市)落城、
韮山城開城。                    豊臣秀吉、石垣山一夜城(神奈川県小田原市)を築城し本陣とする。

小田原城開城。北条氏政・北条氏照、切腹。北条氏直、高野山に追放される。
1591年の天正19年ー北条氏直、没する。小田原北条氏は、終わる。

         本尊ー釈迦如来(坐像)・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊・文化財に早雲像。
    

北条(伊勢)早雲 1432-1519-初代、通称新九郎・今川氏から「興国寺城」を貰い、伊豆国乱入、大森氏の小田原城を奪う、三浦氏新井城を滅ぼす。
北条綱成 1515-87、重臣、今川氏家臣福島成正の子、「河越の夜戦・国府台(2次)戦で活躍・晩年上総入道道感と号した。73才で没する。
北条氏綱 1486-1541 二代目ー北条5代の基礎を築いた。鎌倉時代執権北条氏の改姓(伊勢ー北条)古河公方・足利晴氏に娘を嫁がせ、鶴岡八幡宮
           再建「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の長男、「日本三大夜戦」の一つ「河越の夜戦」で勝利し、関東覇権を決定的にした。「上杉謙信を頼りにするな」
北条氏政 1538-90 4代目氏康の長男、国府台で勝利、武蔵国制圧・秀吉上洛に応じなかった為降伏後切腹した。
北条氏直 1562-91 5代目氏政の長男、織田信長の重臣「滝川一益」を撃破して信濃国へ攻めている徳川家康と争い講和し娘「督姫」を娶る。
          「名胡桃城」を攻撃したために秀吉の怒りをかい小田原城征伐され降伏した。翌年秀吉に謁見、1万石を受け大坂に住んだが
          30歳で没した。
北条氏規 1545-1600 家康の竹馬の友、秀吉との和睦に尽力した。氏康の五男。氏直に秀吉に臣従すべきを説いたと云う。
          氏規は、兄氏政と氏照の介錯を命じられ、直後、自殺を計るが失敗し、高野山に幽居し、最後は河内国を貰っている。

    

県指定文化財に、「絹本著色北条氏康画像」がある。
室町期の肖像画。画面寸法は縦92.1cm、横61.2cm。中央には上畳に座した北条氏康の姿が描かれている。折烏帽子、白地に鶴亀模様の直垂姿で、腰には腰刀(こしがたな)、右手に金地に萩花の中啓を持った姿で描かれており、没後まもなく製作されたものと考えられている。

  

「馬車鉄道」
東海道本線が御殿場駅経由であった1888年の明治21年、国府津駅から小田原や箱根湯本への連絡を図る馬車鉄道として開業したのが始まり。
1900年、に電化され設備・車両ともに路面電車規格だがインターバン(都市間連絡電気鉄道)的性格を持つ路線として国府津駅前 - 小田原 - 箱根湯本間を接続し、旅客および貨物輸送を実施。
1919年の大正8年、登山電車が箱根湯本-強羅間に開通し、1921年、ケーブルカー下強羅-上強羅(現在の強羅 - 早雲山)間も開通、鉄軌道事業とともに小田原・平塚周辺全域で電力事業を実施して黄金期を迎えたと云う。

    

1920年(大正9年)鉄道省熱海線(丹那トンネルの開業後、東海道本線と改称)の開通により並行路線となるため補償を受け軌道線の国府津駅前-小田原間を廃止。
1923年、関東大震災で鉄軌道事業・電力事業とも甚大な被害を受け経営状態が悪化。
1928年、電力事業を取得する事を目的に日本電力に買収され、鉄軌道事業と分離されて箱根登山鉄道として再出発。

箱根の玄関口、いろいろな名産店や川に沿って宿が並び美術館・歴史資料館と湯治散策が楽しめる。

    

「早川・須雲川」二級水系
箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する川が本流の早川、沢と、芦ノ湖から流れる早川・須雲川などの支流から成る。
芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たし、早川・須雲川と合流する箱根湯本付近の峡谷がもっとも急峻になっている。
合流した後は、小田原市内の谷底平野を比較的緩い勾配で流下して相模湾に注ぐ。

                  水源ー外輪山・芦ノ湖、延長20.65km
    

次回は、石垣山一夜城へ。

岩槻城址と久伊豆神社

2015-04-19 | 気まま旅
千葉県野田から再び埼玉県幸手市で国道4号線・日光街道、杉戸町から春日部市に、ここは、「新田義貞」家臣春日部氏の地。
江戸時代は、日光街道粕壁宿の宿場と利根川の舟運と交通の中心であった。
1916年の大正5年「新方領耕地整備事業・約3000haを誇る全国一位田園地帯、このブログで数回取り上げている。

「曹洞宗ー不二山・浄春院」 春日部市
中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。
本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。
中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である
青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った
洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。

                  曹洞宗,山号ー不二山「浄春院」(春日部市)
    

春日部の隣「岩槻市」に、県東部・大宮市東隣に位置。市名は、太田道灌が築城した「岩槻城」に由来する。
江戸時代は、岩槻藩の城下町と日光御成道の宿場町であった。日光東照宮の造営・修築にかかわった「工匠」がたくさん住んでいた。
人形の岩槻人形の製造は全国的に知られている。他に、羽子板・桐たんす等も多い。
1981年江戸木目込み人形が「伝統的工芸品」に指定。

    

「岩槻城址公園」
約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所公園。
自然林に囲まれた 起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存しており、園内の菖蒲池には朱塗りの 八ツ橋がかけられており、公園の彩りがなお一層引き立ち、大きな池が中央にある。
四季を通じて数々の花が咲き、城の土塁・堀等、昔を偲ばせる公園。

                  江戸城・河越城・岩槻城築城した名将・太田道灌が築城
    

「室町時代」
足利・古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに
築かれたとされている。
しかし、1478年、の文明10年、古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料が発見。
近年は成田氏築城説が有力視される。
これに対して最近、成田氏築城説の根拠となった史料について、新たな解釈が示され、本史料で築城者「正等」の子としている「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾忠景の三男であり太田道真の養子になった人物とし、「正等」は、道真の法諱(仏法社会の本名)とみなす。
2014年の時点では太田氏築城説と成田氏築城説が並立している状態であると云う。

その後、永正7年の1509年、には、古河公方奉公衆である「渋江氏」が「岩槻城主」となったとみられている。

  

「江戸時代」
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の「高力清長」が2万石で岩槻城に。

以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城。
江戸中期に徳川家重の側用人「大岡忠光(大岡忠相の遠縁)」が入り、藩主が固定。
廃藩置県まで大岡氏の居城となった。
天守は無かったが天守代用の櫓として本丸に二層二階の瓦櫓があり、他に杮葺二層二階の二重櫓と同じく杮葺の一層一階の櫛形櫓が本丸に存在した。

「大岡 忠光」1709-1712
江戸時代中期の大名。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩主。
父、大岡忠利・母、前田定竪の娘(天野重忠の養女)・妻、大井政長の娘。

  

「久伊豆神社」
一説には約1,400年前欽明天皇の時代に土師氏が出雲から久伊豆明神(大己貴命)の分霊を勧進し岩槻に社殿を建立したのにはじまるとされている。
1457年、太田道灌が岩槻城を築城した際、久伊豆神社を岩槻城の鎮守としたと云う。
神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社で、祭神は大己貴命(大国主)である。
神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
加須市の玉敷神社は、かつて「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社とされている。

    

明治6年、村・郷社に。
県指定文化財・昭和37年指定岩槻城主阿部重次より奉納された江戸初期儀式用の鞍 。
    

境内には2本のモッコクの木が1つに結ばれた夫婦モッコクがあり、縁結びの木として知られている。
埼玉県のふるさとの森や自然百選にも選ばれた境内は、森林に囲まれた野鳥の宝庫でもあり、本殿奥には県の天然記念物に指定されている樹齢約300年の大榊もある。

     

「遷喬館」
儒学者「児玉南柯」が開いた私塾、後に藩校になった。県史跡に、(建物は探せなかった)

「児玉南柯」
1746-1830ー江戸時代後期の教育者、儒学者。岩槻藩士。岩槻藩大岡家に仕え、藩内 の教学などの発展に尽力した人物。

  

「時の鐘」
木造の鐘楼1671年岩槻藩主「阿部正春」がつくったと云う。
高さ151cm、口径78cm、現在も朝夕市内に鐘の音色が響くと云う。

「阿部正春」江戸中期・1637-1716
1637年、岩槻藩第2代藩主阿部重次の次男として生まれる。はじめ父の跡を受けて三浦姓を称した。
1651年に父・重次が江戸幕府の第3代将軍・徳川家光に殉じたため、兄の定高が家督を継ぎ、正春には大多喜新田藩1万6000石を分与される。
上総大多喜新田藩主、武蔵岩槻藩第4代藩主、上総大多喜藩主、三河刈谷藩初代藩主。
阿部家宗家4代で、備後福山藩阿部家分家初代.

    

今回で、埼玉の旅は終了します。