小田原・箱根・伊豆方面は、数回掲載。(真鶴に出掛けることが多い)
県南西・箱根山を中心とする観光の町で、東西交通の難所、古代は「碓氷道」・中世は「湯坂道」・江戸に入り、小田原ー湯本ー須雲川に沿って
二子山(1065m)-南麓ー芦ノ湖ー箱根峠ー三島、(箱根八里)箱根宿・関所が開設した。
土産品の「挽き物細工・箱根細工」今に受け継がれている。
明治に入り湯本の塔の沢中心に開発され、1919年の大正8年登山鉄道(強羅)、昭和2に年小田急が開通(小田原)「箱根湯本・温泉観光地」として発展している。昭和20年以降は、小田急が湯本に乗り入れ、ロープウエイ・道路整備され町民の7割が観光・サービス業に従事していると云う。
箱根登山鉄道
「箱根湯本駅」下車。国道1号線歩道橋から。
箱根七湯の一つ。標高100メートル。古くから栄えた湯本温泉。
箱根湯本駅
「七湯」
・箱根湯本温泉
・塔之沢温泉ー箱根湯本温泉の奥にある温泉、 伊藤博文や天璋院ゆかりの温泉。
・宮ノ下温泉ー数々の著名人が宿泊した富士屋ホテルがあることで有名。
・堂ヶ島温泉ー早川渓谷へと下った谷底にある、夢窓疎石が開いたとされる温泉。現在ある2軒の宿が。
・底倉温泉ー宮ノ下温泉に近い。豊臣秀吉が掘らせたと言われる太閤石風呂がある。・木賀温泉ー箱根七湯の中で二番目に長い歴史を持つ。
・開湯ー平安時代末期~鎌倉時代初期。治承・寿永の乱の折、源頼朝が家人、木賀善治吉成が合戦の折負傷し、箱根の山中に分け入ると、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたという。その後その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後その地の地頭 の任に就いた吉成により地名が木賀とされ、木賀温泉となる。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後、白狐稲荷として奉られる。
戦国時代には宮城野湯の名前で史料に登場し当時この辺りを支配していた小田原北条氏の直轄する温泉場でもあった事が明らかになっている。
後、江戸時代には温泉奉行が置かれ、徳川家への献上湯となる。子宝の湯として広く知られるようになる。
・芦之湯温泉ー、国道1号最高所付近にあり、箱根七湯の中では最も標高が高い。
七湯以外では、湯の花温泉など更に高所にある温泉もある。開湯は鎌倉時代で、硫黄系の濁り湯としては珍しい泉質と云う。
国道一号線 早川
観光マップ立て看板
「箱根町立郷土資料館」-開館時間 午前9時から入館は午後4時まで、休館日は、 毎月最終月曜日(7・8月は無休)、入館料¥200。
箱根温泉が「七湯」であった江戸時代から、現在の「十七湯」となるまでの歴史と、湯治場から物見遊山と歴史。
からくり細工で遊ぶコーナーや、江戸時代の旅人がはいた“わらじ”のミニチュアが作れる体験コーナーがありと云う。
崇元寺の正廟等建築物は先の大戦ですべて焼失、アーチ型石門 のみ戦後修復された。
「白山神社」
白山比大神・菊理媛命・ 伊奘諾命・ 伊奘冉命。
738年、白山の開祖泰澄の弟子「浄定」が白山比神社・の祭神を勧請し、十一面観音を刻んで修法を行うと、温泉が湧き出し、
その湯が当時蔓延していた疱瘡を治したという伝承が残された神社。
江戸時代までは白山権現と呼ばれ、温泉の守護神として崇められ、「新編相模国風土記稿」には
「白山社箱根湯本村及箱根茶屋村の鎮守なり。例祭は一月十九日、村持」とある。1848~1854年に、小田原北条氏の菩提所「早雲寺」の境内から現在地に移されたという。
境内の狛犬は大正年間,珍しく耳がたっている。
伏見稲荷大社から勧請した稲荷社や水神社があり、手水舎には「白山水」と呼ばれる御神水が湧き出ている。
境内奥に大石がある
「早雲寺」山号ー金湯山、臨済宗大徳寺派
1521年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子「北条氏綱」が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建。
天正18年の1590年、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われたと云う。
北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の1627年、僧・菊径宗存により再建。
1648年、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。
庭園は、早雲の三男・「北条幻庵」作と云う。
「北条氏の歴史」
1519年の永正16年ー伊勢早雲、韮山城で没する。1521年、「伊勢氏綱」、伊勢早雲の遺言により早雲寺を創建。
1523年、氏綱、伊勢から北条に改姓する。
1538年の天文7年、北条氏綱・北条氏康、第一次国府台合戦で足利義明・里見義堯に勝利。1541年、北条氏綱、没する。北条氏康、3代当主。
1546年、氏康、河越夜戦で足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定に勝利。
1560年の永禄3年、氏康、家督を北条氏政に譲る。氏政、4代当主。1561年、北条氏政、上杉謙信の小田原攻めを退ける。
1564年、氏政、第二次国府台の戦いで里見義弘に勝利。
1569年、氏政、武田信玄の小田原攻めを退ける。 氏照・氏邦、退却する武田軍と三増峠で戦うが破れる。
1571年の元亀2年、北条氏康、没する。
1580年、氏政、家督を氏直に譲る。氏直、5代当主となる。
1590年の天正18年ー豊臣秀吉の小田原攻めにより、山中城(静岡県三島市)落城、鉢形城(埼玉県寄居町)開城、八王子城(東京都八王子市)落城、
韮山城開城。 豊臣秀吉、石垣山一夜城(神奈川県小田原市)を築城し本陣とする。
小田原城開城。北条氏政・北条氏照、切腹。北条氏直、高野山に追放される。
1591年の天正19年ー北条氏直、没する。小田原北条氏は、終わる。
本尊ー釈迦如来(坐像)・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊・文化財に早雲像。
北条(伊勢)早雲 1432-1519-初代、通称新九郎・今川氏から「興国寺城」を貰い、伊豆国乱入、大森氏の小田原城を奪う、三浦氏新井城を滅ぼす。
北条綱成 1515-87、重臣、今川氏家臣福島成正の子、「河越の夜戦・国府台(2次)戦で活躍・晩年上総入道道感と号した。73才で没する。
北条氏綱 1486-1541 二代目ー北条5代の基礎を築いた。鎌倉時代執権北条氏の改姓(伊勢ー北条)古河公方・足利晴氏に娘を嫁がせ、鶴岡八幡宮
再建「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の長男、「日本三大夜戦」の一つ「河越の夜戦」で勝利し、関東覇権を決定的にした。「上杉謙信を頼りにするな」
北条氏政 1538-90 4代目氏康の長男、国府台で勝利、武蔵国制圧・秀吉上洛に応じなかった為降伏後切腹した。
北条氏直 1562-91 5代目氏政の長男、織田信長の重臣「滝川一益」を撃破して信濃国へ攻めている徳川家康と争い講和し娘「督姫」を娶る。
「名胡桃城」を攻撃したために秀吉の怒りをかい小田原城征伐され降伏した。翌年秀吉に謁見、1万石を受け大坂に住んだが
30歳で没した。
北条氏規 1545-1600 家康の竹馬の友、秀吉との和睦に尽力した。氏康の五男。氏直に秀吉に臣従すべきを説いたと云う。
氏規は、兄氏政と氏照の介錯を命じられ、直後、自殺を計るが失敗し、高野山に幽居し、最後は河内国を貰っている。
県指定文化財に、「絹本著色北条氏康画像」がある。
室町期の肖像画。画面寸法は縦92.1cm、横61.2cm。中央には上畳に座した北条氏康の姿が描かれている。折烏帽子、白地に鶴亀模様の直垂姿で、腰には腰刀(こしがたな)、右手に金地に萩花の中啓を持った姿で描かれており、没後まもなく製作されたものと考えられている。
「馬車鉄道」
東海道本線が御殿場駅経由であった1888年の明治21年、国府津駅から小田原や箱根湯本への連絡を図る馬車鉄道として開業したのが始まり。
1900年、に電化され設備・車両ともに路面電車規格だがインターバン(都市間連絡電気鉄道)的性格を持つ路線として国府津駅前 - 小田原 - 箱根湯本間を接続し、旅客および貨物輸送を実施。
1919年の大正8年、登山電車が箱根湯本-強羅間に開通し、1921年、ケーブルカー下強羅-上強羅(現在の強羅 - 早雲山)間も開通、鉄軌道事業とともに小田原・平塚周辺全域で電力事業を実施して黄金期を迎えたと云う。
1920年(大正9年)鉄道省熱海線(丹那トンネルの開業後、東海道本線と改称)の開通により並行路線となるため補償を受け軌道線の国府津駅前-小田原間を廃止。
1923年、関東大震災で鉄軌道事業・電力事業とも甚大な被害を受け経営状態が悪化。
1928年、電力事業を取得する事を目的に日本電力に買収され、鉄軌道事業と分離されて箱根登山鉄道として再出発。
箱根の玄関口、いろいろな名産店や川に沿って宿が並び美術館・歴史資料館と湯治散策が楽しめる。
「早川・須雲川」二級水系
箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する川が本流の早川、沢と、芦ノ湖から流れる早川・須雲川などの支流から成る。
芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たし、早川・須雲川と合流する箱根湯本付近の峡谷がもっとも急峻になっている。
合流した後は、小田原市内の谷底平野を比較的緩い勾配で流下して相模湾に注ぐ。
水源ー外輪山・芦ノ湖、延長20.65km
次回は、石垣山一夜城へ。