syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

甲州・上野原城と一里塚

2017-11-29 | 気まま旅
「上野原城」
甲斐国(上野原)に,あった城。
天守構造ーなし・築城主ー不明・築城年ー不明・廃城年ー天正10年の1582年。
上野原城は、武蔵七党の古郡氏が築いた城である。
横山忠重が康治年間、古郡郷の別当大夫となり、古郡姓を称し、建暦3年の1213年、古郡保忠の時に、和田合戦で敗れ滅亡した。

その後、武田信玄の時代には、都留郡上野原の国衆で、武田氏の家臣「加藤氏が入城」
1582年、の「武田勝頼」が織田信長に敗れ、天目山の戦いで窮地に陥った際には、「加藤信景」は、主君救援のため、駆けつけようとしたが、
武蔵国箱根ヶ崎(東京都瑞穂町)において相模国の「北条氏政」に敗れて滅亡した。
(現在、城跡遺構は、宅地開発や高速道路建設で消滅)

「一里塚」
旅行者の目印として大きな道路の側に1里毎に設置した塚。
江戸時代、塚の側に榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。(一里塚は中国にも存在する)



「諏訪番所跡」
上野原入口に。
           甲斐24関所の一つ  諏訪関跡


          「上野原宿」相模国から最初の宿場


「慈眼寺」 山号ー護国山・宗派ー曹洞宗
開基ー「桂岸祖仙首座」。
1602年、本山保福寺二世が退隠して当寺の開山・大正5年、倒壊し、大神田寅吉が昭和5年に独力にて、本堂を再建する。
昭和16年鐘楼堂および庫裏を再建して今日に。

梵鐘に「洪鐘之起其始、甲州都留郡上野原村現住十七世徹龍、時天保5(1834)年11月吉日とあり、鋳物師、新田村足立惣右衛門、加藤勘米兵衛、藤原高伴作」とあったが、戦時中供出して現在はない。



                         本堂




「愚痴聞地蔵尊」

「愚痴」は、貪(むさ)ぼり・怒りとともに 三毒の一つ。智慧が無く、愚かなことをいう。
心が煩悩に覆われ、一切の事に惑い、理に暗いこと、これが多いからこそ、生身の人間と言えるのではと、、、。



            よく聞こえるようにと大きな耳の地蔵さん


「疱瘡神社」(塚場一里塚)
世界保健機関が「疱瘡根絶計画」宣言が昭和55年に出され、長い歴史の中で多くの人々を苦しめた「疱瘡」は地球上から消えた。「感謝」である。
上野原から遥かな「福井県南越前町の湯尾峠に・孫嫡子神社」がある。
昔・昔4軒の茶屋が、湯尾峠に奈良時代「呪術者、役小角・疱瘡の関わり」醍醐天皇の疱瘡を直したとの伝説・陰陽師、阿部清明と疱瘡神との論争や術
比べなどの伝説が・・・「孫嫡子神社」は古くから疱瘡の神として信仰されていた。
「疱瘡の守り神」の札が茶屋で発行。
今から350年前、一人の御婆さんが、ここ上野原塚場で長い旅路で、倒れてしまいました。お婆さんは、疱瘡で苦しんでいる人々を救うため諸国巡礼
の旅の途中、孫嫡子神社の湯尾の里で生まれています。倒れたお婆さんを一生懸命介抱しましたが亡くなってしまいました。
介抱してくれた人たちに感謝し「どうか疱瘡の神を祀ってください、この地から疱瘡は守っています」その言葉に心を打ち、村人たちは工事を。
社殿の基礎を高く石を積み、村人総出で取り組みました・・・。

            平成23年、内部からたくさんの大石が発掘






          塚場一里塚ー日本橋から18里、疱瘡神社の右奥に塚が




中央本線

新宿~高尾ー相模湖ー「上野原」ー四方津ー梁川ー鳥沢ー猿橋ー大月ー初狩ー笹子・・・・。

宿場

内藤新宿~上野原ー鶴川ー野田尻ー犬目ー鳥沢ー猿橋ー大月ー花咲ー下初狩ー中初狩ー白野ー阿弥陀海道ー黒野田・・・・。

                   JR中央本線「上野原駅」




「与謝野鉄幹・晶子と上野原」

我が立つ瀬かの 白き水石原も 萩咲く みちもみな 桂川。

桂川 清き流れを針金の 引く船に居て 星のここちす。  (晶子)

上野原は、大正から昭和にかけて活躍した「与謝野晶子」が、夫の鉄幹と幾度と訪れ、与謝野晶子が晩年を過ごした。

上野原宿 甲州街道

2017-11-26 | 富士山麓日記

「矢坪坂」の古戦場
相模国の「北条氏綱」と甲斐国「小山田越中守」
上野原町指定文化財の「矢坪坂の古戦場跡」- 長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に、この矢坪と新田の間の坂を
「矢坪坂」と言い昔戦場となったところ。 享禄3の1530年、
相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪に進んだ。
一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が展開。同所一帯は南西に切り立った崖と北西に山腹を臨み道が入り組んでいる要害の地、戦いは多勢に無勢、ついにー小山田勢は敗退。
富士吉田方面に逃げた。
たまに矢じりなどが掘り出されることがあったという。
付近に五輪塔四基、宝篋印塔一基があるが、この戦の関係のものかどうか定かではないと云う。(上野原町教育委員会)
現在の中央高速の談合坂SAの近く。
中央高速道路建設で多くの史跡が破壊されたと云う。

日本橋から下諏訪までの街道「甲州街道」幕府が開設した5街道の一つ。

                      45宿のうち上野原宿は4宿


                   ー犬目宿・野田尻宿・鶴川宿・上野原宿ー


甲斐国最初の宿場が「上野原宿」

     旅籠数も多く活気のある宿場町・安藤広重は、織物が響く町と評している。


      葛飾北斎の「甲州犬目峠」の富士山で、犬目宿から。


    あきる野市方面は33号線  相模湖ー「上野原」ー大月ー甲府 20号線甲州街道


                  上野原は、日本橋から74km。


           織物街から今は酒まんじゅうの街に。


「牛倉神社」 旧郷社
鎮座地 上野原市内
御祭神ー保食神、須佐之男命、天児屋根命、武甕槌命、経津主命


天王森の愛称で崇敬され,甲斐国風土記残篇に都留郡の東、古郡幸燈明神とある。
永禄9年、加藤丹後守景忠が再営、後、慶長9年、元和8年、正保2年、寛文13年間に改築加修。
旧高二石一斗一升あったが明治4年上知、明治5年郷社に。
本殿拝殿の腐朽に困り、古昔の社殿を模擬して改築。
本殿、神明造、行二間一尺、梁、一間五尺、幣殿、八坪、拝殿、二十四坪、神楽殿、7、五坪、祖霊社(靖国社)三間社流造(通称、赤宮と呼び、約四百余年前改築の旧本殿)の建築様式は北都留郡で唯一のものである。

                          狛犬


祭神は農耕神・牛と呼ばれた神人。毎年9月上旬ー神輿・山車が。
                   
                          社殿              


武田軍が暖を取る為立ち寄ったとされる「諏訪神社」がある。

                      諏訪の街並み

                               


                   近くに中央高速道が。


                   旧甲州街道に碑が。


                    諏訪神社社殿


                      鳥居


                     農家の蔵


日蓮宗「船守寺」
水難交通守護と書かれた石碑が。
「日蓮大聖人伊豆御法難の危難を御救い申した船守弥三郎殿伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地 」 とあったが、 これは 「日蓮上人が弘長元年(1261)、鎌倉幕府により伊豆に流されたときに救った弥三郎夫婦が、 後日、日蓮より船守の御名を授けられた。 」 という故事によるもの。 
夫婦の出身地という縁から昭和30年に当地につくられた日蓮宗の寺。 



                      由来が


                       本殿


富士山麓 山荘の冬ごもり

2017-11-24 | 富士山麓日記
今年も山荘を閉める頃となりました。
ここは標高1000mの富士山麓、真冬は零下15度にもなる地なので12~3月までお休みします。
来年3月までお別れです。


別荘地内の道路はカラマツなどの落ち葉。



すべての樹木が茶色に変化しました。

屋根に積もった落ち葉をはきベランダの掃除もして冬ごもりの準備です。

最後に水抜きをして山を後にします。


みたまの湯
露天風呂からは、夜は煌く夜景。昼は北岳と八ヶ岳、そして秩父山系の山々がそびえるみはらしの丘。その眼下には甲府盆地の大パノラマが広がる天然温泉・みたまの湯。
太古の植物から溶けだした天然有機物を含む、透明感のある茶褐色の温泉は、八つの効能をもつ良質なアルカリ性単純温泉。
お食事、特産物のお買い物、小宴会もできる施設も充実してる。

温泉に入って今年の納とします。





真っ白に雪を冠った北岳が見えるレストランでランチ。



富士山も真っ白(11/15)

八ヶ岳と蓼科の紅葉

2017-11-21 | 気まま旅
山梨、長野にわたって連なる八ヶ岳。10月上旬~中旬には黄色や赤に色づき始め、絶好の紅葉スポット。八ヶ岳高原ラインに沿ってドライブで紅葉を楽し目ます。
今回11月6日懐かしい八ヶ岳高原ラインを走りました。


秋の紅葉は、山の頂から蓼科の麓に向けて進んで行きます。山頂付近の紅葉は9月から始まり、10月以降はピタラス周辺~蓼科湖へと下りていきます。そして11月に入ると、カラマツの紅葉がクライマックスを飾り、山全体が黄金色に輝きます。
毎年一度は秋の蓼科を訪れたい。




蓼科湖









奥蓼科の武田信玄の湯ロビー 

宿のご馳走

東山魁夷の御射鹿池 しばらくぶりに訪れたらあたらしく道路が出来、以前の寂しい湖ではなくなっていた。





帰路につきます。
 

甲州街道 上野原 月見寺

2017-11-20 | 富士山麓日記
「甲州街道」
江戸幕府によって整備された五街道の1つ。
5番目に完成した街道で、江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで「38」の宿場が置かれた。
近世初頭には「甲州海道」と呼称され、1716年、街道呼称整備で「甲州道中」に改められ、中馬による陸上運送が行われた。
江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。
多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更。
その後も古く狭い街道が多かった。
甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年・すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった街道。
近世には、諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。
そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。
これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。
参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩で、それ以外の藩は中山道を利用。
下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。
その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあったと云う。
「甲州道中分間延絵図・甲州道中図屏風」が知られ、宇治採茶使は甲州街道を利用したと云う。

主な宿場は、
内藤新宿ー高井戸ー布田ー府中ー日野ー八王子ー駒木野宿(八王子市)ー小仏宿(八王子市)ー小原宿(神奈川県相模原市緑区)ー与瀬宿(神奈川県相模原市緑区)ー吉野宿(神奈川県相模原市緑区)ー関野宿(神奈川県相模原市緑区)ー上野原宿(山梨県上野原市)ー鶴川宿(山梨県上野原市)ー 野田尻宿ー犬目宿野田尻宿(山梨県上野原市)ー犬目宿(山梨県上野原市)ー鳥沢宿(山梨県大月市)・・・・甲府~中山道へ。

「月が池湖公園」
上野原は、周囲にいくつもの河川に囲まれながら、小高い河岸段丘上にあったため農業用水の確保が困難だった。
北の秋川の方からトンネルとサイフォンをくり返し導水する計画で、大正時代に 工事完了した。「月見ヶ池」である。

全国ため池100選に、(県で唯一のキマダラルリツバメの生息地) 鯉、ふな、鴨が。


             湖畔に「月見寺」参道・桜並木が


                中央に弁天様が。


「上野原の大ケヤキ老木」
樹高 28m・目通り幹囲 8.6m・推定樹齢 800年以上・国指定天然記念物。










大ケヤキ老木のある上野小学校校庭から現在の街並み。


「保福寺・月見寺」ー1582年創建ー 
山門の両脇に「萬霊等」と「月見寺」と刻された二つの大きな石碑が.
保福寺は別名、月見寺と呼ばれ、中里介山の作品「大菩薩峠」の中で「甲州上野原の報(保)福寺、 これを月見寺と唱えるのは、月を見る趣が変わっているからです」と書かれたことに由来の古寺。
石碑に、「大菩薩峠」の作者である 中里介山の真筆を彫刻した石碑とある。山梨県では真筆の石碑は、月見寺と大菩薩峠の頂上に残っている。

                          石碑

                        
                          本堂(曹洞宗の寺)


武田家の重臣「加藤景忠(上野原城主)」が開基となり日州宗運和尚(甲斐の高僧、深向院4世)を招き開いたのが始まりとされ、織田信長と徳川家康連合軍による甲斐侵攻で武田勝頼が自刃すると、景忠は上野原城を捨て一族を引き連れ武蔵箱根ヶ崎まで落ち延びますがそこで北条方の軍勢と交戦し討死している。
保福寺は外護者を失い一時衰退し、江戸時代に入ると谷村藩主1.鳥居成次が庇護し、慶長6年の160年、には寺領4石8斗を寄進し、幕府も10石余の寺領を安堵している。
寺運も隆盛し境内には七堂伽藍が造営、1751年、火災で本堂や庫裏などと共に寺宝や記録も焼失した。
現在の本堂は、1756年、祝全和尚により再建されたもので寄棟、鉄板葺、平入、桁行11間、梁間8間、江戸時代中期の寺院本堂建築の遺構として貴重な存在と云う。
山門は向唐門、銅瓦棒葺、一間一戸、四脚門、承天禅師筆「安寧山」の扁額が掲げられている。
寺宝である応安6年の1373年、製作された「雲板」は銅製、縦44cm、横40cm、厚さ0.7cm、撞座直径9cm、大工金刺重弘作、雲板としては山梨県最古の貴重なもの。(山梨県指定文化財に指定)
境内には加藤景忠の供養塔や芭蕉句碑(父母のしきりにこひし雉子の聲)

       甲斐百八ヵ所霊場第21番札所。本尊:地蔵菩薩。


山門・鐘楼は、1865年、信州の工匠により再建。(江戸末期の豪壮華麗な様式を示す寺院建築物)


「中里 介山」 1885-1944。
本名は弥之助。羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい少年時代を送る。
小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員、キリスト教と社会主義の影響を受ける。
明治38年、白柳秀湖らと雑誌「火鞭」を創刊。
同誌に短編「笛吹川」を発表。翌年「都新聞」入社明治42年、同紙への連載小説「氷の花」をかわきりに「高野の義人」など数々の作品を掲載。
大正2年「大菩薩峠」の連載を「都新聞」で開始。本作はこの後、掲載紙を変えながら断続的に昭和16年まで書き継がれた。
未完に終わる。大正8年「都新聞」退社し、旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか「隣人之友」をはじめ各種雑誌の発行を手がける。
生涯を通じトルストイの影響を強く受けたといわれ、代表作には、聖徳太子に材をとった「夢殿」、法然上人を描いた「黒谷夜話」など。また晩年は自伝的文集「百姓弥之助の話」を残している。