syuの日記・気まま旅

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成田のうなぎと成田山新勝寺

2018-05-31 | 気まま旅

「成田屋市川團十郎と不動明王」
歌舞伎には「見得」という芸があり、役者の演技がピークに達したところで、顔の表情やポーズをそのままにして、しばらくのあいだ動かずにいることを「見得」という。「お不動さま」のゆるがぬ御心が歌舞伎にあらわれたのがこの「見得」。
二代目自作の歌舞伎「不動」の中で演じた「不動の見得」は、まさに見得の中の見得と云う。
二代目市川團十郎が演じた「不動」の舞台は、「不動の見得」という表現が有名であったと云う。
あまりの人気に「不動の見得」でにらまれると、あらゆる病が治ると噂され、江戸中に不動尊信仰を広めて行きます。
現代でも、「不動の見得」は、歌舞伎界で市川家にだけ許されたお家芸で、見得のかまえにはお不動さまの精神が宿っているといわれている。
市川家に伝わる「にらみ」は、邪を祓うお不動さまの御霊徳をあらわしたもので、「にらみ」の表情は、歴代團十郎によるお不動さまへの深い信仰の証。
弁慶の衣装には、「お不動さま」梵字がデザインされ、九代目團十郎が「勧進帳」に出てくる弁慶の衣装を梵字散らしの水衣に。
この衣装には、お不動さまをあらわす梵字が金糸で縫われていると云う。
「お不動さま」の化身としての「勧進帳の弁慶」 江戸期の歌舞伎舞台が一枚の絵で残って、その絵では、不動明王と弁慶が一体となり描かれていると云う。山伏の姿をした弁慶は、「お不動さま」の御姿であると古来より信仰され、歌舞伎の舞台に見られる多くの芸が、市川家の不動尊信仰から生まれていると云う。
                 JR成田駅ー総武本線・成田線(向かいに京成成田駅)


「京成電鉄」
創業者・「本多貞次郎」 1858-1937  藩士・次男として宇都宮に生まれ。
明治15年工部省に出仕し、神戸、名古屋等に東海道線鉄道工事の現場監督をし、のち官を辞して尾張炭鉱、日本鋳鉄、雨宮敬次郎の豆相人車鉄道等諸会社の創設につくす。(日暮里-成田空港間64.1kmが36分で結ばれる)
明治36年、東京市街鉄道会社の工務課長・42年、専務取締役、社長に就任し、北総鉄道、武州鉄道、渡良瀬水力電気、大同電気等各社の社長または取締役を兼任している。大正9年、衆議院議員に当選し以後引続き5回当選。昭和8年鉄道会議議長となる。大正14年、帝国鉄道協会理事・副会長を。
鉄道同志会、電気協会、電気倶楽部等の役員を勤め、昭和12、病気のため死去。 79歳。
鉄道大手14私鉄の成立史は、第2次世界大戦を間に挟みながら、合併と買収を繰り返した。



「芝山鉄道」私鉄京成成田駅ー成田空港間
成田空港が建設されることによって東西方向の交通が寸断され不便を被ることになる空港東側地域の住民や企業への補償として、国が、京成本線の(旧)成田空港駅(現在の京成東成田線の東成田駅)以遠を第三セクター方式で延伸する形で建設した鉄道。
昭和56年、に会社が設立・昭和63年、ー「芝鉄成田空港駅」ー「整備場前駅」が。

                     表参道 成田市上町と本町


                     参道を中心に多地図


                   「太鼓祭」 4月14日ー15日


                      成田山開基1080年祭


「三橋鷹女」 俳人、1899-1972  成田生まれ、

「あたたかい雨ですえんま蟋蟀です くちびるに夜霧を吸へりあまかりき この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 つはぶきはだんまりの花嫌ひな花 てのひらに蜂を歩ませ歓喜仏 ひるがほに電流かよひゐは...」
本名、たか子。旧号・東文恵、原石鼎、小野蕪子に師事。
戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。

                           三橋鷹女像


                       空港で国際色に、参道商店街


全国でも珍しく、周囲にはうなぎを焼く香ばしい香りが参道に、うなぎをさばく職人が一列になって作業が見られる。
ふっくらと柔らかく、焼き立てならではのおいしさをぜひ味わいで人気の「成田のうなぎ」。
印旛沼の漁場に恵まれ、江戸の昔より成田山の参詣客をうなぎ料理でもてなしてきたと云う伝統のある成田山参道沿い。
「秘伝のタレ」を代々受け継ぐ老舗の料理店が数多くありる。

                   店頭先でウナギをさばく職人さん達


「平 将門」 940頃 新皇と称した武将。
京で藤原忠平に仕え、無位無官で下総に帰郷・武蔵国と土豪争いに介入したのを契機に反乱を起こす。東国国司追放し、新皇と称した。
が、最後は、「藤原秀郷」に討たれる。ある地域では新皇と崇めている。京で晒された。

「成田山新勝寺」 真言宗智山派の大本山。

939年「平将門」の乱に際し、東国鎮護の霊場として「朱雀天皇」が創建した。

                        成田山金剛王院新勝寺(約55000H2)


東京深川へ出開帳と團十郎の不動明王によって、
                    江戸庶民の参詣が急増した。仁王門


                 今日でも年間1100万人の参詣者があると云う。                      


                         大提灯


                       池中央に亀石が


                       鐘楼・三重塔・雄飛の滝などが


                 大本堂  木造不動明王・二童子像安置 (昭和42年建立)


                      本堂裏に成田山公園が


                       本堂左奥に出世稲荷が


                         釈迦堂


「銘柄 長命泉」
                     滝沢本店 明治5年創業


「滝澤栄蔵氏」が、江戸時代末期に成田山参詣し宿でお不動様の夢を見て、「ここでお酒を造りなさい」とのお告げを受け、成田の発展性を見越し、当時御影石の大鳥居が立っていた現在地で酒店を開業し、近郷の良質米を原料として酒造りを始めました。
その後、間もなくして、当社酒蔵の井戸水が大変美味しく良い水であるとの評判が広まり、ご参詣の折に私どもに立ち寄り、井戸の水を汲んで帰られる方が増え、共にこの水のおかげで病気が治った、大変長生きした、百薬の長等のお話が各地から寄せられるようになる。
そこで、当社醸出の酒を「長命延命霊力」の酒、といった意味を込めて「長命」と名付けたのが始まりと云う。
以来、当蔵の井戸は、今でも、満々と水をたたえ、自らも長命霊力を与えられているかのように、涸れることがあいと云う。



                衆生の病気を治し安楽を与える仏・成田山薬師堂


世界の醸造酒で、アルコール20%も出すのは、「清酒」だけ。
その大きな理由は、並行発酵ー糖化(麹作用)と発酵(酵母作用)が並行して進み、アルコールが15%以上になると、酵母自身苦しくなります。
そこで、アルコールを緩和してやるものが必要となり、麹がその役割をします。
「麹菌」の中に「プロテオリピッド」と云う物質が含まれているので、これが「酵母」を守ります。
これが日本古来の醸造法でした。

「私からの提案」ー成田国際都市構想の一つにー大蒲焼定食1000円・山盛り鯰天ぷら定食1000円を県・企業・団体で「養殖開発」してください。
         環境に適してます。

銚子のイワシ漁 飯沼観音

2018-05-30 | 気まま旅

「親潮」-千島列島に沿って南下して日本の東まで達する寒流。
日本の南を流れる黒潮とともに日本近海にみられる代表的な海流・また、海流ではなく、北海道東方や釧路沖、三陸沖などに存在する低温・低塩分で溶存酸素量が多く、 栄養塩に富んだ水を親潮ということもある。
「親潮」の名は、栄養塩が多く、魚類や海藻類を養い育くむ親にあたることに由来すると言われ、 親潮は緑や茶色がかった色をしている。
北太平洋には北と南に大きな二つの循環があり、北側のものは親潮を含むもので、反時計回りに流れていて、亜寒帯循環と呼ばれている。
南側のものは黒潮を含むもので、おおむね北緯40度以南を時計回りに流れていて、亜熱帯循環と呼ばれている。
亜寒帯循環はベーリング海を出ると東カムチャッカ海流として千島列島沿いを南西に流れ、その一部はオホーツク海に入り、オホーツク海を循環してウルップ海峡などから再び太平洋に。
そのとき、千島列島沿いをそのまま南西に流れてきたものと、海水の交換・混合が起こり、親潮が生成されると云う。
「黒潮」-東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流。
日本近海を流れる代表的な暖流で、日本では日本海流とも呼ぶ。
貧栄養であるためプランクトンの生息数が少なく、透明度は高い。このため、海色は青黒色となり、これが黒潮の名前の由来、南極環流やメキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流。

銚子沖は、親潮と黒潮が交わる好漁場で、魚種漁獲高を誇っている。銚子の漁業は、紀州の漁民によって開発され、特に「イワシ漁」が盛んであった。
1658年外川漁港を築港している。
                            JR銚子駅


「銚子大橋」は、千葉県銚子市と茨城県神栖市間 (利根川)。
建設は、2005年 - 2013年で現在には橋は、2代目。形式ー斜張橋および箱桁橋 。

            全長ー1,209.1m・幅11.0m(2車線、歩道部を含む)






「銚子漁業」
元禄期前後に銚子の醤油産業が発展し、1658年には、「崎山次郎右衛門」が外川浦に漁港を開き、外川港の繁栄をもたらした。
利根川は、幾度もの改修工事を経て、1624~1643年、現在の流路に整えられ、江戸を洪水から救うとともに、江戸~銚子間の「利根水運」
が開かれ、東北地方の米などを江戸に運ぶ重要な中継港として発展してきた街。
江戸末期にはイワシの豊漁が続き、「大漁祭」が行われる。



「母子河童」
昔、大新海岸に母子河童が住んでいて、利根川の水運の繁盛と船や河岸で働く人たちを水難から守ってくれたと云う伝説が。

                   母子河童像 平成7年建立他ある。




「浜口吉兵衛」
ヒゲターの「ヤマサ印」・「亀甲萬印」と共に醤油界の地位を確立、
明治後期、中央財界・「矢野恒太」とともに「第一生命」を興し、銚子醤油、「現ヒゲタ醤油」、千葉県水産社長、武総銀行取締役、第一相互貯蓄銀行、
東京護謨工業、第一生命、豊国銀行、利根織物監査役等歴任。
1868年、紀州広村に生まれ、8代目「濱口吉右衛門」の四子。東京帝国大学卒業し、卒業後、兄の「9代目濱口吉右衛門」が、「政界・経済界」で活躍して多忙であった為、しばらくの間、兄を助けて「家業」に、明治25年、「濱口儀兵衛」と共に、海外視察。
儀兵衛から醤油醸造を学だと云う。
                          浜口吉兵衛像


                          水神宮神社


                         永照稲荷大明神


銚子は、日本一早い初日の出・犬吠埼灯台が関東最東端。1月上旬は、大漁を祈願して「乗り初め」。
2・11月には、春と秋「菅原大神」・奉納された約90個の子産石を抱く事ができる。(25日)。
大潮祭は、6月中旬、川口神社・渡海神社の神輿がねり歩く。
8月ー銚子港まつり・利根川河川の花火大会が。
10月「銚子農産・水産祭・11月「黒潮よさこい祭り」などのイベントが。

                      水を祀った神社が多い。     


                         魚の天日干し


                イワシの巻き網漁船、マグロ漁船の大型船が。    


                      魚種・漁獲高全国屈指の港


                      卸売市場 生鮪水揚げ入札風景                    


                     国道356・126号線銚子は交通の要


「飯沼観音」
大仏ー1711年、造立された「一丈七尺(約5.4メートル)の阿弥陀如来座像」
青銅製で、蓮座(ハスの花をかたどった台)には何万もの寄進者の名が刻まれている。膝のところにある数ヶ所の傷は第2次世界大戦時に受けた機銃掃射のあとと云う。
           坂東33観音霊場 第27番札所、本尊は、十一面観世音菩薩(秘仏)。


「ちょうしのかんのんさま」として、信仰と尊崇の念を集めている。毎月18日「縁日」

                          本堂


「五重塔」-平成21年完成
外観は、 木造、朱色塗装・ 屋根は、 銅本葺・薬師如来奉安。

                          総高ー33.55M


「飯沼水準原標石」-利根川や江戸川の河川整備に必要となる水位表記の基となった「水準原標」・保護コンクリート中央の13cm角が水準原標石
1872年、明治政府の招聘により来日した「ドールン」を代表とするオランダ人技師団の一人、「リンド」により設置。
水準測量(高さを測る測量)行う時の原点・利根川、江戸川の水準測量を開始するときにリンドは、
銚子市にある飯沼観音内に設置し、これを基準に飯沼水位尺(量水標)の基本水平面を「J.P」日本水位尺と名付け、ここから、利根川、江戸川の基本水平面の高さや荒川の基本水平面の高さが決まり、現在のそれらの河川における河川計画の基準高となっている。
明治政府は、利根川、江戸川、荒川や信濃川や淀川等の河川を治水(河川の氾濫から町を守ること)や利水(舟運のための運河の建設や農業・工業用水や上水の確保)等の河川改修のため、オランダ人技師を招いた。

                              碑

                              碑


「銚港神社」
飯沼観音に隣接する神社。
祭神ー 闇淤加美神・級津彦神・級津姫神。
創建は、不詳と云う。
古くは龍蔵権現と呼ばれ、神仏混交により円福寺(飯沼観音)とともに信仰されてきた神社で、神仏分離により、明治初期に「銚港神社」となった。

                          鳥居と神木


                       銚子市総社 銚港神社


                            狛犬


                            社殿


JR銚子駅北東約3kmの川口町に鎮座する「川口神社」-祭神 速秋津姫命は、利根川河口に臨む丘上にあり、銚子港へ入る船の目印と守り神。
特に、漁師の信仰を集めた神社。
「大漁節」に歌い込まれいる。伝説に延命姫の歯と櫛を埋めたと云う。

次回も、銚子市内。

市原 国分寺と「新皇塚古墳」など見どころ多い

2018-05-29 | 気まま旅

イチイが生い茂った原が転訛して「市原」、千葉県のほぼ中央部で東京湾岸の「工業・農業・住宅・・」・1963年市原・五井・姉ヶ崎・・合併し
「市原市」に、大部分が「上総丘陵」と北流する「養老川」、南部は丘陵地帯、中部に台地・縄文、弥生時代遺跡が多い所。
海岸低地は埋め立て地で「京葉工業地帯」。また、この地は、大化の改新後「上総国の中心地」、国衙が置かれ、奈良時代に上総国国分寺が建立されている。鎌倉時代は、神奈川県・三浦半島と結び交通の要地として栄えている。
江戸時代は、幕府直轄地で旗本知行地。明治に入り、海苔・貝など半農半漁となる。
丘陵部には、全国一位のゴルフ場が20ヶ所を超えてていたが、現在はわからない。

「聖武天皇」 701-756 仏教政治。45代天皇で文武天皇の皇子、嫡流・仏教南都6宗の学問を助成「天平文化」
国々に「国分寺」を創る。中央に東大寺を置いた。聖武系皇統は、その後途絶える。

「孝謙・称徳天皇」 718-770 仏教保護で国乱れる。
46・48代天皇、聖武務天皇の皇女「国分寺尼寺」を置いた。妖僧「弓削道鏡」を引き立て、藤原仲麻呂を除き、道鏡一派の思いのままの仏教保護が
なされたと云う。

「植木・イチイ」
耐陰性、耐寒性があり刈り込みにもよく耐えるため、日本では中部地方以北の地域で庭木や生垣に利用される。
東北北部と北海道ではサカキ、ヒサカキを産しなかったため、サカキ、ヒサカキの代わりに玉串など神事に用いられる。
また、神社の境内にも植えられる。





国分寺は,今から1250年ほど前の奈良時代中頃,国の平和と繁栄を祈るため,全国60か所余りに建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院。
 上総国分尼寺跡は上総国分寺跡から北東1.5kmの台地上に立地する。寺域は南北約372m,東西約285mの長方形。昭和43~45年の発掘調査で講堂,中門が確認された。史跡の整備が進められ,復元された中門,回廊が。

                            上総国分寺


          境内には「将門塔」と称される1372年、建立の宝篋印塔がある。指定文化財。


「新皇塚古墳」は、墳丘全長80m・一辺長40mで4世頃の古墳ー形は残っていない。「王賜」銘鉄剣の出土した「稲荷台1号墳」がある。



                           境内へ


「国分寺」
養老川北岸の台地上に所在し、北東方には国分尼寺跡が残るほか、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が多く確認・旧国分寺の跡地に重複して位置し、その法燈を受け継ぐといわれる。
旧国分寺は、1394年-1427年頃までの存続は確認され、その後は、荒廃。
寺伝では、元禄年間の1688年-1704年、に僧の「快応」によって再興・1716年、に現在の薬師堂が落成したと伝える。
後に、仁王門も設けられたとある。

薬師堂は、江戸時代の1716年に建立。
堂内の厨子に本尊が安置されている。門・薬師堂は、(市原市指定文化財)
金剛力士像は、それぞれ阿形は南北朝時代、吽形は江戸時代の作と云う。市指定文化財。



                           西門跡


                          寺内基石配置


                           仁王門




                            鐘楼


                         境内には巨老木が


                          銀杏の大木


                     国分寺薬師堂 江戸時代中旬に再建ー 市指定文化財


天平13年の741年頃。
寺域・南北約490m,東西325mで,長方形が重なった形をしている。
塔は七重で,高さは63m以上、大きな礎石が往時をしのばせる。

                      上総国分寺尼寺展示館


「金光明四天王護国の寺」
金光明最勝王経」を敬い、国土に続み広める王があれば、四天王が常に来て守護し、災いを除いて至福をもたらすと説いている。

上総国分寺の寺領は、北東と南西・谷・古墳を避けているために四角形では無く、南北478m・東西北辺で25m・中央345m・南辺299m
面積13.9万m2で武蔵国・下野国に次ぐ広さ。「七堂伽藍の広さー南北219m・東西194mが国定史跡」

    全国国分寺跡68ケ所ある。総国分寺・東大寺 総国分尼寺法華寺(奈良県にある)


千葉県には、安房、館山国分・下総、市川国分・(武蔵、国分寺・上野高崎・下野栃木・・)



寺内配置は、
北門ー政所院ー講堂ー経楼ー金堂(回廊)-中門ー南門ー東西南北の門ー築地塀



七重塔は、国分寺を象徴する最大の建築物とされた。
















「市原氏と古墳群」
養老川の右岸で,国分寺台古墳群や諏訪台古墳群,神門古墳群など数多くの古墳群があったが,宅地造成に伴って発掘調査され,保存古墳は公園として宅地のなかにわずかに点在するだけとなった。稲荷台1号墳は,「王賜」銘という銀象嵌の施された鉄剣が出土したことで一躍全国的に知られた。この古墳の主は,鉄剣の他に鉄鏃,短甲などが出土していることから,畿内と関係のある武人と考えられている。また,出現期の古墳として知られる神門古墳からは畿内,北陸,東海の様相をもった土器群が出土していて,この地域の豪族がそれらの地域と行き来していたことが分かる。
 奈良時代になると,この地域には場所は特定されていないが,国府が所在しており,上総国の中心であった。上総国分寺は礎石から当時の面影を知ることができる。
             国分僧寺、国分尼寺、総社などが集中している。(惣社地区)


葛西城址 鎌倉時代の青砥

2018-05-25 | syu散歩
「青砥藤綱」鎌倉北条氏の臣

出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。「弘長記」によれば伊豆の武士で「承久の乱」で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。
学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。

北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。

ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちは、その権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。
これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。

かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。
50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。
合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えたと云う。

次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。
藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。
なお、「太平記」では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。
「弘長記」では評定衆に任じた、ともある。
藤綱は、その抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
この時、藤綱は28歳であったという。



千葉一族の「葛西氏」
下総国葛西御厨の庄官だった桓武平氏流葛西氏は、秩父氏の一族である。
その遠祖・ 葛西三郎清重は源頼朝に挙兵から従い、数々の軍功を挙げて、頼朝の大きな信頼を得た人物である。
鎌倉時代においては、下総国一ノ宮である「香取神宮」の式年遷宮の造営役を千葉氏と交代で執り行うほどの力を持つ。
しかし、鎌倉時代中期にはその基盤を陸奥国に移し、下総国からは姿を消した。
代わって陸奥国では大きな勢力を持ち、陸奥葛西氏として繁栄を極めている。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに従わず、滅亡したと伝わる。









































これで都内は終わります。次回は、千葉県へ。

向島芸者、隅田川のレガッタ、長明寺の桜餅

2018-05-21 | syu散歩

ボートの歴は古いが、
レガッタは、明治8年の1875年、 英国人指導者、F.W.ストレンジ氏が来日し、10年に氏が大学予備門(東京大の前身の一つ)の教員となり、 隅田川で学生に漕艇を教え始める。
大学南校(東京大の前身の一つ)と東京外国語学校がボートを購入、大阪・堂島川で第三高等中学校(京都大の前身の一つ)の学生たちが漕艇を始める
琵琶湖で同志社英学校(同志社大の前身)の学生たちも続いた。
14年、 隅田川で郵便汽船三菱会社(日本郵船の前身の一つ)の社員が漕艇を始め、15年に、 体操伝習所(筑波大の前身の一つ)が東京石川島造船所(IHIの前身)でボートを建造し、G.A.リーランド博士の指導に基づき教科の一つに漕艇を加えた。
16年の1883年、 東京大に日本初の運動部「大学走舸組競漕会が発足、 隅田川で東京大と体操伝習所が対校戦を開催された。(日本初の対抗戦)
札幌農学校(北海道大の前身の一つ)で教科の一つとして漕艇を採用、 東京大が隅田川での学内レガッタに第一高等学校(東京大の前身の一つ)、
高等商業学校(一橋大の前身)、高等師範学校(筑波大の前身)をそれぞれ招待。 「東商レガッタ」の源流となる。
日本郵船、三菱合資会社、三井物産、日本鉄道(JR東日本の源流の一つ)が対抗戦を開催。 日本初の企業対抗レガッタ
22年、 行政が大日本連合競漕会を発足し、琵琶湖で「琵琶湖連合大競漕会」を開催、第二高等学校(東北大の前身の一つ)、第四高等学校(金沢大の前身の一つ)、 第五高等学校(熊本大の前身の一つ)にそれぞれ端艇部が発足 した。
1898年、 高等商業学校(一橋大の前身)が向島から利根川河口までを漕ぐ「銚子遠漕」を開始 、
33年に レガッタの様子をうたった「瀧廉太郎」の楽曲「花(春のうららの 隅田川)」が発表される。

                        墨堤 「見番」


向島芸者
明治期に料理屋が置かれ、花街に、最盛期には待合、料理屋が100軒から200軒、芸妓は1000名以上あり各検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)に
中でも洋装のダンス芸妓が人気を集めたと云う。
その近くには「玉の井」という私娼のいた銘酒店街(飲み屋を装って売春をする店が立ち並ぶ場所で、非公認の遊廓)が存在した。
関東大震災、第二次世界大戦の危機を乗り越えてきたが昭和後期に入り料亭、芸妓数の減少が続き、2009年現在で、料亭18軒、芸妓120名と云う。
戦前には複数あった見番が、いまは、「向嶋墨堤組合」に統合され、芸妓の技芸向上や後進の育成を図っていると云う。

「永井荷風・向島」
・・・・河水も明治大正の頃には 奇麗であった。 その頃、 両国の 川下には 葭簀張の 水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには 柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり 賑かなものであった。
思い返すと四、五十年もむかしの事で・・・・・・。

                       気風の良い、向島芸者


「弘福寺」 黄檗宗の寺 山号 牛頭山。

江戸初期1673年、鉄牛禅師創建、中国明様式の特有の唐風、風邪除け・咳の爺婆尊で知られている。

                   隅田七福神ー布袋


                本堂は昭和8年 本尊ー釈迦如来


                     隅田公園少年野球場


「王 貞治」 1940年、墨田区本所生まれ、少年時代ここで過ごしている。
プロ野球で巨人のV9の貢献者、通算本塁打868本を記録している。福岡ソフトバンク監督から名球会顧問など。

                        球場


                      言問団子の店舗


                  隅田川レガッタ 大正時代


                明治16年、日本初のレガッタの写真


            桜の葉を塩漬けにした団子 「長命寺の桜餅の」店舗


「長命寺」 天台宗 山号ー宝寿山

 創建は不詳、3代将軍「徳川家光」鷹狩りで腹痛を起こし、長命寺に駆け込み「般若水」で薬を服用したところ快癒した。


その水を「長命水」となづけられたと云う。


松尾芭蕉・蜀山人・十返舎一九・・狂歌碑等の石碑が60あると云う。








出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)関東地方の講の碑が。




「いざさらば 雪見にころぶ ところまで」句碑   松尾芭蕉 雪景色の名所。


                      隅田七福神の一つ


向島は、終わります。