syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

ここは、何所でしょうか?(しばらく休載します)

2019-04-27 | 季節だより
「山」に入ります。

「私鉄・京王電鉄」 開業1913年 37.9km 32駅。

京王線は、甲州街道の府中(武蔵国の国府所在地)や金剛寺(高幡不動尊)の門前など、古代からある町を通り、沿線には一定の交通需要があったが、競合する国鉄・中央本線(国電中央線快速区間)や関東の他の大手民鉄と比較すると、輸送力の増強は遅れたようだ。
しかし、第二次世界大戦後に、都の多摩地域では人口が急増し、京王グループ自体も京王不動産による住宅開発を含めて行ったことで、京王線の乗車人員は、年々激増した。
1968年、運輸省の都市交通政策審議会が答申第10号で「芦花公園」から新宿・市ヶ谷を経由して住吉町に至る「東京10号線」計画を示し、同年中の建設省告示で西側の出発地が調布、1975年の同審議会第15号答申では橋本へと延伸されて、京王線は京王新線・都営新宿線・相模原線の各線と一体での輸送力強化が図られた。
1971年からは多摩ニュータウンへの入居が開始され、当初は聖蹟桜ヶ丘駅で京王電鉄バスとの接続、1974年の相模原線京王多摩川 - 京王多摩センター間延伸開業後は新宿 - 調布間での直通電車運転により、ニュータウン住民の主要通勤路として京王線が相模原線と共に利用。
京王帝都電鉄(1998年に京王電鉄へ改称)は1963年に特急運転開始、1970年に全線複線化を行った。
さらに、上記の新宿地区で行った専用軌道化・地下化や京王新線の建設以外でも、各駅ホームの延長や京王八王子駅の地下化、調布駅周辺での地下化と相模原線との平面交差解消など、列車の増発や長編成化を実現するための設備投資を続け、輸送力の増強を進め発展している。


                       





































































































思い出の不忍池 2019年3月中旬撮影

2019-04-22 | 季節だより

昭和13年生まれの私の自分史、幼少の頃を一部抜粋.
「昭和20年、終戦時の上野」
昭和16年10月ー東条英機陸軍大将内閣成立・翌年17年に、ミッドウエー海戦・ガダルカナル島・アッツ島・学徒出陣(学徒7万人)
その12月学童縁故疎開が始まった。


父のみを東京に残し、我々子供たちは、埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開したのである。

東京で、生まれ、生活していた子供にとっては。それはそれは辛い生活だった。

両親は東京で、寂しさと寒さとひもじさ秩父であった。
弟は、小児喘息で苦しんだ。4人兄弟は、思いもかけない、辛い毎日の縁故疎開生活であったが、国民学校1年生に入学し終戦を迎えた。
当時学校には、宿舎の駐留していた兵隊さん達も一緒の教室を使っていた。
昭和20年8月15日から数日後・東京へ帰るこに、子供心に、何となく罪深いことだと思っていたのを思い出す。
私は、母親と共に帰京することが出来た。

・・・荒廃した東京は、表現できない、ピカドン・大型爆弾・原子爆弾の話などを聞き、憎きアメリカと思った。
上野駅に着いたのは、夕方。駅前は人、人で溢れ、西郷さんの銅像、ガード下、にゲートルを巻いた日本兵の引揚者、浮浪児、乞食であふれ、焦げ臭さと、悪臭で一杯であった。
足から蛆虫が這い出している乞食の親子、呼吸をしているのかしていないのか判らない赤ちゃんは、泣く事も出来ない、
スリをしたと大男に咎められている少年、同年位の浮浪児がタバコをふかしている姿、上野は、地獄と化した無法地帯の上野。
Sは、母に「あの子供達助けてやれないの」と聞いた。
母は、「かわいそうね、でも今は何もしてあげる事が出来ないのよ、さあ、早く危険だからゆきましょう」とだけ言ったが少し不満だった。
特にゲートルを巻いた尊敬した元日本帰還兵の姿に目を疑った。
当時の大人達は、皆、殺気立っていた。
世界を相手に、国民一致団結して戦ってきた日本が、敗戦を期に、人を人と思わない弱肉強食の汚れた醜い世界、まるで獣の世界のように東京は一変してしまったのだ。
隅田川に向かい、今でも黙とうを続けている。
特に昭和20年3月の東京大空襲で一夜のうちに10万人もの人が死んでいる。
多くの人々は、猛火に追われ、追い詰めれて隅田川に飛び込み亡くなられた。
その時の、苦しさによる悲鳴が遠く10KM離れた大森海岸まで聞こえてきたという。
隅田川には、男子は下向きに、女子は上向きに列を作りながら死体が東京湾方面に
流れ出していたと云う。
当時の世相を見ると、終戦の8月末、マッカーサーが上陸して、9月2日ミズーリ―艦上で降伏文書調印され、
国民は、占領軍を迎える不安、
東久邇皇族内閣の一億総ざんげを訴え無政府状態、今までの日本伝統体制はどんどん崩れ、
戦犯容疑者が続々逮捕されていった不安、
食べる物がなく、職もなく、野宿を求め全国から人人が続々東京に集まってきた。さらに疲れ切った引揚兵も次から次に東京を目指して集まった。
東京に行けば何とかなるという人々の町となり、特に上野・新宿では、戦場で傷を負い、白い病衣の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな軍歌等の曲を奏でていた。
目が見えず、片腕、片足がない人、道行く人々に頭を下げ、胸に下げた箱の中にわずかな同情の寄付を集めているのだ、彼らは、時には電車の中にも現れ誇りを失い、みじめさ、みすぼらしい姿・彼らが本当に勇敢な日本兵だったのかと子供ながら信じがたかった。
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命の時と声高高に活動しだしたのである。
かっての静かで落ち着いた東京は、もう永久に戻らない寂しさを少年ながら思った。
               
                   下町風俗資料館 有料


                       不忍池・弁天堂
その頃不忍池でザリガニをとって友達と食べたことがあった。皆腹痛下痢で大騒ぎした。現在では考えられないような子供たちの毎日であった。




          弁天堂参道橋・幼少の頃ここで、ヨツデでザリガニをバケツ一杯に


思い出す「母」
桜木町と違い2階建ての古い暗い家で、
二階は、根岸芸者の置屋として使われていたので、2階の使える部屋は、たった8畳の一部屋。

今までわが家は、それほど貧乏だと思って居なかったが、根岸町の借家に入り子供心にわが家も経済的に
大変なのだと思うようになった。
歌舞伎好きの両親に連れられて銀座に出掛け食事やデパート、芝居を見ると云う戦前の千鳥町が思い出された。
それが終戦と同時に借家から借家の生活であった、ろくに食べる物もなく、毎日毎日ひもじい生活が続いた。
母は、自分は食べたふりをして食べ盛りの我々、子供に,弱音は吐いたことがない強い母、弱虫を嫌った明治生まれの母。
また疎開先まで持って行った僅かな着物などを食料に換え、金目の物はみるみるなくなっていった。
母は、他人には優しかった、家がどんなに困っていようと、他人が困っている様子を見ると黙っていられない性格であった。

父のお客が来れば、できる限り接待をし、同居をしていた従兄弟が友達を大勢連れて来た時などでも、
なけなしの食料をいろいろ工夫し、食べ盛りの彼らにご馳走をしていた。
我々子供には、「これから日本の為に頑張る人たちなんだから我慢しなさい」という母だった。

数年後彼らは中には、東大の教授、船舶の会社社長、医師等に。
母は、中学の兄を東大にと期待していたようだ。
長女の姉にも、厳しく家庭科の宿題は母がやり、その代り英語の単語を覚えるようにと云う教育熱心な母であった。

父は、コンデンサーの電気関係の会社経営していたが、下町にあった工場が台風で大損失を。
倒産寸前で、父は、心も荒れていた。
こんな時代でも酒好きで、家では毎日晩酌を欠かさず、酒の度が過ぎると、
急にちゃぶ台をひっくり返すといった気の小さい短気な所もあり、家じゅう大変な騒ぎになることもあった。

父、子供達は全て母一人の背に掛かっていたのである。
小学二年の冬、雪の降る寒い日、私か高熱を出し学校を3日休んだことがあった、その時母は、一生懸命看病し、
父でも滅多に口にしない鯛の煮つけを特別に食べさせてくれた。
母は、「みんなに内緒よ」と云いながら御粥と一緒に口まで運んでくれた、その時母の子でよかったと嬉し泣きをしたことを覚えている。

小学三年に入り、隣町の上根岸に家を新築し、再び自分たちだけの家が建った。家が持てたのだ、家族全員大喜びした、
母は、父の収入の中やりくりで資金を蓄えていた。
姉、兄の月謝だけでも大変だろうに、父は「収入は増していない中良く蓄えたと感心していた。

母は、洋裁が好きでミシンを良く踏んでいた、われわれの衣服は母の手作りで、子供たちの前では、
愚痴と不満を口にしたことは無い。
子供に対ししつけは厳しく、母に、あざになるほどつねられ、痛かったことを思い出す。
我が家もやっと落ち着き、一家水入らずの平和な日々が続いていたが、
母は家の新築、引っ越し、買いだし、家計のやり繰りなど疲れが一気に出たのか体調を崩してしまった。

母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、東大に入院した時には重症であった。
即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、家族のショックは大きかった。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。姉は、そんな母を見て我々に「若い時の美しかった昔のようだ」と云った。

叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。
昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。
旗本の衿持を失わず毅然と生きた。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。

                     昭和通り 至日本橋


                         アメ横


                         焼き鳥屋


                       ガード下商店街


                         SALEの札




当時の給食は、ララ寄贈食料品によるもので、ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチューなどでした。

昭和24年 ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始されました。

昭和25年 8大都市の小学校児童に対して、初めて完全給食が実施。

昭和27年 完全給食が全国すべての小学校を対象に実施され,当時の代表的な献立としては、
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げなど。

父の会社も台風で倒産。、家庭は、高校1年の姉に全てが移り、母親代わりを務め,他は男の世界、姉は通学時間を惜しみ近くの都立T高校に転校している。多少やけ気味の父の晩酌は、毎夜続き、暴力は以前より増していった。子供の時は、あの様な父になりたくない、たくましい父を望んだ。
5つ違いの兄は中学生になっていたので自分の事は自分でできたが、私と5歳下の弟は、まだ母親を必要としていた。

父は昭和24年岡山県の女性と再婚した。そして翌年弟が生まれた。
父と義母と赤んぼの三人家族となり、Sと5歳の弟は、仲間はずれとなり、あらゆる場面で悲しい生活が始まる。

一番困ったのは弁当であった。
まだこの時代、弁当を持って来られない子、主食がさつまいもだけの子、外米だけの子ーたまに石が混じりぼそぼそしている。
S家は、そのぼそぼその外米と梅干しのみ、または佃煮の「あみ」だけがのせてある日もあった。
裕福な子供は、白い米に卵焼き、海苔、など自慢し見せて回るのだ、だがクラスの半分は、弁当箱を隠し食べる子が多かった。
運動会や遠足などお弁当のある日は悲しい思い出しかない。今スーパーのお弁当でさえ嬉しく感じるSである。
小学校も高学年となり学校給食が始まり、弁当が要らなくなった。

学校全体が同じ食事の給食となったのである。


上野公園、桜はまだ 2019年3月中旬撮影

2019-04-19 | 季節だより

「諡号慈眼大師・天海」 1643年、 天台宗の僧・東叡山寛永寺創建.


比叡山・三井寺で修行・江戸崎不動院、仙波喜多院に住むが、徳川家康に召されて幕閣の一員となった。幕命で、比叡山復興させ、家康の葬儀を司る。江戸上野に東叡山寛永寺を建て「徳川家の廟所」とし、徳川家康側近中の側近と云われた。
天海の進言はほぼ採用されたと云う。家康は「天海は、生きた仏である。出会いが遅く残念である・・・」と悔やんだと云う。「家康死の6年前」
家康神号「金地院崇伝」で争い勝っている。それで「日光山再建し、改葬している。
天海は、36歳の時に「武田信玄」に甲斐国に招かれ、天台論議法要の講師を務めている。
天海の死因は、病死、享年108歳だったとも言われる。
三代将軍、家光においては、家康と天海が年が近かったため天海が家康と重なり、家光の天海に対する崇敬ぶりはすさまじかったと云う。
川越仙波喜多院には、江戸城にあった家光誕生の間と春日局化粧の間を移築するほどでらる。
川越・日光は、観光地に。

                   寛永寺子院 「大黒天 護国院」


護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創。1653年、1680年、に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年の1709年、現在地に移った。
移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうもの。
昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移し、 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、1722年、の再建。間口7間(18.2m)、奥行5間(13.6m)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置・大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。

平成13年国登録有形文化財に指定された建築物。
設計の 岡田氏は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山市郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物で知られている。

                    大黒天画像 谷中七福神


             舞殿  上野・王子・駒込33ケ所観音霊場 14番札所


                      護国院  本堂


「国立 東京芸大」



                      煉瓦造りの校舎



                     東京芸大 奏楽堂 (重文ー滝廉太郎等が学んだ)



                   京成電鉄、旧上野動物園前駅廃舎跡


                           寒緋桜


   大噴水ー都美術館・池田屋敷表門・宝物館・国立博物館・科学博物館・西洋博物館・日本学士院・文化会館等。


                     野口英雄像 科学博物館前


                        動物園と東照宮

                    


                         東京大仏の頭部


                         五条天神


                          清水堂  彰義隊士の墓、西郷像へ


                         上野公園桜並木通り


次回、不忍池からアメ横通りへ

日暮れの里・日暮里  2019年(31年)3月中旬撮影

2019-04-17 | 季節だより

「大田道灌」 1432-86 江戸城築城、主君に謀殺された名将。
武将太田資清の子・上杉(扇谷)定正の執事を務め、上杉の勢力拡大の為に尽力し、天下にその名を轟かせた。主君謹言を信じ謀殺。
道灌死の目前「当方滅亡」と叫んだと云う。その通りに。

日暮れの里・日暮里ー駅を出ると御殿坂、右に月見寺の本行寺と経王寺(寛永寺から逃げ込んだ彰義隊が戦った鉄砲弾の穴が山門に残っている)
その先が、観光になった「夕焼け段々ー谷中ぎんざ」へ。
月見寺の本行寺に   「陽炎や 道灌どのの 物見塚」 一茶の句碑が残っていると云う。
JR西日暮里駅を出ると「道灌山」があり、右手に私立開成高校・左に「道灌山、諏訪台」(北側に小山のように突き出ている)
ここは、古くから虫聴きの名所として知られ、大田道灌が、この丘に砦を築いたとする説がある。
立地的に道灌は、日暮里に「城」を造りたかったと推測する。いろいろの諸説が残っている。


                JR日暮里駅と私鉄京成・舎人ライナー


「御殿坂」 谷中に向かう坂
西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。
江戸時代から用いられていた呼称で、当時の絵図などから,天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていた。
天保九年の1838年、「妙めお(みょうみょう)奇談」は,
寛永の1624~44年の頃,白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが,
(坂名の由来は明確ではない) 荒川区教育委員会

 俗に「御隠殿」と呼ばれる輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれるが,根拠は定かではない。(標識より)


「幸田露伴」 1867-1947 随筆・小説家 本名成行 下谷生まれ。
明治維新で没落、中学半ばでやめ電信技師・北海道へ。帰郷し文学へ、1889年「風流仏」で文壇に認められる。「五重塔」など男性的理想主義的ロマンチシズムに溢れた特異的作風で次々発表・尾崎紅葉と文壇二分する。
「頼朝・運命・芭蕉・・」多数残している。1937年第一回文化勲章に。

                        谷中で、天王寺五重塔を


                     桐生悠々・小泉八雲などと同年代



2001年(平成13年)に彫塑館の建物4棟(アトリエ棟、旧アトリエ、住居、東屋)が国の登録有形文化財に登録・2008年に中庭と屋上庭園が
「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定された。有料

                      朝倉文夫宅裏玄関


「田河水泡」本名・高見澤仲太郎    1899-1989
幼少期から青年期までを江東区で過ごしている。昭和6年の1931年、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家に。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していく・・・・・。




「天王寺五重塔」が、

                        今は、小公園に。








寛永寺と天王寺の寺領であったが、明治4年に東京都が管理に。
園内には、渋沢栄一・横山大観・長谷川一夫などの知名人の墓がある。中央に、名所の桜並木がある。

                         天王寺前の桜並木(五重塔が無いのが寂しい)



                    高橋お伝・おぺっけぺ~の川上音二郎の墓が


「徳川慶喜」 1837-1913 15代将軍・徳川幕府幕引き。(水戸藩斉昭の七男・一橋家相続、家茂補佐)。
慶応3年大政奉還で徳川幕府終幕を引いた。晩年は、静岡に。長州木戸孝允は、家康再生を見るようだ・・と。

                     慶喜のみ谷中墓地に





                    谷中の巨木 ヒマラヤ杉


                        鉢植え時


                川端康成も眺めていたであろう 谷中ヒマラヤスギ


「紅葉坂」 日暮里駅南口から谷中に。
周辺の紅葉が美しかったので、紅葉坂と命名・別名「幸庵坂」ともいった。
江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」
天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む。と記している。「幸庵坂」の名は江戸時代すでにあった。
金杉日記から、江戸時代に命名された坂で、歴史を感じる。
が、江戸切絵図(尾張屋清七板)を見ると、天王寺の東側に道筋があり、これらのどれかがこの坂に相当か、
「紅葉坂」とつけられた時期は、明治以降と思われる。
紅葉坂上 紅葉坂上 紅葉坂上 紅葉坂上 坂上を右折すると、寺の塀を左に見ながら緩やかな上りとなって、谷中墓地の方に続いている。
明治11年の実測東京全図を見ると、興味深いことに、天王寺の北端近くの崖地に道があり、南北へ延びる道に接続している。この坂かも?。

                         紅葉坂


                         説明が


「天王寺」
1700年の元禄13年、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった寺「天王寺」。
1728年、幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年の天保13年、禁令が出されるまで続けられたと云う。
1274年の文永11年、長耀山感応寺が開山・1621年、日蓮宗9世・日長が入寺・1643年の寛永20年に梵鐘を鋳造。
1644年の寛永21年、「谷中五重塔を建立。
1698年、天台宗に改宗し天台宗1世「慶運大僧正が入寺、毘沙門天像を本尊とした。1700年(元禄13年)富くじ興行が幕府に許可される。

1772年に、明和の大火により、五重塔を焼失・1791年の寛政3年、五重塔を近江出身で湯島の大工「八田清兵衛」が再建する。
1842年の天保13年、天保の改革により、富くじ興行が禁止される。
1868年の慶応4年、彰義隊の兵火により、本坊、五重塔以外焼失した。

                          天王寺正面


                           入口に石仏


                            本堂


「谷中」は、江戸時代以前からある。
上野台と本郷台の谷間にいちしていることにちなみ、下谷に対してつけられた。江戸時代に入り、都市計画で、多くの寺院が集められて門前町として発展
してきた。また、この地域は、日暮里の荒川区と桜木町の台東区が細い道を挟んでの区域。

                        下町の長屋住宅が


「谷中・一乗寺」 日蓮宗・千葉県茂原妙光寺17世「日僚」が1617年に創建。

「太田錦城の墓」
太田錦城(1765-1825)は、江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。
加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。
文政8年4月23日、61歳で没した。著書には「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述があり、長男は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えたと云う。都教育委員会掲示より。



他に谷中には、下町風俗資料館、旧吉田酒店・大名時計博物館・岡倉天心記念公園などが。






入谷、根岸・・ 雀より鶯多い「鶯台」  2019年(平成31年)3月中旬撮影

2019-04-16 | 季節だより

台東区は、隅田川西岸・上野台地東側で都の東部。
浅草・下谷・上野台地の忍ヶ岡と不忍池に流れる「藍染川」の谷文京区と接する。
地場産業に、浅草・上野・稲荷(神仏具)・合羽橋(台所用品)・蔵前(玩具、文具、人形)・鳥越(洋傘)問屋街・小売、卸、工場で形成されている。
その職人も多く住み「職人気質」がそのまま受け継がれた。
大戦後は、ここの闇市から始まったともいえる。
上野東照宮は、上野の山に鎮座・祭神徳川家康公・この地は、1625年、寛永寺創建された。以前は、藤堂高虎の下屋敷で高虎が1623年に祀社が始まりと云う。特に、徳川御三家と諸大名が寄進した50基銅灯篭・石灯篭280基が建ちな連でいる。(日本三大灯篭の一つ)。
「京都南禅寺・名古屋熱田」

年末の「鷲神社」のお酉様は、地下鉄三ノ輪駅から神社までの約1300mに夜店が並び、幸福と商売繁盛を願い熊手を求めてその賑わいはすごかったが
今は、どうか。

入谷鬼子母神 地下鉄日比谷線入谷駅 日蓮宗の寺 「仏立山・真源寺」


1659年、日融の創建と伝わる。  本尊 鬼子母神像

             恐れ入谷の鬼子母神・・・。子育て・安産の神


JR鶯谷駅下・寛永寺坂下の「言問通り」は、朝顔市時は、車停止される。

            7月上旬の「朝顔市」発祥地(明治期朝顔の産地であった)


                     真源寺は、下谷7福神の福禄寿


「中村不折」 書道家(子規庵の前にある)

                         教育に貢献


                          博物館


「正岡子規」 1876-1902 俳句革新
伊予松山藩士の子。夏目漱石の親友・矢野竜渓・坪内逍遥・幸田露伴等の小説に感動し目指すが果たせず。俳句に興味・同志を集める。
新聞に俳論に発表・俳句の革新に努める。やがて脊髄カリエス併発し晩年床の中となる。
高浜虚子・夏目、森鴎外・与謝野晶子・中村不折・・・。元々は、旧加賀藩前田家の下屋敷侍長屋2軒続きの一軒家(台東区上根岸)

                         旧宅


椎のみを 拾いに来るや 隣の子 ・ おそろいは 妹のものと 俗な花 ・ 引き残す 松葉牡丹や 秋の風


                       根岸短歌会など


                    明治27年の没年まで住んだ



「御隠殿跡」
輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきたと云う。
当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。

御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図「御符内沿革図書」には、宝暦三年の1753年、「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は、上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場。
谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。
(1868年、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失した。)

                        「根岸薬師」が。


                         史跡


                         
                       当時の石塔など


                         御隠殿の図絵


「羽二重団子」
江戸時代、「日暮しの里・呉竹の根岸の里」といえば、音無川の清流にそうたこの辺り。
花に鶯、流れに河鹿、眼には遥かな荒川の風光にも恵まれ、人々は、別荘を設けたという。
明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として東京の憧れの土地柄。
文政二年に、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供したとある。
団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名に、「羽二重団子」となった。
創業以来六代180年以上の江戸の風味と面影をうけ継いでいる。(団子というものは、そもそもは中国渡来の野趣ある菓子)

   夏目漱石・正岡子規・泉鏡花・田山花袋・久保田万太郎・舟橋聖一・司馬遼太郎など文人達も


北区王子は、昭和7年まで王子区・北豊島区王子町、明治8年渋沢栄一は、現在の王子製紙工場設立、石神井川水車動力を生かし印刷局など製紙関連工場が集約された。徳川吉宗は、ここに千本桜を植え江戸庶民に開放している「大きな町・王子」であった。
王子は、鎌倉往還、源義経は、ここから奥州へと向かったとあるが。
王子から流れていた音無川にそって茶屋が並び、賑わった街道が「王子街道」であろう?。

    日暮里駅下の王子街道の碑がある。(今は無いがこの川は、三ノ輪三ノ輪方面へ


善性寺の前と羽二重団子を挟んで「音無川」が流れ、団子屋の角に「芋坂の碑」が建つている。
坂上は、現在「谷中墓地」で、その間にJR常磐本線などと私鉄京成電鉄が走る。

                             芋坂碑


「善性寺」日蓮宗の寺院。
長亨元年の1487年、開創と伝える。
1664年、六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺と云われている。
宝永年間の1704-1711年、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の「音無川」にかけられた橋に将軍橋の名がつけられたと云う。

善性寺の向い、芋坂したには、1819年、に開かれたという藤の木茶屋が、今の「羽二重団子」である。




「徳川家宣」 1662-1712 徳川綱重、(三代将軍家光の三男)の長男・叔父五代将軍綱吉・甲府城主から六代将軍。
生類憐みの令」を廃止・学者登用「新井白石・真部詮房など登用」-正徳の治(儒教理念政治)推進した。

徳川家宣の生母「長昌院」の菩提寺

                          山門



                        大黒様の石刻




                        善性寺  本堂