昭和13年生まれの私の自分史、幼少の頃を一部抜粋.
「昭和20年、終戦時の上野」
昭和16年10月ー東条英機陸軍大将内閣成立・翌年17年に、ミッドウエー海戦・ガダルカナル島・アッツ島・学徒出陣(学徒7万人)
その12月学童縁故疎開が始まった。
父のみを東京に残し、我々子供たちは、埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開したのである。
東京で、生まれ、生活していた子供にとっては。それはそれは辛い生活だった。
両親は東京で、寂しさと寒さとひもじさ秩父であった。
弟は、小児喘息で苦しんだ。4人兄弟は、思いもかけない、辛い毎日の縁故疎開生活であったが、国民学校1年生に入学し終戦を迎えた。
当時学校には、宿舎の駐留していた兵隊さん達も一緒の教室を使っていた。
昭和20年8月15日から数日後・東京へ帰るこに、子供心に、何となく罪深いことだと思っていたのを思い出す。
私は、母親と共に帰京することが出来た。
・・・荒廃した東京は、表現できない、ピカドン・大型爆弾・原子爆弾の話などを聞き、憎きアメリカと思った。
上野駅に着いたのは、夕方。駅前は人、人で溢れ、西郷さんの銅像、ガード下、にゲートルを巻いた日本兵の引揚者、浮浪児、乞食であふれ、焦げ臭さと、悪臭で一杯であった。
足から蛆虫が這い出している乞食の親子、呼吸をしているのかしていないのか判らない赤ちゃんは、泣く事も出来ない、
スリをしたと大男に咎められている少年、同年位の浮浪児がタバコをふかしている姿、上野は、地獄と化した無法地帯の上野。
Sは、母に「あの子供達助けてやれないの」と聞いた。
母は、「かわいそうね、でも今は何もしてあげる事が出来ないのよ、さあ、早く危険だからゆきましょう」とだけ言ったが少し不満だった。
特にゲートルを巻いた尊敬した元日本帰還兵の姿に目を疑った。
当時の大人達は、皆、殺気立っていた。
世界を相手に、国民一致団結して戦ってきた日本が、敗戦を期に、人を人と思わない弱肉強食の汚れた醜い世界、まるで獣の世界のように東京は一変してしまったのだ。
隅田川に向かい、今でも黙とうを続けている。
特に昭和20年3月の東京大空襲で一夜のうちに10万人もの人が死んでいる。
多くの人々は、猛火に追われ、追い詰めれて隅田川に飛び込み亡くなられた。
その時の、苦しさによる悲鳴が遠く10KM離れた大森海岸まで聞こえてきたという。
隅田川には、男子は下向きに、女子は上向きに列を作りながら死体が東京湾方面に
流れ出していたと云う。
当時の世相を見ると、終戦の8月末、マッカーサーが上陸して、9月2日ミズーリ―艦上で降伏文書調印され、
国民は、占領軍を迎える不安、
東久邇皇族内閣の一億総ざんげを訴え無政府状態、今までの日本伝統体制はどんどん崩れ、
戦犯容疑者が続々逮捕されていった不安、
食べる物がなく、職もなく、野宿を求め全国から人人が続々東京に集まってきた。さらに疲れ切った引揚兵も次から次に東京を目指して集まった。
東京に行けば何とかなるという人々の町となり、特に上野・新宿では、戦場で傷を負い、白い病衣の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな軍歌等の曲を奏でていた。
目が見えず、片腕、片足がない人、道行く人々に頭を下げ、胸に下げた箱の中にわずかな同情の寄付を集めているのだ、彼らは、時には電車の中にも現れ誇りを失い、みじめさ、みすぼらしい姿・彼らが本当に勇敢な日本兵だったのかと子供ながら信じがたかった。
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命の時と声高高に活動しだしたのである。
かっての静かで落ち着いた東京は、もう永久に戻らない寂しさを少年ながら思った。
下町風俗資料館 有料
不忍池・弁天堂
その頃不忍池でザリガニをとって友達と食べたことがあった。皆腹痛下痢で大騒ぎした。現在では考えられないような子供たちの毎日であった。
弁天堂参道橋・幼少の頃ここで、ヨツデでザリガニをバケツ一杯に
思い出す「母」
桜木町と違い2階建ての古い暗い家で、
二階は、根岸芸者の置屋として使われていたので、2階の使える部屋は、たった8畳の一部屋。
今までわが家は、それほど貧乏だと思って居なかったが、根岸町の借家に入り子供心にわが家も経済的に
大変なのだと思うようになった。
歌舞伎好きの両親に連れられて銀座に出掛け食事やデパート、芝居を見ると云う戦前の千鳥町が思い出された。
それが終戦と同時に借家から借家の生活であった、ろくに食べる物もなく、毎日毎日ひもじい生活が続いた。
母は、自分は食べたふりをして食べ盛りの我々、子供に,弱音は吐いたことがない強い母、弱虫を嫌った明治生まれの母。
また疎開先まで持って行った僅かな着物などを食料に換え、金目の物はみるみるなくなっていった。
母は、他人には優しかった、家がどんなに困っていようと、他人が困っている様子を見ると黙っていられない性格であった。
父のお客が来れば、できる限り接待をし、同居をしていた従兄弟が友達を大勢連れて来た時などでも、
なけなしの食料をいろいろ工夫し、食べ盛りの彼らにご馳走をしていた。
我々子供には、「これから日本の為に頑張る人たちなんだから我慢しなさい」という母だった。
数年後彼らは中には、東大の教授、船舶の会社社長、医師等に。
母は、中学の兄を東大にと期待していたようだ。
長女の姉にも、厳しく家庭科の宿題は母がやり、その代り英語の単語を覚えるようにと云う教育熱心な母であった。
父は、コンデンサーの電気関係の会社経営していたが、下町にあった工場が台風で大損失を。
倒産寸前で、父は、心も荒れていた。
こんな時代でも酒好きで、家では毎日晩酌を欠かさず、酒の度が過ぎると、
急にちゃぶ台をひっくり返すといった気の小さい短気な所もあり、家じゅう大変な騒ぎになることもあった。
父、子供達は全て母一人の背に掛かっていたのである。
小学二年の冬、雪の降る寒い日、私か高熱を出し学校を3日休んだことがあった、その時母は、一生懸命看病し、
父でも滅多に口にしない鯛の煮つけを特別に食べさせてくれた。
母は、「みんなに内緒よ」と云いながら御粥と一緒に口まで運んでくれた、その時母の子でよかったと嬉し泣きをしたことを覚えている。
小学三年に入り、隣町の上根岸に家を新築し、再び自分たちだけの家が建った。家が持てたのだ、家族全員大喜びした、
母は、父の収入の中やりくりで資金を蓄えていた。
姉、兄の月謝だけでも大変だろうに、父は「収入は増していない中良く蓄えたと感心していた。
母は、洋裁が好きでミシンを良く踏んでいた、われわれの衣服は母の手作りで、子供たちの前では、
愚痴と不満を口にしたことは無い。
子供に対ししつけは厳しく、母に、あざになるほどつねられ、痛かったことを思い出す。
我が家もやっと落ち着き、一家水入らずの平和な日々が続いていたが、
母は家の新築、引っ越し、買いだし、家計のやり繰りなど疲れが一気に出たのか体調を崩してしまった。
母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、東大に入院した時には重症であった。
即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、家族のショックは大きかった。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。姉は、そんな母を見て我々に「若い時の美しかった昔のようだ」と云った。
叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。
昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。
旗本の衿持を失わず毅然と生きた。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。
昭和通り 至日本橋
アメ横
焼き鳥屋
ガード下商店街
SALEの札
当時の給食は、ララ寄贈食料品によるもので、ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチューなどでした。
昭和24年 ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始されました。
昭和25年 8大都市の小学校児童に対して、初めて完全給食が実施。
昭和27年 完全給食が全国すべての小学校を対象に実施され,当時の代表的な献立としては、
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げなど。
父の会社も台風で倒産。、家庭は、高校1年の姉に全てが移り、母親代わりを務め,他は男の世界、姉は通学時間を惜しみ近くの都立T高校に転校している。多少やけ気味の父の晩酌は、毎夜続き、暴力は以前より増していった。子供の時は、あの様な父になりたくない、たくましい父を望んだ。
5つ違いの兄は中学生になっていたので自分の事は自分でできたが、私と5歳下の弟は、まだ母親を必要としていた。
父は昭和24年岡山県の女性と再婚した。そして翌年弟が生まれた。
父と義母と赤んぼの三人家族となり、Sと5歳の弟は、仲間はずれとなり、あらゆる場面で悲しい生活が始まる。
一番困ったのは弁当であった。
まだこの時代、弁当を持って来られない子、主食がさつまいもだけの子、外米だけの子ーたまに石が混じりぼそぼそしている。
S家は、そのぼそぼその外米と梅干しのみ、または佃煮の「あみ」だけがのせてある日もあった。
裕福な子供は、白い米に卵焼き、海苔、など自慢し見せて回るのだ、だがクラスの半分は、弁当箱を隠し食べる子が多かった。
運動会や遠足などお弁当のある日は悲しい思い出しかない。今スーパーのお弁当でさえ嬉しく感じるSである。
小学校も高学年となり学校給食が始まり、弁当が要らなくなった。
学校全体が同じ食事の給食となったのである。