syuの日記・気まま旅

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土井利勝が築城した佐倉城

2018-06-30 | 気まま旅
千葉氏略系図ー・・常重・常胤・胤正・成胤・胤綱・時胤・頼胤・胤宗・貞胤・氏胤・満胤・兼胤・胤直・胤将・「実胤・自胤」(武蔵千葉)。
                                         康胤・胤持・輔胤・・・・・。
「本佐倉城」
室町時代後期に「千葉宗家」を倒して家督を奪った馬加氏。
将軍「足利義政」の命により「千葉実胤と自胤」を支援した「東常縁」に討たれ滅亡した。
太田道灌も「実胤・自胤」を支援し江戸城を築城するなどしたが、馬加康胤の子(異説あり)・「千葉輔胤」は、「古河公方・足利成氏」と結んで
下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、文明年間に従来の「亥鼻城」よりも内陸の「本佐倉」に城を築いて本拠地を移した。
1479年、太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されている。
その後、9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となったが、
天正18年の1590年、千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された。
1602年、5万石で松平忠輝が封じられるが、ひと月余後の1603年、信濃国川中島に移封された。
1610年、軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれた。
1615年、藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となった。



千葉氏の分裂・下総千葉氏は「本佐倉城に移城」
千葉氏本家滅亡後、将軍足利義政に仕えていた「美濃東氏、東常縁」は、美濃の兵を連れて下総国・馬加康種を攻めますが、その途中、美濃の国が
美濃守護代によって奪われたため、美濃国に戻っています。その後下総国は、本家を継いだ千葉康胤の子孫が統治しますが戦乱で荒れ果てた千葉城を
やむなく離れ、新たに印旛沼南岸の「本佐倉城」を築き、本拠地を移します。
これは、印旛沼と古河公方とが水路で繋がるからと云います。



次回の千葉城で取り上げます。


「佐倉城」は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていて、戦国時代、本佐倉城主「千葉親胤」が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、
「千葉邦胤」の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。
築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年、徳川家康の命を受けた「土井利勝」によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。
江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった「堀田正信」(後に改易されている)の弟・「堀田正俊の孫・堀田正亮」が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。
その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。昭和37年、市史跡指定され、現在跡地は佐倉城址公園)



「本佐倉城築城」
臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれている。
下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、 のちに臼井氏を称したことに始まった。
臼井氏は、千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。



馬加・千葉 康胤は、室町時代前期の武将。第14代当主・千葉満胤の次男。
「享徳の乱」に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主に。下総千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから
馬加と称した。「千学集抜粋」によれば、常陸国の大掾満幹の養子になったというが。



江戸時代・「土井利勝」 1573-1644 古河藩主 大老、家康の御落胤(家康の伯父)土井利昌の養子・実父は家康とも伝わる。
古河16万石の大名、累進し、重責で、二代秀忠信頼された。兄として信頼を寄せたとも云う。三代家光は「利勝に天下を譲る」とも言っている。



「堀田正睦」 1810-64 1746年、 堀田房俊、11万石藩主・下総国佐倉藩主の子、江戸生まれ、老中に進すみ、老中首座を務める。一橋派につき老中罷免された。「阿部正弘・水戸斉昭がいなくても堀田正睦がいればいい」と堀田の入閣を大衆は喜んだと云う。隠居は八丁堀。

           1610年徳川家康の命により「土井利勝」が築城した佐倉城。


1746年から11万石の房総最大の城下町として栄えた。
堀田氏は、藩校「成徳書院」を開き、蘭学を奨励した。藩校は現在の建立佐倉高校の前進。蘭医学の発展から「順天堂」が開かれている。

                   築城まで、17年の歳月が


印旛沼の鹿島流域での稲作・野菜生産が盛んで、「佐倉味噌」が知られている。







258年間、佐倉城・その6割141年間「堀田氏」が治めている。
特に堀田正睦老中としてアメリカハリスとの条約交渉に全力を尽くし、日本開国へと導いた。特に洋学を積極的にとりいれている。
蘭学者 佐藤泰然を佐倉へ招いて、「佐倉順天堂」を開いている。





                     天守は三階建て


                         礎石




                         空堀






城南北堤と坂の町。


                     曲輪


                     椎木門跡


正岡子規は「常盤木や 冬されまさる 城の跡」と呼んだ  句碑がある。

                      出丸




七曲りの坂が。


日本100名城の一つ「佐倉城址」。


次回は、千葉城址へ。

佐倉城址 佐倉連隊のあと

2018-06-28 | 気まま旅
「メッケル」 1842-1906 プロイセン王国ドイツ帝国軍人・日本に兵学教官として赴任。
実家のメッケル家はビール醸造家、メッケル家はドイツ南西部ラインラント=プファルツ州ビットブルク=プリュム郡ビットブルク・ラントの山間の村メッケルが発祥の地で、当地にやって来たローマ帝国の小部隊の隊長が始祖であったという。
1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業、普仏戦争にも参加し、鉄十字勲章も受賞。
陸軍の近代化を推し進めていた日本新政府は、ドイツに兵学教官派遣を要請し、ドイツ側は、参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校の兵学教官の「メッケル少佐」の派遣を決定し、メッケルは、1885年に来日、戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであったと云う。
本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。
日本陸軍は、メッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せ、メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、
「桂太郎、川上操六、児玉源太郎ら」の「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。
陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、「東條英教や秋山好古など」わずか半数の10人という厳しいものであったとある。
その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講。

「児玉源太郎」 1852-1906 参謀総長陸軍大将 徳山藩出身
戊辰戦争で長州献功隊士として従軍・大坂兵学寮に入る。将校となり「佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争」に従軍し軍功、1887年陸軍大学校長に。
ドイツに派遣、メッケル戦術思想を導入した。ドイツ軍制・戦術の輸入にも努めている。
日露戦争で大将、大山巌総司令官のもとで総参謀長に。没後、伯爵。

                 佐倉連隊長 児玉源太郎」旧宅後

「軍人勅諭」
一、軍人は忠節を尽すを本分とすへし・一、軍人は礼儀を正しくすへし・一、軍人は武勇を尚ふへし・一、軍人は信義を重んすへし・一、軍人は質素を旨とすへし。
世界で最も礼儀正しく勇敢で規律正しい軍隊は軍人としての心得、1882年の明治15年、 明治天皇からの軍人勅諭をもって不動のものとなっていった。
全ての将兵たちは忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳目を暗記、

「教育・訓練の日々」
将兵たちは国防、国内外の自国民を守るための存在、防人であり、そのために必要な訓練・教育を受けることが日常・ 整列や行進といった基礎的な動作、駆け足、体操などによる体力、運動能力の養成、 銃の取扱や射撃、銃剣術などを学習。
戦場で、あるいは演習時に兵士が身に付けた軍装の全重量は30キロを超えることがあったと云う。 日露戦争以来長く使われた38式歩兵銃は 4キロ近い。
体力なくして兵士はつとまらなかった。上等兵・下士官・将校への道。

                          佐倉連隊跡車道・碑


「鹿島川・高崎川」
八街市中心部の大池付近に源を発し北流する。源流部は住宅団地により暗渠化されている部分があり、長谷付近より地上のみを流れるようになる。
市北部の文違付近で大池調整池に流入し、以降富里市との市境付近を流れる。
中沢付近で八街市朝日付近を水源とし、富里市十倉・高野・立沢を流域とする支流を合わせるが、富里市では高崎川の水源を「七栄・高野・八街市の3カ所」としておりこの支流も含め「高崎川」と総称している。
富里市内は高崎川の谷津が多く、水害が昔から頻発していたため支流域等に調整池が多く設けられている。また蛇行して流れていたことから流域では
「九頭竜様のお札」や「長池の大蛇」のような蛇にまつわる伝承も残っていると云う。
流れを西に変えた高崎川は印旛郡酒々井町に入り、JR成田線沿いを流れる。
佐倉市に入ると高岡付近で支流の南部川を合わせ、JR総武本線を越えて佐倉市街地に入る。
竜灯橋で寺崎都市下水路を合わせると市街地を抜け北西流し、寺崎付近で鹿島川に流入する。
酒々井町馬橋の千葉県道76号成東酒々井線新堤大橋より下流部6.07kmが一級河川に指定されている。

                        城を守るように鹿島川・高崎川


1874年の明治7年、「陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯」
1877年、「西南の役」に出動、1894年、~1895年、および1904年の明治37年、~明治38年、日清日露の両戦役にも参戦した。
陸軍 病院跡・ 佐倉城址・夫婦モッコクの兵士の落書き、 落書きも戦争遺跡になるのであろうか。
佐倉城本丸跡に夫婦モッコクという、二本の幹のあるモッコクの木がある。昔は本丸跡とて訪れる人もなく、時々江原新田の農民が生い茂った木を。

「桜会」
日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して1930年の 昭和5年、結成された超国家主義的な秘密結社・軍閥組織である。
1930年、参謀本部の橋本欣五郎中佐、陸軍省の坂田義朗中佐、東京警備司令部の樋口季一郎中佐が発起人となり設立した。
参謀本部や陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、長勇、今井武夫、永井八津次などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く

                          佐倉連隊へ


姫路城には、陸軍第十師団が駐屯し、千葉県でも、市川の国府台城址には高射砲部隊が駐屯。
明治7年、陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、明治10年、西南の役に出動、明治27年~明治28年、1904年の明治37年~明治38年。
「日清日露」の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。
明治42年、に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。
この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」と呼んでいる。



佐倉連隊跡案内図
明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出征。
明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われた。

衛兵所跡・ 兵営の便所跡雨天休憩所近くに土台のみが残っている・ 佐倉陸軍病院跡創設は明治7年、佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていた・ 兵士が文字を彫り込んだモッコク本丸跡にある県指定天然記念物(幹に「昭和十八年十月」「砲隊」)といった落書きが彫られている。 車道の碑大正9年建立・兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑がある。
弾薬庫の跡は、姥が池西側坂道を登った奥の窪地に。 訓練用の12階段兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段が・
軍犬・軍馬の墓軍曹安藤能一が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)・近衛歩兵第五連隊第二機関銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで・
連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎があった。





明治初期旧佐倉城内に「陸軍歩兵連隊・第二連隊、57連隊」など設置、軍部として栄えた。
特に57連隊は、アジア・太平洋戦争で、1944年のフィリピンレテイ島において玉砕、最期を遂げている。











「国立歴史民俗博物館」
明治百年記念事業として昭和58年開館した。
歴史・考古・民俗などの研究資料が展示されている。収蔵品ー国宝・重文など7万点を展示 古代から近世の時代順で中には復原模型もある。

                       入館有料














次回も公園内。

11万石の城下町 佐倉

2018-06-25 | 気まま旅

「田沼意次」 1719-88  政争に敗れた経済官僚 相良藩主 17歳で父から600石禄高相続し、異例の出世・幕閣、老中に。積極的経済政策実施
幕府経済の根本的転換を、が保守層によって失脚・また、賄賂政治家でも知られている。後、賄賂政治家の烙印を押された。
「印旛沼干拓」
千葉県(下総国)北西部にある印旛沼の干拓事業、香取海の一部であった印旛沼は、利根川東遷工事などの影響によって江戸時代前期にはW字形の周囲47km・面積20㎢の閉じられた沼となり、利根川増水時の遊水地的な役割を果たしていた。
が、洪水防止の観点から印旛沼の水を内海(現在の東京湾)に排水(開疎)することで新田開発や利根川流域から江戸方面への水運の利を確保しようとし
享保9年の1724年、下総国千葉郡平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が同村から同郡検見川村(現在の千葉市花見川区検見川町)に向けて
約4里12町(約17km)の水路を開くことを江戸幕府に出願した。
幕府もこれに賛同して6000両を貸し与え、源右衛門も同志を集めて工事を開始したものの、思い通りにはいかず、難工事のために資金を使い果たしてしまい、ついに源右衛門は破産に追い込まれた.
1782年、当時の老中「田沼意次」は、再び開疎工事を計画、1785年、手賀沼干拓と並行する形で本格的工事に乗り出し、工事は途中まで進んだものの、翌年の利根川洪水及び田沼の失脚によって挫折した。1842年、老中「水野忠邦」は、三度開疎工事を計画、鳥居忠耀・二宮尊徳も計画実際に関与し、鳥取藩・庄内藩・沼津藩・秋月藩・貝淵藩の5藩には御手伝普請を命じたと云う。
6万人の人員と23万両の費用をかけて工事が行われたが、水野の失脚によって三度挫折し、後の黒船来航時に工事再開論が出ていることから、幕府内では引き続き工事を推進する動きがあった事が知られると云う。
天保の工事の背景として、1833年、「佐藤信淵」が著した「内洋経緯記」-外国船によって浦賀が封鎖された時に備えて、印旛沼と検見川を結んで北関東あるいは銚子から利根川・印旛沼・検見川を経由して江戸に物資を運びこむ水運を開くべきであると主張しており、当時危惧されていた外国船からの江戸防衛の一環として印旛沼開疎が計画されたと考えられていると云う。
明治以降も何度か計画が立てられたものの、本格的な干拓工事が再開されたのは、
昭和21年の1946年、28年の歳月をかけて印旛放水路を完成させるとともに約900haの水田を開いた。
この結果、印旛沼は、5.1㎢の北印旛沼と5.6㎢の西印旛沼に2分された。

            私鉄 京成電鉄成田線 成田駅から二つ目 「京成宗吾参道駅」


「佐倉 惣五郎」生年不詳・ 承応2年、1653年ー。?
江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。
下総国印旛郡公津村( 現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は 木内 惣五郎・通称、宗吾とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。
代表的な義民として名高いが、 史実として確認できることは少ない。
惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成されている。

            義民「佐倉惣五郎」の旧宅は印旛沼に近い。


     東勝寺の宗吾霊堂は、五輪マラソン金メダリスト「高橋尚子」必勝祈願を。


          麻賀多神社の1200年・大杉、幹回り8mは、関東一。


                    駅前の山門


「佐倉城址公園」
佐倉城跡を整備した公園。
市内の中心に位置し、市民の憩いの場でもある。園内には、740本の桜が4月上旬に咲き「桜祭り」が開催される。
又、6500本の花菖蒲が6月咲き乱れる。秋は、大木の紅葉と季節ごとの彩りの美しさでも昔から知られている公園である。
城跡でも、未だに水堀・空堀・本丸跡・等の遺構も残り、歴史的でも見どころの多い公園である。

        千葉県は、小さい藩が多い中に佐倉藩は、11万石の城下町であった。


「佐倉街道」
足立区の千住で日光街道からわかれて、葛飾の新宿で「陸前浜街道」と分かれ、下総の八幡(千葉県市川市)-船橋を経て「佐倉」へはいる。
八幡までは、五街道に準じて「道中奉行支配」。
佐倉藩主参勤交代路ー小岩(江戸川)の関所があり、一般旅人は「行徳(市川)」まで水路を利用し、途中から街道へ入っている。
小岩ー船橋までは、国道14号線の千葉街道・船橋から先は国道296号線・佐倉から千葉は国道51号線で「佐倉街道」と云っていた。



「旧城下町佐倉武家屋敷」
佐倉らしい土塁・生垣が続き、「宮小路町」に残っている。
旧河原家住宅・旧但馬家住宅・他3棟の武家屋敷跡、江戸後期の建築と云う。(県文化財指定)

                        入館有料










「大聖院」
                    佐倉藩刀工「細川忠義」の墓がある。


                      本尊は、市指定文化財


                    静かな武家屋敷に隣接し和風庭園が。


「植物苑」 公園入口にある。
                        暮らしの植物が




「佐倉の山車」
戦国時代末期、千葉氏は、佐倉城(現在・本佐倉城)が手狭になっていた事から鹿島川沿いの鹿島山(現在の佐倉城址)を新たな拠点とするべく
鹿嶋城の築城を始める。
完成する事はなかった。が、1603年、「徳川家康」が・ その当時の祭礼ー3年に1度を大祭とし山車、御神酒所を引き廻し、それ以外の年は御神酒所のみを引き廻したと言われ、神社御神輿の渡御とあわせ、 その祭礼が、「佐倉新町江戸まさり」。伝統行事に。

                        鹿嶋神社


                         社殿


                     堀田氏紫袖ー濃桐丸


「香取秀真」 1871-1954 工芸作家・歌人 (正岡子規門下・芥川竜之介などと親交)・芸大教授
千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれ、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。
一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごし、佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていたと云う。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学び、和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書「万葉集」を写し作歌を学んだ。
この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになり、
「秀綱」に上京したい、と願い出たと云う。
秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れ、上京の資金は、代々受け継がれていた土地を売って準備してくれたと云う。
秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。
麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されていると云う。
1891年、東京美術学校首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。
卒業制作は「上古婦人立像」・その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚している。

                           碑


「佐倉順天堂」
藩主「堀田正睦」の招きを受けた蘭医「佐藤泰然」が、天保の1843年、に開いた蘭医学の塾兼診療所。
西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出。
現在、安政5年の1858年、に建てられた建物の一部が残り、「旧佐倉順天堂」として県の史跡に指定。

                   私立衛生病院院長 浜野 界


次回も公園内の「佐倉連隊」。

成東の浪切不動尊(海から見えた?)と野菊の墓

2018-06-22 | 気まま旅

「山武杉」千葉県山武郡山武町の山武杉は、ここから。
高さ50m以下の平坦な下総台地、単純地形の山武、が、林野率は高い、半分は林野その半分が、杉の人工林。
江戸時代は、80%を占めていたと云う。主は農業であるが、林は副業的地位ある。樹齢200年を超える杉の巨木がそびえている。
農業と製材業者と建具業者がいる農村地帯はないのでは。冬季低温と乾燥は杉の生育に良い条件と云う。育林の仕方に特色があり、初めに乾燥に強い
黒松を植え、数年後に挿し木によって育てた杉苗を松の陰に植える。
松は、日陰を提供し風や乾燥から杉を守り、この松・杉の二段杉で、松の幹が太くなり、10年め頃から松を伐リ始め、松薪に利用。
しだいに杉の純林に仕上がる。丹念に育った杉は、木目が詰み材質が良いと云う。江戸時代は、木材の市場が九十九里浜「上総戸」の名で出荷時期もあったと云う。成東・八街・・三武市に。

「浪切不動尊・長勝寺」
奈良時代の僧・行基が諸国行脚で、「成東」に立ち寄り、この近海に海難の多いことから海難除けの不動明王尊像を刻み、寺を建立したのが始まりと伝わる。江戸中期、この不動尊の常夜灯の明かりが荒波を切るように沖合の漂流していた漁船に届き救ったことから「浪切不動尊」と呼んだと云う。

「行基」 668-749 奈良時代の百済系渡来氏族出の僧侶 社会事業の高僧。
行基年譜ー僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・道路など。僧侶から弾圧を受け、第二の行基は出なかったと云う。

                          長勝寺


                           山門


弘法大師が石塚山に移し開眠供養し寺を建てたとされ、山門をくぐり長い石段を登ると鮮やかな紅色の本堂がある。
ここから山武市成東の町並みが一望、県指定天然記念物の「石塚の森」の中腹に位置している。

                   九十九里海岸から見える不動尊堂


浪切不動尊 火渡り祭 煩悩を不動明王の智慧の炎で焼き尽くし、災厄を祓い清める厳かな火渡り祭は、9月
ほら貝を合図に、山伏姿の修験者により行われ、 弓矢、刀剣などの儀式が行われ、境内高く積まれた柴材に点火。
僧の儀式が終わると、一般の参加者が、燃え尽きた灰の上を裸足で各種の祈願を唱えながら渡り歩きます。

                           本堂


                         境内 毘沙門天


                         空海・弘法大師像


「本行寺」 長勝寺・城山公園と隣接している。
                            日蓮宗の寺                         


                         鐘楼


                         本堂


「伊藤左千代」 1864-1913 アララギ派歌人・小説家

明治22年「乳牛改良社」開業、明治31年35歳正岡子規と論争後37歳で門下、「山会」メンバーに。明治35年子規死亡・39年処女小説「野菊の墓」
ホトトギスに発表、
                   伊藤左千代生家付近のマップ


                    市民俗資料館(有料)


14歳で漢学を学び、18歳で明治法律学校入学、がその9月眼病で退学帰郷している。

                  明治18年、左千代22歳 家出


                 左千代と牛(錦糸町駅前で牧場時代)


                       記念館展示場


42歳で親鸞に傾倒し神崎の寺田憲と交友・ホトトギス島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫・土屋文明ら多くの門人を要請している。

                    正岡子規門下「中村不折」


左千代の原稿から
短歌の創作に非常に熱中しているころであった。予は一友と共に、滝の歌を作ると云う目的で、わざわざ日光まで遊びに行ったことがある。
第一に先ず華厳の滝壺へ降りてみた。只見るひた白に白に滝壺は、地軸もゆるぐ轟を間断なく続けている。・・・・・
岩角に取りつき、草にしがみつきながら、尻を滝壺へ向けつつ、あと去りの態度で、滝壺に達することを得た。・・・・。婦女界(白き印象)

                        生家


                        生家


                        生家


「茶室・唯真閣」
     正岡子規が「塵一つない」と無一塵なる扁額を贈り、左千夫は「無一塵」と命名したと云う。


「伊藤左千代記念公園」
山武市文化会館と隣接した公園で「野菊の墓」の二人の像が中央にある。

毎日七日なぬかの間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
その翌あくる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。民子は、余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。
民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙はるけく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。

                          二人の像                        


成東と八街よ九十九里海岸「山武市」
八街地区は、「佐倉七牧開墾で、8番目の新田開発で「八街」。40mほどの下総台地とそれを刻む狭い谷津・東九十九里、西印旛沼低地の分水界をなすところ江戸時代、柳沢牧と小間子が開かれている。落花生が盛ん。

                         国道126号線が


「伊藤左千代記念公園」
                        野菊の墓の歌碑 


「境川・作田川」山武市を流れる二級河川。作田川水系作田川の支流。
県道121号と交差する境川は、水田の間を流れ山武市街を通り山武市富口付近で作田川に合流する。
名称の由来は、大和朝廷と蝦夷の地の境であったからだと言われ、日本武尊が命名したとされている。
日本書紀卷第七景行天皇四十年十月の条には「爰に日本武尊、即ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。
横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。」との記述がありそれがこの地であると言われている。

                  二級河川   延長9.5km・標高29m


「賀茂神社、大杉」
山武成東インターの西北西約1.5km・作田川右岸の山裾に、賀茂神社が鎮座。
市天然記念物の大杉は、参道の途中。向かって右手。注連縄が掛かり、「御神木」の立札、樹齢500年以上で、足利義政(1436~90)の時代に植えられたと伝えられている。
                          神木


                    樹高 約35m 幹囲 約6.5m


松尾藩と松尾城
明治元年1868年、駿河遠江・徳川家達70万石は、新政府が移封で安房に国替えに。松尾藩の旧掛川藩が現在の山武市北部に移った。
当初「芝山・観音教寺」を仮藩庁としていた。4ケ村の村域に新たに城郭を構築し城下町を建設している。
明治3年藩庁と藩主の居城完成している。明治4年「廃藩置県」で廃城した。

次回は、佐倉へ。

成東 城跡 落花生 栽培 発祥の地

2018-06-20 | 気まま旅
「日本武尊」 大和朝廷の勇者(生没年不詳)伝説上の英雄で、12代・景行天皇の皇子、王権強化のため、各地で賊と戦っている。
九州の熊襲・出雲建・東北蝦夷・東国各地遠征し帰りに死亡したと伝わる。魂は白鳥になり、人々は「白鳥陵」葬ったと云う。
静岡県焼津の豪族に襲われ、周りに火をつけられ時、尊は叔母から貰った守り袋の「火打ち石で」向かい火をつけ、敵を押し返され死んだと云う話は知られている。
「九十九里平野」
南北に約60km、東西に約10kmにわたる海岸平野で、九十九里浜の海岸線に沿って南西から北東に細長く延びる、弧状に曲がった細長い長方形。
北東端は、旭市の刑部岬付近から、南端はいすみ市の太東崎付近で、北側は下総台地、西側は房総丘陵に接する。
標高は、最高点でも10m以下で、海岸線と平行していくつかの旧砂丘列が見られ、現在平野となっている部分は、縄文海進の後に陸地が海側に拡大し作られたものであり、中世以前には玉の浦と呼ばれていた海であった。
そのため、現在でも平野に散在する池沼にわずかに含まれる塩分濃度が、内陸から海岸にかけて勾配を示すことが知られ、地表面には当時の堆積物の痕跡が見られ、弥生時代から中世にかけて顕著な海岸線の後退があり、水に恵まれていた中央部から北東側は早くからの稲作地帯。
北東端には椿海と呼ばれる湖があったが、江戸時代に干拓されて新田開拓が行われ、房総台地との境界が分水界となる南部の地域では、江戸時代に紀州漁民の入植があり、漁業によって発展、現在も海岸が後退し平野が拡大し続けているが、その拡大量は低下している。
この低下の原因は堆積土砂の供給源である利根川の河川改修の結果、流下する土砂が減少したことと、海食崖の屏風ヶ浦や大東崎での人間による侵食防止策の影響である。
「成東」は、九十九里平野の中央部に位置し、「日本武尊」が東征時、太平洋の荒波を見て「鳴涛」と名付けそれが「成東」に。
成東は、千葉県の中東、九十九里と下総台地にまたがっている。中世は、千葉氏の支配下・近世では「旗本領地」、両総用水が完成したのが1965年、
米作が安定したと云う。落花生栽培発祥の地・野菜・園芸・いちごも盛んに。最近になると工業団地が造成し、海岸では、潮干す狩りで民宿が増えている。東金寄りに「食虫植物の群落」がある。
                             観光マップ


「JR成東駅」
1897年の明治30年、総武鉄道の駅として開業している古い駅。明治40年、総武鉄道が買収され、国有鉄道駅・明治44年、東金線東金 で開業し、
昭和20年8月13日「太平洋戦争による空襲(機銃掃射)に遭い、駅に停車していた貨車に積まれていた高射砲四門と弾薬に引火、客車5両も焼失し、駅員や陸軍近衛第3師団将兵が消火作業に当たったが、爆発・炎上し、駅舎およびホームが全壊。
駅員15名、将兵27名の計42名が死亡した。駅前に慰霊碑がある。平成11年- 総武線快速電車乗り入れ開始。

                          JR総武本線成東駅ホーム

 
        昭和20年8月13日敵機グラマンの攻撃を受け犠牲者の 「礎の碑」

              
「勝覚寺」真言宗  947年創建  室町時代後期に再興したとある古刹

芭蕉は没後「俳聖」として崇拝、50年忌、100年忌と期にその崇拝者たちによって各地に芭蕉句碑が建立された。
勝覚寺の芭蕉句碑は、150年忌(天保14年)を記念して、3年早い、1840年に、俳諧愛好者たちによって建立されたもの。

       「ほととぎす鳴くや黒戸の浜ひさし」貞享3年の1686年の作・裏面には建立の中心となった勝覚寺44世真応など催主の名が。

                           芭蕉句碑


「荻生徂徠」 1666-1728 赤穂浪士を切腹させた儒学者、31歳で老中柳沢吉保の儒臣として召し出され、5代将軍綱吉に儒学を。
赤穂浪士では、法による処罰を論じた。「享保の改革」。

荻生徂徠は少年期を此処で過ごしている。その記録に、釈迦堂は、1326年鎌倉時代末期で、現在の釈迦堂は江戸中期に再建で「天竺」は、「毘首羯磨」
が彫った像を受け継ぐとある。ご本尊「釈迦如来像」が祀られている。

                          釈迦堂


「釈迦如来像」を守るように、像高2m強の「四天王像」周囲に安置は、伝説で仏師「運慶」が彫ったと伝わる。
その説話はいろいろ伝わっている。

四天王像高 持国天・213CM、広目天・204CM,増長天203CM,多聞天・207CM いずれも2mを超えている。
寄木造り彩色・玉眼が入っている。
                     持国天像(213CM)


「四天王」 仏教を守護する四つの神・東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天。

「空海」 774-825 真言宗開祖 讃岐生まれ。
空海の伝説は多く足跡は各地にある。がとりわけ四国に集中「88ケ所巡礼・四国遍路」今でも盛んである。
空海と共に修行「同行二人」帷子を着て巡礼。空海は、書は三筆の一人で著書多い。

                       空海巡礼像


勝覚寺に近い「御中主神社」
創建は高倉天皇の時代と云う。
承安元年の1171年、九十九里地方指折りの名社である。
源頼朝公・水戸光圀公・堀田相模守やその他の領主地頭からの崇敬が篤く、寄進も数多く受けていると云う。

       千葉一族の守り神「如見菩薩」 県佐倉市もあり、如見信仰が盛んな土地


                           社殿


「正福寺」 真言宗の寺

地域の108の氏子の手で厄除け大師108体が御堂に祀られている。

門前の脇には庚申塔がある。(奉祈造立石塔・現世安穏所・二人延宝八年庚申十月吉日 本須・院と刻まれている。)


「庚申塔・庚申塚」は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、 庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。 塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

                        庚申塔


                         本堂




「成東城ー別名鳴戸城」
当地に勢力を張った千葉氏の家臣「印東四郎師常(南郷師常)」により、応永年間の1394年-1427年、築城されたと伝わる。
その後、城は一時廃止されたが、1530年、「千葉勝胤」により再興・子「胤定」が入り、「成東八郎」を称したと伝わる。
1590年、小田原征伐の際に成東城も落城し、同戦役後、二万石を以って成東に封じられた「石川康通、青山忠成等」が入城した。
1620年、青山氏が岩槻城に移封され、成東城も廃城。
作田川右岸の独立丘陵上に占地し、空堀および土塁により大きく五つに区画されていた。主郭は、愛宕神社が祭られる丘陵東端の郭と考えられ、台地に繋がる二方に土塁、堀が巡り、北西および南西に虎口が開く。
主郭北西には二郭が設けられ、西側に土塁が設けられている。
この二郭の土塁は南に伸び、主郭西方では主郭の土塁と合せ二重土塁を構成している。
二郭の西方には空堀を経て三郭が置かれ、北西面に土塁が設けられ、西端は櫓台状に広くなっている。
二郭および三郭の周りには、台地方面に空堀が巡る。
三郭西方では主郭西方と同様堀が二重となっており、その内外側の空堀は北に伸び、台地を遮断、三郭が主郭部であるが、台地北東端には複数の腰郭が設けられ、本行寺付近から主郭に至る城道を守る構造に、台地西端には横堀が巡り、台地全体に城域は拡がっていたものと考えられている。

                         別名 鳴戸城・平城


              印東氏・成東・千葉氏・石川康通・青山忠成  1620年廃城


「印東氏」
桓武平氏である日本の氏族・下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。
桓武平氏良文流、上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。
上総広常は常茂の八弟にあたる。上総氏。千葉氏支流と記載されることもあるが誤り。
子孫に伝わる異伝によれば平将門の子孫との口伝えもある。平良文が将門の叔父でありながら猶子となったことによる系譜か。源頼朝が挙兵した際、初代常茂は平家方、息子たちは源氏方へ付き、子孫は御家人として鎌倉幕府へ仕えたと云う。
鎌倉幕府成立後、房総平氏の総領であった上総広常が謀反の疑いで誅されたことにより、幕府内における上総一族としての印東氏の勢力は減退し、代わって千葉氏が房総平氏の総領となり、その被官となることを余儀なくされた。
宝治合戦では千葉氏と共に三浦氏方に与したため、所領の多くを失うこととなる。
鎌倉幕府滅亡後は、鎌倉公方足利氏、里見氏へ仕えた記録から。
江戸時代には南部藩(南部家)、前橋藩(松平家)、喜連川藩(喜連川(足利)家)、上総久留里藩(黒田家)、薩摩藩(島津家)へ仕官していることが資料からも判明している。
                        成東城跡公園入口


千葉氏の内紛「千葉 勝胤」 戦国時代の大名。本佐倉城城主・千葉孝胤の嫡男。
延徳4年の1492年、父孝胤が出家したため家督を継ぐ。
孝胤(又は祖父の輔胤)が古河公方の支援の下で千葉氏当主を名乗ったため、勝胤も千葉氏当主とされている(後期の千葉氏、詳細は不明)
古河公方足利政氏・高基親子と千葉孝胤・勝胤親子が不和となり、1502年、から1504年、にかけて政氏親子が千葉氏討伐に向かい、本佐倉城に近い
篠塚陣を拠点として千葉氏を攻めたが、両上杉氏の対立の激化によって和睦に至った。
その直後に発生した「立河原の戦い」では、勝胤は対立関係にある千葉守胤との対抗上、上杉顕定側について大敗。
1505年、子の昌胤の元服式は盛大に執り行われたことから、下総の諸豪族からは千葉氏当主としての支持を集めていたと思われている。
1509年、隠居し、子の昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与したとある。

                           本丸


                           土塁


                           土塁


                           空堀


                           老木


                      城の守りの  愛宕神社


                       中腹から街並みが


                        広場に


                     本行寺から隣接し、登り階段が


                           外堀は川に