syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

忠臣蔵を歩く 中野 新井薬師

2013-01-31 | syu散歩

早稲田は、冨塚古墳があった。水稲荷神社付近で江戸名所図絵には百八塚とある。冨塚を稲荷塚とも言った。形は、円墳、石カク、入り口に狐穴から、水稲荷神社が生まれたという、古墳を改造し山にして高田富士とよばれ、富士信仰の修経場となっていた。
今は、早稲田大学の校舎に、冨塚に毘沙門山があった。藤原秀郷が船を繋いだ松があり、この辺は入海であったようで、面影橋の太田道灌
「山吹の碑」、「道灌舟つなぎの松」など道灌は狩りによく来ていたようである。又、鎌倉街道が通っていたともいう。

「早稲田大学」は、大隈重信が創立し重信は立憲改進党総理。1838-1922佐賀藩出身、尊王攘夷派の志士して活躍した。
大久保利通を補佐し財政の基礎を築いた。右翼の爆弾で右足を失う。

「早稲田大学」は、前身東京専門学校が設立されてから百年以上をを迎え、大学は永遠の生命を持っていると言われるが、日本の大学の歴史は浅い。古いものでも百年を超えているのは稀である。

この散歩で、慶応、早稲田大を通って来たが偶然である。

大隈重信像             早稲田通り           校内
    

早稲田「穴八幡宮」は、1062年、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。1636年に、的場が造られ、この八幡宮を守護神としたとある。
1641年、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。
3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。
流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には、1738年に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。

江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。
1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。

朱塗り大鳥居              本殿              山門
    

神社の、布袋像の水鉢 は、区指定有形文化財(工芸品)。
1649年造立、区内最古の水鉢。江戸城吹上御苑に置かれていたが、徳川家光により奉納されたという。

高田馬場流鏑馬は、区指定無形民俗文化財 8代将軍徳川吉宗が奉納したのがはじまり。1979年から毎年体育の日に都立戸山公園を会場として行われている。
又、この一帯は、前方後円墳。

大木の神木が境内に            高田馬場流鏑馬は有名
    

西武線「高田馬場駅」から3つ目、「新井薬師前」下車、ここは、中野区。薬師堂から、中野寺町、忠臣蔵コースの閉めとする。

「新井薬師」は、歴史は古く天正14(1686)年に行春が堂宇を建てたことに始まる。
本尊は弘法大師空海の手によるとされる薬師如来。これが寺の名前の由来となっている。
新井薬師は、子育薬師とか治眼薬師とも呼ばれる。1617年に住職玄鏡が夢想丸という妙薬が難病の子供達を救ったことから付いた名という。
徳川秀忠の娘である後水尾帝中宮東福門院が、1629年に眼病平癒祈願を行ったところ快癒したことから治眼薬師と呼ばれるようになったのだという。
その後、1744年に運樹が住職となるとさらに寺勢が増す。しかし、1764年に火災に遭い堂宇を焼失。運樹は再建に取り掛かるが本堂の再建を待たずして、1767年にこの世を去る。
その運樹の遺志を継いで英俊が長い歳月を掛けて1779年に本堂を再建。
本堂再建に際して英俊が建立した運樹や信徒を顕彰する高野山延命院の引導地蔵を模した供養塔が本堂と向かい合って建つ。
苦労の末に再建された本堂も第二次世界大戦の戦火に遭って再び焼失。現在の本堂は戦後の再建による。


中野の新井薬師                   歴史を感じる山門
    

山号 新井山 梅照院 薬師寺、本尊 薬師如来と如意輪観音表裏二佛一体、札所 御内府八十八ヵ所霊場第七十一番札所

開山 新田義貞の家臣、 僧行春(元北条家家臣梅原將監)。
境内には『白龍権現水屋』、『本堂再建供養塔』、『プリンセス雅』、『十六歳聖徳太子像』、『新東京百景の碑』、『豊川稲荷』がある。

本殿                            石仏           薬師堂
    

3月 さくらの開花予想. 4月 さくらまつり. 7月 中元福引セール. 中野チャンプルー. フェスタ. 薬師盆踊り大会. 8月 あいロードまつり. 9月 北野神社例大祭. 12月 歳末 セール. 毎月 たまごストリートライブ.

毎月8日、18日、28日は新井薬師お縁日がある。

旧早稲田通りの焼肉屋で、    旨い焼肉をウマイで
  

次回は、忠臣蔵散歩コース最後の「万昌院・功建寺」へ。 


忠臣蔵を歩く 早稲田

2013-01-29 | syu散歩

1710年東海道の江戸に出入する人々を調べる為に作られた「高輪大木戸跡」先の交差点、角にビルの「高輪稲荷神社」に入ると正面に赤穂浪士四十七士が、浅野家の菩提寺「泉岳寺」である。寺は、1612年徳川家康が創建し開府六ヶ寺の一つで、曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられている名刹である。

戦災にまぬがれた重装な山門の脇に、連判状を手にした「大石内蔵助良雄の銅像」が建っていた。広い境内に宝物館(義士館)、梅、血染石
首洗井戸などがある。その奥に玉石垣をめぐらせた「赤穂義士四十七士の墓、浅野内匠頭長矩の墓があり、お線香の煙が各墓から登っていた。

浅野家上屋敷裏門であった      門楼       大石内蔵助良雄像
    

元禄15年12月14日吉良邸討ち入り、吉良義央の首級を挙げて主君の復讐を遂げ翌15日「泉岳寺」に引揚げ主君の墓前にその報告を成し遂げた。
幕府は、義士一党を細川家などに分ち預け、幕命を待った。
元禄16年2月4日一党切腹を命じた。

門楼                    本殿                鐘楼
    

主な「四十七士義士の墓」は、大石内蔵助良雄、国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。大石主税良金、部屋住み。大石良雄の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。

原惣右衛門元辰、足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。片岡源五右衛門高房、側用人・児小姓頭、350石(譜代)。忠臣蔵では浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。堀部弥兵衛金丸、前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。堀部安兵衛武庸、馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部金丸の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。
吉田忠左衛門兼亮、足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。

吉田沢右衛門兼貞、部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。近松勘六行重、馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明、大目付、200石役料50石(二代)。享年63。間瀬孫九郎正辰、部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢、馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。潮田又之丞高教、郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。富森助右衛門正因、馬廻・使番、200石(二代)。享年34。辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。不破数右衛門正種、元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34等。

寺坂吉右衛門信行は、吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。

大石主税9名は、この梅樹下で切腹                四十七士墓地前
    



「義士祭(冬)」は、 毎年12月14日。墓前供養 浅野長矩公之墓所 等、

「義士祭(春)」は、 毎年4月1日~7日  義士追善供養(本堂)等、 泉岳寺所蔵の寺宝を公開あり、本堂に入れるのは、義士祭(春)の時のみ。大石内蔵助の守り本尊でもある摩利支天(秘仏)や幕末の三舟・良寛和尚・藤田東湖などの書、お経文で描かれている蓮舟観音図などが観られという。

首洗井戸跡碑                         浅野長矩奥方の墓
    

儒学者の見解
赤穂浪士の沙汰については、学者もそれぞれの意見を述べている。まず赤穂浪士助命を唱えたのが聖堂学問所を取り仕切る大学頭・林信篤。
学問好きの綱吉は、将軍宣下を受けた翌月には林を招いて議論をし、その後、林家の私塾を湯島聖堂に移築して林を大学頭に任命。旗本や御家人に朱子学を講義させたという経緯がある。
「昔から主君の仇はとるというのが人の道の大原則である。今、赤穂浪士に厳罰を加えれば、天下に笑われることはもちろん、忠義の道が廃れることは間違いない。」となる。林は赤穂浪士を忠義の士とし、助命を唱えた。

一方、綱吉の側用人・柳沢吉保のお抱え学者である 荻生徂徠 古学派は、林の意見とは対立。
「そもそも浅野が吉良を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではありません。だから、吉良は浅野の仇ではありません。浅野は殿中にも関わらず刃傷に及んだが打果せずに罰せられました。浪士たちは浅野の邪志を継いだ者であり、義士ではありません。」
と、赤穂浪士は「義士」とは言えないとしている。

幕府は、義士一党を細川家など四大名に分と預け、元禄16年に切腹を命じた。
  

庶民では赤穂浪士討ち入りが大ニュースとなり、彼らは一躍ヒーローとなって話題を独占した。
ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記している。また、こんな落首が現れた。
「たのもしや 内匠の家に 内蔵(くら)ありて 武士の鑑を 取り出しにけり」、頼もしいことではないか。内匠の家(浅野内匠頭)に内蔵(大石内蔵助)があって、武士の鑑を取り出してきた。
このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったようだ。

寺坂は、大石の命を受け、一党遺族に報告の為戻り、自首をしたが時効で、83歳の天寿を全うした。
    

「大塚」は、大きな古墳があったことから名づけられたのでは、が、古墳は多いが、これと云う古墳は、見当たらない。また、水戸藩邸、古き奥州街道一里塚の、榎の大木のあるのを「大塚」と言った、又、富士見塚の波切不動のある塚のことだともいう。又、御茶ノ水女子大校内のあった塚ともいう、また、豊島ヶ岡御陵、護国寺、儒者捨て場、大塚花柳界で大繁盛など歴史のある大塚駅である。
明治の頃は、一面畑だったという、一丁に1~2軒と云う寂し所でキツネ、タヌキが出たという。

久し振りの下車、駅ビルの工事で変わりつつあるが、ただ一つ残っている都電の真ん中の駅が「大塚」この辺は変わりようがなようだ。
「大塚」から「早稲田の終点一つ手前、面影橋」で下車する。

JR大塚駅は、駅ビル建設工事中           昔と変わらぬ都電
  

「面影橋」は、新目白通りの北に神田川が流れ、そこに架かる橋。
駅名の由来となった面影橋は、江戸時代から代替わりしながらこの位置に架かる橋という。橋を渡ったところに、「太田道灌ゆかりの山吹の里の碑」がある。
南東に100mほど離れて「甘泉園公園」がある。

コンクリートの神田川           面影・姿見の橋
    

「甘泉園公園」は、新宿区西早稲田にある区立の公園。徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷があったところで、公園は屋敷にあった回遊式庭園であったという。湧き出ていた湧き水がお茶に適して評判であったことから、「甘泉園」と呼ばれていた。
明治時代には相馬子爵家の邸宅になったが、昭和13年に近隣にある早稲田大学の施設となった。1969年に新宿区の管轄となって現在に至る。

早大向かいの甘泉園入り口              園内
  

公園に隣接し、早稲田大学構内にあった「水稲荷神社」がある。神社入口に堀部安兵衛の碑もある。
水稲荷神社の境内には、「高田富士」と呼ばれる富士塚が造られている。富士山を模したかなり立派な塚、というか山で、高さは十数mもあったようだ。「江戸名所図会」にも載る史跡である。

園内                       水稲荷神社
    

「堀部安兵衛」1670-1703 喧嘩安兵衛、のん兵衛安、赤穂浪士の一人。

新潟県、新発田城と安兵衛は、新発田の生まれ。
新発田藩士中山弥次右衛門の息子で、母方の祖母は藩祖溝口秀勝の娘という由緒正しい血筋でしたが、13歳のときに中山家が断絶。
家名再興を志して江戸に出た安兵衛は、高田馬場の仇討ちによって名を挙げて、赤穂藩士堀部家の婿となり、討ち入りに加わって本懐を遂げた。新発田城跡に その堀部安兵衛の像が今も江戸の方向を見据えている。


ハ丁堀から駆けつけた堀部安兵衛の碑
    

「高田馬場の決闘」は、安兵衛が高田馬場に行ってみると、果たし合いはもう始まっていたが、見ると菅野ひとりに対して、向こうは何人もいて苦戦している。これはいかんと安兵衛はただちに刀を抜いて、助太刀に入り、これで戦況は逆転。
村上庄左衛門らは不利と見て逃げ出してしまう。

この決闘を見ていたのが堀部弥兵衛で、彼は安兵衛にぜひ自分の養子になって欲しいと彼を説得し、「中山」の名前をそのまま使ってもいいから、とまで言う弥兵衛の熱意にほだされて、彼は堀部の家に養子に入ることになり、赤穂家の家臣となる。
そしてその7年後、松の廊下での刃傷事件が起き、彼は忠臣蔵の義士たちの中でも仇討ち派急先鋒として、江戸の浪士グループの中心的存在となる。

夏目漱石生誕の地でもある。堀部安兵衛は、この酒屋で升酒を、その升が現存とか
    

次回は中野新井薬師方面へ。

忠臣蔵を歩く 三田・高輪

2013-01-27 | syu散歩

芝公園は、増上寺の領地を1873年、公園として開園。
都内でも上野恩賜公園などと並ぶ古い公園。戦後の政教分離の考えにより、増上寺の敷地とは独立して宗教色のない「都立公園」として
新たに遊具や運動施設などが設けられ、整備された。そのため、現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むような形状になっている。

「都立芝公園」は、1945年(昭和20年) 戦災により、増上寺境内の五重塔と徳川家霊廟などほとんどが焼失。 1947年 芝区が赤坂区・麻布区と合併し、新たに港区が成立。「東京都港区芝公園」となる。
1958年 東京タワーが芝公園20号地に完成。 1977年 芝栄町の一部を芝公園三丁目・芝公園四丁目に編入。現在に。

                                            芝公園内
  

「芝東照宮」は、祭神 徳川家康。神体 徳川家康寿像。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。
1616年 家康は、死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。芝東照宮の起源である。
3代将軍家光により1633年に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となり、1641年には移転改築がなされた。
駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整ったという。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となり、1873年郷社に列し、本殿は、1915年、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定。
しかし、1945年5月の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。

徳川2代将軍 秀忠公と正妻お江様も参拝の幟が                  芝公園内に
    

文化財は、神木の大イチョウ 木造徳川家康坐像(寿像)1964年 都指定有形文化財。
大イチョウ1956年 都指定天然記念物。徳川家光が植樹したと伝えられる神木と約2000坪の敷地に、樹齢100年以上の古木が、、、。

広々と公園内                  古木、大事にしたい
  

赤穂浪士の本隊は、そのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かいましたが、金杉橋辺で磯貝十郎左衛門は将監橋の義兄の長屋に住む重篤の母親を見舞うように大石内蔵助から勧められ、「すでに別れは済ませた」として隊列を乱しての面会を固辞したと伝わります。

芝浜・江戸・品川間へかけての海を、「袖ヶ浦」、そのうち、芝一帯の海手を芝浜、海上を芝浦という。厳密に区分すれば、古川河口部分を金杉浦、本芝から高輪へかけての部分が芝浦となる。

現在は、川に屋形船ご一列に並び、上は高速道、橋の名も見えず、ただの車道優先道路。

国道一号線            浪士たちも「金杉橋」を      
    

西郷と勝の会談は、13・14日の両日にわたって行われた。江戸総攻撃の前日である14日、三田の薩摩藩蔵屋敷における最後の会談で、江戸無血開城が取り決められて総攻撃は中止され、江戸の町が戦火に包まれるのを防ぐことができたのです。

新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見し江戸無血開城を取り決めた。

三菱自動車ビル前に碑が
    

「柴村・本芝」は、江戸時代東海道の整備によって、急速に発展、「柴町・芝町」とも呼ばれ、周辺地域も「芝」と呼ばれていた。
1662年 町奉行支配となり本芝7ヶ町が成立。現在の本芝公園のある場所は、昭和39年頃まで漁船の入る入江になって、魚市場本芝組の雑魚場として江戸前の魚介類が豊富に揚がり浅草海苔の生産地としても有名。
古典落語の中でも屈指の人情噺として知られる「芝浜」の舞台にもなっているところ。

「御穂鹿嶋神社」は、西郷と勝会談の碑裏手にある神社で、 御穂と鹿嶋神社は、もともと別の神社であったようで、本芝両社と呼ばれ、宮司は兼任で(江戸時代も別当は兼任)、祭礼も同日だったらしい。
1479年(文明11)年 御穂神社が 創建され、1624~44年 鹿嶋神社 創建したという。


この辺りは海であった              鹿嶋神社
    

田町駅前と桜田通りを結ぶ細い路地に、「慶應仲通り商店街」がある。桜田通り側は三田二丁目交差点に出るので、田町駅前から慶大方面に向かう場合はここを通る。

田町駅から、この商店街に入ると「水野監物邸跡の碑」がある。
「水野監物邸跡の碑」三河国岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡であった。(現在は灯籠のみ)水野忠之が藩主の時、同屋敷には元禄赤穂事件で吉良義央邸に討ち入った赤穂浪士9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになり結果として1703年、同邸で切腹した。

預けられた赤穂浪士9名は、 間光興、 奥田行高、 矢頭教兼、 村松高直、 間瀬正辰、 茅野常成、 横川宗利、 三村包常、 神崎則休。

慶応中通りに、水野家屋敷跡が               慶応大学正門前
  

初代慶応義塾長、「福沢諭吉」 1835-1901 洋学者、豊前中津藩士大阪蔵屋敷で生まれ、封建的門閥制度への不満から、学問の道へ。漢学を学び、19歳で長崎、大阪緒方洪庵入門し蘭学を極め、塾長に、その後江戸に出て、塾を開く、1860年幕府の使節がアメリカに渡るとき従儀として咸臨丸に乗り組むことを許された。遺欧使節団に随行し、帰国後幕府に出仕した。
明治に入り、塾に専念し慶応義塾を。政治的行動には出ず、多数の著述や翻訳西洋事情を紹介している。

慶応大学
  


「御田八幡神社」は、祭神 誉田別尊 天児屋根命 武内宿根命。創立 709年 祭日 大祭 7月最終の金・土・日。
 
第一京浜国道沿いの御田八幡神社             高輪大木戸跡、国道下り方面のみ
    

「高輪大木戸跡」は、都指定史跡、高輪2丁目、江戸名所図会高輪大木戸高輪大木戸跡高輪。東海道芝田町寄りには大木戸と高札場があった。
高札は、江戸六箇所の高札の一つで、1682年 芝田町4丁目 のちの元札之辻から東側海手に移されたが、破損により 1711年に西側に立て替えられた。大木戸は、1710年に作られた。柵・門・土手・石垣・門番所があったが、たびたびの類焼により1828年年当時石垣・土塁を残すのみ。「江戸名所図会」には、旅人を送迎する宴が張られ、にぎわう茶屋の様子が描かれている。

江戸時代後期には、木戸の設備は廃止され、また、明治初年には西(山)側の石垣は取り払われた。現在残されたいる東(海)側の石垣は、幅4.5m、長さ7.3m、高さ3.6mで貴重。

浪士達も大木戸を通り泉岳寺へ           ここ右折        
    

「高輪稲荷神社」御祭神 宇迦御魂命。泉岳寺鎮護。
泉岳寺交差点の稲荷神社、手前の道路は第一京浜。社殿は東面。
角地を上手く利用して3階に鎮座。2階に社務所で1階に入り口、と。限られた空間のビルの神社。後方は泉岳寺となる。


交差点角にあるビルの稲荷神社           神社境内から見た国道
     


次回は、いよいよ、浅野家菩提寺、泉岳寺へ。


忠臣蔵を歩く 新橋・芝へ

2013-01-25 | syu散歩

「築地中央卸売市場」築地六丁目にある。 築地市場は、面積約23ha。この中で、7の卸売業者と約1000(うち水産約820)の仲卸業者によってせりが行われる。2005年の取扱数量は、全品目合計で約916,866T、一日当たり水産物2,167T、青果1,170T、金額にして約5657億円(一日当たり水産物1,768百万円、青果320百万円と云われている。

国鉄東京市場駅が存在した事がある。線路がこれらの建物に平行して存在し、利用した鮮魚貨物列車などが入線していた。
生鮮食品でも貨物運送が貨物列車からトラックに徐々に移行し、その影響で冷凍車や活魚車などの貨車や鮮魚貨物列車なども廃止され、駅も廃止された。市場の青果門付近から朝日新聞東京本社の脇を通って旧汐留駅跡へと伸びる細い歩道が線路跡。

市場外は、人人で混み合っていた。市場も狭くなっているようだ。

外人に人気の築地市場            市場前の交差点
  

変わった、変わった。汐留―新橋駅間、江戸初期は海であった。それが急ピッチに再開発が進み、新しい街として歩みはじめている。
汐留エリア。汐留の地名は、この地の土橋に江戸城の外堀と海とを仕切る堰を設けて潮の干満が中に及ぶのを防いだことによると言われている

四十七士たちは、左手に海を見ながら新橋方面と凱旋したであろう。

築地を過ぎると高層ビルが             汐留から新橋駅まで地下道
    

「新橋駅」前から烏森。新橋は、古くから烏森を中心に南地と呼ばれる一流花柳界でしたが、戦後は大衆文化が根づき、大衆娯楽ゾーンとしてサラリーマンを対象にした商業地区として繁栄してきています。
西口駅前にニュー新橋ビルが建ったのは昭和46年。 それ以前は、戦後のヤミ市からの飲食店が300以上ひしめき合い、現在のSL広場には場外馬券売り場があり賑わっている。
防災上の観点などから都が開発を行い、当時としては斬新なデザインでモダーンな11階建の「ニュー新橋ビル」がオープンし、同時に商店会も誕生。 以来、今年でちょうど30周年目を迎え、今は、雑居ビルの典型がこのニュー新橋ビルになっている。

「烏森」の名は、昔、この地が江戸湾の砂浜で、「枯州」とも「空州」とも呼ばれていたとか、砂浜の松林に、烏が多く集まって巣が多かったからとか。?

新橋駅烏森出口     雑居ビルが乱立          烏森神社鳥居     
    

「烏森神社」は、港区新橋二丁目にある神社。祭神、倉稲魂命(稲荷神)・天鈿女命・瓊々杵尊を祀る。
940年、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。
秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが始まりという。

新橋の飲み屋街に神社が         ビル2階が本殿
    

「新橋切腹最中」は、浅野長矩の切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店とし、数々の語り草が和菓子を通じての思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させてみたと云う最中。
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」の辞世の句とともに出来たともいう。

徳川三代将軍家光は、二代秀忠の法要を、芝増上寺で営み、その帰途、愛宕山の石段にさしかかります。折りから吹きおろす山風の馥郁たる梅花の香りに、一言「誰かある、騎馬にて山上の梅を一枝手折って参れ、城中の土産にいたすぞ」・・・・この出世の糸口を平九郎は迷わず捉え、この切り立った石段を、人馬一体の見事な馬術で登り降りし、家光の激賞と志津三郎兼氏の名刀の褒美を勝ちえました。気紛れ家光のたった一言がもたらした、一人の武士の命運。
そこには人の目に触れない不断の精進が脈々と流れている事に、この武勇伝のあながち偶然とばかりはいえない真実が潜んでいる。
お菓子の表裏の階模様は八十六段の出世の石段に因みました。それは、一歩一歩踏みしめて上る人生の階段をもイメージした最中もある。

切腹最中ビル          日比谷通りに碑が      田村家屋敷跡は区画工事中
    


「田村 建顕」、(1656年ー1708年、千勝(幼名)、宗長(初名)、建顕。官位ー従五位下、右京大夫、因幡守。藩ー陸奥国岩沼藩主、陸奥国一関藩主。 

1656年、岩沼藩の初代藩主である田村宗良の次男として生まれる。1670年に右京大夫に叙任され、1678年に父の死去により跡を継ぐ。
1681年、岩沼から一関に移封された。学問に秀でていたため、徳川綱吉から寵愛されて、1691年に譜代格となり江戸城奥詰に任じられた。
1692年には奏者番に任じられ、名を宗長から建顕に改めた。1693年には城主格となる。1695年に宮床伊達氏の当主の伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えるが、幕府に届け出る前に仙台藩主伊達綱村の養子に変更される。
1701年、播磨赤穂藩主の浅野長矩が刃傷事件を起こした。後の元禄赤穂事件の発端となる事件だが、このときに老中の土屋政直の命で長矩の身柄を芝の屋敷に預かり、大目付の庄田安利の指示により邸内の庭で切腹を務めさせた。
この扱いをめぐって長矩の本家の広島藩主・浅野綱長と建顕の本家の仙台藩主伊達綱村から抗議を受け、庄田安利は罷免されたという。

「風さそふ花よりもなほ 我は春の名残を如何にとやせん」

元禄14年(1701年)3月14日、 赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が江戸城殿中「松之大廊下」 に於いて高家 吉良上野介義央に対し刃傷に及んだ後、 陸奥 一ノ関領主 田村右京大夫 (三万石)に預けられ、 即夜、幕命により切腹をした。介錯人 磯田源太夫 享年35歳であった。

広大な田村邸跡は、大工事中,     浅野内匠頭の終焉の碑。
    

御成門交差点の付近に門がある。かつての増上寺域の北端にあたり、門は徳川将軍家専用の参詣門として設置されたもの。

交差点から見た東京タワー            御成門
    

「増上寺」は、1393年、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれ、武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられている。
室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展する。安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれた、1590年。
家康公がときの住職源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられ、1598年には、現在の芝の地に移転。
江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向う。
三解脱門、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣の勅許もある。
家康公は、1616年増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿している。
二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所でもある。
墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれている。

増上寺楼門                                     鐘楼
    

境内から見た東京タワー        本殿                     本殿内
    

「旧方大門」は、現在のものは国道の通行整備のため、1937年に原型より大きく、コンクリート製に作り直され、旧大門は、1598年に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたもの。
その旧大門は、1923年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築された。


方丈門
  

「木造仁王像 二躯」は、 重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されて寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立つ、修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、1789年・1847年の二度にわたり修理が行われていることがわかる。
1855年の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、1948年、三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されていた。

仁王像門
  


次回は、芝公園から慶応大学三田方面に。


忠臣蔵を歩く 八丁堀・明石へ

2013-01-23 | syu散歩
1897年完成の旧永代橋が架橋されたのは、元禄11年 1698年。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流で、深川の渡しのあった場所。隅田川で四番目に作られた橋。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。
橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録に残る。
1702年12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。
1719年に、幕府は永代橋の維持管理出来ず、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。
通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、1807年9月、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こしている。

隅田川に流れ込む日本橋川            赤穂浪士が渡った永代橋
    

江東区から中央区に入ると、新川、八丁堀、新富町で、今はJR京葉線が地下に入っている。

新川の旧名である霊岸島の名は、1661年、この地に霊厳寺が建立されたことによる。霊厳寺は明暦の大火ののち深川に移転し、跡地は町地となって以後埋め立てによる拡張工事が行なわれた。
江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地、屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていた。
越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる石垣石が出土することがある。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようだ。

明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名に、堀は次第に埋め立てられ、1923年の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられた。
その後、町名が改められ「新川」となって現在に至っている。

公園内に越前堀跡の碑がある
  

「亀島橋」は、亀島側の流れが南東方向に大きく屈曲する手前にかかる橋。
架橋年代は古いほうらしく、赤穂浪士が討ち入り凱旋時に通った橋のひとつといわれる。今はビルの谷間。

門仲、永代橋、ここ亀島橋から浅野邸へ向かったと思われる。
  

亀島橋を渡るとここは、堀部安兵衛武康の碑がある。住所 中央区八丁堀1-1・亀島橋。
亀島橋のたもとに、忠臣蔵で有名な堀部康兵衛の武勲をたたえる碑がたっている。
堀部安兵衛武庸は、赤穂藩浅野家の家臣堀部弥兵衛の娘妙と結婚して、当時の水谷町に居住し、剣道の達人として知られていた。(昭和44年八丁堀一丁目町会によって碑が建立)
越後新発田五萬石、溝口藩 中山弥次右衛門の子。
元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年 玉木一刀齋道場師範。
高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる剣道指南、赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す。歿三十四歳。

亀島橋             堀部安兵衛武庸の碑
    

昼食は、懐かしい、八丁堀「たん 助六」で定食とビールにした。肉は軟らかく良い味を出していた。
昔、職場の同僚と、日本酒を飲みながら牛たん三昧の店でした。 八丁堀駅から2分足らずの新 大橋通り沿い。


  

江戸幕府は、1858年の日米修好通商条約をはじめとして英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これを「安政の五カ国条約」という。
この条約では、東京と大阪の開市、箱館(現・函館市)、神奈川(現・横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現・神戸市兵庫区)、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。
開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅倉庫商館を建てることが認められ、居留地の外国人は、居留地の十里(約40キロ)四方への外出や旅行は自由に行うことができたと云う。
十里より外の自由な行動は許されなかった。条約上は領事裁判権を認めただけのものであり居留地内の外国人も日本の行政権に従う必要があったが、実際には諸外国とのトラブルを避けるため治外法権的取り扱いがなされ、関税以外の租役は徴収されず、また外国人商人の外出には日本人の護衛が付けられることが通常であった。

「築地居留地」は、開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。
青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に赤坂に移転。

  

「浅野内匠頭邸跡」は、 元禄14年 1701年賀勅使の供応役を命ぜられた播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩は度重なる恥辱に耐えかねて、ついに殿中・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招き、これが翌年、大石内蔵助良雄を盟主とした四十七士のあだ討ち事件となるわけである。
「忠臣蔵」で名高いこの浅野家の江戸本邸跡は、ここで、都指定史跡となっている。

「浅野長矩」 1665-1701 赤穂藩主 53500石の領主 赤穂浅野家江戸城中で乱心で、改易処分となる。

四十七士は、浅野邸で、浅野内匠頭長矩の妻瑤泉院(阿久利)に、大石は 討ち入りの報告をしている。


    

「芥川龍之介生誕の地」は、浅野内匠頭邸跡の碑に近い。芥川氏は、夏目漱石門下で、「鼻」「羅生門」「河童」「或阿呆の一生」などの数多くの文学作品を残した近代文豪の一人。
芥川龍之介は、 1892年~1927年、明石町で生を受けている。昭和18年、文藝春秋社が設けた、芥川文学賞。


  

「築地本願寺」は、1617年、創建、浅草近くの横山町に第十二代宗主(門主)准如上人によって京都西本願寺の「別院」として建立され、「江戸浅草御坊」と呼ばれている。1657年、「振袖火事」と呼ばれる大火で焼失、幕府の区画整理のため旧地への再建が許されず、その替え地として、八丁堀に、佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、1679年に再建、「築地御坊」と呼ばれた。
1923年、関東大震災により坊舎を焼失し、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計により、1934年、現在の本堂が落成。
本堂の外観は「インド様式」の石造りとなっている。本堂内部は、伝統的な真宗寺院の造りになっている。

  

築地市場から汐留、新橋方面に。