早稲田は、冨塚古墳があった。水稲荷神社付近で江戸名所図絵には百八塚とある。冨塚を稲荷塚とも言った。形は、円墳、石カク、入り口に狐穴から、水稲荷神社が生まれたという、古墳を改造し山にして高田富士とよばれ、富士信仰の修経場となっていた。
今は、早稲田大学の校舎に、冨塚に毘沙門山があった。藤原秀郷が船を繋いだ松があり、この辺は入海であったようで、面影橋の太田道灌
「山吹の碑」、「道灌舟つなぎの松」など道灌は狩りによく来ていたようである。又、鎌倉街道が通っていたともいう。
「早稲田大学」は、大隈重信が創立し重信は立憲改進党総理。1838-1922佐賀藩出身、尊王攘夷派の志士して活躍した。
大久保利通を補佐し財政の基礎を築いた。右翼の爆弾で右足を失う。
「早稲田大学」は、前身東京専門学校が設立されてから百年以上をを迎え、大学は永遠の生命を持っていると言われるが、日本の大学の歴史は浅い。古いものでも百年を超えているのは稀である。
この散歩で、慶応、早稲田大を通って来たが偶然である。
大隈重信像 早稲田通り 校内
早稲田「穴八幡宮」は、1062年、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。1636年に、的場が造られ、この八幡宮を守護神としたとある。
1641年、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。
3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。
流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には、1738年に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。
江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。
1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。
朱塗り大鳥居 本殿 山門
神社の、布袋像の水鉢 は、区指定有形文化財(工芸品)。
1649年造立、区内最古の水鉢。江戸城吹上御苑に置かれていたが、徳川家光により奉納されたという。
高田馬場流鏑馬は、区指定無形民俗文化財 8代将軍徳川吉宗が奉納したのがはじまり。1979年から毎年体育の日に都立戸山公園を会場として行われている。
又、この一帯は、前方後円墳。
大木の神木が境内に 高田馬場流鏑馬は有名
西武線「高田馬場駅」から3つ目、「新井薬師前」下車、ここは、中野区。薬師堂から、中野寺町、忠臣蔵コースの閉めとする。
「新井薬師」は、歴史は古く天正14(1686)年に行春が堂宇を建てたことに始まる。
本尊は弘法大師空海の手によるとされる薬師如来。これが寺の名前の由来となっている。
新井薬師は、子育薬師とか治眼薬師とも呼ばれる。1617年に住職玄鏡が夢想丸という妙薬が難病の子供達を救ったことから付いた名という。
徳川秀忠の娘である後水尾帝中宮東福門院が、1629年に眼病平癒祈願を行ったところ快癒したことから治眼薬師と呼ばれるようになったのだという。
その後、1744年に運樹が住職となるとさらに寺勢が増す。しかし、1764年に火災に遭い堂宇を焼失。運樹は再建に取り掛かるが本堂の再建を待たずして、1767年にこの世を去る。
その運樹の遺志を継いで英俊が長い歳月を掛けて1779年に本堂を再建。
本堂再建に際して英俊が建立した運樹や信徒を顕彰する高野山延命院の引導地蔵を模した供養塔が本堂と向かい合って建つ。
苦労の末に再建された本堂も第二次世界大戦の戦火に遭って再び焼失。現在の本堂は戦後の再建による。
中野の新井薬師 歴史を感じる山門
山号 新井山 梅照院 薬師寺、本尊 薬師如来と如意輪観音表裏二佛一体、札所 御内府八十八ヵ所霊場第七十一番札所
開山 新田義貞の家臣、 僧行春(元北条家家臣梅原將監)。
境内には『白龍権現水屋』、『本堂再建供養塔』、『プリンセス雅』、『十六歳聖徳太子像』、『新東京百景の碑』、『豊川稲荷』がある。
本殿 石仏 薬師堂
3月 さくらの開花予想. 4月 さくらまつり. 7月 中元福引セール. 中野チャンプルー. フェスタ. 薬師盆踊り大会. 8月 あいロードまつり. 9月 北野神社例大祭. 12月 歳末 セール. 毎月 たまごストリートライブ.
毎月8日、18日、28日は新井薬師お縁日がある。
旧早稲田通りの焼肉屋で、 旨い焼肉をウマイで
次回は、忠臣蔵散歩コース最後の「万昌院・功建寺」へ。