syuの日記・気まま旅

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兼六園と武家屋敷

2012-09-02 | 気まま旅

金沢市西部に、県工業試験場や産業振興センターなど「地場産業ゾーン」が形成され、市街地の開発と文化財の観光資源の保存、管理などが課題となり、
武家屋敷、香林坊、駅前開発、兼六園周辺ゾーンの整備が進められている。
100万都市圏構想・国際コンペンション都市と模索されている。深谷温泉、湯涌温泉などが見直されている。

「石川県能楽堂」
県が能楽や邦楽などの伝統的な芸術文化の保存と県民文化の振興に資することを目的として設置・運営する施設で、1972年に全国で初めての独立した
公立能楽堂として開館。
周囲は兼六園や本多の森公園などの緑に囲まれ、多くの文化施設に隣接している。8月を除き毎月定例能と呼ばれる催しが開かれ、能、狂言、仕舞が上演される。
本館1階の能舞台は、入母屋造の破風のついた檜皮葺屋根で、西本願寺の国宝北能舞台を模したものとされる。1932年に建てられた金沢能楽堂の本舞台を県が譲り受け、
移築したもの。

香林坊から兼六園の坂道を百万石通りという
  

「辰巳用水」は、3代藩主前田利常が1632年、小松の板屋兵四郎という測量技術にすぐれた町人を工事の責任者として造らせ、城の東南、城下を流れる
犀川上流の辰巳村で犀川の水を取り込み、そこから小立野を流れ、兼六園、金沢城へと続く全長約10kmの用水。
1631年、城下の火災により、金沢城は本丸御殿の焼失など多くの被害を出し、城下をはじめ城内へも上水と防火用水として、潤沢な水の供給が不可欠となり、
前田家は全力をあげて工事に取りくみ、加賀・能登・越中の農民や鉱山職人を動員し、作業員に一日4回の食事を与え、一年間で完成させたといわれる。
兼六園までは少しずつだが、土地が下がってきていて、水は台地周辺の寺院や畑地を潤しながら御城へ向かって流れ、1日に約1700トンの水が運ばれている。

兼六園前に辰巳用水が        三十間長屋、いもり堀も近い
    

「成巽閣」は、重要文化財指定。江戸時代末期の建築で、城の辰巳の方向にあるので巽御殿とも呼ばれる。
13代藩主前田斉泰が、母「真龍院」の隠居所として1863年に、兼六園内に建てた。寄棟造、柿葺きの建築、庭園の飛鶴庭は知られている。

能楽堂と並び巽御殿、兼六園に                 殿の庭園
    

「百万石通り」は、市の中心市街地を取り巻く通りで、城公園と兼六園を1周するコースいう。金沢百万石まつりのメインイベント百万石パレードのコース。
パレードは、2007年から、パレードのコースが、金沢駅東口〜武蔵〜香林坊〜広坂〜兼六園下〜金沢城公園まで。

                             お城の石川門方面の広場
  


「護国神社」は、人々が歩み進める人生においてふりかかる災いを鎮め、日々の生活を安全に、そして安心して送れることを祈り続けて、
県出身の英霊(戦没者の御霊)を祀っている。
明治元年の戊辰の役(北越戦争)で戦死した加賀藩の百八名の戦没者の御霊を、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが創まり。
以来、西南の役、日清日露の両戦役、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争までの英霊、四万四千八百八十七柱を合わせ祀っている。

県・護国神社        大鳥居             拝殿
    

「兼六園」は、城の石川門に隣接する林泉回遊式の大庭園で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園、と共に日本三名園の一つである。
1676年5代藩主前田綱紀の造った「蓮池庭」が始まりで、代々の藩主によって天下の名園に仕上げられていった。
松平定信が「宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望」の六勝を兼備するとして、「兼六園」と命名したとある。

霞ヶ池、灯籠、橋、曲水、翠滝、瓢池、冬の雪吊り、カキツバタなどが知られている。園は、室生犀星「性に目覚める頃」。
井上靖「北の海」。中野重治「歌の別れ」。五木寛之「風に吹かれて」泉鏡花「義血侠血」など多くの文学作品に登場している。

兼六園             西田家庭園                   園内遊歩道
    


「金沢神社」は、主祭神 菅原道真、 白蛇竜神、 琴平大神、 白阿紫稲荷大名神、 前田斉広公、 前田斉泰公。
創建 1794年、市に鎮座する神社で菅原道真を主祭神としている。
1794年、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したのに始まる。
兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主前田斉広が建てた竹沢御殿の鎮守社とされて竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。
神社には、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀っている。

金沢神社                     楼門                                  拝殿
    

「津田玄蕃邸・医学館」は、1901年,第四高等学校医学部は金沢医学専門学校となり,旧医学館は本校校舎となる。1903年時点では,旧医学館を本校,
四高内教場を第1分教場,小立野台に新築された金沢病院を第2分教場とした。
破風部分中央の瓦には,MとAを組み合わせた(Medizin Apotheker Kunst)金沢医学専門学校のマークがみられる。
1912年,小立野の金沢病院に隣接し医専校舎が新築されたあと旧医学館は乃木会堂などとして維持され,1923年兼六園内に移築し、
現在は,兼六園管理事務所として使用。

               旧金沢医学校跡
    

「石川四高記念文化交流館」は、四高の歴史と伝統を伝える展示に加え、旧四高の教室を多目的に利用できる記念館と
泉鏡花、徳田秋声、室生犀星等、石川県ゆかりの文学者の資料を展示。
「石川近代文学館」によって構成されている。兼六園周辺文化の森の新しい「学びとふれあいの複合文化スペース」として、平成20年に誕生。

           石川旧四高         現文化交流館
  

町名「香林坊」は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力。
再開発された映画街の広場には、この由来にちなんで、メグスリノキが植生されている。

「大野庄用水」は、1573~1592年頃、今から約400年前に藩祖利家の家臣富永佐太郎が開削したと言われており、金沢で最も古い用水とされている。
取入口は犀川右岸桜橋上流にあり、延長約10km、幅平均6mで、長町の中を貫流して長土塀を経て昭和町に至る。
かつては城の防衛や防火、消雪、排水、木材の運搬など城下町の生活において重要な役割を担ってきており、この他にも農業用水として、金沢市西部の大徳、
金石地区などおよそ1400石の農地に恵 みを与えていた。
 
武家屋敷跡
  
 

「鞍月用水」は、1644~1648年頃、油屋与助という人物が手掛けたとされている。、実際は、正保年間に行わ れた一部改修の時に携わっただけだという説もある。
こちらは、大野庄用水の2km上流の城南2丁目右岸で取水し、全長約15km川幅は1.5mから6.4mと箇所によって異なっている。大野庄用水と同様に、
町中の生活用水、防火用水と併せて金沢西北郊外13カ村、8千石を潤す大用水でもあった。

鞍月用水           古木                    古い家屋が
    

「長町武家屋敷」は、香林坊から裏道へ入っていく長町の武家屋敷へ出る。江戸時代の武家屋敷の様子が残る長町武家屋敷がある。
長町は前田八家の1つ長氏の屋敷があったことから名付けられ、実際の長氏の屋敷は、若干違っている。
長氏の屋敷跡には、現在玉川公園や金沢市立玉川図書館になる。
長氏の屋敷の隣には同じく前田八家の1つ村井氏の屋敷がある。現在は金沢市立中央小学校となっている。

長町武家屋敷一体は長氏、村井氏をはじめ上級武士から中級、下級武士などが住んでいました。現在では、当時の武家屋敷は殆ど残っていないがその中で
中級武士だった野村家邸は当時の武士の邸宅の様子を伺うことができる。

前田家ゆかりの浄土真宗の寺が
    

長町武家屋敷跡は、加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ねて、土塀と石畳の路地が続いており、藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができる。

水野庄用水                 武家長屋が点在する
    


1820年に加賀藩が、この近辺に点在していたお茶屋を集めて整備した茶屋街がある。
石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が軒を連ね、藩政時代の情緒が色濃く残っている。


休憩所                  用水に木の橋が住宅玄関先まで架る
    


次回は、近江町市場館・犀川大橋寺町へ。

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