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栃木県小山市ー古河の旅 7

2016-08-03 | 気まま旅

栃木県小山市は、県南部で市名が、利根川支流「思川」に臨む台地、西の低地かわ「小さい山」・またアイヌ語の「丘のある」とする説がある。
東北高速の佐野ICからは離れているが、JR東北新幹線・本線・両毛線・水戸線・国道4号線(バイバス)・・と宇都宮に次ぐ市である。
歴史は古く、史跡の「摩利支天塚古墳の前方後円墳2基」・「琵琶塚古墳」・古代・中世では、土豪「小山氏」の城下町。
江戸時代には、日光街道の宿場町と史跡の乙女不動原瓦窯跡がある。瓦の生産が行われた。製糸や製粉の農産物加工も盛んで「結城紬」が知られている。
結城紬は、(重要無形文化財指定)。思川には、「乙女河岸」が江戸と結ばれていた。(数回掲載済)
今回は、時間の関係で、小山城(祇園城)南北朝ー小山義政の乱(1380年)の支城として名をはせ、ここが本城となっていった。(現在公園)

 小山駅前・「関ケ原の戦い」は、小山から(小山評定)


藤原兼光ー・-小山政光(頼朝仕)-朝政ー朝長ー時長ー宗長ー貞朝(~1335)-秀朝(楠木正成笠置城合戦参加)-朝氏ー「氏政ー義政(~1382)ー
ー小山若犬丸ー泰朝」。

「小山氏の乱」
室町時代前期ー下野守護であった「小山義政」が鎌倉公方「足利氏満」に対して起こした反乱。
(小山義政の乱、ー1380 -1382年)
小山義政の滅亡後に遺児の小山若犬丸(隆政)に引き継がれて続けられた反乱(小山若犬丸の乱、1386-1397年)の総称。
17年にわたって繰り広げられた結果、小山氏嫡流は滅亡することとなる。(小山若犬丸は、飛地奥州へという説もある)

                賑わった小山城下・宿場町


「上杉景勝」1555-1623ー上杉謙信後継者・初代米沢藩主・新潟六日町長尾政景の子・母謙信の実姉ー謙信の養子に。
「直江兼続」1560-1619-米沢城主・景勝の属す。上杉家の家宰・米沢30万石ー景勝の後産業育成と城下町整備
「石田三成」1560-1600-徳川家康打倒の天下分け目の「関ケ原の戦い」を・佐和山城主・近江国で誕生。
「田丸直昌」1543-1609-小山会議で、諸将は、東軍に味方を約束したがただ一人西軍に与した。家康に豊臣家秀頼を守ることを選んだ、家康は、田丸の
忠義を披露し刀一振りを与えたとある。田丸氏は、主君ー北畠具房・織田信雄・豊臣秀吉・秀頼ー妻は蒲生賢秀の娘。戦い後、助命され越後へ流罪
「堀 秀治」に預けられたとある。

「小山評定・会議」
慶長 3年の1598年、「豊臣秀吉」が没して間もなく、徳川家康と石田三成らの間には徐々に不穏な空気が漂い始め、その頃、会津の「上杉景勝」は密かに石田三成と気脈を通じて軍備増強に努めていた。
上方にいた家康公は、再三にわたり上洛しての釈明を求めたが、上杉景勝は拒否。
これに対して、1600年 6月、家康公は上杉景勝を討つために軍を率いて会津へと向かうことになった。
ところが、家康公が下向して間もなく、上方の情勢が一転、石田三成を中心に家康公討伐計画が急速に進められた。
このような情勢の中、家康公は 7月21日、上杉討伐のために江戸城を出発。
その際に軍を前軍と後軍に分けて出発し、24日には家康公の3男で、のちに2代将軍となる「徳川秀忠」の前軍が宇都宮に到着し、家康公が率いる後軍も
小山に到着した。
この時に家康公は伏見にあった家臣の「鳥居元忠」からの急使により上方で石田三成が家康公打倒の兵を挙げたことを知ったという。
翌25日には、かつて小山氏の居城であった小山城(祇園城)内の南の領域である「須賀神社」境内に、三間四方の仮御殿を急造して軍議が開かれることとなったが、家康公がこの小山に本陣を置いたのは、源頼朝が奥州に出陣した際に小山に軍営を置いた吉例に従ったためともいわれている。

軍議には家康公と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政ら家康公の家臣の他、家康公の上杉征伐に従っていた、福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの豊臣恩顧の諸将が集まった。
この軍議で家康公は諸将に、このまま会津に向かうか、引き返して石田三成と戦うか、それとも三成に味方をするかと意向を聞いた。
大坂に妻子を残してきた諸将の間には動揺が広がったといわれるが、評定中、福島正則が人質を捨てても家康公の先鋒として西上すべきであると進言し、又、山内一豊の発議によって東海道に城や領地を持つ大名たちがこれらを明け渡すこととなり、家康公への協力を誓った。
こうして軍議は家康公の期待通り、会津の上杉討伐を中止し、西上して三成と戦うことに決まった。これが「小山評定」と称されるものである。
この軍議以後も家康公はしばらく小山に滞在して情報の収集や上杉勢への牽制、その後の事を考えての工作などを行っており、8月、早朝、家康公は小山を発ち江戸へと向かった。そして、9月15日、家康公率いる東軍は、関ヶ原合戦において勝利することになる。現在、小山評定に関連するものといえば、小山市役所の敷地内に碑が・・・(歴史的に重要な場所)
この吉例にならって、1623年、頃に、2代将軍秀忠により、この地には徳川将軍家の日光東照宮社参の際の休憩・宿泊施設としての日光道中12ヶ所の御殿の 1つ、小山御殿が造営された。小山御殿は周囲に堀を廻らし、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられるといった厳重な配置になっていたという。
将軍家による日光東照宮社参は、1663年、に 4代将軍家綱が行った以降、8代将軍吉宗が享保13年の1728年、に再開するまで財政難のために中断してしまうが、この間に大風によって御殿の建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は、1682年、に古河藩によって解体されてしまった。
御殿跡は現在、小山市役所北側の小山御殿広場となり、空堀の遺構を見ることができると云う。

                   小山評定通リ


「福島正則」1561-1624 豊臣秀吉子飼いの武将・関ケ原東軍先鋒・家康に天下を取らせた猛将・安芸、備後19万石。
「山内一豊」1546-1605 内助の功で一國の主・土佐藩主、のちに20万石。
「黒田長政」1568-1625 初代福岡藩主、基礎を築いた名君・重臣~軽輩を交えて討論会を月1回ー「異見会」
「浅野幸長」1576-1613 和歌山城主(浅野長政の長男)甲斐国16万石・紀伊国37万石・砲術の腕前は天下一と言われた。
「細川忠興」1563-1645 細川藤孝の子岐阜城攻略の功・豊前・豊後国一部拝領・千利休から石灯篭を貰い愛し墓石にしている。
「加藤嘉明」1563-1641 豊臣水軍の将、会津若松城主・豊臣秀吉・徳川家康・秀忠・家光に仕えた。

小山評定が行われた旧郷社「須賀神社」ー源頼朝も戦勝祈願・家康は、関ケ原戦勝祈願ー

              940年「藤原秀郷(平将門を討ち取った)」創建


祭神-素盞嗚命・大己貴命・誉田別命
京都八坂神社より御分霊を迎え祀られたという。


小山市中久喜から1159年現在地に移されている。
祇園さん・天王さまの愛称で、小山市の全域総鎮守として祀られている。
徳川家より奉納された「社宝朱神輿・重量2t」がある。(7月の祇園祭)

参道                境内鳥居            楼門


家康寄進状・月宮鑑・牛頭天皇額・鏡等文化財多い。

舞殿                        本殿


               明治天皇小山行在所跡


百人一首の天井画で知られている「妙建寺」-山号・法頂山・日蓮宗ー

1334年創建 開基日蓮六老僧の一人「松本房日念」


本日は見られなかったが本堂の格天井に百人一首、龍など画が


「常光寺」-浄土宗・本尊ー阿弥陀如来。
1311年創建一時廃寺、1602年中興開山とある。

新幹線小山駅に近い 山門                    鐘楼           六角形十三夜堂


1868年戊辰の役・小山の戦い時ー阿弥陀如来台座の弾痕
新政府軍大軍監香川敬三を中心に、彦根、岩田村、須坂、笠間、長州と薩摩の一部の兵の総員200名位の官軍が宇都宮城に入城し、旧幕臣板倉勝静を幽閉し、北関東の要綱を支配、これに対し、4月、江戸城開城から、江戸を脱出した旧幕府軍歩兵隊長であった大鳥圭介軍(2000人位)が、「討賊の義旗をあげ、興復を計らん」と自らが総督となり、新選組土方歳三を、参謀先鋒軍にして、東照大権現の旗を先頭に、宇都宮城に向かい、中軍となっていた大鳥軍は、4月16日に、小山に達し、そこで新政府軍と遭遇して戦争となり、17日まで戦い、戦況は、旧幕府軍が優勢となり、新政府軍は敗退。
この戦いを、「小山の戦い」。
弾痕はこの戦いの時、大鳥軍が発砲した弾丸が阿弥陀像の台座に当たって出来たものと云う。

         本堂                 六地蔵


小山駅南口近くに鎮座する「白山神社」

         創建不詳・祭神ー子授け・安産の御神徳と云う


次回は、茨城県結城市へ。

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