syuの日記・気まま旅

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下田 唐人お吉の安直楼と 身投げした・お吉が淵

2018-10-29 | 気まま旅
あじさい公園と城址。
北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。
1590年に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。

北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は1601年に三河国の田原城へ転封となり、
以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。
下田城は、通称 鵜嶋城と云い、城郭構造 海城、築城主 後北条氏、築城年 不明、主な城主 後北条氏、家康家臣(戸田氏)廃城年 江戸時代、遺構 空掘 。

(駅近くの下田城は観光用で美術館になっている)

「幸福稲荷神社」は、 古くは金花稲荷といい、創建時代は定かでない。
1708年に第10代下田奉行・酒井幸四郎が、1717年には第13代下田奉行板橋五太夫がともに石灯篭を献納した記録が残っている。
1843年、下田奉行・土岐丹波守の着任の際に再建され、幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられている

    

「下田公園あじさい」
6月1日から30日まであじさい祭が開催される。下田市街と下田港を一望にできる下田公園がアジサイの花で埋まる。
総計15万株・300万輪の紫陽花は訪れた人を圧倒するという。
園内を巡る遊歩道に延々と続くあじさい大輪の花、今日は小さなつぼみが点在していた。

    

「下田城」は、現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。
直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。
最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。

    

下田城の戦い 下田城攻撃軍の編成 約10,000人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家)
下田城守備軍 約600人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)、水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。
 
「馬場ヶ崎展望台」公園の東部に位置する、下田港を一望できるポイント、途中、女性の裸体の芸術品が道の両側に並んでいる。

    

下田城城主「戸田忠次」
徳川氏とは縁戚関係及び主従などの関係があったため、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢を以って1564年、
徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わり、次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2,300石を与えられた。
その後も1568年からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の掛川城攻め、1573年の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、
1590年の小田原の役などで功績を挙げた。
徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜った。
 
  

「佐藤惣之助」1890 - 1942、日本の詩人、作詞家。神奈川県川崎市 、 佐藤紅緑に師事し俳句を学び、1916年に最初の詩集である『正義の兜』を出版、
    

大安寺
創立年代は不明。創建当時は因善寺、真言宗であった。1590年 僧、寂用英順が二世となり、曹洞宗に改宗と伝えられる。
山号の乳峰山は、裏山の形状が乳房に似ている事から付けられた。

薩摩十六烈士の墓(下田市指定史蹟)が建立されている。1688年、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、
積荷の一部を海に捨てて危うく遭難を逃れ下田に入港した。
しかし御用材を捨てた責任を取り、乗組員16名は3名の武士を含め15歳の少年七蔵まで全員が切腹。大安寺に埋葬された。
船に残っていた柘の木は寺に寄進され、本堂の柱になっている。

    

幕末開港時のペリー艦隊の入港中(1854)当寺において米人が遊女を写真にとっている錦絵が保存されている。
境内から清水が豊富に涌き出ており、町の水道源として利用された時期もあったと云う。

  

「唐人お吉」アメリカ総領事ハリスの看護師。1841-91 芸者、伊豆下田の舟大工の娘、7歳で琴三味線を習い14歳で芸者となる。
ハリスの看護師となるがすぐ暇を出されるが、外国人の事実上の妾で不遇な後半生を送った。
給金は、一カ月十両、支度金二十五両が幕府から下されていたが、実際はお吉がハリスの元に通ったのは、わずか三夜に過ぎなかったという。
だが地元では、異人との交わった女と云う事でお吉を「唐人お吉」と呼んでさげすんだ。
後年お吉はアルコール中毒を病み、下田川に身を投げて51才の生涯を閉じた。

中世の船
  

「ハリス」条約を締結した初代アメリカ行使。1804-78.外交官タウンゼント・ハリス、ニューヨーク州生まれ、商人から外交官に、
安政3年駐日領事として来日、下田玉泉寺に入る、翌年江戸に上り日米修好通商条約を調印に成功している。
ハリスは、日本人の混浴風景を見て「一つの風呂に男女老若とも同じ風呂に入り全裸になって体を洗うのに理解できず、判断に苦しむ」と語っている。
                              お吉実像 -お吉19歳 安政6年撮影-
                               撮影者:水野半兵衛氏
ぺりー艦隊上陸の碑                      出品者:水野重四郎氏
                

米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは1856年のことである。
もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする
女性の派遣を要請した。
当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。
困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時16歳、
評判の美人斎藤きち(お吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。
身を投げうってくれ」と、対価を条件にとした。
下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといって
お吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰ったお吉だったが、そのうちに諦めて
奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年のことである。

幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めるが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、
自らの命を絶ってしまう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく
墓石も寄進され現在に至っている。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているよう。

お吉の安直楼
  

「玉泉寺」は、ハリスが初の領事館を開いたお寺。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれる。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの
記念館があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されている。境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓がある。

  

「ハリスの小径」は、玉泉寺から約400m離れた海岸あたりで散策にふけった小径が、今では”ハリスの小径”として整備され、この小径は、
県道とは離れている海岸道で静か、下田港の豪華なヨット群を見渡す景色が続く。また、途中山側には、洞窟もあり楽しい。

ハリスの小径 
    

「お吉ヶ渕」の このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933)の篤志によって昭和8年8月に建立されたもの。
博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人で、昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を
懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったという。
地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてあり、今では摩滅して定かではない。
博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月カナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じた。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」この歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれる。

      

「新渡戸稲造」国際連盟事務局次長、教育者、農業者、思想家。盛岡生まれ、日本を世界に広め、「武士道」を英文で紹介
東京女子大学初代学長。

  

唐人お吉記念館「宝福寺」八幡山。 まことの愛をうばわれ、唐人とののしられ、いばらの道を歩んだ、お吉の一生、

お吉供養祭・ 毎年3月27日、お吉が淵にて開催している。入館料 300円

  

「新田御陣屋敷跡」幕府直轄地の伊豆下田は、三島代官所(後に韮山代官所)の支配下であった。1691年、三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて、
地方事務を扱った後、陣屋詰の韮山代官手代は常勤となり、代々片岡氏が世襲した。この片岡氏の陣屋を新田御陣屋と呼び、地方事務所の始めとなった。

メインストリートのマイマイ通りに出て南へ向かうと、道の反対側に下田御陣屋跡碑と並んで春水の松がある。
ここは明治29年に医業を営む傍ら、小説「唐人お吉」書きお吉を世に紹介した村松春水の屋敷跡で、この松はそのときの庭木である。
マイマイとは、カタツムリからきた名で、ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したと考えられている。道の向かいに、豆州41番の霊跡の海善寺がある。

    

「坂本龍馬」土佐藩の風雲児、1835-67 高知城下本丁筋の家に生まれ、北辰一刀流剣術千葉定吉に学ぶ、
土佐勤王党(武市瑞山、結成)に加盟し、脱藩して「勝海舟」入門。神戸海軍操練所で修行、慶応元年「亀山社中」を組織する。
翌年薩長同盟を締結させ、「海援隊長」となり商業を志し倒幕運動、「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。

日本を洗濯すると云い脱藩し、事の大半は自分が動き、残りの詰を他人に譲り、政府の職制案を作り自分の名を名簿から外している。
西郷は龍馬に将来を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と答え、西郷が人物の大きさを見たという。
京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ中岡慎太郎と共に命を絶つた。

「中岡慎太郎」1838-67 土佐藩士 薩長同盟に尽力、「土佐陸援隊隊長」。

    

宝福寺は、勝海舟が山内容堂と会い、坂本龍馬の脱藩罪の許しを請うた場所。容堂の前で、勝が飲めない酒を飲み干してみせたという。
龍馬がこの地にて脱藩を許されたことから、下田は「坂本龍馬飛翔の地」といわれるようになる。
本堂の横に「唐人お吉記念館」が併設されており、お吉と龍馬に関する様々な史料を見学することができる。入場料は300円。

山内容堂 1827-72 土佐 15代藩主、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、安政6年で隠居している。
その後、公武合体を理想とし政治活動を続け、大政奉還建白書を出している。明治5年中風を病んで没した。

下田港                        勝海舟の咸臨丸
  

宝福寺は、勝海舟が山内容堂に坂本龍馬の脱藩の許しをお願いした場所、嵐のために、山内容堂の船と、そして勝海舟と坂本龍馬が乗った船が、
それぞれ偶然、下田に寄ったという歴史的な偶然。
山内容堂が宝福寺にいるとの情報を得た勝海舟が、山内容堂がいる宝福寺を訪れ龍馬の脱藩の許しをお願いし、下戸であった海舟が、
容堂の要望で酒を飲まされた時の杯が展示されている。

その間、龍馬は下田湾に浮かぶ船で一晩明かし、龍馬の脱藩の罪を許したしるしとして扇子に瓢箪の絵を描いて、容堂は海舟に渡している。
この扇子の本物は東京国立博物館にあると云う。

                          坂本龍馬像
  

脱藩し、勝海舟の門下生となり、歴史的な薩長同盟を成功させたのは3年後、龍馬はまだ無名の存在だった。
しかし、晴れて行動の自由を得て、維新回天の大事業に突き進む端緒となったのが下田。

宝福寺に宿をとった容堂公は幕府軍艦の入港を知り、使いを走らせて勝を寺に招いた。勝は配下の脱藩土佐藩士3人を引き連れて宝福寺に乗り込んだ。
京都の情勢など意見交換が一通り終わった後、勝が切り出した。「坂本龍馬ら土佐の脱藩藩士を赦して、私にまかせてほしい」
容堂公はむっときたが、「まぁ、一杯いこうか」、と大きな杯に酒を注いだ。容堂公は「鯨海酔侯」と自ら名乗るだけあって大酒飲み。
勝が下戸であるのを知った上のことだった。勝が一気にその杯を飲み干したのを見て、上機嫌となった容堂公は龍馬らの赦免を約束した。

土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことだったが、勝にとってはかけがえのない門弟であった。
勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めた。
容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書いて、「鯨海酔侯」」と署名した。この経緯は土佐藩の記録にも残っている。
そして正式に脱藩の罪はとかれた。

下田港に浮かぶ観光用黒船汽船


北条政子の墓から江ノ電極楽寺へ

2018-10-25 | 気まま旅
「北条時政」 土豪から幕府初代執権 1138-1215 娘北条政子 頼朝の挙兵に加わる。頼朝死後13人合議制で二代将軍頼家を廃して次男実朝を
三代将軍とした。有力御家人「梶原・比企・畠山・・」を謀殺し、後妻の娘婿「平賀朝雅」を将軍にしようと企てた。
陰謀が発覚、突如出家退隠・朝雅は殺されている。

「北条義時」 二代執権 時政の次男 1163-1224 13人合議制、「和田合戦」で和田氏を倒し実権を御家人支配した。
京都「九条頼経」四代将軍に迎え「承久の乱」で武家政権を確立させた。「六波維探題・公家政権監視」を設けた。

「源 実朝」 1192-1219 三代将軍 北条時政、義時父子が実権を。和歌や蹴鞠に熱中、子供が無く源氏断絶・右大臣に。
家集「金槐和歌集」を残す。頼家の子「公暁」の殺される。 

「北条政子」 1156-1225 尼将軍 流人頼朝と結婚 2男2女 頼家将軍で尼に、北条氏の権力拡大にを図る。
次男実朝を将軍し、その後見役として幕政に参画し、二代執権に義時に。三大執権に長男の「泰時」を据えた。

         JR横須賀線踏切を渡ると、住宅別荘地に、「川喜多映画記念館」が。


               鎌倉を愛した川喜多氏の別荘(現在、市が管理)


「川喜多長政」
明治36年、生まれ、東京府立四中を卒業後、大正10年中国に渡り北京大学に学ぶ。
ドイツに留学し、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感、帰国してすぐ昭和3年東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立し、
ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。
数々の名作を輸入・配給し、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など、映画史上不朽の名作がある。
昭和12年、ドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作し、昭和14年、日中戦争のさなかに上海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、
その最高責任者に就任している。
中国側スタッフに自由な映画制作を許し、軍部からの圧力に抵抗・戦後、昭和26年、社名を「東和映画」。
外国映画の輸入・ヴェネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を出品することに協力など、映画産業に大きく貢献している。



                     小路が続いている。


「東慶寺」  鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院、山号は松岡山ー寺号は東慶総持禅寺。

寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた

                           山門


「禅寺・伽藍配置」
建長寺は、正面南から中心線上に惣門・三門・仏殿・法堂・玄関・方丈と並び、
三門から仏殿には回廊が巡らされて、この回廊に接して東西に庫院と僧堂がある。
僧堂北には衆寮が建ち、三門の南方東西には浴室と西浄が配される。
一般に他の禅宗寺院でも伽藍の方位は南面を原則としている。

                           門


                北条政子・源実朝の墓は、本堂の裏のやぐら


                          本堂


                 墓石が並ぶ奥源氏山斜面にやぐらが


                        北条政子の墓


                          やぐら


                          やぐら


                         源実朝の墓


                         古い石塔


                東慶寺に並んで「八坂大神」(創建・建久3年)           


                           神木


                           社殿


                       商店街の「小町通り」


江ノ電で稲村ヶ崎へ。

「真言律宗」
奈良市の西大寺は、鎌倉時代に「叡尊」によって再興され、南都七大寺の寺格をもち奈良仏教の伝統を受継ぎ、一方で鎌倉時代に「叡尊」が興起した
密教と戒律の融合一致を説く新たな教旨をその法統としている。
鎌倉仏教の寺院ということができ、その法統は、後世「真言律宗」と呼称され、西大寺はその総本山。
「叡尊」が各地に新建・修造・寄附した数千の寺院がその末寺となって、西大寺を頂点とする「真言律宗」の一大教団が形成される。
その後の歴史推移の中で、当初の教団規模は縮小を余儀なくされましたが、
現代でも北は福島県いわき市から南は熊本県玉名市にいたるまで90数ヶ寺の末寺を擁する宗団として存続し、奈良市内・近郊の「般若寺、元興寺、
福智院、不空院、白毫寺、海龍王寺、不退寺、浄瑠璃寺・岩船寺、宝山寺、長弓寺」等々の由緒ある名刹も、西大寺の末寺であり真言律宗一門の寺院。
その教旨「叡尊上人」の「真言律」の法燈においては奈良の地に隠然たる地脈を築いているという。

「叡尊」 1201ー90  鎌倉時代中期の真言律宗の僧。
謚号ー「興正菩薩」興福寺の学僧で「慶玄」の子。
大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた奈良西大寺を再興した僧として知られる。

                        江ノ電 極楽寺駅


「極楽寺」  真言律宗の寺、山号 霊鷲山

                    開山 忍性     1259年創建


「北条 重時」 1198-1261 鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家、極楽寺 重時とも呼ばれた。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男で、母は、正室で比企朝宗の娘・姫の前。北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥。
極楽寺流の祖、「六波羅探題」北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。
「六波羅殿御家訓・極楽寺殿御消息」等の家訓の作者でも知られる。駿河守・相模守・陸奥守・・。

                   本殿       開基 北条重時


                   七堂伽藍と十三層塔・四季の花の寺で知られている。


                      重文 木造釈迦如来立像・坐像


                             地蔵堂


                             極楽洞


「江ノ電」
日清戦争の勝利により日本経済は隆盛を極めていた。
明治の中期、鉄道事業者の成功を目の当たりに見た多くの資本家たちが鉄道の建設を計画し、湘南地区に通じる鉄道の計画も10路線を超えていたと云う。
間と湘南は、古くから庶民の招福祈願と大山参りの精進落しの場として定着していた「江の島」。
風光明媚な湘南地区の、史跡と観光価値・・で、これら計画された鉄道の中で、唯一開業にこぎ着けたのが、「江之島電気鉄道が建設と江ノ電」
神奈川県会議員の要職にあった「福井直吉」ほか4名の有志が発起した鉄道会社。
明治31年、鉄道敷設特許状を取得後、33年、設立、35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間を開業され、延長鎌倉へ現在に至っている。



        「江ノ電」 鎌倉ー和田塚ー由比ヶ浜ー長谷ー「極楽寺」-稲村ヶ崎ー七里ケ浜・・・・。


「新田氏」ー清和源氏、家紋、大中黒・新田一つ引・本姓は、清和源氏(河内源氏)義国流 ・家祖は新田義重・上野国新田郡新田荘 。
主な根拠地、越前国・越後国・人物、新田義貞・脇屋義助・支流、分家ー山名氏(武家 → 華族)・里見氏(武家)・世良田氏(武家)など。
上野国発祥の豪族、清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする。
義国流足利氏と同族である。
上野国(群馬県)を本貫とした。

「義国と義重」は、渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(群馬県太田市)を開発。
1157年、平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘され、本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。
荘官ー任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固める。

                       市指定 十一人塚


義重は、源頼朝から参陣の遅さを叱責・その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年の「承久の乱」においても惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、
義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている
(吾妻鏡)ーこれらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。
新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。
早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。
その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。
以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれている。

                          供養塚 


足利高義の時代に元服した「新田義貞」、「氏」ではなく「義」の字が入っている事がこの事実を裏付けと云う。
後に、新田義貞が討幕の兵を挙げた時の事を
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(神皇正統記)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(増鏡)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表した。

鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、
義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏と対立した。
新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。
以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った「湊川の戦い」で敗戦。
比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。
しかし越前国金ヶ崎城で足利方の「斯波高経・高師泰」らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。

          1333年「極楽寺切通し」で新田軍の兵士の人骨が多数出土、


「稲村ケ崎海岸」
新田貞義が鎌倉攻略の為、ここ稲村ケ崎で兵を進めることが出来なかった。
そこで、義貞が「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈って太刀を海中に投げ入れると。海は、干潟となって、幕府軍を攻略できた。
それも空しく、貞義の子「義顕・義興」も南朝方に尽くしたが、悲劇てな最期を遂げている。

                         稲村ケ崎


                      正面に江の島が


                  新田貞義が竜神にいのった稲村ヶ崎


         鎌倉由比ヶ浜ー江の島七里ケ浜の間、江ノ電もここから海岸線に入る。


江ノ電は、ここから源義経ゆかりの寺・江の島・藤沢駅へ。

頼朝が眠る古都鎌倉へ 八幡宮から

2018-10-21 | 気まま旅

鎌倉には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡もあり、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。
万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていた。律令体制下、相模国鎌倉郡の行政の中心となった。
蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。
これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた。平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。
しかし、鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降である。
奈良時代から平安時代中期にかけての鎌倉の実情については、資料が乏しく、あまり明確ではないと云う。
1063年、源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。
この年は、頼義が陸奥の安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。
頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。
そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。
これが今も鎌倉の中心である「鶴岡八幡宮」の起源。
それから1世紀以上経た治承4年の1180年、頼義の玄孫である「源頼朝」が鎌倉入りした。
頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、
「平治の乱・1159年」で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。
これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる「池禅尼」の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある
伊豆の「蛭ヶ小島」へ流された。
それから20年後の1180年、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。
頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。
関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。
現在の鶴岡八幡宮の東方、清泉女学院小学校のあたりがその館跡で、ここは後に「大蔵(倉)幕府」と呼ばれるようになる。
同じ1180年、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地。

源氏の守護神として崇拝された八幡宮は、当初は簡素で鶴岡若宮のみであったが、次第に山門、鐘楼、経蔵などが立ち並び、神仏混合の寺として伽藍配置が整っていった。1868年神仏分離令により仏教関係は取り壊され現在の形になった。

「段 葛」だんかずらー鎌倉の中心を南北に貫く若宮大路の中央、二の鳥居と三の鳥居を結ぶ土盛された歩道は、源頼朝が1182年妻政子の安産を祈願し、鎌倉の都市整備として造営、昔は一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。

段葛の歩道                                    三の鳥居
                 

「源平池」太鼓橋の両側に広がる瓢箪池東が源氏池三つの島がある、西が平家池四つの島がある。三は産、四は死に通じ源氏の繁栄と平家の衰亡を祈ったと伝わる。源氏池の中島の旗上弁財天社は、幕府軍がここで旗揚げ戦勝祈願したところ。

源氏池                                    平家池
  

若宮「下宮」は、国の重要文化財、頼朝が鎌倉入りした時の若宮で八幡宮の起源、現在の朱塗りの流権現造の若宮は、
1624年三大将軍徳川家光が着工を命じたもの。

本宮「上宮」は、源氏の氏祖神である八幡大菩薩を主祭神とするもの。現在の社殿は1828年11代将軍家斉が造営したもの、国指定重要文化財
 入館料¥100。

下宮                                     本宮
  

国宝館は昭和3年開館、八幡宮の弁財天像、円応寺の初江王像、建長寺の北条時頼像など約3500点の文化財が保存されている、入館料¥150。

神苑牡丹庭園は、源氏池の畔に1万㎡の広大な庭園、約2000株の春牡丹が見られる。

鎌倉国宝館                                 ぼたん庭園入り口
  

鎌倉観光の中心鶴岡八満宮を参拝して、静かな住宅街をのんびり歩いていくと、源頼朝の墓のある白旗神社の前に出た。
源頼朝の墓は源氏ゆかりの地、大蔵山の中腹にある。高さ2m程の石塔。

1199年53歳で亡くなった。ここは生前に持仏を祀る法華堂があった場所に遺体を安置したと言われ、1779年薩摩藩主島津重豪によって整備され現在の姿になった。(国指定史跡)

この階段を昇ると正面に頼朝の墓                      頼朝の墓
            

中国地方の毛利家の祖 毛利孝光、薩摩の島津家の祖 島津忠久、京で実務官僚頼朝に招かれた実務官、大江広元「やぐら」の墓があると聞いていたが見つけることができなかった。

九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ日本三天満宮の荏柄天神社、創建は1140年と伝わる。鎌倉時代大蔵幕府の鬼門の鎮守として崇拝された。

祭神は菅原道真。境内には道真が愛した梅が、約100本植えられている。拝殿の右手に大きい絵筆塚があり、鳥居の近くに神木の銀杏があった。

                                    荏柄天神社 本殿
            

横山隆一など漫画家154人の絵筆塚                      神木としての銀杏
               

明治2年明治天皇の勅命で創建された官幣中社、後醍醐天皇の第一皇子「大塔宮護良親王」の祭神、大塔宮とも呼ばれている。
幕倒として大将軍になるが、後足利尊氏と対立28歳で殺害され、親王の首が棄てられた場所が今でも残っている。

10月境内で鎌倉薪能がある、市民の間で人気。
                                    鎌倉宮 社殿
                 

永福寺跡は奥州征伐の際、奥州藤原氏の中尊寺、毛越寺などの荘厳さに感動した頼朝が、義経、藤原泰衝らの冥福を祈ると共に、幕府の権勢を示す目的で1191年永福寺を創建。頼朝の三大寺院の一つ、1405年炎上。現在発掘調査中。

            

96代「後醍醐天皇」(1288-1339)親政を試みた最後の天皇で、足利尊氏が幕府を開き97代光明天皇を即位させ、その後南北朝が成立抗争、上皇は京都には入れず吉野で没した。公家政権の復活は以降無い。

「護良親王墓」
160段の急な階段を上り詰めると玉垣に囲まれ、印塔がある。後醍醐天皇の皇子父と共に倒幕運動征夷大将軍となり、1335年幽閉翌年足利直義の令で暗殺、首は草むらに投げ捨てられていたと言う。「理智光寺」の僧が手厚く葬った。

            

「瑞泉寺」
北条高時(1303-1333)執権北条貞時の嫡男、14歳で執権、24歳で降りたが権威は持った。新田義貞に鎌倉攻略され自害、870余人が死出の旅路を共にしたとある。政務に興味なく闘犬に明け暮れた。
第九代執権北条貞時の夫人や、第14代高時に深く帰依された「夢窓疎石」が、1327年臨済宗の寺として創建。

その後足利基氏が中興、本堂には徳川光圀寄進の先手観音が祭られている、地蔵堂には「どこも苦地蔵」が安置、どこに逃げても苦は同じと夢に出てお告げが有ったと言う。本堂裏には、天女洞、池、中島と鎌倉禅宗様式の古寺。豊かな自然に囲まれ、人は疎らで、ゆっくり見て回れた。

            

境内の踏み石                                絵のような山門
            

吉田松陰 留跡石碑                             書院
            

庭の約束事を全て備えた池泉式庭園、かつては草木に埋もれていたが、昭和44年に古図面を基に復元された。

             

禅の思想を伝える石庭 天女洞                        岩盤を巧みに削り造られた貯清池                            
             

「覚園寺」
1218年第二代執権北条義時が大倉薬師堂を建立。1296年貞時が元寇の難を逃れる祈願の為智海真慧を招いて建立し覚園寺と称したと伝わる古寺。

北条の後足利氏の祈願所として栄えた。足利尊氏の直筆の文字も堂宇に残っている。本尊は阿弥陀三尊「国の重要文化財に指定。堂内には、三尊像を取り巻くように12体の神将像が安置されている。

覚園寺 山門                                   印塔                                
             

北条義時の伝説が残っている。
源実朝が暗殺された右大臣拝賀の儀式で、義時は、白い犬の姿を見て気分が悪くなり、一人屋敷に戻った。
戌神将が白い犬に姿を替え、義時に暗殺の危機を告げたと「吾妻鏡」は記している。

本堂                                    新緑の境内
  

太平記の悲劇を思いながら歩く古寺は、やはり趣き深いものがある。瑞泉寺は花の寺として有名だが、今回は新緑が美しい。花まではまだ間がある。

「杉本寺」は、坂東札所第一番鎌倉最仏地「大蔵山」鎌倉二十四地蔵霊場四番・六番。鎌倉駅北東の二階堂にある天台宗の寺 山号「大蔵山」、開山行基、中興開山円仁と伝わる。743年創建、鎌倉で最も古い寺、大蔵観音、杉本観音とも言われている。

本尊 木造十一面観音像2体(伝円仁、源信作)。

文治5年燐家火災類焼の際、本尊庭内の大杉の下へ火を避けた。それにより杉の木観音と呼ばれるようになったと言う。「吾妻鏡」。

                  杉本寺 山門
                  

光明皇后が、大臣藤原房前と僧行基に命じて建立、行基自ら十一面観世音を安置とある。
851年僧円仁(慈覚大師)も十一面観世音を刻み安置し坂東第一番の札所と定めた。

仁王像
            

建久2年源頼朝公が再興立像七尺の十一面観世音を寄進している。
言い伝えによると信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者は、必ず落馬すると言うので下馬観音とも言われた。

光明皇后(701-760)夫聖武天皇、藤原不比等の三女、仏教興隆に尽くし病人孤児を救う。
藤原房前(681-737)天皇の側近官僚、和歌、漢詩多く残す。世渡り上手といわれた。

丘陵から見る雪ノ下町方面                      本殿
  

大蔵山30m比高、寺の背後裏山に杉本城跡があったと聞いていたが判らず残念であった。
ここは1337年北畠顕家、新田義興等の鎌倉攻めの軍勢が攻めて、朝比奈方面の守りとして斯波三郎家長以下300名が、
ここで激戦全員討死、落城した。

℡0467-22-3463   拝観料¥300

11面観音上り旗                                      数多い石仏と苔むした五輪塔
                    

大蔵幕府跡は、1180年頼朝が鎌倉に入り、まず最初に居を構え幕府を開いた、武家社会の発祥の地。源氏の頼朝、頼家、実朝の三代と尼将軍政子が幕府を治めた(46年間)。度々大火で焼失、石碑のみになった。

大蔵幕府跡                                        幕府跡石碑
            

杉本城跡地があるが。

鎌倉は歴史の町、寺の町

2018-10-19 | 気まま旅
「鎌倉府」
後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。
実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。
観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。
管国は関東10か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)で、1392年に陸奥・出羽が追加された(ただし、1400年に奥州探題の設置によって陸奥・出羽両国に対する鎌倉府の権限が事実上削減される)。
鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏はやがて対立し、1439年の「永享の乱」では、関東管領・上杉憲実、幕府・足利義教と戦った第4代鎌倉公方・足利持氏が敗死し、鎌倉府は長官が一時不在となった。
その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方となるが、享徳の乱で室町幕府・上杉氏と再び対立。上杉氏援軍の今川範忠勢に鎌倉を占領されると、本拠を下総・古河城にあらため、鎌倉府は古河公方・成氏の古河府へ継承された。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(義教の子)を派遣したが、上杉氏との確執から伊豆の堀越御所に根拠を定め(堀越公方)、源頼朝の時代から東国政治の中心だった鎌倉には入れなかった。

「日蓮宗長勝寺」
長勝寺の近くに1253年の創建の「安国論寺」(日蓮は北条時頼宛てに「立正安国論」を提示)がある。長勝寺は山号石井山、本尊大曼茶羅、大本山本圀寺の旧末寺、日蓮が草庵を結んだひとつで1263年創建「石井長勝」開基、長勝はこの地の領主で、日蓮に帰依し名がついた。

                                       山門
            

日蓮(1222-1292)鎌倉時代の僧、論号立正大師、千葉安房小湊、12歳で仏門に入る。
諸宗を学び「法華経」のみ末世の国家の平安もあり得ることを悟り1253年日蓮宗を開く、

各地辻説法で他宗を激しく攻撃し論破した。
1260年「立正安国論」を幕府に献じ、国難を予言した、「南無妙法蓮華経」の唱題による成仏を説いた。鎌倉、佐渡に流され、甲斐の身延山、最後が大田区の池上で没している。
               四天王に囲まれた日蓮上人
               

本堂前にある日蓮像は、高村光太郎の父光雲作、周りにはそれを守るように等身大の四天王像が立っている。
本堂左手の祖師堂は、法華三昧堂とも言われ室町時代の唐様建築で県の重要文化財に指定。

石仏                                     鐘楼
               

境内は自由に入れる。赤木圭一郎の供養碑がある。

祖師堂                                    新緑の本堂
               

坂東33観音3番札 「安養院」                          山門
             

北条政子(1159-1225)尼将軍源頼朝の妻、伊豆の土豪北条時政の娘、頼朝流人時代結婚、頼朝亡き後、長男頼家が将軍。
政子は尼に、父時政、弟義時等と北条の権力拡大を図る。
次男の実朝を将軍にして、その後見役として幕政に参画、弟の義時を二代執権とした。公家政権が弱り武家政権が確立、頼朝の恩義を説いた演説は有名。
安養院は笹目ヶ谷の真言律宗「長楽寺」が前身で、政子が頼朝の菩提を弔うため1225年建立、後に寺名を政子の法名「安養院如実妙観大禅士」にちなんで改めたという。政子が頼朝と結ばれたことで、恋愛成就の御利益があるともいわれている。

境内には樹齢700年の巨木、ツツジと見所多く、別名ツツジ寺とも呼ばれている。鎌倉最古の石塔と、政子の供養塔がある。 拝観料有料。

本殿                                           境内
             

日蓮宗 「上行寺」     寺号法久山1313年創建 山門の龍の彫刻は左甚五郎作・井伊直弼を討った水戸藩浪士広木松之助のゆかりの寺、通善和尚が匿った、2年後切腹。
法華堂は、妙法寺から移築されたもの、七福神が祀られている。瘡守稲荷は、政子が頼朝のため参拝している。                                               
                 日蓮宗 上行寺
                 

源義光(1045-1127)頼義の三男 常陸佐竹氏、甲斐武田氏の祖。後三年の役で、兄が苦戦と聞き朝廷の許可を得ずに奥州へ赴いた為左衛門尉を解任されている。
八雲神社は、石鳥居の鎌倉最古の「己除開運」の神社と言われ、寛文10年鎌倉で疫病が大流行、多くの人々が苦しむ様子を見た源義光が、京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まりと伝わる。
地元では「八雲さん」「お天王さん」と呼ばれ親しまれている、鎌倉駅徒歩約7分。

八雲神社 鳥居
             

鎌倉の市名の由来は諸説あるが「かま」洞窟、「くら」岩の意味が定説。前後の起伏に富んだ丘陵に三方囲まれ、一方は海、現在は盆地に住宅が密集。
道路は京都の制度を取り入れ東西、南北に大路が広がっている。

「本覚寺」山号妙巌山 本尊釈迦三尊像 日蓮宗 鎌倉駅東口に近い。足利持氏が、鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進したとある、鎌倉時代の刀匠岡崎五郎正宗の墓もある。
久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨している、東身延とも呼ばれている寺。鎌倉七福神夷様駅に近いのか近隣の住人、学生、主婦などが境内を通り抜ける姿もあり、オープンな寺。

本堂でドラのようなゴーンと言う音はかなり大きい音、山門を潜ると右手に八角の堂がありこれが夷神堂。源頼朝が裏鬼門として夷神を守り神として祀った。

「本覚寺」                               山門
             

鎌倉七福神はこの本覚寺が夷さま、鶴岡八幡宮が弁天様、長谷寺が大黒天、浄智寺が布袋、宝戒寺が毘沙門天,妙隆寺が寿老人、御霊神社が福禄寿。
本覚寺には樹齢100年のサルスベリの巨木が2本ある、しだれ桜も見事。

本堂                                  鐘楼
             

大巧寺は「おんめさま」の呼称で親しまれている日蓮宗の寺。頼朝の作戦の祈願所が12箇所あり「大行寺」といった。
特に平家に大勝した作戦が成功したので大巧寺として、1320年現在地にまとめた。
安産祈願でも有名、若宮大路に面し漆塗りの門、境内には季節の花が楽しめる寺。

「大巧寺」                                 境内    
  

小町通りは、鎌倉駅東口から鶴岡八幡宮へ、若宮大路と平行して約600mの通り、通り沿いや裏路地に約200軒以上のショップ、
レストラン、和、洋菓子店、陶器屋、などバラヱテイに富んだ店が連なっている。

鶴岡八幡宮 三の鳥居                  小町通り


鎌倉府ー京都扶持衆・幕府との対立激化、上杉禅秀の乱で禅秀に与した関東武士は、鎌倉公方・足利持氏からの弾圧から逃れるために、幕府との結び付きを強め、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。
一旦確立した鎌倉府管轄国の内部に、幕府があからさまに干渉を始め、持氏は危機感を強める。
持氏は鎌倉府管轄外だった越後、信濃、駿河に干渉して、逆に「鎌倉扶持衆(関東扶持衆)」と呼ぶべき集団を形成し、鎌倉府と幕府との対立が深まっていった。
「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」に、1428年、将軍・足利義持が後継者不在のまま亡くなり、1429年、くじ引きで選ばれた「足利義教」が新たな将軍となる。
鎌倉公方・足利持氏は、自らが将軍になる野心を持っていたため、京都の幕府・義教との関係はさらに悪化。
1438年、持氏は京都との調停役となっていた関東管領・上杉憲実討伐を始めた(永享の乱 )。
しかし幕府が軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐に失敗して降伏。
さらに義教は憲実の助命嘆願も無視し、1439年、持氏と嫡子・義久を攻め滅ぼす。
このとき持氏に対して厳しい姿勢を示した義教も、鎌倉府そのものは否定しなかったと云う。
新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉に下向させ、鎌倉府を再興させようとする。
この構想は、1441年、義教暗殺(嘉吉の乱)により白紙化されるが、1447年、鎌倉府は持氏の遺児・足利成氏のもとで再興。
「永享の乱」とその後の「結城合戦」を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。
しかし、対立は解消されないまま、成氏は、幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年の1454年、に始まった「享徳の乱」にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した。崩壊した「鎌倉府」古河公方・古河府に継承された。

遺跡の多い逗子 披露山、持田遺跡 名越の切通し

2018-10-18 | 気まま旅
古代律令時代の官道で都から東へ向かう道は、中部の山地を通るものが東山道と呼ばれた。
日本海沿岸を北上を北陸道・南の太平洋沿岸を進むものが東海道。
東海道といえば安藤広重の浮世絵で知られる東海道五十三次のルートを思い浮かべるが、東海道という道の語源は遙か奈良時代の昔からのものであって、その当時の東国(関東)へ向かう太平洋沿岸の幹線路を江戸時代の道と区別するために「古東海道」と呼んだ。
「古東海道」は、足柄峠から関東へ入り、相模灘に沿って東行し鎌倉へ入っていたと想定されています。鎌倉からは小坪坂を通り、現在の逗子市を抜けて走水(横須賀市)の海岸へと進み、そこから東京湾を渡り房総半島へ。

逗子市は、遺跡が多い。
縄文時代の「披露山遺跡」市の披露山公園の西側。逗子披露山公園住宅という高級住宅地、有名人の住宅もあると云う。
弥生時代の「持田遺跡と長柄桜山古墳群」逗子湾西側の披露山に残る「古東海道」の続きとも想像され興味深い古墳群と東に1000m行けば前出の
持田遺跡、さらに、さらに半島を横切って横須賀の走水に残るヤマトタケル東征伝説との関連にまで言及する見方もあり、桜山、長柄境は一躍考古学上の重要ポイントに。一帯は、平成14年「国指定史跡・長柄桜山古墳群」に指定。
古墳時代の「新宿横穴群」横穴墓は逗子海岸近くの岸壁に、大正12年の関東大地震によって横穴墓が開口し、その存在が。
これまでの発掘調査で22基の横穴墓が確認されている。
横穴墓群隣にはは新宿稲荷神社がある。横穴墓からは4体の人骨の他に青銅製の鈴釧、首飾りに使用された玉類多数、圭頭柄頭が出土した。
現在は土取りや開発によって破壊されてしまったと云う。

「五輪塔」五解脱輪・仏塔の一種。密教で説く五大を方(地),円(水),三角(火),半円(風),宝珠(空)で象徴した。

逗子と云えば池子に海軍の弾薬庫(昭和12年~)が、池子弾薬庫は市の15%を占めていたという。
逗子海岸は、遠浅で家族ずれの海水浴場で人気がある。海岸に徳富蘆花「不如帰」の碑がある。

逗子の地名は逗子大師と呼ばれている「延命寺」、行基作の延命地蔵尊を安置する「厨子」にちなむと伝えられている。
浪子の浪子不動、ヨットハーバー、レストラン、保養地、観光、住宅都市と発展。

               

弘法大師(空海774-835)讃岐国生まれ、上京し大学に、その後仏教に転じ、四国で修行出家、入唐し、
帰国後嵯峨帝より、高野山を賜る。
空海の足跡は各地にあるが四国が多い、「四国遍路」88ヶ所巡礼は今でも盛ん。

延命寺(逗子駅東口徒歩5分)                           逗子大師(弘法大師)                               
              

奈良時代「行基」開基、自作の「延命地蔵菩薩像」を安置し本尊とされた。
平安時代に入り弘法大師空海が下野の国(栃木)に来た折立ち寄り、地蔵尊「厨子」を安置する。
以来住民尊信、逗子の地名の起源と成った。

延命寺 本殿                       拝殿
  

高野山真言宗は、仏教の真髄を説き密教の宗派で、弘法大師によって全国に伝わる。(816年高野山開創し835年高野山入山)御宝号 南無大師遍照金剛

鐘楼                            延命地蔵尊
            

「延命寺の言葉」
春の優しい光りも 夏の明るい日差しも 秋の寂しい影や 冬の厳しい風でさえも
全てを受け入れ包み込んでくれる 空間がここに。

逗子市と鎌倉市の市境に「浅間山」がある。武士の都として栄えた鎌倉は、中世の武士達が放った一瞬の光りが消えて、その残照に長い間埋もれるように
衰退して行ったのだという。

現在中世の残照は山間に残っている、逗子・鎌倉の山に「やぐら」と呼ばれる山肌をくり抜いた横穴式の墳墓が数ある。ここ浅間山にも昔の風情をとどめる「名越切通し」が抜けている、滅ぼし、滅亡していった中世武士達の栄枯盛衰、その記憶が山路に残っていた。

「名越切通し」鎌倉七切り通しの一つ、ここは、三浦半島に抜ける要路、三浦一族に備えた。要塞の鎌倉への騎馬の進入を防ぐ為のもので、岩壁には、手彫りのノミの跡が残っている。

               

日蓮上人は、鎌倉へ来て法性寺の岩穴に住んだが、食べる物が無く困っていると、この山に住む猿が畑にある。食べ物を持ってきたりして助けられたという、そこから寺の名も「猿畠山法性寺」となっている、猿と関係深い寺。仏殿の脇に小さい岩山があり石段を登ると山頂の見晴台に出るが、そこが「お猿畠」。法性寺は、日蓮の弟子 日朗が開山、鎌倉時代の古刹。逗子市久木の横須賀線踏み切りを渡ると黒門の大きな山門があり「猿畠山」の山号が架かっている。岩肌を露出した山路を登っていくと山の中腹に仏殿が現れる、人影は無く静か。

法性寺 山門                          拝殿
  

徳道上人 656年播磨の国で誕生。伝説によると仮死状態の上人が、あの世の閻魔大王に会い、大王から衆生済度の為33の観音霊場を広めよと宝印を授かり息を吹き返したとある。これが坂東33観音霊場と言われ、国巡礼の創始者とも言われている。

 「岩殿寺」坂東33ヶ所観音霊場第2番 曹洞宗 山号「海雲山」 本尊十一面観音通称岩殿観音 逗子八景の一つ。
寺伝によれば「長谷寺」の開基徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁に逢い、霊地たるを知り、
数年の後に僧行基が訪れ十一面観音石像を安置したとある。

詠歌 「たちよりて 天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそ たのしき」

岩殿寺 山門                         納経所
           

行基(668-749)奈良時代の百済系渡来氏族での高僧、広く諸国を巡り、橋、池や道路を開き社会事業によって多くの人を救った。
「行基年譜」によると、僧院34、尼院15、橋6、池15、堀川4・・・など。
いろいろ弾圧も受けているが、最後は朝廷側に取り込まれた。

泉鏡花(1873-1939)小説家、俳句、金沢生まれ、尾崎紅葉の「二人比丘尼懺悔」を読んで文学の道、紅葉の門下に入り書生生活。
処女作「冠弥左ヱ門」京都日出新聞連載「夜行巡査」「外科医」など。

逗子に滞在していた泉鏡花が岩殿寺を恋人としばしば訪れている。明治35年の37歳頃、境内に瓢箪池があるが鏡花が寄進している。

情緒ある100余段の階段                           拝殿
           

鎌倉時代には、源頼朝によって寺領が寄進されている、「吾妻鏡」にも源実朝らが、よく参詣していたことが記してある。
その後衰退したが1591年徳川家康によって再興した。

渡り廊下                                  仏像の祀られたやぐら
           

小雨混じりの古寺、人は一人もなく苔と新緑と石像、小鳥の囀りと泉鏡花が恋人としばしば訪れていたのが判る様だ。

奥の院への参道                                鐘楼
                  

鎌倉鶴岡八幡宮へ。