syuの日記・気まま旅

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春日町 戦没者霊園

2013-08-04 | 気まま旅
「春日駅」は、三田線、大江戸線の駅、1630年に、徳川家光の乳母春日局が拝領、町屋にしたと云う。
春日は、今の後楽だが、該当する町名が見つからず住居表示で採用されている。
春日2丁目には、三井家の邸宅が存在する。

文京区役所、後楽園遊園地


四季折々の花を呼ぶ小石川後楽園は、 黄門様のお庭。
水戸光圀公ゆかりの小石川後楽園には、約90本の紅梅・白梅の梅林など、花の見ごろには、辺り一面に花の香りが。

春日通りに


「春日局」1579~1643 将軍家の乳母、三代将軍家光の乳母、明地光秀の重臣斉藤利三の娘、山崎の合戦で父利三が討死、つらい少女時代を過ごす。稲葉正成(小田原)に嫁ぎ四男をもうけたが離縁。26歳で乳母になり、家光信頼を集め「大奥」に。
家光は、家康と春日局の間に産まれたとも云う。
実子の稲葉正勝と養子の堀田正俊は春日局のコネで老中まで出世した。

家康の母親の菩提寺「伝通院」は、坂上に。


国道254号(春日通り)に沿って北西から 南東に延びる細長い町域を持つ。
南東側が春日一丁目、北西側が春日二丁目となる。 春日一丁目の東端部には、高層ビルの文京区役所が。

都営地下鉄三田線、大江戸線ー「春日駅」、 三田線の駅は本郷、 東京地下鉄丸ノ内線、南北線ー「後楽園駅」

春日局像                文京区役所ビル                 春日通りに
    

「富坂(西富坂、飛坂、鳶坂)」は、江戸時代の歌学者戸田茂睡の著書「紫一本」に「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、
えさし町より春日殿町に下る坂。元は此処に鳶多くして女童の手に持ちたる肴をも舞下りてとる故とび坂と云う」と、
鳶坂転じて富坂となったとある。
春日町交差点の谷をはさんで東西にまたがって飛んでいるため「飛坂」とも言われ、西側のほうがこの西富坂すなわち富坂である。
文京区は、100以上の坂がある。

左に後楽園ドームが




碑文ーあの苦しい戦いの後、40有余年、戦後生まれの方々は、身近に一発の銃声も聞かず過して来ました。あの日々の事はあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく思い出します。
だが、忘れることは出来ません。かって東京都の同朋達の16万にも及ぶ人々が、陸に、海に、空に散華されたことを。
そして後から生まれて來る者たちの「命」のさきわいのために、私達は、何時までも祈り続けることでしょう。

この奥津城どころは、私達の祈りと誓いの場です。同時に、全ての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。山本健吉氏、文芸評論家、昭和58年文化勲章受章。

都戦没者鎮魂の碑に合掌する


戦没者を追悼し、戦争の惨禍を末永く後世に伝える事に、明るく親しみやすい都民全体の広場にしていきたいとある。

春日一丁目にある                 静かな苑内            資料館
    

苑内は、慰霊碑、戦没地域標示盤、休憩棟、展示室、記念碑と池がある。東京都関係戦没者約16万人の霊をまつる。

昭和18年5・30-アッツ島の守備ぶたい全滅。10・21学徒出陣。12・25ギルバート、タラワ、マキン守備隊全滅19年2.4マレーシア
クェゼリン、ルオット全滅。3.9ビルマ、インパール作戦開始。6.30学童疎開開始。サイパン島全滅。8.10グァム島占領される。沖縄に
20年8.6広島に原子爆弾投下。8.9長崎原子爆弾投下。815終戦。

日本軍の撤退、全滅していく前戦記録が


「遺品展示室」には、先の大戦で戦没された方々が遺された、手紙・千人針・鉄兜・軍刀・などの貴重な遺品を遺族から預かり展示されている。「遺品数約439点・保管遺品約768点」。広場面積620m2、敷地6289m2.

遺骨、遺品など保管されている。
  


次回は、小石川三丁目「伝通院」から飯田橋駅へ。

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