「国分寺」741年聖武天皇が国ごと建てられた官寺、僧寺、「金光明四天王護国之寺」・尼寺、「法華滅罪之寺」と云った。
奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。古代信濃国造は、上田を拠点としていたと云われている。政治、文化の中心地。
「国分神社」は、この地域の鎮守神で、小高い所にあった。
現在の「信濃国分寺」は、
山号 なし(旧・浄瑠璃山)、 天台宗 、本尊 薬師如来、創建年 奈良時代 、別称 八日堂
旧:浄瑠璃山 真言院 国分寺、文化財 三重塔(国の重要文化財)、本堂(県宝)、石造多宝塔・本堂勧進帳ほか(市文化財)
八日堂縁日 1月7・8日 「国分寺建立の詔(天皇の命令)で、8日金光明最勝王経をとなえ、人々は、幸を願い蘇民将来符を求める。
国道沿いに建つ 信濃国分寺山門 三重塔 本殿
「現在の信濃国分寺」
創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。
現在の境内には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が残されていて、現存最古の建物である室町時代の三重塔(旧国宝現在重要文化財)が建立されている。
地域民衆の信仰の中心となり、当時毎月八日に起つ八日堂縁日の市は上田地方の交易の場となり、八日堂の名は今も信濃国分寺の愛称として親しまれている。
楼鐘 八日堂縁日の提灯
400有余年の歴史 「上田城」(国指定史跡)
真田昌幸 1547-1611 上田城で徳川秀忠軍を足止め 上田城主 家康に沼田領北条に返還せよとの命ぜられ断交、秀吉に属す
真田信之 1566-1658 昌幸の長男、初代松代藩主 大阪冬の陣で先鋒「父を殺す前に私を・・」榊原氏感動秀忠を説得。
幸村 1567-1615 昌幸の二男 豊臣秀頼の招きで大阪城入る、夏の陣で死、茶臼山の家康の本陣まで迫った。
上田城は、1583年 昌幸公が築城、平城、二度徳川軍の攻撃を守り抜いた。小諸の仙石氏が大改造をしている。
近世は松平氏の居城に、隅櫓、石垣、土塁は見事に残っている。
上田城入口
西櫓、段丘の上に立と本丸隅櫓、壁の下部は初期城郭建築で、寒冷地に多い、窓は突き上げ戸の武者窓、射撃用の小窓になっていた。
真田井戸抜け穴で北方太郎山麓、藩主の居館にも出られる。尼ヶ淵、別の名を尼ヶ淵と呼ばれ当時は千曲川が流れて要害になっていた。
東虎口櫓門 通路の出口東西南北に 真田石、長径3mの大石などいろいろの石材が見える。
城の堀は、ほとんどが素掘りのまま、掘り上げた土で土塁に、通路左右に桜並木、真田神社でお参り、
「上田城の戦い」(神川の合戦)上田 城の戦い.1582年に甲斐国 の武田氏が滅亡すると、徳川家康はその遺領をめぐって北条氏直と衝突したが、
10月 に上野国は北条氏、信濃・甲斐国は徳川氏が支配するという協定を取り決めてた。
徳川秀忠の関が原・信州上田城の戦い石田三成ら西軍と決戦をすべく西上する徳川秀忠軍の前に立ちふさがる上田城主 真田 昌幸と息子 幸村
戦国乱世を生き抜いたこの智将に徳川軍は翻弄されます。なぜ秀忠 軍は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのか。
真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のこと。
伝承上の架空の人物と言えるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっているが、
書物によって差異が見られる。
「上田藩主屋敷門と堀跡」
大手道を上田城跡公園へと向かう途中、上田市役所の手前を左折すると突き当たりに上田高校がある。
上田高校の敷地となっている場所に、かつて、“御屋形”と称されていた上田藩主の居館があった。
上田初代藩主となった真田信之は、関ヶ原合戦後に家康公によって上田城が破却された後、ここに藩主屋形を建てて藩政を行なった。
真田氏が松代に移封となった後も歴代藩主の居館として使用されていた所。
上田盆地部分の年平均気温は、約12℃。年間の最高気温は35℃前後、最低気温は-10℃程度。
昼夜、冬夏の寒暑の差が大きい典型的な内陸性気候。晴天率が高く、年間の平均降水量が約900ミリメートルと全国でも有数の少雨乾燥地帯である。
上田藩屋敷
次回は塩田平方面へ