syuの日記・気まま旅

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国分寺と上田城

2011-11-29 | 気まま旅

「国分寺」741年聖武天皇が国ごと建てられた官寺、僧寺、「金光明四天王護国之寺」・尼寺、「法華滅罪之寺」と云った。
奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。古代信濃国造は、上田を拠点としていたと云われている。政治、文化の中心地。
「国分神社」は、この地域の鎮守神で、小高い所にあった。

  

現在の「信濃国分寺」は、
山号 なし(旧・浄瑠璃山)、 天台宗 、本尊 薬師如来、創建年 奈良時代 、別称 八日堂
旧:浄瑠璃山 真言院 国分寺、文化財 三重塔(国の重要文化財)、本堂(県宝)、石造多宝塔・本堂勧進帳ほか(市文化財)

八日堂縁日 1月7・8日 「国分寺建立の詔(天皇の命令)で、8日金光明最勝王経をとなえ、人々は、幸を願い蘇民将来符を求める。

国道沿いに建つ 信濃国分寺山門      三重塔                 本殿
    

「現在の信濃国分寺」
創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。
現在の境内には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が残されていて、現存最古の建物である室町時代の三重塔(旧国宝現在重要文化財)が建立されている。
地域民衆の信仰の中心となり、当時毎月八日に起つ八日堂縁日の市は上田地方の交易の場となり、八日堂の名は今も信濃国分寺の愛称として親しまれている。

楼鐘                                       八日堂縁日の提灯 
    


400有余年の歴史 「上田城」(国指定史跡)
真田昌幸 1547-1611 上田城で徳川秀忠軍を足止め 上田城主 家康に沼田領北条に返還せよとの命ぜられ断交、秀吉に属す

真田信之 1566-1658 昌幸の長男、初代松代藩主 大阪冬の陣で先鋒「父を殺す前に私を・・」榊原氏感動秀忠を説得。
  幸村 1567-1615 昌幸の二男 豊臣秀頼の招きで大阪城入る、夏の陣で死、茶臼山の家康の本陣まで迫った。
 
上田城は、1583年 昌幸公が築城、平城、二度徳川軍の攻撃を守り抜いた。小諸の仙石氏が大改造をしている。
近世は松平氏の居城に、隅櫓、石垣、土塁は見事に残っている。

上田城入口


西櫓、段丘の上に立と本丸隅櫓、壁の下部は初期城郭建築で、寒冷地に多い、窓は突き上げ戸の武者窓、射撃用の小窓になっていた。      
真田井戸抜け穴で北方太郎山麓、藩主の居館にも出られる。尼ヶ淵、別の名を尼ヶ淵と呼ばれ当時は千曲川が流れて要害になっていた。      
東虎口櫓門 通路の出口東西南北に   真田石、長径3mの大石などいろいろの石材が見える。

  

城の堀は、ほとんどが素掘りのまま、掘り上げた土で土塁に、通路左右に桜並木、真田神社でお参り、

「上田城の戦い」(神川の合戦)上田 城の戦い.1582年に甲斐国 の武田氏が滅亡すると、徳川家康はその遺領をめぐって北条氏直と衝突したが、
10月 に上野国は北条氏、信濃・甲斐国は徳川氏が支配するという協定を取り決めてた。

徳川秀忠の関が原・信州上田城の戦い石田三成ら西軍と決戦をすべく西上する徳川秀忠軍の前に立ちふさがる上田城主 真田 昌幸と息子 幸村 
戦国乱世を生き抜いたこの智将に徳川軍は翻弄されます。なぜ秀忠 軍は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのか。

  

真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のこと。
伝承上の架空の人物と言えるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。

猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっているが、
書物によって差異が見られる。

    

「上田藩主屋敷門と堀跡」
大手道を上田城跡公園へと向かう途中、上田市役所の手前を左折すると突き当たりに上田高校がある。
上田高校の敷地となっている場所に、かつて、“御屋形”と称されていた上田藩主の居館があった。
上田初代藩主となった真田信之は、関ヶ原合戦後に家康公によって上田城が破却された後、ここに藩主屋形を建てて藩政を行なった。
真田氏が松代に移封となった後も歴代藩主の居館として使用されていた所。

  

上田盆地部分の年平均気温は、約12℃。年間の最高気温は35℃前後、最低気温は-10℃程度。
昼夜、冬夏の寒暑の差が大きい典型的な内陸性気候。晴天率が高く、年間の平均降水量が約900ミリメートルと全国でも有数の少雨乾燥地帯である。

上田藩屋敷
  

次回は塩田平方面へ   

上田市と信濃国分寺

2011-11-27 | 気まま旅

浅間温泉から上田に。県を東西に貫く三才山(みさやま)トンネル有料道路(国道254号)の東側出口付近に「内村ダム・河川公園」があり、
近くに鹿教湯温泉で有名な土地。ダム湖を鹿鳴湖と命名されている。
周辺は公園として整備されており、ダム直下の河川公園では堤体を下から見上げることもできる。小型のダム。

昭和8年工夫熊倉氏が雪崩に遭い亡くなり、ひっそりと熊倉地蔵があった。

    

「湯の里天神社」と蛇塚,
三才山峠、内村ダム下ると川原町の里山、その岩肌に古い神社を見つけた。
看板に「学問の神様菅原道真公を祀り、この辺を町屋敷と呼ばれ、川原を開墾し(寛保2年)とあるので1740年頃であろう、60数戸を数える集落」ある。

ミシミシ云う本殿で参拝した。

    

上田市に入る、県東部千曲川中流盆地の中心、上田の地名は、上田荘園からで、1583年真田昌幸が築いた上田城の城下町となる。北国街道の宿場町で発展した。
江戸時代から蚕種生産が盛んであった。上田紬、上田縞が織り出されている。
明治に入り、製糸業が導入し輸出、産学合体で1910年頃に信州大学繊維学部が出来、全国に知れている。

上田駅一つ手前「国分寺駅」で車を止めた。

「上田市立信濃国分寺資料館」
国指定史跡信濃国分寺跡に建設され、信濃国分寺跡出土の鐙瓦、宇瓦、円面硯、陶磁器、土器などを中心に、
上田地方の原始から平安時代までの考古、歴史資料を常設展示。中国の戦国・漢時代などの古代瓦レプリカも多数収蔵。   TEL.0268-27-8706入館料 250円、

    

今からおよそ1,300年前の奈良時代に建設された平城京は、当時のわが国の首都でした。平城京は東西が約5.8km、南北が約4.8kmの広大な都で、
京の入口である羅生門から幅が約75mの朱雀大路がまっすぐ北へ約3.7kmのび、そこに朱雀門がそびえていました。
平城京の当時の人口は4万人から5万人、あるいは10万人とも推定され、多数の人々が生活していた。

平城京跡・平城宮跡から出土した軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦・陶磁器・墨書人面土器、土馬などの貴重な資料を展示。
東海道諸国の国分寺のうち三河国分寺跡、武蔵国分寺跡から出土した瓦類・文字瓦・墨書土器・陶磁器などの重要な資料も展示。
復原された平城京や国分寺の建物を写真パネルで見られた。

  

「信濃国分寺跡と万葉植物園」資料館と隣接

しなの鉄道と国道沿いにありながら、広々とした静かな公園。ケヤキ並木やドウダンツツジの列植が美しく、特に5月の藤棚は見事でしょう。
コンビニの弁当を広げここで食事。

  

「秋の七草」
「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種 ...。 春の七草は「七草がゆ」にして食べる など、 ”食”を楽しむものですが、
秋の七草は花を ”見る”ことを楽しむものとか。


  

次回は信濃国分寺の続きと上田城

信州あさま温泉

2011-11-26 | 気まま旅
蔵の街中町から今日の宿、松本の奥座敷浅間温泉へと向かう、車で約30分、国道143号線に入り上田方面に、右側の国立信州大学が見えた。


「国立・信州大学」
旧制松本高等学校、新八医科大学である旧制松本医科大学、旧制長野県立農林専門学校、旧制上田繊維専門学校、旧制長野工業専門学校、
長野師範学校等を統合、1949年に新制大学となった。
繊維学部があるのは、信州の地がかつて生糸の産地であった土地柄を反映している。繊維学部のある大学は、現在では信州大学のみ
日本における繊維素材科学研究において屈指の学術機関である。
信州大学は他の国立大学と比べて地元出身者の比率が少ない、8学部8研究科を設置、学部学生数9364人、大学院生数2082人。

   


「長野縣護國神社」は、長野県松本市美須々にある護国神社、明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた長野県出身者を祀っている。
歴史は、新しく、昭和13年に長野県招魂社として仮社殿で創建、昭和14年に長野縣護國神社に改称している、
同年4月に内務大臣指定護国神社となった。昭和17年に、社殿・社務所などが竣工した。
 
    

満州義勇軍の碑。神社内にある記念碑、「拓友の碑」が入口にある。又、神社内には立派な弓道場がある。弓道の試合が行なわれる。

  


浅間温泉街は、温泉会館を中心に、約30軒の旅館と2軒の日帰り専用入浴施設、3軒の共同浴場がある。
歴史は、古く開湯が約1000年前。江戸時代には歴代松本藩主の御殿湯(浅間御殿)が置かれ、湯守によって厳重に管理された。

若山牧水や与謝野晶子らの文人が訪れていた。また、ドラマ白線流し(1996年1月〜3月放映、他)において、橘冬美の実家として浅間温泉にある某旅館
(大正時代の建物)が使用されている。
名称を「松本あさま温泉」に変更している、これは「浅間」という名称が浅間山の近辺を連想させる事から、松本近郊の温泉であることで変更した。

    

温泉街を山の方に上っていくと、「西宮恵比寿神社」がある。付近には廃寺となった大音寺跡があり、
周辺は公園になっていて、復興された不動院、不動の滝などが並んである。
神社は、明治24年に摂津国西宮神社より勧請し西宮講社松本事務所として始まり、社殿は大正14年に今とは別の
松本市深志の場所に建てられていた、昭和27年に崇敬者の協力を得て本殿を今の浅間温泉の地に建立。

    

浅間温泉「御殿山」の里山に

「不動の滝」
大正6年浅間公園をこの地に寄附を集めて作った時に、滝を作り不動明王を祭った。
不動明王は悪を断じ、善をすすめ、修行者を守り、忿(ふん)怒の姿をとって衆生を教化しようとする。
滝に打たれ心身を清め一心に不動明王を念ずれば祈は必ず通じかなうという。

「不動院」
江戸時代上浅間の三才山道の傍らにあった不動院は明治4年廃寺となる。ここの不動院は昭和15年宗教結社。
本尊、不動明王は眼病と火防に霊験がある。参堂に三三番観音の一部が並ぶ。昭和63年東泉部の薬師本尊を新に安置されている。


     

北アルプス、松本平一望できる「御殿山」展望台予定したが残念であったが曇りの為諦めて。登山口から約30分

次回上田方面に


 

冬が近い西湖・河口湖

2011-11-25 | 富士山麓日記
11月も下旬となり間もなく冬到来です。富士山も雪景色となり、紅葉も落ち葉となって終わります。
今年も美しい自然の移り変わりでした。また来年を楽しみに・・・。

中央高速 河口湖線からの富士山(11/12)

河口湖 紅葉回廊からの富士山(11/21)

河口湖紅葉回廊





貴布祢大明神 河口湖から西湖へ向かう道にひっそりと

静かな西湖

紅葉も終わり 別荘地内





松本市 蔵の町

2011-11-21 | 気まま旅
日本列島のほぼ中央に位置する松本市は、恵まれた自然に囲まれた山の都であり、西に日本の屋根「北アルプス」、東に美ヶ原高原を望むことがでる。

市は、明治21年の大火で市内・1500軒あまりの家屋が焼失し、焼け残った建物は何棟かの土蔵。大火以後、数多くの土蔵が造られるようになった。
土蔵造りといったら、中町。昔の姿の蔵、現地再生した蔵、移築再生した蔵。市内に残る蔵の数は多い。

松本城の「天守」も破損、売却の運命をたどり、荒廃、明治に有志により保存会が設立、11年間かかり修復させ倒壊から救った。

城を出ると正面が大名町通り「シナノ木並木」大名小路井戸、お城の見える井戸、大手門井戸、がある。左右近代的ビルと古い蔵の商店が並ぶ、
町の中央を流れる「女鳥羽川」の千歳橋。

「千歳橋」せんさいばしと書いてある。江戸時代には大手橋と呼ばれた木造橋だった。
1876年(明治9)に、松本城大手門の石材を使って石橋が架けられ、昭和39年に現在の橋に架け替えられた。


    

「四柱神社」千歳橋横にある。
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神とし、4柱の神を祀ることから四柱神社という。
鳥居を出ると、すぐ女鳥羽川で、川沿いに小さな店が並ぶ、そこが有名な縄手通りである。カエルの置物もそこになる。

  

街中の四柱神社を参拝し、信州松本蔵の街中町へ出た、いろいろの蔵を見て回っていると、三味線の音がして、端唄の芸遊館がある。
お茶菓子付きで入館料¥700、端唄、俗曲、都々逸ありで面白かった。

由端どんどん節  前はアルプス 常念だけよ 東しゃ 美し浅間の湯 端唄 都々逸 また三味もいい

         昔懐かし 城下町 ここは松本、中町 ドンドン。


  

「かえる大明神」
ご利益のありそうなカエルさんが奉られている。ナワテとカエルの関係は30年以上前にさかのぼる。
縄手通りがカエルの町として知られはじめたのは30年近く前、縄手商店街の人達が縄手のシンボルとして何か相応しいものがないかと思案したところ、
昔女鳥羽川でカジカガエルが鳴いていた頃縄手が大変にぎやかだったことからシンボルとしてカエルに決定した。
カエル大明神を奉ったのが昭和47年、そして縄手のシンボルとして通りの東西入口のカエルの石像が登場したのは平成元年のこと、
縄手の人々の思いをのせて、地域のシンボルである。

  


「 鈴木鎮一記念館 」
鈴木鎮一記念館は、松本市名誉市民の故鈴木鎮一氏が、昭和26年から平成6年まで住まわれた邸宅で、スズキメソード発祥の地、 
邸宅には、カザルスやロストロポービチなど、世界の巨匠たちもたびたび訪れており、そのたたずまいを今に残している。
記念館は世界的な視野で活躍された業績を称える数多くの資料を公開展示しており、スズキメソードの真髄を知ることができる。

  

鈴木氏は、自らの教育法や生涯について、数多くの著書を残しそのいくつかは、ドイツ出身のヴァルトラウト夫人によって英訳
「主な著書」
才能開発は0歳から1939年、歩いて来た道、1960年、愛に生きる―才能は生まれつきではない1966年、現代の覚者たち、1988年。
入館無料

  

信州大学方面に