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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

筑波農林研究団地

2013-04-29 | 気まま旅

食と農の最先端を見に、筑波農林研究団地、科学館を見学した。毎年4月に「科学技術週間」で40カ所の研究施設・試験場が一般公開される。
場所は、筑波駅バスで15分先の「つくば市観音台」。
今日4月19日は、初日で科学館中心、「食品産業技術総合研究機構の一般公開であった。

「筑波研究学園都市」は、1967年、6省庁36機関(その後43機関に増加)を移転することを閣議了解され、1968年に旧科学技術庁防災科学技術センターが着工した。
しかし多くの機関は工事に着工しなかったため、1970年に筑波研究学園都市建設法を施行することで着実に都市建設と機関の移転が進み1980年に機関の移転が終了。

並行して都市機能の整備が進められた。1985年には筑波の国内外における知名度の向上と、民間企業の誘致のために「国際科学技術博覧会」が開催された。
中心部の商業施設や交通機関が特に大きく拡充され、その後も住環境の都市化が進み、約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3000人の研究者を擁するに至っている。



JR「つくばエクスプレス」は、2005年開業。
関東地方の主要幹線の中では最も歴史が浅く、既成市街地の地上における用地買収を避けて約25%の区間が地下に建設された。
秋葉原 - 八潮間は南千住から荒川の鉄橋(北千住 - 青井間)までを除いて地下線であり、終点のつくば駅も地下駅となっている。
地上区間は全て高架または掘割構造であり、踏切が存在しない。
最高速度130km/h(通常125km/h)と高速で運転を行っており、秋葉原 - つくば間58.3kmを最速45分(快速)で結ぶ。
全線で自動列車運転装置 (ATO) による自動運転で、運転士は乗務しているが、車掌は乗務しないワンマン運転を実施。
全駅に可動式ホーム柵を装備している。


近代的な「JRつくば駅」前


将来の二酸化炭素濃度で米を作る実験が


主な行事は、科学館、農林水産省所管する独立行政法人の研究機関。最近の研究成果などを説明パネルや模型で紹介していた。
昔の農機具など現物展示。

土の中では水は、土の大きさや水の量によって
    

研究者が展示前で説明や教室で研究発表も。農牧地温暖化対策とその管理について、水田内のメタン発生量など説明されたが農業技術向上と環境インベントリーの展示に人気がある。


明治時代の稲、砂漠が農地にならないか
    

動物衛生研究では、衛生の役割と研究内容の展示やパネルツアーを通じて紹介していた。

二次林、溜池、田畑、社寺林のミニ農村研究が、土壌と放射能の研究。

小さな生き物から
    

農業生産資源研究、農村工学研究、食品、果樹、花きのど暮らし身近な物の研究とその試食、講演、花などのプレゼントなどがあった。

自然、社会、人間と調和・共存・世界の農業環境問題克服に研究している学園都市に期待したい。研究員が約150人いると云う。

田圃をきれいにする稲
  

種苗、昆虫、雑草などの遺伝子組み換えや先端研究の展示種の保存、管理と米のパン試食も出来た。

多様な生き物と共存している農業と持続的安定生産を目指して頑張っている研究員に期待したい。

雑草としか呼ばれない雑草
    

全てが、広大な実験畑で1日では時間が足りない。

昆虫・微生物・土壌・放射能、、100年後は
  

次回は、京都に戻ります。

霊峰 筑波山神社

2013-04-28 | 気まま旅
筑波山神社方面へ出かけたので、京都の旅を中断して掲載します。

「常陸国風土記」に、筑簞命が自分の名を国名にせよと云ったことによる諸説から、「筑波・つくば」平仮名の「つくば市」に。
筑波山を望み、平坦な筑波稲敷台地と、桜川流域から小貝川左岸にわたる昭和30年代まで大農村地帯であった。
1985年、EXPO’85「国際科学技術博覧会の開催により、急激に都市化が進んだ。
つくば市、真壁・八郷町に筑波山塊の主峰、筑波嶺で、870mの男体山と876mの女体山の二峰、富士山に似た秀麗で関東平野一望でる山。
それが「筑波山」、ブナ林と急斜面は、角閃斑糲岩から構成されている。中腹はモミ、常緑広葉樹林(710m)花崗岩・堆積物からなる、
万葉の時代から平安時代にかけて歌枕や、歌垣となり、「古今集」東歌の「筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど、、、」などと詠まれている。

「筑波山神社」は、坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」 と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社。

曇空、筑波山はすっぽり雲に、神社入口ここから5分ほど登り


鎌倉時代以降は、山岳信仰の山として知られ、「筑波神社・筑波山寺(知足院中禅寺)」が開かれた。
江戸時代に入り、堂塔などが整備され、南斜面を登る参道と門前町が整えられている。「ガマの油売りの口上」により、ガマの本場とし
広まる。現在は下火。

つくばセンター、筑波大学、エネルギー、筑波山口の北部シャトル
  

「神武天皇」一代天皇 大和朝廷開祖、日向国生まれ、東征「長髄彦」を討つ。

「崇神天皇」10代 三輪山の祭りが始まる。疫病祓い。実在の天皇と云う歴史家多い。

「桓武天皇」737-806 平安京を造営そた50代天皇、長岡亰から遷都、律令制強化し蝦夷征伐、有能役人登用、渡来系氏族重んじた。

「筑波馬子唄」の碑が
川の水の流れを、人の想いに例えて詠んだこの歌、 筑波山梅林から歩いて筑波山神社大鳥居手前に建っている。


大鳥居、                    馬子唄の碑、            階段多い
    

 万葉公園、             この奥がケーブルカー乗り場、            山頂地図
    

男体・女体の鞍部に至る「ケーブルカー(1935年開業)」「ロープウェイ(1965年)」がある。

神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて采女臣「物部氏」の友族筑波命が国造)に任命された。
成務朝の阿閉色命を経て「大化の改新」に至るまで、子孫相承けて祭政一致の制に基き、世々筑波国造が当神社に奉仕していたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んでいく。

筑波平野が、                                         年輪重ねた大木が
    

関東の霊峰「筑波山」を御神体と仰ぎ、約3千年 の歴史を有する古社、境内は、約370haにおよぶ。

「光誉上人」は、1611年梅心院から入山し、徳川家康の大阪冬・夏の陣で祈祷と軟膏をもって怪我人の手当てをした。
それが「陣中膏・ガマの油」と云う。

                                           末社
    

「随身門」左右に

倭建命、(ヤマトタケルノミコト、日本武尊)古代武人12代景行天皇の皇子。

豊水入日子命、(ヒノコノミコト)古代武人10代崇神天皇の皇子。

神門                  豊水入日子命、                 倭建命、
      

石碑から
「筑波の岳に登りて」鶏が鳴く 東の国に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と
          神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じく時と 見ずて行かば
         まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ 我が来る。「万葉集」(第3巻)

「反歌」      筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも。


「ガマの油」の落語もある。
こちらは酒に酔ったガマの油売りが、少し深く切りすぎてしまい、売り物のガマの油を多量に塗り付けるも血が止まらなくなり、傷薬を売りに来たにもかかわらず慌てて聴衆に傷薬を持ち合わせている者がいないか尋ねるという。

万葉集の歌碑が
    

 
筑波山は、信仰の対象として仰がれ、山から受ける恵みの数々は、神からの賜物であると人々は感謝。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られた。
その後、祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれる。
 

狛犬                        拝殿
    

恵比寿社                                        末社
  

手水舎                   奉納樽酒                  湧水の神水
    


「大御堂・おおみどう」は、真言宗豊山派の寺院、山号は筑波山。本尊は十一面千手観音。
東京都文京区大塚にある真言宗豊山派大本山護国寺の別院。

大御堂」は、神社の入り口左側に隣接し、古寺で、782年~806年 徳一の開山により創建されたという。その後、空海が入山し
「知足院中禅寺」と号したという。

筑波山神社と神仏習合により信仰され、江戸時代には多くの寺領を有したが、明治初年の神仏分離により破却されていた。
1930年(昭和5年)再興。現在の本堂は戦後に再建されたもの。

鐘楼                   湧水             古木
    

坂東33か所25番札で 24番が「楽法寺」、26番が「清滝寺 (土浦市)」。

お堂                     本殿                  正面
    


次は、筑波研究学園へ。

平安神宮と神苑

2013-04-27 | 気まま旅

左京区岡崎西天王町に鎮座。祭神は、桓武天皇・孝明天皇。1895年、明治28年平安遷都1100年を記念して創建された。

平安神社・国立美術館・岡崎公園・市動物園がある


社殿は、平安京の大内裏朝堂院を8分の5の規模で復元したもの正面の楼門は、応天門を、平安京の大極殿を模したと云う拝殿。

楼門は応天門           拝殿は大極殿を模している
    

1976年に焼失したが、79年に再建している。社殿を囲み約3万m2の広さがある。


社殿は、平安京大内裏の朝堂院を8分の5の規模に復元されている


神苑は、東中西南の4苑で東中苑は昔から回遊式庭園、東苑は、大正時代の作と云う。栖鳳池、橋殿、貴賓館がある。

花菖蒲・紅枝垂れ桜・カキツバタなど苑内で楽しめる
    

四季折々草花が咲くが、花菖蒲、紅枝垂れ桜、カキツバタ、が人気。10月の時代祭はここからスタートする。

時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、明治28年に始まった。
明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として平安神宮が創建され、そこに寄せられた人々の熱意の象徴として、まったく同じ意志のもとに創始されたのが時代祭。

その意志は、京都の誕生日10月22日に「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」「京都をおいて他にはまねのできないものを」というもので、京都人のこころいきと誇りがふんだんに織り込まれている。

面積3万m2ある  東・中・西・南の四苑。
  

「京都市美術館」は、京都府京都市の岡崎公園にある美術館。
1933年開館。1928年に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、「大礼記念京都美術館」という名称であった。
設計は前田健二郎。
公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目。東京都美術館同様に公募展の貸し会場となったほか、独自のコレクションを形成し常設展も開始した。
2000年には公募展などの増加に対応するため、別館を開館している。
コレクションは、明治以降、1990年頃にまで至る日本画、洋画、工芸作品などが中心。主な展覧会はこれらコレクションを年数回テーマを変えて展示換えする常設展のほか、各種公募展、大学の卒業展、新聞社主催の大規模展覧会が集客の核という。

美術館外観
  

次回は、知恩院へ。

左京区 南禅寺ほか

2013-04-25 | 気まま旅
「左京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て左側の意。天皇は南面して高御座に座っていたので左は東になる。そのため地図上では右にありながら左京と呼ばれる。
本来左京と言えば平安京のうちの東側(洛陽または洛中)のことであったが、京都市の行政区として生まれた左京区は鴨川左岸の洛東(洛外)地域にあたる。

河川は、 賀茂川(加茂川)、鴨川、高野川、白川、琵琶湖疏水を出ると、南禅寺、野村美術館、禅林寺、泉屋博古館と並んでいる。

「禅林寺」は、左京区水観堂町浄土宗西山禅林派の総本山で山号 聖衆来迎山、1077~81年中興の祖永観にちなみ一般に「永観堂」と称される。

855年空海の弟子真紹が真言宗の道場を開く
    

855年空海の弟子「真紹」が真言宗の道場として開き、1264~75年に浄土宗に改宗、本尊は、阿弥陀如来、「見返り阿弥陀」の名がある。

本尊は阿弥陀如来「見返り阿弥陀」の名がある
    

境内は紅葉樹が多く名所になっている。

1264年浄土宗に改宗している
    

重文ー融通念仏縁起・土佐光信作、釈迦三尊像・狩野元信筆など多数ある。

 

「光雲寺・南禅寺」は、霊芝山と号し、臨済宗南禅寺派に属する。
南禅寺北ノ坊とも呼ばれ、もと摂津(大阪府)にあったが、1661年頃後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、この地に移して再興。本尊には、東福門院の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置。
歴代皇室の尊崇あつく、元久邇宮家の菩提所となっている。もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小。

本堂には、本尊のほか左右に阿難、迦葉の二尊者東福門院の坐像を安置。
書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園。
朝鮮伝来の碼碯の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名という。
寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。

臨済宗の南禅寺派本山、1333年後醍醐天皇五山一位格付け、足利義満は鎌倉・亰五山の上位に置いている
    

「財団法人泉屋博古館」は、住友家の美術コレクション、特に中国古代青銅器を保存展示するための機関として1960年に設立された。
住友家当主15代目住友吉左衞門(1864-1926)が収集した中国古代青銅器類と、その長男の住友寛一(1896-1956)が収集した中国明清代の絵画を中心とするコレクションや、16代目当主住友吉左衞門(1909-1993)が蒐集した作品、また15代目以前から住友家に伝来したものもが中心。

主な収蔵品は、国宝ー 絹本著色秋野牧牛図 (国宝)-中国南宋時代の絵画。筆者は孝宗時代の宮廷画家・閻次平とされる。
線刻釈迦三尊等鏡像(国宝)-平安時代の銅鏡の鏡面に線刻で釈迦三尊ほかの諸仏を表したもの。他に重要文化財など。

中国青銅器が
  

館名の泉屋(せんおく)は江戸時代の住友家の屋号「泉屋(いずみや)」、博古(はくこ)は宋の時代に編纂された青銅器の図録「博古図録」に由来するものである。東京にも分館があると聞く。

1980年から一般公開された
  

「岡崎神社」は、京都市左京区岡崎にある。別名「東天王」とも言わ、かつて付近一帯が野兎の生息地であったことから、兎が氏神様の神使とされる。祭神として素戔嗚尊、櫛稲田媛命とその御子三女五男八柱神を祀る。

794年、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つとされ、都の東に鎮座するころから東天王と称される神社。

左京区の鎮守、参拝者は絶えない
     

東本願寺「岡崎別院」は、、「浄土真宗本願寺派」(通称、西本願寺)との区別の便宜上、通称「お東さん」・「お東」と呼ばれる。
なお、東京都台東区の「浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺」を本山とする「浄土真宗東本願寺派」は、宗派の維持・運営をめぐる見解の相違により、1981年に真宗大谷派から離脱・独立した宗派である。

歴史の重みを感じる
    

次回は、平安神宮へ。

哲学の道 あれこれ

2013-04-23 | 気まま旅

「西田幾多郎」の京都帝国大学教授時代は、18年間、教鞭をとり、三木清、西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。
戦時中、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼され、彼は「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを表している「世界新秩序の原理」と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だった事や、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説に彼の原稿が反映されなかったという。

和辻哲郎宛の手紙の中で、「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。
鎌倉にて、尿毒症により急逝。その時一緒にいた、在家仏教「鈴木大拙」は彼の死を前に座り込んで号泣したという。
西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。

「弥勒院」は、銀閣寺近くにあるのが、「幸せ地蔵尊」という赤い旗が目を引く。
このお地蔵さんは木造で子供を抱いた「子安地蔵」。もとは室町の呉服商が弥勒院に預けたものと云う、預けられた当時は本堂に安置されていたが、台風で土塀を修理するときに道沿いにお堂を建て祀ったという。

「哲学の道」で、何を信じてこれから生きて行くかを考えて歩く
    

今の京都には、平安時代の遺構は無い、街路名は残って居る。四条高倉の交差点に立てば、四条大路、高倉小路で懐かしい。
16世紀後半、織田信長は荒廃した京都をふっこさせている、その後も豊臣秀吉は、聚楽第を造営し、寺の集め、方一町の区画、細長い
短冊型の新しい町割りをして伏見城を、徳川家康は、上洛のため二条城を造営し所司代を置いた。
1870年明治には、琵琶湖から京都に水を引き疎水を開通させ、水力発電所を90年に、その電量で日本初の電車が市内を走った。

「法然院」鎌倉時代、専修念佛の元祖「法然房源空上人」は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。
1206年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、
「法然上人」は、讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。
江戸時代1680年、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれたと云う。

在家仏教とは
    

その疎水脇に桜の木が植えられ「京都哲学の道」が完成している。

親鸞上人とは
    


哲学の道のルートは、哲学の道を南に下る寺社巡りコース
慈照寺(銀閣寺)から琵琶湖疏水沿いの哲学の道を南に下るコース。霊鑑寺は椿の名所として名高い。
哲学の道を北に上る社寺巡りコーなどあると云う、私は、疎水に沿って。

四季の京都
    

「大豊神社」は、下流、100mほどのところ、大豊橋があり、傍に大きな石灯篭がある。この橋が「大豊神社」参道。
神社は、平安時代前期の887年の建立、鹿ケ谷村・南禅寺一帯の地主神であって、その昔は、現在の地よりさらに東の椿ヶ峰山中にあった山神。鎮疫神として信仰されていた神。1017年に現在地へ移り、大豊神社とされた。
応仁の乱で荒廃。祭神は、主神が少彦名命で、応神天皇・菅原道真を合祀している。

大国主命を祀っている末社の大国社には、珍しい“高麗ネズミ”が狛犬ならぬ狛鼠で、これは大国主命が野火に遭われて命が危ない時、近くのネズミが洞穴に案内し、命拾いをした伝説に基づき、ネズミを狛犬としたという。
健康・長寿・福徳に御利益があるといい、本殿の南に鎮座している。また、本殿北に鎮座する、日吉・愛宕社も、狛犬ならぬ狛サル、狛トビである。

足利尊氏・義政が桜の宴を
    

神社は“若王子さん”と呼ばれ、縁結びの神様として若い人達に人気、境内末社の恵比須社で祀られている恵比須大神は、かっては西洞院中御門(椹木町)あたりの蛭子社で祀られていたが、応仁の乱で神だけ残し焼失、その後この若王子で祀られるようになったとか。
蛭子社の傍を恵比須川が流れていたが、現在では“夷川通り”の名だけが残っている。勿論、この恵比須社へは開運・商売繁盛を祈願する人のお参りがある。
神社は、1160年、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺の守護神として分霊を迎えられ祈願所とされ、禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。室町時代には、足利尊氏、義政などが境内で花見の宴を催したという記録がもある。
この神社の神木「椰」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気。

会津日新館川崎氏と離婚し、アメリカ使節団に通訳の「新島襄」と再婚した「八重」1876年である。
    

熊野若王子神社を昇ると、若王子山の山頂には、新島襄と八重の墓がある。標高200m。若い学生が、続々と降りてきていた。
「大河ドラマ」か、同志社の学生か・・・・。

1864年上海ローウ”アー号で「ジョ―」と呼ばれ、1865年フイリックスアカデミーに入り、札幌でクラークに学んだ「ジョー」
    

ジョーは、八重を「美人じゃないが生き方が好きだ(ハンサム)それで十分」と云っている。
    

琵琶湖疏水開通、禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退、
第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。主任技術者として、大学を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた。
第1疏水は1885年に着工し、1890年に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線が完成した。
第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられたという。

京都は一日にして成らず。
    

琵琶湖疎水分水線で散歩終了、昼食は、「禅」のお好み焼きにした。

京都の「お好み焼き」は、旨かった。
  

次回は、左京区南禅寺、平安神宮方面に。