syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

門前仲町 仙台堀と芭蕉・馬琴 syu散歩

2017-04-29 | syu散歩
「仙台堀川」は、江東区を流れる河川。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつ。
江戸時代、この堀の北岸、現在の清澄公園の西隣に「仙台藩の深川蔵屋敷」があり、この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから
仙台堀ーと呼ばれ、その後、昭和40年の1965年、河川法改正で砂町運河と合わせて、仙台堀川、に。
仙台藩の芝口上屋敷(港区東新橋)の跡地からは船着場の遺構が発見されており、仙台から深川の蔵屋敷へ、さらに上屋敷という当時の物資の海運輸送が推測され、JR御茶ノ水駅周辺の神田川も、その開削工事を仙台藩が請け負ったことから、かつて「仙台堀」と呼ばれている。
1872年、日本初のセメント工場「官営深川工場」が建設され、区の史跡「本邦セメント工業発祥之地」の記念碑も残されている。



「平賀源内」異才 1728-79 戯作者で本草学者。高松藩足軽の子、医学を勉強するため長崎へ、本草学は江戸に出てから。
江東区清澄ー読売江東ビルに碑が
源内は、享保13年の1728年、高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者でもあった。
源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年の1777年、エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行なった。
オランダ商館長もびっくりー酒宴の席で袋を取り出し「この袋を開けたものには中身を差し上げる、、」と云い、袋の入り口が知恵の輪のようになって
いた。列席した日本人は開けられない、しかし末席に控えていた源内、たちどころに開けてしまった。人々から称賛されたという。
源内は、誤って人を殺した罪で獄中で病死したと云う。

                  地下鉄東西線・大江戸線門前仲町駅出口


            国道10号線永代通りと463号線清澄通り交差が門前仲町の交差点。


              清澄通り沿いにひっそりと「戦災殉難者慰霊碑」が。


江戸を旅した俳人「小林一茶」は、この辺りに5年ほど住んだという。

              軍鶏鍋屋 五鉄・二之橋・高札跡


「仙台藩深川蔵屋敷」(現在の清澄公園の西隣になる)
仙台堀は、旧中川と隅田川を結ぶ運河の一つ、仙台藩主伊達政宗の仙台堀は今の飯田橋~秋葉原の工事で運河はその後と思われる。

今の堀、東京湾から東雲運河・汐見運河・豊洲運河から枝川ー塩浜ー深川ー汐見橋ー亀島橋ー左に隅田川ー右仙台堀ー横十間川(親水公園)-
大横川ー墨田区へ
                       仙台堀の桜並木


「松尾芭蕉」 俳諧師 1644年正保元年ー1694年元禄7年 松尾与左衛門の次男・伊賀国 23歳で故郷を捨て俳諧の道へ。
37歳で江戸深川「芭蕉庵」で暮らす。奥の細道の旅は、元禄2年である。近世文学史の功績大
芭蕉18~19歳時、(藤堂高虎・・藤堂良忠、藤堂良精の3男、俳号蝉吟)良忠の料理人として仕え親交深く俳諧の道の影響大であったと云う。

  深川で詠んだ句「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」・大阪で客死最後の句「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」


芭蕉は、城主「内藤義概」(風虎)の俳人と交わるが、芭蕉の収入源は、神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料であったとも云われている。1675年32歳時、江戸本所の大徳院蹤画亭において、東下中の西山宗因歓迎の連句が興行され、そこに参加したメンバーが後の芭蕉の人生に大きく関わることになる。
メンバーは、「宗因」-江戸初期から俳諧を席巻してきた「貞門派」に対し、延宝期から流行した「談林派」の中心人物。
芭蕉は、「宗因流」の新しい波に大いに賛同し、心酔していく。
「幽山・高野直重」の芭蕉は、彼の句会の書記役を勤めたともいう。「信章・山口素堂」は、芭蕉とは一生の友として関わっていく。
他は、 蹤画(大徳院住職)、木也、吟市、少才、似春、又吟。
芭蕉は、1678年35歳ー「宗匠」となり、いわば職業的な俳諧師、1680年37歳、江戸深川隅田川畔に「草庵」を。
門人ー「李下」より芭蕉の株を贈られ、この木が大いに茂ったことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、
俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになる。すでにこの頃芭蕉には、20人ほどの門弟がいたと云う。

       京都「北村季吟」師事して俳諧の道をー松尾芭蕉像


                 滝沢馬琴 1767年明和4年ー1848年嘉永元年


            馬琴は、74歳で失明・代筆で「南総里見八犬伝」脱稿した。


「山東京伝」 1761~1816 江戸後期の戯作者・浮世絵師。
江戸深川出身の人。本名、岩瀬醒、通称、京屋伝蔵。
浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演と名乗る。のち、戯作に筆をふるった。
寛政の改革で洒落本が発禁になり、手鎖50日の刑を受け、以後は読本を書いた。
洒落本「通言総籬」「傾城買四十八手」、黄表紙「江戸生艶気樺焼」、読本「桜姫全伝曙草紙」、考証随筆「骨董集」など多数を刊行。
版元は、蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門となり、挿絵の面白さが魅力で人気を誇った。弟子は取らなくなっている。
1784年5代目市川團十郎と親交・1790年遊女菊園を妻に迎えている。その頃、曲亭馬琴が訪ねている。

「滝沢馬琴」 1767-1848 24歳で山東京伝入門 旗本用人滝沢興義の五男。
椿説弓張月を初め数多くの時代物の読本を発表、その筆は師の京伝をも凌いだという。作家だけでは生活できず、様々な副業をこなしている。蔦屋重三郎
の手代・履物屋・未亡人の婿に・薬売り・・解放されたのが30代の後半と云う。74歳で失明し息子嫁に代筆させ、「南総里見八犬伝」を脱稿しと云う。



「南総里見八犬伝」
文豪・曲亭馬琴が28年もの年月をかけた長編小説。
戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にし、歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたもの。
1814年に最初の5冊を出版し、全106冊が1842年の天保13年、でした。
物語の主題は、「勧善懲悪・因果応報」にあり、悲劇の最期を遂げた里見氏をはじめ安房地方の善良なる人々などをとりあげて、馬琴の意のままに大活躍させる爽快な小説になっている。

物語は、結城の戦いに敗れた若武者里見義実)が、安房へ落ち延びる場面からはじまり、やがて安房国滝田の城主になった義実は、隣国の館山城主安西景連)の攻撃にあった。
愛犬八房の働きによって敵将景連は討ち取ったものの、その功績で八房は伏姫を連れて富山の洞窟にこもった。
姫を取り戻しにきた許婚の金碗大輔は、鉄砲で八房を撃ち殺すが、伏姫にも傷を負わせてしまう。
八房の気を感じて懐妊してしまっていた伏姫は、身の純潔を証するため、大輔と父義実が見守るなか、自害、このとき、伏姫が幼い頃に役の行者
から授かっていた護身の数珠から八つの玉が飛び散った。
この玉が八方へ飛んで、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持つ八犬士が登場してくる。
こののち、金碗大輔は出家してゝ大(ちゅだい)法師となり、飛び散った八つの玉の行方をもとめて旅に出る。
伏姫の子供ともいえる八犬士たちは、それぞれ思いがけないところで出会い、はなばなしく活躍する。
八犬士たちとめぐり会ったゝ大法師こと金碗大輔は、二十数年ぶりに八人を里見義実のもとへ連れ帰った。
里見家の家臣として里見家の危難を救った八犬士は、義実の八人の孫娘をそれぞれ娶る。
その後、子どもたちに家督を譲ってからは、富山の山中へ姿をかくして仙人になったというお話。

                     全106冊の長編小説

富岡八幡宮神社 syu散歩

2017-04-28 | syu散歩

「永代橋」 中央区と江東区で、隅田川と晴海運河の分岐点に架かる隅田13橋に一つ、橋の名は、永代島と呼んでいることにちなんでいる。
1696年ー5代将軍「徳川綱吉」の50歳を祈念して架橋したと云い、公儀入用橋であった。
囚人が伊豆7島へ送られる流人船発着所と諸国の回船が停泊し、航行したため橋脚が高く、富士山・筑波山・安房・上総等が見渡せると江戸の評判を博し
1701年、赤穂浪士が吉良邸討ち入り後、永代橋から港区の泉岳寺に向かっている。
関東大震災後、銅アーチ橋が完成している。
区の中西部地域を幕府は木材業者を置き防災上からこの永代島に移転させのが「木場」の始まり。元禄の1688~1704年・隅田川と荒川の間に約30万㎡
の沼地・周囲を土手を築き、縦横に掘割を設け貯水池としている。これが深川木場として繁栄した。
昭和49年ー東京湾岸埋め立て地に「新木場」とし移転した。ー木場角乗りは都の無形民俗文化財にー

「徳川綱吉」犬公方 1646-1709 五代将軍(35歳・家光の4男・館林15万石から)「正類憐みの令」犬公方と世人から陰口を、学問好き儒学。
綱吉も世継ぎに恵まれず甥の「家宣」を養子に迎えている。

                  門前仲町に江戸の雰囲気が


「深川」 の地名は、この辺りを開拓した「深川八郎右衛門」にちなむ。
江戸時代初期、大阪府摂津の八郎右衛門が開発し、隅田川の河口に、幕府の船を扱う御船蔵が設置された。
明暦の大火(1657)以降、木材の集積地として「深川木場」が誕生。
「深川不動尊、霊巌寺」などの寺町も形成され、江戸下町の繁栄をもたらした。明治に入り、洲崎遊郭・辰巳芸者・深川芸者と工業地帯として発展。
が、大震災・大空襲で壊滅的被害を受けた。

                 車が一台通れるかの細い道の繁華街


「門前仲町」 区西部で深川との境、首都9号線が通る。「永代寺門前仲町」が「門前中町・門仲」の起源ー永代通りよ清澄通りの交差。
「木場の角乗り」は黒船橋公園(大横川ほとり)で公開される。

                    富岡・門前仲町の中心商店街が


                    永代通り門仲商店街


都市公園の原点ー5公園は、ー太政官布告5公園ー
1、芝公園ー面積規模・約16万8500坪ー55.61ha。
2、上野公園ー〃  ・約25万2000坪ー83.16ha.
3, 浅草公園ー〃  ・約6万7800坪ー6.37ha.
4, 深川公園ー〃  ・約1万9000坪ー6.3ha.
5, 飛鳥山公園ー〃 ・約1万3500坪ー4.46ha.

「深川公園」は、現在江東区の公園、面積約1.6haー都市計画公園面積約2.22heで地区の小さい公園に過ぎない。が、隣に不動堂をあさんでいる。
テニスコート二面・児童公園・運動公園部に別れ八幡宮境内と続き緑豊かな一角になっており、明治初めに移された不動堂への参詣人も多く
門前所では、縁日や屋台も出て下町の雰囲気充分な公園となっている。明治4年頃は、すべて深川公園に指定されていたのであろう。
                        


「祭礼」は、8月15日を中心に行われ、下町風の勇み肌の祭礼として知られ、文化4年1807年、あまりの人出で「永代橋」が落橋し、数百人ご溺死の記録が残っている。
                           運動公園と首都高が


「東京市立深川図書館」跡ー区登録史跡ー
明治42年、日比谷図書館に次いでこの公園に、洋風の図書館(清澄公園に残っている。後掲載します)創立された。



「紀伊国屋文左衛門」 役人と癒着した政商・豪商 1669-1734 紀伊の生まれ。
暴風雨をついて江戸に紀州産のミカンを売りまくっり巨利を得たと伝わる。勘定奉行ー荻原重秀・御用人柳沢吉保に取り入り、幕府御用達の木材商
として、度重なる江戸の大火に乗じ巨万の財を成している。
文左衛門千両で吉原借り切っている・節分に豆の代わりに金を見いている・諸般の役人に対し接待しいろいろ演出し江戸中「紀文」の名が・
絵師・戯作者のパトロンに・・・。が40歳で材木商廃業し、晩年は財産を使い果たしている。
富岡八幡宮へ大神輿を寄贈している。(文左衛門は、清澄庭園で)

           他の公園とは、違う雰囲気が残る「深川公園」


「深川不動」 -千葉県成田不動尊の東京別院ー
元禄16年の1703年江戸に出開張し、日本橋・浅草等に安置されていたが、明治11年、現地に堂宇が建立された。
千葉まで行かなくともいいとあって、江戸庶民は富岡へ、参拝客が多く、又自動車の交通安全祈祷が盛んになった。

                 尾上菊五郎の碑などが境内に


                       見事な彫刻の堂


                       深川不動堂


「富岡八幡宮」 富岡に鎮座、   祭神ー誉田別命・ほんだわけのみことー
1627年「長盛上人」が創建。隅田川河口の砂洲永代島を埋め立てて建てられたのでー永代島八幡とも云うー

江戸三大祭、3年毎に8月15日に近い土・日の深川祭・神田明神神田祭・日枝神社の山王祭


「深川七福神」

恵比寿神が「富岡八幡宮」。
弁財天は、冬木弁天堂・福禄寿は、心行寺・大黒天は、円珠院・毘沙門天は、龍光院・福禄寿は、深川稲荷・寿老人は、深川神明宮。

1684年から約150年間行われていた「勧進相撲」記念碑横綱力士像がある。


「伊能忠敬」日本地図を作った商家の隠居 1745-1818 測量家 千葉県佐原。
天文学者の「高橋至時・16歳年下」の門下に、測量術習得ー17年間で全国測量し「大日本沿海輿地全図」を編纂した。
一歩65cm歩測・72歳で終えている。尾道で過労で倒れている、3か月の足止めを。遺骨は、遺言で、高橋至時の傍らに葬られた。

                 測量のスタートは、富岡八幡宮で祈願して。


                    「深川祭」の千貫神輿


                   水かけ神輿で知られている。


                       本番の宮入


                     町内を練り歩く出車


                      境内の案内板


                          社殿

商船大学と明治丸 syu散歩

2017-04-26 | syu散歩

「相生橋」 
路線は、清澄通り、着工、1988年の昭和63年、開通、1998年の平成10年。全通は翌年、形式は、3径間鋼トラス桁橋 で、全長ー149.1m・幅ー22.0m
隅田川河川にかかる橋で、都道463号上野~月島~清澄通りを通す相生橋。
西岸は、中央区佃2丁目と、東岸は、江東区越中島1丁目と2丁目ー名称は、「相生の松」に由来。
1892年の明治25年、に築造された月島は、工業地区として急速に発展したが、築地や深川からの架橋がなく佃の渡しと月島の渡しなどの渡し船に頼るしかなかった。特に深川側の川幅は短かったこともあり、東京市は、川途中にあった中之島を挟んで長短2本の架橋計画を立てたという。
相生大橋ー橋長147.0mと小橋ー橋長52.7m、幅はいずれも7.2mの木橋で、明治36年、開通している。
後に、市電を通す目的から大正8年、10.8mの幅に拡幅され、大正12年、には月島まで市電が開通。
しかし、わずか2ヵ月後の9月、「関東大震災」によって上流から流れついた炎上した船舶により延焼、焼失している。
3年2ヶ月にわたって再び月島は孤島と化すが、大正15年、震災復興事業の最初の橋として、鉄鋼ゲルバー橋が再架橋された。
永代橋から隅田川が派川され、大型船の通航がないことから桁橋を採用し、塩害で橋が傷んでも簡単に修理ができるように大橋が7径間、小橋が5径間と橋脚が多い橋である。なお上水道の管も通っていたと云う。
昭和55年、小橋下が埋め立てられて、中之島が地続きとなり、交通量の増大に伴って老朽化が深刻になったため、
平成10年・に現在の橋に架け替えられた。(橋下には隅田川唯一の水上公園である江東区立中の島公園が)

            隅田川に架かる多数の橋の中でも、特に美しい相生橋


「隅田川十三川」北から千住大橋・白髭橋・言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・新大橋・清州橋・永代橋・佃橋・勝鬨橋
「十六橋」桜橋・隅田川大橋・相生橋が入る。
「渡し」江戸時代橋が架かっていたのは千住大橋・両国橋・新大橋・永代橋・吾妻橋の5橋、他は、渡し場が18ヶ所、震災復興計画で次々架けられていった。1964年まで佃の渡しはあったと云う。
平安時代の古今和歌集・伊勢物語に「墨田川」「墨水」「都川」などが、墨田区のもとになっている。江戸時代には、運河が掘られ舟運が発達した。
下流部は、娯楽地域として花見・川涼み・屋形船・花火・ボートレース・・。戦後高度成長期から汚染が進み姿を消していった。

                   大川端リバーシテイー再開発されいる。


「国立海洋大学」
平成15年、東京商船大学・東京水産大学を統合して設置された大学。
平成16年ー「国立大学法人東京海洋大学」としてスタート。
東京商船大学は、明治8年、私立三菱商船学校が東京に設立。東京水産大学は、 明治21年、大日本水産会水産伝習所が東京に設立
商船大学、明治15年、三菱商船学校は官立となり、東京商船学校と改称 明治30に。水産大は、水産講習所の官制が発令され、農商務省は、水産講習所を開設したのが大正14年の1925年と云う。

旧商船大は、明治8年ー昭和50年で、100周年(記念資料館が)・平成27年で140年を迎えている。


「海洋大・越中島キャンパス」
江戸時代初期「榊原越中守」の屋敷跡で「越中島」の名が、その後忍藩松平総守の領地で黒船来航後は、海防のための屋敷と調錬場、明治に入り
陸軍練兵場、明治35年静岡清水の商船大学がこの地に移転した。
その屋敷地の所在地はの「越中島」は、ある企業の倉庫。
越中島が横浜と所縁が深いのは、「榊原照清公」、照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女ー榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた。
間宮信繁公の御姫様、照清公の母上様が晩年住んでいた場所、この越中島の御屋敷であった。
江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系・越中島は、江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置し、(埋め立てが進み大分様子が異に)江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解る。
榊原照清公の母上の御実家の間宮家は、築城技術・鷹の飼育・外交儀礼・水軍に精通した武家である。
水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測できる。
徳川四天王と呼ばれた榊原康政公、康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たり、榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕え、
徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移り、間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は、「榊原照久公」
江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されている。

                          越中島キャンパス


「第一・第二観測台」-有形文化財ー
明治36年我が国に現存する最古の天文台、商船教育には天測は、必須で、重要である。当時では、東洋一最新鋭赤道儀望鏡を供えている。
屋根は半円形ドームで手動

     写真右側が、明治36年、「第二観測台」、天体の高度から緯度の測定などがー有形文化財ー


「百年記念資料館」
            記念館は、100年の歴史を軸に商船教育史・海事史など収集展示されいた。


記念館前に「アンカー錨の塔」

アンカーの主幹は天の北極を指し、ストックは、天の赤道を指している 昭和40年、練習船明治丸アンカー。


「重要文化財の明治丸」
明治政府が英国グラスゴー造船所に灯台巡回船として、明治7年鉄板(現在は銅船)であるが豪華な仕様の新鋭船で、灯台業務のみでなくロイヤル
シップの役目も兼ねた船である。(明治天皇も乗船し、北海道巡行)。

明治8年の1875年、小笠原諸島領有権問題が生じ、政府は、即明治丸で調査団を赴き、この領有は、我が国の排他的経済水域の確保するもとになっている。これで我が国は、世界に海洋立国の基となった。

   明治丸は、明治29年商船学校に譲渡された。海の若人を育て、震災・大空襲時災害救援でも貢献


明治丸活躍がなければ、今の日本の排他的経済水域約447万㎢のうち、約3割の権利を得る子が出来なかと云う。

   鉄総トン数1027.57t  長さ68.6m 深さ6.9m、最初は灯台点検と灯台修理に


「重要文化財」とは、日本所在する建造物・美術工芸品・考古資料・歴史資料・・などの文化財のうち「歴史上・芸術上の価値の高いもの、学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき政府が(文部科学大臣)指定した文化財を指す」
大正6年の1917年台風による高潮で、(地面に乗り上げた)。

                重要文化財(船)として明治丸が最初に指定された。


                  資料館には、大型商船の模型が


   駆逐艦「あけぼの」のシリンダ等が、31ノットのあけぼのは明治32年イギリスで造られた。


          復水器・循環水ポンプ等が、大正時代の銅合金機械など


               ロープのいろいろな結びが展示


             帆付き汽船が荒波に(絵が数点展示)


                灯台をまわって活躍の絵。


         多くの商船学校の生徒たちを生んだ明治丸、その甲板から「相生橋」を。


            晴海から清澄通り、越中島から門仲へ


「江東区深川永代」
区の北西部、横十間川に架かる「越中島橋」、この辺は、深川永代で富岡八幡宮の門前町。忠臣蔵で知られた永代橋がある。

                        越中島橋

隅田川を下り佃島 syu散歩

2017-04-23 | syu散歩

八丁堀を隅田川に沿って下ると、中央区鉄砲洲・明石町。
鉄砲洲・明石は、区の東部で隅田川河口の西岸(明石町)で、地名の鉄砲洲、1624年頃幕府が鉄砲方が試射した事にちなむというが、洲が鉄砲に似ていることと云う諸説がおる。
江戸時代は、諸国の船が集まる港で、賑わったと云う。
区の南部の明石町、隅田川の最下流右岸に位置で、佃大橋に向かい左が鉄砲洲・右が明石町に、江戸期は豊前中津藩奥平氏の中屋敷で、藩医に、杉田
玄白・前野良沢らがオランダ解剖学を翻訳し「解体新書」を著し発祥地・明治時代は、築地外人居留地・1874年の明治7年アメリカ公使館が。
現在、聖路加国際病院(明治33年宣教師創設)
                          鉄砲洲通り


安藤広重時代は、鉄砲洲から芝浦までが「江戸湊」と呼んでいる。
京橋川が隅田川に合流する河口から南の方へ細長く洲をー鉄砲洲。

鉄砲洲はー築地の内海寄の方なり。寛永の頃、井上、稲富両家大筒の町見を試し所なり。されど此の地は金城に遠からずとて、後に鎌倉由比ヶ濱にて稽古ありし也。それによりて、かく地名とせし。此の地は、南北凡そ八丁ありしという。(續江戸砂子)江戸鹿子名所大全に、此辺昔し洲崎なりし時の形、鐵砲に似たるより名付といへるは誤なり、とある。

「鉄砲洲稲荷神社」
                祭神ー雅産霊神・豊受比売神・宇迦え御魂神


徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年の1624年、
氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築く。
たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからと云う。
江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお「冬至開運祈願祭」に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されていると云う。

                    社殿(工事中でした)


「佃大橋」
東京湾ー浜離宮庭園ー築地川ー水門ー東京中央卸売市場ー清澄通りー左明石町ー右月島ー左鉄砲洲「湊」-「佃大橋」を渡。
右中央区佃ー相生橋ー江東区永代・門仲へ

佃島対岸の湊町・明石町は、江戸下町の中心の一つで、諸大名屋敷や蔵屋敷調練場などがあり、また江戸の港のあったところでもある。
維新後は外国人たちの住む居留地になった時期もあるところで、クリスマスなども最初にここでおこなわれたといわれている。また洋学・ミッションスクール発祥の地でもある。
昭和39年の1964年、大橋が完成したが、それまではここに

”佃の渡し”があった。隅田川では最後まで残った渡し(都営)であった。ー 東京都


                     汐見地蔵尊堂


             東京に最後まで残った「佃島船場・渡し船」跡


                    水上遊覧バスが。


            あさりの佃煮で知られた佃煮屋(現在は、2軒のみに)


                    住吉神社の八角千貫神輿


「佃島の江戸期」、隅田川の河口部に位置していた島(文亀[1501-04]古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)。
1626年、旗本「石川八左衛門重次」が徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称。
徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住。島を佃村で「佃島」と命名とある。
江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は関西の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)。
本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに大坂、堺にいた。
家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。
そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋「森孫右衛門」と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供。
その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができたと云う。
後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えた。



明治期、水戸藩により創設された「石川島造船所(現在のIHI(旧・石川島播磨重工業)の前身)が、1876年の明治9年、民間に払い下げられ、それが
昭和54年、操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除き現在の佃の多くの部分はその敷地。

昭和61年、から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層マンションを中心とする住宅群「大川端リバーシティ21」の整備。


「住吉神社」ー有栖川宮幟仁親王の筆によるー

             西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神


1590年、徳川家康が関東に下降(江戸城に公式入城する)し、佃村と大和田村の漁夫33人と住吉神社の神主・平岡権大夫好次も江戸に入る。
1624 - 1645年)、江戸鉄砲洲向かいにある百間四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し始める。
1645年、築島が成り、「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と名付けて定住。
1646年、佃嶋の築島者たちが、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、住吉三神とともに祀るべく、
「住吉神社」を創建。
1858年頃、歌川広重が名所絵揃物「名所江戸百景」の一図「佃しま住吉乃祭」として、住吉神社例大祭の様子を描く。
昭和37年、東京湾の汚染が進むなか、神輿の海中渡御と船渡御が廃止される。平成2年、東京湾の汚染状況が改善されて久しく、28年ぶりに
船渡御の復活が成る。平成17年、8月5 - 8日:平成17年例大祭を「住吉神社鎮座360年記念例大祭とし、東京湾上での海上祭と合わせて執行。

                         狛犬


                         拝殿


                       佃大橋全景


                        佃島水門


                        住吉水門


                        佃島地図


                      隅田川遊歩道                


                 大川端リバー子ー21-高層マンション


                  中央区から江東区へ 相生橋

春はまだ 4月の富士山荘

2017-04-21 | 富士山麓日記
富士山の山荘にもようやく春がめぐってきました。
4/17標高1000mの春です。

富士急行「下吉田」あたりからの富士山

河口湖町船津からの富士山

まだまだ冬のような茶色の景色です。



こぶしが咲きそうです。

ヒマラヤ雪ノ下



梅も咲いています。



フキノトウ









ルバーブ



富士さくらもまもなくです。

一合目からの富士山