大給松平家系統は、西尾藩(本家、乗元系統)・府内藩(親清系統)。
明暦4年の1658年、松平忠昭が府内城主に着任し、以降10代にわたって府内を治めた。
最後の藩主・松平近説は寺社奉行から若年寄まで出世したが、明治、1868年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。
岩村藩(乗政系統)ー奥殿藩(真次系統、大給藩・田野口藩・「龍岡藩」)
松平真次が大坂の陣の戦功で本貫である大給を領する旗本となり、息子・松平乗次が、1684年、に大名に列せられると、以降10代にわたって大給を領した。
最後の藩主・松平乗謨は若年寄から老中兼陸軍総裁まで出世したが、明治元年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。
龍岡城駅舎(無人)
「龍岡城・五稜郭」別名 桔梗城 築城ー1864-1867年・城主 大給松平氏 ・廃城年 1871年・遺構 櫓、石垣、土塁、堀 (国の史跡)
佐久市田口にある日本の城跡。
幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。
日本に二つある五芒星形の西洋式城郭のうちの一つ。
もう一つの西洋式城郭である北海道函館市の五稜郭との類似から龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城とも呼ばれている。
日本に二つ、五稜郭・北海道函館とここ龍岡城
文久3年の1863年、三河国奥殿藩の藩主「松平乗謨」は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得た。
奥殿藩の藩庁は三河国の奥殿陣屋(現在の愛知県岡崎市奥殿町)にあったが、領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)は信濃国佐久郡にあり、佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた。
藩庁の信州への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たもの。
幕末、国内情勢が緊迫する中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される、領地の狭小な奥殿から退避する意味もあったという。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計。
1863年、築城候補地の中から田野口村を選定し、1864年、建設を開始した。
戊辰戦争への対応は、
松平乗謨は、幕府の老中格陸軍総裁をつとめたほどの人物で、佐幕の立場をとっていたが、3月には上洛して新政府に帰順する意思を表明した。
しかし新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられている。
藩兵たちが新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵している。
戦争後の賞典禄5000両。
「曹洞宗・蕃松院」
田口城跡の麓にあり、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃のぶしげの墓がある。
信蕃は、天正11年の1583年、岩尾城攻めで討ち死にしたが、長男の康国が信蕃の菩提を弔うために
蕃松院を建立
小海線の旅は続きます。
明暦4年の1658年、松平忠昭が府内城主に着任し、以降10代にわたって府内を治めた。
最後の藩主・松平近説は寺社奉行から若年寄まで出世したが、明治、1868年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。
岩村藩(乗政系統)ー奥殿藩(真次系統、大給藩・田野口藩・「龍岡藩」)
松平真次が大坂の陣の戦功で本貫である大給を領する旗本となり、息子・松平乗次が、1684年、に大名に列せられると、以降10代にわたって大給を領した。
最後の藩主・松平乗謨は若年寄から老中兼陸軍総裁まで出世したが、明治元年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。
龍岡城駅舎(無人)
「龍岡城・五稜郭」別名 桔梗城 築城ー1864-1867年・城主 大給松平氏 ・廃城年 1871年・遺構 櫓、石垣、土塁、堀 (国の史跡)
佐久市田口にある日本の城跡。
幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。
日本に二つある五芒星形の西洋式城郭のうちの一つ。
もう一つの西洋式城郭である北海道函館市の五稜郭との類似から龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城とも呼ばれている。
日本に二つ、五稜郭・北海道函館とここ龍岡城
文久3年の1863年、三河国奥殿藩の藩主「松平乗謨」は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得た。
奥殿藩の藩庁は三河国の奥殿陣屋(現在の愛知県岡崎市奥殿町)にあったが、領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)は信濃国佐久郡にあり、佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた。
藩庁の信州への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たもの。
幕末、国内情勢が緊迫する中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される、領地の狭小な奥殿から退避する意味もあったという。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計。
1863年、築城候補地の中から田野口村を選定し、1864年、建設を開始した。
戊辰戦争への対応は、
松平乗謨は、幕府の老中格陸軍総裁をつとめたほどの人物で、佐幕の立場をとっていたが、3月には上洛して新政府に帰順する意思を表明した。
しかし新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられている。
藩兵たちが新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵している。
戦争後の賞典禄5000両。
「曹洞宗・蕃松院」
田口城跡の麓にあり、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃のぶしげの墓がある。
信蕃は、天正11年の1583年、岩尾城攻めで討ち死にしたが、長男の康国が信蕃の菩提を弔うために
蕃松院を建立
小海線の旅は続きます。