syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

五角形の龍岡城 日本に二つ五稜郭

2019-06-28 | 季節だより
大給松平家系統は、西尾藩(本家、乗元系統)・府内藩(親清系統)。
明暦4年の1658年、松平忠昭が府内城主に着任し、以降10代にわたって府内を治めた。
最後の藩主・松平近説は寺社奉行から若年寄まで出世したが、明治、1868年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。
岩村藩(乗政系統)ー奥殿藩(真次系統、大給藩・田野口藩・「龍岡藩」)
松平真次が大坂の陣の戦功で本貫である大給を領する旗本となり、息子・松平乗次が、1684年、に大名に列せられると、以降10代にわたって大給を領した。
最後の藩主・松平乗謨は若年寄から老中兼陸軍総裁まで出世したが、明治元年、辞職し、以降「大給」姓を名乗る。

                        龍岡城駅舎(無人)


「龍岡城・五稜郭」別名 桔梗城 築城ー1864-1867年・城主 大給松平氏 ・廃城年 1871年・遺構 櫓、石垣、土塁、堀 (国の史跡)
佐久市田口にある日本の城跡。
幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。
日本に二つある五芒星形の西洋式城郭のうちの一つ。
もう一つの西洋式城郭である北海道函館市の五稜郭との類似から龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城とも呼ばれている。

                 日本に二つ、五稜郭・北海道函館とここ龍岡城


文久3年の1863年、三河国奥殿藩の藩主「松平乗謨」は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得た。
奥殿藩の藩庁は三河国の奥殿陣屋(現在の愛知県岡崎市奥殿町)にあったが、領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)は信濃国佐久郡にあり、佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた。
藩庁の信州への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たもの。
幕末、国内情勢が緊迫する中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される、領地の狭小な奥殿から退避する意味もあったという。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計。
1863年、築城候補地の中から田野口村を選定し、1864年、建設を開始した。



戊辰戦争への対応は、
松平乗謨は、幕府の老中格陸軍総裁をつとめたほどの人物で、佐幕の立場をとっていたが、3月には上洛して新政府に帰順する意思を表明した。
しかし新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられている。
藩兵たちが新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵している。
戦争後の賞典禄5000両。



























「曹洞宗・蕃松院」
田口城跡の麓にあり、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃のぶしげの墓がある。
信蕃は、天正11年の1583年、岩尾城攻めで討ち死にしたが、長男の康国が信蕃の菩提を弔うために

                      蕃松院を建立








                     小海線の旅は続きます。


太田部駅に旧中込中学校舎が

2019-06-25 | 季節だより
「清酒の話」
大昔、稲の神様を 「さ」 と呼んでる。
田植えの時期に「さ」の神様が地上にやってくるのが「5月」、それで5月を「さつき」と呼び、神様が与えてくれた稲を「さなえ」と呼んだ。
「さけ」は、神様が与えてくれた稲からー米にして醸しだされる不思議な活力を生むもの、神様の精気と云う意味の「さのけ」が語源で「酒」に。
日本酒造りは、日本伝統文化・西暦713年播磨風土記には、神に供えるた「糧」が枯れて「カビ」が生え、「酒」を醸しだした事が記載されており
「米を原料とした酒」の最も古い記録とされている。
清酒の特徴は、糖化と発酵の」両作用を同時に進行させるー「併行複発酵」-他に類を見ない高度の「醸造法」である。

平成5・6年頃の「長野県酒蔵は、108家・銘柄211種、ほぼ新潟県に匹敵していた」
当時の佐久地域には14社ある、酒処と云われた。
「大沢酒造、大吉野・善光寺」・「小諸に大塚酒造」・「木内醸造、初鶯」・「橘倉商店、菊秀」・「協和酒造、望月城」
「黒沢酒造、井筒長」・「佐久の花酒造、佐久の花」・「武重本家酒造、御薗竹、中山道、四方の友」・「千曲錦酒造、千曲錦」
「土屋酒造、亀の海」・「戸塚酒造店、寒竹、草笛」・「伴野酒造、沢の花」・「芙蓉酒造、金宝」・「古屋酒造店、深山桜」等があったが。

        中込駅ー「太田部駅」-龍岡城駅   太田部駅舎(無人駅)




C56形蒸気機関車・日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車。
                  愛称はシゴロク、シーコロ・高原のポニー。


「学校制度が大きく変わる」
1947年の昭和22年4月1日
学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足) 旧制中学校の生徒募集を停止。
新制中学校(現・中学校)が併設され、旧制中学校1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。
併設中学校はあくまで暫定的に経過的措置で設置されたため、新たに生徒募集は行われず(1年生不在)で、在校生が2・3年生のみの中学校であった。(私立に関しては募集を継続し、現在まで中高一貫校として存続している学校も)旧制中学校3・4年修了者は、そのまま旧制中学校4・5年生として在籍(4年で卒業することもできた)。
昭和23年、 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足) 旧制中学校が廃止され、新制高等学校(現・高等学校)が発足。旧制中学校のほとんどが男子校の高等学校となる。
旧制中学校卒業生(希望者)を新制高校3年生として、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生として編入。
併設中学校の卒業生昭和20年ー旧制中学校入学生、が新制高校1年生となる。
併設中学校は新制高等学校に継承され、
昭和21年、旧制中学校へ最後に入学した3年生を在校生に残すのみとなる(1・2年生不在)。
(私立に関しては募集を継続し、現在まで中高一貫校として存続している学校も)


    「旧中込中学校」ー長野県佐久市中込(旧下中込村)に残る明治時代初期の洋風校舎。


明治8年の1875年、完成、国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物(県宝、国重要文化財に指定)
建築設計したのは、地元出身でアメリカに渡り建築学を研究した「市川代治郎氏」、
外部窓・内部間仕切りなどの一部に変わった点もある。が、日本人の手による明治初期木造洋風建築の様式を知る重要な建物になっている。
中央の八角塔は、天井から太鼓を吊るして時を告げ、村人たちはこの太鼓の音で正午や10時、3時のお茶の時間を知り、いつしか「太鼓楼」と呼ぶようになったほか、窓に当時は珍しいガラスを使用していたことから「ギヤマン学校」ともよばれ、開校当時は見学する人たちが連日あとを絶たなかったという。
当時の下中込村の村民の負担と寄付で建設された太鼓楼の天井には、ロンドン、パリ、ローマなど世界各地の首都を示す方位図があり、子供たちに世界に目を向ける人になってもらいたいという村人の願いがあったと云う。
大正のはじめころから狭くなり、大正8年に新校舎が建築され、その後の旧中込学校は、中込町役場、中込町公民館、中込支館、佐久市役所分室、佐久市開発公社と再利用された。
昭和44年に明治建築の学校として改変の比較的少ない建造物であることから重要文化財と国史跡に指定された。
各教室に当時の資料が展示され、当時の子どもたちの勉強風景が。入場料 有料。





長野県は、北信「野尻湖底遺跡」の発掘で判明したように旧石器時代から人が居住し、縄文時代には、中信の「和田峠・黒曜石の石器材料を利用」
古代・中世を通じ信濃国には、各地に木曽義仲のような豪族が住んでいる。
寺院・文化財が多数残されている。また、教育に熱心で、江戸時代から寺小屋が全国で最も普及、明治に入り義務教育就学率全国一に。
明治9年、松本市の築造(重文)「旧開智学校校舎」は、文明開化のシンボルに。
読書好きで、。江戸時代は小藩に分立し、政治議論好きな風土とも云う。公営ギャンブルは無しと云う県。









            平成4~6頃は、「伴野酒造・沢の花」であったが?。



               工場内に木内酒造・初鶯の樽が並んでいた。








次回は、国史跡龍岡城五稜郭へ。


ピンピン生きて・コロッと死ねる成田山参道のぴんころ地蔵は中込

2019-06-24 | 季節だより

「佐久平駅」小海線で一番新しい駅で、北陸新幹線(長野新幹線)の接続駅。
北陸新幹線は、1972年の昭和47年、昭和48年、整備計画が決定され、平成元年、に高崎 - 軽井沢間で着工され、平成9年、に高崎駅 - 長野駅間が整備新幹線としては初めて開業した。
長野 - 金沢間は一部区間がスーパー特急方式で着工された後、全区間がフル規格化され、平成27年、長野駅 - 金沢駅間が開業、鉄道建設・運輸施設整備支援機構が鉄道施設を建設・保有し、高崎駅 - 上越妙高駅間は、東日本旅客鉄道(JR東日本)、上越妙高駅 - 金沢駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)により運営されている。
JR東日本・JR西日本の施設管理境界は上越妙高駅の金沢方・高崎起点177km950m地点・JR西日本では、北陸新幹線とは別に山陽新幹線も運営しているが、1つの鉄道事業者が運営する新幹線の路線が直接つながっていない事例も初めてと云う。
未開業区間のうち金沢駅 - 敦賀駅間が2022年度末に開業する予定。

        


               佐久平新幹線と接続駅ー岩村田ー北中込ー「中込駅」下車


「千曲川信州・信濃川」 日本海へ
延長:367 km・水源は、甲武信ヶ岳。
信濃川は、新潟県および長野県を流れる一級河川。
信濃川水系の本流で、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川と呼称が変わる。






                         中込駅前広場


                          千曲川


「川中島の戦い」 1553-1564  長野市南郊 勝敗着かず。
武田信玄・信繁・山本勘助・・ 約2万以上 武田信繁・山本勘助戦死、4千人以上死傷。
上杉謙信・村上義清・・・   約1.3万以上            3千人以上死傷。

一次~四次の戦いは、北信濃ー千曲川と犀川の三角平坦地。



信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。
この地には、信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。
長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼び、当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。
鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。
古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。
武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地。
この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。
これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める・・・・。



「武田信玄」1511-73 甲斐の英雄 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵 (甲陽軍艦)
「武田信繁」1525-61 信玄に愛された副将軍 信虎の次男 信玄の同母弟 息子に信玄忠節を説いた「百ヶ条、家訓」を残している。

                     千曲川に野沢橋と佐久大橋が



                    野沢商店街の「ピンコロ通り」街中へ


                    健康長寿のお地蔵さん「ぴんころ地蔵」


            全国で有数の健康長寿のシンボル、成田山薬師寺山門前の建立されている。


    毎月第二土曜に縁日が  「野沢山門市」

           このユニークな名前のお地蔵さんは、長生きしてぴんぴんに楽に大往生でころり。


「成田山 薬師寺」 真言宗智山派  不動明王本堂

山門入口横に「ぴんころ地蔵」がある。
       


           日本に2つの五稜郭「龍岡城」の東通用門移築された門 薬師寺楼門                        


                        成田山薬師寺本堂                  


鎌倉時代佐久の土豪「伴野時長」の居城 伴野城・野沢城 平城  堀・土塁の一部が

1548年、上田原合戦で武田軍が村上義清らに敗れると、村上義清は佐久に侵攻、内山城下に放火し、諏訪周辺にまで勢力を伸ばしたため、前山城の伴野貞祥も村上氏に降伏している。
しかしその年の七月、塩尻峠合戦で武田軍が大勝し、佐久に再侵攻、九月十一日には佐久衆に占拠された前山城を奪還、1549年末までには、野沢城主・伴野信是も武田に降伏・出仕している。
天正の1582年、武田氏滅亡後は一時、厩橋城に在城する滝川一益(織田信長属将)の領土となるが、六月二日の本能寺の変で信長が横死すると、北条氏領となった。
しかし、徳川家康配下となった依田信蕃の一族、依田肥前守が七月、野沢城を攻略、十一月には前山城も攻略した。
その後野沢城は廃城となったが、天正年間に小諸城に入城した「仙石秀久」は、野沢城跡地に米蔵を建てて年貢米の貯蔵庫とした。
その後も江戸期には岩村田藩の役所や郷倉などに利用されたと云う。

                    寺に隣接して「伴野城跡・城山公園」に                        

                        
                        城山公園広場


                          


                         大伴神社   


                            社殿                   


                      一遍上人道場   時宗の金台寺


「一遍」 1239-89 時宗開祖 伊予の豪族河野氏の子  踊念仏 浄土教証空の弟子 人間の醜さを見て捨聖
人を選ばず・・・。


                            
                            山門


                             本堂


次回も、中込です。














内藤氏の岩村田と鼻顔稲荷大社

2019-06-21 | 季節だより
「中山道」は、69宿・信州は、26宿で木曽街道とも呼ぶ。
「碓氷峠」を起点に浅間山・標高1600mの難所「和田峠」ー越えて「諏訪湖」へと続く、内軽井沢宿ー和田宿で11宿ある。
宿場 軽井沢ー 掛ー追分ー小田井ー岩村田ー塩名田ー八幡ー望月ー芦田ー長久保ー和田・・・・・。

岩村田は、長野県佐久市、県東端で佐久市の北  一万石の内藤藩の城下町。北佐久地方の中心地になる。



「岩田村藩」(岩村田陣屋跡は、浅間会館)現在の佐久市を支配した藩。藩庁は岩村田陣屋に置かれたと云う。
元禄16年の1703年、武蔵国赤沼藩(武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27か村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。
その後、1万石分が摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりしたと云う。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。
最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。
戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵、この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年、版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。(岩村田県は長野県に吸収)
「内藤正友」 従五位下・式部少輔 武蔵赤沼藩、1万5千石より入部 元禄16年 - 正徳元年・(1703年 - 1711年) 内藤正勝の長男
「内藤正敬」 従五位下・下総守 遺領相続、(父の死去により) 正徳元年 - 延享3年・(1711年 - 1746年) 先代の次男
「内藤正弼」 従五位下・美濃守 遺領相続、(父の死去により) 延享3年 - 明和7年・(1746年 - 1770年) 先代の長男
「内藤正興」 従五位下・志摩守 遺領相続 (父の死去により) 明和7年 - 寛政4年・(1770年 - 1792年) 先代の次男
「内藤正国」 従五位下・美濃守 遺領相続  養父の死去により、 寛政4年 - 享和2年・(1792年 - 1802年) 養子(先代の娘婿)
           肥前唐津藩の第2代藩主・水野忠鼎の四男
「内藤正縄」 従五位下・豊後守 遺領相続、(叔父の死去により) 享和3年 - 万延元年・ (1803年 - 1860年) 養子(先代の甥)
           肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男
「内藤正誠」 従五位下・志摩守 遺領相続、(祖父の死去により) 万延元年 - 明治4年・ (1860年 - 1871年) 養子(先代の孫)
            先代の長男・内藤正義の長男 戊辰戦争で宇都宮城出兵。




                         「小海線岩村田駅」 至北中込ー滑津ー中込ー太田部・・


                           


「円満寺」 真言宗、智山派ー山号・大悲山。創建、天長5年の828年、岩村田の小平地区に律宗大悲山信光寺があり三十六房を有し、その中の一寺。
岩村田の大井城付近に移り真言律宗となり、三重塔もあったが大永年間(1521年 - 1528年)に兵火により焼失、廃寺となるも、紀伊国の僧侶勇伝が再興。
武田信玄の武運祈願を斎行する。観音堂や天満宮を境内に建立し、梅樹を植し、山号を「梅霊山」とした。
子供が六院誕生したため、六供の地名がある。
再び戦乱に遭遇し、荒寺となるも、1747年に再興し、山号を「大悲山」に復す。
領主内藤氏は観音堂を再建し、鬼門鎮護祈願を執行。境内には立川雲平像、宗吾祠などがある。
観音堂は境内北にあり、本尊は京都清水寺と同体観音菩薩。

藤は、戦国時代永禄年間に京都の「野田藤」を植えたが、焼失。その後、江戸時代延宝年間に再び野田藤の種を蒔き、現在に至る。
門前には、岩村田七井戸の一つ「梅の井戸」がある。硬水で酒造仕込み水として有名。
「キャンベル石塔」
カナダから来日したキャンベルは1916年大正5年に軽井沢で強盗により殺され、キャンベルはキリスト教宣教師だったので、当時、埋葬を許可する寺や墓所はなかった。
円満寺住職は「たとえ外国人であろうと、異教の宣教師であろうと、死者に対しては差別なく、ひろく平等であるべきだ。」として埋葬を許可した。キャンベルの葬儀の際には当時すでに軽井沢から岩村田へ移転していた遊郭から楽隊がくり出し、大勢の人々が讃美歌を歌いながら円満寺まで葬列をつくったとある。
信濃成田山・福寿院などの称号もある寺。





                              藤





                             本堂


                            王城公園


「王城公園・大井城」鎌倉時代初期に小笠原氏が信濃に入国すると同時期に佐久大井荘を与えられ土着したのが始まり。
地域にはやはり小笠原系の伴野氏がいてライバル関係にあり、伴野氏が「霜月騒動」で全滅に近い打撃を受けたことで結果的に大井氏が勝者として東信濃に君臨する。南北朝期には、関東へと向かう南朝軍一万に大井城を攻囲され善戦むなしく落城した。
室町時代にはその地理的な関係から、あるいは大井氏が関東にも所領を持っていた関係か、関東の政治情勢とも密接な関連を持ち、
「大井持光」は、「永享の乱」で滅んだ関東公方・足利持氏の遺児を匿い、「結城合戦」を落ち延びた持氏の末子、永寿王丸(万寿王丸)を匿って
関東公方が再興された際に足利成氏と名乗る人物、結城合戦の際には大井持光も結城城への入城を目指したと云う。
碓氷峠において関東管領軍の阻止にあい、結局は合流できなかったとある。
大井氏の全盛時代ー関東公方と幕府の対立を背景に隣国甲斐の武田氏とたびたび戦い、また同じ佐久のライバル伴野氏と抗争を繰り返すようになり、伴野氏が武田氏の支援を求めたこともあり、後年の武田氏による佐久侵攻の伏線が布かれて行き、室町中期の文明年間、伴野氏との争いで決定的大敗を、大井政朝が一時は生け捕りにされ恥辱を味わう。弱体化したところを村上政清に攻撃され、大井氏の宗家にあたる岩村田大井氏は事実上滅亡、
戦国時代には岩尾・小諸・長久保などの各地の庶家がそれぞれに細々と続いている。
その後、大井(長窪)貞隆が事実上の大井氏惣領的な位置づけにあったとされ、長窪城は信玄により落とされ、貞隆は、甲府に幽閉の後死去、最後まで抵抗したのは内山城に拠る大井貞清、貞重父子、小室城の大井高政、岩尾城の岩尾弾正忠行頼などですが、いずれも降伏・開城を余儀なくされ、実質的に武田氏の他国衆として再編されていきます。
二ノ丸にあたる南側の地区は「黒岩城」、外郭は「石並城」と呼ばれますが、実質的にはひとつの大きなお城。
現在は、「王城」部分がその名の通り王城公園になっているほかはほとんどが宅地、市街地、農地と化しており、主郭部も含めて遺構は明瞭ではない。
(空堀状の地形もありますが、この地方に多い段丘上の田切り地形との区別も難しく、明瞭な遺構があるのかどうかは不明)
武田氏による苛烈な佐久侵攻が。







「湯川」-県北佐久郡軽井沢町・御代田町、佐久市を流れる川・信濃川水系の一級河川。
江戸時代には、鵜川、大川、鼻顔川とも。県北佐久郡軽井沢町北部の浅間山付近に源を発し、白糸の滝や千ヶ滝、碓氷峠などからの河川を合わせ、御代田町を経て佐久市鳴瀬で千曲川(長野県における信濃川の呼称)に合流。
御代田町の湯川渓谷には長野県営の治水ダムである湯川ダムがある。
流端 上流端は、県北佐久郡軽井沢町大字長倉字獅子岩地籍地先・下流端、信濃川への合流点(水系、一級水系信濃川水系)



「鼻顔稲荷神社」 日本五大稲荷の一つ 主祭神ー宇迦之御魂命。
天下泰平、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・交通安全・進学成就といった神徳があると云う。
伏見稲荷大社・豊川稲荷(愛知県豊川市)・祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)・笠間稲荷神社(茨城県笠間市)とともに日本五大稲荷のひとつに数えられる。
稲荷神社より望む岩村田の町並み。
稲荷町・花園町は当社の鳥居前町として発展してきた町。永禄年間の室町時代後期、戦国時代の創建。

社名の「鼻顔」は所在地名から、川向こうに見える「飯綱下」という地名から、本来の社名は「飯綱稲荷」であったという説もある。
「天下の名稲荷」とうたわれ信仰は篤く、信仰組織(稲荷講)は佐久に留まらず、上小や上野国(群馬県)・武蔵国(埼玉県)といった関東方面まで広がっていた。
特に、初午・二の午(年によっては三の午も)・小満は多くの参拝客で賑わったと云う。
「おこもり」(お籠り)という風習が江戸時代から明治の初め頃まで存在し、主に女性が遠方から参拝に訪れており、風紀上の懸念から役所が禁止令を出したとも伝わる。
湯川対岸より社殿を見上げ、社殿は、懸崖造り。湯川に臨む断崖に朱塗りの柱を下ろし、社殿を支えている。
境内にはケヤキの木とアカマツの木が双生した「相生の樹」があり、縁結びの名所、春は、川面に映る桜が美しい。

                             鳥居


                             湯川から




                         佐久市酒造組合献奉樽酒


鳥居をくぐり参道を進んだ御姿殿には、巻物を咥えた子持ちの稲荷狐が鎮座して参拝客を出迎え、子育て支援に力を入れる佐久市らしさが伺える。
湯川の断崖に朱塗りの柱で支えられた空中楼閣の社殿は、京都清水寺と同じ懸崖造りであり、薄暗い崖の中に組み込められた本殿、旧本殿が、厳かで神秘的な雰囲気を醸し出している。





「西念寺」 浄土宗知恩院の末寺

                            山号ー一行山


「本尊」、 阿弥陀如来坐像(県宝に指定)
藤原末期、定朝様式の一典型。像高は半丈六を超える。
膝の裏に墨書による修理銘がある。それによると年代は、1563年、願主は岌往(生蓮社)・円誉(相蓮社)、大工は宗観・即阿弥。
佐久市の伊勢林あたりで雨ざらしとなっていたという伝承がある。
      仙石氏の墓 - 小諸城主・仙石秀久は岌往と親交をもっていたと云われている。
      吉沢好謙の墓

「伝承」-西念寺には蛇が棲んでいない。開山後4代目となる住職・岌円和尚が法力にて封じたためだという。
仙石秀久の墓と囲いを同じくして、弟の内膳正正直の墓がある。
乱暴者で秀久の怒りを買い、相木(南佐久郡)の谷に閉じ込め、食事も満足に与えられず、心配した母が西念寺恵頓和尚に嘆願し、正直を本堂裏の「養真庵」に住まわせたが、若くして亡くなったという。
(現在の群馬県藤岡市にある西念山一行寺は、かつて岩村田藩の悪政から逃れ移り住んだ人々が、岩村田の一行山西念寺にちなんで建てたもの)



         1555年、「武田信玄」が開基し、きゅうおう上人が開山の名刹


             楼門ー12本の円柱で天井に天女が描かれている。


            岩田村は、城下町、本陣、脇本陣は、この寺に置かれたとある。













































小海線(八ヶ岳高原線)小諸駅からスタート

2019-06-18 | 季節だより
八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道「小海線」。
甲斐小泉 - 海尻間は標高1000 mを超える高所を走っており、清里 - 野辺山間には標高1375 mのJR鉄道最高地点がある。
野辺山駅は標高1345 mのJR線最高駅であるほか、甲斐小泉から松原湖までの9駅がJRの標高の高い駅ベスト9に入っている。
山梨県内で唯一の非電化路線で、小淵沢駅から小諸方面の1kmの区間は東日本旅客鉄道八王子支社、甲斐小泉駅 - 小諸駅間は東日本旅客鉄道長野支社が管轄している。
終点である「小諸駅」は、しなの鉄道の管理下に置かれている(共同使用駅のため、JRの駅としては長野支社管内と扱われる)。
小淵沢駅 - 野辺山駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」。

路線区間(営業キロ)は、小淵沢駅 - 小諸駅間「78.9km」・駅数、31駅(起終点駅含む)。



小海線全線開通80周年、佐久鉄道開業100周年の記念ー各地で様々な記念事業が開催された。



信州小諸と甲州小渕沢を結ぶ小海線、前身は、佐久鉄道(小諸ー中込)は、佐久地方の資産家・銀行が集まり開業した。
大正8年に小海まで延長された。が
昭和9年不況で政府に買収され、「小海北線」に。昭和8年「小海南線」小渕沢ー清里が開通している。
その2年後昭和10年ー78.9kmが一本野レールで結ばれことに   SL-C56蒸気機関車が導入されている。
2017年「HIGH RAIL 星空」夜間運行され人気になっている。



佐久平は今から1万5000年前は海の底だった。現在の地形は300万年前 周辺では貝の化石が。



小諸駅ー東小諸駅ー乙女駅ー三岡駅―美里駅ー中佐都駅ー佐久平駅ー「岩村田駅」で下車する。

                         車窓から






















岩村田駅から「鼻顔稲荷神社」へ。