syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

国分寺 薬師堂

2014-04-30 | syu散歩
国分寺崖線の南側すぐの位置に、東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分寺、西側には武蔵国分尼寺が立地。両寺院の間を府中街道とJR武蔵野線が通過している。

尼寺を後に東側に、(武蔵国分寺)1922年に七重塔・金堂・講堂・北院・西院等の跡地が発掘され、国の史跡に指定、1976年に東僧房の跡地を追加指定している。
1979年発掘調査によって国分尼寺が判明された。

西院の跡地の一部も追加指定され、2003年には史跡公園(国分寺市立歴史公園武蔵国分尼寺跡)として整備、
2004年には府中市内で確認された武蔵国分寺の参道口が追加指定。
史跡指定地内には、鎌倉時代末期の分倍河原の合戦の兵火で旧武蔵国分寺が焼失した後、新田義貞の寄進によって再建されている。
現在の「国分寺」は、江戸時代の社寺保護政策により徐々に復元され、1733年に本堂が建立され、昭和62年に改築し今に。
境内には、薬師堂文化財保存館や、万葉植物園なども出来た。

武蔵国分寺                   楼門
  

国分寺薬師堂【市重宝】
国分寺境内にあり、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、現在の金堂跡付近に建立されたと伝えられている。

国分寺薬師堂 
     

国分寺の西にある堂宇で、隣接して仁王門や鐘楼がある。市指定有形文化財。本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている。
毎年1回、10月10日に一般開帳される秘仏。

境内                       
  
  
鐘楼                      本殿
   

「お鷹の道・真姿の池湧水」全国名水百選、都名湧水57選
848年、重い病に苦しんでいた絶世の美女、玉造小町は、「池で身を清めよ」との霊示を受けて快癒した、その池が「真姿の池」。
また、湧水群の清流沿いは、江戸時代のお鷹場に由来する「お鷹の道」で、カラーの花が多く、ほたるの養殖が取り組まれている遊歩道。
                            真姿の池に通じた小川、遊歩道
  

「資料館」は、僧寺、尼寺のほか、住居を含むと、東西1.5K,南北1Kと広大な範囲に及んでいた。長年の発掘調査で出土資料、
瓦、土器、皿、農具、仏像など展示されている。

資料館入館料 ¥100  旧石器時代から江戸時代の文化財など展示
  

次回は、syu気まま旅、山陽の旅へ。

旧鎌倉街道  国分寺 尼寺

2014-04-29 | syu散歩

「国分寺」は、武蔵野台地南西部。武蔵国分寺に由来している。多摩川段丘武蔵面と一部立川面に立地、段丘の間には、国分寺崖線の「ハケ」が東西
の走る。湧水の多く、崖付近は、先土器縄文遺跡が多い所。平安律令制下で国分寺建立の地と定められた地域。
江戸時代は、湧水で新田開発が進み、緑多い田園地帯であった。
1889年には、甲武鉄道(中央線)開通、国分寺駅が開設している。1897年西武電鉄も埼玉川越を結んでいる。
戦時中は、大規模な研究施設・教育機関などが出来、昭和30年頃から東京ベットタウン都市化が進んでいった。



1922年史跡に指定された「武蔵国分寺跡」は、国分寺駅から1.2km西元町にある。
寺域は、僧寺と南西500m・尼寺東西約900m・南北約550mと推定されている。

1333年新田義貞軍鎌倉攻めの際に焼失。

    

「鎌倉街道」相模国鎌倉と各地を結んだ街道。
12世紀に鎌倉幕府の開設に伴い、関東各地と結んだ道が何本か整備されている。主に鎌倉から「北に通じる上道」「中道」「下道」の三道。

上道は、町田・府中・埼玉県入間(狭山)・嵐山ー上州へ。中道は、横浜緑区・世田谷・埼玉県鳩ケ谷・岩槻・茨城県古河ー奥州方面へ(途中で府中)
下道は、横浜南区・品川・江戸・浅草・常陸―下総方面(現在の府中街道から町田街道なども鎌倉街道といっている)

鎌倉街道
    

「関東地方の僧寺・国分寺」

常陸國 僧寺 浄瑠璃山 國分寺・茨城県石岡市府中 。下野國 僧寺 國分寺 栃木県下野市国分寺町国分。
上野國 僧寺 國分寺 群馬県高崎市東国分。 武蔵國 僧寺 國分寺 東京都国分寺市西元町 。下総國 僧寺 國分山 國分寺 千葉県市川市国分
上総國  僧寺 真言宗 國分寺 千葉県市原市惣社町。安房國 増寺 日色山 國分寺 千葉県館山市国分 。
相模國 僧寺 東光山 國分寺 神奈川県海老名市国分南。

国分寺・国分尼寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院である。
正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。

武蔵国・国分尼寺跡
    

「続日本紀・類聚三代格」によれば、天平13年(741年)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出され、その内容は、
各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物で、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、
全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。

奈良平城京は、奈良7代70年の帝都


内裏・朝堂院(公的儀式)・官庁街・東院と4ブロック


尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示。

尼坊は柱位置が判明し、新たに石を配置してある。 
このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)もある。
金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられ保存したまま、広場としいる。

出土品瓦・土器・銅などが
  

東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡として学術上価値が高い。

奈良と地方のつながりが
  

全国の国分寺の中でも規模が大きく、歴史的にも重要、国指定史跡に指定されている。

  

金堂の礎や塀を見る事が出来る。

    

尼坊は柱位置が判明し、新たに石を配置してある。 
中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)もある。

  

金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられ保存したまま、広場としいる。
さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが貫通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡がある。

  

8世紀の国内は、餓死、千害、地震など災害、疫病で人々は苦しんでいた時代。朝廷は、仏教の力を借りていた。

    

    

尼寺はここまで、
   

次回は、JR武蔵野線ガードを潜った「武蔵野国分寺」へ

はけの滄浪泉園

2014-04-27 | syu散歩

「はけ・崖」と「大岡昇平、1950年・昭和25年ハケを舞台にした武蔵野夫人」。
大岡は、戦後友人の富永次郎宅に身を寄せ、武蔵野の資料集め、付近を散策し作品の構想を練った。武蔵野夫人の第一章は、「はげの人々」である。
大岡は、武蔵野の地形・地理に関心を寄せ、昭和28年から没まで日本地質学会会員であったと云う。
武蔵野夫人の舞台になった「はけ・崖」を生かした庭園「滄浪泉園」は、武蔵小金井駅から徒歩15分、都道134号線沿いにある。

武蔵野の貴重な自然が残る水と緑の庭園。「滄浪泉園」の名は波多野承五郎氏の友人、犬養毅元首相が命名した。
    

「犬養 毅」 1855-1932 政治家、岡山県、慶応義塾で学び、豊川良平と東海経済新報を発刊、保護貿易論を主張、統計院に入る。
大隈重信と立憲改進党に加わる、才一回総選挙以来当選18回、雄弁家、満州事変阻止、五・一五事件で殺害、政党政治終息する。

 滄浪泉園の入り口。石の門標は犬養の筆。
    

かつて国分寺崖線上に別荘が多く建てられた時期があった。
滄浪泉園もその1つで、明治・大正期に三井銀行などの役員、外交官、衆議院議員などを歴任した波多野承五郎氏により、庭園を持つ別邸として建てられたという。
その名は「手足を洗い、口をそそぎ、俗塵(ぞくじん)に汚れた心を洗い清める豊かな水が湧き出る泉のある庭」との意味を持つと云う。

滄浪泉園、手や足を洗い、口をそそぎ、欲塵に汚れた心を洗い清め、清清と豊かな水の湧き出る泉のある庭(犬養氏が名付けた)
    

樹々の間から眼下に池が広がる。水面には庭を彩る樹木や空が映し出され、まるで鏡のようだ。池のほとりを歩いていると、野鳥の鳴き声とともに水の湧き出る音が聞こえ、岩の下のくぼみから水がこんこんと湧き出ているのが見える。

波多野承五郎氏の別荘、          明治・大正期、三井銀行役員・外交官・衆議院議員などを歴任
  

武蔵野の特徴的な地形である「ハケ」と、そこから湧き出す水を利用している。
もとは、3倍の広さを持つ庭園のある別荘だったと云う。

昭和に入り、三井鉱産役員の川嶋氏が管理し、茅葺の屋敷に長屋門などの風雅なただずまいを見せていたと云う。 
    

面積は、約1万2千㎡に、コゲラ・アオゲラ・メジロ・キジバト・ウグイスなど一年中野鳥の鳴き声が、池には、カモ・カワセミ・コジュケイ親子連れの光景も。
一時期マンション建設計画が起きており、市民運動で、都が「緑地保全地区指定」に。

当初、3万3千㎡余りあったと云う。
    

近辺では見られなくなったフジリンドウ・ニリンソウ・キンラン・ギンラン等野草も数多く残っている。
滄浪泉園緑地を残すため、市民の熱心な保存運動が実って今に。園は、長い間人手が加えられていなかった為、崖、斜面、低地、水辺とそれぞれの植物が安定して生態系を構成していると云う。

まだ、残雪で散策路もぬかんでいた。
      

カラン、コロコロンと、かすかな音がする。「水琴窟」だ。
その場に佇み、地中から洩れ伝わる音に聞き入る。
水滴が奏でる澄んだ音色は耳に心地いい。
心が静まり、穏やかな気持ちになる。

竹筒で「水琴窟」の音を、時を忘れられる。
    

小金井駅近くの浄土宗「瑞蓮院」
山号 三緑山、小さな境内であったが手入れされ、残雪に梅の木が一本、花はまだ付けていなかった。

      

次回は、鎌倉街道・国分寺跡へ

梅の頃の小金井公園

2014-04-25 | syu散歩
小金井公園の梅、掲載が遅れました。

小金井は、武蔵野台地南西部、武蔵七井の一つ「黄金井」があったことに由来している。多摩川によって削られた二つの段丘、南は、前原面・北は、
坂上面からなる。この境を国分寺崖線「ハケ・崖」が走る。江戸時代は、それを整備して街道・上水・新田開発している。



日本人に愛される梅、寒さに耐え、桃や桜に先駆けて美しい花を開き、馥郁たる香りを漂わせることから、万葉集では桜の42首に対し、118首も詠まれ、
「観梅」「松竹梅」といった言葉からもわかるように古くから日本人の心に深く関り愛され親しまれてきた。



中国からの移植説と日本古来の原産地説とがあり、定かではありませんが、文献・学者の多くは中国原産地説をとっている。



古事記が成立(712年)する200年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されている。



日本で梅干しが初めて書物に登場したのは、平安時代の中頃であり、中世以降において果実の利用が盛んに、鎌倉時代以降、実の多くは梅干しとして
食用に供され、薬用としても重宝がられ、花は鑑賞用として人々に愛されてきた



梅の花は、春の足音を。
この公園、桜の古木・中木・若木のソメイヨシノ・しだれサクラなど1000本が咲き乱れる、今年の開花が待ちどうしい。



実梅の品種は、全国で約100種あるといわれている。
しかし、全国的に栽培されている品種はわずかで、ほとんどが地方品種であり、関東地方の「玉英」「白加賀」「養老」、
北陸地方の「藤五郎」「藤之梅」「紅映」「剣先」、東北地方の「豊後」「高田梅」など。
JA紀南管内に、「古城」「南高」が知られている。

東京にも13の蔵元がある。23区にも北区に1社ある。


広い公園内、100本の梅も少々少なく映る。

    

次回は「滄浪泉園」へ。

雪の後の小金井公園

2014-04-24 | syu散歩
雪の後2月の小金井公園へ。掲載が遅れましたが・・・。

武蔵野三大湧水は、井の頭の「井の頭池」・杉並の「善福寺池」・練馬の「三宝池」を云い、現在人気な公園になっている。
8世紀頃、熊谷・川越付近には、大規模な条里制が、敷かれ、荘園が成立し、武蔵七党や坂東八平氏の武士団が結成している。
南北朝に足利尊氏、室町に上杉氏、15世紀に入り太田道灌が江戸城を築いた。
16世紀に徳川家康が江戸幕府を開き、五街道整備され品川、高井戸、板橋、千住に宿駅が設けられ、農村地帯に商業が浸透していく。
又、治水工事や用水路の開削し、湖沼や三角州の開発され、新田の発展が進んだ。
江戸と云えば、海苔、薪炭と木材を産した地域で、山地と平野の接点に谷口集落が形成、台地で青梅縞・秩父絹・練馬大根・多奈川梨などを産している。

武蔵台地の地層は、三浦層群に沖積層に多摩川が、三浦東京層群、立川ローム層に国立・府中・調布が、立川・武蔵ローム層に国分寺・三鷹・武蔵野
石段的に高くなっていく、そこで、江戸の上水道の「玉川上水とその分水の野火止用水・千川上水等が開削され、「武蔵野新田」で82ヶ村が出来た。
武蔵野夫人の「はけ」は、滄浪泉園でご紹介します。

都立緑地「小金井公園」は、関野にある。
面積72万m2の園内に、皇居前から移築された「光華殿」、平成5年開園した「江戸・東京たてもの園」。梅・桜の名所でもあり、今日は「梅祭り」
を開催していた。
 
JR中央線・武蔵小金井駅下車。駅前からバス5分、駅は、1924年(大正13年) 観桜のための仮乗降場として開業、大正15年 停車場に昇格され、
「武蔵小金井駅」となる。(旅客営業のみ)

武蔵小金井駅


公園は、玉川上水沿いに位置した、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍の広大な公園。
ここには、都内では少なくなった武蔵野の面影を残し、早春に100本の梅と、桜の園には、ヤマザクラ、サトザクラ、ソメイヨシノなどのサク...。

また、野球・ テニス・ 弓道場・ サイクリング・ バーベキュー・ ドッグラン・ 防災公園・ 広い芝生・ バードウォッチング等で家族で楽しめると人気である。

今日のイベント会場では、梅の開花に合わせて「うめまつり」開催、2.30店の露天が並び、梅林内に「のだて」が、琴の演奏が、(有料)。

改札口に「梅祭り」のイベントを     小金井公園南入口にうめまつりの垂れ幕と   一面に白い残雪が
    

「江戸東京たてもの園・博物館分館」(有料)

72万m2の小金井公園内案内板


公園には、1954年から1991年まで、古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する武蔵野郷土館があったが、江戸東京博物館の開館に合わせて、
武蔵野郷土館を拡充する形で1993年に開園。
高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示、

映画『千と千尋の神隠し』(2001年)の作画には、たてもの園の銭湯や下町の商家建築のデザインが参考にされ、この縁で2002年には園内で
「千と千尋の神隠し展」と映画「千と千尋の神隠し」の屋外上映会が開催された。

江戸東京たてもの園の「八王子千人同心組頭の家」


「園内の桜の園」

公園の西側に「桜の園」と呼ばれる地域があり、園内桜の園は、こぼれんばかりの桜の森の下で、賑やかにお花見を楽しむ光景が見られる。
「たてもの園」に隣接している。
毎年、「桜まつり」などが開催されて多くの人で、賑わう。

雪溶けでぬかんだ園内                     地域グループ、朝の体操
  

「皇室・旧光華殿」は、「江戸東京たてもの園ビジターセンター」に。入場口して使われると同時に、施設が入居している。

「光華殿」は、神武天皇即位から2600年に当たるとされる昭和15年、神武天皇を祭神とする橿原神宮の大規模な整備が行われ、記念の展覧会など各種の記念行事が全国的に開催。
紀元二千六百年記念式典は、11月に内閣主催で開催、一連の祝賀行事の中でも最も大規模なものであったと云う。その「光華殿」が。

皇室・旧光華殿入口                       昔懐かしい銀座の煉瓦街も
    

「高橋是清」 1854-1936 仙台藩士養子、渡米後、森有礼の書生、日銀総裁、立憲政友会入党など、財政家、1913年山本内閣大蔵大臣、政友会総裁
1927年田中内閣大蔵大臣金融恐慌でモラトリアムを実施危機救う。満州事変以降の軍需インフレで軍部批判、2.26事件で暗殺。

高橋是清邸 明治から昭和初期の政治家高橋是清の住まいの母屋部分。
2階は是清の書斎や寝室として使われ、昭和11年、2.26事件の現場ともなったところ。

方砂遺跡敷石住宅址もある                        田園調布小川邸跡も
    

「午砲用青銅砲」
「午ドン」が展示。明治4年、午砲の制というのができて、正午の時報として空砲を一発撃ち鳴らすことになった。

合図は天文台から電信で知らされ、その後、陸軍省、近衛師団が発射を担当した。
午砲は、全国の大都市と19箇所の師団司令部で同様に行われた。 大正11(1922)年、軍備縮小にともなう経費節減で陸軍は午砲を取止め、東京では東京市が引き継ぎ東京市号砲所となった。
しかし昭和4(1929)年、号砲による報時を終了、号笛による報時に切り替わったと云う。

午砲


「伊達家の門」 宇和島藩伊達家が大正時代に、現在の港区白金に建てた屋敷の表門。大名屋敷のような起り(むくり)屋根の片番所がある。

宇和島・伊達家の門(港区から)


丸二商店(荒物屋) 昭和初期に神田神保町に建てられた荒物屋。小さな銅板を巧みに組み合わせて正面の模様を形作っている。
花市生花店 昭和初期に神田淡路町に建てられた花屋。建物前面が花屋らしくデザインされた看板建築が特徴。
武居三省堂(文具店) 明治初期に神田須田町に創業した文具店。建物前面がタイル貼りの看板建築が特徴。 (この建物は関東大震災後に建てられた)

子宝湯 昭和4年、足立区千住本町に建てられた銭湯。
東京の銭湯を代表する建物。神社仏閣を思わせる唐破風や玄関上の七福神の彫刻など贅を尽くした造り。なお、この建物は、「千と千尋の神隠し」のモデルになった銭湯。

万世橋交番                                           都電7500形
    

鍵屋 安政3年(1856年)に、台東区下谷の言問通りに建てられた居酒屋。ここに建てられている建物は、昭和45年当時に復元している。建物内に当時の居酒屋の店内を復元しており、その頃の品物の値段が分かります。

・ 冷奴 60円、
・ ゆどうふ 80円、
・ もつなべ 100円、
・ 味噌おでん 60円、
・ お 酒 1合140円、
・ ビール 大瓶190円、小瓶140円・・・。

荒物屋・乾物屋・油屋・仕立て屋・写真屋・文具屋・花屋・飾り電燈・石造り常夜灯・灯籠・五輪塔などが
    

次回は、梅祭りへ。