syuの日記・気まま旅

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和歌山城の周囲を歩く

2014-03-31 | 気まま旅

「刺田比古神社」は、式内社で、旧社格は県社で、「岡の宮」の通称があるほか、「吉宗公拾い親神社」の別称がある。

創建は、社伝、道臣命の十世孫・大伴佐氐比古命が功により当地「岡の里」を授かり、命の後も代々治めたとする。
その後、二十世孫・大伴武持が当地に住むにあたってこの地に祖神を祀ったのが創祀といい、里人はそれを「国主ノ神」「大国主神」として祀ったという。境内にある「岡の里古墳」という古墳を大伴氏の墓と見ているほか、「続日本紀」に、「名草郡片岡里」から出た大伴部の記載から、当地と大伴氏との関係の深さを指摘している。

豊臣秀吉が和歌山城を築く際、大伴氏後裔の岡本左介を社司としたという。
桑山重晴による修造では、岡本家長が神官とされ,以後は,岡本家が代々当社の神官を務め、岡本長諄が徳川吉宗の仮親を務めたり、
岡本長刻以後は代々3年に1度将軍に拝謁する等を経ていた。
境内は昭和20年の戦災で焼失したため、のちに復興したもので、1811年の「紀伊国名所図会」には名所の冒頭に紹介され、当時の境内が描かれていると云う。

和歌山城中心に市役所・医科大・美術館・博物館・紅葉渓庭園・寺院などが、刺田比古神社もその一つ
    

主祭神は、 道臣命・ 大伴氏祖。
「古事記」によると、神武天皇の東征において先鋒を務めたとある。 大伴佐氐比古命 「日本書紀」では「狭手彦」と表記。
大伴金村の子で、道臣命十世孫とされる。朝鮮半島に派遣されて武功を挙げたとある。

神武天皇東征祈願したとある。 
  

祭神、数々の兵乱により古文書・宝物等が失われたため、古来の祭神は明らかとなっていない。
「紀伊続風土記」(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている。

古くから「九頭明神」とも称されたと言い、「紀伊続風土記」所収の「寛永記」や1589年の棟札に「国津大明神」、1650年の石燈籠に「九頭大明神」1678年の棟札に「国津神社」ともある。
「九頭」は、「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある。
神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている。

境内                             拝殿
  

一方、本居宣長による説では、刺田比古神を「古事記」の出雲神話における「刺国大神」と推定。
刺国大神は、「古事記」によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。
そして「紀伊続風土記」では、刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘、そのほか「刺田比古」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神とする説もある。

「刺田比古」を記す資料としては唯一、「甲斐国一之宮 浅間神社誌」に収録される「古屋家家譜」がある。
古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の流れを持つという。
そして、道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝えている。
この記載から神社側では、本来は祖先神として刺田比古命を祀ったものと推測していると云う。

紀ノ川水運・紀伊湊と紀伊半島横断路、古くから水陸交通の要地であった。城造りの石切り場が、祭神を祀ったのであろう小さな神社
    

紀州・万葉の地として昔から多くの歌人に愛されてきたこの和歌浦には徳川吉宗の生誕地もあり、紀州徳川家にまつわる数多くの神社・仏閣・史跡などが残されている。小さいが和歌山城裏手に「徳川神社」があったが、それもその一つか?。

和歌山市の縁結び神社として有名なのが、淡嶋神社 。この淡嶋神社には、縁結びの神として知られる大己貴命のほか、婦人病や安産にご神徳がある少彦名命も祀られている。

紀州徳川神社が                  祭殿 
    

紀州55万石の拠点、「和歌山城」の南側に小高い岡、岡と周囲100m四方くらいが「岡公園」。中央にそびえる弁財天山と岩山からは、
和歌山城(臥虎城)がよく見える。
坂本龍馬の盟友「陸奥宗光」の像、岩山の北側には稲荷神社や御不動様も祀られ、山頂には忠霊塔が立っていた。

軍服の石像、阿弥陀如来石造等が洞窟前に
  

「岡公園」のある場所は元々、和歌山城築城の折りの石切り場。天守台や本丸に積まれている石垣は紀州の青石と言われる緑泥片岩。
この公園内で、切り出されたもの。その後、徳川に入り城の補修などを行う「御作事所」が置かれ、その仕事にたずさわる者達が住んでいた。

「松生院」は、和歌山市にある真言宗の単立寺院。山号は向陽山。和歌山西国三十三箇所13番。
  

842年、智證大師円珍の開基で創建。865年、清和天皇の勅願寺となる。1185年、屋島の合戦の兵火で本堂を残し焼失。1302年、紀州和歌浦芦辺(現在の和歌浦羅漢寺付近)に移転。1573年-1592年、兵乱を避け山東荘黒岩村に移転。1608年、現在地に移転する。
1613年頃、宝光寺(廃寺)から本堂を移築し、 初代紀州藩主徳川頼宣の帰依を受け毘沙門天像、山門等の寄進があり紀州藩の護邦殿となる。

和歌山城から一番近い寺。

松生寺 
  

刺田比古神社境内にある「岡の里古墳」
境内には6世紀のものと推定される古墳があり、「岡の宮」と関わりの深い「大伴氏」のものと考えられている。
岡の宮の名を有名にしたのは、「8代将軍吉宗公」の誕生にまつわる話です。
吉宗は1684年、父光貞の第四男として厄年に生まれたため、ひとまず追廻門外の扇の芝に捨てられ、それを岡の宮の宮司・岡本長諄が拾うという厄払いの儀式を受けた。
これにより、岡の宮が拾い親となり、以後吉宗のあつい信仰を得ることになる。

岡の里古墳、           先史時代の土器などが
  

市では、岡の公園内に・茶室「夜雨荘」と他に「芦鶴庵」「岡陽軒」の3 つの茶室で、 表千家、裏千家の茶会などが行われている。
     
「夜雨荘」は、紀州藩家老三浦家上屋敷跡にある。三浦為春は、徳川頼宜の母の縁故によって家康に仕えます。
1619年、頼宜の紀州転封に伴い、紀州に移り政務に貢献。紀州徳川家の家老となり、当時の禄高は1万石で、幕末には1万5干石を。

三浦為春の屋敷跡
  

「弁財天社」は、 天嬪山(現和歌山市岡公園内天妃山。別名 弁財天山)に祀られ、 市杵島姫命は天照大神と須佐之男神が安河原で誓約
をした時に天照大神の息から化生した神、田心姫命、湍津姫命と宗像三女神と呼ばれ、古くから航海安全の神として信仰。

古地図を見ると、天妃山を含む岡の里、現在和歌山城虎伏山などを除き、和歌山市内の大部分が海で、海上交通の盛んな岬にあった航海安全の
古社であろう。
1582年、豊臣氏が紀伊国を統一し、和歌山城を建てた。築城のさい、弁財天社は城を見下ろす位置にあることを忌み、和歌山城の鎮護社でもあ
った刺田比古神社(岡の宮)の境内に遷座したと云う。
現在も末社として祀られている。 明治維新後、弁財天町の人々が天嬪山に再びお社をたてて祀るようになった。

古社の弁財天社
  

「長屋喜弥太」(1836~1897)は、天保9年(1836)紀伊藩家臣の家に生まれ、長じて御親兵となり、天誅組、長州征伐などに活躍。 市制施行に伴い初代和歌山市長(明治22~30年)に就任した。

公園の丘の頂上に地域の記念碑が
    

「四役戦亡記念碑」、「四役」とは明治7年から同10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のこと。
これら戦で戦死した和歌山県出身の兵士は491名。碑は、明治12年に旧藩主徳川茂承らの発起により建てられた。

西南戦争記念碑など。
    

和歌山市内の川は、5月から6月にかけて、紀の川や和田川、亀の川そして各地の池につながる用水の水門が開くと、用水のすみずみまで水が行き渡り、やがて水田の中にも水が入り、田植えが始まります。
今まで草原だったところが一変して大湿地に変わるのです。土の中で卵の姿で眠っていたカブトエビのなかまや冬眠していたカメやカエルの仲間、用水のわずかな水たまりの中で冬をすごしていた、メダカやドジョウ、貝やトンボのやごの仲間などがいっせいに活動を、、、。

百間長屋跡、築城の人々の長屋が                 市内を流れる和歌川
    

「和歌山・護国神社」

招魂祭ー明治戊辰の役以来、国家のため散華され、靖国神社に合祀された本県出身の戦没者を奉慰、
明治13年から明治28年までは、年1回和歌山市岡公園内の天妃山で、明治29年から昭和11年までは和歌山城内砂ノ丸において、和歌山県知事が祭主となり毎年5月5日神式により招魂祭が執行されている。36670柱の英霊。

和歌山県人の護国神社。


勝海舟 
1863年頃、当時の日本も開国するということで外国から船が日本にやってくる時に、特にこの紀伊半島、和歌山のあたりっていうのは、ちょうど船が来る紀伊水道っていうのは一番防衛の要。
沢山の砲台跡があるという。
明治のはじめ頃から出来始めた砲台跡の検分しに、「勝海舟」10数名が、杭ノ瀬質舗が場所を提供されて滞在し、碑が。数日間滞在。

南方熊楠生誕の地でもある、世界的な植物学者、渡米し。6年間アメリカに滞在し、明治25年にロンドンへ渡り、大英博物館へ通い、やがてその学識才能を認められている。明治33年に帰国、田辺を永住の地として昭和16年に亡くなるまで37年間その地で過ごした。
粘菌・菌類の調査や民族学の研究、また明治末期の神社合ひの反対運動に奔走したことでもしられている。

勝海舟寓居地碑が



次回は、官弊大社「日前神宮」へ。

和歌山城

2014-03-29 | 気まま旅

和歌山県和歌山市は、豊臣秀吉が弟の秀長の為に「虎伏山」に築いた「若山城」「和歌山城」にちなむとされる。
近世に入り、徳川御三家の一つ「紀州徳川家」の城下町として大いに栄えた。
「紀ノ川水運」紀伊湊は、先史時代から紀伊半島横断路として利用開発されてきている。その河口部に位置し、古くから水陸交通の要地。
大和朝廷が成立すると、大和と瀬戸内海を結ぶ要衝となり、河口の紀伊湊・紀水門は、朝廷の朝鮮出兵の基地となった。
大化改新、645年以降、南海道に沿って国府や加太駅が置かれ、平安時代には、これと交差する海岸沿いの熊野参詣道を利用して「熊野詣」が盛んに行われた。
紀伊湊は、古代、中世、近世にかけて諸物資集散拠点として賑わったところである。

紀州徳川家の城下町、55万5千石、城跡は、整備された公園と名所の庭園が、また、湾でると、大海鮮市場・温泉・海釣り公園もある。
  

「和歌山駅」
東西南北に路線が伸びるターミナル駅、市内にある南海電鉄の和歌山市駅と区別するため、JRを「和駅」・和歌山市駅を「市駅」分けている。
乗り入れ路線は、JR西日本の各線と、和歌山電鐵の貴志川線が乗り入れ、JR西日本の路線は、紀勢本線・阪和線・和歌山線の3路線。
このうち紀勢本線を当駅の所属線、、阪和線と和歌山線は当駅が終点である。
紀勢本線は、当駅からJR西日本管轄区間の東端である新宮駅までの区間に「きのくに線」の愛称が設定されている。

紀ノ川本港・大橋から見ると、水軒川・「県庁・和歌山城・けやき通り」・和歌川、大門川・JR紀勢本線・北出島・市民球場・下ると「紀三井寺」「養翆園・和歌浦湾」となる。

JR阪和線・きのくに線・貴志川線・和歌山線の和歌山駅下車城跡は、         水と緑豊かな城下町
    

「けやき大通り」、和歌山駅前交差点より西方向は、 オフィスビルなどが並ぶ, けやき大通りで、東方向が、「けやき大通り」の歩道側の風景、駅前付近は、ふれあい 通りと言う商店街が形成されて、 片屋根式のアーケードが整備。
駅と紀ノ川大橋の中間に「和歌山城」が聳えている。

城内惣御絵図(1800年の張り絵図方式、天守を中心に24方に方位を示しているが現在の測量と一致)  
  

豊臣秀吉は、1585年中世に台頭した豪族・雑賀党を壊滅させて紀州を征服し城を築き「雑賀」に城下町をつくる。
1600年浅野幸長が城主となり、現市街地の基礎をつくる。
徳川家康の第10子「徳川頼宣」が1619年紀州入り、浅野氏の基礎を拡大させた。
次いで、2代が「光貞」・新田開発により財政立て直した5代「吉宗」で吉宗は徳川8代将軍に、10代「治宝」学問と文化に努め藩領の中枢うとして不動に位置を確立していた。

「豊臣家」秀長ー秀保(断絶)。「桑山家」(新庄移封)。「浅野家」(安芸移封)。「徳川紀州家」頼宜ー光貞ー綱教ー頼職ー「吉宗
八代将軍ー家重九代将軍ー家治十代将軍ー家斉十一代将軍ー家茂十四代将軍」。
頼宜ー頼純四条松平家ー宗直ー宗将―治貞ー重倫、、、、茂承。徳川頼宜は、「南海の龍」と呼ばれ、紀州徳川家の基礎を築いた。

豊臣秀長は、1591年没、秀吉弟播磨・但馬山崎の戦奮闘し、四国征伐総大将で大和郡山城に入り、九州征伐で活躍し大和大納言と称した。
戦いにおいて殺戮を好まず、武威をもって敵を圧し、講和に持ち込んだと云う。没後黄金56000枚という貯蓄家であったと云う

桑山重晴は、1606年歿、主君、丹羽長秀→豊臣秀吉→秀長→秀保→秀頼→徳川家康→秀忠、藩ー和泉谷川藩主、子ー一重、元晴、貞晴
大和新庄藩桑山家初代。千利休から茶道を学んだ茶人でもある。1524年、尾張国海東郡桑山ノ庄で桑山以則の子として生まれ、桑山家は鎌倉幕府の有力御家人・結城朝光の子孫。
織田信長の家臣・丹羽長秀に与力として仕え、姉川の戦いなどで活躍し、羽柴秀吉から冷静沈着な戦いぶりを賞賛された。

1574年に秀吉の要請を受けて丹羽家から羽柴家へ移り、1580年には但馬国竹田城主となって1万石を与えられた。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳砦を佐久間盛政の攻撃から死守するなどの武功を挙げ、2万石に加増された。
1585年、紀州征伐の後に秀吉の弟・秀長が紀伊の領主になると、同年5月に大坂城で秀吉から秀長の家老職を命ぜられ、3万石への加増を受けて和歌山城代となった。

和歌山城は、天守閣・大手門・岡口門・二の丸・橋廊下・時代の石垣積み方(野面積み・打ち込み接ぎ・打ち込み接ぎ)などが
    

浅野長政は、1547-1611 秀吉の義兄弟、五奉行筆頭・京都所司代・安い重継の子、信長の家臣長勝の養子・秀吉妻「ねね」の妹を娶る。
甲斐国22万石領有、朝鮮出兵で軍艦を務める。関ケ原では東軍に。家康は、囲碁相手、長政没後囲碁を断ったと云う。

1585年、秀吉紀州平定し、虎伏山に弟秀長に和歌山城創建の命が。「藤堂高虎」らが普請奉行を務め、最初の本格的近世城郭を。
豊臣秀長大和郡山を居城としたため、「桑山重晴」が城代を務めている。秀長家途絶え、正式に桑山氏城主となる。桑山時代、山嶺・岡口の整備に取り組んでいる。

                 最初・明治時代の和歌山城、
  

1600年関ケ原の戦い後、「浅野幸長」が、37・6万石で領主、城の増築、連立式天守閣を建て、本丸、二の丸、西の丸に屋敷をつくる。
大手を岡口門から一の橋に変え本町通り大手筋とし城下町を整備した。

大手門 浅野期の途中から機能した門「市之橋御門」と呼んだ。     明治42年倒壊している
  

紀州徳川家は、「南海の鎮」西日本を監視する役目を担い、吉宗八代将軍ー家茂十四代将軍と続く。

天守閣まで坂道              太い樹木に囲まれている気持ち良い
    

城は、中央部の一番町のほとんどを占めてた平山城であった。現在、和歌山公園で20万5000m2.県庁・警察・美術館・資料館・展示場などと北に西の丸庭園「紅葉渓庭園」がある。         

「天守閣」は、浅野家が西の峰に黒板張の三層・天守閣を築造。
多門・楠門・ニノ御門櫓・乾櫓・台所・小天守へと続く連立式天守であった。1798年10代藩主徳川治宝が、白壁の天守に変えている。
落雷で焼失しているが1850年再建。(国宝)現在は鉄筋で復元。

城の石垣が続く、          切り込みは、熊野の「花崗斑岩」高石垣の角などに使っている
    

「大手門」は、浅野家から大手門として機能、当初「市之橋御門」で1796年大手門と一の橋と改称した。

「岡口門」は、築城時大手門だった。浅野家から裏門、現在は1621年徳川家が二階建ての門にしている。(重要文化財指定)

和歌山城は、正式名「虎伏山竹垣城」と云った。   海から見ると虎が伏せている姿と云う。
    

「城門」
岡口門 浅野時代には大手門であったが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復された。1621年に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存している。現在の門櫓は切妻屋根であるが当初は、門櫓の両側に続櫓があった。

追廻門 砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門である。馬を追い回したことからそう呼ばれた。姫路城などに見られる旧型の高麗門である。
1984年から翌1985年にかけての解体修理により、江戸時代には朱が塗られていたことが分かり、赤門であったと見られている。

「赤門」は、御守殿(三位以上の大名家に嫁いだ徳川将軍家の娘)の住む御殿の門として建てられる、または御守殿を迎えた折りに門を赤く塗られたものをいうが、和歌山城の場合は二の丸の「御座の間」(藩主の居所)から見たとき裏鬼門(坤(南西))の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されている。(東京大学・前田家の赤門がある)

「京橋門」 大手門(一之橋門)から北に伸びたところにあった櫓門。北堀(現・市堀川)に面しており、物見櫓もあったとされる。
京橋の側に石碑が建つ。 本町門 京橋からさらに北にあり、真田堀に面したところにあった櫓門で城下町の境としていた。参勤交代の際は必ずこの門を通ったという。

「不明門」・「あかずの門」とも言われ、急を要する場合のみ開かれ、通常は閉じられたままであったという。
和歌山城南側の三年坂に面した場所にあり、現在は和歌山城駐車場のゲートが置かれている。

「吹上門」は、 旧中消防署の前にあったとされる門。西側には吹上御門もあったとされるが明治期に埋め立てられた。現在、鳥居が建っている。

           優れた測量技術が石の選別と配列でもわかる
    

「七福の庭」は、城の表坂を登り切ると、松の丸と呼ばれる、本丸南側の石垣に沿って延びる、広くて平坦な道がある。この中程に、石を並べた「七福の庭」、 七福神に良く似た石を巧みに配置してその周囲を小石で囲み、さらに船の舳先と船尾に見立てた石を組み合わせて宝船に。
徳川頼宣が紀州徳川藩の興盛を祈念して、1621年 本丸御殿に作庭したと伝えられる。
1923年、本丸御殿跡に給水場が建設されることになり、ここに移された。

                        城の栄華が
    

城の石垣は、時代によって様々な積み方がされている。

「野面積み」自然石そのまま積んである勾配の緩やかな石垣、紀州青石・結晶片岩(桑山家)

「打ち込み接ぎ」石の正面を加工して「接ぎ」合わせて積んだ石垣、砂岩(浅野家・徳川家)

「切り込み接ぎ」勾配の急な石垣に石材精密加工で熊野花崗斑岩で高石垣の角。(徳川家)など貴重。

                  白壁の白亜の天守・石垣
  

虎伏山上西峰の天守閣から市内の街が一望。

                天守閣からみた和歌山市内
    

「岡口門」と土塀は、国の重要文化財指定に、土塀には、鉄砲を撃つための銃眼が、

           築城時はここが大手門、途中から搦め手門(裏門)に
    

次回は、城から出た周りを散策する。 

法隆寺 中宮寺

2014-03-27 | 気まま旅

「持統天皇」645-702 冷酷な独裁女帝、41代天皇(天智天皇の皇后)、中央集権強化・律令を整える専制権力を握る。
持統天皇の子・草壁皇子は頼りにならず早く亡くなるため、孫の文武天皇が皇位を継ぐ。

「行信」奈良時代の僧。
738年律師に任じられ、この頃から法隆寺東院の復興に尽力する。
748年大僧都として諸寺資材帳に署名している。750年に没したという所伝があるが、その後も生存していたことを示す資料もあり、
754年 厭魅(まじないで呪い殺す)の罪により下野薬師寺に左遷された薬師寺の行信と同一人物と見る説もある。
没後に完成した神護景雲元年(=767年)九月の跋(あとがき)を持つ「行信発願経」が法隆寺に残されている。

現在の寺境内は、西院伽藍・東院伽藍に分けられ、周囲に10余りの塔頭がある。西院伽藍の建造物の多くは7世紀後半で、東院伽藍は、739年に僧「行信」によって斑鳩宮跡に建立された。

蘇我入鹿に焼かれた斑鳩宮跡の東院、太子の子孫「山背大兄王一族は最期を。
    

西院伽藍は、南大門・客殿・大湯屋・三経院・西室・西円堂・薬師坊・地蔵堂・中門・金堂・五重塔・回廊・経堂・大講堂
      鐘楼・上御堂・東室・聖霊院・妻室・網封蔵・食堂・細殿・若草伽藍塔心礎・東門。

東院伽藍は、南門・礼堂・夢殿・回廊・舎利殿・絵殿・伝法堂・鐘楼・太子殿。

四脚門ー夢殿ー回廊ー伝法堂ー鐘楼ー表門ー中宮寺、「東院」
  

「藤ノ木古墳」は、寺の西南で、藤ノ木にある「後期古墳」で、直径40m・高さ8m大型円墳、石棺周辺から、大量の馬具類・武具類
出土している。石棺から成人男子二体の人骨を確認している。
太刀・剣・副装飾品と近くの「陵」から天皇か皇子と考えられていると云う。

「法隆寺」創建は、推古天皇7(599)・15・21年の記録がある。寺領も太子が605-622年政務をとった斑鳩宮の西にあったと云う説。
また、「日本書紀」に全焼したとある。再建設・非再建設の論争がある。
金堂礎石に焼けた跡が見られたことなどで再建設が有力になっている。元は、現在の伽藍やや南東で若草伽藍跡で、そこには、塔と金堂が
一直線上に並び四天王寺式伽藍配置が見られ、斑鳩宮跡の方位と一致。
木造建物はほぼ国宝、五重塔は日本最古・金堂の釈迦三尊像・薬師如来坐像・吉祥天立像・夢殿の本尊の救世観音・大宝蔵殿百済観音
玉虫厨子等の飛鳥美術が多数残されている。世界文化遺産リストに登録された。

夢殿最古の八角円堂(天平)・救世観音(飛鳥)東院本尊聖徳太子の等身像・伝法堂は奈良時代の住宅を改装したと云う。
    

「中宮寺」は、法隆寺東にある聖徳宗の門跡尼寺。山号 法興山、本尊ー木造菩薩半跏像・国宝 天寿国繍帳

596年聖徳太子が母穴穂部間人皇女「用明天皇皇后」の為に建てた中宮で、母、没後寺院に。元は、現在地の東方500mに、旧殿・夫台
赤門・西門などに「小字名」が残っている。
中宮寺池は変わっていない。斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮の中央にあったと云う。ここも四天王寺式伽藍配置が明らかになった。

「行信僧都像」は、太子を思慕し、東院再興に力を尽くした僧・「道詮律師像」は、平安、行信が復興したがまた荒廃、それを又復興
  

3月22日―24日「お会式」は、米粉でつくる鳥・花を供え 聖徳太子を賛嘆する。5-8月 「夏安居」などがある。

「中宮寺」太子の御母「間入皇后」願いの尼寺、大和三門跡寺院の一つ、本尊弥勒菩薩(飛鳥)など。
    

これで奈良大和路は終了、次回は、紀ノ川和歌山へ。

日本最初の世界遺産「法隆寺」

2014-03-24 | 気まま旅

「法隆寺駅」は、奈良県生駒郡斑鳩町興留にある、JR西日本・関西本線の駅。
大和路線の愛称区間に含まれ、斑鳩町の代表駅で、「世界遺産」の1つである「法隆寺」の玄関にあたる駅を下車。

「斑鳩の里」は、日本仏教発祥地、聖徳太子ゆかりの地でもある。日本人の聖地でもある。時間があれば法隆寺から旧道を西へ出て
竜田神社の街並みと予定していたが悪天候で雪。

日本人の聖地「斑鳩の里」・聖徳太子ゆかりの地・古道滝田越え・JR関西本線「法隆寺駅」下車


聖武天皇の729~749年に、最も繁栄した文化、「天平文化」の特色は、 唐の文化の影響を受けた国際色豊かな文化である。
鎮護国家思想に基づく仏教文化で、国史の 「古事記」・「日本書紀」。地誌の「風土記」、諸国の地理・伝説・産物を記述。
文学 「万葉集」、東歌や防人の歌を含め約4,500首を収めた歌集。 万葉がなを使用。歌人は,山上憶良・山部赤人・大伴家持など。
建築は、 東大寺法華堂(三月堂)・正倉院(校倉造)・唐招提寺金堂・法隆寺夢殿 ・ 正倉院の宝物の中國・東ロ-マ・イスラム・インドの影響
した時代であった。
「聖徳宗・法隆寺」日本初の世界遺産。

国道25号線から南大門への松並木、ナゾの寺創建・建築年代・聖徳太子などなど、が、最古の木造建築と古代寺院「法隆寺」。
    

「用明天皇」587年没、31代天皇、欽明天皇庶子・母蘇我稲目、蘇我氏後ろ楯によって王位の為、物部氏や中臣が反発していた。
「聖徳太子」574-622用明天皇の皇子、推古朝の摂政、大王補佐役、太子の伯父崇峻天皇暗殺、日本最古の女帝「推古天皇誕生」
「推古天皇」554-628 33代天皇欽明天皇の王女、聖徳太子と仏教復興に努める、夫敏達天皇とは、墓が別(夫婦仲悪かったと云う)

聖徳太子の謎・時期天皇の最有力候補なのに即位は、推古天皇。その間は空白がある。(修業期間説が定説)、崇峻天皇暗殺の黒幕は、
推古女帝の陰謀、太子の汚名を着せた説、太子はノイローゼ・伊予温泉療養説。推古天皇75歳の長寿・太子49歳で世を去っている。
太子の死亡は、自殺説・他殺説・病死説いろいろ言われているが。
太子の霊は、慰められることなく怨霊、その鎮魂のために「法隆寺」が再建されたと云う。「夢殿」は太子が仏典の勉強した堂。
役人の身分を色分けそいた「冠位十二階」制定。「憲法十七条、和ヲ以テ貴シト為ス、、、」をつくる。

「年代」
701 大宝元年 702 大宝2年 ・703 大宝3年 704 大宝4年/慶雲元年 ・705 慶雲2年 706 慶雲3年・707 慶雲4年 708 慶雲5年/和銅元年
709 和銅2年 710 和銅3年・711 和銅4年 712 和銅5年・713 和銅6年 714 和銅7年・715 和銅8年/霊亀元年 716 霊亀2年
717 霊亀3年/養老元年 718 養老2年・719 養老3年 720 養老4年・721 養老5年 722 養老6年・723 養老7年 724 養老8年/神亀元年
725 神亀2年 726 神亀3年 ・727 神亀4年 728 神亀5年・729 神亀6年/天平元年 730 天平2年・731 天平3年、、、、、。

中門・塔・金堂・講堂・経堂・上御堂・地蔵堂・鐘楼・僧坊湯屋とその配置・学問寺の機能、、、、。拝観料¥500.
    

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。
太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。
太子の実在・非実在によらず、7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

607年推古天皇・聖徳太子の創建。法学問寺・仏法研究の道場「法隆寺」、伽藍は、五重塔・金堂のある西院を法隆寺
    

法隆寺の創建が7世紀前半の太子在世時に遡ることは、発掘調査の結果等からも明らか、643年、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられると云う。
日本書紀に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた。
発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査などの裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は一度焼失した後に再建されたものであるということは定説となっている。
643年の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのかなど、再建の正確な時期や経緯については謎も多い。
焼失前の旧伽藍(いわゆる「若草伽藍」)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している。
現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは定かでないと云う。

夢殿のある東院は、聖徳太子斑鳩宮で天平時代のもの、総門南大門と左右の築地塀は、室町時代で、中門は、飛鳥時代。
    

西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築。
「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は、711年の製作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。
平安時代に書かれた「七大寺年表」には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。

一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、738年頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものであると云う。

塔・金堂の柱は、安定感と美がある卍くずし組勾欄は、中国北魏にさかのぼる古式で、中央に釈迦三尊右に本尊薬師如来が。
    

1950年、 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。1985年(昭和60年) 昭和の大修理完成。 1993年(平成5年) ユネスコの世界遺産に登録。

五重塔飛鳥時代で最古、中に釈迦の物語四面像が、百済観音飛鳥時代は、美しい長身の仏像で知られている。
  

「法隆寺」は、仏教美術の集大成と言え、我が国において、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて、美術と言えば仏教に関するものが多く、埴輪から仏像、古墳から寺院、ことに掘っ建て柱に茅葺きの家屋が一般的だった建物の時代に、五重塔の建立などの大変革は仏教の力なくしては不可能。 しかも寺院に納められている仏像・仏具の殆どが、飛鳥・白鳳・天平時代の作だけでは世界最古の建築群である七堂伽藍のすべてが、国宝に指定されており、古建築のすべてが学べる東南アジアで唯一の殿堂である。日本の国宝の数多くを、この法隆寺が所蔵しており、文化財の比類なき宝庫の寺院。
現在では、建物・仏像・仏具など彩色の退色やメッキの剥落によりかえって落ち着いた、奥ゆかしさが感じられ、無彩色の埴輪や素木の文化を好む我々日本人には、やすらぎと感動を与えてくれます。
約1300年もの風雪に耐えて聳え立つ五重塔をヒントにして、現代の超高層ビルが柔構造で建築されていることを考えますと、古代人の偉大さには驚かされます。

南大門ー中門ー金堂・五重塔・大講堂・回廊ー聖霊院ー大宝蔵院ー東大門ー四脚門へ。
  

法隆寺、南門・五重塔・西院伽藍から東門へ中宮寺へ。