syuの日記・気まま旅

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市ヶ谷から 明治・大正を忍ぶ神楽坂

2018-11-22 | syu散歩

「四谷濠(真田濠)」
この部分はもともと台地であり、東西に延びる分水嶺の南北を繋げる形で開削して作られた人工の地形である。
戦災の瓦礫により埋め立てられ、現在は、南半が上智大学のグラウンド、北半はJRおよび東京メトロ丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている。
四ッ谷門(四ッ谷見附)現在の四ッ谷駅付近には、甲州道中へとつながる西の要衝として四ッ谷門が構えられていた。
石組みがいくらか遺され、市ヶ谷濠濠を一部埋める形でJR中央線が走るほか、南半は外濠公園の敷地であり、野球場やテニスコートなどがある。
東半には水面を遺し、JR市ヶ谷駅からの景観に独特の風致を与えている。
市ヶ谷門(市ヶ谷見附)JR市ヶ谷駅前付近に存在した。別名「桜の御門」と呼ばれ、春には桜が人々の目を楽しませ、現在は、バラバラになった組石を数個遺すのみとなっている。
南北線駅に通じる地下コンコース内には濠の石組みが再現されているが、説明板によれば、これは雉子橋付近から出土した石を移築したものと云う。
新見附濠〜新見附橋〜牛込濠市ヶ谷門から牛込門までは、もともとあった川筋を拡張したもの。
鉄道(現JR)の開通によってやや幅を狭めてはいるが、現在まで非常に広い水面を遺している。
土手部分は外濠公園として遊歩道が整備され、春には桜の名所となる。
市ヶ谷門寄りには旧い釣り堀があり、長年親しまれている。
また牛込門寄りには、大正時代に開業した貸しボート屋が前身の、水辺のカフェレストランが営業し、脇には、ややわかりにくいが、かつて旧牛込駅への通路であった遺構が残存する。
                         市ヶ谷マップ


新宿区市ヶ谷は、JR中央線と江戸城外濠を境に千代田区と面している。名は、市ヶ谷と云う大きな谷に由来。
江戸時代は、寺院・武家屋敷が多く、市ヶ谷見附があった。
現在は、オフィスビル・学校・マンションが達ち並んでいる。

                         市ヶ谷見附


                上智大・大妻女子大・靖国神社・防衛庁などが。


                          外堀通り


                          靖国通り


                        営団南北線「市ヶ谷駅」 


「日本福音ルーテル市ヶ谷教会」
1888年に、アメリカ合衆国の南部一致ルーテル教会は、外国伝道局を創設して、日本伝道を計画し、1892年2月にJ・A・B・シェーラーを日本に派遣。
シェラーは、横浜に上陸し、東京築地12番地に住み、山内量平(植村正久の義弟)に日本語を習ったと云う。
1892年、R・B・ピーリーが派遣されてきて、シェラーと共に山内量平や量平の妻・幹枝から日本語を学び、南部一致教会伝道局の意向により、地方伝道のために九州地方を選んだと云う。
佐賀中学校の英語教師としてシェラーは赴任して、松原町に家を借りて仮会堂として、佐賀十字教会(現 日本福音ルーテル佐賀教会)と名づけた。
明治26年の1893年、復活祭にあたる4月2日にR・B・ピーリーとJ・A・B・シェーラーと山内量平により佐賀県佐賀市松原の住宅を改装した仮会堂である佐賀十字教会で最初の礼拝を行った。
この日が日本福音ルーテル教会の始まりであるとされている。
1893年より1902年までが、日本福音ルーテル教会の日本伝道開拓の時代とされ、
1963年、にそれまでの日本福音ルーテル教会と東海福音ルーテル教会の合同総会が、ここ、東京市ヶ谷に在る救世軍エバンゼリン・ホールに於いて開催されて誕生。
                        日本福音ルーテル市ヶ谷教会 


「浄瑠璃坂の仇討」
寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に、宇都宮藩を脱藩した奥平源八が父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件がこの坂で。

                          浄瑠璃坂


                        庾嶺坂ー若宮町。


「坊ちゃんの塔」
夏目漱石 の小説”坊ちゃん ”の主人公が、「東京物理学校」を卒業した数学教師であったことに由来。
主人公は、卒業後四国松山の中学に赴任して、反俗精神に貫かれた豪放磊落な熱血教師として描かれている。
本学が明治の時代から”坊ちゃん”のような、人間味にあふれた実力ある理数系教師を多数輩出し、理学の普及に果たした役割を誇りにさらに未来に亘って脈々と継承していくことを期して、このモニュメントは建設されたという。
幾何学的な形状は鏡映対称な一対の五面体”ペンタドロン”を最少単位の”個”として、それらを組み合わせて構成。

                            東京理科大


「飯田濠・神楽河岸」
万治3年の1660年、幕府は、仙台藩の伊達綱宗に神田川の拡張工事を命じ、江戸城防備のための濠から船運用の水路にと発展させていった。
それは江戸城拡張によって市街に人口が増え続け内陸の奥まで物資をすみやかに供給する必要に迫られていたからと云う。

                          市ヶ谷船岸原町  


                           神楽坂マップ 


                           飯田橋交差点


「神楽坂通り」
17世紀前半の江戸時代、三代将軍家光の時代に牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で開通、元々この地域には以前から町屋が存在していた。
江戸幕府開府以降、一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されていた。
江戸城外堀が掘削され、神楽河岸が造成されましたが、この物流拠点の存在が、後の神楽坂の発展に大きく寄与する。
江戸時代後半になると、江戸は、様々な文化が発展し、八代将軍吉宗の政治顧問であった荻生徂徠や、戯作者として江戸町民から喝采を浴びた太田南畝は、牛込地区の住人で、18世紀末に「毘沙門天善国寺」が麹町から神楽坂に移転してくる。
寅の日の縁日で大いに賑わい、行元寺や赤城神社では岡場所が発達し、幕末には地蔵坂の牛込藁店の寄席は多くの人を集める人気の場所繁華街に。
神楽坂の最初のピークと云う。
                           商店街が続く


                        横に入ると「神楽小路」に


「明治時代の神楽坂」
大政奉還を迎え江戸時代が終わると、多くの武士が帰郷し江戸の人口は半減・武家屋敷中心だった神楽坂一帯も空家が目立つようになり、一時には桑茶畑までが出現したと云う。
東京遷都が決まると、徐々に官庁の役人や企業の社員等の新住民が増加し始め、また行元寺の岡場所から発展した花街が形成されていきます。
神楽坂の商店街もこの頃から急速に発達し、東京で最初の夜店も始まり多くの人で賑わったと云う。
尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥といった近代文学の祖と言われる文人たちがこの地に住むようになると、寄席演芸場や門前町の賑わいも加わり、
神楽坂は文化の香りも漂う街になっていきます。
明治28年には飯田町駅が開通し、甲武鉄道の始発駅となるなど、山の手と下町との結節点として神楽坂の街は一層発展していきました。







                     昼間でも厚揚げでビールを一杯。






大正12年の関東大震災で、
東京下町が甚大な被害を受けたのに対して、台地の神楽坂は、大きな被害が無かったため、震災後は銀座の有名店が軒並み神楽坂に出店することとなり、一時期「山の手随一の繁華街」「山の手銀座」と言われるまでに繁栄し、花街も東京で最大規模となり、複数の常設の寄席演芸場も開かれ、神楽坂はこの数年間が最も賑わいを見せた時代と云う。
しかし、その後は新宿や渋谷といったターミナル駅の発展により東京の中心地が西に移動すると、神楽坂の地位は少しずつ低下。
それでも独特の情緒を持った落ち着きある街として魅力を放っていた神楽坂ですが、太平洋戦争末期の昭和20年の空襲により、江戸時代以来の街並みは遂に灰燼に帰してしまいす。



バブル経済の時代に一部無秩序な開発が進み、以前の「神楽坂らしさ」が失われていくことに危機感も醸成されてきたことから、現在では独特の江戸の風情を残す様々な取り組みが行われていると云う。法政大学をはじめに学生が多い。


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