syuの日記・気まま旅

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家康が好んだ御茶ノ水の湧水

2019-02-11 | 季節だより
2019年2月上旬の御茶ノ水
江戸時代、
御茶ノ水付近一帯は、武家屋敷地であった。
現在では、地区内と周辺に明治大学、日本大学理工学部、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、江戸の総鎮守の神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在する。
また、名所を多く抱える広範な文化ゾーンを形成し、
古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。
同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれ
「お茶の谷」という意味の「茗溪(めいけい)」という呼び名が存在し、周辺にこの名を冠した通りや商店があるほか、
1872年(明治5年)に湯島の昌平黌に設置された日本初の官立師範学校、つまり東京文理科大学、東京教育大学を経た現在の筑波大学の同窓会「茗渓会」にその名が残されている。

変わる「御茶ノ水駅」
現在、難工事進行中(エレベター完成)神田川の上での改良工事が。
南北神田川、高さ7m狭い制約された所を改良工事中であるが、大幅に工事は遅れているという。
昭和初期の線路工事を支えている石の壁など埋設物が地中から広範囲に見つかっているという。

                        神田川ホーム工事


浅野総一郎ー浅野セメント・京浜工業地帯を・・・・。
1866年 ー豪商(規模の大きな商売を営む商人)である銭屋五兵衛に触発され、豪農である家の養子となり、自身も商売を始める。
1870年ー商売がうまくいかず、養家を追い出され、
1875年ー東京、「御茶ノ水」で、砂糖を入れた水を販売する、「冷やっこい屋」という商売を始め、そこから味噌や菓子を包む竹の皮の販売、薪、炭と徐々に手を広げていく。
1876年ー横浜で薪炭しんたん、石炭の販売業を開業したが、翌年、石炭の売り上げが伸びることを見越して、石炭専業に切り替え、1878年ー火災で家と財産を失うがすぐに立て直し、コークス処理(石炭を原料に炭素を主成分とした固体)を安価あんかで買い入れ、セメント工場に売却するという商売を
始めた。
                        JR水道口改札


                 正面が医科歯科大附属病院  御茶ノ水橋


                         外堀通り




                    神田上水懸樋(掛樋)跡


                       神田川分水路


                        分水碑


                        案内板


                 「後楽園」 水道橋交差点 白山通り・遊園地が


「後楽園」の名は、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」後楽園(中国茫文正の句)


        水戸家の祖「徳川頼房」が三代将軍家光から与えられた敷地が「小石川後楽園」


                    跡地から出土の石製品 展示

              水戸光圀の「大日本史」は、ここで編纂された。


                        アセビ




                        アオキ


次回は、園内へ。
















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