syuの日記・気まま旅

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上野公園 彰義隊の悲劇から秋葉原 変貌する神田川

2018-11-19 | syu散歩
「彰義隊」

一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話し合った。2月には四谷鮫ヶ橋の円応寺に場所を移し30名ほどで会合を行っている。
次の会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加し、その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国」とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成した。
翌日、浅草本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成。
頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いた。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となった。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じた。
結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になった。4月3日に本願寺から寛永寺へ拠点を移動している。
4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へと退去すると、千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。
慶喜が水戸へ移ったのちも、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。
勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がる。
渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は、江戸での駐屯を主張したため分裂。
天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため渋沢は彰義隊を離脱(渋沢が一時期軟禁されたとの説がある)、一時姿を隠していたが、同志とともに、
飯能市、の能仁寺で振武軍を結成し独自に活動を展開した。
渋沢の離脱に伴い彰義隊は隊を再編成したが、天野は頭並の地位に止まっている。
江戸開城以降、関東各地で旧幕府陸軍兵士等の盗賊が各地で幕府復興を名目に放火や強盗を起こし、江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく徳川慶喜の警護役をしていた幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行った。
しかし覚王院義観は彼を裏切り者と呼び説得に応じなかった。
京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、新政府は彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げ彰義隊を討伐する方針を決定し、京都から西郷隆盛に代わる統率者として「大村益次郎」が着任。
                         日暮里駅前お地蔵様
           

川上音二郎       (1864^-1911)俳優、芸人。一座を素人集団の演劇で立ち上げた。
「書生芝居」などは、やがて新派になる。

博多生まれ、14歳で東京に、福沢諭吉の書生、給仕、巡査など職を替え、政治運動にも投じている。
落語家桂文之助に入門、東京中村座で「オッペケッペー節」が大流行。1893年フランスに渡っている。翌年芸者の貞奴と結婚。

谷中墓地に                    川上音二郎の墓            
               

「五重塔」跡地脇に「高橋お伝」の墓がある。(1848-1879)群馬利根郡出身、
明治の毒婦と称された。「毒のある花は美しい」。

1867年結婚、1872年市太郎と恋仲、1876年蔵前で古物商後藤吉蔵殺害、その年逮捕、1879年日本史上初の女性死刑。
歌舞伎では、「綴合 伝仮名書」。小説で「高橋阿伝夜又譚」「お伝地獄」。映画10本以上。
お伝の墓に参ると三味線が上達すると今でも言われている。

高橋お伝の墓                        都立上野高校
          

都立上野高校は、1924年第二東京市立中学校として開校された。
上野動物園裏、公園、東京芸術大に接している。進学校で越境通学者が多い。

清水坂は、高校に沿っている坂で、高台の摺鉢山に寛永寺の観音堂があった。
1631年京都の清水寺を模し創建、1691年に上野公園、西郷隆盛像の裏(現在地)に移った。坂の名は残った。

                          精養軒
          

精養軒は、1872年三条実美や岩倉具視の援助により築地に西洋館ホテル洋食店を創業。
1876年上野精養軒として開業した。老舗の西洋料理店、現在結婚式場もある。

医薬祖神「五條天神社」1641年創建、祭神菅原道真を尊像。昔はアメヤ横丁入り口にあったが、関東大震災で移築された。
江戸三大天神(亀戸、谷保)の一つ、千貫神輿が有名で、三年おきに上野、広小路と練り歩く。

                          五條天神社
  

戌辰戦争(上野戦争)で伽藍など焼失。1873年日本で初の公園指定になっている。

1868年、「大村益次郎」が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を。
午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩卍隊の正確極まる激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退された。
しかし正午から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王山に着弾し始め、午後は射程と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名という。
大村が立案した彰義隊殲滅作戦を実施するには50万両もの大金が必要だった。この調達の為に大村は米国より軍艦ストンウォールジャクソン号購入の為の資金25万両を交渉役の「大隈重信」から分捕り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、最終的には新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えた。
これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃え開戦したと云う。
渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

                          上野公園
  

                    西郷隆盛銅像下 似顔絵画家達


上野は東京の北の玄関口、終戦後闇市のアメヤ横丁を中心に下町の町として繁栄したが、山の手の副都心の著しい成長、東北、上越新幹線東京駅乗り入れにより、副都心としての地位は、低下していった。

寛永寺の門前町として発展してきた上野広小路、春日通りが横断、老舗デパート松坂屋があり、江戸時代は将軍家の寛永寺参拝路、黒い門があり、このあたりは日本橋と共に盛り場として栄えた。

明暦の大火(1657年)のあと火除けの為広場を作り、その後「広小路」と呼ばれた。現在の上野1~3丁目は黒門町で、1698年頃から町屋が転入し鍛治町、無門町などができていった。

                          上野広小路交差点
  

広小路から中央通りを万世橋に向い、亀住町、栄町、佐久間町、五軒町、末広町、など神田に入るが、
この辺は武家屋敷が多く、中でも豊前小倉藩の中屋敷があったが、江戸の大火で焼かれた。

明治2年の大火後、延焼をくい止めるために、このあたりを空き地、火除地とされた。

秋葉原はJR総武、山手、京浜東北、地下鉄日比谷線などが乗り入れ、若者にも人気の駅。
終戦後は上野と同じ焼け野原であったが、1870年秋葉神社を勧請し「秋葉原」とよばれた。

その後、今の外神田を中心に露天商が連なっていたが一斉撤去し、ラジオ部品関係の商店がふえていった。

                          秋葉原電気街入り口
  

秋葉原駅は明治23年、貨物駅として発足、万世橋(現在の橋)が明治6年、大正から昭和の戦前までは古着店が多かった。
その後繊維の織物店問屋が生地物を並べ商売をしていたが、50軒程あったという。

こうした問屋街の伝統が、戦後電気製品に変わっていった、問屋が直売すると言うイメージは今でも残っている。

中央通り 電気街                       路地
         

神田川水源は、三鷹市の井の頭池の湧水、善福寺川と妙正寺川が合流して御茶ノ水、神田から墨田川に注ぐ。
江戸時代は、江戸城の外堀を兼ねていた。

江戸三大地震と言えば、慶安、元禄、安政と言われているが、関東大地震は、はるかに上回るもので、
江戸の中でも万世橋付近は被害が多く橋、神田郵便局などすべて焼きつくした。
焼失戸数28万9千 倒壊戸数1万5千 死者7万4千 行方不明25万。

秋葉原駅                          神田川
         

「万世橋」神田川に架けられた橋、江戸時代は中仙道と日光御成街道の分岐点で、江戸城の防御のために筋違見付と筋違門があった。
1873年アーチ型の石橋(めがね橋)が建築された。

中央本線万世橋駅は、明治45年開業オランダのアムステルダム駅を模していた。
一階は、格等待合室、婦人待合室、駅長室、手荷物扱い室、二階は、大食堂。

駅前は広瀬中将銅像がありロータリーになって、東京の名所の一つであった、そのレンガ壁は一部残っている。

万世橋                          交通博物館跡
         

交通博物館は、1911年後藤新平の提案、鉄道開通50周年を記念して最初は東京駅に開設、関東大震災で焼失、
1936年万世橋駅跡地に移転、約70年間の歴史に幕、子供の時はよく通ったところ、思いで多く残念である。

現在建物の老朽化と展示品目の増加により取り壊している。跡地はJR東日本が建設主でオフイスビルに、2012年完成予定。
1980年頃は、入場者年間83万人以上、ここの展示品は埼玉大宮と北区大成町に移した。

レンガ造り 万世橋駅跡                  旧交通博物館
  

上野戦争後は、
逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に。
彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。
首魁の天野八郎は投獄後数ヶ月で死亡、江戸時代から明治時代初期にかけての牢獄は環境が劣悪で、囚人の生存率が低かったと云う。
改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降のことである。
上野で戦死したことにして故郷にも帰れず、明治時代を戸籍なしで送った人もいたという。
鈴木貫太郎の叔父は上級武士だった為に生死が徹底的に調査され、全国へ指名手配された。
原田左之助は上野戦争で戦死したとされるが、家族に迷惑が掛かるのを心配し戦死した事にしたという説もある。
獄中の彰義隊士が自由の身になったのは、明治2年、である。
新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊のなかで最も厳しかったといわれるが、謹慎後に明治政府へと登用され官吏や重役に就いた者も少なくないと云う。捕縛後の天野の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり、後ろを見たら誰もいなかったというものがある。
彰義隊は、江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し、新政府兵士へ集団暴行・殺傷を繰り返した存在としては覚悟が足りず、実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かったことが、一日の戦闘での崩壊となったとする説もある。
江戸では彰義隊の壊滅後、特に戦闘も起こることもなく新政府要人が集団で移転して来た。
さらに明治天皇を迎え元号は明治へ、街の名前も江戸から東京へと変わり、明治新政府の首都としての歴史が始まっている。


「千住宿場町横山家に残る彰義隊士の刀痕」
横山家は、日光奥州街道に面しており、その街道に面する軒を支える柱に刀痕が見られ、柱の現在は、同家のガレージに取り込まれたため、ガレージを囲う塀内になって道路からの外見は出来ない。 柱の材質は檜材、太さは一辺15cm位角で、地上80cm位の位置に認められ、痕跡は2段の打込み傷。
横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前迄は手広く地漉紙問屋を営んでいたと云う。 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われ、間口が9間、奥行きが15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建てである。
広い土間、商家の書院造といわれている帳場、二階の大きな格子窓等に、一種独特の風格を感じる。
上野の戦いで、敗退する彰義隊が切り付けた玄関の柱の刀傷や、戦争中に焼夷弾が貫いた屋根等、風雪に耐えて来た百数十年の歴史を語る住居。
千住には、旧家や当時の雰囲気を残す医院の建物等が、今でも散見できる。

                            円通寺


境内に、今でも風雨に晒され「上野黒門」が、片隅にある。
1868年上野彰義隊の戦いで激戦の場となった「上野山本門」いたるところに弾痕や刀傷がのっこて寂しく残っていた。



当時の激しい戦いが生々しく物語っている。



彰義隊は、上野寛永寺を本拠に官軍と戦い、壊滅したが、戦死者200数10人は、みせしめのため放置された云う。



            上野公園内の清水寺(官軍の砲弾が展示されている)


                      清水寺画


                     上野戦争の画


             上野公園内、彰義隊供養塔と墓(薩摩西郷隆盛像の裏に)


これを見た円通寺「仏磨和尚」が上野の山でダビに付し、現在地円通寺に収め墓石死節之墓を建てたという。



                       上野黒門                       


                       彰義隊戦士の墓


                           墓


                           墓


                           墓


「岩倉具視」 1825-83 倒幕運動と王政復古を成し遂げた。
「能久親王」 1847-95 皇族・軍人 
伏見宮邦家親王第9王子ー寛永寺山主・輪王寺宮の能久親王、宮様をを朝敵した。

岩倉は、
能久親王宮様と和宮(孝光天皇妹・14代将軍家茂と結婚)宮様・和宮皇族の二人は、戦を避けるため京都入りしたかったが、岩倉は、天皇に会うことを禁じ阻止した。



江戸の治安の組織として武士300名の彰義隊が存在していた。
将軍 徳川慶喜・宮様・和宮様の警護で彰義隊は2000名以上に増えている。



「大村益次郎」 1824-69 長州藩士兵学・蘭学者。
慶応2年幕長戦争で参謀を務め、戊辰戦争で、彰義隊攻撃のあたって激戦を予想し、薩摩兵を配置、西郷隆盛が驚いたと云う。
益次郎は、西郷に「そうです、激戦のため、最強の兵を投入、、」


                 勝てば官軍・負ければ賊軍(上野戦争から)


旧幕府軍は、すでに大政奉還しており「最後まで天皇に、戦いを避け話し合いを求めるべく親王と和宮をお守りし京に」。
それに対し、岩倉は、倒幕のみと、長州の大村氏を参謀に置き「京に行かせず、敵は、賊軍、、」それが上野戦争であった。


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