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呉 戦艦大和

2014-06-24 | 気まま旅

「呉」、広島県南西部・中央に「休山」が、市街地は西・呉平野と東広平野に分断されている。低湿地地の地形、それを「呉」と呼んだ、市の中部の灰ヶ峰より桶や船材用の「榑くれの木」が産出、古代人の渡来人を「呉」と呼んだなど諸説は多い。
昔は小漁村であったが、1889年・明治22年に、旧海軍鎮守府が置かれて以来、水深で周りに山で囲まれ天然良港地であった。
軍港都市として急速に発展している。
1903年「呉海軍工廠」がつくられている。第一次・二次世界大戦を通じて軍需工場が林立、人口も一時40万以上に膨らんだ。
世界最大級「戦艦大和」も、ここで建造されている。

現在は、石川播磨重工・日新製鋼・日立製作所・東洋パルプなど、重工業都市に転換。





戦前には軍港や戦艦大和を建造した海軍工廠があった呉に開館した「科学館」
呉の歴史と、造船や製鋼をはじめとした科学技術を、当時の生活・文化に触れながら紹介する。
館内には戦艦大和を詳細に再現した実物の10分の1サイズの模型が展示されており、同館のシンボルとなっている。
簡単な工作を通して科学の原理を体験できる実験工作室や艦船に関する資料などを豊富に揃えたライブラリーがある他、呉港が見渡せる展望テラスも。

大和ミュージアム    入館料¥500


大和の模型の他、戦艦陸奥や重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身、戦艦金剛の英ヴィッカース社から輸入した当時のボイラーや、戦艦陸奥の錨、航空戦艦日向のマストに掲揚されていた軍艦旗、零式艦上戦闘機六二型、“人間魚雷”回天10型(試作型)、特殊潜航艇「海龍」を展示の主体として、海軍兵器の実物が数多く展示されている。
その他、実物の水中翼船である「金星」の屋外展示など、戦後の海事史についての展示。

1階「展示室 呉の歴史」では、日本の幕末から太平洋戦争終結までの戦史と呉海軍工廠の歴史、戦艦大和について、当時の記録映像の上映、海軍兵器の実物、戦没者の遺品などの歴史的資料の展示を通じて解説。呉軍港空襲や広島市への原子爆弾投下に関しても、呉の人々の視点から見えた当時の様子が、



特殊潜航艇「海龍」 後期量産型、操縦装置は双発爆撃機「銀河」のものと同じ。
浮力タンクによらず補助翼によって潜航浮上するため運動能力に優れていた。
二人乗りで九八式45センチ魚雷2本を艇の外に装備で、水上はディーゼルで走り、水中では電池とモーターで走行する。

本土決戦用のものは挺首に炸薬をつめ、両わきに抱えた魚雷を発射後、目標に突入体当たりする予定であったと云う。 基地発進用として運用される計画だったが実戦での使用はなかった。
この艇は、昭和20年、静岡県網代湾で艇尾部に米機のロケット弾(不発)を受け沈没、昭和53年に引き揚げられたもの。

零銭艦上戦闘機・人間魚雷回天等と、戦艦模型が、昭和20年に入ると主力艦は空母にとってかわられた。



「戦艦大和」
進水 1940年、-その後 1945年4月沈没 。建造所 日本・呉海軍工廠 。建造費 約137,802,000円(1936年 艦政本部試算)
排水量 基準ー 64,000t・満載ー 72,809t・全長 263.0m ・水線長 256.0m ・全幅 38.9m 。主機関 ロ号艦本式缶12缶、艦本式タービン4基4軸
153,553馬力 ・最大速力 27.46ノット。航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)・乗員 竣工時、2,500名・ 最終時:3,332名

兵装 (新造時) 45口径46cm3連装砲塔3基・60口径15.5cm3連装砲塔4基・40口径12.7cm連装高角砲6基・25mm3連装機銃8基・13mm連装機銃2基
兵装 (最終時) 45口径46cm3連装砲塔3基・60口径15.5cm3連装砲塔2基・40口径12.7cm連装高角砲12基・25mm3連装機銃52基・25mm単装機銃6基
        13mm連装機銃2基・装甲 舷側 410mm・甲板 200mm〜230mm・主砲防盾 650mm・艦橋500mm・搭載機 7機(カタパルト2基)。



「山本五十六元帥」 1884-1943 ソロモン諸島で戦死・海軍航空育ての親、新潟県長岡、山本家養子、海軍兵学校・大学卒、日本海海戦に参加。
1919年ハーバード大学に学び、後霞ケ浦航空隊副校長。日・独・伊同盟に反対。1939年、連合艦隊司令長官に就任。
ミッドウエ―海戦総指揮官、ソロモン諸島上空で戦死。

          「軍艦マーチ」

                守るも攻めるも黒鐵の 浮かべる城ぞ頼みなる 浮かべるその城 日の本の 皇國の四方を守るべし 
                                眞鐵のその艦 日の本に 仇なす國を攻めよかし、、、、。



沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。
午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。

乗組員1「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、まもなく真っ赤に変わった。
よしやるんだ。帰らないんだと、体に伝わったと思いますよ」

乗組員2「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、17歳で特攻にはいけないと思いますよ」。

4月7日早朝、大和を察知したアメリカ軍は、空母部隊に迎撃命令、その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800機が。



姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの国民・乗組員に衝撃を与え、、いずれ「大和」も同じ運命を辿るのではと覚悟する者も宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。
武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」
レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、
「大和」と「信濃」が合同することはなかった。
「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続け、1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかったと云う。

同年3月、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

同型艦「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。
「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。
有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。
新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。
1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった、、、、、。残念な最期である。

    

当時の小学一年生でも、我が国には、「戦艦大和」があるから勝てると信じた。
「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。
沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。 大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。
昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。

  

「呉市」の、主たる島は、江田島、西能美島、東能美島。
3島は地続きである。次いで大きい島は東能美島の西、西能美島の南にある大黒神島で、このほかにもいくつか小さな島が、江田島と西能美島の間の湾を江田島湾、西能美島と東能美島の間の湾を大原湾という。

東能美島の東にある呉市の倉橋島とは早瀬大橋で繋がっており、倉橋島と本州本土間も音戸大橋で繋がっているため、本州とは実質的に地続き。
戦前より日本海軍・海軍兵学校の拠点、
現在も海上自衛隊幹部候補生学校や第1術科学校、江田島基地などを抱え、自衛隊などの火薬などを製造する中国化薬江田島工場がある。

    

「呉・海上自衛隊」
昭和20年8月15日の終戦を経て、同年11月30日の海軍省廃止に伴い、呉鎮守府は閉庁されることとなり、その一方で大戦末期、米軍は瀬戸内海を含む通航量の多い海峡や湾港に多数の機雷を投下し、それらの除去と通航の安全確保は戦後復興の絶対条件でもあったことから、敗戦にもかかわらず
掃海部隊等による掃海作業は連綿と続けられる。
「掃海部隊等による掃海作業」
昭和27年4月、海上自衛隊の前身となる海上警備隊が創設され、同年8月の保安庁設置、海上警備隊から警備隊への改称を経て、
昭和29年7月、防衛庁設置及び海上自衛隊創設と同時に、海上自衛隊呉地方隊が新編され、その司令部として呉地方総監部が呉鎮守府跡である
        現在の場所に置かれ、今に至っております。



次回は、市内入船山記念館へ。

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1 コメント

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ご無沙汰いたしております (oko)
2015-02-14 20:33:00
ご夫妻様
いつも素晴らしいご活躍に尊敬申し上げております。
いつもコメント失礼致しておりますが、呉は私の出生地ですので
繰り返し拝見しております。
こんなにも丁寧に取材され、本当に凄いの一言です。
1999年(平成11年)9月26日~28日まで矢部様ご夫妻、
本間様ご夫妻、そして文子様にご一緒させて頂きました
「しまなみ海道~広島の旅」に見学しました呉駅も懐かしく
思い出しております。
私はおかげ様で健康も回復して短歌に書道にダンスに
カラオケ教室に命ある日々に感謝をして楽しく過ごしております。
今後ともご健勝にてますますのご活躍をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
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