地方で考える ●oyajiの侃々諤々

北信濃の豊かな自然と歴史に抱かれて過ごす日々・・・

ちょっと斜に構えてみれば
???と思うことも多いですね~

保科から上野に通じるルートを田村麻呂の東征軍が進軍したことになります

2018-03-05 | この「国」のこと

3月5日(月)                          17/3℃

 

さかのうえのたむらまろ・・・・

蝦夷地の征圧にあたった征夷大将軍として名高い、平安時代の武人です

↓ 新潟県南魚沼市浦佐の普光寺毘沙門堂 

どの辺りになりますか?

途上で、ここにも坂上田村麻呂は立ち寄ったんですね

  www.pref.niigata.lg.jp/minamiuonuma_kikaku/1349733696169.html

 

《坂上田村麻呂に由来、激しく体ぶつけ合う男衆》   (3月4日7朝日新聞デジタル)

「上半身裸の男衆が激しく体をぶつけ合う「越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭」が3日、新潟県南魚沼市浦佐の普光寺毘沙門堂で開かれた。約1200年前の平安時代、蝦夷討伐に向かった坂上田村麻呂が浦佐に立ち寄った際に御堂を建立し、開いた祝宴が始まりとされる。今年1月、国の重要無形民俗文化財に指定されることになった」

 

ネットであたるとこの普光寺毘沙門堂は、大同2年(807)、この地を訪れた田村麻呂が創建し、国の安泰を祈願したと伝えられている・・・そうです

長野市若穂保科にある真言宗の古刹、清水寺には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)があります

この寺は「きよみずでら」ではなくて「せいすいじ」

  https://www.nagano-cvb.or.jp/modules/sightseeing/page/68

保科から上野に通じるルートを田村麻呂の東征軍が進軍したことになります

 

「立ち寄った話」や「逸話」はたくさんあるようです

 

《・・・田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県、宮城県、福島県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い》

 

・・・とか

それにしても田村麻呂が東征したルート

興味がわいてきます

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)に生まれ、弘仁2年(811年)に54歳で病没

 その頃、若穂保科の地はどんな時代だったんでしょう 


有志で、この地区の、町だった時期の姿をまとめています

町だったのは昭和34年(1959)から昭和41年(1966)の僅か7年余り・・・

jiiji も実体感した50年ほど前のことなのですが、3村合併による町の時期が短かったことや、周辺市町村との大合併で町が一地区に “矮小化” したこともあって、『町の歴史』は消えかかっています

放っておくと

 資料が

 写真が

 記憶が

 「生」の証言(声)が失われていきます

 

 (町が誕生した頃、千曲川にかかる橋の鉄骨化が進んでいました)

 (台風被害で小学校体育館が倒壊したのもこの頃です)

10数名の有志で、約1年・・・

あれやこれやの資料と「生」の証言を集めて、百数十ページの冊子(簡易)ができます

“賞味期限” のある「生」の証言(声)は、とりわけ貴重かもしれません

 

「記録なくして事実なし・・・」じゃないですが、人々の記憶から消えされば、あとに残るのは記録だけ

その記録もなければ(なくなれば)、事実もないに等しいですからね


遡って坂上田村麻呂の東征ルート・・・

若穂保科の地はどのように通ったのか?!

記録はどうなんでしょうかね

コメント
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