眠りたい

疲れやすい僕にとって、清潔な眠りは必要不可欠なのです。

眼鏡屋

2024-03-05 | 
不穏な空気に誰もが身を潜めた
 雨の雫がぽとりと落ち
  やがて灰色の空から激しい豪雨が地上に降り注いだ
   家路を急ぐ傘の群れが
    足早に交差する
     街角には誰一人存在しなくなった
      まるで誰かの涙のように雨が降り注いだ
       
      彼等には帰れる場所があるんだよ

      眼鏡屋の軒下で雨宿りをしていた僕に
       店から出てきた老人が声をかけた
        僕はぼんやりと意識を取り戻した
         そう、雨なのだ

      あんたには帰る場所は無いのかい?

     老人に云われるまで
    僕は自分に帰る場所が無いことに気付かなかった

   お入り、
  珈琲くらい淹れてあげるから。

 僕は云われるまま眼鏡屋の中に足を踏み入れた
老人は眼鏡屋の店主らしい
 古ぼけた陳列棚には眼鏡のフレームが並べられていた
  そのどれもが奇妙なデザインをしている
   あるフレームの柄は螺旋状にぐるぐる巻きになっていたし
    あるフレームにはレンズをはめる場所が三箇所もあった
     時計が付いているフレームを眺めていると
      年老いた店主が語りかけてきた
      
      私は酸味がある奴が嫌いでね
       
     店主が淹れてくれた珈琲はとても温かかった
    僕はカップに口をつけ
   それから珈琲の黒の中を見つめていた

  何処から来たのか聞いても答えないんだろうね?
 あんたはこの店に入ってから一言も喋らない
だが珈琲の味の感想くらい聞きたいもんだ。

 僕は自分がとても失礼な訪問者であることに少し恥ずかしくなった

  美味しいです、珈琲。

  やっと言葉に出来たのはそれだけだった
   それでも店主は満足げに頷いて紙煙草を取り出すと
    それに灯をつけて美味そうに煙を吸い込んだ
     そうして僕にも一本薦めた
      両切りのピースは
       久しぶりに煙草を口にする僕には
        若干へヴィーな代物だった
         すぐに頭がくらくらして目が回った
          店主はそんな僕を面白そうに眺めながら
           新しい煙草にマッチで火をつけた

           どうして
          どうしてあなたは僕を店に入れてくださったんですか?

         僕が尋ねると
        店主は面白そうに微笑んで
       静かに語りかけた

      外はご覧の様に雨だししばらく止みそうにも無い
     君は店の前で雨宿りをしていたし
    珈琲で一服する相手にはふさわしかった
   それに
  私は楽器が好きなんだ
 もちろん楽器を演奏する演奏者には少しばかり好みもあるがね

店主は僕のぼろぼろになって傷だらけの黒いギターケースを指差した

 この眼鏡たちはどうして変わった形をしているんですか?

  僕の質問に店主は答えた

   私がデザインして造ったものばかりなんだ
    変わった形に見えるかい?
     私は変わった物や壊れ物が好きなのさ
      だからこの眼鏡たちには全て致命的な欠陥がある

      趣味だから何とも云えないのですが、それは売り物になるんですか?

     年に一回くらいの確立で売れるんだ。
    物好きな人間はこの世界には案外と多いらしい。

   店主はとても可笑しそうに微笑んで三本目の煙草をつまんだ

  あんたに雰囲気がよく似ているよ。

 がらくたの玩具の様な眼鏡のフレームに手を伸ばした僕に店主は呟いた

 壊れ物。私は嫌いじゃないけれどね。
珈琲のおかわりはいるかい?

 僕等はとても濃いマンデリンを飲みながら煙草をふかした

  楽器を見せてもらってもかまわないかね?

  僕は雨に濡れたケースからギターを出して店主に手渡した
   慣れた手つきで彼は愛おおしそうにギターを扱った
    職人特有の繊細さで楽器をひととおり観察して彼は僕にギターを返した

    古い楽器だね、ずいぶんと。
     だが状態がすこぶる良いね、いい持ち主に恵まれてきたんだね。
      大切に扱われているのがわかるよ。
       何か弾いてくれないかい?
        私もできるなら音楽を弾いてみたいんだがね。

        店主は残念そうに呟いて左手をかざした
         左手には小指と薬指が無かった

        僕はギターを手にして何を弾こうか迷った
       それから昔の映画音楽を弾いた
      店主は煙草をふかしながら目を閉じている

     演奏が終わると彼は満足そうに微笑んだ

    懐かしい曲だね。若い頃にその映画を観た事があるよ。

   
   
   年を重ねるというのはどんな気持ちなんですか?

  
  まだ少年だった僕は迷いながら質問した

 どうだろう?
 良いことも半分。そうでないことも半分。
  世界はそのように構築されている気がするね。
   これは私の私見だが。

   やがて雨が止んだ
   
   僕は珈琲と雨宿りの礼を云って店を出ようとした

    これをプレゼントするよ。

    そう云って店主は別れ際に僕に丸眼鏡を手渡した

    昔、こういう眼鏡をかけて素敵な音楽を創った音楽家がいたんだ。
     いろんなことを云う人々がいたが私はわりと好きだった。


    僕は礼を云って眼鏡屋を去った


   それから長い間


  僕は店主からもらった丸眼鏡をかけていた



 雨が上がった空は



 奇妙に空気が澄んでいて


  
  なんだか世界が近くに見えた
















      
 
コメント
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