眠りたい

疲れやすい僕にとって、清潔な眠りは必要不可欠なのです。

空の玄関

2005-11-28 | 
「空の玄関」
 何処かで、そんな言い方に触れた
  たぶん空港のことなのだろう

 でも
 僕は無意識の中の空間の
  不自然で奇妙な玄関を空想する

 僕らは
  そこから  
   あらゆる可能性と
    絶望的な不可能を暗示し
     刻印し
    打ち震えるのだ

 玄関とは
 入り口であり出口にもなり得る
 
  こころが震える
 美しさ
  哀しさ
 悦楽と恐怖
  
  笑えばいい
   空の玄関は
    閉ざされ封印されているのに

  いまだ
   空を空想する
  哀れさを

   だがしかし
  これも
   ひとつの真実

  ユーモアさで滑稽に
   優雅な踊り
  さあ
   玄関を求める
  その行為に
 祝杯をあげて
  乾杯してやるのさ

   息をしているのだ




  
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疑惑

2005-11-25 | 

 戻れるものなら
  
  戻りたいですか?





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友達だった

2005-11-14 | 
あんな奴ら死んでしまえばいい
そう言った君の横顔が
あまりに気高かったので
なんだか嬉しかった
真夏の午後

僕らは校庭に
ふたりぼっちで立ち尽くしている
木陰に逃げることのない僕らの
白い
白い半袖シャツは
もう 汗で
びっしょりだった
いつもね 誰かが誰かを
馬鹿にして笑っているんだ
君は僕だけに
話し続けた
まるで 熱病のように

  失われた気持ちは
  ふぞろいだ
  いつのまにか
  月日が流れている
  そして君だったなら
  けっして木陰に入らなかっただろうなと
  思い出したりするんだ
  僕は
  いろんなものを 
  見捨ててしまった

   戻れはしないから
   紙煙草をくわえて
   ゆっくり火をつける
   陽光にうかびあがった
   うすむらさきの煙は
   いろんな風に
   形をかえて
   だから僕はやるせない

    さんだるばきの
    君の姿が消えてしまってからも
    君の声は
    いつまでも耳に残った


     僕は
     何をしていたんだろう





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2005-11-14 | 
雨だ
 降りしきる  
  煙草屋の軒下に逃げ隠れして
 バレないように辺りを見渡し
 急いで煙草に灯をつけた
何時かの午後
 学生服に匂いがつかないよう
  細心の注意を払いながら

隠れてする
 秘密めいた行為には
  なんともいえぬ
   快感があるのは周知の事実だが

  いまはいつだって口にくわえる
   煙草
 でも
あのころの一服はとても美味かった

  ゆっくり煙を吸い込みながら
 
    雨の音楽に
    身をゆだねる



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月光

2005-11-07 | 音楽
月が綺麗な夜は、なんだか嬉しい。
月の満ち欠けが人の心に影響する、と昔のお医者は考えていたらしい。
あながち嘘ではないような気がする。

 フェルナンド・ソルの練習曲のなかにとても有名な曲がある。
 後世、「月光」と名付けられた。
 とても美しい曲だ。
 クラッシックを始めて幾年が流れて、僕もやはりこの曲を弾いてみた。
 指はついていった、でもそれは音楽ではなかったような気がする。
 あれから数年がたった。
 時間が解決してくれたものもあった。
 もちろん、失う大きさも。

 今なら、あの月の神秘的な感覚で弾けるだろうか?

月が綺麗な夜は。
  なんだか泣きたくなる。

     そんなもんだ。



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play or die

2005-11-01 | 音楽
80年代、早弾きギタリストのテクニックの競争は激化していた。
マイク・ヴァーニーのシュラプネルレーヴェルはその象徴だった。イングヴェイの数多くのフォロワァー達。出すアルバムが飛ぶように売れていった。だがしかし、確実にテクニックだけではない、と思えるギタリストももちろんいた。
ポール・ギルバート、レブ・ビーチ、ヌーノ・ベッテンコート、ヴァーノン・リード、ジェフ・ワトソン、ブラッド・ギルス、スティーヴィー・サラス、トニー・マカパイン、グレック・ハウ、マイケル・リー・ファーキンス、・・・。
彼らが、その情熱を自らの非凡なテクニックで昇華させていた頃、今は巨匠となったスティーブ・ヴァイは(レベッカでも一曲、ソロを弾いている)、アルカトラスからデイブ・リー・ロス・バンドで新たな境地を模索する。その師、サトリアーニはスチュワート・ハムのソロアルバムで新しい方向性を垣間見せていた。

しかし、いつしか早弾きが飽和状態を見せたとき、世界のロックシーンは変化した。ハードな早弾きで美学を追い求めたり、感情を表現するよりも、テクニックを兼ね備えながらあえて必要とされない音楽が好まれるようになった。それは、時代の自然淘汰なのかもしれない。あるいは求められる音楽の好みの趨勢なのだろうか?僕にはわからない。ただ僕も、この頃からハードロックの新譜をあまり手にすることがなくなった。
僕はクラッシック・ギターの親密な生音に魅了された。そうして月日は流れた。

ある日、友人から一枚のCDをプレゼントされた。
それが、「play or die」だ。
初めて音を耳にした瞬間、懐かしい気持ちになった。その超絶テクニックの嵐にはまさに脱帽だ。ギターはこれでもか、というくらいに弾き倒しフレットレス・ベースは低音をしっかり支えながらも平気で高速ユ二ゾンをびしばし決めてくる。トリオのインストバンド。怖いくらいのテクニック。
しかし、一度は離れた音楽。どうしてこんなに新鮮に感じるのだろう?
まるで、忘れ去られた吉野家の牛丼にありつけたかのように・・・。奇妙に惹かれる。耳を奪われてしまうのだ・・・。

今の音楽シーンへの苛立ちがこのおかしな現象を引き起こす。
必要とされなくなったテクニックは、その反動でテクニックがなくても売れる音楽を散布した。まるで、戦後、GHQが撒き散らしたDDTのように・・・。
そうして、誰しもが手軽に出来る作曲や、音楽とはあまり関係のない音楽産業が構築された。必要性があるから売れるのだろう。

   だけど僕は嫌だ。
    はっきり云う。苦手だ。

そんな時代だからこそ、「play or die」の演奏に吸いつけられた。
ギターの「溝畠 一輝」のソロアルバムが発表されたらしい。
  シュラプネルを意識した・・・とのこと。

 今、シュプラネルを意識する、と公言するギタリストもすくないのではないか?
もっと聞こえの良さげな、仰又しい文句が出てきそうなもんだ。
 でも、そこに自らの「音楽」への自信が垣間見える。
時代に左右されないほどの、御自分の表現方法をお持ちなのだろう。
僕は、まだこのアルバムを耳にしていないので、えらそうなことは本来何もいえない。
    でも。
    長い時間の流れのなかで
     自身の音楽を貫かれてきたであろう、強い意志。

    「play or die」の頃と今。

    是非、耳にしたい。
    そして、こんな方が埋もれている不思議に驚くのだ。

    アルバムと購入方法については、このギタリストを僕に教えてくれた、友  人、TOMMYさんのページ、「変態のつぶやき」まで。
もちろん、僕なんかよりも詳しく、愛情をもってこのバンド、ニューアルバムについて書かれています。ぜひ、この文章をみられた方がいらっしゃるなら、足を運んでみてくださいね。

  しかし・・・。
  驚異的なテクニック。
  音楽性。

     びっくらこきました。
    
      日本も広いな~・・・。




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