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「権力と金」は政治家の力量『英国外交官のみた幕末維新』

2023-12-21 07:43:00 | 歴史から学ぶ
@そもそも薩長土肥の武士の「攘夷」とは幕府側への内乱工作であった事、討幕の為の陰謀含めた策略家が薩長に多かった、と言う。長い「鎖国」から外国人襲撃事件など情報が乏しかったことを薩長はうまく利用し、権力と富を手に入れたのだ。侍の風習「切腹と帯刀」禁止には犠牲と法的交付まで時間が掛かったとある。1868年のイギリス公使暗殺事件後即、天皇が「外国人に対する殺害、侮辱に対する主旨」を自ら公布したことは宮殿、新政府の大きな変革だったに違いない。だが現代、「権力と金」を握った政治家を精査判定・裁判する上の組織(米国のような公聴会)がないことは今後大きな日本のマイナスになるだろう。
『英国外交官のみた幕末維新』A・B・ミットフォード
「概要」「アーネスト・サトウの盟友」の回想録 1866年~1870年、幕末の大動乱を目撃したイギリス人ミットフォード(外交官)が維新期の4年間を我国で過した英国外交官の眼が捉えた臨場感あふれる記録である。明治天皇・徳川慶喜との会見、時代を先導した藩主や志士達との交流、外国人襲撃事件、維新の波の中に迸(ほとばし)り出る民衆の底力等を鮮明に綴る。「外圧」にゆれる現代日本にとっても示唆に富む貴重な史料である。
ミットフォード外交官の役割は通訳、翻訳、さらに法令等への意見を述べること、とある。内容は大きく2つ:昔ながらの風習を近代的な法にすること、宗教(キリスト教)に対する疑念を削ぐ事。
ーフランス・レオン・ロッシュ公使(1864年4月来日~1868年6月)vsイギリス・ハリー・パークス公使(1865年~1883年)との支配権争いの駆け引きが多い
幕府側はフランス、薩摩長州藩側はイギリスを選択両国の支配権争いに火花が飛ぶことになる
ー徳川慶喜の支援の下、フランスは造船所、築港、兵器廠などと軍隊への努力、だが米国ペリー来日から雲行きが変化し始める(薩長が動き始める)
ー武器商人トーマス・グラバー(1859年長崎にグラバー商会設立~1911年)交流があったのは伊藤俊輔、井上聞多、五代友厚、寺島宗則等を永極留学させ武器輸入・販売を手がけた
徳川慶喜将軍時にパークス公使が謁見し、将軍の貴賓室の高価で貴重な絵画(三十六歌仙の肖像画)をもらった時の慶喜の言葉「もし後になってその空間が空いているのも見ても、そこにあった絵が、今は英国公使の家に飾られていると考えれば、きっと嬉しいと思います」
加賀武士と藩主の印象「薩摩や土佐の侍のように毛だけだしい戦士ではなく、長州の指導者のように抜け目のない策略家でもない。非常に感じが良く、親切で好意的、おとなしく穏やかなように見える」
薩長土肥の陰謀、それは外国人を襲って殺害することで幕府を混乱させる意図があり、徳川将軍との条約諸国とを反目させる目的があった。真意は外国との交際を好んでいた、と言う。
ー幕府側が江戸薩摩屋敷を焼き討ちにしたのは13代将軍の未亡人、薩摩姫君が薩摩藩士により誘拐されたことによる復讐として襲撃した、とある。
大政奉還後の徳川慶喜は大阪城からアメリカ船イロクオイ号で江戸に逃げ帰った。その時伏見にいた幕府軍は約1万人、薩長は6千人いたと言う。幕府の総司令官(慶喜)の裏切りで幕府側の敗退となった、と言う。
ー1868年年3月23日パークス公使らと天皇との最初の謁見では攘夷党二人による謀殺事件で日本人の千五百人の護衛は逃げ出し、70人の英国護衛隊が一人を殺害し、一人を捕縛した。これを受けて新政府は狂信者的行為を根絶する為に外国人を殺害、侮辱することは士族の籍を抹消、切腹の特権を与えず重罪犯人として処刑し、財産没収、一家断絶、晒し者にすると布告する。後日27日謁見が行われたが古風な風習、眉は剃られ、額の上により高く描かれ、頬には紅、唇は赤と金を塗り、お歯黒の成り立ちだったが、その後は天皇の意向で全部追放したという。武士における2つの難問:切腹と帯刀(当初賛成した3名臆病者と罵られ殺害、200名が反対した)
ー1869年ビクトリア女王の第2王子エジンバラ公来日。全ての道、建物など悪霊のお祓いするなどの古風な風習を踏襲させ、宮殿以外(浜離宮)での能の特別公演、相撲、踊り、手品「蝶々さん」が行われた。



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