Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

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あの日から8年-僕も、僕が大嫌いだったから…

2018-07-15 01:40:24 | 哲学と思想と人間学

あれから8年…

上の画像を見て、8年と綴れば、分かる人には分かってもらえるでしょう。

32歳の若き才能あるロックボーカリストがこの世を去った。

僕の弟と同い年なので、生きていれば、今年で40歳になっていたはずだ。

もし彼が生きていて、今の時代に40歳を迎えていたとしたら…

何をどう感じていたのだろう?

きっと、吐き気なんてもんじゃないほどの苦痛を感じているのだろうと推測する。

あるいは、もう絶望を超えて、シニシズムの世界に入り込んでいたかもしれない。

僕的には、それでも、彼には生きてもらって、叫び続けてほしかった。

でも、叫び続けるのは、あまりにもしんどい…。

***

最近、僕も色々と取材やらなんやらを受けるようになった。

そこで、「どうして研究者になったんですか?」と尋ねられることもしばしば。

僕が、「昔、ヴィジュアル系(の前の時代の)バンドをやってたんです」というと、みんな、目が点…(苦笑)

面影なんて、0.1ミリもないですからね(苦笑)

しかも、研究のテーマが「赤ちゃんポスト」…。

どこからどう考えても、つながらない…(;´・ω・)

けど、僕の中では<完全に>つながっている。

ヴィジュアル系に詳しい人なら、分かってもらえると思う。

「捨て子」「子殺し」「近親姦(incest)」「中絶(児)」「レイプ」「心中」「虐待」「自殺」「胎児」

ヴィジュアル系バンドが扱うテーマ群だ。

歌謡曲や歌謡ロックや商業ロックが、お昼の人間のために歌うとすれば、

ヴィジュアル系は、真夜中の人間のために歌う。

幸せな人間に届く必要はないし、極限の状況にある人にだけ届けばいい。

孤立した人、絶望した人、苦悩している人、生と死の間にいる人、

そういう人のためだけに存在していれば、それだけで存在理由が満たされる…

ただ…

バンドの人気が落ちるのは、想像以上に早い。

あっという間に、沈んでいく…。

音楽は世代の壁を超える、というのは、ダークな世界では通用しない…。

ロックの世界で、叫び続けるのは、本当に難しい。

今の若者は、ラルクも、グレイも、LUNA SEAも、みんな聞いてない。(一部のマニアは除く)

アングラとなれば、さらにもっと知らない。

わずか20年の壁さえ、超えられないのだ。

生き残ろうと思えば、お昼間世界の歌を嫌でも歌わなければいけなくなる。

お昼間世界の歌は、キレイで、お涙で、分かりやすくて、万人受けしなければならない。

消毒して、笑顔になって、手を振って、「お客様」に「ありがとう」と…

唯一、お昼の世界に完全に唾を吐き続けているのは、DIR EN GREYぐらいだろうか。

ただ、それでも、今の若い子に、彼らの叫びが届いているかどうか…。

***

20年以上前の僕は考えた。

「どうしたら、ナカユビを立てながら、毒を消さないで、若者たちと関わり続けられるだろうか」、と。

自分を偽らずに、あらゆるキレイゴトを拒否して、若者に叫ぶことを伝えるには、どうしたらよいのか、と。

何をやっても、「成果」や「結果」や「報酬」や「利害」が求められてくる。

でも、それを求めると、自分の魂をそっちに売らなければいけなくなる。

そんなことをするなら、死んだ方がマシだ、とも思った。

(金に魂を売ってる大人がどれだけ多いことか…)

とはいえ、生きていく上で、<金>は必要だ。

必要以上のお金は要らないけど、最低限の金は得なければいけない。

20歳を過ぎた頃の僕は、真剣にそのことを考えた。

どうしたら、魂を売らないで、生きて(生活して)いけるのか?、と。

もちろん、その根っこには、夜や闇の中で苦しむ若者に力を与えたい、という想いがあった。

自分が、当時のダークなロックに救われたように、ロックで誰かを救いたかったから。

でも、ロックだと、自分が歳を取った時に、若者を救えない、とも気づいていた(気づかされた)。

あるロック音楽関係の先輩に言われた。

「ロックで若者を救う? オマエ、ホント甘ちゃんだな。オマエ、だいたい40歳、50歳のおっさんの音楽を聴いているか? 聴いてねーだろ。同じ世代、ちょっと上のお兄ちゃんのロックを聴いて、感動したんだろ? それがリアルなんだよ。オマエがおっさんになった時に、その時代の若者が、オマエの歌を聴くと思うか? 若い時しか、ロックは若者を救えねーんだよ。若者を救いたいという気持ちの方が強いなら、ロックなんてやめちまえ。夢見てんな…」

と。

で、その人に最後に言われたのが、「オマエみたいなやつが、大学に行けよ」の一言だった。

***

「なんで、研究者になったんですか」。

この質問を受けるたびに、こうしたことを思い出す。

僕は別に、学者として成功したいわけじゃないし、先生先生とチヤホヤされたいわけでもないし、本が売れて有名になりたいわけでもないし(ちょっとは売れてくれないと、次出せなくなるけど…(;´・ω・))、学会で論文が認められて、評価されたいわけでもない。新聞やテレビに出るのも決して悪い気はしないけど、それが目的になることはないし、こっちから出たいとアピールする気もない。

中学の時に味わったあの苦痛から、ああいう苦痛を感じている子どもや若者たちを救いたい、助けたい、力を与えたい、それだけが僕の「夢」だった。だから、「教師」と「心理士」の両方をマスターして、そういう子たちのために生きていこうと考えた時期もあった。影の世界にいる子どもたちに寄り添えるようにと、教育学、社会福祉学、心理学を全部学んで、そしてボランティア活動もいっぱいやって、理論的にも、実践的にも、自分の力を高めていこうと思っていた(大学時代)。

けど、またしても、別のとある人に言われた。

「オマエは、一人の子どもを救いたいのか。それとも、一万の子どもを救いたいのか。一人の子を救いたいなら、実践現場に出ればいい。けど、オマエは、研究もできる。研究者は、研究次第では、一万の子どもを救えるんだぞ。一人の子を救うことはとても尊いことだ。すごいことだ。けど、それは、オマエでなくてもできる。一万の子どもを救える人間になる気はないのか? 甘ちゃんだな」

と。

そして、研究者という道を「選択」した。

今の自分の研究や教育が、一万の「闇」の子どもたちを救うことになっているのかどうかは分からない。ただ、実際、赤ちゃんポストの研究を通じて、(まだまだだけど)少しだけ、児童福祉の発展?に寄与できたとは思っている。また、自分の教え子たちが、次々に、乳児院や児童養護施設や母子生活支援施設や障害児施設に行ってくれている。僕の下で学んだ子たちが、そういう子どもたちのために尽力してくれている。そのすべてを数えると、1万に手が届くかもしれない…

でも、それで満足するわけじゃない。

真夜中に、ひざを抱えて、独り何かに怯えて、朝が来ることに怯えている子が、一人もいなくなるその日まで、僕の戦いは続くと思っている。もちろん、「夜回り先生」みたいなあんな神めいたことはできないけど、今の自分の持ち場で、できる限りのことはしたいと思う。今年も、「こっち」の世界に飛び込もうとする教え子たちがいる。

***

彼が亡くなって、8年。

彼が残した歌を聴きながら、色んなことを考えた。

でも、彼の歌を聴きながら、僕自身の<原点>に立ち戻れた気もした。

僕も、僕が大嫌いだった。

だから、僕も、dislike meって叫んでた。

顔も、体も、心も、吐き気がするほど、壊したかった…。

(特に体への吐き気は半端なかった…)

彼のこの曲を聴き続けて、

そして、僕は今の僕ができることをしぶとく続けていこうと思う。

彼の死から、僕は多くを学んだ。

これからも、彼のことは忘れないで、この道を進んでいく。

Comment

地下鉄サリン事件から学ぶ-「拒否すべきだった」ができなかった-

2018-07-07 08:55:26 | 哲学と思想と人間学

麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚の死刑執行…。

遂に、この日が来てしまった。

1995年の地下鉄サリン事件から23年。

遂に、一つの「ピリオド」が打たれた…。

これで、終わりではない。

これからも、僕らは「オウム」の「亡霊」と向き合わなければならない。

***

なぜ、あのような悲痛な事件が起こったのか。

その真相は解明されることなく、麻原氏の死刑が執行されてしまった。

もう、あの事件の真相を知る術はなくなった…。

でも、僕は、悲観しない。もの

恐らく、死刑が執行されようと、されまいと、彼は「沈黙」するだけだろう。

生きていれば、もしかしたら真相を語れる日が来るかもしれない。

けど、その可能性は極めてとても低いものだっただろう。

それに、きっと、麻原が何を語っても、僕らが納得する答えは出てこないだろう。

あの事件に、「正しい解答」はないんだと思う。

ただ、僕らが求めている「真相」というのは、ひょっとしたら極めて平凡なものかもしれない。

今日、僕は色々と考えて、…

「きっと、あの事件の<真実>はごく単純なものなのだろう」、と思うに至った。

そのことを書き残しておきたい。

***

先ほど、報道ステーションで、気になるコメントが出されていた。

早川紀代秀死刑囚の手記だ。

ネットでも、そのことに触れる記事があったので、引用したい。


07/06 22:33 テレビ朝日 【報道ステーション】
早川死刑囚からの手紙「私が教祖に従った理由」
オウム真理教の一連の事件で死刑が確定している13人のうち教祖・松本智津夫死刑囚(麻原彰晃)を含む元幹部7人の死刑が執行された。
スタジオでテレビ朝日デスク・清田浩司が解説。
早川紀代秀死刑囚からの手紙を紹介「良心を覚醒させ拒否すべきであった。でも、そういったことができなかったからこそ、私を含め、多くの高弟たちが事件に関与した」。
残る死刑囚は岡崎一明、横山真人、端本悟、林泰男、広瀬健一、豊田亨。
警察庁・国松長官事件、高橋克也受刑者、マインドコントロール、洗脳、化学兵器、サリン、VXガス、テロについて言及あり。

引用元はこちら


早川死刑囚の言葉に、地下鉄サリン事件の本質が示されているように思えてならない。

良心を覚醒させ拒否すべきであった。でも、そういったことができなかったからこそ、私を含め、多くの高弟たちが事件に関与した

僕は、オウムの一連の事件の本質=真実は、彼の言葉に即せば、「拒否できなかったこと」にあると思う。

信者たちは、麻原の命令を拒否すべきだったのに、拒否できなかった。

だから、あんな事件が起こった。

ここに、「権威主義」の問題点と、「反権威主義」の重要性が示されているように思う。

 

拒否すべきだった。

でも、できなかった。

麻原の命令に従うしかなかった。

拒否することなく、麻原の命令に従った。

恐らく、早川死刑囚も、こう言っただろう(思っただろう)。

「私はただ、命令に従っただけだ」…。

これで、分かる人には分かってもらえるだろう。

オウムの一連の事件の問題は、ヒトラーに忠誠を誓ったアイヒマンとほぼ同じだ、と。

「私はただ、(ヒトラーの)命令に従っただけだ…」

 …

今日、早川死刑囚の言葉が聴けてよかった。

やはり、立ち向かうべきは、「他律」であり、

求めるべきは、「自律」なんだ、と

なぜ、地下鉄サリン事件みたいな恐ろしい事件が起こったのか?

それは、かつてのオウムのメンバーが「アイヒマン状態」だったからだ…

(若干、異なる点も幾つかありますが、そこはあえて無視します)

組織のトップを「忖度」し、そのトップの意向(空気)を読み、

そして、トップに対し、忠誠を誓い、トップの命令に従う…

(日大アメフト部のあの事件もまた同じ構造だったか…)

「良心なき服従」…

かつてのヒトラーが国民に対して求めたことだ…

やはり、権威ある人間に盲目的に盲従することほど怖いものはない

そのことを指摘するツイートもあった。

***

あのオウムによる地下鉄サリン事件から、僕らが学ぶべきこと。

それは、他律的に生きることの恐ろしさ、だろう。

そして、それと同時に、自律性(同調しない力)を強めること

僕らみんなが、自律性を有する努力を続けることをしっかりやることで、

あの忌々しい地下鉄サリン事件を二度と繰り返さないことが可能となるだろう。

<同調しない力>を得ることが、この事件から学ぶべき最大のポイントではないだろうか…。

同調する力、すなわち他律の危険性を繰り返し訴え続けることこそ、

僕らに課せられた義務であり、責任であると思う。

また、権力や権威を手にした人間は、その下の人間の自律性をしっかり尊重すること。

おごれるもの久しからず。

権力や権威を手にした人間の責任についても、考える必要があるだろう。

麻原も、ヒトラーも、内田前監督も、その責任を全うしなかった。

 

PS

だから、僕は今後も、自律性を強く要請し続けていこうと思う。

NO!と言える人間を育てる教育学に命を賭けたい、とも思う。

組織やそのトップに、無批判的に従順になるのが、この国の人々のメンタリティーだ。

そこを批判し続けることが、僕のライフワークなのだろう。

(まぁ、だから、社会的な出世はもう無理だな…(;´・ω・))

「一教師」としても、今後もっともっと学生たちに「自律性」を求めるようにしたい。

それこそが、二度とあのような事件を繰り返させないための方法となるんだろう、と。

Comment

ナカユビ精神を呼び起こそう-反権威主義的子育て論-

2018-06-22 12:19:15 | 哲学と思想と人間学

僕の学問的バックグラウンドにあるのが、「反権威主義」。

Antiautorität

英語だと、Anti-authorityですね。

今日の講義では、この反権威主義について熱く語りました。

(赤ちゃんポスト、ユルゲン・モイズィッヒとの関連で)

***

先日起こったあの結愛ちゃんの悲しい虐待死事件。

あの事件には、僕らが「教訓」とすべき学ぶべき事柄がいっぱいあります。

その一つが、「権威主義」の怖さ、親の権威主義的子育ての恐怖です。

僕は、あの結愛ちゃんの「文章」に、非常に日本的な権威主義的子育てを看取しました。

権威主義者は、権威には跪き、そして、下の人間には権威を振りかざします。

権威主義者は、権力者や有力者にモノを申すことはなく、自分より弱い人間を支配します。

自分を支配する人には従順で、自分が支配できる人には威圧的で…。

この問題を、どう語ればよいのか。

僕がそこで、使おうと思ったのが、

ナカユビ

という概念(!?)でした。

ナカユビといえば、この曲です。

オーディエンスの皆さん、中指を突き立てています。

この精神です。

今、僕たちが忘却しかけているのが、この「ナカユビ」ではないでしょうか。

実際に誰かに対して、中指を突き立てるかどうかは問題ではありません。

そうではなく、「FXXK!」と叫ぶその精神であります。

かつて、ヤンキーブームみたいなものがありました。

いわゆる「ヤンキー」たちは、主に教師を「権威」と見立てて、教師に抗いました。

BOOWYの「SCHOOL OUT」の精神、ですね。

あるいは、かまいたちの「かMARCH」精神!?

この曲の歌詞、今の若い子たちに何気にとっても当てはまる気がしてなりません。

20年以上前の曲なのに…

でも、30年前、20年前と違い、教師の権威性は失墜しました。

もう、今や、教師に権威など、微塵もありません。

子どもたちも、教師には全くビビッていないでしょう(一部を除く)。

けど、「親」となると、話は違ってきます。

今の子たちは、「親」という権威に完全に支配されている気がするんです。

「教師」と違って、「親」ですから、なかなかナカユビを立てることはできません。

(尾崎風に言うと、教師からは卒業できても、親からは卒業できない…といいますか…)

教師の権威が失墜した一方で、親の権威性はますます威力を強めているように思うんです。

抵抗すべき存在が、もっとも愛している存在、という「ねじれ」。

若者たちにとっては、ぶっちゃけ「安倍首相」(比喩として)に権威なんて感じていないんです。

「国」に権威なんかも感じない。「教師」にも感じない。

そうではなく、「親」という圧倒的な存在だけが、彼らにとって問題になっているんです。

これは、今の若者たちとリアルに付き合っている人なら分かる感覚だと思います。

かつてのように、国家や官僚や首相や警察や教師に対してナカユビを立てるのとはわけが違うわけです。

かつての学生運動やヤンキームーブメントの頃とは、怒りの対象が違っているんです。

対象が親…

先日起こった新幹線内での殺傷事件の小島一朗氏も、親の権威性の問題を孕んでいました。

父親は、「厳しく躾けた」といい、その結果、彼は「死刑になりたいからやった」、といいます。

これが「父親」でなければ、彼もまた戦えたかもしれない。

けど、(権威の対象となる)相手が親となると、彼自身、無意識の中で混乱するはずなんです。

愛しているけど、殺したい…。

その結果が、おそらく「死刑になりたいからやった」なのではないか、と思うのです。

***

今、僕らがリアルに学ぶべきことは、「ナカユビ精神」ではないでしょうか。

ナカユビ精神があれば、「ブラック企業」なんてぶっ飛ぶんです。

「そんなクソな会社、辞めたるわ! Fxxk!」って。

ナカユビ精神があれば、「過労死(Karoshi)」もぶっ飛ぶかもしれません。

「愛社精神?クソだ。残業、知るか? 文句あるなら、辞めたるわ」って。

ナカユビ精神があれば、「パワハラ」だってぶっ飛ぶはずなんです。

「パワー? うるせーよ。権威をかざして、エラソーに文句たれんな」って。

強固なナカユビ精神があれば、「毒親」だって、捨て去れるんです。

「産んでくれたことだけは感謝してやる。でも、GOOD BYE、毒親!」って。

もちろん、人間は社会的な生き物だから、全部にFxxk!とは言えません。

けど、精神においては(心の中では)ナカユビはいつでも立てられます。

そういう精神が、今、消えかかっているように思います。

権威にすがらないで生きていく。

Free will(自由意志)の精神で生きていく。

オートノミー(自律=Autonomie)の精神を貫く。

難しいことだけど、シンプルではあるんです…。

一言で言えば、

Rebell Yell

こういう精神こそ、今の時代に必要なんじゃないかな、と。

そして、こういう精神をもった人だけが、下の人間に真に優しくなれる、というか…。

反骨精神をもった大人を増やすことが、結果として子どもを守ることになるのでは?、と。

本当に強い人は、自分より弱い人を支配しようとは思いません。

本当に強い人は、子どもを自分の支配下に置こうとはしません。

本当に強い人は、自分より強い人に牙を剥きます。

虐待通報がどんどん増えていき、そして、ますます親の権威性が強まる今、

僕らは、僕らのアプローチを変える必要があるんじゃないかな、と思うに至りました。

最後に…

ってことで、、、(;´・ω・)

 

人生なんて、ホントあっという間。

やれることなんて、たかが知れてる。

だったら、もっと自由にやっちゃえばいい。

そういう人間だけが、他人の自由も尊重できる。

茨木のり子さんの言葉で終わりにします。

自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」!

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今や日本は世界で四番目に「外国人移住者」の多い国に!

2018-05-30 22:11:14 | 哲学と思想と人間学

僕のおじいちゃんがかつて働いていた「西日本新聞」のネット記事で、見過ごせない話が出ていた。

その記事は、こんな話でした。


 人口減と少子高齢化による人手不足を背景に、日本で働く外国人が増え続ける中、経済協力開発機構(OECD)加盟35カ国の最新(2015年)の外国人移住者統計で、日本への流入者は前年比約5万5千人増の約39万人となり、前年の5位から韓国を抜いて4位に上昇した。OECDの国際移住データベースから判明。日本が事実上の「移民大国」であることが浮き彫りになった。日本語教育の推進など定住外国人の支援策が急がれる。

 国際移住データベースは、世界約200の出身国・地域別に1年間のOECD加盟35カ国への外国人移住者を集計している。日本への移住者は「有効なビザを保有し、90日以上在留予定の外国人」を計上しているという。

求められる共生政策の充実
 15年のトップ10は(1)ドイツ(約201万6千人)(2)米国(約105万1千人)(3)英国(47万9千人)(4)日本(約39万1千人)(5)韓国(約37万3千人)(6)スペイン(約29万1千人)(7)カナダ(約27万2千人)(8)フランス(約25万3千人)(9)イタリア(約25万人)(10)オーストラリア(約22万4千人)-となっている。

 日本は10、11年の7位から12~14年に5位、15年は4位と徐々に上昇。外国人流入者は5年間で約12万人増えた。15年の日本への移住者のうち、国・地域別で1万人を超えたのは、多い順に中国▽ベトナム▽フィリピン▽韓国▽米国▽タイ▽インドネシア▽ネパール▽台湾-だった。

 政府はこれまで、建前上は労働移民の存在を認めてこなかった。現実には途上国からの留学生を含めた外国人労働者が欠かせない存在となっており、生活者として受け入れて支援する共生政策の充実が求められている。

引用元はこちら


この記事は、今後の日本を考える上でもとても重要だ。

日本は今や、世界で四番目となる「外国人移住者の多い国」となっているのだ。

ドイツによく行く僕からすると、まだまだ「外国人が少ないなぁ」という印象はぬぐえないけど、データ上では、世界で四番目に外国人移住者が多い国になっている。スペインやカナダやフランスよりも、日本の方が外国人移住者の数で上回っているのだ。

もし、北朝鮮がアメリカとの関係をうまく構築できたとしたら、そして朝鮮半島の安全が戻ったら、北朝鮮から多くの人たちが南に向かうことが予想されている。当然、その先には、「日本」がある。

(そして、日本は今後、超ウルトラ高齢社会を迎え、労働力不足はさらに深刻になる…)

北朝鮮はともかく、東南アジアからの「移住者」は今後もさらに増えるだろう。

日本は、やっぱり「住みやすい国」だと思う。水は綺麗だし、トイレも綺麗だし、犯罪も少ない。

なんといっても、日本のパスポートは、「世界一の力」をもっている。

世界各地をめぐり、改めて思う。「日本はやっぱりいい国だ」、と。

(労働環境だけは本当に酷いけど、、、)

では、海外から「移住者」として日本にやってくる人にとって、住みやすい国になっているかどうか。

外国人のための語学学校はどれだけ充実しているか。

外国人のための教育支援や福祉的支援はどこまでやれているか…。

今後は、教育学や福祉の観点からも、この問題をしっかり考えていかないといけないと思う。

大事な話なので、ブログでも書いておきました。


追記

移民の受け入れを長年行ってきたドイツの「移民政策」についての記事も引用しておきたい。


 …

 90年代にはベルリンの壁が崩壊し、冷戦終結も伴い、多くの難民が再び流入するように。また、少子化やIT業界が発展しつつあった90年代後半から労働力不足になり、移民を受け入れるべきだという声が再び高まる。

 そして、2000年に当時のシュレーダー首相がグリーンカード制度を導入、発展途上国から技術者の受け入れを進めた。

 その後、2001年には移民委員会が設置され、2005年には新移民法が制定、これにより、外国人は必修でドイツ語やドイツ文化を学ぶコース(統合コース)を受講するなど、本格的に移民受け入れが進められるようになっていった。

 1960年代の移民政策は、戦後復興による労働力不足を補うためにトルコなどから期間限定で外国人労働者を受け入れようとしたものだったが、外国人労働者はそのままドイツに定住することになった。本来、一定期間働いたら祖国に帰し、他の労働者を採用する制度(ローテーション原則)であったが、一度経験を積んだ労働者を企業側も離さず、結果的にそのまま定住し、家族を祖国からドイツに移住させた。

 このローテーション原則は1973年に終了したが、一度帰国してしまえばもうドイツに住めなくなるため、かえって移民がそのまま定住することに。

 しかし、これらの定住した移民は、ドイツ語が話せないなど社会に溶け込めず、失業率の高さなどが社会問題となった。2009年には外国人の失業率は12.4%とドイツ人の2倍、中途退学率も13.3%とこれもドイツ人の2倍となっている。

 こうした現状に対し、メルケル首相は「多文化主義は完全に失敗した」と発言し、そのために「(多文化社会をつくり移民を"放置"するのではなく)移民が社会に溶け込み、社会が彼ら/彼女らを受け入れる状況を生み出すために、ドイツはもっと努力しなければいけない」と国民に呼びかけたわけである。

 これは、移民政策に反対する、という意味ではない。この時「ドイツ語が下手な人を門前払いするようなことはすべきではない」とも発言している。ドイツ社会と移民が互いに受け入れ合うべきだというのが本音だ。

引用元はこちら

 

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南北会談の日ー朝鮮半島の平和を望みつつ・・・

2018-04-27 12:53:15 | 哲学と思想と人間学

遂に、この日が来た…

北朝鮮の金正恩氏と韓国の文在寅氏の「歴史的な対話」の日。

第二次世界大戦後に、引き裂かれた朝鮮半島。

しかも、中国とアメリカによって、あるいは歴史的な必然によって引き裂かれた半島。

引き裂かれた二か国が、共に歩み寄るかたちで迎えた今回の会談。

言葉にならない思いだ。

1950年~1953年に起こった「朝鮮戦争」。

それ以後は、「休戦状態」。

遂にその戦争に、「終止符」が打たれるかもしれない。

世界中の人が、この二人の会談に注目している。

金氏の冒頭の言葉が印象的だった。

以下、引用文。


 軍事境界線は高くもないし、簡単に越えられた。あの軍事境界線を越えて、ここにたどり着くまでに11年がかかった。なぜこんなに長い時間がかかったのかと思った。

 きょう、歴史的な場に来て、いろいろな期待を寄せる方がいる。どんなに素晴らしい合意、どんなに素晴らしい文面が発表されても、きちんと履行されなければ、こういう出会いが実現して、それでも成果を引き出せなければ、期待してくれる皆様に大きな失望を抱かせることになるだろう。

 失われた11年の歳月が意味を持つように、これから随時会って、懸案を解決し、心を一つにし、意志を集めれば、失われた11年は意味を持つのではないかと思った。

 本当に万感の思いで歩んで来た。この場で、平和、南北関係の新しい歴史、繁栄が始まる瞬間のスタートラインに立っている。スタートラインに立って、合図を打ち上げるんだという気持ちでここに来た。

 懸案、関心事について胸襟を開いて話し合おう。良い結果が導き出せるようにしよう。この場が、過去のように振り出しに戻るような、また実行に移せないようなことがないようにしよう。今後、未来を見据えて、未来志向的に、手を携えるきっかけになればと思う。皆さんの期待に応えよう。

 きょうは夕食会についていろいろ話題になっている。平壌から平壌冷麺を持って来た。大統領には良い気分で、遠くから運んできた平壌冷麺……、遠くからと言うと語弊がある。この平壌冷麺をおいしく召し上がっていただきたいと思う。

 胸襟を開いて、真摯(しんし)な対話、率直な対話をしたいという心持ちで来た。文在寅(ムン・ジェイン)大統領と素晴らしい、そして必要な意見交換をし、良い結果を導き出したい。記者団の皆さんにもお約束する。

 引用元はこちら


 

この言葉に、「嘘」はないと思う(と信じたい)。

金氏は、幼少期にスイスで過ごしており、国際感覚のある人だと僕は思っている。

そして、お若い(僕よりも年下)。

だから、「未来」を見つめていると思う。

彼も、「未来を見据えて、未来志向的に、手を携えるきっかけ」を口にしている。

そうあってほしいと願う。

太平洋戦争のきっかけも、「外圧」によるものだったと僕は思っている。

日本が一方的に「パールハーバー」に攻撃を仕掛けたのではなく、仕組まれたものだと思っている。

あの頃には、あの頃の「歴史的な必然性」があり、その中に巻き込まれたものだとも思っている。

同じように、朝鮮半島も、「外圧」によって、引き裂かれた過去の歴史を抱え続けてきた。

日本も、戦後同じように、「共産陣営」と「アメリカ陣営」とに引き裂かれる可能性があった。

その後に生まれた僕らにはどうすることもできない「歴史的必然性」がそこにあった。

そして、朝鮮半島が引き裂かれて、70年。

遂に、閉ざされていた「扉」が開かれたのだ。

彼は、「スタートライン」と言う。まさに、出発点だ。

それは、朝鮮半島だけじゃない。

朝鮮半島の和平が実現すれば、アジアの安全保障レジームが一気に動くことになる。

北朝鮮が安全保障上の脅威でなくなれば、一気に安全保障の枠組みが変わることになる。

(むしろ、中国が脅威になる?? あるいは、日本が他のアジアの脅威になる?)

いずれにしても、アジアの安全保障は次のステージに向かうことになる。

僕は、ヨーロッパ(EU)をリアルに見てきた。

ヨーロッパに憧れてきたし、ヨーロッパから色んなことを学んできた。

その観点からすると、朝鮮半島の和平以後、アジアもいよいよその入口に立てるかも、と期待してしまう自分がいる。

好きか嫌いかは別にして、もはやアジアは巨大な経済ネットワークの網の中にいる。

日本も、アジア各国から様々な物資を輸入・輸出しており、それによって利益を得ている。

最初は、アジア共同経済圏でもいい。

アジアが、ヨーロッパのように、「共に生きていける共栄圏」になれるかどうか。

二度と戦争が起こらない枠づくりができるかどうか。

一番大事なのは、仲良くすることではなく、戦争をしないエリアにすること。

ヨーロッパにも、色んな火種はあるけれど、今のところヨーロッパ圏内での戦争は想定できない。

この先、例えばドイツとフランスが、イタリアとスペインが、あるいはスイスとオーストリアが戦争するとはもはや考えにくい。

でも、ヨーロッパには、長い歴史の中で、ずっとずっと戦争をしてきた事実がある。

ヨーロッパにとって、「戦争の克服」は最大の目的であり、希望だった。

アジアも、同じように、「戦争の克服」は最優先課題であるべきだと思う。

戦争が起こらないアジア圏をどう創造するか。

それこそが、日本にとっても、最も重要なことだと思う。それこそ、「国益」だと思う。

金氏がまさか、「きょう、歴史的な場に来て、いろいろな期待を寄せる方がいる。どんなに素晴らしい合意、どんなに素晴らしい文面が発表されても、きちんと履行されなければ、こういう出会いが実現して、それでも成果を引き出せなければ、期待してくれる皆様に大きな失望を抱かせることになるだろう」と言うとは思わなかった。

散々、北朝鮮に振りまわれてきた歴史をもつ日本人にとっては、なかなか信じがたい言葉かもしれない。事実、これまでもいっぱい裏切られてきた。だから、すぐにこの言葉を信じることは難しい。

けれど、この長い人類の歴史の中で、「ずっと変わらない」ということは一つもない。変わり続けてきた。今のヨーロッパ自体が、一つの奇跡だと思うし、それとて、今後どうなるか分からない。

ただ、一つだけ確実に言えることは、「戦争ほど、悲惨なものはない」ということ。

いつの時代も、権力は暴走するし、為政者は暴君に変貌するし、国民はそれに熱狂し、異分子を排除するし、そして同じ過ちを繰り返す。

戦争が起こるメカニズムは、かなり分かってきている。

だからこそ、戦争が起こらない枠組みを創る必要がある。

今回の対談は、その第一歩ともいえるし、また本当に「スタートライン」なんだと思う。

僕は、わりと楽観している。

アジア人は、賢いと思うし、人を想う力も優れていると思う。

兵術なんかは昔から好きだけど、戦いを好む(好戦的な)人種でもないと思う。

金氏は「平壌冷麺」を話題に出していたが、僕らは基本的に「肉食系」じゃない。

だから、努力をすれば、アジアを戦争のない平和な地域にすることはできると思う。

もはや、ほとんどの人が「戦争を知らない世代」の人間たちだ。

だからこそ、戦争の脅威を忘れないで、日本を含め、広くアジアの平安を望み、そのために尽力したいと思う。

今日は、その最初の一歩の日になるのだろう。

そのことをただただ願いたい。

 

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福井県立恐竜博物館@勝山 「恐竜学」は21世紀の知の最前線だ!

2017-09-20 22:44:14 | 哲学と思想と人間学

福井県といえば???

その代表格的な場所に向かいます!

いざ、勝山へ!!

勝山駅です!

駅の前に、何やら、いますよー!!

もう、分かりますね、、、汗

今回の目的の一つ、

「福井県立恐竜博物館」

です!

20世紀後半から台頭を表した「恐竜研究」。

その知の最前線となっているのが、こちらの恐竜博物館なんです。

しかも、ただ博物館があるだけでなく、地質調査の現場にまで行けるという、、、

なお、恐竜学研究所があって、それは「福井県立大学」の付属機関みたいです。

恐竜学研究所のオフィシャルホームページはこちら

恐竜学って、ずっと「考古学」かと思ってましたが、違うんですね。

「地質学(Geographie)」に属する研究なんですって。

ティラノザウルス!!!

ブラキオサウルス、、、(たぶん、、、汗)

…なんだっけな、、、汗

恐竜の名前を覚えるの、苦手、、、

なんか、本当に居る感じがしてきます。

こんな時代があったんですね、、、

これは、マンモス!!

マンモスも、かつてこの世界に居たんですよね、、、

どんな世界だったんだろう、、、

こちらは、亀のご先祖様。

アーケロン・イスキロス。

こんな大きな亀がいたんだなぁ、、、と。。。

4mですって!!

 

こんなのも、発見されているんですね、、、

凄いなぁ、、、

ただただ、凄いなぁ、、、と。

これを見つけた人も凄いし、その時の喜びってどれほどだろう!?

もう、この美しさに、僕はみとれてしまいました。

ここまで、はっきりと残っていることもあるんですね、、、

凄いなぁ、、、

僕は、どちらかというとこういう鉱物・自然石の方が好き♪、、、

アマゾナイト、またの名を「Hope Stone」。

美しいなぁ、、、

どこに、いったい、こんな素敵な石があるんだろ!?、、、

で、水晶!!

こんなのを見つけたら、もう、失神しますよね、、、

持って帰りたいなぁ、とちょっと思いました(苦笑)

家にこんなのが置いてあったら、どれだけ素敵だろうか、、、

今回、僕が一番、惹きつけられたのがこちら!

黄鉄鉱!!!

もう、びっくり、衝撃、感動、驚き!

本当にこんなふうになっているんですかね??

イマイチ信用できない、、、

くわしくはこちらのサイトを


でも、本当の目的地は、更にその「奥地」。

恐竜博物館には、年間90万人くらいくるらしいんですけど、、、

「化石発掘体験」までやる人は、3万人ほどだとか、、、

けど、福井の恐竜博物館まで来たら、是非「発掘体験」はやってもらいたいですね。

(そう、現地の人が言ってました!)

専用のバスで、発掘現場に向かいます。

一般車両の進入が禁止されているエリアなんです。

「恐竜出没注意!」!?!?!

マジ!?

またあった!

恐竜出没注意!、、、(;´・ω・)

こちらが、日本の恐竜研究の最前線!!

日本の恐竜の化石のほとんどが、ここから出てきているんだとか、、、

今なお、日々、化石の発掘が行われています。

こういう研究もあるんだよなぁ、、、

かなりハードな研究ですよ、、、、

1億2000万年前の世界、、、

白亜紀の世界、、、

この頃は、「日本」も「朝鮮」も「中国」もなかったんだ、、、

大陸の一部だった。。。

この数年、「日本」「日本人」に固執する人が増えてきているけど、、、

地質学的には、どう考えても、「同じ種族」でしかない、、、

1億年レベルで考えれば、所詮、人間なんて、ただの弱い「生物」の一種。

この先の1億年を想定して考えれば、「人間」なんて、やがてすぐに滅びる生物なんだろう…

一般の人は、発掘の<現場>ではなく、その現場でとれた石に触れます。

本当に、石を砕いて、その<中>を確認するんです。

何かがいるかもしれない…

研究員の人に、発掘の仕方を教わります。

こんな経験、ここでしかできません!!!

***

また、いつか、恐竜博物館&発掘体験、したいな!!

続いて、恐竜博物館のグルメレポ!!!

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「東京行進曲」と「夢淡き東京」-古い東京の街並みを眺めながら…

2017-07-29 15:36:58 | 哲学と思想と人間学

 

岩波新書の『歌謡曲』の一番最初に出てくるのが、こちらの「東京行進曲」。

日本の歌謡曲の誕生時期に、ヒットした曲。

この曲が、ある意味、日本の歌謡曲の原点とも言える。

こういう曲を今風にアレンジして、リメイクする、というのも、ありかな、と。

あと、、、

この動画の映像が素晴らしい。

この頃にタイムスリップすることはできないにしても、この時代の銀座を歩いてみたいなぁ、と思った(そういうことを書いているコメントもあった)。

日本も、昔はこんなだったんだなぁ、、、と。

なんか、僕も40年生きてきて、ますます忙(せわ)しくなってきて、過去のノスタルジーに酔うようになってきたみたい。

「昔の日本はおおらかで自由でよかった」みたいな発言もあるけど、かつては今よりももっともっと泣いている人たちも多かった。人権が踏みにじられている人も多かった。殺されている人も今よりもはるかに多かったし、犯罪だって今とは比べ物にならないくらいに多かった。(というデータは無数にある)

過去は過去。

今は今。

でも、たま~に、過去の映像と音楽を聴きながら、心の中でタイムスリップするのも悪くないかも!?

よかったら、この動画を見ながら、戦前の日本の銀座の雰囲気に浸ってみてくださいね♪

***

そして、もう一曲。

日本の歌謡曲の創始者?の一人、藤山一郎先生の歌。

昭和22年の歌というから、戦後直後の歌謡曲、か。。。

この曲もまた、今、歌を創る人間として、じっくり聴いておきたいなぁ、と思い、、、

言葉が本当に綺麗。

メロディーも、色々と展開があって、最後まで飽きずに聴けるのがポイントかな?

ドラムがなくても、ちゃんと歌として、ポップスとして成立しているのが凄いなぁ、と。。

ホントなら、日本人なら、居酒屋とかでみんなでこういう歌を歌い継ぎたいところ。

歌謡曲って、本当にいいなぁ、、、(;;)

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リアル脱出ゲーム@ナゾビル(下北沢) 体験型のゲームに未来を感じた!!

2017-07-07 21:10:59 | 哲学と思想と人間学

みなさん!

突然ですが、「リアル脱出ゲーム」って知っていますか?

僕は、知りませんでした。

が、たまたま、教え子の一人がこの業界に入り込んでいて、、、

招待?されて、行ってきました。

基本、ゲームは嫌いじゃないので…(苦笑)

***

このリアル脱出ゲームというのは、体験型の謎解きゲームみたいです。

ないしは、頭と体を同時に使う新感覚のアトラクションゲーム。

かなり、頭を使うゲームですね。しかも、体もいっぱい使う、という。

YouTubeでこんなのがありました。

これだけだとよく分かりませんけど、、、

こんな感じで、全国的に広まりつつあるみたいです。

教え子が働いているのは、下北沢にあるこの「ナゾビル」。

ナゾビル、という名前がいいですねー。

日々、このビルの中、そして外で、色んな企画ゲームが行われているみたいです。

この日は、ここでは書けないのですが、とあるゲームに参加しました。

これが、面白かったww

与えられた指令に基づいて、謎を一つ一つ解いていく。

その謎を解くと、また次の謎が出てくる。

最終的なゴールはあるんだけど、そこにたどり着けないこともある。

だいたい、こういうアトラクションって、ゴールがちゃんと用意されているんだけど、

ここは違います。

謎が解けなければ、「終了」。

なんとも、シビアな世界でもあるんです。

詳しくはこのPVをご覧ください。

成功率1%って、、、

まず、僕みたいなぐーたら人間には無理だな、、、

しかも、時間制限まであるものもあって、、、

でも、これが、今、若者たちの間で受けているんですって。

また、「謎解き街歩き」というのもあるんですね。

街の中に、謎が隠されていて、それを解いて歩く、というもの。

オリエンテーリングに近いものかな!?

謎解きオリエンテーリング、みたいな。

これが、今の若者たちの「新たな文化」とも言えなくもない。

実際に、このリアル脱出ゲームをやると、色んな人と交流はできる。

気軽で気楽なコミュニケーションツールになり得る。

それに、実際に足をつかって、色々回るのがいいところかな、と。

家の中で、TVゲームをやるくらいなら、こういうゲームの方がよっぽど健康的。

まー、ただ、42で疲れ果てている中年の僕には、ちときつかった(苦笑)。

(とはいえ、42歳でもゲームや謎解きが好きな人は十分に楽しめるかな!?)

こんな世界があるんだー、と、

終始、僕はカンゲキでした。

Iさん、ありがとね!

今度は、こういうのがあるみたいです♪

ポケモン!?

子どもたちも遂に「リアル脱出ゲーム」をやる時代なのか!?

うん。やっぱり、テレビゲームばっかやるより、こっちの方がいい。

これから、全国に「ナゾビル」ができるといいなぁ。

応援しています!

みなさまも是非一度、やってみてください。

結構、面白いですよ!!

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若き日に何をすべきか-艱難汝を玉にす!?

2017-06-28 21:33:02 | 哲学と思想と人間学

先日、とある学生と語った。

色々と悩める学生で、どう学生生活を送っていくか、という話になった。

若い時に、何を一番大事にしなければならないか。

また、何を最優先すべきか。

そんな話だった。

***

若き日にすべきことを考える時、いつも神谷美恵子さんの三つのことを思い出す。

すなわち、

①職業選択(とそのための準備)

②恋すること

③配偶者の選択

この三つが、まずもって若き日の「最優先課題」の基本だろう。神谷さんを心の師匠と仰ぐ僕には、この意見を受け継ぎたい。

***

でも、現代の「学生」という点では、どうだろうか。

たしかに若い時は「職業選択」と「配偶者の選択」が第一課題だったとしても、それだけしていればよいというわけではないはずだ。近年、高等教育がほぼ「職業訓練」に成り下がってしまっている。今の若者たちは、職業訓練=高等教育だと思っているふしもなくはない。

また、配偶者の選択の問題も、神谷さんの頃とはずいぶん変わってきた。「結婚しない」という選択肢も出てきているし、それだけを考えている人は「学生」ではない。(大学内で、配偶者をどうしよう…なんて考えながら講義を聴くのは…(;´・ω・))

***

今、若い頃に何をすべきか。あるいは、若い頃に何を最優先すべきか。

僕は、次の5つのことを提案したい。


①無駄なことをたくさんやる。(経験の幅を広げる)

②国内外のあらゆる場所に出向き、色んな人と対話をする。(異なる他者を知る)

③あまり特定の恋愛に執着せず、できるだけ多くの異性に触れる。(感情に支配されない力を学ぶ)

④できるだけ否定的な経験をして、苦しむ。(後の否定的経験の練習)

⑤徹底的にたくさんの本を読む。(ペンは剣より強し)


若者たちは、基本的に、お金はないが、時間はある。若者には、過度なお金は要らないし、そもそもそんなにお金はかからない。

…とはいえ、今の時代、バイトに追われる学生も少なくない。うちの学生たちだと、経済的に厳しくてかなりのバイトをしなければならないケースも多々ある。免許や資格を取得する学生は、バイトに加え、膨大な「必須科目」に忙殺される。

更に、神谷さんの頃と違い、大学の講義は16回絶対となり、補講も増え、祝日にも大学に行かなければいけない。昔は、2か月まるまるあった休みも、どんどん削られていっている(更に教育や保育系だと長期休暇中に「実習地獄」となる)。この国は、学生たちから「学びの可能性」を奪い、実学に縛りつけようとしている(そのコストがどれほどか…)

そうなると、「実学」に追われ、「リベラルアーツ(教養)」を学ぶ時間がなくなる。リベラルアーツは、差し迫って必要というわけではない。でも、いざという時、どうにもならない時に、役立つ効果をもつ。液状型の現代社会では、生涯同一の職場で働くとは考えにくい。結婚も子育ても老いも多様化しており、常にいろんな角度から考えなければならない。

だからこそ、「無駄なことを大事にする」という視点を意識化させることが重要になってくる。「いろんな本を読む」「いろんな人と対話する」「いろんな経験をする」…。これができるのは、学生の時だけだ。社会人になれば、まず娯楽本以外の本は読まない。毎日仕事で、いろんな人と対話をすることもなくなる。職場では必要最低限の話で済ます方がよい(もめると困るから)。毎日仕事仕事で、経験の幅も一向に広がることはない。だから、①や②や⑤のような一見無駄だと思うことこそ、しっかりやるべきなのだ。無駄こそが、人生の財産になる。

今、無駄だと思っている経験が、後に、重要な経験となることが意外と結構ある。逆に、経験が何かに限定されていると、新たな経験に遭遇した時に、フリーズしてしまう。読書や対話を含め、色々な経験をしておけば、「応用力」が身に付くだろう(うちの学生は、特に「応用力」「気転」「柔軟性」に乏しいと思っている)。

③の恋愛についても、青年時代に色々と考えることは多い。おそらくどの時代の若者も、「恋愛」はするし、「性的衝動」にも悩まされる。恋愛も性も、基本的には「欲求活動」であり「承認欲求活動」と言えるだろう。恋愛は、甘くて、切なくて、魅惑的で、人を酔わす力がある。ある意味で、一生、人間が振り回される問題だと言えるだろう。だからこそ、若い時に、恋愛の「いいところ」と「危険なところ」をよく学んだ上で、注意深く恋愛活動を行わなければならない。一度の性的衝動で、人生が狂うことは多々ある。一度の性交渉で、「妊娠」→「結婚」→「出産」となるケースも少なくない。男女が恋愛をするということは、同時に、「妊娠」と向き合うということである。だから、若い時はあまりそっちの方には行かずに、「異性を知る」「異性を学ぶ」という方向にエネルギーを費やしてほしいと思う。

また、若い時だからこそ、「恋愛衝動」を抑制し、そのエネルギーを別のものに「昇華」することもできる。思えば、僕も学生時代、「彼女」よりも、「ドイツ」を優先してしまい、彼女にフラれてしまったことがある。当時は、悲しかったけど、今となっては、あれがあったからこそ、ドイツ語という武器をなんとか習得できたとも言えなくもない。彼や彼女に没頭してしまい、その他の大事なことが習得できなかった、というのは、結構悲しいことであろう。

若い時代の恋愛は、麻薬、媚薬のようなものでしかない…。十分に気を付ける必要がある。

④の否定的経験は、なかなか自分の意思で引き起こせるものではない。が、何かに挑戦していれば、必ず否定的な経験に遭遇する。若い時に、挫折したり、拒否されたり、排除されたり、排斥されたりする経験をした人は、後に強くなる。一概に言えるものではないが、否定的な経験を克服した人には、根本的に生きる力が備わっている。また、自ら否定され、それに苦しんできた過去があるがゆえに、他者に対して寛容になる。「どん底」を経験したからこそ、弱い人の気持ちを想像したり、思いやったりすることができるのだろう。

蛇足だが、数日前に話題になった豊田真由子さんも、経歴的には「スーパーエリート」だったが、その内実は、「壊れた人」だった。彼女のように、スーパーエリートとなった人は、若い時に「成功経験」だけを積み重ねてきたと考えていいだろう。もちろん「個人的苦悩」はあっただろうが、基本的に「強烈な否定的経験」はしていないだろう。彼女がもし東大に落ちていたり、あるいはハーバードで挫折していたりしたら、また違った人生があっただろう。けれど、それは彼女だけの責任ではない。とはいえ、否定的経験を徹底的に避けてきた(回避する努力をしてきた)、とは言えるだろう。奇しくも、彼女の座右の銘は、「艱難汝を玉にす」だった。そんな彼女自身が、(真の意味での)「艱難」を経験してこなかったのだ(もちろん「受験勉強」という難問は突破しただろうが、受験勉強なんぞ、人生においては取るに足らぬ薄い壁でしかない)。

そして、その否定的現実に直面した時に、頼りになるのが、⑤の本である。

ネット全盛期にあって、それでも、本の意義は失せてはいない。むしろ、ますます本の意味が問われているように思う。「良質な文章」、「吟味された文章」、「深い言葉」、「重みのある言葉」は、やはり本の中にある。考えれば、ネットが世の中に広まってから、まだ20年少ししか経っていない。ネット内の言説なんて、本の歴史に比べれば、雲泥の差であろう。本の中の言葉にこそ、「否定的現実」を克服する知恵が示されているのである。特に感性が瑞々しい若者にとって、古典的文学は、「知恵」以上のものを多分に含んでいる。若い時は、恋愛を犠牲にしても、本を読んでほしいと願う。社会人になれば、どうでもいいくだらない雑誌か実用書しか読まなくなる。大事なのは、そうした雑誌や実用書が「取るに足らないものだ」と思える感性だ。僕も40を過ぎて、どうでもいい雑誌や実用書を読む癖がついてきている。けど、ちゃんとそうしたものが「取るに足らないもの」だと思って読んでいる(せめての癒しとして)。

ネットの言説に「感化」されて、思想的に偏った方向(特定の過激な思想)へと向かう大人も少なくない。それを否定する気はないけど、そういう人たちは、若い時にそんなに古典やきちんとした本を読んでこなかったんだろうな、とは思う。どんな思想であれ、どんな哲学であれ、どれも人間が書いたものである以上、疑わしいのである。そうした思想や哲学等を無反省に信じ込み、それ以外の思想を認めなくなった時に、「ナチス」の亡霊が蘇る。

運命や生き方はいつの時代でも変えられるとは思う。しかし、とはいえ、現実的に、運命や生き方を変えることは、大人には難しい。大人ほど、頭が凝り固まった存在は他にいない。だからこそ、若い時に、「文字」という言葉の洗礼を受けて、徹底的に本を読む必要がある。さっと読める本ではなく、何度も読まないと意味が分からない文章の方がいい。「分からない文章」に苦しめられることで、「分かりやすい言葉」への抵抗感が生まれる。分かりやすい言葉の恐ろしさを知るためにも、難解な文章に苦しむ経験は、若い時に必要なのだ。

少年少女老い易く学成り難し。

一瞬で終わる青春時代を、大事に生きてほしい。

本当にあっという間だから…。

その後の人生に後悔しないためにも…

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前川喜平氏の出会い系バーの話を読売に流したのは誰だ?-怒りのメガトンパンチ-

2017-05-29 23:10:04 | 哲学と思想と人間学

僕は怒っている!

久々に心底頭にきた!

ATKT!

脳内には、この曲が鳴り響いている。

怒りのメガトンパンチだ!

で、

何に怒っているか、というと、、、

今、話題の前川喜平さんについての読売新聞の記事について、だ。

ネットを見渡しても、あまり読売新聞のことで怒っている人がいないので、あえて僕が…(汗)

その問題の記事は・・


 文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

 教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ。

 関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

 女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる。

引用元はこちら


これだけを読むと、「ふーん、そうなんだー、こわっ」で終わってしまうだろう。

でも、ちょっと待って!!

この記事が出たのは、5月22日の月曜日。

で、、、

前川喜平さんが表舞台に出てきて、加計学園に関する文書(官房長官が「怪文書」と呼んだもの)を「本物だ!」と言ったのが、その三日後の25日。

まるで、読売新聞が、前川さんの行動を見抜いていたかのようなタイミング。

これを「たまたまの偶然でしょ?」と思う人はいるだろうか??

もし、本当の本当に、たまたまの偶然であるなら、僕の怒りは少しおさまる(が、これを偶然と考えるほど、お花畑な人間ではない)。

では、偶然ではないとしたら、いったい誰が読売新聞にこの出会い系バーの話を伝えたのか?

上の記事で言えば、「関係者への取材」とは何なのか?

読売新聞社が自ら取材をしにいったのか? じゃ、何のために? なんでこの時期に?

そして、その「関係者」とはいったい誰なんだ?

記事では、「教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ」とあるが、この記事そのものへの批判こそ、一番上がらなければならないのではないか??

前川さんも、一人の人間である。一人の国民である。彼にも権利はある。

前川さんにも、ご家族がいて、親族がいて、友人がいる。

(優秀なエリートだったとしても)一人の日本人である。

そんな前川さんに対して、最もデリケートでなければならない「性的な問題」を、何の根拠もないまま、読売新聞(日本で最も発行部数の多い新聞)が掲載したことに、問題はないのか?

その際、彼が「調査」で出会い系バーに行ったのか、それとも嗜好でそこに行ったのかは、問題ではない。

そういう最もデリケートな問題を、何の根拠もないまま、一新聞社が報じていいのだろうか?(法的にどうこうという話と、また法以前の問題とがある)

もし仮に嗜好でそういうバーに行っていたとしても、それを、根拠なく、個人が特定する仕方で、報じることに問題はないのか?

男性は想像してほしい。

自分が風俗やそういうバーに通っていたとして、突然、そのことが(何の根拠もなく)読売新聞に報じられたその瞬間を。

もし根拠があって、写真撮影されていたら、どうする?

完全に自尊心は破壊され、パニックになり、人生の終わりを感じるのではないだろうか。

最近、電車の中で痴漢をした/しないで、パニックになり、線路に飛び降りる人が連続している。

彼らもきっと心底恐ろしく思ったことだろう。「ヤバい、人生が終わる」、と。

そして、実際に、線路に飛び降りて、電車にひかれて亡くなった人もいる。

今回の読売新聞の記事は、それくらいに恐ろしいことをしたのではないか?

調査であれ、嗜好であれ、「出会い系バーに通っていた」なんて書かれたら、どう思うだろうか。

もし僕がそんなことをされたら(される価値もないけど…汗)、「人生、終わった」って思うだろう。

すぐに職場にも知れ渡るだろうし、家族や友人にも知られる。

「あいつ、出会い系バーに通っていたんだって…(ヒソヒソ…)」

そんな状況にとても耐えられそうにない…。

自殺だって考えるかもしれない。

もし前川さんが自殺をしたら、読売新聞社は責任を取るのだろうか。

しかも、それが「デマ」だったら、誰がその責任を負うのだろうか。

「関係者への取材」だとして、その関係者の責任は問えるのだろうか。

僕は、赤ちゃんポストの研究から、性的タブーに接触すると人は赤ちゃんでも殺す、ということを学んだ。

性の問題は、まだまだタブーである。(前に、同性愛の大学生が、同性愛者だと周りに知られたゆえに自殺したというニュースがあった)

こういうデリケートな問題を、何の根拠のないまま、日本一の発行部数を誇る新聞社が記事にする、ということに、僕は最大限の怒りを感じるのであった。

前川さんはきっとお強い方だろうから、自殺することはないかもしれない。

でも、読売新聞社がやったことは、人を死に至らしめるほどの「凌辱」であり「侮辱」であり、「プライベートの侵害」ではないのか。

なにも難しいことは言っていない。

高校生でも知っている話だ。

プライバシー権とは、「私生活上の事柄をみだりに公開されない法的保障・権利」のことだ。

読売新聞社が今回報じたのは、(たとえ前川さんが元公人であったとしても)私生活上の事柄に関わることだ。(調査であったとしたら、全く問題はないはずだ)

ほとんど誰も、読売新聞社に対して怒っていないことに、僕は怒りを感じる。

しかし、本当に恐ろしいのは、そんな話ではない。

僕が怒りに震えたのは、その先の話だ。


これまで、「読売新聞社」が記事の出先だという前提で、書いてきた。

では、今回の記事は、読売新聞社が単独で取材を行い、独自の判断で書いたものなのか?

読売新聞社が独自に、取材したことであり、読売新聞社の「意志」で書いたものであるなら、怒りもMAXにはならない。

アイロニーの気持ちもこめて、「非常に読売新聞社らしい」。

しかし、、、

誰か別の人間が、

いや、

前川さんが話すと実質的に一番困る人が、

つまりは、

総理が、

あるいは、総理の周囲の人が(アイヒマン的な人が)

ないしは、それを忖度した別の組織・団体が、

この「前川氏の出会い系バー通い」の話を読売新聞社に流して、

かつ、

「これを記事にしろ」と圧力をかけていたとしたら…

これ以上に恐ろしいことはないのではないか?

つまり、

「国家権力の中枢」が自分の権力を保持するために、「反旗を翻した元一エリート」を、(処刑ではなく)最も非難を浴びない仕方で、消そうと考えていたとしたら

これ以上に恐ろしいことはない。

アドルノ風に敷衍すれば、最も野蛮な理性による暴力、ということになろうか。

森友学園も実は同じ構造だったりするのかもしれない。

結局、森友学園問題においても、消されたのは、森友学園の理事長籠池泰典氏だけだった。

他の人たちは「無傷」だった。

消した人たちは、当然、自分たちが不利にならないようにあらゆる策を立てているはずだ。

きっと、今回も、「加害者」の方は無傷で終わるのだろう(半ば、諦めモード…)

国家権力が、自分に不都合な人間を、最も賢い仕方で(絶対にばれない仕方で)追いつめているとしたら

国家権力が、最も相手の自尊心を破壊する方法で、特定の個人を黙らせようとしているとしたら

(大げさだけど)ヒトラー率いるナチスよりも、恐ろしいことが起こっているかもしれないのだ。

この日本の今の状況を、天国にいるアドルノが見たら、どう言うのだろう?

今日、総理は「いずれのプロセスも関係法令に基づき適切に実施しており、圧力が働いたということは一切ない」と述べたそうだ。この一文は、「いずれのプロセスも関係法令に基づき冷酷なまでに理性的・合理的に実施しており、圧力が働いたということが絶対に明るみにでることはない」、と理解すべきだろう。

前川さんの講演も是非聴いていただきたい。


僕は今、怒りを通り超えて、恐怖を感じている。

この国はどこに向かおうとしているのか。

いったいどこからどう歯車が狂い始めたのか。

誰か、大真面目に研究してもらいたいなぁと思う。

(しかし、そんな研究をしたら、共謀罪で捜査対象にされる恐れも出てきている)

総理が「読め!」と言った読売新聞とその「関係者」に対して、僕らはもっと怒りをもって警戒した方がよいのではないか?

 

官僚主導から政治主導になり、

その政治が官僚(エリート)をコントロールできる今、

僕らは、もうただ「従う」しかないのか?

僕らは、牙を抜かれた羊として、沈黙するしかないのか?

 

ドイツのある強制収容所に展示されている「影絵」がある。

そこで、影絵の子どもと大人が会話をしている。

 

子「ここで何が起こったの?」

大人「俺は悪くない。俺はただ命令に従っただけだ…」

 

エリートや知識人が委縮し、権力に対し盲従するようになったら、

その国は、間違いなく破壊へと向かっていくだろう。

 

…そのエリートや知識人・大学教員の「弾圧」が秘密裏に始まっているかもしれない、という話なのだ…。

僕らはもっと「想像力」を発揮しなければいけない…(;;)

 

***

PS

是であれ非であれ、コメントを頂けるのは幸いなことです。

建設的な批判であれば、いくらでも歓迎しています。

が、個人的な批判や本文と関係のない批判については、昔から「非公開」にしています。

ご理解よろしくお願いいたします。

せめて、本文を全部読んで、ひととおりご理解した上でコメントを頂けると幸いです。

あと、公開しているコメントにはお返事するつもりなので、しばらくお待ちください(仕事に忙殺されていて、ブログの更新をするだけで、いっぱいいっぱいになっています…)

Comments (11)

NEO EXISTENTIALISM◆ネオ・エグジステンティアリズムへの道

2017-04-12 14:42:41 | 哲学と思想と人間学

現代の社会、僕らの生活、僕らの人生は、巨大なシステムによって管理され、監視され、支配され、コントロールされつつあるように思う。かつてよりもより複雑な仕方で、また曖昧な仕方で、そして、よりクリアな仕方で、僕らのLIFE/LEBENがコントロールされているように思う。人工知能AIの発展の影響もあり、どんどん僕らの生活世界は、僕ら自身の判断によらない意思決定のシステムが構築されつつある。もはや、僕らは、そうした巨大なシステムを前にして、何もできなくなってきている。

為す術なし、か。

では、巨大なシステムとは何か。その一つは、今日なお多大な影響をもつ「国家」であろう。とはいえ、国による僕らの支配は、かつてのような強制的な外圧による支配ではない。そうではなく、僕らの側が国家権力に依存するようにいわば「マインドコントロール」するような仕方での内圧的な支配である。僕らは、見えないシステムの中で、自分から自ら、国家権力に依存し、依拠したくなるように、仕向けられているのである。つまりは、「なんとなく、国家って大事だよね」「なんとなく、アベちゃんでいいよね」、というような仕方で、ますます国家依存の体質になっていくのである。「アメリカファースト」でも「東京ファースト」でもいいし、EUの離脱を表明したイギリスでもいい。現代社会は、ますます「国家」という目に見えない大きなシステムに飲み込まれようとしている。

僕ら自身が、国家権力にぶらさがり、それなくしては生きていけないようにさせられている時代が、今という時代なのだろう。具体的にいえば、面倒くさいことは全部警察頼み。老後の生活は年金頼み。子育ても行政サービス依存。教育は国家依存+教育ビジネス依存という奇妙な依存。結婚相手を探すのも、最近は行政サービスに入っていたりもするし、きちんとした離婚も自分たちだけでできなくなり、離婚調停(=家庭裁判所)を通じてしかできなくなっている。僕らのプライベートな生活の多くが、国家・行政頼みになっている。

それだけじゃない。電力問題もしかりである。僕らはいつの間にか、電気のない生活ができなくなってしまった。電気がなくても死ぬわけじゃないのに、電力なしではもはや誰も生活できないくらいに、電力に依存している。生活を支える労働においても、電力にぶらさがっている。だから、今議論されているように、あれほどの被害を受けているにもかかわらず、原発再稼働を止めることができない。僕らは、電力という権力にすがるしかないほどに、弱っている。また、原発にすがることを拒絶しても、火力を起こすためのエネルギー資源を海外から法外のお金を投入して、電気を起こさなければならない。もはや、僕らは電力から自由になることはできない(と思い込まされている)。だいたい、この人類の歴史で、人間はずっと「電気」のない生活をしながら、生きてきたのである。僕らの本来の存在=実存は、電気などなくても、生きていけるのである。

少し話を戻そう。

巨大なシステムは、国家だけではない。「専門家」もまた、その一翼を担っている。専門家にぶらさがらなければ生きていけない(と洗脳されている)。今の時代、何でもかんでも専門家だ。<専門家化>の流れは、実はとても古くて、古代にまでさかのぼるとも言われている。ただ、今日ほど、僕らの生活全体が専門家にゆだねられている時代はなかったはず。僕らは、あらゆることを、専門家に委託して生きている。その流れはますます加速している。しかも、その専門家を専門家たらしめるものは、国家が承認した資格や免許である。専門家というのは、ある意味で、国家の番人・管理人である。その専門家に、何もかも頼っているのが、僕ら今の生身の人間たちだ。

前にテレビで聞いた話だけど、60年代の音楽アーチストは、メイクも衣装も全部自分で行っていたという。プロモーションもアーチストが自ら行っていたという話もある。けれど、今は、メークする専門家、衣装を揃える専門家がいて、 ステージに立つまでの準備を専門家にゆだねている。作詞・作曲といった活動では、アーチストが自ら行うケースも増えているけれど、それ以外については専門家にゆだねるケースが圧倒的だ。プロと言えば聞こえはいいが、「一芸に長けただけの存在」なだけである。一芸に長けた人間は、何か一部分こそ突出しているが、全体的なまとまりには欠けている。

「外部委託」は、まさにここで述べたい「人間の自主性」を阻むものである。

「食べる」という行為も、専門家にゆだねることとなった。戦前はまだ外食はそれほど大きな力にはなっていなかった。戦後になり、「料理をする」という行為は、専門家たちの手に大きくゆだねるようになった。飲食店だけではない。スーパーやデパ地下の総菜コーナーも同じである。家でまともに料理をして、それだけにとどまる家庭はもはやほとんどいない。おせち料理も、今や(若い世代においては)外部委託が圧倒的だ。

***

僕の問題意識の根幹に、「人間の自由」というのがある。人間は、本来的に言って、誰にも何にも縛られず、自由に生きることができる、と僕は信じている。ロック精神的にも、学問的にも、そう思っている。もちろん、誰かれ構わず、己の自由を主張したいわけではない。人間は、他者とともに生き、他者の影響を受けている存在(共存在)なので、完璧に一人で自由を謳歌することはできない。意識レベルのみならず、無意識レベルで、僕らのあらゆる思考・思惟は、まわりの他者・環境に左右されているので、何にもとらわれないで、自由に生きることができる、というのは、たしかに「空想」かもしれない。

だが、そういう他者と共なる生き方も、誰かに規定されるのではなく、自分と他者で決めていくこともできるだろう。巨大なシステムに飲み込まれることなく、そこは自分たちで決めたい。SNSの発展もあり、僕らは、すぐに多くの人と語ることのできるツールをいくつも見い出してきている。

そうした考えの根幹にあるのが、「Existentialism=エグジステンティアリズム(=実存主義)」だったはずだ。このエグジステンシャリズムは、80年代くらいからあっという間にその力を失い、今ではそういう思想があったことさえ知らない若い世代がたくさんいる。エグジステンティアリズム的な生き方は、もはや話題にすらならないところまで、闇に葬られたように見える。

http://en.wikipedia.org/wiki/Existentialism
英語での説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9
日本語での解説
http://note.masm.jp/%BC%C2%C2%B8%BC%E7%B5%C1/
基本的な説明
http://www.glocalnetwork-veritas.com/lifemeaning.html
ちょっと深い説明

「自分たちの生活や活動を、国家や企業に依存しないあり方」の模索は既に始まっている。

その一つがアスリートの世界で起こっている。日本のアスリートたちは、自分たちの活動費を調達することが難しい。無職?だった藤原新さんは、ニコニコ動画を使って、自ら一般の人にスポンサーとなるよう呼びかけたのだ。そして、20000人のスポンサーが集まり、およそ1000万円を集めたという。

https://secure.nicovideo.jp/secure/entry_fujiwaraarata

国家や企業、あるいは何らかの専門家にぶらさがる生き方から抜け出し、自分たちで自分たちの活動を守る、そして、自分たちの活動を進めていく、そういうインディペンデントで主体的な活動は確かに生まれ始めている

赤ちゃんポストの取り組みもそうだ。国や行政がきちんと緊急下の女性たちへのサポートをしていれば、こんな装置が作られることはなかっただろう。国家も企業も専門家もどうすることもできず、また、手をこまねいていたからこそ、赤ちゃんポストは生まれたのである。日本でも、地方の個人の病院が独自の思想と哲学を基に始めたものだった。だが、システム的には、母子を守るという視点ではなく、悪人である母から子どもをどう保護するかという冷たい視点しか、今の福祉行政にはない(ちょっと極端にいえば)。

そこにこそ、次世代の「実存主義」の意義があるように思えてならない。どれだけ複雑で巨大なシステムが構築されようとも、また、どれだけ高度なAIが開発されようとも、それに依存しないで、新たな可能性を提示することはできる。AIは、今後、「100%安全なのは、この道です」と提示してくれるようになるだろう。でも、AIは新たな道を作ることはしないだろう。どの道がデータ的に安全かを予測できても、別の新たな道を作るようにはならないだろう。データというのは、全て「過去に起こったことの集合体」でしかない。

どの道を進むべきかについては、人間以上に正確にシステムが応えてくれるだろう。

しかし、新たな道をつくることについては、人間にしかできないことだろう。

これからの時代を生きる上での、人間哲学が、「ネオ・エグジステンティアリズム」と言えるだろう。

これからは、「ネオ・エグジステエンティアリズム」という視点についても、しっかり勉強していきたいなぁ、と思っています。

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20年ぶりに訪れた「原爆ドーム」の前で…

2017-02-07 23:13:05 | 哲学と思想と人間学

僕は、小学6年生の時に、「はだしのゲン」を読んでから、異様に「戦争」に関心をもっている。

「戦争がしたい」という関心ではなく、「こんな恐ろしいことは二度と起こらないように」、と。

昔は、敗戦した日本の悲惨さから、戦争の恐ろしさを感じていた。

けど、大人になるにつれて、敗戦しつつも、アジア各国に入り込んで、支配していったことも知り…

実際に、グアムやサイパン、パラオ、更には東南アジアまで、日本は侵略していった。

「被害国」である日本だけではなく、「加害国」でもある日本。

さらに、大人になると、戦争というのは、一国の問題ではなく、国家間のコンフリクトによるものだと分かる。

しかも、そのコンフリクトは、複雑で、一国VS一国という単純な構図でもないことを知る。

僕は、自分の本の中でも、だいたい「戦争」の話を書いている。

戦争への関心は、常に明記しておきたい。

日本は1945年以降、一度も戦争していないし、戦争による兵士の死者もない。

だけど、今も、世界のいたるところで、大小の戦争、紛争、テロ、ゲリラetcが起こっている。

憂慮であってほしいけど、今の政府は、「戦争」に近づこうとしているように思えてならない。

自衛隊員も、僕らと同じ日本で生き、日本で育った大切な人たち。

一人とて、戦地で死んでもらいたくない。戦争で日本人が死ぬことを認めるわけにはいかない。

「他国が攻めてきたらどうするのか?」という声も聴くけど、他国が攻め込んでこないように、その前からしっかりと「外交」で、安全を保障していくことが、「王道」だと思う。攻め込んでくるのは、遠い国ではなく、近隣国だ。近隣の国と、仲良くする必要はないが、最悪な事態を回避するコンセンサスを常に取っておく必要はある。

他国と、仲良くなる必要はないが、いがみ合わないような関係を持続できる政治家や官僚たちが絶対的に必要。

(ドイツとフランスを見ると、近隣国がうまくやっていくことがどれだけ大変か、分かる。)

教育学的には、「二度とアウシュヴィッツや広島・長崎の悲劇を繰り返さないための教育」こそが一番大事だろう、と。

ドイツには、「アウシュヴィッツ以後の教育」がある。

日本にも、「広島以後の教育」があっていい。

これは、広島で行われている平和教育ではない。「二度と、広島の悲劇を繰り返させないための教育」だ。

このことは、僕の今後の研究課題になるかな、と真面目に思っている。

そんなことを考えながら、原爆ドームの前にやってきた。

かつて、20歳くらいの時に、広島にやってきた。

それ以来の原爆ドーム前。

あの頃に見た風景とは違う風景がそこにあった。

この20年で、僕も世界各国を歩き回ってきた。

世界各地にある「遺産」に決して負けない、迫力のある風景がそこにあった。

この原爆ドームの前に、多分1時間くらい、立ち尽くしていたと思う。

70年前、この場所で、何が起こったのか。

それを知る貴重な手がかり(傷痕)が、この原爆ドームだ。

この原爆ドームの近くには、近代的なビルが立ち並んでいる。

戦争となれば、この近代的なビルも一挙に「廃墟」となるのだろう。

戦争は、全てを破壊し、全てを焼き尽くす。

人の身体は飛び散り、血しぶきを上げ、殺戮だけが繰り返される。

女はレイプされ、赤ちゃんは殺され、子どもたちは兵士にさせられる。

戦時下となれば、平和の時に通用するあらゆる価値が通用しない。

「平和」を望む人間は、「非国民」とされ、収容所や刑務所にぶち込まれる。

「お国」のために、我が身を犠牲にする精神だけが叫ばれる。

1時間、僕は、心を静かにさせて、原爆ドームの語る声なき声に耳を傾けた。

原爆ドームは、今の僕ら日本人に、何を語っているのだろうか。

僕らは、原爆ドームの沈黙の声に耳を傾けられるだろうか。

原爆ドームの声、というのは、この地で亡くなった死者の声、だ。

70年前に、この地で亡くなった罪なき一般人の声。

一昨年末に、パラオでも、亡くなった日本人の声を聴いてきた。

戦争を支持するあらゆる人に、あらゆる行為に、NO!と言おう。

戦争に近づくあらゆる道を拒絶しよう。

かつての戦争を美化しようとするあらゆる動きに、NO!を言おう。

平和は、退屈だ。

でも、その退屈な平和こそが、僕らみんなにとって、最も尊いものだから…。

 

そんなことを考えました。

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「売れるもの」と「善いもの」の弁証法的循環

2016-10-26 01:40:54 | 哲学と思想と人間学

先日、「キングオブコント」で興味深いシーンがあった。

それは、ダウンタウンの松本さんのコメントの中で出てきたものだった。

キングオブコントは、数々の実力派の漫才コンビが登場し、審査員が点数をつける番組。

松本さんは、あるコンビに高い点数をつけるときに、こう言った。

いや~、(会場全体が)ウケてたよね。みんな、笑っていたもんね」。

この言葉に、松本さんのある種の「哲学」を見た気がした。

それは、「お客さんにウケるなら、好き嫌いは問わず、いいんだ」、という哲学だ。

多くのお客さんが笑ったものこそが、いいものなんだ、と。

ダウンタウンの人気の秘訣も、そこにある気がした。

本人が「いい」と思っているかどうかは別にして、オーディエンスの反応が全て、と考えている人なんだ、と。

最後の方では、こう言っていた。

俺がいいと思う芸人は、キングにならないんだよー」、と。

松本さんは、松本さんなりに、「いい」「悪い」の選別があるんだと思う。

でも、松本さんは、それ以上に、「お客さんの反応」を重視していた。

そこに、松本さんのある種の「実践哲学」が示されているように思った。

つまり、「お客さんにウケてこそ、コント・お笑いだ!」、と。

コント芸人の目的は、つまるところ、「お客さんが笑うかどうか」。

そう、教えられた気がした。

***

このことは、音楽にも当てはまる。

今や、音楽は、完璧に「技術」の時代。

とんでもないスキルを習得したミュージシャンはゴロゴロいる。

「巧ければ、それでいいんだ」、という内なる声も聴こえてくる。

でも、音楽もまた、お客さんにウケるかどうかが決め手となるのではないだろうか

自分が奏でる音楽を聴いて、泣いたり、暴れたり、感動したり、立ち尽くしたり…

「お客さんが自分の音楽を聴いて、それこそ「音」を「楽しんでいる」かどうか。

それが全てのような気がしてならない。

演奏がヘタでも、その音楽を聴いて、お客さんが盛り上がっているなら、OK。

MC(しゃべり)がヘタでも、その人の歌を聴いて、酔えるなら、OK。

そういう風に音楽を捉える人が、いったいどれだけいるか。

コントも、お笑いも、音楽も、何のためにあるのかと言えば、「お客さん」のため。

そういうことなんだろう、と改めて思った。


ウケるものが、ただちに、いいものになるわけじゃない。

けど、ウケるものの中には、いいものが含まれている。

善いもの=ウケるものでもない。

けれど、それ自体、善いものであれば、いつかどこかでウケるものになる。

(…と言ってよいか分からないけど、、、)

僕自身も、普段から講義をしていて、「今日はウケたなぁ」とか「ウケなかったなぁ」とか思っている。

ウケりゃいいってもんじゃないにしても、ウケない講義は、つまらないものでしかない。

ウケて、内容もあるものだったら、それがBESTな講義なんだろう、と。

ただ、それはなかなかかみ合うものでもない…

この「ズレ」こそが、更なるいいものを創り出すのかもしれないなぁ、、、と。

今後も考えたいテーマです。。。

僕自身も、「ウケてこそ」と思っているし、また、実際にはなかなかウケないことに悩んでいるのかな。

売れるものと善いもの、というのは、ホント、微妙なところにあるものだなぁ、、、、と。

そう思います。

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「今、こうして生きている」ということ。

2016-10-04 01:44:19 | 哲学と思想と人間学

今日は、久々に悪麺友らんちばさんとミニ・ラーメンツアーにでかけました。

思い返せば、2か月ぶりくらいのミニ・ツアーで、とっても楽しかったです。

改めて、悪麺友さんの大事さに気づかされた気がしました。

らんちばさんとDr.keiの食べ歩きももう8年以上になるのかな!?

歳の差は10個ほど違うけど、「親友」と呼べるくらいの存在になっています。

***

さて。

そんならんちばさんとお話していて、ふと、今年、僕が某ラーメン店で気絶したときの話題が出てきました。

そのことを書いた記事はこちら

2016年、僕にとって、最大の出来事は多分この日のことになると思います。

あの日の激辛料理のことを思い出すと、身震いしてきます。

ホント、あの時は、「死ぬんじゃないか」、と思った。

失神する前のあの悶絶の痛みと、失神後の痙攣には、本当に参りました。

ただ、あの瞬間、僕はかなり冷静でした。

「ああ、これで死ぬのかもしれないなぁ」、、、と。

死の恐怖というよりは、「ああ、死ぬんだ…」って感じでした。

意外と冷静に、ドライに、自分の行く末を案じていました。

「生きたい!」とか「死にたくない!」とか、そういう言葉じゃなくて、、、

「ああ、ここで死んでしまうのか、、、」、と。。。

うまく伝わるか分からないですが、身体は異変を起こしているのに、精神は落ち着いていたんです。

それに、自分も驚きでした。

***

そんな僕ですが、今も生きています。

生きているんです。

なんか、今日は、その「生きている」ということについて考えさせられました。

今日の夜、26年前から続く親友と五井で呑みました。

ずっと昔からある飲み屋さんで…。

そこにいたご高齢のおばちゃんがいて、顔を覚えていました。

「このお店で、ずっと働いていますよね?」、と僕が聴くと、

「そうですよ。このお店がオープンしていた時から働いています」、と。

多分、僕がまだ「ギタリスト」だった時から、、、

なので、ゆうに10年以上はここで働いていることになります。

そのおばちゃんも、あの頃からずっと生きていて、このお店で働き続けているんです。

生きている、ってことなんです。

***

五井からの帰り道。

内房線で、千葉まで戻りました。

車内には、色んな人がパラパラと座っていました。

一人ひとり顔を見ても、知っている顔はありませんでした。

この人たち一人ひとりもまた、生きているんですよね。

狭い日本という国ではありますが、日々、知らない人が僕の近くにいて、

僕のそばを通り過ぎるんです。

しゃべれば通じる、同じ日本語を母国語とする人たち。

でも、決して、出会うこともない人たち。

この人たちも、今日を、昨日を、明日を生きるわけです。

***

生きている、という素朴な現実。

そのことを、僕らは日々、どれだけ感じているでしょうか!?

らんちばさんも僕も、それこそ50~60年後にはいなくなっているでしょう。

このブログの記事を読んでいる人も、きっといなくなっていることでしょう(苦笑)。

そもそも、この「ブログ」という媒体が生き残っているかどうかも怪しいです。

今、身近にある「自動車」も「販売機」も「コンビニ」も、、、、

きっと100年後にはないんでしょう。

ただ、一つだけ言えるのは、「僕らが今、こうして生きている」、ということ。

生きていること自体が、なんか、奇跡のように思えてもきます。

また、1億4000万人くらいいる日本の中で、、、

偶然にも出会えた友達や知人や仲間たちも、まだ生きています。

生きていること自体に目を向けると、その生きていることの奇跡を感じます。

***

僕にとって、死というのは、「電球が切れる」感じなんです。

今、天井に輝く光も、いずれは寿命が来て、光らなくなります。

僕らの生もまた、電球のように、いつかは消えて光らなくなります。

でも、まだ、光は付いている。

そこに、全神経を傾ければ、おそらく「生きている」というリアリティーを感じるんじゃないかな、と。

そう思います。

今、まだ、こうして生きているからこそ、、、

まだまだ、色々とできるんです。

死後の世界も気にならなくはないけど、、、

僕らが考えられるのは、生きている時のことだけ。

ならば、生きている、という素朴なリアリティーに真面目に向き合うのみ。

そんなこととを考えました。。。

100年後も生きている人は、ほとんどいないのだから…。

100年後の世界がどうなっているか。

今を生きる僕らには、…存ぜぬことであります。。。

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◆遅咲きの花を讃えて◆-Lob der spätblühenden Blume-◆

2016-07-05 20:20:10 | 哲学と思想と人間学

最近、覚えた?言葉に、「スロースターター」という言葉がある。

スロースターターは、もともとはボクシング界の言葉で、

出足の遅い選手」のことを指す言葉だったらしい。

それが、意味の拡大と共に、広く使われるようになった(そうな…)。

(「飲み込みの遅い人」「調子が上がるまでに時間がかかる人」という意味もあるとか…参考


出足を遅くする

それは、人よりも遅れて一歩を踏み出す、ということ。

今の時代、誰もが、「フライング」をする時代。

前へ前へと、常にいち早く進みだそうとする時代。

すぐに結果を求める時代。

その典型が、崩壊寸前の「大学入試」に示されているように思う。

AO入試という粗悪な入試が広まって、高校3年生の夏に進路が決まるという状況になっている。

「悩む時間」を与えてくれない。

まわりはどんどん「進路」が決まっていき、スロースターターの生徒は焦り出す。

それに呼応するように、進路指導の先生も、「どこにいく?」「どこに進学する?」「どこに就職する?」と圧力をかけてくる。

出足の遅い生徒は、「こまった生徒」となる。

進路とは、自分の人生の行く末を考えることなのに、じっくりそれをさせてくれない。

大学にしても専門にしても、何百万とお金がかかるものなのに、

その「決め方」といったら、なんともお粗末なことか…。

欧州では、一度高校を卒業して、しばらくバイトをしながら考えて、次の進路を決める若者も決して少なくないのに…

日本では、軍事国家?共産主義国家?と思うほどに、横並び的に18歳で「進学」する。

大学教育や高等教育の現場は、(高等教育をきちんと学ぶことのできない幼稚な学生が溢れ、90分の講義やゼミも成り立たず、高校の補習授業もやっているほどに)とんでもない状況になっているのに、親も先生も、「とりあえず進学ね♪」、と、高校生をいわば「横流し」で、高等教育に送り込んでいく。

中学生レベルの学力がないのに、「大学生」と呼ばれる時代。

学力ではなく、お金で、大学に入れる時代。(全入という意味で)

それで、一番困るのは、当の若者たちである…。

そんな時代だからこそ、考えてみたい「出足の遅さ」。

つまりは、スロースターターについて。


このスロースターターの再評価の声があるようだ。

例えばこのサイト

この言葉を聴くと、僕は、「遅咲きの花」という言葉を思い出す。

ゆっくりとゆっくりと、先の見えない状況で、五里霧中の中を、手探りで生きていく人」を讃える言葉だと僕は思う。

自分にとって大切なことやもの、例えば、職業選択や配偶者選択といったライフイベントにかかわる事柄は、そう簡単に決められるものではない。

うちの学生たちの中にも、「とにかく早く結婚をして、早く子どもを産んで、若いうちに母親になりたい」という女子がいる。

その理由は、「若いお母さんの方がかっこいいから」、「きれいなお母さんになりたいから」、という、、、

それが理由で、早く結婚するのか、と絶句する。

だが、それが今の時代の精神かもしれない。

「早いことがいいこと」。

それが、今の社会を示すキーワードかもしれない。

とにかく、早くて、手軽で、さっさと、ワンタッチで…、と。


けれど、「早いことは、本当によいことなのか」、と問いたくなる。

目先のことを考えれば、就職にせよ、結婚にせよ、早くてよい面もあるだろう。

まずもって、人から「賞賛」される。

「えー、もう、就職決まったの? すごーい♪」

「えー、もう、結婚するの? すごーい♪」

というように。

けれど、就職も結婚も、必ずその「先」がある。

長い長い「先」がある。

そのことを十分に考えた上での早い就職や早い結婚なら、言うことはない。

けれど、その「選択」が、20年後の自分、30年後の自分にとって、正しいものになるのかどうか。

もちろん、遅くても、選択は誤り得るだろう。

だけど、経験を重ね、知恵を得ることで、誤るリスクは軽減されるだろう。

それに、「賞賛されるから」という理由で、ライフイベントを決めてしまっていいのか。

大学の退学の内訳を見てみよう。

引用元(文部科学省)はこちら

2014年のデータだけど、内実は今とそれほど変わらないだろう。

第一位は「経済的理由」だけど、注目すべきは、第二位。

なんと、全退学者のうちの15%の学生が、「転学」を理由に辞めているのだ。

さらに、「学業不振」「就職」を加えたら、ほぼ半分になる。

転学、学業不振、就職から見えてくること、

それは、「進路決定を急ぎ過ぎている」という現実であろう。

このデータの背後で、どれだけ多くの若者が、進路選択を間違い、苦しんでいることか。

その責任はどこにあるのか。

未来のある若者を苦しめているのは誰なのか。

進路が変わること自体は、人間として普通のこと。

でも、大切な青春時代を、進路の失敗によって台無しにさせられるのは、罪深い。


遅咲きの花

なんと美しい言葉だろうか、と思う。

他の花よりも遅れて咲き乱れる花。

きっと「早咲きの花」の方が多くの人に見てもらえて、感動してもらえるだろう。

注目されるし、賞賛されるし、もてはやされるだろう。

けれど、「遅咲きの花」の方が、確かなような気がする。

多くの人に賞賛されはしないだろうけれど、分かる人には深く分かってもらえる。

いや、自分が生きている時代には認めてもらえないかもしれないけれど、歴史的に名が残るかもしれない。

遅咲きの花には、どっしりとした存在感がある。

迷いもなければ、ブレもない。

芯があって、簡単には倒れない強さがある。

早咲きの花の「栄華衰退」を見てきたので、謙虚であり、堅実である。

こんな時代だからこそ、遅咲きの花を讃えたい。


最後にニーチェの言葉を挙げておきたい。

僕が学生時代に、この言葉から「逃げる勇気」をもらった。

「市場の蝿」の節である。

***
 

のがれよ。わたしの友よ。君の孤独のなかへ。私は見る。君が世の有力者たちの引き起こす喧噪によって感覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。
Fliehe, mein Freund,in deine Einsamkeit! Ich sehe dich beträubt, vom Lärme der grossen Männer und zerstochen von den Stacheln der Kleinen.

森と木とは、君といっしょに高い品位を保って沈黙することを心得ている。君は君の愛する木、あの大枝をひろげている木と、ふたたび等しくなれ。無言のまま耳を傾けて、その木は海ぎわに立っているのだ。

孤独がなくなるところ、そこに市場がはじまる。そして、市場のはじまるところ、そこにまた大俳優たちの喧噪と毒ある蝿どものうなりがはじまる。

真理の求愛者である君よ。こういう押しつけがましい者たち、有無をいわさぬ圧制者たちがいるからといって、嫉妬することはない。いまだかつて真理が、圧制者の腕に抱かれて、身を任せたことはないのだ。

これらの性急な者たちを避けて、君は君の安全な場所に帰れ。市場においてだけ、人は「賛」か「否」かの問いに襲われるのだ。

およそ深い泉の経験は、徐々に熟成する。何がおのれの深い底に落ちてきたのかがわかるまでには、深い泉は長い間待たなければならぬ。

市場と名声とを離れたところで、すべての偉大なものは生い立つ。市場と名声を離れたところに、昔から、新しい価値の創造者たちは住んでいた。

のがれよ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蝿どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ。強壮な風の吹くところへ。

かれらにむかって、もはや腕はあげるな。彼らの数は限りがない。蝿たたきになることは君の運命ではない。

君は石ではない。だが、すでに多くの雨つぶによって、うつろになっている。これからも多くの雨つぶを受ければ、君は破れ砕かれるであろう。

君は毒ある蝿に刺されて、疲れている。百カ所に傷を負うて、血によごれている。しかも君の誇りは、それに対して怒ろうともしない。

君の隣人たちは、常に毒ある蝿であるだろう。君の偉大さ-それが、かれらをいよいよ有毒にし、いよいよ蝿にせずにはおかぬのだ。

のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蝿たたきになることは、君の運命ではない。
Fliehe, mein Freund, in deine Einsamkeit und dorthin, wo eine rauhe, starke Luft weht, Nicht ist es dein Loos, Fliegenwedel zu sein. 


***

この節について語っているYouTubeもある。

なかなかシュールな「語り」だ…(;´・ω・)

(ただ、テレビ批判に力点が置かれ過ぎている、かな)

***

いずれにしても、、、

遅咲きの花となれ!

そして、スロースターターとなれ!

出足を早くするな!


心の底から、そう叫びたい。

そのためにも、「孤独になること」を恐れないでほしい。

高校を卒業した後に、一人だけ進学しない、というのは孤独だ。

でも、その孤独の中でこそ、「新しい価値」と出会えるのである。

すぐに進学する必要は、全くもって、ない。

また、大学や専門を卒業したからといって、すぐに就職する必要もないかもしれない。

いつ就職するかくらいは、自分で決められる世の中であってほしい。

(蝿どもは、なかなかそれを許さないが…)

小中は「義務教育」ゆえに、そこに「選択の自由」はほぼないが、高校以降は、基本的に「選択可能」である。

16歳で高校にいかなければならない必然的な理由など、存在しない。

同じように、18歳で大学や専門に進学する必然的な理由も、存在しない。

22歳で就職する必然性など、微塵もない。

ただ、蝿どもがそれを煽っているだけだ。しかも、その蝿どもも、なぜ22歳の「新卒」でなければならないのかの理由など、何も持ち合わせていない。

30代、40代になれば、もう、それまでの「経緯」なんて、めちゃくちゃだ。

40代になった今、若い時の数年なんて、何の影響ももっていない。

蝿どもも、本当はそのことに気づいている。

だけど、蝿どもは、そのことに気づきつつも、若者を煽るのである。扇動するのである。

悲しいほどに…。

<了>

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