今、「静かな退職」というワードが、静かに話題になっています。
静かな退職は、アメリカで流行った「Quiet Quitting」の訳語ですね。
Quietは「静かな」という意味で、Quittingは、「辞めること」「打ち切ること」「放棄すること」ですね。
僕的には、「静かに仕事を放棄すること」の方がピンとくるかな?!
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この静かな退職ムーブメントは、ある種、「労働者の抵抗運動」かなと思いました。
頑張っても報われず、仕事に力を注いでも賃金は上がらず、真面目にやってもそれだけのやりがいや達成感が得られず、その結果として、「静かに放棄する」、というprotest(異議申し立てる)。
この失われた30年、僕らは、頑張って働いても、給与は上がらないという経験をたくさん積んできました。
他方で、あの手この手で大成功を収めて、FIRE(Financial Independence, Retire Early)を実現する人もいっぱい見てきました。
FIREは、資産運用等で不労所得を得て、人よりも早く会社を辞めて、自由で縛られない生き方を表すワードです。
一方でFIREが話題になり、他方でQuiet Quittingが話題になっているんですね。
働くことの意味について、考えさせられる新ワードだなぁと思いました。
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根本的には、「マルクス的な共産主義の理念が消えゆく中で、労働者・働き手は、どう生きていくか」という問題が根っこにあるかな、と思います。
僕は学生時代に、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を読んで、「うおおお!」って思った記憶があります。
今の学生は、まず読まない本かな?!とも思いますが、、、
僕は20歳くらいの時に、この本を読んで、「労働者は闘わなければならないのだ!」なんて思ったりもしました。
でも、それも昔の話。
共産党や共産主義は、理想的には優れた思想かもしれないけれど、現実的にはなかなかうまくいかない考え方だなぁ、と30代~40代の頃に思うようになりました。
共産党や共産主義が悪いというよりは、今の人間にはまだ使いこなせないというか、共産主義を私用?悪用?する権力者が多すぎるなぁと思ってしまいます。
とはいえ、資本主義、とりわけ21世紀の資本主義は、労働者にとって、とてもとてもとても厳しいものにもなっています。2000年頃には「勝ち組」「負け組」という言葉が流行り、「一億総中流社会」も徐々に壊れていきました。共産主義は嫌だけど、かといって「資本主義社会」がいいとも思えない…。
労働者・働き手にとっては、どっちも辛すぎる…。
19世紀の頃から、労働者の苦しみや悲しみや苦痛や絶望については、色々論じられてきました。
僕は、学生時代にブレヒトの『三文オペラ』等を読んで、暗い気持ちになったものです。
これは僕の思い出の一冊です。
映画版もあります。
「銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪か」というフレーズはとてもインパクトがありました。
マルクスにしても、ブレヒトにしても、欧米に根付く資本主義社会を嘆き、憂い、その中で生きる人たち(=労働者)の未来を考えていたことは間違いないと思います。
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共産主義には期待が持てない。
資本主義にも同調できない。
抵抗運動や労働者運動をする気にもなれない。
FIREみたいなリスキーな生き方もしたくないし、できない。
ただ、食べて暮らせるだけのお金を稼いで、あとは静かに心穏やかにそっと生きていきたい。
そんな人たちの行動が、この「静かな退職」というムーブメントなんじゃないかなって思いました。
組織(企業・会社・公務員等)で働くと、どうしても優劣は出てきますし、出世するしないっていう話にもなりますし、自分より優れた人は必ず出てきます。
課長、部長、それ以上のポストを得られる人は、やっぱり全体の一部に過ぎません。
しかも、そのポストが、「輝かしいもの」でも「うらやましい」ものでもなく、「ただただ大変なもの」だという認識も広がってきています。
それならば、、、
それならば、もう変に頑張らないで、競争もあきらめて、最低限のことだけを最低限(仕事として)やる、という方がずっと楽ですし、心への負担もないですし、心の負担が減るということは、体の負担も減る、ということになります。
これは、自分自身をまず大切にする、という基本的な思想が入っているなと思います。
戦後の日本は、戦前同様に、「自己犠牲」の精神で、24時間頑張りますの精神で、懸命になって働いて働いて働いて、そして、経済的な発展を遂げてきました。
特に「団塊世代」の人たちは、本当に仕事一本で頑張ってきたと思います。
ただ、その一方で、「自分を大切にする」ということについては、大切にしてこなかったのでは?と思う部分もあります。(ちょうど僕の親世代が団塊世代なので、そう思うんです)
21世紀に入り、高度経済成長もぴたりと止まり、現状維持~緩やかな衰退の時期に入った日本で、僕らはどう働いていけばよいのか、みんなが考えるようになったとも思います。
僕自身も、21世紀になってから働き始めているので、「どう働けばいいのか」とずっと自問してきた気もします。
ただ、親の影響もあってか、「とりあえず働くなら、頑張って働く」という精神はあります。
なので、「静かな退職」というワードに、完全に共感することはできません。
が、これもこれで一つの「労働者の抵抗運動」なのかも?!って思ったんです。革命なき抵抗運動というか、闘争しない抵抗運動というか、もっと言えば「非暴力的・平和的な労働者の抵抗運動」というか。
日本では、もうストライキをやるところはほとんどありません。
ストライキもできない国になったんです。
労働者は、黙ってただただ働いて、年老いて、年金がもらえるまで(今はそれ以降も)働き続けるだけ。モノを言うこともできなければ、労働者同士が団結して、経営陣に異議申し立てすることもできない国。
頑張れる人だけが頑張って、頑張れない人はドロップアウトか、心を病むか。
頑張るか、あるいは、消えるか。
その二つの選択肢の「あいだ」を狙ったのが、「静かな退職」だとすると…。
そこに、僕は一つの「希望」を見た気がしたんです。
諦めつつ、諦めず。
働きつつ、働かない。
そういう生き方や働き方が可能なら、もう少し頑張れる人も増えるかもしれない。
頑張らなくても、頑張らない程度に働き続けることができるかもしれない。
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あと、克服すべき問題はただ一つ。
エッセンシャルワークやシャドーワークと呼ばれる仕事に就いている人たちが、静かに、平和に、安心して働ける環境をどう作っていくか。
米不足問題もそうだけど、僕らの生活に絶対に欠かせない仕事をどう守り、どう育てていくか。
僕らの生活に絶対に欠かせない仕事というのがあり、その仕事を大事にしていくことこそ、これからの日本にとって最大重要課題になります。
今の日本を見ていると、そういうエッセンシャルな仕事を避け、なくてもいい仕事(ブルシットジョブ=くそどうでもいい仕事)に人が流れていく傾向が強まっています。
大学進学者の数が増えれば増えるほど、そうなっていくんです。
学歴が高くなれば高くなるほど、エッセンシャルワークやシャドーワークを避けようとする傾向が強くなります。
でも、僕らの仕事のほとんどが、「大学を出ていなくてもできる仕事」です。大学を出ていなくてもできる仕事こそ、本来、人間にとって欠かせない仕事なはずなんです。
OECDの研究でも、日本は、「学歴過剰度」が突出して高いんです。実際に働いている仕事と学歴がかみ合っていないというデータが全世界で公開されているんです。(だから、僕は「18歳総進学主義」を改めよう!と訴え続けています)
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ひょっとしたら、「静かな退職」という道を歩んでいる人も、大学に行かなければもっと違った未来があったかもしれません。大学に行かないで、エッセンシャルな仕事に就いていれば、また違った生き方をしていたかもしれません。大学に行ったからこそ、未来の描き方がおかしくなったのかもしれません。
と同時に、大学に行かなくてもできる仕事の職場環境の改善、待遇面での改善、そのための社会制度の見直し、社会制度の再設計もまた、喫緊の課題になると思います。
僕らの生活に必要不可欠なものを作っている人たちが稼げない社会って、やっぱりやっぱりおかしいと僕は思います。
僕らの生活世界を支えてくれている人たちこそ、最も大切にされる社会であってほしいです。