Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

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恋愛交差点ー結婚の条件について考えるー

2017-11-27 02:20:47 | 恋愛と性と結婚

真夜中ふと思った。結婚の条件って「ルックス」でも「金」でも「趣味等の一致」でもなくて、「その人の話をずっと聴いていたいと思うかどうか」じゃないかな、と。顔が好みでも、金を持っていても、「こいつの話、つまらねー」と思ったら、回避した方がいいかも。「この人の話を聴きたい」が大事かも?

「話を聴いてくれる」は、自分の都合の話なのでダメ。「その人の話を聴きたい」は、その人に備わることなので、判断材料になる。だいたいの夫婦は、「自分が話したい」か「無関心」なので、会話がなくなる。互いに互いの話が聴きたいと思えば、互いに聴き合える。それなしに共同生活は成り立たない。

多くの女性は「私の話を聴いて!」と叫ぶ。多くの男性はその女性の話に興味はないし、どうでもいい。聴き流せば「なぜ聴かない」と責められる。男性が話をしても、女性はそれに興味がない。…というような会話が消えるメカニズムはある。大事なのは、互いに互いの話に興味がもてるかどうか。

他方、多くの男性は、女性のルックスや性格、あるいは趣味の一致等で、その女性を得ようとする。その女性の気を惹こうと頑張って話を聴くけど、それに共感したり興味をもっているわけではない。だから、付き合えば会話はなくなるし、興味もなくなる。否、最初からその女性の話など興味がないのかも…

でも、たしかに、話していて、もっと話が聴きたくなる人と、そうでない人がいる。話が聴きたいと思える人とはまた会いたくなるし、そうでない人だと、「ちょっと…」となる。夫が家に帰るかどうかも、そこに関わっている気がする。もちろん妻側にも関わる話でもある。…

…もし妻の方が、毎日毎日、夫の話に関心を示さず、共感もせず、自分の話ばかりをしていたとしたら、夫だって、さすがに嫌になる。帰りたくもなくなる。で、その嫌々な夫の姿にさらにイライラして、さらに口数が増えていく。そうするとさらに夫は家が嫌になる…。その根本に「相手への無関心」がある。

…とするならば、やはり「相手の話をもっと聴きたいと思えるかどうか」は重要なポイントになりそうな気がする。ルックスでも、お金でも、趣味の類似でもなく…。それはきっと「相性」みたいなものなんだろうな。何年一緒にいても、「ああ、なるほどねー」と思うことを言ってくれる人はいるから。

…「この人の話をもっと聴きたい」というのは、「共感」とは違う。共感以上のものだと思う。共感というよりは、「はっとする」「気づく」「意外な発言」「驚き」に近いものかな、と。理屈っぽく言えば、「自分より優れた意見を提示してくれる人」、かな。双方がそうなら、いつまでも居書にいられる。

 

Twitterの真夜中のつぶやきより。

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■愛するということ■スティグレール■「われわれ」の「分解」「分裂」の時代に…

2017-03-22 21:52:01 | 恋愛と性と結婚

結構前に書いたものですが…

****

恋愛論は、現代思想の中心である! 緊急の課題である! 

恋愛論なくして、現代論はありえない! 

そう思っている僕ですが、すごい有力な本が出ていました☆

『愛するということ-「自分」を、そして「われわれ」を』

著者は、なんとデリダのお弟子さんのフランス人で、ベルナール・スティルレールという人物です。

デリダ以後の哲学者として、注目されている哲学者の一人だそうです。

この本は、かなり強烈です。現代社会を踏まえた上での意見表明書なので、かなりの説得力があります。2003年に書かれたものですが、すでに、今の「保守思想」の萌芽もこの本で確認できます。

(僕的に)この本のポイントは、これまで否定的にしか使われなかった「ナルシシズム」を、ある種(意図的・戦略的に)よきこととして語っている点にあります。ナルシシズムは、基本的には、伝統的な恋愛論では批判の対象でしかなかったのですが、これを敢えて、肯定的に捉えようとしているんですね。

スティグレールによれば、現代という時代は、「『私』を愛し、『われわれ』を愛し、そして、『われわれ』の中で生きる『私』を愛するという人間にとって根本的に必要なナルシシズムが頓挫する時代」(p.26)なんだそうです。

彼に言わせれば、、、

ナルシシズムは、「人間にとって根本的に必要なもの」だということなのでしょう。フロム的な「エゴイズム=利己主義」という意味とはかなり違っているようにも思えますが・・・ スティグレールは、根本的に「ナルシシズムの能力が構造的に剥奪されていること」を警告しています。<「私」の「私らしさ」が消える>、とさえ言います(p.28)。「私」を見失い、そして、「私」を愛せない人が増えている、というのは、僕自身もすごく強く実感することであります。

僕自身は、(ある種健全な)ナルシシズムの塊みたいなものですが、たくさんの若者に触れている身としては、「みんな大丈夫か?」、と心配になるほどに、自分を愛していないのです。自分勝手・自分本位という意味では、エゴイズムであふれかえっている恐れはあります。

エゴイズムが蔓延している一方で、ナルシシズムが剥奪されている?!

スティグレール、いいこといっぱい言ってます。

現代日本を考える上でも、結構参考になるような…

「技術のシステムが変化するとき、既成の社会システムとのあいだでずれが生じ、不安定な状態が引き起こされます… ややもすれば激しい争乱として現れます。しかし… この混乱の過程が、『私』のナルシシズム的なポテンシャルエネルギーの破壊によって生じる個体化の衰退と組み合わされるとき、…社会における調整の狂いは限界に至るのです」(p.32)。

スティグレールは、「個体化の衰退」を懸念しているようです。

「ナルシシズムの頓挫」とセットになっている概念です。

「文化産業にコントロールされることで、暦と地図のシステムは今や形骸化しつつあります。そしてその結果、先に述べた本源的なナルシシズムが破壊されていき、個体化が阻まれてしまうのです。暦と地図のシステムは、計算可能性を超えた何ものかに関わるものです」(p.45)

かなり独特な言い回しだけれど、スティグレールはどうもこのナルシシズムと個体化の危機をやはり強く意識しているようです。

最後に、9.11のことに触れ、「悪」について、こう述べています。

「悪とは何よりもまず、悪を告発するだけで思考しなくなることであり、『われわれ』というものの未来を憂えるような「われわれ」を「われわれ」が諦めてしまうこと、批判やあらたなものの創出、すなわち取り組んで闘うことを「われわれ」が放棄してしまうことなのです」。

これは、今の日本においても、よく当てはまる指摘じゃないかな、と思います。

***

どうして、保守主義が世界的にこんなにも広がってしまったのだろう!?

そのことを考える上で、とても参考になる本のように思います。

この本では、「われわれ」の分断の話がたびたび出てきます。

日本でも、どんどん「われわれ」が分断されつつあるように思います。

(ネット上では、常に、そういう分断が無数に行われています)

これからの時代を考える上で、非常に示唆的な本であります。

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恋愛交差点9 -「Beの愛」の真諦-

2016-11-04 11:55:58 | 恋愛と性と結婚

不定期連載<恋愛交差点>、そのpart9★

今回は、「Beの愛」の真諦について。

Beの愛について、少しフロムの発言に沿って、語ってみました。

今回は、特に「西洋思想」の文脈の中で、Beの愛について考えてみました。


Beの様態は、能動的であり、生産的であることである。

フロムは、「自分の人間的な力を生産的に使用するという、内面的能動性」(p.126)と書いている。ゆえに、Beの愛もまた、能動的であり、生産的でなければならない。

では、能動的に愛すること、生産的に愛すること、それはいったいどういうことなのだろうか。自分の人間的な力を誰かのために生産的に使用する、とはどういうことだろうか。

フロムは、このBeの様態について、次の三つの視点を提示している。すなわち、①独立、②自由、③批判的理性である。Beの愛を生きる人は、独立(=自立・自律)しており、誰にも支配されていないという意味で自由であり、そして、批判的理性をもっている、ということになる。

これは、まさに、近代の西洋的な人間の「モデル」と言えるだろう。フロムの恋愛観は、ある意味で、近代西洋の「典型」であるとも言える。

当然ながら、近代的な家族もまた、この理想的な人間モデルを前提に構成されている。父も母も、共に独立しており、自由であり、共に批判的理性を持ち合わせていることが、前提となっている。もしかしたら、「一夫一婦制」というのは、そうした近代的な人間モデルを体得した人以外には馴染まない制度なのかもしれない。

***

このBeの愛の逆を語れば、Haveの愛がより深く見えてくるだろう。

独立していない人は、誰かに依存している。誰かに依存している人は、自らの意志で行動することができない。誰かの顔色を窺っている。<見る立場>には立っておらず、<見られること>を強く意識するので、受動的である。受動的に生きている。だから、誰かを愛することではなく、誰かに愛されることに執着する。また、恋人ができても、誰かに依存しているので、その恋人が他者にどう評価されるのかを意識する。「されること」に己の価値を見いだしている。

自由でない人は、当然ながら、相手の自由も認めない。前近代的な男女や家族は、互いに(あるいは共同体的に)自由を制約し合うことで成り立っていた(今もそういう男女や家族があることは否めない)。自由な人は、誰かの意志に従うのではなく、自らの意思に従う。「should(第三者の意思)」ではなく「must(己の意思)」に基づいて行動できる人である。「相手に愛されているから」ではなく、「自分が愛するべきだと思うから」、その人を愛するのである。「自由意思=free will」は、近代的な思想そのものである。

批判的理性を持ち合わせていない人は、自分に対して無批判的であるがゆえに、自分の欲望や欲求に流されてしまう。そのつど、そのつどの自分の感情に支配されてしまう。誰かに依存したり、誰かに支配されたりしているのみならず、自らに依存し、自らに支配されているのである。愛するか愛さないかもまた、自分の気持ち次第、ということになる。自分の気持ち=感情=欲望=欲求で恋愛している人は、すべてHaveの愛であった。

***

これらの見解をまとめると、Beの愛とは、他人からも自分自身からも自由であり、他人にも自分自身にも依存しておらず、自分のSollen(当為=must=自らの意思において「すべきである」と思うこと)に基づいて、誰かのために生産的な行いを為すこと」、となる。

こうしたフロムのいうBeの愛が、われわれに実現可能なのかは分からない。とりわけ日本人であるわれわれは、「独立」も「自由」も「批判的理性」もまだまだ十分に持ち合わせていないように思われる。のみならず、当の西洋においても、こうした理念が実際の人間に実現可能なのかも、疑わしくなっている。

ただ、われわれも、そういうBeの愛を生きた人・生きている人を知っている。「自分の人間的な力を誰かのために生産的に使用している人」を知っている。自分のために誰かを愛するのではなく、相手のために相手を愛する人を知っている。利己的な人間がはびこる中で、利他的な人間がいることも知っている。ゆえに、全ての人に実現可能かは別としても、人間において可能であることであることは間違いない。

しかも、この理念は、現行の教育基本法においても確認することができる。

→「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う

→「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する

幼児教育もまた、「生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」であり、そこで想定されているのは、独立し、自由であり、批判的理性の土台の形成であると言える。ゆえに、Beの愛=Beの様態は、教育に携わる全ての人の「理念」であるとも言えるだろう。

***

…とはいえ、、、

独立、自由、批判的理性…

どの言葉も、今の時代となっては、「しらじらしさ」さえ感じる言葉になってしまっているのではないだろうか。自由を求め、批判的理性を働かせることに、現代を生きるわれわれはどれだけ信頼を置いているだろうか。「自由なんて、絵に描いた餅に過ぎない。そんなものを求める時間があったら、働け!」、と。そう言われそうな気がしてならない。さらに、「Beの愛なんて要らないんだよ。Haveが大事なの。もっているものをもってなきゃ、どうにもならないの」って…それが、現代の風潮のような気がしてならない。

けれども、それでも、僕らはこの理念を大事にすることもかろうじて意識している。

恋愛には、訓練が必要だ、とフロムは主張している。

その辺のことはまた、別の機会に…。

 

PS

●きっと「家族支援」というのも、Beの愛の実践なんだろうな、と思う。独立していて、自由で、批判的理性を持ち合わせた人は、きっと子育てに躓くことはないだろう。どんな人でも子育てに苦悩はすると思うが、「虐待」や「殺害」に代表されるような恐ろしい事態には陥らないだろう…

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恋愛交差点8 -恋愛感情と睡眠-

2016-05-11 11:56:01 | 恋愛と性と結婚

不定期連載、シリーズ8話目。

これまでの「恋愛交差点シリーズ」はこちら

今回は、「恋愛感情と睡眠」の類似性について。


恋愛感情は、どこから生じるのか

これが僕の恋愛論の究極の問いである。

もし恋愛感情が、自分の意志や判断によって生じているものであるとしたら、この感情は意のままにコントロールすることが可能であり、自分が「惚れたい」という相手に対して、自ら恋愛感情を生み出すことができるはずである。

「あー、Aさんって、優しくて、穏やかで、教養もあって…」、と思ったら、自ら恋愛感情を引き起せばいい。

しかし、そんな単純なものではない。「Aさんは、素敵だけど、恋愛感情は抱かない」、というケースもあるし、それは誰でも容易に想像できるだろう。「いい人だと分かっているけど、好きになれない」、と人は言う。

「好きになれない」という言葉に、恋愛感情の難しさがある。

他方、もし恋愛感情が、他人の意志や判断によっているとしたら、恋愛感情は、他人からのマインドコントロールということになる。相手の意志や作為によって恋愛感情が生じているとすれば、恋愛感情は、相手の策略にはまっていることとなり、相手に感情をコントロールされていることになる。

そういう恋愛もないとは言わないが、相手が仕掛けた罠?に引っかかるほど、人は単純ではない。それに、もし優れた恋愛感情引き出し人がいて、誰に対しても恋愛感情を引き起こせる人がいたとしたら、その人は、もう人間ではなく、エスパー、ないしは魔術師である(苦笑)

自分でもなく、相手でもない、何者かによって引き起こされているのが、「恋愛感情」なのではないか。

第三者がいるのである。

しかし、自分の恋愛感情を引き起こす存在のことを、僕らは誰も知らない。脳科学者は、脳がそれを引き起こすのだ、と説明するだろうが、その「脳に恋愛感情を引き起こさせるものは何か?」、と問うと、きっと黙ることだろう。ひょっとしたら、「視覚」がそれを引き起こすのだ、と言うかもしれないが、なぜ、ある特定の人が視界に入った時に、脳が刺激され、恋愛感情が引き起こされるのか、については説明できない。それに、視覚障害をもっている人も、恋愛感情を確かに抱いているし、それ以外の障害においても、その障害ゆえに恋愛感情が阻害されるということはない。

恋愛感情は、どこから引き起こされるのか。

どれだけ考えてもよく分からない。


他方、睡眠について考えてみたい。

睡眠は、いったい誰によって引き起こされるのか

これもまた、恋愛感情と同様の思考プロセスを辿ることになる。

もし自分自身が睡眠を引き起こしているとすれば、どんな時でも、意のままに寝入ることができるはずである。だが、経験的にも、そんなことは不可能だ、ということは誰でも知っている。もちろん「どんなところでもすぐに寝られる」という人もいるが、その人は特殊な能力をもっている人に過ぎない。

「寝たいのに、寝られない」、という言葉をよく聞く。自分の意思としては、「寝たい」のに、「寝ることができない」のである。この言葉からも、睡眠が、自分の意志や判断ではない別の力によって引き起こされていることが分かる。

では、他人の誰かが眠らせているのだろうか。これもまた、エスパーの話になってしまう。「眠れ~、眠れ~」と魔術をかけることで、寝られるとすれば、それはそれで面白い話にはなるが、現実的ではない。

睡眠障害が跋扈する現代社会においては、「睡眠薬」を服用している人も多いと聞く。睡眠薬でしか寝られない人、というのも確かに存在する。そういう人は、存ぜぬ他者が作り出した薬によって寝ているわけだから、他人に眠らされていると考えてよいだろう。

だが、そういう人を除けば、多くの人が、自分でもなく、他人でもない何かによって、眠りの世界に誘われているのである。それはいったい誰によって引き起こされているのか?

僕は基本的に、ベッドに横になったら数分で、睡眠の世界に入り込んでしまう。が、たまに、タイミング(timing)を逃して、数時間、ベッドの中でもがき苦しんでいる。「寝られねー!!!」って、心の中で叫びながら…。けれど、いつの間にかに眠り込んでいて、翌日の朝を迎える。

睡眠においても、それを引き起こす存在も、また、その眠りから覚醒へと導く存在も、僕らは何も分かっていないのである。

いったい、誰が「眠り」を引き起こしているのか? これもまた謎のままに留まっている。


恋愛感情を引き起こす第三者とは誰なのか?

また、

睡眠へと導く第三者とは誰なのか?

*ルソーのいう「一般意志」とは別の一般意志のようなもの?、か? ルソー曰く、「政治体は、また、一つの意志をもつ精神的存在である。そして、この一般意志は、常に全体および各部分の保存と幸福をめざし、法律の源泉となるものであるが、国家の全メンバーにとって、彼ら相互の関係および国家との間における、正と不正との基準となるものである」。さすがにこれではないだろう、と。

また、この問いは、重なり合うのか、まったく異なる問題なのか?

恋愛も、睡眠も、現代社会の大きな課題となっているように思う。

抽象的に言えば、この「第三者」が死にかけているようにも思うのである。

恋愛に青春時代のすべてをかけていた40代~50代と違って、今の若い人たちは、恋愛に対してかなりドライのような気がする。もちろんお盛んな若者も少なくないが、かつてと比べると、恋愛感情に大きな期待や喜びを感じていないように思う。事実、昔よりも、街でいちゃつくカップルはずいぶんと減ってきているように思う。

と同時に、現代人の多くが、「寝たいのに、寝られない」という苦悩を背負って生きている。僕もその一人かもしれない。精神障害も、その目に見える症状として、「寝られないこと」が挙げられる。全国民の20パーセントほどと言われているので、ざっと考えても、3000万人くらいの人が、「寝られないこと」に苦しんでいることになる。

どうしたら寝られるようになるのか。

事実として、自分の意志や努力で、どうなるものではない、としたら、どうすればよいのか。

睡眠の神様がいるのであれば、是非とも教えてもらいたい。

と同時に、恋愛感情もまた、それゆえに苦しんでいる人はたくさんいる。「どうしてこんな人を好きになってしまったのか」、と悩んでいる人は多い。「嫌いになりたいのに、好き」、という人は、「寝たいのに、寝られない」のと同じレトリックになっている。

恋愛感情と睡眠は、一つの考察対象となるように思えてくる…。

 

眠りを導く存在とは?

恋愛感情を引き起こす存在とは??

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恋愛交差点7 -愛されない苦しさについて-

2016-02-25 10:10:09 | 恋愛と性と結婚

不定期連載シリーズ「恋愛交差点」、Part.7。

これまでの「恋愛交差点」についてはこちら

今回は、「愛すること」ではなく、また「愛されること」でもなく、「愛されないこと」について考えてみたい。

愛されないことの意味というか、愛されないことの苦しさについて語りたくなった。


ある幼い子どものいる女性(アラサー)が嘆いていた。

もう、旦那との間に愛情はない。私は愛されていない。きっとこれからも旦那に愛されることはないだろう。別の人に愛されたいと思うけど、もうこの年齢になり、体形も変わり、子どももいたら、誰にももう愛されないだろう。このまま、私は誰にも愛されないまま、生きていかなければならないのだろうか。もう、お金しかすがれるものはないのだろうか」(大意)

未婚であろうと、既婚であろうと、人は、誰かに「愛される」ことで、我を見失わずに、生きていくことができる。誰かに必要とされること、誰かに期待されること、誰かに信じてもらえること、そういうことがあって、人は、「頑張って生きていこう」と思えるようになる。

けれど、この女性は、最も愛してもらいたい存在である夫に、全く愛してもらっていない。また、他の男性にも愛してもらえないことを悟り、深い絶望を感じている。

子どもがいる、というが、子育ては大丈夫だろうか。母親が深い孤独や絶望の中に沈んでいる状態で、まともな子育てができているのだろうか。ふと、心配になる。感情というのは、不思議にも、伝播する。不安定な親に育てられた子どもは、のちに、自分自身も不安定になる(傾向が強い)。

それはともかく…

既婚者であっても、「愛されないこと」に苦しんでいるのである。パートナーや恋人がいたとしても、その人に愛されているかどうかは、(よほど鈍感でない限り)分かるものであろう。否、感じるものであろう。

結婚した後に、自分が相手から愛されていないことを知った時、僕らはどうすればよいのだろうか。自分のことは愛していないけど、とりあえず結婚した、ということが分かった時、僕らは、その苦しさを解消すればよいのだろうか。安易な処方箋は、期待できそうにない。自分を愛してくれていない相手を、愛し続けなければいけないのだろうか。

未婚であれば、別れればいい。それで終わる話だろう。(共依存関係でない限り…)

だが、子どもがいたり、既婚だったりすると、「はい、グッバイ♪」というようにはいかない。上の女性もそうだが、幼い子をもつ場合、なかなかすぐに働くことはできない。働くことを旦那に認めてもらえない場合もある。つまり、愛されていないからといって、ただちに離婚することはできないのである。(相手が不倫していたり、借金を抱えていたりしていなければ、なかなか(本人が望むような)離婚に至ることはできない)

パートナーに愛されていない、否、そもそも愛されていなかった、という歴然とした事実に直面した時、僕らは、いったいどうすればよいのか。


愛されない苦しさというのは、既婚者だけの話ではない。

現在、「おひとりさま」の人生を選ぶ人たちが増えてきている、という。「結婚をしない人生を選んだ」、とさらっという人も出てきている。経験的にも、30を過ぎて「独身」という人はいくらでもいるし、40過ぎても結婚を望んでいない人もとても多い気がする。理由はさまざまだろうが、とにかく、「独身」という生き方を決断しようとしている人の数は、年々増えているように思えてならない。(あるいは、僕ら世代に特徴的な事柄かもしれない)

ある40代の独身男性が言っていた。

もう、今となっては、恋愛をすること自体が面倒くさい。経験的に、恋愛をしても、成就することはないって分かっている。誰かを好きになっても、どの道、ふられるか、相手にされないか、そのどちらかだ。もう傷つきたくはない。もう何十年も、独り身でいると、それが辛いとは思わないし、逆に誰かと一緒に生活するなんて、もう考えられない。このまま、独りで生きていくよ。もう、誰かに愛されることなんて、期待もしてない…

この男性は、もう、誰かに愛されることを全くもって期待していない。異性への失望か、あるいは慣れか…。その真意は分からないが、40代の今、もはや結婚への期待はほぼゼロで、むしろ、独身で生きることの方がよいとさえ考えているのである。

日本の男というのは、自分のホンネや感情を他人に話すことに慣れていない。だから、彼のこのコメントの真意はやはり分からない。でも、その話しぶりを見ている限り、「愛されない苦しさ」、というか、「愛されない寂しさ」はたしかにあるように思えた。が、上の女性とは異なり、「愛されないこと」に対する感情はことさら強調されない。もしかしたら、「愛されないこと」に苦しまないようになり始めているのかもしれない。

絶望か。感情の鈍化か。あるいは、悟り、か。

今後、「生涯独身の道」を選択する人が増えていく中、この問題は避けて通ることはできなさそうである。

***

誰にも愛されない苦しさや寂しさとどう向き合っていけばよいのか。

特に、50代~60代になった時に、「誰にも愛されない苦しさ」とどう向き合えばよいのか。無論、多くの人は、パートナーの愛情などなくとも、(その代替となる)友情や趣味や道楽があれば悠々と生きていける。(この場合、愛情云々はともかく、「パートナー・仲間がいる」ということで、ある程度の孤独は軽減されている)

でも、友情や趣味や道楽では解消できない深い孤独感に苦しむ人も、中にはいる。もしかしたら先日捕まった清原和博も、そういう一人だったのかもしれない。

誰からも愛されない、誰からも必要とされない、誰からも求められない、そんな苦しさが続く日々。更には、誰からも疎まれ、誰からも厄介者扱いされ、誰からも見向きもされないという状況が続く日々だとしたら…

誰であっても、そんな状況には耐えられないだろう…。


愛されない苦しさや寂しさは、きっと、これからの日本で大きな問題となるだろう。

欧州では、かなりの年齢になっても、自由に恋愛し、再婚している。40代、50代の恋愛もなかなか盛んらしい。僕も、50代の男性、女性が積極的に恋愛している知人・友人を知っている。60歳~70歳になっても、恋愛に積極的な人もかなり多い。

けれど、日本の50代~60代が積極的に恋愛をしているとは、なかなか考えにくい(僕が知らないだけかもしれないけど…)。芸能界では、60代の男性と20代~30代の女性がくっつく、という話がよく出てくるが、そういう話ではなく、50代同士、60代同士の恋愛のことを言っている。

40になったばかりの若造の僕にはまだまだ分からないことだらけ。

でも、これからは、壮年期の大人の「愛されない苦しさ」について考えていきたいと思う。まぁ、『黄昏流星群』を読めば、色々と分かるんだろうけど…。そういう漫画も材料にして、実際のところ、どうなのかな?という感じで、考えていきたい。

こうやって、「愛されないこと」について考えると、逆に「愛することの意味」もなんか見えてきそうな気がする。(まだうまく言語化できないけど…)


<結語>

愛されないことの苦しさに耐えられない人のために、もしかしたらドラッグや覚せい剤があるのかもしれない。

それくらい、愛されない孤独は耐えがたいものなのだろう、とも思う。

まだ、その克服の方法を堂々と言える段階にはない。

ただ、一つだけ言えるのは、「その愛されない苦しさについて、誰かに、もっともっと言ってもいいのではないか?」、ということ。「私は愛されていない(;;)」と外に語れば、きっと、誰かがフォローしてくれる。

「愛してくれる対象」は何も、異性やパートナーや夫・妻だけではない。愛にはいろんなカタチがあって、また、色んなタイプの愛情がある。友達だったり、SNS上でしかやり取りのない人だったり、あるいは、憧れのロックスターやアイドルの(妄想上の)愛情だったり…。更には、自分の子どもからの愛情だったり、隣近所のおじいちゃん・おばあちゃんだったりするかもしれない。あるいは、飼っている犬や猫だったり…

愛されていないと嘆く人は、愛の対象を拡大してみればよいのかもしれない。最終的には、「神様からの愛」「先祖からの愛」に達し、それで救われるかもしれない。

人間は、いつの時代でも、どの地域でも、絶対的な存在(存在者)としての神(神々)を打ち立ててきた。それは、きっと「最終的な存在」として、神を打ち立てずにはいられない故であろう。

愛されないことに苦しんでいる人は、少しだけでもいいから、間口を広げて、これまでとは違うタイプの「愛の対象」に想いを馳せてみるといいかもしれない。

愛は、そんなに狭いものではないだろうし、また、異性愛に限定されるものではないだろう。

そして、究極的には、どんな人も、この世界のどこかの誰かに愛されている存在なのだろう。

それに気づけるかどうかは、きっとその人次第、ということになるのだろうか…。

ただ、それでも、僕は「愛されないことに苦しむ人」に希望を見いだしたい。それは、まだ、その人は「誰かを求めている」からである。愛されないことを苦しいと思う感情をもっているからだ。逆に、「もう誰にも愛されないことに何の感情も湧かない」という人を想像すると、そこに、何にも言いがたい絶望を感じる。

愛されないことに苦しむ人は、他者を求めない、他者に期待しない、他者からの愛を求めない人間ではない。求め、期待しているからこそ、苦しんでいるのである。

とすれば…

愛されないことに苦しむ人自身は、人間存在に対して何かを求め、期待しているということになり、つまりは、人間を愛している人間だ、ということになる。(「誰にも求められない」「誰にも期待されない」というのが愛の欠如であれば、その人は、愛を与えている存在となる。求め、期待することが「愛すること」であるならば、その人は、すでに人間を愛している、ということになる)

そこに、僕は一筋の光を見いだすのである。

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愛とお金、どちらが大事?! 少しだけ愛を語る。

2015-10-31 22:33:51 | 恋愛と性と結婚

 

 

ツイッターの新しい機能を使って、やってみました。

この究極の二項対立。

勝ったのは、でした。

結構、意外、というか、、、

ちょっと、よかった、っていうか。。。

***

でも、、、

お金を稼ぐことより、愛を大切にすることの方がよっぽど難しいこと。

愛を大切にする努力を、常に続けたいものです。

愛されないことを嘆く前に、愛する努力をしているか、たまに反省したいですね。

相手に文句を言う前に、自分が最近文句ばっかり言っていないか、反省したいですね。

相手を責めてばかりいないか。

相手を大切にしているか。

相手をリスペクトしているか。

相手を、一人の人間として、大事にしているか。

それを怠れば、愛は壊れてしまいます。

愛を持続することは、何よりも難しいなぁ、と最近しみじみ思います。

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恋愛交差点6 haveの愛とbeの愛を問い直すー「手に入れる愛」と「そこにある愛」

2015-07-25 17:00:32 | 恋愛と性と結婚

 

不定期シリーズ「恋愛交差点」、Part.6。

某講義の<番外編>として、改めてエーリッヒ・フロムの「Have」と「Be」の問題を問い直いしてみたい。

というのも、この「Have」と「Be」の両者について、もしかしたら僕は誤解していたのかもしれない、と思ったからである。

特に「Beの愛」である。

***

haveの方の理解は、さほど変わらない。

恋愛論で言えば、「恋人をもつ」、「恋人を手に入れる」、「恋人を確保する」、「恋人(=物として)を入手する」、そういったもろもろの行為、あるいは、そのための努力については、言うまでもないし、もう語りつくした感がある。対象化された「恋人」は、己の「主観」によって、評価されることになる。「イケメン」、「カネモチ」、「将来性アリ」、「やさしい」、「背が高い」、「マッチョ」…

問題は、「Beの愛とはいったい何か」、ということになる。

僕はずっと、この「Beの愛」を、「共にいる」、あるいは、「一緒にいる」ということに、その根源を看取していた。「居心地のよさ」や、「気づいたらそばにいた」、といったことも、このBeの愛の典型例だと思ってきた。相手を対象化しないで、いわば「相互主観的」な存在として、あるいは「相互存在」として、そこにいる存在(Dasein)として、考えてきた。

でも、そうじゃないんじゃないか、と思うようになってきた。そんなレベルの愛じゃない、と。

Beの愛というのは、「常にすでに存在している愛」、という方がよいのではないか。

つまりは、「そこにある愛」、と考えるべきではないのか、と。

極論を言えば、「特定の彼氏/彼女/パートナー/つれあい」などがいなくても、「ある愛」、というか。

けれど、ここで、「神の愛」や「アガペーの愛」を挙げたいわけではない。

そうではなく、「常にすでに存在する愛がある」、と、そう言ってみたいのである。

フロムは、「Haben oder Sein」(『生きるということ』)という書物の中で、松尾芭蕉とゲーテの例を引き合いに出しつつ、次のように述べる。

あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である」(pp.38-39)。

ある愛(在る愛)というのは、なる愛(成る愛)だ、ということになる。

さらに、こうも言っている。

「私たち人間には、ありたいという生来の深く根ざした欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき、利己心の独房からのがれ出たいという欲求である」(p.142)

この彼の一文から、Beの愛を考えると、どう言えるのだろうか。

概念的に、フロムの言葉で言えば、「活動(Tätigsein)」、「連帯(Solidarität)」、「利他性(Altruismus)」、ということになろうか。

これらは、すべて自分が求めるものである。

また、「Vom Haben zum Sein」という本の中では、ナルシシズムと所有欲を否定したのちに、次のように書いている。

私がhaveを求めている限り、その時の標語は、「私は、私がもっているところの存在である」となる。が、そのhaveを打破したならば、その時の標語は、「私は、私が引き起こしている(生じさせている=bewirken)ところの存在である」、となるだろう。あるいは、単純に、「私は、私であるところの存在である」、となるだろう」(S.157)

自分が引き起こしているような愛、きっとそれが、成る愛、すなわち、Beの愛なのだろう。

その自分が引き起こしている愛というのは、フロムに即して考えれば、行為的(tätig)であって、連帯的であって、そして利他的である、ということになる。

つまり、「常にすでにある愛」というのは、「私自身の存在から、私自身の行為によって、生じてくるような愛」、ということになる。

Haveの視点で、恋愛を語ると、どうしても相手の「特性」に目を向けざるを得ない。だけど、Beの愛というのは、Haveの愛とは全く別で、自分自身の存在から引き起こされるような愛、ということになる。つまり、自分の誰かへの行為的で活動的な愛、ということになる。

そう考えると、自分が存在する限り、愛もまた存在することになる。なぜなら、自分自身がその愛の源となるからである

私という存在は、ただ所有する存在であるだけでなく、誰かを愛する存在であり、また、自分自身をも愛する当の主体なのである。

では、、、

「私が生み出す愛」とはいったいどんな愛なのだろうか。

それは、これからの個々の自分たちの「生き方」にかかわるものであろう。これから、どのように愛する活動をしていくのか。その時に、haveに転落することなく、自らの活動をもって、そして、連帯や利他性へと向かって、歩んで行けるかどうかにかかわるものである。

愛することは、常に、「今」と関わっている。今、自分が愛する存在となっているかどうか。

誰かのために動けているか。誰かのことを思って、行動できているか

そこに答えなんて、きっとないんだろう。

誰かのために動いたことが、その誰かにとっての愛となる保障は何もないからである。

でも、、、

答えがないままで、いわば五里霧中の中で、手を伸ばす勇気をもてるかどうか。

その手こそ、きっとBeの愛の、最も具体的な実践なのだろうな、と。

そして、その実践は、不安定で、孤独で、報われず、結果もすぐに出てこないような実践であろう。

厳しい実践でもある。

信念の実践でもある。

***

先日、若い子から、「自分を愛せないのだけれど、どうしたらよいのでしょう?」、という相談を受けた。

今、この問いに答えるとしたら、こう言うだろう。

「自分を愛していない自分自身を、自分を愛する自分に変える努力をしよう。きっと、「愛せない自分」を愛せる自分になることはできるだろう。自分を愛さないという選択肢があってもいい。だけど、自分を愛さない自分も自分だし、また、自分を愛する自分もまた自分である。自分を愛せないことが辛いのであれば、(愛するに値しない)自分を愛せる自分へと成長するしかない。そのために、あなたは最大限の努力と労力を発揮すべきだろう。あなたは、愛するに値しない誰かを愛せるだろうか。まず、練習として、自分が愛せない人を愛してみたらどうだろうか。自分が嫌いだと思う人にやさしくしてみたらどうだろうか。それができなければ、きっと、あなたが嫌いだと思う自分自身を愛することはできないだろう」

と。

ゆえに、Beの愛というのは、いつでも、自分自身が問われるような愛なのだろう。

私は、愛する行為の当事者である。

私は、愛することを怠っていないだろうか。

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インターネットで恋人を見つける時代に

2015-05-15 14:52:27 | 恋愛と性と結婚

先日、学生と話していて、「ほー」と思うことがあった。

それは、インターネット上のSNSで恋人を見つけた、という話だった。

僕個人的に、とても興味深かった。

しかも、その一人は、日本国外にいる恋人(日本人)ということで、さらに目が丸くなった。

***

僕ら世代が学生だった頃、ちょうどその頃に「インターネット」が普及していった。

その頃はまだ、ブログもmixiもツイッターもLINEもない時代。

それでも、ネットでの出会いというのは、一部の間ではあった。

けど、その頃(1995年頃)に、パソコンでインターネットを使いこなせる人はそう多くはなかった。

だから、僕のまわりでも、「ネットで恋人を見つけた!」なんて話はなかった。

なので、リアルな現実の中で、恋人を見つけるしかなかった。

僕的には、「旅先で出会う恋」に、めちゃめちゃ憧れていた(苦笑)。

***

さらにさかのぼると、80年代には、雑誌で「文通友達」を見つけることができる時代もあった。

僕は中学生の頃、何人かの女の子と文通をしていた。

毎週二通くらい書いては、手紙を受け取っていた。

主にZI:KILLや、D'ERLANGERや、BUCK-TICKの話ばっかだったような、、、

で、実際に、その文通相手の女の子に会いに行ったりもした。

一人、とても仲良くしていた子がいたけど、実際に会った後、連絡が途切れてしまった(苦笑)。

まぁ、僕が「想像していた人」と違ったのでしょう(;;)

***

恋人の見つけ方は、その時代その時代に合ったものがあって、出会い方もそのつど違ってくる。

今は、ネット上で、いくらでも人とつながることができる。

これを警告する人もいるけど、昔に比べれば、そのリスクは減っているように思う。

例えば、ツイッター。

ツイッターって、日々の「つぶやき」を過去にさかのぼってみることができる。

だから、その相手が、普段どんなことを考え、どんなことを発言しているのかを「点検」することができる。

それに、「フォロー」と「フォロアー」を見れば、だいたいどんな友好関係にあるのかもすぐに「確認」することができる。

友好関係が見えれば、その人がどんな人か、だいたい分かるものだ。

また、どんな人間がその人のつぶやきにコメントをしているのかもチェックできる。

用心深い人であれば、だいたい、その人がどんな人か(かなりのところまで)理解できるはず。

ブログをやっている身としても、思い当たることが多々ある。

だいたいブログを見れば、その人の「像」が浮かぶ。

「この人は、ブログを見る限り、とてもよい人なんだろうな」、というのは分かる。

で、そういう人とは、ブログを通じて、仲良くなれる。

facebookも同じだ。

facebookを見れば、だいたいどんな人か分かる。

何も書いてない人は、その人=「分からない人」だと分かる。

きちんと文章を書ける人であれば、まず最低限、信用して大丈夫だろう、と判断する。

もちろん「書き言葉」が上手だからといって、「話」が上手とは限らない。

むしろ、書き言葉が上手な人ほど、しゃべり下手だったりもする。

でも、「書き言葉」は、その人のリアルな姿を映し出す。

ネット空間は、「文字空間」だから、それが如実に表れる。

***

僕が今、リアルに若者だったら、ネットで恋人ができたりするのかなぁ、なんて考えたりもする。

恋愛って、それぞれ一つ一つに物語=ストーリーがあるから、一概には言えないけど、

リアルな世界以上に、予想外の出会いがあったりもしたんだろうなぁ、と。

ただ、現状のネット世界だと、自分の私生活がかなり晒されてしまうので、「ミステリアス感」はなくなる。

バンドマンがそのいい例だろう。

バンドマンが毎日ツイッターで呟いていたら、「カリスマ性」も「ミステリーさ」も「神秘性」もなくなる。

今のバンドマンは、普通に、毎日、つぶやいている。

それはそれで、「イメージダウン」につながったりもする。

きっと、「それがいいんだ」という人もいるだろうけど、、、汗

「恋人」というのは、ある程度、ミステリアスな方がワクワクする。

その辺は、現代人にとって、どうなんだろうなぁ、とも思う。

***

いずれにしても、現代の若者は、ネットで恋人を見つける、というのが当たり前になってきている。

それがどういう「帰結」に向かうのか。

今、ネットで恋愛をしている人にかかっている。

それがうまくいく場合と、うまくいかない場合の「検証」もこれからだろう。

僕は結構楽観的で、「いい方向に行くのではないか」、と思っている。

でも、そのためには、こちら側のリテラシーも問われる。

「こいつは、危なさそうだ。関わらない方がいい」、という判断も問われる。

素性が分からない分、リスクもないわけではない=リスクはある。

でも、それは、リアルな出会いであっても同じこと。

相手をよく見ることをしないで、盲目的に恋愛をするような人は、ネットであれ、リアルであれ、その後に大変な状況になる可能性を十分にもっている。でも、それは、ネットのせいではなく、その人の生き方そのものが危険だ、ということである。

さて、冒頭で述べた学生は、いったいどんな恋愛をしていくことになるのか。

「その後」の報告を楽しみに待つことにしよう。

若者たちは、「これからの恋愛」をつくる当事者でもある。

よき恋を♪

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男が知っておくべき女の特性とは…

2015-05-13 21:42:36 | 恋愛と性と結婚

このブログでは、時折、男女論を書いています。

今回は、「男が知っておくべき女の特性について」、です。

この逆については、もう、みんな知っていると思います。

女が知っておくべき男の特性とは、「男はみんな、例外なく、エロい」、ということです(苦笑)。

まー、そんなことは、言わなくても、男女問わず誰もが知っていることでしょう。

***

さて。

男が知っておくべきことであるにもかかわらず、あまりにも知られていない女の特性があります。

それは、

おしゃべり

ということです。

女という生き物は、とにかく、しゃべります。

しゃべらないと、死んでしまう生き物ではないか、と思うほどに、よくしゃべります。

男性諸君は、「静かで、おとなしくて、清楚な女性」が存在すると思っていますが、それは妄想なのであります。

女という生き物は、例外なく、みんなしゃべることを欲求しているのです。

しかも、その話は、抽象的な話ではなく、極めて日常的で、具体的な事柄についてです。

なので、男が聴いても、何にも面白くないことばかりなのです。

ねー、あのね、この前、友達のA子がね、仕事に行く途中に、犬を見つけたんだって。その猫、すごく黒くて、かわいかったんだって。でね、その後に、かなりイケメンの男性に声かけられたんだけど、なんか、ちゃらかったから、無視したんだって。けど、あまりにもしつこく、熱心に、話しかけてくるもんだから、ちょっとだけ、返事してあげたんだって。そしたら、それだけで、そのイケメン、嬉しくなっちゃったっぽくって、ちょうしにのって、A子の連絡先、聴いてきたんだって。なんか、すごい軽くない? もちろん、A子は、そのまま、無視して逃げたんだけどね。でね、そのA子なんだけど、最近、なんか彼氏とうまくいってないっぽくって。なんか元気ないの。で、こっちから、「大丈夫?」って、連絡いれたんだけど、「大丈夫」って返してくるだけなんだよねー…

男からすれば、「あー、そーですか。で、何が言いたいわけ?」って思うわけです。

この話には、実はオチはなくて、ただ、そのA子のことをネタに、話をしたいだけなんです。

その時、女というのは、「助言」や「アドバイス」が欲しいわけでは全くないんです。

ただ、しゃべりたいんです。内容は、実のところ、何でもよいんです。

そこを分かっていない男性が、実に多いんです。

女という生き物は、(男からすれば全くどうでもいい)話を、ただ共感して、聴いてもらいたいのです。

しかし、男という生き物は、人の話を聴くことができない。

特に日本の男は、しゃべるのもヘタなら、話を聴くのも不得手。

だから、無理やりでもいいから、聴いてあげている振りをすることが大事になってくる。

もちろん、話の内容なんて、真面目に聴かなくてもいい。

とりあえず、聴く、ということだけを、(自分が聴いていないということをさとられないように)、徹底してやればいいんです。

女は、しゃべれば、すっきりします。

女性だけのグループを見てみてください。

実によくしゃべります。よくもまぁ、続くなぁと思うほどに、よくしゃべります。

その中で、無口な女性も混ざっていたりもします。

そういう人は、無口で、聴き上手なんじゃないんです。

内弁慶なんです。要注意人物です。

なぜなら、そういう女性と親しくなると、普段女性グループで我慢している分、「しゃべりたい」という欲求の全てを、親しくなった男性にぶつけてくるからです。普段、しゃべりたいという欲求が満たされていない分、男性に降り注ぐ言葉のシャワーは半端ありません。

繰り返しますが、女というのは、例外なく、おしゃべりなのです。

だから、(パッと見で)静かで無口な女性というのは、そのおしゃべりを抑圧しているだけなのです。

それを、男は、「静かで、おとなしくて、いい女性」と錯覚するわけです。

それが、そもそもの間違いなのであります。

女性の中に、「静かで、おとなしくて、しゃべらないで、男性の話をただ黙って聴く」なんていう人はまず存在しません。いたら、是非教えてもらいたいものです。取材させていただきたく存じます。

で、もし、そういう女性がいるなら、それこそ、「羊の皮をかぶったおしゃべり妖怪」なのであります。

あるいは、あなたを虎視眈々とねらっている女性でありましょう。あなたがよほどのいい男でない限りは、「私の話をとにかく聴いてくれそう」、という女性本来の特性に適った男性と認定されただけであります。

男性諸君は、くれぐれも気をつけた方がよいですぞ。

***

いつものごとく、半分ユーモア、半分ホンキのエッセイでした。

ノークレームでお願いします(汗)

これでまた、女性の読者が減ったな、、、苦笑

そもそも、いないか。女性の読者、、、

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恋愛交差点5 愛されるためにはお金がかかるけど、愛することは無料!

2015-04-21 02:33:10 | 恋愛と性と結婚

久々に、恋愛交差点の続編を書きます!

前回(恋愛交差点4)は、2008年12月に書いたので、実に6年半ぶりです


恋愛とは何か。恋愛をどう考えたらよいのか。

特に最近、この国には、ますます愛がなくなっているように思う。あらゆるところから、愛が消えている。「愛のない時代」と、大真面目に言ってもよいのではないか、と思う。

原発問題にしても、愛をもってみれば、まずは被災者の方を気遣うべきだろう。被災者以上に苦しんでいる人はいないのだから。けど、この国とマスコミらは、「原発再稼働」の話ばかり。愛情を感じない。

沖縄の問題にしても、愛をもってみれば、あれだけ移転に反対している人がいるのに、「粛々と」と、ヒトラー時代の誰かみたいな発言を繰り返すばかりで、為政者たちは誰も、沖縄の人たちの声を聞こうとしないでいる。これって、愛のない政治としかいいようがない。色々と政治的な利害関係があるにしても、あれだけ皆が嫌がっているのに、何も変えようとしない。愛情がない証拠。

報道ステーションの古賀さんの問題も、愛をもってみれば、「あれだけこの国のために自らの危険をおかしてまで、警告を鳴らしている」ということで、尊敬すべきことだと思う。なのに、国もマスコミも誰もかれも、古賀さんを総バッシング。愛のない国。

アジアの近隣諸国との問題も、やはり愛なき外交と思わざるを得ない。政治的に不安定だと、僕ら普通の人が近隣国の人と会っても、本当にぎこちなくなる。政治的な安定こそが、一番大切なのに、わざわざ問題を起こす方向で、色々とやってしまっている。愛情を感じない。

それだけじゃない。

最近、本当に結婚をしない人たちが増えている。「できない人」もいるけれど、「しない人」が増えていることが気になる。男女の恋愛というのは、いつの時代も、かけがえがなく、尊く、愛しく、そしてはかないもので、皆がひきつけられるもの。なのに、それを拒絶する人が増えている、という。恋人のいない若者も、年々増えてきているそうで。

これまで、僕は「恋愛がある」ということを前提として、恋愛を考えてきた。けれど、今の時代では、「恋愛なき時代」なんだ、という前提で考えていかなければならないのかもしれない。この7年で、その辺が大きく変わった気がする。

恋愛に力がない時代、というか。。。


そんな時代に、改めて、恋愛を考えてみる。

今回、僕が、「ちょっとこれは名言なのではないか」と思う一言を。
 

愛されるための努力には、膨大なお金が必要となる。

けれど、その結果として愛が得られる保証はない。

愛するための努力には、一円も必要ない。

なのに、愛する人は愛せるゆえにますます愛される。


今の時代も、やはり愛されるための努力をしている人は多い。たとえば、自分をよく見せたり、相手の気の惹くことを色々とやってみたり、、、さらには、整形したり、エステに通ったり、ダイエットをしたり、、、 結婚相談所の景気もまだまだよいらしい。

このように、愛されるための努力は続けられているけれど、どれもお金がかかることばかり。愛されるために必要な努力は、どれもお金がかかるものばかり。

愛のない時代というのは、愛することを忘れた人間が、愛されるためにお金を使う時代なんだ、と言えるのかもしれない。「恋人が欲しい」というのは、「商品が欲しい」というのと何も変わらなくなってしまった。(Haveの恋愛、か)

そう考える人は、たとえ恋人ができたとしても、愛する行為が何かを知らないゆえに、苦しむことになる。愛される努力しかしてこなかった人は、資本主義の思考回路が出来上がっており、お金でなんとかしようとしてしまう。自分をよく見せようとすることしかしてこなかったゆえに、「その後」が描けない。結果、大切な恋人を失ってしまう。

ストーカーという存在も、実はそういうパターンに陥っているのでは、と。

自分が愛する人が、色々と思い悩んだ末に、「別れたい」と言い出したら、どうすればよいのか。まずは、その相手が勇気を出して、「別れたい」と言ったことを認めるべきだろう。そして、相手が自分と別れることを望んでいるんだ、ということを受け入れることだ。相手は、自分と恋愛関係にあることを望んでいない、と思っている。それを第一に考えるべきだ。

相手が「別れたい」と言ったその背景には、それまでの色んな葛藤や迷いや不安や怒りや絶望が入り乱れている。それを生み出したのは、それまでの自分の態度であり、言動であり、二人の関係そのものだ。もし相手が自分といて苦しんでいなければ、「別れよう」とは言わないはずだ。無論、相手がダメな人間で、単なる遊びで付き合っていただけだとするならば、その相手を「哀れ」に思えばいい。

いずれにせよ、相手が「別れたい」という気持ちを(たとえ辛くても)飲み込むのが、愛することだったりもする。


他方、愛する努力には、お金は本当に一円もいらない。

愛する努力というのは、相手を思うこと、相手を気遣うこと、相手のために動くことなどだ。昔好きだったアリストテレスのフレーズを使えば、相手の幸せを考え、相手のために行為すること。すなわち、相手のために、相手の幸せを願うこと。

それだけだ。

とはいえ、相手のいいなりになることではない。相手のいいなりになることは、相手にとってよいことではない。相手が命令してきたとしたら、「それはよくないことだよ」、と伝えること。その上で、相手を許すこと。許しつつも、命令には屈しないこと。

だから、たとえ相手が「●●が欲しいから買って♡」、と言っても、買わなくていい。それは、愛することではない。

愛することは、誰にでもできること。でも、多くの人ができないこと。

しかも、愛するという行為は、何も特定の誰かにのみ向けられるものではない。自分の身の回りにいる人、すべてに向けることができるのだ。愛する行為に、制限はない。誰に対しても向けることができる、それが愛することのある意味での特権ともいえる。

愛する努力は、突き詰めれば、自分自身と闘い続けることなのかな、とも思う。どうしても人間は、愛されたくて、愛されるために行為してしまう。それをどこまで抑えられるか。どこまでストイックになれるか。そういう努力をしている人は、相手に信頼され、尊敬され、愛されてしまう。愛されるために一円も使っていないのに、結果として、愛されてしまうのだ。

しかし、悲しいかな、愛される努力を惜しまず、健気にお金を使い続ける人は、それゆえに愛されない。

とても奇妙な話なのだが…


最後に。

僕らはもっともっと愛することを学ばなければならないし、実践し続けなければならない。

特に、為政者たちは、愛されるため(投票されるため)の努力をしなければならなかったゆえに、愛することを知らないし、愛するための努力をしていない。常に、自分が認められるために、尽力してきている。

それは、選挙システムが機能していないということでもある。本当に為政者としてふさわしい人が選出されないシステムになっているのだから。悲しいけれど。。。

愛する能力の高い人がちゃんと為政者として活躍できるために、どうしたらよいのか。それをもっと議論しなければいけないのではないか、と思う。

失礼な話かもしれないけれど、たまに為政者(権力をもつ人)と話す機会があるけど、そういう人は、本当に「愛される能力」には長けていると思う。でも、その人たちから、「深い愛情」を感じることは滅多にない。話していても、同じ。話は上手いけれど、そこに愛を感じない。

最初の話に戻るけれど、あれだけ沖縄の基地問題で、当の住民がNO!と言っているわけで、愛のある政治家なら、「なんとかもっと頑張ってみよう」、と思うはずだし、愛のあるマスコミであれば、その当の住民の声をもっともっと世に伝えるだろう。

自分を守ることを捨てて、誰かのために動くこと。

それができる人は何よりも尊いし、素敵だ。

愛する努力、愛する行為、愛する行為の意味。

それをもっと言葉にしていかなければならないなぁ、と最近強く思っている。

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What is HEART BREAK?!-失恋の人間学的意味について

2014-11-11 19:29:29 | 恋愛と性と結婚

失恋。

LOST LOVE。

HEART BREAK。

失恋の人間的意味について真面目に語った本ってあるのだろうか。

恋愛については、人は多くを語るけれど、失恋の意味について論究する文献って、あまり思い浮かばない。


人は、失恋をする。

失恋には、基本的に二つのかたちがある。

①片思いのまま、告白して、失恋する。

②恋愛関係にはなったが、相手から別れを告げられる。

どちらも、当の本人にとってはとても辛いことだが、②の方が、いろいろとやっかいな問題を引き起こすように思われる。その代表例が、「ストーキング」だろう。男女を問わず、失恋というのは、人を時に狂わせる。

ただ、どちらにしても、失恋は、当の本人にとっては、耐えがたい苦痛となる。

「なんでだよ・・・」
「どうしてだよ?…」
「どうして、去ろうとするんだよ?」
「その理由は?」

どんな説明も空虚になるほど、その人はおかしくなる。納得なんてできやしない。

相手との距離が近ければ近いほど、そのダメージも大きい。

また、相手がイケメンだったり、美人さんだったりすると、その苦痛は半端のないものになる。そして、誰かに取られることを、極度に恐れるようになる。 「所有していたもの」が誰かに取られることは、どうしても許せない。

そういう中で、男女のいざこざが勃発する。

失恋する側は、気が気ではない。半ば、パニック状態である。抑うつ的な人は、攻撃的にはならないかもしれないが、世界が明日終わってしまうかのような絶望感に包まれる。逆に、攻撃的な人は、どこかでケンカしたり、暴れたりするだろう。健全な攻撃的な人であれば、カラオケで大声で失恋ソングを歌って、自らを慰めたり、友達とバカ騒ぎして、一時的な慰めを求めるだろう。


と書くと、失恋はネガティブなもの、となってしまう。

一般論としては、失恋はネガティブな経験であり、回避したい経験である。

けれど、見方を変えれば、失恋は、甘く切ない素敵な経験とも言えるのではないだろうか。

考えてみよう。

失恋した時のあの陶酔感は、たまらなく媚薬的なものだ。世界の中で、自分一人が残されたかのような孤独感は、なかなか味わえるものではない。音楽や小説や同性の仲間たちの大切さを再認させられる。

僕もかつて失恋した時、音楽に慰められ、小説に鼓舞され、そして、仲間に励まされて、「人っていいなぁ」って思わされた。「大好きな恋人を失っても、すべてを失うわけじゃないんだ」って思った。

10代の終わり頃に、2年くらい付き合っていた彼女にふられた時、友達と深夜バスに乗って、旅行にでかけた。彼女にふられて寂しかったけど、その寂しさというスパイスゆえに、すごい楽しい旅行になった。今でもはっきりと思いだせる。

それに、ふられると、その悔しさをバネに、成長することができる。

21歳くらいの時に、これまた後輩の彼女にふられた時、一言言われたことを覚えている。「先輩、今度付き合う人には、もっとかまってあげた方がいいですよ。寂しい思いをさせちゃダメです」、と。

その時に、はっと気づかされた。当時の僕は、「夢」ばかり追いかけていて、彼女に目を向ける余裕が全然なかった。デートらしいデートもあまりしていなかった。「夢を追いかける男」がカッコいいと思っていた。

けれど、その彼女に、指摘されたことで、自分の恋愛の仕方が変わった(と思う)。根本的には、自分に夢中な人間なので、相手がどうとかって興味ないんだけど、それ以後、ちゃんと付き合う人を見よう、気にかけようと配慮するようになった。

失恋を通して、人は成長するんだ、と学んだ。

失恋は、辛く苦しいんだけど、同時に、色々なことを気づかせてくれる。教えてくれる。


このところ、ストーカー問題がずっと取り沙汰されているけれど、その背景に、「失恋の素晴らしさ」についての想像力の欠如があるのではないか、とふと思った。

恵まれた近代国家日本の中にいると、「恋愛」にぼけーっとかまけていられる。恋愛だけに没頭する余剰がある。HIDE的にいえば、「宇宙の暇人」なんだ。昔の人はもっと生きることに必死だったし、そこまで恋愛に縛られてもいなかった(もっといいかげんなものであり、また肉欲的なものだった)。

失恋に苦しめること自体、幸せなことなんだ、ともっと主張してもいいのではないか。

失恋時における、あの胸の張り裂けそうな想い、というのは、それ自体、とてもすごい経験になる。あとから思いだした時に、「あー、あんなこともあったなぁ」と、しみじみと語れるようになる。

第一、失恋したことのない人がいたら、その人の方がかわいそう。あの、甘くて切ない感情をもったことがないのだから。

それに、失恋した時に耳にした音楽や文学は、一生の宝になる。そういう文化との出会いも、失恋経験のない人はないのだから、「経験の貧困」と言ってもいい。

真面目に言えば、失恋経験は、「自力の限界」を知る経験である。己の無力さを知る=無知を知る経験になる。ゆえに、失恋経験を乗り越えた人は、忍耐強くなり、己の欲望をコントロールすることができるようになる。自分の力ではどうすることもできない、ということを学ぶ。ゆえに、失恋者は謙虚になる。

人は、究極的には、恋愛から学ぶことはない。恋愛は、欲望の充足であり、快楽の充足であり、消費活動であり、時間の浪費である(言いすぎ?!)。

むしろ失恋から多くを学ぶのである。欲望の断絶、快楽の停止、失業的経験、途方もない実存的なゆるやかな時間経験。そういう経験から、人は、人間の生き方を学ぶのである。

だから、失恋者たちは、自分たちの失恋を誇りに思うべきである。

そして、その苦しい思いを、別の仕方で、昇華させてほしいのである。例えば、失恋した悲しみを、勉強にぶつける、とか、資格習得に力を注ぐとか、芸術活動に専念する、とか。

僕は、告白するのが好きな人間だったから、人よりもふられる経験も多かったと思う。

ふられるたびに、僕は、「このふった女どもを絶対に見返してやる。10年後、20年後に、俺自身が幸せになって、そして、悔やませてやる」って、強く思い、自分を高める努力をした。(まー、今となっては、どうでもいいことなんだけど・・・)

相手を恨むのではなく、その相手を見返してやる、そう思うことで、人は成長する。

だから、失恋したら、相手を責めるのではなく、相手がいつか強烈に、自分をふったことを後悔するほどに、自分がよくなる努力をしてほしい。

それが、最大の「復讐」になるのだから(苦笑)。

ふった相手に、是非、「ああ、自分に人を見る目がなかったんだ」、と思わせてやってほしい!!!

 

失恋はやはり素晴らしい経験なのだ。

もっと、失恋を味わおう!!!

失恋こそ、最も人間らしい感情が湧きあがる貴重な経験なのだから!!

 

(*この話は、半分ユーモア、半分ホンキの話なので、ノークレームでお願いします…)

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若者コンフュージョン

2014-11-07 00:36:00 | 恋愛と性と結婚

僕は、職業柄、若者と語ることが多いです。

語るのみならず、若者とバンドはやるわ、ラーメン食べに行くわ、講演会等に誘い出すわ、ドイツには連れていくわ、と、かなり、自由にいろいろとやらせてもらってます。

今夜も、若い学生たちと(スタジオに入った後で)語り合いました。面白かった。。。

20歳そこらの若者たちの心中は、色々と大変。色んな事を考え、色んな事に悩み、色んな事に振り回され、必死に生きているのが伝わってきました。若者時代なんてあっという間。嵐のように過ぎ去ってしまう。けど、その渦中にいると、一日一日が長くて、色んなことに悩み、苦しんでいるんだなぁ、と改めて思わされました。

この対話の中で、改めて思ったのは、「若者ってたいへんなんだなぁ」、ということ。

特に恋愛のこと。

恋愛の悩み相談ではないんです。恋愛をする上で避けて通れない「性」の問題。

女性の側からの性の意見は、男性の意見とは全く異なるもの。

男性は、「Hしたい~」という短絡的な思考しかほぼ持ち合わせていない。

けれど、女性からすれば、避けて通れないのが「妊娠問題」。

若い女性たちは、一度の「失敗」で、本当に苦悩するわけです。中絶するにしても、出産するにしても、自分の「身体」にかかわることであり、ただ「快楽」を得ようとする男性とは全く違う状況を生きています。

もちろん、そういうことを考えている若者は大丈夫。心配ないわけですが、何も考えないで、性交渉をしてしまい、妊娠して、激しく後悔しつつも、望まない妊娠に苦しむ若者もかなり多いわけです。

また、それによって、望まずも、出産して、まだまだこれから、というところで、「ママ」になってしまう若者も実に多いんです。

それはそれで一つの生き方ですけど、それにしても、失うものもとても多いわけです。一度産んでしまえば、それからの10年、20年は、その子のために生きなければならなくなります。若い時にこそ、色々と経験できることもたくさんありますが、それを諦めて、精神的にも経済的にも厳しい状況で、母親になるんです。それは、本当に過酷です。(そういう生き方もありだとは思います。けれど、「でも…」、と思う自分がいつもいます)

 

けれど、、、

たしかにそういう一面もあるけれど、若者時代は、やはり「恋愛」は避けて通れないわけです。

やはり、若者として、「せざるを得ないもの」なんですよね。(別にしなくてもいいけれども…)

ここであんまり難しい話はしようとは思わないけれど、若者って、それだけで大変なんだなぁ、としみじみと思いました。

若者コンフュージョン」。

そんな言葉が思い浮かびました。

若者たちは、みんな、色んな葛藤や迷いを抱きながら、必死に生きている。

人生で、もっとも色々と動く時期。だから、みんな、必死だし、命がけ。

失敗もいっぱいするでしょう。思わぬことで躓いて、どうしようもなくなったりもするでしょう。

それが、若者の証なのかも、とも思います。

30代~40代になれば、もう、そういう悩みはどっかに消えていて、生きることで精一杯になります。

愛だ恋だなんて、考えている暇や時間はないし、出会いだって、そうそうあるものでもない。

40目前にして、僕なんか、本当に忙殺されながらも、何もない日常の繰り返しを生きている。

これから、起こるとすれば、病気だったり、誰かの死だったり、老いだったり、失業だったり、そういうことしか思い浮かびません。

若者時代のような「激動+疾風の時間」は、もう死ぬまでやってこないんだろう、とも思います。

そんな自分にも、若かりし頃があったなぁ、なんて思ったりもします。

 

若者と話せば話すほど、彼らとの乖離も感じずにはいられません。

第一、20歳の頃の記憶なんて、本当に断片的でしかない。

もう、ほとんど何も覚えてない、、、汗

 

ただ、今思えば、「あっという間に終わっちゃった」、という感じかな、と。

で、「あの頃は、僕も大変だったなぁ。。。色々とあったなぁ。。。」、と。必死でした。

 

けど、目の前にいる若者たちは、まさに今、大変であり、色々あるわけです。

子どもをいよいよ卒業して、大人の仲間入りをするわけです。

大人世界の下っ端です。

どんなにいきがっても、どんなに偉そうにしてても、社会的にはやはり立場は低いわけです。

「全能感」と「無力感」に挟まれている、というかなんというか。。。

僕なんかは、「あー、もうたいしたこともできずに、歳とって、死んでいくんだなぁ」ってぼちぼちと思い始めています。

そんなに、未来に期待もしていないし、特別に望むものもないし、そもそも、「自分」ごときのことで、悩むこともない。

やるべきことややれることを、ただただしっかりやっていくだけ。

それ以上も、それ以下もない。

 

けど、若者は違います。

若者たちには、無限の可能性があります。恋愛だってそう。

20代というのは、就職のみならず、恋愛だって、戦いです。戦争です。

奪い、奪われ、迷い、迷わせ、、、

きっと、毎日が波瀾万丈で、暗中模索して、本当に色々と葛藤して。。。

一生連れ添う(べき)相手を探すわけですからね。それはそれは、悩ましい問題です。

 

僕は、素直に、若者たちに「頑張れ!」って言いたいですね。

それしかないかな、と。

迷い、苦しみ、葛藤することが、若者の仕事なのかもしれないな、とも。

人生に「答え」なんて、一つもないわけです。

正しい恋愛なんてない。恋愛の数だけ、恋愛のカタチがある。

ただ、そういう不安定な時期だからこそ、自分をいたわって、自分を大切にして、そして、来たる未来に誰かを大切にすることの意味を見出してほしい、と思います。

まずは、やっかいな自分自身をきちんとコントロールすることを学ぶことでしょう。

そして、しっかり自分の頭で考えて、責任ある行動をしっかりすることでしょう。

軽率な行為の結果、その後の人生をずっと悔やんでいる人もいっぱいいます。

だからこそ、コンフュージョンの時代をきちんと過ごして、来たる未来のための準備をしっかりしてほしいですね。

 

特に、若い男性には、もう少し、そういうことを考えてもらいたい。僕も男なので、分かる部分もありますが、もう少し、みんな、考えてほしいです。「Hしたい」、それはそれで健全なことではありますが、それをしたら、どうなるのか。どういう結末が起こり得るのか。それに対して、きちんと責任を取れるのか。取れないなら、どうするべきなのか。どうしてはいけないのか。

性欲は、自分の欲求に過ぎないものです。欲求を満たすために、相手にいいことを言って近づいて、そして、その女性の未来を奪ってよいのか。女性である前に、人間です。人間として、きちんと尊重できているでしょうか。何びとも相手の自由を奪うことはできません。愛している人であるなら、なおさらです。男性の安易な欲求から、その愛する女性の未来を壊してよいのでしょうか。もちろん、「性そのもの」は、男性にはたえず付きまといます。けれど、男性にも「理性」はあるはずです。

望まない妊娠を減らすためには、やはり男性の意識改革も必要です。

これは、本当に難しい問題です。が、苦境下にいる「母子」を見るたびに、「いったい男は何をしてんだ」、と思いたくなります。

性欲そのものを否定せずに、妊娠のリスクを回避する道は、ないわけではないと思います。それをしっかりと男女で考えて、話しあって、お互いに納得するかたちで、恋愛活動ができたら、素敵だと思います。

そういう話し合いができないなら、女性側が自分の身を守るしかありません。とはいえ、力で男性に勝つことは難しいわけで、、、

 

はい。

今日は、若者たちと話していて、そんなことを考えました。

答えはありません。

場の雰囲気に流されないで、しっかりと考えて、行動してほしいな、と願うばかりです。

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「美人」という弱者-美人はどうやって男性を選べばよいのか-

2014-10-18 08:09:47 | 恋愛と性と結婚

いわゆる美人(かわいい女性を含む)は幸せか?!

最近、ふとそんなことを考える機会があった。

おそらく、世の中の女性の多くが、「美人」、あるいは「かわいい女の子」に憧れているだろう。あるいは、嫉妬しているだろう。

美人はモテる。批判覚悟で言えば、男は女の顔(ないしは身体)しか見ていない。女性に求めるものはただそれだけだからだ。

男は違う。容姿だけでなく、経済力が問われる。世の中の女性は、男の顔以上に、経済力を重視している。だから、「イケメン」でモテるのは、経済力が問われない学生時代までで、社会人になると、女性たちは、まず男性の「給与」を見る。もちろん容姿も見るが、それ以上に重視されるのが、「お金」である。

単純な話、金をもっている男(今は無くとも、将来性が極めて高い男)は事実、モテている。

他方、たいていの男は、女に経済力を求めない。自分より経済力がある女性を敬遠する。自分が優位に立ちたい生き物だからだ。それは、つまりは、自分よりも劣った女性を選びたがる。

だから、男が女に求めるものは、「ルックス」だけである。(話を単純化するために、言いきります。ごめんなさい)

***

さて、美人の話だ。

美人は幸せか?

僕の答えは、NOだ。

美人は、幸せではない。美人は不幸である。

いや、美人は弱者である

なぜならば、「美人」であるがゆえに、望まない男性から多くの求愛を求められ、不当な男性と付き合う可能性が極めて高くなるからである。美人は、常に男性から、「攻撃」を受ける。「俺のものにしたい」という欲望にさらされている。どこかに行けば、必ず口説かれる。しかも、ずる賢い男性にだまされる危険性もあがる。もちろん、夜道を歩くのは危険である。そういう可能性も上がる。近寄ってくる男性の中には、もちろん「素敵な男性」もいるだろうが、本当に「素敵な男性」は、女性の「容姿」だけを見るわけではない。本当に素敵な男性は、女性の知性や学力や品性や教養や体力なども見ている。見た目だけで迫ってくる男性には、残念ながら、そういう素敵な男性はほとんど含まれていない。

悲劇はそれだけではない。

美人は、特定の男性と付き合うと、その男性に、不当な束縛を受けることになる。「いま、何やってるの?」、「誰と会ったの?」、「昨日、誰といたの?」、「なんで、昨日●●のパーティーに出たの?」、「スマホ、見せて」…等々。つまり、「うざいこと」をいっぱい言ってくる。僕は職業柄(?)、女性と話す機会が多いが、見た目のよい女性ほど、そういう不当な「干渉」や「束縛」や「要求」を受けているのである。

なぜか。

男性は、美人と付き合いたい。だが、美人と付き合ってしまうと、その美人な彼女が、誰かに奪われるのではないか、と過度に心配してしまうからである。理由は単純で、美人であるがゆえに、自分以外の男性が寄ってきてしまうことを、その男性自身がよく分かっているからである。自分も、そんな見た目だけで寄ってきた男の一人だから、よく分かるのである。

だから…

「取られたくない」、「盗まれたくない」、という独占欲がふつふつと湧く。

それゆえに、男は過度に心配する。もちろん、それは相手の美人を思ってのことではない。そうではなく、自分の所有物を誰か他の男性に取られたくない、その一心で、相手を拘束し、管理しようとする。

だから、美人は、付き合う男性に、逐一、自分が今何をしているのか、誰がいるのかを報告しなければいけない。美人の女性には、もはや自由はない。その先にあるのは、(その美貌が枯れる時まで続く)男性の支配と拘束と管理である。実に、こういうパターンに陥っている美人は多い。相手の男性から、自由を奪われ、支配下、管理下に置かれる。

それが、美人の現実であるとすれば…

美人は悲劇である。

そういうわけで、付き合う男性は、他の人に取られたくないから、とにかく「自分のものだ」という証明書となる「婚姻届」を出そうと必死になる。

つまり、結婚を急ぐ。美人は、常に他の男性に求愛される可能性があるから、できるだけ早く自分のものにしたい、という欲望が働くのである。そういう中で、避妊を回避するようになる。美人と自分の間に、とっとと早く子どもを産んでしまいたいからである。そして、(本来、まだ結婚の時期として望ましくないにもかかわらず)結婚に至る。

ゆえに、美人は結婚が早い(*もちろん極めて知性の高い女性は、そういう男性をはじくだけの知性をもっているので、除く)。

もちろん、それで幸せになる人もいるだろうし、その後に不幸になる人もいるだろう。それは分からない。ただし、相手の男性は、美人のもつ「美貌」だけでその美人を選んだのだから、その美貌が枯れれば、あるいは、もっと別の美人が現れたら…、どうなるのだろうか)

だが、いずれにしても、美人というのは、このように、非美人が味わうことのない苦悩を抱えているのである。

ゆえに、美人には支援が必要なのである

***

そういうわけで。

最後に、そんな美人たちに一つメッセージを送ろう。

美人は、寄ってくる男の中で一人の男性を選ぶ時に、男の「容姿」も、「巧みな言葉」も、「雰囲気(ムード)」も、信じてはならない。これらに流されてはいけない。これらは、どれも「捏造されたもの」であり、「虚構」である。

では、男性のどこを見ればよいのか

 

そのポイントは(最低限)次の五点であろう。

①しっかりとした自尊心をもっている男性

基本的に自分に自信があり、そして自分を正しく愛し、受け入れている男性。つまりは、自尊心の高い人。プライドではなく、自尊心の高い人である。そういう人は、自分に自信があり、自分を受け入れているので、相手が美人であっても、それだけで心配することはない。なぜなら、「自分は愛されるにふさわしい人間だ」と、どこかで思っているからだ。

②冷静に物事を判断できる男性

冷静さの欠ける男性は、目先のことだけを考える。だから、「取られるのではないか」と心配になる。冷静に物事を考えられる男性は、自分が今何をやっているのかが分かる。だから、過剰な干渉をしていたら、そのことに気付くことができる。そして、反省する。

③相手を信じることができる男性

美人への不当な干渉や束縛は、相手を信じていない現れに他ならない。信じていれば、相手がどこで何をしようと、不安にはならない。あるいは、若干は不安でも、「きっと大丈夫だ」、と思えるだろう。

④恋愛以外に、きちんと自分がすべきことややりたいことをもっている男性

人間は恋愛だけに生きているわけではない。仕事もしなければならない。また、理想的には、社会的使命感をもって、世の中のために自ら何かを企てようと考える男性というのもいる。そういう男性は、美人というパートナーを得ることで、よりそちらの方に専念できるようになる。社会的責任を感じている人は、恋愛以外に、いや恋愛以上に「すべきこと」を熟知している(はずである)。また、熱烈な趣味をもっている人は、恋愛成立以後も、その趣味の世界を大切にするから、もっていない人に比べて、干渉する確率は低くなる。

⑤まともな本をしっかりと読んでいる男性

これは、美人や非美人に限った話ではないが、まともな本をきちんと読んでいる人は、それだけ、人間理解が深い。そういう人は、短絡的な行動を慎むだけの倫理観や道徳観をもっている。

僕の持論では、実はあまり経済力は問題にならない。単純な話、金はなくても、人柄がよければ、それで人生なんとかなるものだからだ。金持ちと結婚した美人タレントを見ていればよく分かるだろう。金持ちは金持ちで、美人と同じ構造をもっている。つまり、不当な美人から、美人が受けるのと同じ攻撃を受ける可能性が極めて高いのである。

いずれにしても、こういう男性は、いつの世も、美人以上に少ないので、頑張ってください。あと、この条件が整っている人って、自分の容姿をあまり気にしていないので、見た目的には、あまりあれですけど、、、(自分に自信があるから、容姿なんてどうでもいいんです)

あ。

だから!!!

「美女と野獣」は人間の永遠のテーマなんだ…。

***

最後は、なんだか、「男性論」になっちゃった…汗

はい。これは、例の如く、半分ホンキ、半分ユーモアの、エッセイでした。

なので、ノークレームでお願いします(苦笑)。

それにしても、美人というのは、想像以上に、生きるのが大変そうです。いい恋愛をしている美人って、あんまりいないんじゃないかな、っていうほどに。世の男性も、たまにでいいから、あるいは一度でもいいから、「美人女性」を「女」と見ないで、その人に耳を傾けてみてはどうでしょう? 「美人ってたいへん?」、「美人って、辛い?」って。

そうしたら、案外、仲良くなれるかもしれませんよ…(苦笑)

*ちなみに、日本では、「美人」というよりも、「かわいい女の子」に、そういう悲劇が多いように思います。ま、それは国民性ということで。

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「結婚する上で、一番見ておかないといけない相手の一面とは何か」

2013-12-03 21:25:35 | 恋愛と性と結婚

 

今日、とある人と話していて、考えました。

「結婚する上で、一番見ておかないといけない相手の一面とは何か」。

結婚というのは、一時の感情で決めるものではない、というのが一般的な考えだと思います。恋愛も実は同じだと思いますが、今の時代、「自由恋愛」がずっと支配的になっていて、「恋愛におけるトキメキ作用の原因」など考えることもなく、それに従い、翻弄される恋愛に、強い価値が置かれています。

恋は盲目、です。盲目ゆえに、相手の根本的な精神・知性・考え方・価値などを深く理解することなく、付き合うわけです。そして、本能的な感情に委ねて、盛り上がり、そして、マンネリして、冷めていくんですよね。

長く付き合えば、「惰性」、「同情」、「思考停止」の餌食になり、「もう、そろそろ結婚かな」、というパターンに陥るのが、これまた一般的な恋愛の行く末でしょう。長ければ長いほど、思考停止状態になりますし、現状肯定してしまいますし、別れてまた別の人と関係を一から始めることを億劫に感じ、なあなあの関係で、夫婦関係に突入します。(一般論として)

でも、結婚というのは、「最後の選択」です。「恋愛終了宣言」です。もちろん、今の時代、「離婚」という選択肢もありますし、それほど重く考えなくてもいいのかもしれません。けれど、離婚という選択肢は、とても大変な作業を伴います。単純に手続きが面倒、というだけでなく、多くの人を傷つけ、裏切ります。結婚式に来てくれた全ての人を裏切ることにもなります。具体的には、何万円も大切なお金を二人のために用意してくれたわけです。そして、その人たちの前で、「永遠の愛」を誓ったわけです。誰に対してといえば、神様ではなく、列席してくれた全ての人に。それを「なし」にするわけです。親戚や祖父母、いとこ、親友、恩師等々。離婚は、男女の恋愛の破綻とはやはり違って、たくさんの人を巻き込みます。子どもがいれば、その子どもにも大きな悲しみを与えるわけです。

僕は、離婚反対派ではありませんが、離婚に伴うあらゆる負の側面を考えると、離婚はできるだけ避けたいです。誰も、離婚を前提に結婚しているわけではないと思います。「離婚を前提に、結婚してください」とプロポーズする人がいたら、その人は(ある意味で)嘘をついてません。けど、ほとんどの人が、結婚時には、「離婚などするわけがない」、と思っていると思います。

とすれば、やはり大切なのは、結婚するかどうかを決める時期、そのことに悩む時期になってくると思います。

男女を問わず、「相手のどこを、何を見たらよいのだろう?」、と悩むと思います。「結婚の決め手ってなんだろう?」、とも。

そこで、僕は一つ考えました。

***

結婚する前に、相手をよく見て欲しいと思います。

そして、「この人が本当に一生のパートナーとして、本当に正しいのか」、と問うてほしいです。

その時に、相手が、自分をコントロールし、支配しようとしていないかを、じっと見て欲しいと思います。

夫婦生活で、自分が辛くなるのは、相手が自分の希望や要望を聞き入れず、全部自分の思い通りにならないと不機嫌になったりする人だと分かる時です。「ハンバーグが食べたい」と自分が希望を出した時に、「ダメ。今、自分はハンバーグを食べたい気分ではない。和食がいい」、と言ってくる。それに対して、「和食は勘弁してもらいたい」、と自分が懇願する。その時に、「絶対にダメ。私の言うことを聞いて」、という人は、まさにそういう人です。

夫婦生活は、「譲り合い」で成り立っています。夫婦は、基本二人組のコンビです。どちらかが上で、どちらかが下の関係になってはならない関係です。かつての日本と違い、今は、個々の夫婦が、それぞれ単独で存在しており、夫婦関係そのものが家庭関係となります。その夫婦関係に、優劣、あるいは上下ができてしまえば、それは、地獄の始まりを意味します。

しかし、人間というのは、根本的に、相手を下に置いて、自分が優位に立ちたいと思うものです。そして、相手を支配することに、快を覚えます。支配-従属という関係は、支配する側にとっては気持ちのよいことなのです。

夫婦関係も同じで、相手がそのことに無自覚で支配的な人間であると、「なんで、おまえはわたしの言うことを聞かないのだ?!」、と自分に迫ってきます。結婚後の生活というのは、それこそ、何百、何千もの「選択」を繰り返すことです。どこに住むのか、どういう住居に住むのか、どういう食事をとるのか、何時に起きるのか、お風呂はいつのタイミングで入るのか、どんな家を建てるのか、子どもは何人作るのか、子どもの名前は誰がどうつけるのか、子どものしつけはどうするのか、どういう学校に行かせたいのか、どのような場所に、どのような仕方で旅行するのか、… 全部、夫婦で決定していかなければなりません。

つまり、結婚後の生活とは、日々の選択の繰り返し、ということになります。もちろんその時に、お互いの意見が食い違うことは必ずあるでしょう。「新婚旅行は、南国か、ヨーロッパか」、これ一つとて、大難問です。「私、ドイツに行きたい!」、「ダメだ。ハワイがいい」、そういう喧嘩は序の口です。最初の段階で、ぶつかっているなら、実は平和で、「支配的な人間」は、後からその本性を見せてきます。

「黙って私の言うことを聞け」、「女(男)は黙っていろ」、という圧力を一生受け続けることほど、苦しいことはないでしょう。

だから、衝動的に結婚を決断する前に、きちんと相手をよく見て、冷静に判断してほしいな、と願うばかりです。

僕も日本の男性だから、分かるんです。日本の男性は、基本的に、女性を下にみており、そして、自分の意見が通らないと、さっきだったり、いらだったり、暴言を吐いたりする傾向が強くあります。そして、日本の女性は、それに甘んじる傾向が強くあります。年齢がいけばいくほど、その傾向は強くなります。特に男性は顕著です。

思い通りにいかないのが人生だ、と心からわかっている人、相手は自分とは違うということを常に自覚できている人、相手の意思を自分の意思と同様に大切にできる人、そういう人は、決して多くはないと思います。

結婚の選択は、一生のなかでも、最も注意深くならなければならない選択の一つです。けれど、不思議なことに、最も注意しなければならない選択に限って、思考停止状態に陥り、情動的に動きがちになります。だからこそ、一層、注意深くなる必要があるし、そのことを自覚する必要があります。

基本的に、今の現代の家庭においては、「お互いに一歩引き合って、対話のできる人」が求められます。冷静さ、謙虚さ、思慮深さが、強く求められます。そういう人と結婚できれば、きっと、長い長い夫婦生活も、それなりに機能し続けると思います。(「うまくいく」なんて浮ついた言葉を使う気はありません。それなりに持続的に機能はし続けるだろう、という程度だと思いますので。。。)

今日は、そんなことを考えました。

(僕のみの持論ですが、結婚は墓場、長い地獄の始まりに過ぎないと思っています。我慢、忍耐、辛抱の繰り返しだと思っています。そういうと、「暗すぎるだろ」、と言われそうですが、でも、それがリアルなんだと思います。たくさんの夫婦の方々に、それこそ15年以上聴き続けてきましたので、、、。そういう苦労の連続が結婚だと、お互いが覚悟し合っていれば、そこそこ、苦しみの少ない人生にはなるのではないかな、と)

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凶悪なストーカーから自分の身を守る方法を考える

2013-10-11 16:05:56 | 恋愛と性と結婚

今日、ゼミの途中で、「ストーカーから自分の身を守る方法」について議論をした(いや、これがテーマではなく、『自律』という概念と、『ケア』という概念を示すための一例として)

出てくる意見は、どれも同じで、「警察への通報」だった。

が、警察が何も「まだ」犯罪を犯していない人間を、「逮捕」することはできないし、恋愛関係という私事にむやみに介入することは、「国家権力の乱用」につながりかねない。

警察通報とは別のオルタナティブ(選択肢)は、どこにあるのか。

どうしたら、凶悪なストーカーから、警察の力を頼らずに、自分の身を守れるのか。学生たちに聞いても、そのヒントすら出てこない。

けれど、話を聞くと、多くの学生が、誰かに付きまとわれている。元恋人だけじゃない。見知らぬ人から付きまとわれていることもかなり多かった。「警察介入」で、予防できたケースもあった。

ただ、問題は、「警察介入」以外の道である。

NHK?では、どうやら、「ストーカーを回避する道は、恋愛をしないこと」と提言されたそうですが、それがオルタナティブになるとは思えない。

ネットには、ストーカー対策のサイトはいくつもある。
http://www.kcm.jp/service/storkerdv/memoire.htm 
http://www.stalker-taisaku.net/ 
http://www.nda.co.jp/stsc/stalkers/taboo.html
(↑このサイトはかなり迫力があり、説得力があります

僕は、先日のストーカー事件以来、このことについて頭を悩ませていた。

そこで、僕は、僕なりの視点で考えて、「かつての日本人の知恵」を学生たちに語ってみた。

元となる本はこちら

かつて、太平洋戦争に敗北した時代、中国や他の国にいた日本人たちは、若い女性たち(子どもを含む)の頭を坊主にして、男か女か分からないような髪型にし、泥を顔に塗り、異国の兵士たちに性的に暴行されることを防ぐ努力をしていた。

その写真も、上の本には紹介されている。

自らの身を守るための一つの方法だったのだと思う。坊主にして、性的に刺激しない服装を身にまとい、そして、泥を顔に塗り、汚い顔にする。そうすることで、性的被害から免れようとしていた。

この話を学生たちにしたら、あまり共感はされなかった。

「そんなかっこうをしたら、友だちたちに会えなくなる」。「恥ずかしい」。

けれど、ストーカーという凶悪な人間に狙われている。緊急事態である。いつ、どんな手法にでるか、想像できない。先日の事件でも、まさか女性は、自分の家に入り込んで、待ち伏せしているとは想像すらできなかっただろう。

でも、そういうことをするのが、ストーカーである。ストーカーは、極めて動物的であり、本能的な衝動によって突き動かされている。獲物を狙う動物である。動物に、理性で立ち向かわなければならない。つまりは、動物が本能的に自分を狙ってくる相手に、非暴力で立ち向かわなければならない。(動物はナイフ等を使わないので、動物の方が賢明だが)

「警察に相談したから安全」という神話を超えて、自分の力で、あるいは色んな人の力を借りて、自律的に問題解決する力が、ストーカー被害に悩む女性に求められる。

その際に考えなければならないのは、「なぜ私は狙われるのか」、ということである。

その答えは単純で、「性的に魅力的」、あるいは「自分のものにしたい」、そして、「逃げる獲物を捕まえたい」という、極めて本能的で、欲求的な衝動である。(逃げれば逃げるほど、追おうとする)

とすれば、その欲求的な衝動を停止させることをするしかない。

人間は視覚的な情報で、衝動を引き起こす。とりわけストーカーたちは、「自分が欲しい」という衝動を強くもつ。ならば、「欲しくない」、「いらない」、という生理的な嫌悪感を相手に与えることで、最悪な事態を回避することはできるのでは?

例えば、「おならをする」、「軍服を着る」、「太る」、「痩せこける」、「日焼けをして全身を真っ黒にする」等々。また、上に挙げたように、「坊主にする」、「汚いかっこうをする」というのも、生理的嫌悪を引き起こす。(ここで書いていいか分からないが、夏であれば、わき毛の処理をしないで、わざとそれを見せて、嫌悪を引き起こす等) あるいは、嫌な臭いを放つような服を着る。汗が腐ったような服をあえて身にまとうこともできるかもしれない。

男という生き物は、そういう生理的嫌悪に耐えられない(場合が多い)。

男の弱点を突くことで、最悪な事態を回避することはできるのではないか。(上の一つのサイトで、逃げたり避けたりしないでこっちから連絡を入れる、というのがあったけれど、それと当時に、嫌悪を引き起こすようなアプローチを取れば、最悪な事態は回避できるのではないか?!、と)

ただし、これも一つの意見でしかない。自分の身を守る方法は、いつでも考えておく必要がある。それが「危機管理」だと思う。先の事件では、警察にも学校にも相談をしていた。それでも、ダメだった。

とすれば、自分で考えるしかない。いろんな意見を出し合って、最善の努力をするしかない。僕としては、上のような「生理的嫌悪」を刺激することが、今のところ、最善だと考えるが、どうだろうか…(難しいのは承知の上です)

 

*参考にならないかもしれませんが、一応書いてみました。今もまだ、オルタナティブは見出せていないのが現状です。いい具体的なアイデアがあったら是非教えてください!

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