「障害」という言葉について、ですが。
わたし自身は、次のサイトのこの文章を支持し、「障害」という語に関しては、「障害」という漢字を使用しますし、今後も変更の意志は無いと思います。
また、わたしが「障害」と表記するものを「障碍」「しょうがい」と表記される方に関して、異論を持つ立場ということでもありません。
その理由としては、以下の通りになります。
*追記
引用した文中での「勝手な解釈」「妄想」という言葉は、行きすぎ感がある、とは思います。「勝手な解釈」「妄想」というよりは、持たされてしまった感覚というものの存在がある。しかしその「持たされてしまった感覚」に関して、それで言葉の使用うんぬんに広義に持っていくのは違和感を持つ、というところです。
わたし自身は、次のサイトのこの文章を支持し、「障害」という語に関しては、「障害」という漢字を使用しますし、今後も変更の意志は無いと思います。
ただし、この文章にもふれられていますが、「障碍」という漢字が伝統的に使われていた、という事実に基づき、「障害」という表記を「障碍」という表記に戻すことには、特に異論はありません。
「“差別用語”と呼ばないで」
『障害 伝統的には「障礙」「障碍」と書くのが正しい』 より引用
しかし、いつから日本語の「障害者」は「障害となる者」という意味にすり替わったのだろう。「障害者」を「障害物」に似た言葉だから「障害となる者」という意味だというのは、飽くまでも彼らの勝手な解釈であり、妄想であることに、気を付けていただきたい。そもそも、前提からして間違っているのだ。障害物=(人や物の通行に)障害(を与える)物つまり「障害者」の「障害」とは「障害物」とは違い、受け身である。障害者自身が他人に障害を与えているという意味では決してないのは、日本語として常識である。
障害者=(自己に)障害(を持つ、与えられている)者
(赤文字は原文のまま)
また、わたしが「障害」と表記するものを「障碍」「しょうがい」と表記される方に関して、異論を持つ立場ということでもありません。
その理由としては、以下の通りになります。
・「特定の言葉を使用するということ=他者にマイナスのレッテルを与える材料にする」といった意志を持たないということで、一応、意志表明を。
・ある考えのもとに使用する言語を選ぶということならば、その考えを持つこと自体を尊重する
・自分の使用する言語に関して、他者に他者の考える理由で禁止されたくない、と自分が思うから
*追記
引用した文中での「勝手な解釈」「妄想」という言葉は、行きすぎ感がある、とは思います。「勝手な解釈」「妄想」というよりは、持たされてしまった感覚というものの存在がある。しかしその「持たされてしまった感覚」に関して、それで言葉の使用うんぬんに広義に持っていくのは違和感を持つ、というところです。
我が子を「精神薄弱」ないし「精薄」と言われると腹が立つ…という親を知っています。今では耳にすることが少なくなりましたが、たまに福祉の現場で「単純精薄」などと言われることがあります。私は弟のことを「精薄」と言われて立腹することはありませんが、言葉自体が不快だし、表現的に誤解を招きそう(精神疾患ではない)なので、意識して使わないことにしています。
S嬢さんはどうですか?
もしくは、この言葉自体を知らないという層も出現する日は近いかもしれない。
娘は14歳ですから、彼女が福祉の支援を受ける権利としてのパスポートである「障害者手帳」を手にしたときには、全ての用語は「精神薄弱」でしたね。
まあ、東京都でしたから、「愛の手帳」なんていう、それこそ、なんだそりゃ的な名称ではありましたが。
この「愛の手帳」には「精神薄弱者」と明記されていました。
現在所持の横浜市も名称は「愛の手帳」ですが、今確認してみると、障害の程度の判定は明記されていますが、障害種別は明記されていませんでした。
と、いうことで、スタートは「精神薄弱」。
「単純精薄」という言葉、おおそういやあったあった、と、なんだか懐かしむ感じ。
というくらい、今では消失してますね。
で、結論。
言葉や判定で、彼女の人格が揺るがされることは無い、とわたしは思っています。
だからあんまり気持ちは動かない。
逆に、わたしは「ダウンちゃん」という言葉に、かなり拒否感を持つ傾向があります。
「精神薄弱」という言葉に関しては、「精神が薄弱ではない」というこの言葉の否定論を初めて知ったときに、とても納得した覚えがあります。
確かに、全然薄弱じゃないしね。
立腹、と言われても、立腹する人はするんだろうな、くらいの感覚かな。
「知的障害」という言葉が市民権を持ってないときは、「ちえおくれ」という言葉が一般的には理解されやすい、という印象がありました。
特に高齢の方に「ダウン症」と言っても通じないことは多く、「ちえおくれ」と言いかえると理解された経験はあります。
このときに、その理解された様子が差別的であるとかどうのとかというより、単純に理解された、という印象はありますね。
揚げ足を取ってる訳ではなく、他意はありませんので悪しからず。
理屈として「人格が揺るがされることは無い」と分かってはいても、「バカにしやがって!」とか感情的にムカついてしまう局面は誰にでもあると思うのです。私にも。たぶんS嬢さんにも。
ところで、私は「ちえおくれ」も意図して避けています。確かに伝わりやすいし、私も言葉に抵抗はないのですが、「おくれ」は「取り返せるもの」という誤解を招くと思うからです。
感覚的に言うと、毛穴がゾクっと立つという、まず生理的な嫌悪感です。
感覚的に言って、気持ち悪い。
初めて耳にしたのは、乳児のときに、いわゆる「先輩の親」というヤツからです。
瞬間、「げ」、と思った感覚は忘れられず、その後、経験の中で、その嫌悪感の解明なんぞを考察してきた、という感じです。
まあ、いろんなことが見えてきたけれど、「ダウンちゃん」という呼称を歓迎するダウン症の親が多いので、傷つけてしまう可能性があるかもしれぬ、という危惧感から、公開の場で出すのは遠慮したい。
と、詳しい感覚についてはメールで入れます、って出そうと思って天竺堂通信とHPの方に行ったけれど、メール入れることができるやり方が見つからなかったわ。
ということで、公開で出せるギリギリの線で。
「ダウンちゃん」という呼称で、話題を展開されるとき、その言葉を発している相手がダウン症の親なら、たいがいにおいて、黙っています。
ダウン症の親じゃない場合、自分にとって大事な人間関係と位置される人には、「わたしは好きではない」と言います。
たいして気にならない相手の場合、笑顔でそのままにしています。
否定的になるはずがないと、そういう強引さを持ち合わせているところも、この呼称が嫌いな点のひとつだとも思います。
「バカにしやがって!」と感情的にムカついてしまう局面と、この「ダウンちゃん」という呼称が結びつくケースですが。
善意の笑顔で「ダウンちゃん」と言いながら、たかが数人程度のダウン症児・者を知っているだけで、そこで印象をくくって勝手に「全てを解釈した」気になっている人。または、わたしにとってそう映る人。
こういう人が笑顔で「ダウンちゃん」と言う場合、「バカにしやがって」と感情的にムカつきます。
で、このケースの場合、ほとんど全てにおいて、黙って笑顔でやり過ごすので、相手には絶対わからないと思います。
「ちえおくれ」という言葉の利点は、相手に伝わりやすい、ということ。
知的障害という言葉が確実に市民権を持った今、特に自分にとって必要な語ではなくなっています。
まあ、昔使ったこともあったかなあ、という感じです。
>「おくれ」は「取り返せるもの」という誤解を招くと思うからです。
発達遅滞、と診断された子の親で、この「遅滞」という「遅れ」は、取り戻せるものだ、と何年も真剣に思っていたというケースがありました。
発達遅滞、という言葉の意味、この言葉が生まれた経緯というものを知らず、ただ言葉だけで受け取ったわけですね。またその診断を出した医師も、言葉を渡す以上の説明をしなかった。
この言葉の説明をする、という立場を担うことになったわたしは、ちょっとせつないものがありました。
ただ、「それって、まさかちえおくれってことじゃないよね」と言われたときに、「遅滞」という言葉の持っている問題ではなく、こうした用語が浸透していくのには個人差があるのだ、という当たり前の事実を知ったような気がしました。
例えば今、どこかのオトナに「バカの兄ちゃん」と言われたら、やはり猛烈に腹を立てるでしょう。いろんな呼称がある中から、あえて「バカ」を選んだ悪意に対して。
無知は許容する余地がある。教えれることができるから。悪意はただただムカつくだけですね。
メールが出せなかったとのこと。申し訳ありません。
私へのメールは、メインサイト「カレーの穴」の方でアドレスを公開しています。ブログの方でメールをもらう機会が少ないので、ある時期から公開しなくなったのです。もースパムがひどくて。
今、再度行って、あった、見つけた。
このくらい努力が必要な方が、必要な人のみわかるってことでいいかもしれない。
>無知は許容する余地がある。教えれることができるから。悪意はただただムカつくだけですね。
名言。
いただき。
ただ、ゴメン、世代的感覚としては「ら」を入れたくなるけど。
さて、では、わたしが「ムカついた」例をひとつ。
「世の中にはね、『重度』っていう、大変なちえおくれのお子さんもたくさんいるんですよ?
あなたは知らないでしょうけれど、わたしは大学のときのボランティアで知っています。」
「そうですか。
うちの娘は手帳の判定では、その『重度』ですけれど」
「重度」という言葉を悪意を持って使い、そして悪意を持って「重度」という言葉を使って返したという一例ですね。
ちなみにこの方は、この、わたしが「重度」と返した言葉に無言の絶句状態が続き、その後、「いたわってくださる」言動をいくつか続け、そして「育て方に対しての賞賛」の言葉を並べ立ててくださいました。
この方の「自分の立て直し作業」と解釈し、ま、つきあったけどね、めんどくさかったわ。
先日、障害児余暇支援事業で、ついてくださったボランティアさんの弁。
50代くらいの女性だったんだけどね。
人と接することに問題が無かったという表現で、「なれてるのね」を連呼。
曖昧な笑顔で無言で返したら、しつこく連呼。
心中、思っていたこと。
「犬とか猫とかじゃね~よ」
悪意を持っているとはいえない。
被害妄想と、取る人はいるかもしれない。
でもね、ヤだったわ、とても。
これは「我慢」ではなく、「エネルギーの節約」のためです。
「エネルギーの節約」とは、こんなところで無駄なエネルギーは使いたくない、という感じです。
名言としていただいて下さる(変な表現)なら「無知は許容する余地がある。教えることができるから。悪意はただただムカつくだけですね。」にして下さい。
私は「障害」という言葉には抵抗はあまりありません。社会生活をおくる上で障害を持っているのは事実だから、というのがその理由です。
ただ、「精神」障害者と呼ばれることに関しては、それは事実なのだけれど感覚として少し受け入れがたいものがあります。それは抵抗とか腹が立つという感じではなく、あきらめというか虚脱感のようなものです。(分かりにくくて、すみません)多分、精神科というものに対するマイナスイメージが、自分の中にまだあるのだと思います。
ただ医療従事者の間で使われる「プシコ(精神科のこと)」というのは、別に差別用語ではないのですが、侮蔑的に使われることがあって、それは悪意を持って使われるのならば怒ってもよいと思うのですけれど、やはり感じるのは虚脱感なのです。
何だか上手く表現できなくて、すみません。