“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

まともな社会とは?

2014年12月31日 10時59分00秒 | 臼蔵の呟き

安倍、自民党極右政権に振り回された2年間でいくつかのことが分かりました。彼らがいう積極的とか、平和とは、国民の声明財産を守るとかはーーその本質は全く反対のことであると。彼らが狙うのは天皇主権であり、自衛隊の国軍化と戦争できる軍隊への転換、そのためには海外派兵などは当たり前である。核兵器も開発し、保持する。中国、ロシア、アメリカなどと対等な立場に立ちたい。そのためには過去の侵略戦争などを認めるわけにはいかない。侵略戦争において批判される従軍慰安婦などはあってはならない天皇制国家(彼らにとっての唯一の正しい国家像だから)の関与である。

では、そのような経済力が日本にあるのか?製造業を中心として海外に生産拠点を移転してしまい雇用は急激に減少している。このままで過去のような日本経済の力強さ、繁栄(富国強兵)を誇示することが出来るのか。---そこでまやかしの安倍ブレーンによる経済政策を提示して、議席を掠め取った。しかし、その経済対策が経済的な繁栄を実現できることは無かった(それを隠すのが14年末総選挙)。貧富の格差は許容出来ないレベルになった。これが2014年までに到達した現実です。

今までの常識といわれるものが、非常識になりつつあるのが現実であり、政治経済の閉塞感を打開する道なのだと考えることが必要になっています。

成長ではなく成熟した社会、原子力にたよるエネルギー政策ではなく再生可能エネルギー社会。自民党型政治ではなくて国民多数の幸福を追求する政治経済社会。企業が政治を買収するような社会ではなくて、企業が社会的責任を十分に果たさせる政治経済社会。紛争を軍事力で解決する社会から紛争を話し合いによって解決する社会。民意を切り捨てる小選挙区制度から比例を中心とした選挙制度に転換させる(沖縄小選挙区での自民党の全敗が証明した)。消費税率の引き上げではなくて法人税の安定確保、富裕層への税負担を求める。

自民党型政治(二大政党、第三極などもその範疇に入っている)には出来ないでしょうが、必ず、そのような方向に世界、日本の政治経済が向かうことだけは確かなように思います。そのことが現実で理解できるようになって来た事が歴史の進歩なのかもしれません。

<東京新聞>「戦後の精神」つなぐ 作家 大江健三郎さん

 特定秘密保護法が成立してから、12月6日で一年。施行は10日。集団的自衛権の行使容認の問題と合わせ、作家の大江健三郎氏に聞いた。

 政府が言う「積極的平和主義」は、憲法九条への本質的な挑戦だ。米国の戦争の一部を担う立場に変えていこうとするために「積極的平和主義」という言葉をつくった。だから、何よりも特定秘密保護法が必要になる。

 集団的自衛権を行使できることを日本の態度とするなら、米国が起こしうる軍事行動に踏みとどまる建前を失う。どういう戦闘が行われるか、戦況はどうなるか。米軍と自衛隊のやりとりは何より秘密でなければならない。秘密保護法を一番要求しているのは米国だろう。

 日本政府は「積極的平和主義」を内外に宣伝している。最初、それは誰にも滑稽な言葉だった。しかし、半年、一年とたつと、国民は慣れて反発しなくなった。政府が国家の方針として提示し続ければ常態となる。市民は抵抗しなくなるということではないか。いま日本は、かつてなかった転換期にあると感じる。

 「積極的平和主義」という言葉に対比すると、いままで日本が取ってきた態度は憲法九条に基づく「消極的平和主義」になる。

 日本は平和を守るために戦うとは決して言わなかった。軍備を持たない、戦争はしないと世界に言い続けた。平和という場所に立ち止まる態度だ。僕は尊重されるべき「消極的平和主義」だと考えている。

 「積極的平和主義」は言い換えれば「消極的戦争主義」になる。米国の戦争について行く。戦場で肩を組んで行けば「消極的」か「積極的」かは関係なくなってしまう。自衛隊員が一人でも殺される、あるいは自衛隊員が一人でも殺すことになれば「消極的戦争主義」というフィクションも一挙に消えてしまう。憲法九条を残したまま、すっかり別の国になってしまう。後戻りはできない。それは明日にも現状になる。

 僕が十二歳のときに憲法ができた。学校で九条の説明をされて、もう戦争も軍備もないと聞いて、その二年前まで戦争をしていた国の少年は、一番大切なものを教わったと思った。自然な展開として、作家の仕事を始めた。九条を守ること、平和を願うことを生き方の根本に置いている。われわれは戦後七十年近く、ずっとそうしてきた。次の世代につなぎたい。

 僕も、すぐ八十歳。デモに参加すると二日間は足が痛むが、集会で話すこともする。そのような自分ら市民を政府が侮辱していると感じるから。「戦後の精神」を持ち続ける老人でいたい。

 おおえ・けんざぶろう 1935年生まれ。東大在学中に「死者の奢り」で作家デビュー。代表作に「個人的な体験」「万延元年のフットボール」など。94年、日本人として2人目となるノーベル文学賞を受賞。護憲派の市民団体「九条の会」の呼びかけ人。


西側諸国はうつ病なのか?

2014年12月31日 06時00分47秒 | 臼蔵の呟き

西側諸国はうつ病なのか?なかなか面白い話です。アメリカ、イギリス、日本、EUなど先進工業国で進む貧富の格差拡大、高齢化、少子化、財政赤字、多国籍企業による政治支配、租税回避、経済のグローバル化、新自由主義経済による社会的問題の発生、ウクライナ問題、テロとの闘いでアメリカ軍のイラク、アフガニスタンへの投入と長期化、---どれ1つ取ってもなぜ?どうしてこうなるのか?その解決策はどうななるのか?などなどを西側諸国――新自由主義を信奉する政治経済支配層に問うているのだと思います。

韓国では、フェリー事故、大韓航空での経営者家族の横暴など、富裕層で社会的に尊敬できる大手企業経営者がいないこと嘆きとして論じられています。どれ1つとっても資本主義政治経済、特に、新自由主義政治経済のもつ腐敗、堕落した倫理観、思想が閉塞状況に陥り、打開策を見出しえないことに対する不安感、憂鬱が覆い始めているのだと感じます。不安感、憂鬱になっているのは政治経済の支配層であり、99%の国民ではないように思います。

封建制度⇒資本主義社会・高度に発達した資本主義経済・新自由主義経済⇒???そのことへの支配層の展望の無さと無力感が憂鬱なのではないのかそう感じます。

アメリカの一国支配の崩壊、自民党型政治が安倍、自民党極右政権に変質し、反動的打開しようとする政治経済の矛盾と方向、好戦的なイギリス、カナダなどのイギリス的政治経済支配思想――どれをとっても同じ問題にぶつかっているのでしょう。

 <FT>西側諸国はうつ病なのか?はびこる悲観主義の背景にあるもの。

人生の最盛期はもう終わってしまった、あとはずっと下り坂だ――。そんな風に考える人は確かにいる。しかし、そういう憂鬱な気分が西側世界の大半を同時に覆い尽くすことはめったにない。短い期間覆い尽くしたことは確かにあったが(例えば、1970年代のスタグフレーションの時)、やがて危機とともに消えていった。

 今日の悲観主義は、過去のそれよりも2つの面で厄介だ。

今日の悲観主義がとりわけ厄介な理由

 第1に、経済学で説明しきれない。米国では景気回復が5年目に突入しているが、子供たちの暮らし向きは自分のそれよりも悪くなると考える人の割合が、景気の低迷に苦しむイタリアのそれと同水準にとどまっている。しかも、この傾向は2008年に世界金融危機が勃発する前から始まっている。

 第2に、西側の悲観主義は情報技術革命と同時期に広がりを見せている。西側の信条である個人の自由がこれほど制約されない時代は過去にほとんどなかったにもかかわらず、憂鬱な気分はさらに強まっているように見えるのだ。西側の人々は現実が分からなくなりつつあるのだろうか。

 その通りだ、と頷きたい気もする。西側の普通の人は以前よりも長生きしているし、戦争の影響を受けることもかなり減っているうえに、人類史上のどの人物よりも多様な選択肢を手にしている。元気に、自由に生きられること自体、大変な恩恵であるはずだ。

 ひょっとしたら、我々は昔からこれを当たり前だと思って過ごしてきたために、いま手にしているものの有り難みが分かっていないのかもしれない。

 何かとても重大なこと――情報技術に気を取られて物事に集中できない状態が続いていることだろうか――によって神経回路の配線が大きく変わってしまい、すぐ近くにあるものの真価が分からなくなってきているのかもしれない。

 あるいは、今日の公の生活の質に納得できないために、自己認識からしか生じ得ない惨めさに苦しんでいるのかもしれない。これらはすべて、うつ病に当てはまる。タイプの違いはあれども、これらは西側に広がる憂鬱さの説明として示されている。ただ、筆者にはどれもピンとこない。

他者の台頭に不安?

 実は、もっと妥当に思える説がある。我々は他者の台頭に不安を抱いている、という説がそれだ。

 世界各地で数多く行われている意識調査の結果で目を見張るのは、アジア、中南米、およびアフリカの人々が西側の人々よりも常に楽観的であることだ。中国やインドなどの国々の国民が、自分の子供たちの将来を明るく考えていることは、理にかなっている。明るく考えない方がおかしいだろう。発展途上国の人々のほとんどは、とても低い生活水準からスタートしている。大災害でもなければこの生活水準の向上を止めることはできまい。

 しかし、西側諸国の悲観主義の原因をここに求めることには無理がある。経済のグローバル化は、誰にとっても(差し引きで)利益になるはずである。また、グローバル化の進んだ経済は喜ばしいものでもあるはずだ。

 今日の世界は、西側の思い描いた通りの姿で発展しつつある。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領や中国共産党はともかく、民主的な資本主義に対抗するイデオロギー上のライバルは存在しない。キューバでさえ、遅まきながら、孤立状態から足を踏み出しつつある。

 では、西側のどこに問題があるのだろうか。その答えは、本当だろうかと笑ってしまうぐらい単純である。要するに、我々は年を取りつつあるのだ。

年を取りつつある世界

 経済学的には、これは「長期的停滞」を意味する。日本はほかのどの国よりも速いペースで高齢化している。そして経済成長も、ほかのどの富裕国よりも長期にわたって、より鈍い状況が続いている。

 しかし、これは程度の問題だ。人は年齢を重ねれば重ねるほど貯蓄をしなくなる。貯蓄をしなくなるほど投資もしなくなる。そして、投資をしなくなるほど経済成長も鈍化するのだ。

 これに対しては新しい技術が答えを出してくれるはずであるし、寿命も延びている我々はこれまでよりも長期間働くべきなのだろう。しかし、そこに立ちはだかるものがある。政治である。

 経済成長が鈍化すればするほど、予算を巡る争いも増える。スペインからカナダに至るまで、高齢者は財政戦争で勝利を収め続けている。

フランスはほかのほとんどの欧州諸国よりも高い出生率を誇るが、高齢者に回される資源の割合は平均を上回っている。フランソワ・オランド氏が大統領に選ばれたのは、年金の受給開始年齢を62歳から60歳に戻すと公約したためでもあった。

 また英国のジョージ・オズボーン財務相は福祉手当に上限を設けたが、国民年金はその対象外としている。

 米国では、メディケア(高齢者と障害者を対象にした健康保険制度)およびソーシャルセキュリティ(社会保障年金制度)が連邦予算に占める割合が毎年高まっている。どの政党も、年金支給開始年齢には手を付けようとしない。現在は65歳だが、今後も少しずつしか引き上げられない見通しだ。

「ジェロントクラシー(老人支配)」の代償

 「グレイ・ロビー」が優勢になればなるほど、将来の世代が割を食う。すると、既存の政治への反発が生じる。実際には、悪いのは移民だという主張が生じることになる。 米国のティーパーティー(茶会党)、フランスの国民戦線(FN)、そして英国独立党(UKIP)を躍進させた大きな原動力の1つは、これらの政党がしばしばスケープゴートを探すことに求められる。

 彼らは、直接政権を担う公算こそ小さいものの、年金世代に対する現役世代の人口比の低下という問題に取り組むことができる人々の障害になっている。この問題の解決策の重要な要素は移民の受け入れの増加だが、既存の政治に反発する人々は、移民の阻止を中核的な目標の1つに掲げているからだ。

 これもまた、西側世界の「ジェロントクラシー(老人支配)」の代償だと言えよう。

 高齢者支配のコストは財政面だけにとどまらない。「第三世界」という用語を生み出したフランスの思想家、アルフレッド・ソヴィーは、西側世界が「古い家に住み、古い思考を繰り返す高齢者の社会」になってしまうことを恐れていた。これには一理あるかもしれない。

確かに、ローリング・ストーンズのライブ演奏を見るのは悪くないものの、彼らが創造性にあふれていた時期はもう終わったのだと実感せずにはいられない。

 だが、彼らの年代――ベビーブーム世代――は今でも、自分たちの欲しいものを手に入れている。

 ミック・ジャガーの全盛期には、やりたいことと言えば年上の偉い人たちに反抗することだった。今では、引退に備えて積み立てた貯蓄を守ることを意味する。

ほかのどの世代にも負けないほど将来を心配する高齢者

 もちろん、すべての年金生活者が裕福なわけではない。経済的な格差の拡大はすべての年代に影響を及ぼしている。しかし、ベビーブーム世代全体で見れば、彼らは生まれてからずっと成功を収め続けている。この記録は、彼らが亡くなるまで続くことになりそうだ。

 彼らの後に続く世代は、そこまで幸運ではないかもしれない。世論調査によれば、高齢者はほかのどの世代にも負けないくらい将来のことを心配している。ひょっとしたら、この答えには若干の罪悪感も影響しているのかもしれない。心の病のせいではない。

 西側世界全体が自分たちの全盛期は終わったと考えているとするなら、それは1つの事実、つまり文字通り自分自身の全盛期を終えた人がとても多いという事実と関係があるに違いない。