ギリシャ国債の支払い不能と金融危機を考える上で10年前のアルゼンチンの財政危機問題は事例として知っておく意味があると思いますので記載します。
アルゼンチンで2000年代前半に起きた経済危機・財政破綻の記録です。
【アルゼンチン財政破綻・国家破産までのできごと】
アルゼンチンは、世界トップレベルの農業国で20世紀半ばまでは南米一の経済大国でした。かつては30年間経済成長率が平均6%を記録したこともあり、国民一人当たりのGDPも世界第4位の頃もあった。
ところが1946年に誕生したペロン政権が大衆迎合的なバラマキ政治を行い、第二次石油ショック時にインフレを許容する金融政策を採用した結果、1989年には500%のハイパーインフレと累積債務問題を経験しました。
政府はインフレ克服のため、1991年に1ドル=1ペソのドルペッグ制を導入しました。(ドルペック制とは自国通貨をドルに連動させる方式)このため海外からの投資によってペソは上昇、国民は安くなった外国製品を買い求めました。しかし経済は上向いたもののペソが過大評価のまま固定されたため輸出がみるみる低下した。
1999年にブラジルの経済危機によってブラジルは変動相場制となり通貨切り下げを実施しました。当時、アルゼンチンの輸出の約30%はブラジル向けだったので、ブラジルの通貨切り下げによってペソ高となりアルゼンチンにも大打撃となり、経済は急速に悪化しました。
アルゼンチン経済を悪化させた元凶の一つは、この1ペソ=1ドルという固定相場にありました。この固定相場をやめて、ペソの価値を市場が自由に決める変動相場制に移行させれば、ペソの為替相場が切り下がり、輸出産業が再び息を吹き返すはずでした。
しかし、固定相場をやめることは、政治的には無理だったのです。
住宅ローンや自動車ローンなど、国民が借りているお金の80%はドル建てだったため、ペソが切り下がって1ドル=1.5ペソにでもなったら、たちまち借金が増えてしまうリスクがありました。ローン会社はドルの方が潜在的な為替リスクが少なく、ドル建てローンの方が金利が安かったためです。
ウォール街の投資家たちは1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していたため、、固定相場の撤廃には、アメリカやIMFからの強い反対がでました。ペソの対ドル固定相場を維持したまま、第三の通貨「アルゼンチーノ」を新たに発行する、という構想も取りざたされました。ドルとリンクしているペソは自由に紙幣を刷ることができないが、新通貨はそうではないので、公務員給与や年金の支給は新通貨で行ってはどうかという考えでした。しかし、何の裏付けもなく新通貨を発行すれば、2カ月もしないうちにペソやドルに対する新通貨の価値が暴落してしまうことは目に見えていました。
そして2001年夏、議会で検討されていた均衡予算(予算を均衡させ、財政赤字を増やさないことがIMFの融資条件だった)を達成しようと、政府の支出を大幅に削ったことが財政危機のきっかけとなりました。IMFに求められた緊縮財政を実行するアルゼンチン政府に反対して、労働組合や各種団体がゼネラルストライキを敢行しました。
ところが、これによってアルゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、通貨(レアル)の暴落、アルゼンチン国債の暴落が起こりました。金融マーケットがアルゼンチンの財政赤字、貿易赤字の状況が「限度を超えた」と判断した結果でした。
12月1日には預金封鎖が実施されました。アルゼンチン政府は国民が銀行から引き出せる額を週に上限250ドルとしました。海外送金も制限され、貿易を除き1日1000ドルまでに制限されたり、月400ドルの年金支払いが滞り、銀行の前には年金の払い戻しを受けようと老人たちが長い列を作りました。アルゼンチンには1989年以来の外国資本歓迎策に乗って入ってきた外国の銀行が多く、自国の先行きに不安を持った人々が銀行の預金を引き出し始めているのを見て、金融業界はアルゼンチン政府に圧力をかけました。
その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としていましたが、融資の条件となっていた緊縮予算案は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断りました。これに対して怒った国民は、12月13日に再びゼネストを敢行しました。それは、国民が250ドルしかおろせなくなっている間に、外国系金融機関は大口取引が規制されていないために12月から1月にかけて150億ドルもの資金をアルゼンチン市場から引き出してしまったからです。
12月24日ロドリゲス・サー暫定大統領は、1320億ドルの対外債務の支払いを一時停止するという発表を行いました。この結果、日本でもアルゼンチン政府が発行したサムライ債(円建て外債)の支払いがなされず、4月にデフォルト(債務不履行)となりました。この時すでに変動相場制に移行していたため、為替のレートが1ドル=1ペソから1ドル=1.5~1.8ペソとなり、さらに国内銀行の総預金残高の70%がドル建てで預金していたため、ドル不足となり、国民のドル預金を強制的にペソに換えていきました。ドル建ての定期預金も1ドル=1.4ペソで交換し預金凍結を実施しました。
2003年3月には1ドル=3ペソを突破。凍結されていたドル建て預金は引き出し制限が解除されました。しかし実勢相場は1ドル=3ペソに対し、1ドル=2ペソで払い戻しし、差額分は長期国債で補填と政府が発表し国民の不満が爆発しました。
【国民の生活はどうなったか?】
①ハイパーインフレ
通貨安による輸入品の高騰によりインフレが進行しました。経済の混乱で多くの労働者の給料は下がり、物価は上がっていったのできわめて苦しい生活を強いられたそうです。2002年にはなんと失業率が21.5%に達しました。食料品や物資が不足し、特に医薬品の不足のため、手術にも影響が出たそうです。貧困層は馬やカエル、ネズミを食べて飢えをしのいだり、物乞いをする人が多かったとのことです。
②国民の海外流出
早朝から移民許可証を求めて領事館前に並ぶアルゼンチン市民が多かったそうです。特にスペイン、イタリア、イスラエルに出国する人が増えました。
③治安悪化
社会秩序が崩壊し、略奪、デモ、暴動が起きる事態となりました。ロシアと同様、強盗事件や殺人事件が増え、特に郊外の家は強盗に遭うリスクが高かったそうです。政府は治安の混乱を収拾できず、短命政権が続きました。
④通貨
2001年の夏頃から本来の通貨であるペソに似た独自の債券が流通しました。子供銀行の紙幣のような小さく印刷された債券で、瞬く間にアルゼンチン国内に広まりました。また、物々交換のマーケットが開かれたり、クレジットと呼ばれる物の価値を図る単位が使われたりしました。
アルゼンチンで2000年代前半に起きた経済危機・財政破綻の記録です。
【アルゼンチン財政破綻・国家破産までのできごと】
アルゼンチンは、世界トップレベルの農業国で20世紀半ばまでは南米一の経済大国でした。かつては30年間経済成長率が平均6%を記録したこともあり、国民一人当たりのGDPも世界第4位の頃もあった。
ところが1946年に誕生したペロン政権が大衆迎合的なバラマキ政治を行い、第二次石油ショック時にインフレを許容する金融政策を採用した結果、1989年には500%のハイパーインフレと累積債務問題を経験しました。
政府はインフレ克服のため、1991年に1ドル=1ペソのドルペッグ制を導入しました。(ドルペック制とは自国通貨をドルに連動させる方式)このため海外からの投資によってペソは上昇、国民は安くなった外国製品を買い求めました。しかし経済は上向いたもののペソが過大評価のまま固定されたため輸出がみるみる低下した。
1999年にブラジルの経済危機によってブラジルは変動相場制となり通貨切り下げを実施しました。当時、アルゼンチンの輸出の約30%はブラジル向けだったので、ブラジルの通貨切り下げによってペソ高となりアルゼンチンにも大打撃となり、経済は急速に悪化しました。
アルゼンチン経済を悪化させた元凶の一つは、この1ペソ=1ドルという固定相場にありました。この固定相場をやめて、ペソの価値を市場が自由に決める変動相場制に移行させれば、ペソの為替相場が切り下がり、輸出産業が再び息を吹き返すはずでした。
しかし、固定相場をやめることは、政治的には無理だったのです。
住宅ローンや自動車ローンなど、国民が借りているお金の80%はドル建てだったため、ペソが切り下がって1ドル=1.5ペソにでもなったら、たちまち借金が増えてしまうリスクがありました。ローン会社はドルの方が潜在的な為替リスクが少なく、ドル建てローンの方が金利が安かったためです。
ウォール街の投資家たちは1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していたため、、固定相場の撤廃には、アメリカやIMFからの強い反対がでました。ペソの対ドル固定相場を維持したまま、第三の通貨「アルゼンチーノ」を新たに発行する、という構想も取りざたされました。ドルとリンクしているペソは自由に紙幣を刷ることができないが、新通貨はそうではないので、公務員給与や年金の支給は新通貨で行ってはどうかという考えでした。しかし、何の裏付けもなく新通貨を発行すれば、2カ月もしないうちにペソやドルに対する新通貨の価値が暴落してしまうことは目に見えていました。
そして2001年夏、議会で検討されていた均衡予算(予算を均衡させ、財政赤字を増やさないことがIMFの融資条件だった)を達成しようと、政府の支出を大幅に削ったことが財政危機のきっかけとなりました。IMFに求められた緊縮財政を実行するアルゼンチン政府に反対して、労働組合や各種団体がゼネラルストライキを敢行しました。
ところが、これによってアルゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、通貨(レアル)の暴落、アルゼンチン国債の暴落が起こりました。金融マーケットがアルゼンチンの財政赤字、貿易赤字の状況が「限度を超えた」と判断した結果でした。
12月1日には預金封鎖が実施されました。アルゼンチン政府は国民が銀行から引き出せる額を週に上限250ドルとしました。海外送金も制限され、貿易を除き1日1000ドルまでに制限されたり、月400ドルの年金支払いが滞り、銀行の前には年金の払い戻しを受けようと老人たちが長い列を作りました。アルゼンチンには1989年以来の外国資本歓迎策に乗って入ってきた外国の銀行が多く、自国の先行きに不安を持った人々が銀行の預金を引き出し始めているのを見て、金融業界はアルゼンチン政府に圧力をかけました。
その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としていましたが、融資の条件となっていた緊縮予算案は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断りました。これに対して怒った国民は、12月13日に再びゼネストを敢行しました。それは、国民が250ドルしかおろせなくなっている間に、外国系金融機関は大口取引が規制されていないために12月から1月にかけて150億ドルもの資金をアルゼンチン市場から引き出してしまったからです。
12月24日ロドリゲス・サー暫定大統領は、1320億ドルの対外債務の支払いを一時停止するという発表を行いました。この結果、日本でもアルゼンチン政府が発行したサムライ債(円建て外債)の支払いがなされず、4月にデフォルト(債務不履行)となりました。この時すでに変動相場制に移行していたため、為替のレートが1ドル=1ペソから1ドル=1.5~1.8ペソとなり、さらに国内銀行の総預金残高の70%がドル建てで預金していたため、ドル不足となり、国民のドル預金を強制的にペソに換えていきました。ドル建ての定期預金も1ドル=1.4ペソで交換し預金凍結を実施しました。
2003年3月には1ドル=3ペソを突破。凍結されていたドル建て預金は引き出し制限が解除されました。しかし実勢相場は1ドル=3ペソに対し、1ドル=2ペソで払い戻しし、差額分は長期国債で補填と政府が発表し国民の不満が爆発しました。
【国民の生活はどうなったか?】
①ハイパーインフレ
通貨安による輸入品の高騰によりインフレが進行しました。経済の混乱で多くの労働者の給料は下がり、物価は上がっていったのできわめて苦しい生活を強いられたそうです。2002年にはなんと失業率が21.5%に達しました。食料品や物資が不足し、特に医薬品の不足のため、手術にも影響が出たそうです。貧困層は馬やカエル、ネズミを食べて飢えをしのいだり、物乞いをする人が多かったとのことです。
②国民の海外流出
早朝から移民許可証を求めて領事館前に並ぶアルゼンチン市民が多かったそうです。特にスペイン、イタリア、イスラエルに出国する人が増えました。
③治安悪化
社会秩序が崩壊し、略奪、デモ、暴動が起きる事態となりました。ロシアと同様、強盗事件や殺人事件が増え、特に郊外の家は強盗に遭うリスクが高かったそうです。政府は治安の混乱を収拾できず、短命政権が続きました。
④通貨
2001年の夏頃から本来の通貨であるペソに似た独自の債券が流通しました。子供銀行の紙幣のような小さく印刷された債券で、瞬く間にアルゼンチン国内に広まりました。また、物々交換のマーケットが開かれたり、クレジットと呼ばれる物の価値を図る単位が使われたりしました。